55 浦田直樹校長と親しく懇談して、秋桜高校の教育実践についてさらに考えてみた
参院選投票日の午後、浦田直樹秋桜高校校長に京都まで来ていただき、喫茶店-焼き鳥飲み屋さんで延べ3時間以上かな、親しくお話しさせていただきました。
本ブログでは既に以下の投稿をしています。
教育学文献学習ノート(39)浦田直樹「『人間のぬくもり』を生み出す教育実践―秋桜高校の実践記録―」(日本臨床教育学会編集『臨床教育学研究』第13巻) (2025.6.24)
https://gamlastan2021.blogspot.com/2025/06/523813.html
浦田先生には先生にお話によると2017年の教育科学研究会近江八幡大会でお会いしていたそうなんですが、失礼なことに私はそれを記憶しておりませんでした(^^;)。私の主観上での浦田先生との出会いは、2024.3.24の関西教科研集会で秋桜高校の報告を拝聴して衝撃を受けたというのが出発点です。今年に入って2025.2.15の地域民教交流研の懇親会で先生と親しくお話ができたことから直接の交流が始まり、秋桜を見たいという私の要望に応えていただいて3.14の卒業式に列席させていただきました。またその間のメールのやりとりで浦田先生の東大阪大学等での大学での授業実践のことも少し伺い、また一方で秋桜の実践の報告資料を新たにいろいろ教えていただき、私自身の学びを広げることができました。
上記のブログ投稿は、私自身が初めて対外的に(自分のブログという限られた媒体において、ではありますが)秋桜高校の学校づくり・教育実践について自分の意見を公表する機会となりました(生徒/学生の名前を呼ぶということをめぐってのごくごく狭い範囲でのコメントになりましたが^^;)。このブログ投稿を浦田先生も読んで下さり、直接会っていろいろ話したいといううれしい提案をいただきました。それで昨日の喫茶店+呑み会、ということになった次第です(^_^)。
3時間以上にわたってあれこれお話ししました。その中で秋桜高校の歴史と現在についてもこれまで以上に知ることができましたし、浦田先生の教師としての歩みについても伺いました。ただ、メモ用紙も持って行っていて、ほんのひとときメモもしたんですが、それ以外の時は話しまくり、聴きまくっていましたので、懇談の記録は私の頭の中にしかありません。しかも後半は呑み会で、(泥酔はしてませんけど^^;)お酒も入っていたので余計に記憶があやふやな部分もあります。それでも私自身にとっては貴重な機会だったので、浦田先生がおっしゃったことで私が記憶していることも含めて記録を作り、公表してよい事柄かどうかを浦田先生にチェックしていただいた上でこのブログに書く、ということも当初考えました(浦田先生からは佐藤の主観で秋桜のことを書いてもかまわないというお許しもいただいています)。
しかしもう少し考えて、考えを変えました。その上での結論は、懇談記録ではなくて、昨日の懇談を通じて《私自身の秋桜高校の学校づくり・教育実践を見る視点がどう変わったのか?》という私の考えの部分だけを書く、ということです。なぜそう思うに至ったかは、以下で今回の交流に至るまでに私が考えたことを含めてもう少し紹介してから述べたいと思います。
さて、昨日の懇談に先立って、私は浦田先生に「7/20に向けて」と題するメールを(1)から(3)まで送りました。ずいぶん失礼な内容も含んでいると自覚しつつ、せっかくの交流の機会に社交辞令でなく自分の研究者・教育実践者としての関心をストレートにぶつけようと考えてのことです。それらのメールの一部を紹介します。 続いて、7/20の懇談のための準備として、浦田先生から提示していただいた先生の2023年度日本臨床教育学会第13回研究大会での実践事例研究報告「どんな子どもも受け入れられ卒業まで過ごせる高校とは~秋桜高等学校の取り組み~」の本文を読ませていただいた段階(「教育のつどい 教育研究全国集会 2023」報告レポート等の付属資料は未読段階)で、以下のメールを送りました。
「7/20に向けて(3)」(2025.7.19)は、懇談の準備過程で私の来年度京都女子大学「教育課程論」ではシラバスを修正して少なくとも1回分を使って秋桜高校実践を取りあげたいと考えるに至ったという話ですので、ここでは紹介を省略します。
さてそれでは、昨日の延べ3時間あまりの懇談・交流を踏まえて私の秋桜高校の学校づくり・教育実践に対する見方はどう変わったのか?
自分から見ての秋桜高校の《見え方》がどう変わったか、ではありません。自分の《見方》がどう変わったのかについてです。
焼き鳥を楽しみながらの懇談の終盤で、私ははたと思い至りました(その内容は浦田先生にも伝えました)。それまでの私の考えでは、秋桜の実践は素晴らしく、おそらく他校では考えられないような取り組みや模索が行なわれていると思うが、常識的な(と思われる)教育実践観・学校づくり観とかなりの距離があるために、学校外で秋桜に関心を持つ者は、関心は持つけれども、自己の実践との接点を見つけにくいのではないか。だから、(個人情報・プライバシー保護などに関わって難しい点はあると思うけれども)秋桜での生徒たちと先生たちとの関わりの中で生じた困難をそれをどう克服していったのかについて、もっと詳細に検討し可能な範囲で公表してもらえないだろうか、そのことによって秋桜は《ユートピア》ではなく、秋桜の教師たちも全国の心ある教師たちと同様に苦しみ、迷い、模索している様がわかり、学校外の人々についても考える接点が見つけやすいのではないか?というようなものでした。
このことを私は、《教育実践の一般化》《教育実践記録における一般化》の文脈で考えていました。すぐれた教育実践とされる教育実践の記録について、多くの人が驚き感動するだけではなく、つまり《すごいけどうちの学校ではとても無理》と、感動しながらも結局は切り捨ててしまうのではなくて、多くの心ある教師が自らの教育実践に活かしていくのはどうしたらよいのか。それを考えるときに《実践上の困難な事実をさらに掘り下げて検討する》ということが手がかりになるのではないか、と私は考えたわけです。様々な環境から、様々な課題をかかえて秋桜に入ってきた生徒たちが、先生たちに出会い、また生徒相互が出会う中で悩みながらも変わっていく、その姿は実践記録を読むものにとって感動的なんだけれども、その感動だけでは《ああ、すごい学校だな》で終わってしまうのではないか。だから、《きれいな部分ばかりじゃないよ。困難や挫折もいっぱいある。それをもがきながら乗り越えてきたんだ。》というドラマを付け加えることで、素敵な結末に感動することに終わらない共感を、学校外の我々も得ることができるのではないか。
こうやって振り返って文章化してみると、上記のような私の教育実践のとらえ方もまた、かなりステレオタイプ化したものじゃないかと思われてきます。《感動だけじゃだめ。そこに苦難の過程を付け加えることで共感が深まる。》という一つの図式を描いていたのではないか。
つまり私個人は、そういう枠組で秋桜高校の実践を捉えようとしていた。《教育実践/教育実践記録の一般化》とか言ってたけど、結局それは私個人の捉え方であったと気づいたわけです。そうすると、《秋桜の実践への関心・共感をさらに広げていくために当事者の先生たちにどういう実践記録の出し方をしていただくか》という課題設定が必要なのではなくて、《秋桜の実践に関心を持つそれぞれの人たちが、実践の事実の何に関心を持ち、どこに意味を見出そうとしているのかを自問すること》こそが、(一般論ではなく教育学研究者である私個人にとっては、ですが)問われているのだということ。問われているのは秋桜からの発信の仕方ではなくて《私自身の受け止め方》なのだということ。長い説明になってしまって恐縮ですが、昨日の懇談の最後の頃に、このことに私は気づいたわけです。
もちろん教育実践をめぐる議論は、《発信側》と《受信側》に機械的に分けて論じられるものではありません(わたしもこうして《発信》しているわけですし)。実践の当事者とそこから学ぼうとする者の相互交流の中で教育実践の意味が深められていくのだとは思います。しかし、私自身の2024.3.24関西教科研集会以来の秋桜実践との向き合い方は、ほぼもっぱら《受信側》としての向き合い方であったと思います。「ほぼ」と書いたのは、冒頭でも紹介した2025.6.24の私のブログ投稿「教育学文献学習ノート(39)浦田直樹「『人間のぬくもり』を生み出す教育実践―秋桜高校の実践記録―」(日本臨床教育学会編集『臨床教育学研究』第13巻)」の中では、十分自覚的でないままですが、秋桜の先生方が入学式前から生徒の名前を覚える努力をして一人一人に名前を呼んで声をかけているという話から、唐突に話を飛ばして私の京都女子大「教育課程論」授業ではさほど多くない受講生の顔と名前をなかなか一致させられないというエピソードを紹介しています。そしてこのブログ投稿の最後では、「秋桜について書いたことと、私自身の大学授業について書いたことは、平行線とは言えないまでもまだ接点を見出し得ていないかもしれません。ただ、浦田論文で秋桜の実践について改めて学んだことが自分自身の教育実践の見直しに繋がったという点では、主観的には接点があると思っています。」と書いています。
ここではまだ自覚的でなかったのですが、結局(研究者一般に敷衍するつもりは毛頭ありませんが)教育学研究者・大学教育実践者である私にとっては、《自分自身の教育実践を潜らせることなしに秋桜の教育実践を意味づけることができない》ということなのです。秋桜から学びつつあることを、気安く《客観化》《一般化》しようなどとはせずに(そうすることに意味がないなどとは思っていませんが)、まず《一人の実践者である自分自身にとっての意味を突き詰める》ことが、誰でもない私自身の課題であるということがわかりました。
もちろんこれは、私自身の自己規定の中の《大学教育実践者》としての側面に関することです。そうすると一方の教育学研究者としての自分が《教育学研究としての秋桜高校実践研究》をどう考えるかについては、今のところ全く見通しが立っていません。それをするのかどうか(教育学研究として取り組むのか)、それが果たして自分の課題なのかどうかについても。
それと《大学教育実践者/教育学研究者》と、自分が二部分からなるような書き方をしてしまって、それでは《生活者》としての自分が欠落していると気づきました。もちろん《生活者》としての営みの中に教育実践も教育学研究も含まれますが、それだけで全てではありません。
浦田先生にも話したのですが、自分自身の高校時代(京都教育大学附属高校)に高校紛争があり、その経験を機に天文学志望から教育学志望に進路を変更しました。自分の人生の上で大きな転機であったと思います。しかし教育学研究者となってからは、授業で担当する「教育課程」の領域が高校では非常に複雑多岐にわたることもあって、《高校教育の研究》を自分の課題をすることはありませんでした。その自分がなぜ秋桜高校に関心を持つのか。なぜ数時間かけて大阪府貝塚市まで行って卒業式に列席したのか。なぜ浦田校長とお酒を酌み交わしながらこもごも語り合うような親しい関係になったのか。ここには(まだ自分で明確に分析できていないし、分析などできないことかもしれないんですが)《生活者としての70歳の自分》ということが大きく絡んでいるような予感がしています。
次には秋桜高校をスクーリングの時期に訪ねたいと浦田校長にお願いしています。そこで自分はどういう立場から《見る》のか?果たして《見る》《見学者》としての関わりでいいのか? 浦田先生と連絡を取りながら考えていきたいです。
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