52 教育学文献学習ノート(39)浦田直樹「『人間のぬくもり』を生み出す教育実践―秋桜高校の実践記録―」(日本臨床教育学会編集『臨床教育学研究』第13巻)

 (2025.4.25刊行 6.3通読)

  秋桜高校の実践報告を初めて聴いたのは、2024.3.24の関西教育科学研究会3月集会「 子どもを大切にする学校―大阪の私学高校実践に学ぶ―」において浦田直樹校長が話されたときでした。不勉強な私はそれまで秋桜高校という学校の存在も存じ上げなかったと思います。そこで配付された分厚い報告資料とその年の秋桜高校の卒業文集は、自分だけ読むのではもったいないと思って当日の研究会には参加されなかった京都教科研の仲間にお貸ししています。
 2025.2.15-16に京都市内で全国地域民教交流研理論学習会が開催され、夜の懇親会の時に浦田先生がわざわざ私のところへ話しに来て下さいました。私のFacebook投稿を読んでくださっていると聞いてうれしく思いました。学習会の後2.18に私から浦田先生に送信したメールの一部を以下に紹介します。

「校長先生が『直樹』と生徒から呼ばれる。《規律》から入る学校生活の組立からは考えられないことです。だけど、どの学校でも校長や担任を陰で(児童生徒間で)呼び捨てにしたりあだ名で呼んだりということはあると思います。しかし、(表面上)《荒れてない》学校だったら、授業中には子どもたちは『〇〇先生』と言うだろうし、生徒同士で教師の噂話をしていても廊下で教師とすれ違ったらやめるでしょう。秋桜で生徒が浦田先生を『直樹』と呼ぶのは、呼び名という点では友だちと同等ということでしょうね。友だちと同等扱いすることが教師を《下げて扱う》ことではなくて垣根をなくしてなんでも話せる気楽さを醸し出すのでしょうか。こうしたことを含めて、秋桜高校での教師も生徒も含めた人間関係にとても興味があります。 」

 懇親会の席で私は「秋桜高校を訪ねたい」と浦田先生に申し上げていました。このことについても2.18のメールで以下のように改めて書いています。

「交流会の席で私は先生に『秋桜を訪ねたい』と言いました。私は神戸大で3年半・宮城教育大で2年半、三重大で30年、京都橘大で1年大学教員をつとめ、いまは京女大で非常勤5年目です。正規教員の時代は学生の教育実習指導や現場の研修会等で小学校を中心に多くの学校に足を運びました(そんな研究スタイルだったので、教科研全国委での福井さんの「研究者は現場を知らない」発言には猛反発しました)。しかし、どれだけ足繁く学校に通っても、やはり研究者は学校の当事者ではなく『部外者』です。また、一知半解のくせに現場のことをわかったように語ってしまう危険性も持っていると思います。秋桜高校に行くにしても『生徒さんがおられるスクーリングの時期に』なんて申しましたが、そういう時期におじゃまできたとしても、たった一日で何がわかるか、という話だろうと思います。しかし、《研究の素材とする》みたいなすけべ心を捨てて、秋桜で起こっていること、その現場にわずかな時間でも身を置くことによって、人間として、教師としての自分を、日頃の姿とは違う角度から見つめ直す、ということだったら可能だと思います。しかし、そんな身勝手な関心で真剣に展開されている学校現場に関わりを持つということは、不謹慎かもしれないとも思います。」

  これに対して2.28に浦田先生から初めていただいたメールでは、記憶ははっきりしないけれども先生が私に初めて会ったのは教科研滋賀大会(近江兄弟社高校)ではないかと書いておられました。そうだとすると2017年夏のことになります。そこから親しく交流するに至るまで8年近くかかっていますが、それも私たちがともに教育科学研究会の会員であればこそですね。
 秋桜を訪れたいという私の希望に対して、浦田先生は次のように応じてくださいました。

「秋桜は様々な形で見学者を受け入れておりますので、どんな目的であろうと見てみたくなりましたら、ぜひお越しください。こんなに甘くて大丈夫なのか、これが教育なのか、とご指摘を受けるかもしれませんが、希望する子どもたちはすべて受け入れ、どんなことをする(しない)子も処分規定を持たず、23年間退学させたことがない学校の生の姿を見ていただけたらと思います。」

 そして3.4のメールで「秋桜は3月14日(金)が卒業式です。」「授業もですがいつか卒業式も見に来てください。」と書いてくださいました。そこで私は折り返しメールで以下のようにお尋ねしました。

「『いつか卒業式も見に来て下さい。』と書いていただきました。3月14日の卒業式を拝見することは可能でしょうか。私は交流研の懇親会で『秋桜を訪ねたい』と言いましたが、一方で『いつかどうぞ』と伺って『いつか行きます』と社交辞令を交わすだけではそのやりとりは日常に埋もれてしまいかねないとも考えていました。今回先生が具体的な日付を示して下さり、その日は他の予定が入っていませんのでお尋ねする次第です。来賓でもなんでもない私が卒業式当日の学校を訪ねることができるのか、服装は全く自由なのかある程度のドレスコードがあるのか、初めての訪問でいろいろ興味深い場面に出会えると予想するのですがSNSにアップしたりしないという前提で写真を撮ることは許されるのか……等々の伺いたいことがあります。もう10日後の話なので、いくらなんでも今からではということであれば、次の機会を待ちます。卒業式を前にいろいろお忙しい時期に恐縮ですが、お返事いただければ幸いです。」 

  これに対し、浦田校長からは以下のお返事をいただきました。

「卒業式は平服でお越しください。誰でもが入れる式になっております。保護者席には様々な方が来られて座っています。卒業式の練習なども一切せず、ぶっつけ本番の式です。でもどのような子が通い、共に秋桜で過ごしてきたのかがよくわかると思います。」

 こうして私の秋桜高校訪問は、いきなり卒業式への列席(^^;)という形で2025.3.14に実現しました。当日、京都市から3時間かけて大阪府貝塚市まで行き、貝塚市民文化センターで開催された秋桜高校卒業式に列席しました。式のもようについて、Facebookに以下のように実況中継をしました。

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●A〜G各組の卒業生の名前が読み上げられ、クラス代表が壇上に上がって校長先生から卒業証書を受け取る。驚いたのは浦田校長が代表生徒との思い出を語られたこと。ほんとは全部の卒業生に語りかけたかったのでしょう。
●D組の代表生徒は、壇上で証書を受け取る直前に会場の方に向き直っておもむろにグラサンをかけた。すると校長も後ろを向いてグラサンをかけた。打ち合わせ済み?
●学校長式辞は、「直樹のことば」で。
「卒業しても、いろんなところへ、誰かに会いに行ってほしい。」
●在校生送辞は3人。しかし男子生徒一人が都合で欠席。ところが女子生徒2人が終わったところでその子が滑り込んできた。司会の先生が思わず「よかったあ…」…なんていい先生!
●送辞の後、卒業生のメッセージ。これはなかなかレアなことではないか。
●答辞は、4人の卒業生からそれぞれに。
●二部に入り、先生方の力作のスライドショーの後、再び答辞。最初の男の子は原稿なしで思いを伝え、次の女の子は「先生方に感謝」と先生一人一人にハグして回る。
●3人と4人の2グループに分かれての答辞。第一部と合わせて10人の卒業生からのメッセージ。
●次は先生たちが全員壇上に並んで、一人一人からメッセージ。途中、司会の先生から「思いはいっぱいあるでしょうが、時間厳守で」とダメ出し。
●「秋桜の先生として、人として、育ててもらった。」
●「人のことを思える人になってほしいけど、そうゆうふうに思えへん時もあると思う。」
●「秋桜で過ごせたから今がある、と言ってくれる卒業生もいる。」
●Happiness(嵐)を歌う。ギタリストは、卒業生と浦田校長!
●もう一曲は。2017年卒業生の「秋桜で待ってるから」
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 その後『臨床教育学研究』第13巻が刊行されました。その中の「特集1 人間の生存・成長において集うこと、遊ぶこと、学ぶこと、暮らすこと、の意味を考える」に掲載された4編の論文の中に浦田直樹先生の投稿があります。これを取りあげて意見を述べさせていただくのが今回の私の投稿の趣旨なのですが、例によって《対象とする文章を書かれた方と私との個人的繋がりについて書く》というところから始めるという自分のスタイルを今回も踏襲させていただきました。
 
 浦田論文の構成は、以下の通りです。
  はじめに
  1 全員の名前を覚える、呼ばれたい名前で呼ぶ
  2 お誕生日
  3 お手紙 ~ぬくもりを伝えたい~
  4 子どもの作文をみんなで読み合う
  5 三者懇談 ~また行きたいと思える時間に~
  6 行事 ~共に遊び、語らい、笑い合う~
  7 共につくる授業 ~教科の枠も越えて~
  8 職員室 ~リビングみたいな空間~
  9 教職員集団づくり
  おわりに
 
 浦田先生に、「こんな紹介じゃなあ……」と苦笑されることを覚悟で、私のコメントでは上記の論文構成の「1」に限定して、私自身の教育実践にひきつけまくって(^^;)思いを述べたいと思います。
 まず、「1」で紹介されている秋桜の取り組みを浦田論文から抜粋して紹介します。
 
「まずは、全教職員が生徒全員の名前を覚えようとしている。500~600人全員の名前を覚えるのは簡単ではない。通信制ということで登校頻度は個人によってバラバラ(平均すると1年間で20~30日ほど)であるし、今日出会えたとしても次に出会えるのが何ヶ月も先であったり、それ以降学校には来なくなる子もいる。クラスというものも存在せず授業も様々な学年の生徒が入り交じっている。」(P.41右段)
 
「入学願書に貼付された顔写真を全員分コピーして、ひたすら頭にたたき込む。そして、スクーリングや行事など子どもたちの登校機会に、『タカトやん、久しぶり。』『キヨミ、髪の色変えたんや。』などと出会う全員の子どもたちの名前を呼んで、話しかけるようにした。私も初めの頃は一度も話したことのない生徒に、名前を呼んで話しかけるなんて恥ずかしかったし、思い切って話しかけても無視されたり、『誰やねん、お前。』『なれなれしく話しかけてくんな。』などと言われ心をへし折られることも多々あった。それでも、『うわぁ、名前覚えてくれてるんや、うれしい。』と言ってくれる子もたくさんいて、子どもたちと仲良くなるスピードも速くなっていった。
 入学式の時に名前で呼びかけられた子が、『えぇー、なんで名前知ってるん?初対面やんなぁ。めっちゃうれしい!』と言ってくれることが何度かあり、そのことを作文にも書いてくれたりもして、入学式前にできるだけたくさんの子の名前を覚えて入学式当日に名前で呼びかけてあげようと多くの教員が意識するようになった。しかし、入学式前の数日間に、多いときは200人近い新入生の名前を自分1人で覚えるのは大変すぎたので、職員室で教員たちが集まってみんなで覚えようという雰囲気がだんだんと生まれてきた。
 入試の時に『高校生になってやってみたいこと』という作文を書いてもらうのだが、その作文をコピーして全員分読んで、作文の内容とその子の顔写真をセットで覚える。誰かが写真を見せ、『これは誰?』と尋ね、『○○○○!その子はバイクが好きで、バイトしてお金稼いでバイク買って友達とツーリング行きたいって書いてあった。」と誰かが答える。そうやってみんなで覚えるようになると名前を覚える時間も楽しい時間に変わってきた。」(P.41右段-P.42左段)
 
 ここだけ読むと、一般論としては《年度初めの忙しい時期になんでそんなことに時間を費やす必要があるの?》という疑問が出てくるかもしれませんが、ここではとりあえず秋桜が通信制の学校であり生徒は毎日登校するわけではないことと、浦田校長が「1~8の実践はすべて、『全教員、全教職員で実践する』ことを根本に据えて行おうとしてきている。」(P.51右段)と説明していることを紹介することにとどめて、引用紹介を続けます。
 
「入学後すぐに三者懇談があり、呼んでほしい名前を全員に尋ねる。性自認のこともあり呼ばれたい名前に拘りがある子も少なくない。また、親の離婚などで何度も苗字が変わっていて、苗字で呼ばれたくない子もいる。呼ばれたい名前を全教職員で共有し以後その名前で呼ぶ。入学式前に覚えた本名とは違う呼び方でそれ以降は呼ぶことになる。5月、6月くらいまでにはほぼ全員の名前を教員は覚えている。名前を覚え、名前を呼んで話しかけるということを教員だけでなく事務職員も意識するようになってきた。そこここで子どもたちとの会話が生まれ、会話の中で知れた情報などを教職員間でしゃべり合うので、どんどん子どもたちの情報がストックされていく。」(P.42左段-右段)
 
 ここでまた《外部観察者の一般論的視点》から、疑問を出すこともできます。入学後の三者懇談で生徒本人に呼んでほしい名前を語ってもらうのであれば、なぜ入学前に全員の名前を覚えておく必要があるのか、と。どうせ情報を変更するケースも出てくるなら「呼び方」の確定・定着は三者懇談後でもいいのではないか、と。
 しかし、外部者でありながら少しずつ秋桜高校について知り始めている者として、秋桜の先生たちはそういう《効率性視点の発想》はとらないんだろうなと私は思います。確かに、本人の希望に添って名前を呼ぶ(そのことだけでも教師ー生徒関係のありようとしては貴重で、かつ稀少だと思いますが)という趣旨だけに注目すると、三者懇で本人の口から呼ばれたい名前を語ってもらってから呼び名を確定するのが《効率的》かもしれません。ただしかし、そうしたやり方で入学時の初対面からまだ間もない生徒達が、果たして本当に呼んでほしい名前を教師に告げるでしょうか。新入生達はもちろん、自分の名前が学校に登録されていることは知って入学してくるでしょうが、入学当初にその名前を初対面の先生達がみんな知っていて呼びかけてくるということにまず度肝を抜かれるんじゃないでしょうか。なれなれしくすんなと拒否して浦田先生をへこませる生徒もいるけれども、浦田先生の書きぶりではどうやら自分の名前を覚えてくれたことを喜んでいる生徒の方が多いんじゃないかと感じられます。いろいろな経緯やいろんな思いを抱えて秋桜に入ってくる生徒達にとって、《自分の名前を覚えて入学を待ち構えてくれてた先生たちがいる》ということが入学当初のなんらかプラスのインパクトになっている(そういう生徒もいる)ということが大事じゃないかと思うのです。だとすれば、《入学当初から一人一人の生徒を名前で呼ぶ》というのと《効率を重視して三者懇後に生徒の呼び方を決めて呼ぶ》というのは大きな違いがあると思います。
 浦田先生も卒業文集でのアイの作文(その中に「名前みんな覚えてくれてあったかく言ってくれたのは一生忘れへんと思う。」とあります)を紹介した後に、こう書いています。
 
「一生忘れないと思えるような『あったかさ』を感じるのに必要な時間の長さや時期、条件(関わる人数や対面か非対面かなど)はどれくらい必要なものなのだろうか。対面で自分の名前を呼びかけられるということは、同時に自分以外の子が名前を呼びかけられる場面にも遭遇することになる。自分の名前を呼んでくれてうれしいという気持ちに加え、他の子が名前で呼ばれていることへの安心感を同時に持つことになるのではないか。
 更に、その呼びかけられる時期が早ければ早いほど、よりたくさんの安心感を得られると考える。入学式から2ヶ月くらいの間は緊張度合いが高い。緊張度合いが高い時ほど人間は安心感をより求めたくなるからだ。そんなにも短い期間に自分の名前を、自分の名前だけでなく全員の名前を覚えようとしてくれたのだという想像力が『あったかさ』という感覚を引き出しているのかもしれない。そのように考えると、何人もの教職員から入学後早い時期にすべての子が名前で呼びかけられるということで緊張が解かれ、安心感を得て、『あったかさ』を感じるプロセスになっているのだろう。
 (中略)『たかが名前くらい』と言っても、その『名前くらい』をどんなふうに、どれだけの人で大切にできるかどうかでひとり一人の学校生活そのものがゆたかなものに変わっていく可能性がひろがるのだということを肝に銘じておく必要があるだろう。」(P.42右段-P.43左段)
 
 ここで突然ですが、私自身の大学授業のことに話を転じます。
 今年度前期は京都女子大学で教職科目の「教育課程論」を担当しています。2020年度以来6年間続けている授業です。三重大学でも、1996年度から2018年度までの23年間「教育課程論」を担当し、初年度から受講生に「自己紹介カード」の提出を求めてきましたし、京女大でもそれをつづけているのですが……。
 今年度で言うと「自己紹介カード」の項目は、学生証番号・所属学部学科(註・全学向け教職科目なのでいろいろな学部の受講生がいます)・氏名・生年月日・出生地・幼保小中高の校園名・授業で学びたいことや要望・自己PR・教採受験予定の有無・授業終了時に「自己紹介カード」返却を希望するかどうか・写真、です(但しこのうち生年月日から出身校園までは、書きたくなければ空白でよいとしています)。個人情報を含めた受講生のプロフィールを授業担当者として把握したいという趣旨ですが、書かない自由がある項目を含むと共に、この「自己紹介カード」を提出するかどうかを各受講生の自由としています。但し私からは、「自己紹介カード」提出を求める唯一の目的は授業期間中に一人でも多くの受講生の《顔と名前を一致させること》なので、もちろん強制はしないけれどもできるだけ多くの受講生に提出してほしいこと、また提出する場合には必ず写真を貼ってほしいとお願いしています。
 三重大学時代から、各年度の授業で受講生のうちどれくらいが「自己紹介カード」を出してくれたか記録は残していませんが、たぶん毎年過半数の受講生は出してくれていたんじゃないかと思います。 コロナ禍のリモート授業から始まった京都女子大授業でも、当初は受講生の多くが「自己紹介カード」を出してくれました。
 ところが、近年状況が変わってきました。2年くらい前には私の京女大授業の窓口になってくれている教員から、私の授業で自己紹介カードの提出を求めていることについて《保護者から問い合わせが来ている》と知らされて驚きました。この時には受講生にも改めて提出の唯一の目的は受講生の顔と名前の一致であり、また提出は任意であることを説明しました。
 2024年度前期「教育課程論」の「自己紹介カード」提出者は37名中8名、後期「ジェンダーと教育」では登録27名、実質出席20名前後のうち「自己紹介カード」提出者はたった2名でした。そして今期の「教育課程論」授業でも、実質出席者25名前後のうち現在までの「自己紹介カード」提出者は4名です。
 昨年度後期「ジェンダーと教育」授業では、全15回の後半でメンバー固定の班を編成して活動していくことにしていたので、班を編成した時点で班員の集合写真を撮って授業で使用していたTeams上に添付ファイルで投稿してもらいました。その画像を自分で印刷して手元に置き、毎週提出の小レポートを読む際に画像を見ることで授業後半期にだんだんと顔と名前を一致させることができました。今期授業は固定班を編成せず、毎回の授業でその回だけのグループを編成して討論をさせていますが、来週の授業でその回のグループの集合写真を撮って授業用のLMS(学習管理システム)に投稿してもらおうと思っています(但しこれについても、もしも写真を残してほしくない人がいる場合にはそのグループの画像ファイルは授業期間終了時に削除し、私がプリントしたものも廃棄すると約束します)。
 大学の授業で受講生に任意に提出してもらっている情報について《親が》疑問?クレーム?を出してくるというのは驚きでしたが、おそらく授業の実態を知らずに言ってきているのだろうと考えればまだ納得もできます。しかし、授業で縷々説明しているにも拘わらず「自己紹介カード」を提出してくれないというのは、その理由はともかく、提出は《任意》としているからでしょうね。仮に「自己紹介カード」提出を《必須》としたり、《提出によって日常点○○点とする》など成績評価をちらつかせたりしたら、おそらくほとんどの受講生が提出するでしょう。しかし、それはしたくないのです。《顔と名前を一致させたい》という授業者側の理由を理解した上で協力してほしいのです。しかしそれにしても、過去30年前後の担当授業においてそれで大きな支障がなかったのに、最近になって協力が得られなくなったのはなぜなのか?
 担当講師の側が《受講生の顔と名前を一致させたい》と望んでいても、多くの受講生は、少なくとも自分にとってはそれが必要であったり有益であるとは判断していないわけですね。受講生の多くは、授業に出席して単位を取得したいとは望んでいますが、そのために担当講師に自分の《顔と名前を一致させてもらうこと》は別に必要ないと考えている。「自己紹介カード」がほんのわずかの数の受講生からしか提出されないということは、そういうことだと思います。
 毎回の授業で期日を決めて小レポートを提出してもらっているのですが、これについてはほとんどの受講生が提出します。内容も毎回の課題についてきちんとまじめに考察したものばかりです。この小レポートについては、1回あたり日常点5点、最終第15回のみ別に課す最終レポート作成と競合しないように小レポートは課さないので、全回(14回)提出すると70点となります。最終レポートを30点満点としていてこれは必須ですが、小レポートだけでも12回以上出せば100点満点で単位取得ラインの60点を超えます。この成績評価基準は初回授業で提示しているので、受講生はそのことも踏まえて小レポートをきちんと提出してくるのだと思います。
 一方で《任意だけど、協力してほしい》という私からの要請については、別に協力しなくても自分にとって不利にはならないと値踏みしているわけですね。あるいは、《受講生の顔と名前を一致させて授業を運営したい》という私の要求への理解度よりも、個人情報を一授業の担当講師に渡すことへの抵抗感の方が大きい、ということでしょうか。
 例えば私が毎回の授業の冒頭何分かを割いて出欠点呼を行なえば、記憶力が悪い私でも何回か繰り返すことで少しずつ受講生の顔と名前を一致させていくことができるかもしれません。しかし、毎回レクチャーや資料紹介・動画視聴などの後にグループ編成と討論を行なうという私の授業運営では90分の授業時間に余裕はなく、実際に討論時間を少ししかとれずに終了時刻になることもありました。だから授業でも「出欠点呼をとるのは時間がもったいないので」と話したのですが。
 「自己紹介カード」の各項目のような個人情報を(必要な場合には事後に返却すると約束していても)授業担当講師の手元に渡すことに抵抗があるのかもしれません。私からすれば、小レポートを読む時に氏名と写真に加えてこうした情報を読むことは、顔と名前の一致に役立つのですが。
 受講生の個人写真ですが、2022-24年度に担当した新潟大学「教育課程及び総合的な学習の時間の指導法A」(リモート)は毎年100人を超える受講者数でしたが、通常の受講者名簿と併せて全員の顔写真一覧が大学のシステムを通じて提供されていました。ただこの写真はおそらく入学当時に提出されたものと思われ(高校の制服姿で写っているものも多数ありましたので)、入学後数年経って受講生の風貌にも変化があると思われるため、この授業でも「自己紹介カード」に写真を貼って提出することを要求し、そして多くの受講生が協力してくれました。「自己紹介カード」はデータとして保存・活用し、「授業期間終了後データ消去」の希望が書かれている場合は授業期間後にデータを削除していました。
 一方、昨年度後期の京女大「ジェンダーと教育」で提出してもらった班ごとの集合写真では、多くの受講生がにっこり笑ったりピースサインをしていました。おそらくこれを提出することにあまり抵抗はなかったんだろうと思います。ですから今期の「教育課程論」でも、次回授業で指示すれば各グループが集合写真を提出してくれるだろうと思っています。
 
 長々と書いてきました。「自己紹介カード」の提出を必須事項として要求し、しかも個人情報管理・処理は誠実に行なうことで受講生の信頼を確保する、ということも、できないことではないのかもしれません。しかし私には、受講生への指示になるべく《強制》の要素を含みたくない、とくに成績評価に関わることになるべく連動させたくないという気持ちがあるのです。
 ところで、実に細々したことながら私の授業運営上起こっているこの問題を振り返ってみると、私のような大学の一非常勤講師、学生諸君にとっては毎週受講している数多くの授業の中のたった一つの授業の担当者との関係を、(通常の授業参加義務を越えて)よりよいものにしようという意識は、学生諸君にはほとんどないのかもしれません。別に私の授業運営に対してあからさまな反発があるようでもなく、授業出席・グループ討論・小レポート提出などはほとんどの受講生がきちんとこなしています。そして、ここからは私の推定ですが、《ここまで授業担当者の要求をきちんとこなしているから、それ以上「任意」として要求されていることにまでは従わなくてもいっこうにかまわない》と多くの受講生が判断しているように思われます。
 一つの授業の受講生達とは、半期15回、約4ヶ月限りのつきあいです。私の中で受講生の顔と名前が一致していなくても、提出される小レポート・最終レポートで成績評価はできるし、担当講師である私の単位認定、受講生達の単位取得にはなんの支障もありません。でも、それでいいのでしょうか? 「教育課程論」は教職科目です。教員免許は取っても教職を志望しない学生もかなり(?自己紹介カード提出が少数のため、教採受験の有無も把握できていませんが)いるかもしれませんが、それでも「教育」という《人間と人間の関わり》に関する学問、授業科目を受講している人たちです。それは授業での学習内容のことであって、それと自分自身の授業へのスタンスは別、と割り切っているのでしょうか? 
 
 ここで再び、秋桜高校の先生方が入学してくる全生徒の顔と名前を覚え、入学後の面談を経てその生徒が読んでほしい呼び名を聞いて必要なら呼び方を変える、というエピソードを振り返ります。 浦田先生が心折れた経験のように、生徒から「なれなれしく話しかけてくんな。」と言われて拒否されることもあるようですが、入学から卒業までの学校生活の中で、多くの生徒達が先生達が事前の努力もして《一人一人の生徒と人間として関わろうと努力していること》《名前を覚えて呼びかけるという行為は「君を大切に迎えるよ」という気持ちの表れであること》を理解していき、そのことに感謝して卒業していくのだと思います。もちろん、名前を呼ぶことだけが独立してあるわけではなくて、浦田論文の2~9に紹介されているような様々な取り組み、教師たちと生徒の交流があるわけですが、名前の呼び方は両者の交流(また、教師同士、生徒同士も)の一つの象徴ではないかと思いました。
 私の大学授業では、授業後の小レポートとそれへの私のコメント(人数的に可能な規模の場合は毎回全員にコメントを返しています)という形で、教師と受講生のコミュニケーションはあります。私自身、小レポートを読むことで受講生一人一人の多様な考え方を知ることができるし、知って終わらせるのではなくて教師として考えたことを(できるだけ正解提示的とか、ましてや説教的な文面にはならないように注意しながら)届けています(各受講生がどこまで私のコメントを読んでくれているかはわかりませんが)。ただそのレポートを読みコメントを返す時間に、私には提出者名を見ても顔が思い浮かばないのが残念だと思うのです。じゃあ顔が思い浮かぶことで何がプラスなのかと言われると、うまく説明できないんですが、でもシステム上のレポートとそれへのコメントという形でやりとりしていても、生身の人間と人間のコミュニケーションなんですから、どんな人が書いてくれているか知りたいじゃないですか。
 それなら教室で個々の受講生と語り合う機会をつくればいいじゃないかと言われるかもしれません。ただ、前述したように私の授業スタイルは《
毎回レクチャーや資料紹介・動画視聴などの後にグループ編成と討論を行なう》というものです。要するに、もちろん私からの学習情報提供も重要ではありますが、それ以上に大事なのは受講生相互の意見交流だと考えています。毎回長くて30分程度のグループ討論時間を取ります。その間教室を巡回して時にはグループの議論にいっしょに参加したらいいじゃないかと言われるかもしれません。ただ私は三重大以来40年以上のこのスタイル(多人数でも相互討論をする)の授業で、グループ討論に入りこんでいくということがどうしてもできないのです。やってないからわからないのですが、それをしようとすると受講生が《引く》のではないかという気がします。教師が近くを巡回することはあっても突然討論に入ってくることはない、その暗黙のルールに従う方が学生だけで自然な討論ができるのではないかと勝手に思っています。結局私は、授業の教室という現場において個々の受講生とコミュニケーションを取って交流を深めようという意思がない、ということになりますね。それがいいのだと開き直っているわけではないですが、自分のスタイルは崩せないです。敢えてリクツを言うなら、授業は教師と受講生が親しくなる場というより受講生同士が交流を深める場だ、ということになります。
 たまーに、授業終了後に何かの用事である受講生が前へ話しに来るということはあります。その時は丁寧に応対していますし、なんかうれしい気持ちにもなります。でもそれ以上に、教室の場で自分から動いて受講生との交流を深めようとはしていないのです。そういう距離感で長年授業運営をしてきました。
 こういうことを書けば、「なるほど、それでは授業を通じて学生との交流が深まることは期待できないでしょうね」と言われるかもしれません。しかし、それは確かにそうであっても、それでも、あるいはそれだから、《受講生の顔と名前の一致》は私にとっては重要なのです。小レポートの文章を読んで筆者の顔が思い浮かぶこと、あるいは、教室でのグループ討論の時に各グループに参加している受講生の名前が思い浮かぶようになること。これは私にとっては重要なことです。半期4ヶ月が経過すれば授業は終了し、それ以降に今期受講生との交流はありません。そういう限られた期間の限られた人間関係なのですが、それでも《生きた人間同士として交流したという感触》のようなものを求めているんだと思います。
 
 秋桜の実践の《名前》のことしかとりあげていませんが、他の様々な取り組みについてこれまで関西教科研で浦田校長のお話を伺ったり、本論文を通読する中で、驚くことはたくさんありました。秋桜の実践をどう形容したらいいのか? 《濃密な人間関係》という言葉が最初に浮かんだんですが、もう少し考えて、どうもそれは違うように思えてきました。なぜか。通信制である秋桜高校では、「登校頻度は個人によってバラバラ(平均すると1年間で20~30日ほど)であるし、今日出会えたとしても次に出会えるのが何ヶ月の先であったり、それ以降学校には来なくなる子もいる。」(P.41右段)という状況です。教師と生徒が毎日のように顔を合わせているわけではないのです。ですから学校生活の時間量を考えると《濃密》というのはふさわしい用語ではないと思えてきました。毎日会えるわけではない生徒たち、他校を辞めて秋桜に移ってきて、高校生活最後の1年だけを秋桜で過ごしていく生徒だっている。またそうした時間的なことだけではなくて、生徒たちは実に多様な生育歴や家庭環境で育ち、将来への夢を持つ子も見出し得ないでいる子もいる。こういう生徒たちと秋桜の先生たちとの関わり方は、外部者の私が一言で表現することなどできないし、言おうとすると陳腐なものになりますが、敢えて言うなら《一人一人の生徒と丁寧に向きあい、関わる》ということではないかと思います。名前というのはコミュニケーションの際のラベルであり、生徒たち相互がどのように名前を呼び合っているかは私には知るよしもありませんが、教師が生徒を本人が呼ばれたい名前で呼び、教師同士も呼ばれたい名前で呼び合っていること。それは生徒が対教師において自分自身が大切にされていると意識できるということだけでなく、 浦田校長も書いておられるように、「対面で自分の名前を呼びかけられるということは、同時に自分以外の子が名前を呼びかけられる場面にも遭遇することになる。自分の名前を呼んでくれてうれしいという気持ちに加え、他の子が名前で呼ばれていることへの安心感を同時に持つことになるのではないか。」(P.42右段-P.43左段)ということだと思います。名前の呼び方というある意味小さなことが、メンバー相互が互いを親しく受けとめて関係をつくっている場、空間であるという空気を作っているのではないかと思います。
 
 秋桜について書いたことと、私自身の大学授業について書いたことは、平行線とは言えないまでもまだ接点を見出し得ていないかもしれません。ただ、浦田論文で秋桜の実践について改めて学んだことが自分自身の教育実践の見直しに繋がったという点では、主観的には接点があると思っています。秋桜の卒業式に列席させていただきましたが、いつか学校を尋ねてスクーリングの場に立ち会わせていただけたらいいなと思っています。
 
 最後に。4月から週に数日数時間ずつ、地元の児童館に「介助ボランティア」(という名前だが実際にはいろんな子どもたちの遊び相手)として通っています。そこで私は、子どもによって4通りの呼び方で呼ばれています。
 ・さとうさん
 ・としあき
 ・せんせい
 ・おっちゃん
 私としては、上のどの呼び方でも、その子が呼びやすい呼び方で呼んでくれたらそれでいいと思っています。
 もう一つ。生徒から「直樹」「浦っちゃん」と呼ばれているという浦田直樹先生を、私は(少なくとも今は)「直樹」とも「浦っちゃん」とも呼ぶことはできません。それは浦田先生が生徒や同僚にそう呼ばれている空間に私は身を置いていないからで、当たり前のことだと思います。人の呼び方というのは、その人と取り結んでいる人間関係に規定されると思います。 
 

 

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