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63 【ア-カイブ16-3】京都教科研連載「私の研究ノート」第29~49回 勝田守一『能力と発達と学習―教育学入門Ⅰ』(1964)〔3分の3〕

連載・私の研究ノート(第45回)    (京都教科研通信第385号 2025.3) 勝田守一『能力と発達と学習―教育学入門Ⅰ』(1964) 【17回目】 本連載も45回目となりました。皆様、長い連載におつきあいいただきありがとうございます!  これまで、以下のことについて書いてきました。 第1回(2021.3  通信337号) 自己紹介 第2~9回(2021.4-11 通信338-345号) 坂元忠芳『感情と情動の教育学』(2000)を読んで(その1~8) 第10回(2021.12 通信346号) 「連載・私の研究ノート」第9回目までを終えて 第11回(2022.1 通信347号) 神代健彦編『民主主義の育てかた 現代の理論としての戦後教育学』(2021)(その1)はじめに(神代健彦) 第12~13回(2022.2-3 通信348-349号) 神代健彦編『民主主義の育てかた 現代の理論としての戦後教育学』(2021)(その2~3)第7章教育的価値論―よい教育ってどんな教育?(神代健彦) 第14~20回(2022.5-11 通信351-357号) 神代健彦編『民主主義の育てかた 現代の理論としての戦後教育学』(2021)(その4~10)第8章民主教育論―身に付けるべき学力として(中村(新井)清二) 第21~25回(2022.12-2023.4 通信358-362号) 神代健彦編『民主主義の育てかた 現代の理論としての戦後教育学』(2021)(その11~15)第2章「私事の組織化」論―教師の仕事にとって保護者とは?(大日方真史) 第26~28回(2023.5-7 通信363-365号) 吉益敏文「生活綴方を実践する教師の『まじめさ』に関する考察―5人の教師の聞き取りから―」(武庫川臨床教育学会『臨床教育学論集』第14号2022.12.10所収) 第29~44回(2023.9-2025.2 通信367-384号) 勝田守一『能力と発達と学習―教育学入門Ⅰ』(1~16回目 ※継続中)  連載第20回・中村(新井)清二論文検討の最終回で、私は連載を読んでいただいた芦田安正氏、岸本清明氏からのご意見を踏まえて、叙述を補足しました。このことを含めて、これまでの連載の過程で読者のみなさんから京都教科研通信を編集していただいている吉益敏文先生宛てに私の連載へのご感想・ご意見が...

62 【ア-カイブ16-2】京都教科研連載「私の研究ノート」第29~49回 勝田守一『能力と発達と学習―教育学入門Ⅰ』(1964)〔3分の2〕

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連載・私の研究ノート(第38回)    (京都教科研通信第377号 2024.7) 勝田守一『能力と発達と学習―教育学入門Ⅰ』(1964) 【10回目】    私の卒業論文第二章第一節「認識の能力とその発達」の、下記の部分に関係する考察で連載の過去3回分を費やしてしまいましたが、私としてはとても重要な部分であると考えます。 =====================================  では、勝田は幼児・児童における言語の獲得過程と認識発達過程のかかわりをどのようにどらえていたのであろうか。  一般的には、人間の思考は一方で生理的成熟に促され、他方で社会的な言語に助けられて発達すると言えるが、その過程は極めて複雑である。  幼児は、あることばを自ら発声できるようになる以前に、すでにそのことばが他人によって使用される状況の中で、身振りや音声の抑揚からそのことばに対する 「感情的な了解」 を成立させている (P.123) 。  他方、幼児があることばをしゃべることができるようになった時、必ずしもそのことばの意味を正しく習得しているわけではない。  つまり、一方において幼児は、獲得したことばを 「叫びやむずかりや身振り動作の延長として低次の伝達に使用」 (P.129) し、また事物を表わす単語によって知覚を安定させ、記憶を支え、またその単語を 「観念の運搬者」 (P.129) として使用する。その限りでは言語は幼児の表現や認識の活動に即して、これらを支えるものとして使用されている。  しかし他方で幼児は、自ら意味をとらえることができないような複雑な内容を表わすことばや抽象的なことばをも 「自分の中にとりこむ」 (P.129) のである。  つまり、幼児は社会的記号であることばを模倣によって獲得していくのであるが、幼児がふれることばのうち、幼児にもその意味が理解できるものはわずかである。しかし幼児は、おとなからみれば主観的な意味を自ら創造してそのことばに与えつつ、そのことばの使用を模倣する。つまり 「本来、一定の経験あるいは観察から、特定の手続きを通って抽象化され、総合された観念の名辞に、自分の経験の範囲内で直接に表象を結びつけ 」てしまうのである (勝田「認識の発達について」(1957) 『勝田守一著作集4人間形成と教育』P.74) 。  ...