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65 読書ノート 櫻井歓編『教育学研究者の自己形成と戦後日本の教育学―堀尾輝久氏、宮澤康人氏、藤田昌士氏への聴き取り調査の記録―』(科研基盤(C)JP17K04580「日本教育思想史における<教育><哲学><政治>の連関構造」資料集 2019.8)

 (2019.8.6刊行 2022.11.24-2025.11.1通読 2025.11.1ノート作成)  本報告書は2022.8.10に私から櫻井歓氏(日本大学藝術学部教授)にお願いして送付していただいたものです。  私は2022.8.8-10に東京で開催された第60回教育科学研究会全国大会の「フォーラムB 勝田守一の教育学と現代」(2022.8.10)にリモートで参加し、櫻井氏の報告「自主的に判断することの難しさ 『マスク社会』のなかで勝田教育学を読み直す」を聞きました。保存していた櫻井報告のファイルが何らかのエラーのために開けず内容を確認できないのですが、2022.8.10の私から櫻井氏への初めてのメールによると櫻井氏が同報告の末尾で本報告書に言及され希望者は入手可能とされていたため、私は関心を持ちいただきたいとお願いしました。  なお同日のメールで櫻井氏に初めてお知らせしたのですが、私は2020.10.23にFacebookの自分のタイムラインの「ノート」(註・Facebookのこの機能は現在存在しません)に「 教育学文献学習ノート(6):『教育』2020.10月号櫻井歓論文『立憲的教養の場としての学校』の『立憲的教養を育む場としての学校』の項における勝田守一『学校の機能と役割』(1960)の紹介と勝田の原著を読んで 」と題する投稿をしました。この文章を書いたきっかけは、京都教育科学研究会の2020年10月例会で上述の櫻井歓論文の検討を行なったことで、その議論の中で考えていたことを文章化しました。しかし、当時の私は櫻井氏と面識がなかったこともあり、上記投稿について櫻井氏に知らせることはしていませんでした。そこで私は、上述の櫻井氏への初めてのメールの中で失礼をお詫びし、同投稿のファイルを添付しました。  なお、同投稿はFacebookの中の現在は存在しない「ノート」の中にあって多くの人の眼に触れることがないことから、櫻井氏に初めてメールを送った翌日の2022.8.11に私の「佐藤年明私設教育課程論研究室のブログに「 18 【アーカイブ03】 」として少し説明の前置きを付けて収録しました。以下にあります。    https://gamlastan2021.blogspot.com/2022/08/180362020101960.html  私は2024....

64 教育学文献学習ノート(38)-3中内敏夫『学力と評価の理論』(の一部)

 (国土社 1971.8.5刊行 2025.通読 2025. 10.18-25ノート作成)  「教育学文献学習ノート(38)」の一連のシリーズについて予告した(38)-1において私は、2025.5.25開催の教育科学研究会教育学部会における本田伊克報告の配付資料で列挙された諸文献の中で自分が所持しているものについては自分でも検討してみたいと述べたのですが、その際に「中内敏夫著作集や坂元忠芳氏の私家版論集など、残念ながら所持していないものもあります」と断り書きをしました。  本田報告配付資料では、最初に2023教科研研究活動方針が紹介されています。これについては新しいものなので、一連の諸文献を検討した後に取り上げたいと「(38)-1」に書きました。  本田氏は次に中内敏夫『「教室」をひらく―新・教育原論(著作集Ⅰ)』(藤原書店 1998)における学力検討・学力像明確化の意義に関する中内の主張を紹介していますが、私は同文献を所持しておらず、Amazon、ヤマノヰ書店も検索してみましたが、ヒットしなかったので「スルーします」と「(38)-1」に書きました。そして中内の文献の検討を飛ばして、その次に本田氏が紹介している勝田守一「学校の機能と教科づくり」(1960) について「(38)-1」を、続いて「(38)-2」で勝田守一「教育学とは何か」(1960頃) を検討しました。  しかしその後、「待てよ、中内の著作集は持っていないけれども単著は7編所持してるから、それらの中で本田氏が紹介された叙述を辿ることができるかもしれない」と思い直しました。  本田報告配付資料では、中内の主張について次のような紹介をしています。 【中内敏夫は、学力について検討し、目指すべき学力の像を明確にすることには次のような意義があるという2。  ●教師の実践の、あとからの批評ではなく、その実践の当面する困難を打開できる。  ●対応する部分を、子どもの精神社会、生理過程にもっている。  ●実現されたものとしての学力がつくりだす諸現象を、もらさず説明できる。  ●学力史(ひいては学校教育史)を整合的に説明し、さらにはその未来を予測できる。 】  上記註番号2の出典は、「中内敏夫(1998)『「教室」をひらく―新・教育原論(著作集Ⅰ)』、藤原書店、92-94頁...

63 【ア-カイブ16-3】京都教科研連載「私の研究ノート」第29~49回 勝田守一『能力と発達と学習―教育学入門Ⅰ』(1964)〔3分の3〕

連載・私の研究ノート(第45回)    (京都教科研通信第385号 2025.3) 勝田守一『能力と発達と学習―教育学入門Ⅰ』(1964) 【17回目】 本連載も45回目となりました。皆様、長い連載におつきあいいただきありがとうございます!  これまで、以下のことについて書いてきました。 第1回(2021.3  通信337号) 自己紹介 第2~9回(2021.4-11 通信338-345号) 坂元忠芳『感情と情動の教育学』(2000)を読んで(その1~8) 第10回(2021.12 通信346号) 「連載・私の研究ノート」第9回目までを終えて 第11回(2022.1 通信347号) 神代健彦編『民主主義の育てかた 現代の理論としての戦後教育学』(2021)(その1)はじめに(神代健彦) 第12~13回(2022.2-3 通信348-349号) 神代健彦編『民主主義の育てかた 現代の理論としての戦後教育学』(2021)(その2~3)第7章教育的価値論―よい教育ってどんな教育?(神代健彦) 第14~20回(2022.5-11 通信351-357号) 神代健彦編『民主主義の育てかた 現代の理論としての戦後教育学』(2021)(その4~10)第8章民主教育論―身に付けるべき学力として(中村(新井)清二) 第21~25回(2022.12-2023.4 通信358-362号) 神代健彦編『民主主義の育てかた 現代の理論としての戦後教育学』(2021)(その11~15)第2章「私事の組織化」論―教師の仕事にとって保護者とは?(大日方真史) 第26~28回(2023.5-7 通信363-365号) 吉益敏文「生活綴方を実践する教師の『まじめさ』に関する考察―5人の教師の聞き取りから―」(武庫川臨床教育学会『臨床教育学論集』第14号2022.12.10所収) 第29~44回(2023.9-2025.2 通信367-384号) 勝田守一『能力と発達と学習―教育学入門Ⅰ』(1~16回目 ※継続中)  連載第20回・中村(新井)清二論文検討の最終回で、私は連載を読んでいただいた芦田安正氏、岸本清明氏からのご意見を踏まえて、叙述を補足しました。このことを含めて、これまでの連載の過程で読者のみなさんから京都教科研通信を編集していただいている吉益敏文先生宛てに私の連載へのご感想・ご意見が...

62 【ア-カイブ16-2】京都教科研連載「私の研究ノート」第29~49回 勝田守一『能力と発達と学習―教育学入門Ⅰ』(1964)〔3分の2〕

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連載・私の研究ノート(第38回)    (京都教科研通信第377号 2024.7) 勝田守一『能力と発達と学習―教育学入門Ⅰ』(1964) 【10回目】    私の卒業論文第二章第一節「認識の能力とその発達」の、下記の部分に関係する考察で連載の過去3回分を費やしてしまいましたが、私としてはとても重要な部分であると考えます。 =====================================  では、勝田は幼児・児童における言語の獲得過程と認識発達過程のかかわりをどのようにどらえていたのであろうか。  一般的には、人間の思考は一方で生理的成熟に促され、他方で社会的な言語に助けられて発達すると言えるが、その過程は極めて複雑である。  幼児は、あることばを自ら発声できるようになる以前に、すでにそのことばが他人によって使用される状況の中で、身振りや音声の抑揚からそのことばに対する 「感情的な了解」 を成立させている (P.123) 。  他方、幼児があることばをしゃべることができるようになった時、必ずしもそのことばの意味を正しく習得しているわけではない。  つまり、一方において幼児は、獲得したことばを 「叫びやむずかりや身振り動作の延長として低次の伝達に使用」 (P.129) し、また事物を表わす単語によって知覚を安定させ、記憶を支え、またその単語を 「観念の運搬者」 (P.129) として使用する。その限りでは言語は幼児の表現や認識の活動に即して、これらを支えるものとして使用されている。  しかし他方で幼児は、自ら意味をとらえることができないような複雑な内容を表わすことばや抽象的なことばをも 「自分の中にとりこむ」 (P.129) のである。  つまり、幼児は社会的記号であることばを模倣によって獲得していくのであるが、幼児がふれることばのうち、幼児にもその意味が理解できるものはわずかである。しかし幼児は、おとなからみれば主観的な意味を自ら創造してそのことばに与えつつ、そのことばの使用を模倣する。つまり 「本来、一定の経験あるいは観察から、特定の手続きを通って抽象化され、総合された観念の名辞に、自分の経験の範囲内で直接に表象を結びつけ 」てしまうのである (勝田「認識の発達について」(1957) 『勝田守一著作集4人間形成と教育』P.74) 。  ...