43 教育学文献学習ノート(35)児美川孝一郎『新自由主義教育の40年―「生き方コントロール」の未来形』(2024)の学びを深める

 (Kindle版で入手 2024.8.8刊行 2024.11.2-12.13通読 2024.12.15「読書ノート」作成 2024.12.17「教育学文献学習ノート」として続編作成)

 2日前の2024.12.15に本ブログへの投稿として以下の文章を発表しました。
42 読書ノート 児美川孝一郎『新自由主義の40年 「生き方コントロール」の未来形』(青土社)   https://gamlastan2021.blogspot.com/2024/12/4240.html

  上記リンクからお読みいただけるものなのでその内容の詳細を繰り返すことはしませんが、ごくごく簡単に言うと、9年前の2015年に自分で児美川氏との交流のきっかけをつくりながらそれを継続できなかったことへの反省を述べた上で、児美川孝一郎氏の新著について、児美川氏のアンソロジーの「編み方」が自分にとって大変興味深く魅力的であったということと、自分自身が「生きる力」論批判研究を続けてきた立場から、児美川氏の著書の副題にある「生き方コントロール」、3章にある「生き方教育」批判において、1996・2003・2008・2016中教審答申の「生きる力」論はどう位置付くのだろうかという問いかけ、たったこの二点を述べたにとどまりました。
 このように本書における児美川氏の研究内容の重要部分、核心部分にほとんど言及しないまま、自分の興味に従って書いた断片的なコメントであったにも関わらず(「そう思うならその時点で公表せずに、さらに練り上げてから公表すべきだった」と読者諸氏からご批判を受けそうですが^^;)、児美川氏からは私がこのブログ投稿について紹介しリンクを張ったfacebookの私のタイムラインへのリプライとして、きわめて迅速に以下のコメントをいただきました。

 これに対して私もすぐに以下のような返信コメントを書きました。


 上記の私の児美川氏に対する(言い訳を含んだ^^;)お礼コメントで書いたことを、この「文献学習ノート」で果たしたいと思います。
 自分の中では、ある本について読んだことの報告と軽めの(この言い方は読んだ本の著者に対して失礼ですが)コメントを出す場合に「読書ノート」というタイトルを付け、自分の教育学研究にとって深い関係を持つものとして深めたいと考えた場合に「教育学文献学習ノート」というタイトルを付けてきました。その意味では児美川氏の本書についてはじっくり学ばせていただいて最初から「教育学文献ノート」として公表すべきところを、フライングで「読書ノート」として出してしまった感を自分で拭えません。ここから仕切り直して書いていきたいと思います。
 Kindle版の本書からコピーさせていただいた目次は以下の通りです。

 「第1部 キャリア教育の現在」について言うと、同じく教育学の世界で仕事をしてきた者として恥ずかしいのですが、私にとっては新しく知ることばかりでした。「キャリア教育」という語についてはもちろん聞いたことはありましたが、私のひどく断片的なイメージは、自分自身の中学生時代(1960年代末期)には当然経験していない「職場訪問」について、総合的な学習に関する大学の授業での学生のレポートを読むと一方で行きたくもない職場に割り当てられて最悪だったみたいな感想が多い一方、その後進路を考える上で大変いい体験になったというレポートもあり、へえ、いろいろなんだなと思った……そんな程度のものでした。本書を読むことで、子どもから若者への成長過程で「キャリア」についてどう意識し、どう自己形成するかに関わって、2000年代以降に学校内外でどのような政策的対応が行なわれ、そのことにどのような社会経済的背景があり、どのような問題点があったのかについて、学ばせていただきました。
 また「第2部 大学教育の変容」に関しても、私自身1983年度から2019年度まで37年間にわたって大学に正規教員として在職し、研究・教育だけでなく管理運営の仕事にもそれなりに携わり、30年いた三重大学教育学部では確か就職委員会委員も何回か経験した記憶があるのですが、本書で述べられているような大学における学生のキャリア支援活動が大学のカリキュラムを侵蝕?していく過程について強く意識したことはありませんでした。自分自身が教免法に規定された教職カリキュラムの中の教育方法学・教育課程論という領域を主体として担当してきたからではないかと思います(ちなみに100名を前後する教育学部スタッフの中で教育課程を担当専門領域とする教員は私しかいなかったのですが、変動していく教育学部のカリキュラムをどうするかについて教育課程研究者としての意見を求められたことは記憶にありません)。大学教育をめぐる政策動向についてその時々に組合活動や個人の意見表明を通じて批判的に対応してきたつもりではありますが、大学のカリキュラムや学生教育を大きな社会動向の中でとらえるという意識は弱かったように思います。その意味で(いまはもう正規教員のポジションは離れましたが)本書第2部から改めて学ばせていただきました。
 以上の本書前半部分からは、前述したように自分個人として学ばせていただいたことは事実なのですが、自分自身の研究活動・教育活動の蓄積を踏まえて何ごとかをコメントできるだけの力量がありません。また、「第3部 教育労働の現在」についても、やはり、学ばせていただいたという以上のことを言えません。
 そこで以下では、主として「第4部 教育改革のゆくえ」、及び第1部の中で私個人の問題意識と接点があると考えた一部分について、2つの点で、これまでの自分の教育活動・研究活動の中で考えてきたことと関わらせながら本書から学んだことを述べてみたいと思います。



1.2010年代末以来の《怒濤の教育課程改革提案》への対応をめぐって
 本ブログにかつて以下の投稿をしました。
19 【アーカイブ04】 教育学文献学習ノート(14)2018-2021教育政策(関連)文書群 (2021.3.11-13執筆)
 https://gamlastan2021.blogspot.com/2022/08/142018-20212021311-13.html
 過去の発表文書(この場合は2021.3.13付のfacebookへの投稿)を「アーカイブ」としてブログに収録したものです。
 同じく私のブログ内の記事ですので詳しく紹介はしませんが、アーカイブ化にあたって以下のようなまえがきを付けました。

 上記の文章の中では、以下のような教育政策文書を取り上げています。

 取り上げたのは2017-18年の第9(小中)・10(高)期学習指導要領告示に前後する時期の、過去の《中教審答申⇒学習指導要領告示》という約10年サイクルの政策的な動きと明らかに違う展開を見せている政策群です。
 上記の政策群について、京都女子大学「教育課程論」(2020年度から継続中)・新潟大学「教育課程及び総合的な学習の時間の指導法A」(2022-24年度)でも取り上げてきました。今年度の京都女子大学授業では、その後の進展に応じて把握できた範囲の補足をし、以下の政策群を紹介しました。

 2021.3.13のfacebook投稿文書と比べて、最新の授業用資料では参考資料の通し番号の㉝・㉞・㉟・㊱・㊲・㊶を追加しています。これらの資料については全て京女大・新潟大の学内教育イントラネットにアップロードして関心ある受講生は読めるようにしていますが、授業では全15回中の1回分を使ってざっと解説するだけです。しかもその「解説」が問題で、私個人の力ではこれら膨大な政策群について、全文を読んではいるものの、教育課程研究者として包括的な分析視点を立てて解説するようなことはとてもとてもできません。やっているのは、これらの文書群全体を通してのkey wordと言える「Society5.0」を意識しながら、これらの諸文書が近未来の社会像をどう描いているかを概説するという一点に限られます。私が2010年代頃から研究に取り組んできた教育目標としての「生きる力」とも関係するのですが、未来に向けてどのような社会像を描くかということはこれからの社会の中でどのように子どもたちを育てていこうとするかということと密接に関わると思い、まずは社会像の部分に注目しました。しかし、それを踏まえて肝心の教育目標や教育課程の構想の仕方という「本丸」部分については、私個人の研究としては全く手がつけられていないというのが現状です。
 私はこのような研究状況・認識状況にとどまっていますので、本書からは多くのことを学ばせていただきました。

 まず「Society5.0」の出自について。
 私は今年度京都女子大「教育課程論」の授業通信第12号(2024.7.5)で次のように書きました。

ということで、政策文書における「Society5.0」の初出を「第5期科学技術基本計画」(2016.1.22)としたものの、その理論上の根拠・出典は、私にとっては不明のままでした。 この点については本書から新たな情報をいただくことができました。
 児美川氏は「第4部13章 侵食する教育産業、溶解する公教育 ──攻防の現段階とゆくえ 4 Society5.0の国家戦略化」の中でこの語の登場を紹介した上で、以下のようにコメントしています。

※本論の流れから外れますが、ここで本書原典からの引用ページの表記について述べます。私はKindle版書籍の扱いにまだ不慣れなのですが、例えば本書を自分のノートパソコンの画面にフルサイズ表示して順にページをめくる
ボタンをクリックしていくと、画面下段のページ数表記は2ページまたは3ページずつ飛んで表記されます。つまりフル画面1ページがペーパー版2~3ページ分となります(文字のポイントの設定を変えればまた変わってくると思います)。それでパソコンに表示された画面の中から引用した場合、画面下のページ表記に従って引用ページを書くとペーパー版原典と1~2ページずれてしまう可能性があります。そういう点でページ表記が不正確な場合があるとという断りを最初ここに書いていたのですが、copy&pasteによる引用を続けていくうちに、毎回必ずコピーの末尾に付される原典情報の中に引用ページの数字情報もあるということにまことにおそまきながら気づきました。ただそれに気づいたとほぼ同時に文章をコピーしようとすると「出版社が認めるコピー量の上限に近づいた」という警告サインが出るようになり、やがてこれ以上コピーできなくなりました。著作権との関係でこれは当然の措置なのだろうと思います。これまでの「教育学文献学習ノート」で検討対象としてきたのはほとんどペーパー版であり、引用の際には全て自分で該当部分を入力してきました。ですから本ノートでもこの後はそうすることにします。それにともない、上述のように書いたとしてもペーパー原典と数字がずれる怖れがある引用箇所のページ数については、却って読者を混乱させて参考にならないと考え、付記しないことにしました。


 そしてこの文章に付けた註でこう書いています。

 ですから概念検討としては「第四次産業革命」を見ていくことが必要になりますが、ひとまず措きます。
 さて、児美川氏が上記引用部分にすぐ続けて書かれていることは、(政治経済情勢との関連で教育政策を分析している研究者の人たちにとってはもしかしたら常識なのかもしれませんが)私個人にとっては全く新しい情報でした。

 中西宏明氏という名前が出てきて、この箇所には註が付されてこう書かれています。

 私としては『日刊工業新聞』までたどって中西氏の「Society5.0」論そのものを読むほどの気力は今のところありませんが、必要とあらばすべき作業ではあると思っています。まずこのことが一点、学びとなりました。

 次に私がこれまで持っていた素朴な疑問として、第9(10)期学習指導要領が告示されて順次全面実施に移されていくまさにその時期になぜ中教審は「『令和の日本型学校教育』の構築を目指して~全ての子供たちの可能性を引き出す,個別最適な学びと,協働的な学びの実現~」(2021.1.26)を出したのかということ、同答申の中でも現行学習指導要領のベースとなった2016中教審答申については言及されその実施推進が促されているものの、両答申は本当に整合しているのかどうか、整合しているならなぜ全面実施途中という時期に新たな答申を出すのかということ、さらに経産省と文科省は2018(-19)年のほぼ同時期に近未来を見通した教育提言を出したけれども両者の関係はどうなのか、ということがありました。本書を読むことでこの点について私の認識に新たな展望が生まれました。 私の上記の疑問事項と順序を変えて、まず経産省の改革提言と文科省の改革提言、そして同一政府の二省庁間の関係についての児美川氏の分析を見ていきます。
 児美川氏は「13章 侵食する教育産業、溶解する公教育―攻防の現段階とゆくえ 8文科省の対応」の中で以下のように述べます。

 ここでの児美川氏の判断は《文科省の経産省への追随》なのですが、読み進めていくとことはそう単純ではないという児美川氏の見方がわかってきます。
 「13章 9 公教育と教育産業の関係の最前線
」の中で児美川氏はさらにこう書いています。

 さらに「13章 11 攻防のゆくえ」で児美川氏はこう述べています。

 以上のような論述を読むことで、私も経産省vs文科省の政策的対立や妥協などややこしい関係についてやや整理することができ、また両省の関係だけで見てはいけないこと、内閣府・自民党・財界などより大きな構図の中で政策提案・対立・妥協・決定等の流れを見るべきことがわかりました。

 次に、私が一点目の疑問としてあげていた2016.12.21中教審答申「幼稚園、小学校、中学校、高等学校及び特別支援学校の学習指導要領等の改善及び必要な方策等について」と2021.1.26中教審答申「『令和の日本型学校教育』の構築を目指して~全ての子供たちの可能性を引き出す、個別最適な学び、協働的な学びの実現~」の関係、後者は前者を順接的に引き継いでいるのか、両者の間に矛盾はないのかについて。
 児美川氏は「13章 9 公教育と教育産業の関係の最前線」において、コロナ禍拡大に前後する時期の政府「経済財政運営と改革の基本方針(骨太の方針)2020」、経団連「Society5.0に向けて求められる初等中等教育改革・第一次提言」(2020.7)、同「第二次提言」(2020.11)、2020年度補正予算で増強された「GIGAスクール構想」、教育再生実行会議第Ⅱ次提言「ポストコロナ期における新たな学びの在り方について」(2021.6)など、経産省ペースで怒濤のように打ち出される教育政策提言が、コロナ期の学校機能一時停止の機に乗じて教育産業の学校教育参入を一機に進めようとする「惨事便乗型資本主義」(ナオミ・クライン)であったことを指摘します。そして、続く「13章 10 窮地に立った文科省の方針転換」で次のように述べます。

 一つの節全体を引用してしまいましたが、ここでの児美川氏の分析を読むことで2021中教審答申の時点までの文科省の教育課程政策について「見取り図」を得ることができたと思います。次期学習指導要領に向けての改訂動向について私はまだほとんど情報を持っていないのですが、おそらく数年のうちに次の中教審答申が出るでしょう。ただ、中教審答申⇒学習指導要領改訂という1990年代や2000年代までの構図で事が動いて行かないことはほぼ確実だと思います。
 私は1970年代に研究活動をスタートさせた教育課程研究者として、1977-78年告示の第5期(高校6)期学習指導要領、1989年告示の第6(7)期学習指導要領、1998年告示の第7(8)期学習指導要領、2008年告示の第8(9)期学習指導要領、2017-18年告示の第9(10)期学習指導要領を同時代的に観察し、検討し、批判的に分析してきました。約10年おきに教育課程改訂のガイドラインを示す(教課審/)中教審答申が出され、それを受けて学習指導要領が告示される。答申⇒要領のこのサイクルを把握していれば教育課程政策の動向は掴める、という認識でした。このサイクルが崩れ始めたきっかけは2006年の教育基本法改悪の頃からでしょうか。しかしともあれ第9(10)期学習指導要領は第8(9)のほぼ10年後に答申⇒要領というサイクルで出されました。ところがその前後から様相が上で見てきたように変わってきたわけです。
 私は1975年に教育科学研究会に入会し、来年で50年になりますが、2019年の全国大会大会から「教育課程と評価」分科会に参加し、湧き起こりつつある教育課程改革の動向について共同で分析検討することが必要ではないかと何度か提案してきました。もちろんそうした内容は毎年分科会基調報告には含まれて提案されているのですが、分科会で議論されることの中心は様々な攻撃や困難の中で自主的民主的な教育課程づくりをどうすすめていくかということで(もちろんそのことは大変重要な課題なのですが)、政策そのものの動向(と、それとどう闘うか)については、分科会の中では深められてこなかったと認識しています。私は全教教研とか民主教育研究所の活動とつながりをもっていないので、もしもそういう場所で教育課程政策動向分析が継続的に行なわれているのであれば、私があれこれいうこともないのですが、そうした動向を自分では察知できないので、肚を割って話せる研究上の友人にそういう考えを伝えたりしています。しかしまだ具体的な動きを起こせているわけではありません。
 一方で、次に書くことはここまで読んで下さった読者を怒らせることになるかもしれませんが、私は現在続けている京都女子大学「教育課程論」「ジェンダーと教育」の授業担当が数年後に終わりになって大学教員職から完全にリタイアしたら、これまで長年つつけてきた教育課程の(総論的)研究からもリタイアして関連文献を大幅に「断捨離」しようとも考えています。その後は、自分でライフワークと考えているsexuality教育(性についての子どもの学び)の研究と、学生院生の頃に取り組んだ後は中途半端になっている認識論の学習に仕事を限定しようと思っています。そういう店じまいを考えているおまえが教育課程政策研究における研究者の共同など唱えても誰も振り向かないぞ、と言われそうですが、残る人生が決して長くないであろう私という個人ができないことであっても、その必要性を提案することは許されると思います。
 こういう思いを日頃持っているので、児美川氏の本書を読んで《視野を開いてもらった》という思いを強くしました。何がどこまでできるかわからないのですが、教育課程政策の動向にはいましばらく注目していきたいと思います。



2.児美川氏の「生き方コントロール」「生き方教育」批判と私の「生きる力」論批判の接点は?

 この論点については、2日前の私の「読書ノート」の後半でも取り上げているのですが、その時点では本書副題にある「生き方コントロール」、そして本文中にある「生き方教育」についての児美川氏の主張・批判点等を丁寧に学ぶ作業が不十分なままに《「生き方コントロール」「生き方教育」に関連して、私が研究してきた「生きる力」についてはどう考えますか?》というような《外から》の疑問をぶつけることに終わっています。にも拘わらず児美川氏は誠実にコメントを返して下さいましたが、そのことに感謝しつつ、ここでは仕切り直して自分なりに児美川氏が本書で取り上げられた「生き方コントロール」「生き方教育」と私が関心を持ち続けてきた「生きる力」について、改めて考察してみたいと思います。
 まず、児美川氏の関連する叙述を追うことから始めます。
●「第1部 キャリア教育の現在」の序文の[1]において、児美川氏は以下のようなイントロダクションを書いています。

●さらに同じセクションの少し後で、児美川氏は「生き方デザイン」という語も使用します。

●同序文の[2]で児美川氏は、第1部全体の意図を改めて説明する記述の中で「生き方教育」に言及しています。(余談ですが児美川氏は本書の「プロローグ」・各章の序文・「エピロー語」・「あとがき」で実に丁寧は解題・読者のためのガイドラインを提示しておられ、そのことが私にとっては本書の中の自分にとって門外漢である領域についても興味を持って読むことをずいぶん助けてくれました。)

●同序文の[3]で児美川氏は、第1部3章について以下のように解説しています。


●「第1部 キャリア教育の現在 3章 学校の「道徳化」とは何か―新学習指導要領に透けて見える、「生き方コントロール」の未来形」では、その副題の中に本書全体の副題にもある「生き方コントロール」が出てきます。その序文部分には、以下のように書かれています。

●ここからは一部が2日前に投稿した「読書ノート」の内容と重なっていますが、御容赦下さい。3章の「1 『道徳化』する学校教育の全体像」において、児美川氏は「学校教育の『道徳化』は、主要には二つのアプローチに沿って推進される。」とし、第一のアプローチとして「特定の規範や価値観を子どもたちの内面に植えつける『規範の内面化』の徹底」、第二のアプローチとして「規範や価値観を直接的に教え込むのではなく、学校での学習を通じて、子どもたちに将来の生き方を探究させつつ、それを特定の方向に水路づけたり、許容範囲内におさめることを求める」ことを挙げて、この第二のアプローチについて、「言ってしまえば、『広義のキャリア教育』であり、学校の教育課程の『生き方教育』化でもある。」としています。
●さらに同じセクションで、児美川氏は「生き方教育」・生き方コントロールについて次のように述べています。


●上記にすぐ続く箇所で、児美川氏は道徳化する学校教育における「規範の内面化」アプローチと「生き方教育」アプローチの研究について、次のように述べています。


●児美川氏は同章「4 『生き方教育』アプローチの起点」の冒頭で「『生き方教育アプローチ』の出発点」について、こう述べています。

●同章「7 学習指導要領における「生き方教育」アプローチ」で児美川氏は以下のように述べます。

 7節については、結局全文を紹介する形になってしまいました。学術研究における専攻研究紹介のマナーからすると問題かもしれませんが、私は本節における児美川氏の主張から学び共鳴するところが大きかったため、敢えて節の全体を紹介させていただきました。
●同章末尾の「8 「生き方コントロール」の未来形」についても、短いので全文を紹介します。

●「あとがき」において、「生き方コントロール」という本書の副題について、児美川氏は以下のように言及しています。


さて、2日前の「読書ノート」の段階では我ながらリサーチ不足であったと反省した本書における「生き方コントロール」「生き方教育」について、一応本書の全体をチェックし直して関係箇所の叙述をピックアップしてみました。
 本書における「生き方コントロール」・「生き方教育」や、さらに「生き方デザイン」などの関連用語を含めて、要するに教育における子ども・若者の「生き方」と、それへの教育政策や教育活動の関わりについて、長く「キャリア教育」関連の研究や発言を続けてきておられる児美川氏は、本書上梓以前にも(本書に収録された原著論文以外の発表の機会にも)、様々な形で言及されているのであろうと予想はするのですが、私自身は本書に先立つ児美川氏自身の先行研究の成果を読むまではできていないため、申しわけないことながら本書の叙述を読み学んだことの範囲でしか考察することができません。
 そういう限定の中で考えたことですが、本書において児美川氏が使用している(「生き方コントロール」については、その批判的ニュアンスから、まあそうであろうとわかりますが)「生き方教育」という語は、政策側の文書に典拠があるのではないと判断しました。
(私自身も「生きる力」論の批判研究の中で出会ったことである用語であり、児美川氏も3章1で言及されている高校の「生き方在り方教育」というものがあります。教育課程研究者を名乗りながらお恥ずかしいのですが、私は高等学校学習指導要領の変遷には詳しくなく、「生き方在り方教育」が第何期学習指導要領から高校教育課程に登場したのか今すぐに突きとめることができないのですが、少なくとも記憶の範囲では使われた名称は「生き方在り方」の教育であり、「生き方教育」ではありませんでした。)
 というわけで私の認識は「生き方コントロール」・「生き方教育」の語はいずれも、児美川氏が日本の教育政策や教育の実態を批判的に考察する際に自主的に使用されている用語・概念であろうということです。上記引用からもわかるように、児美川氏は「子どもたちの生き方の探究や選択」が自由に、自主的に、闊達に行なわれることを希求しつつ、そこにコントロールを忍び込ませようとする政治権力・教育行政や、目の前の子どもたちと接しながらもそうした明に暗に子どもたちに迫る「生き方コントロール」に対して自覚的に対峙しきれない教育関係者への強い批判を表明しておられると(私の勝手な解釈も入ってしまっているかもしれませんが)とらえました。
 児美川氏は学校教育全体の「道徳化」が進行しているという把握のもと、その進行の方略として特定規範の露骨な内面化強要という第一のアプローチと並んで、子どもたち自身の《生き方探究》の模索を許容するそぶりを見せながらその中でその探究を許容範囲内に収めようとする「生き方教育」があると捉えます。それは教育課程内の特定の領域内で展開されるのでなく様々な機会に(陰に陽に)子どもたちを巻き込んでいくものとして展開されるのだと私は理解しました。
 また「生き方教育」アプローチの政策的起点としては、(過去にいくつかの伏線も指摘しうるが)直接的には学校教育法改正(2007)における「学力の三要素」の法定である(3 章4)とされています。学校教育法の改悪直前の2006年にはもちろんそれを規定する教育基本法改悪があったわけですし、戦後教育史については私は素人以上の見解を持っていませんが、2006-2007年の教基法・学教法改悪を節目としてその前と後の状況変化をきちんと見定めることは、先述した10年サイクルの《中教審答申⇒学習指導要領告示》という枠で長くものを考えてきた私としては、認識の枠組を再検討する必要があると近年考えています。
 ただそこにおいて、上記のことに関係はすると思われるものの時期区分的にはまた別の視座として《教育政策における教育目標としての「「生きる力」の提起》(1996⇒2003⇒2008⇒2016の各中教審答申の流れ)を加えていくことが必要だと私は考えています。

 児美川氏にもまことに遅ればせながら謹呈(PDFファイルで)させていただいたのですが、私は今から5年前の2019年1月30日、30年勤務した三重大学を退職する直前に初めての単著である『「生きる力」批判』(三重大学出版会)を上梓しました。この場は自著について詳しく語る場ではないのですが、最低限の紹介をさせて下さい。自著の構成は以下の通りです。



 このように《多くを語る》目次を作成しましたので、自著全体についてはこれ以上説明いたしません。
 ただ、私が1996中教審答申に始まる教育政策側の「生きる力」論提起についてなぜにこだわったのかについて、少しだけ自著から引用します。
はじめに―「生きる力」と学校教育の傲り―」より。

 もう一箇所、「おわりに―教育目標の明示設定をめぐって―」より。

 自分の「生きる力」論批判をもっとも強く激しく打ち出した部分だけを抜粋しました。
 なお、「生きる力」という名辞を中教審が教育目標に据えたこと自体へのより具体的な批判は自著で、また「生きる力」の下位カテゴリーについての検討(ここはかなり不十分なままに終わっていますが)についてはⅢ-5で叙述しています。

 いま児美川氏の著書を通読し、政策側の2000年代中盤以降に「生き方教育」の戦略が本格化して子どもたちの学校生活の《内外》に浸透を強めているという指摘から学んだ上で自著を振り返ると、私が教育政策側の教育目標理念として観念のレベルで批判した「生きる力」は、子どもたちの具体的学校生活のレベルでどのように実質化されたのかということについてのリサーチ、考察が行なえていませんでした。そのことには執筆時点でも気づいていたのですが、本書の作成・上梓の時期が30年勤務した三重大学教育学部を離れる直前であり、正規大学教員としての職務を終了する時期もそう遠くないだろうと予想する中で、「生きる力」の《実質化》を巡って大々的な実地調査を行なうような時間的金銭的余裕はないためそのことは断念せざるを得ず、変わって学校現場あるいはそれに近い人たちの「生きる力」を書名に関した著作をリサーチすることを次善の策とすることで終わらざるを得ませんでした。ただ自分の現実的研究条件としてはそうでも、例えば第7(8)期(1998)以降の学習指導要領の文章の中に直接「生きる力」という名辞が登場することがあるのかどうかについては、時間さえかければリサーチすることができます。そういう作業を積み重ねていけば、第7(8)期学習指導要領が実質的効力を発揮する2000年を前後する時期に、学校現場には言ってみれば「『生きる力』教育」「『生きる力』の教育」とでも呼べるような現象が現実化していたのかどうか、もしそれに類する事実があるとして、それは児美川氏が「キャリア教育」に関する批判的研究のルートからあぶり出された「生き方コントロール」や「生き方教育」の流れと交差したりつながったりしているのか、ということも検討できそうに思えてきました。
 2日前の「読書ノート」では、児美川氏に対して「佐藤が研究してきた『生きる力』についてはどう考えますか?」みたいな不躾な問いかけをしてしまいましたが、そういうことではなくて、教育課程に関わる政策動向を、政策文書の読みのフェーズや学校教育の具体的指導方針のフェーズや子どもたちの学校生活の実態のフェーズや、いろんな次元を組み合わせながら検討していく必要があるだろう、そういう作業課題はまだまだあるだろう、というように考えなおしています。
 最後に、今後ももしも機会があれば児美川氏と直接意見交換をさせていただくことを含めて、私としては自分の「生きる力」へのこだわりの地平から、さらに踏み出して「生き方コントロール」「生き方教育」についても引き続き考えていきたいと思っています。そこで、私の「生きる力」へのこだわりの起点となった1996中教審答申における「生きる力」の概念規定の文章を引用しておきます。

 自著ではⅡ.「生きる力」という教育目標ラベルへの根本的疑問でこの規定を批判的に検討していますが、まだまだ自分の捉え方に狭さ浅さがあると考えています。社会観として、人間観として、子ども観として、指導観として、上記の「生きる力」規定をどう捉えたらいいのか、まだまだ検討していかなければならないと考えています。

 いつも自分の興味・関心に話を引き戻してしまう、文字通りの「我田引水」が私の悪い癖ではありますが、研究生活晩年期の研究スタイルとしては、開き直ってこれでいきたいとも考えています。子どもたちが生きることと教師や行政、教育政策との関係について改めて考える機会を与えていただいた児美川孝一郎氏に心より感謝しています。

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