4 教育学文献学習ノート(22)-2神代健彦編『民主主義の育てかた 現代の理論としての戦後教育学』(2021) 第7章 教育的価値論(神代健彦)

 (2021.7.10刊行 2021.8.20-27通読 2021.9.5-10ノ-ト作成 2022.3.14誤字訂正)

 引き続き、順不同で失礼します。自分にとって関心が高い順に、というか、自分の研究領域・研究課題との関連が強いと判断させていただいた論文から取り上げていっています。最終的には全論文に対して何らかのコメントを述べたいと思っています。


神代健彦 第7章 教育的価値論-よい教育ってどんな教育?
 はじめに
 1 教育的価値とはなにか
   1、経済でも、政治でもなく
   2、「なにを・いかに・教えるか」のよさ
 2 理論的な批判に応える-歴史・なかま・批評-
   1、歴史的な概念としての教育的価値
   2、教育的価値の自覚の条件
 3 わたしたちの・現在の・教育的価値
   1、ケアという教育的価値
   2、自治という教育的価値

   3、能力の承認と自己決定の相克-未決の教育的価値

はじめに                                                                        

 神代氏はまず『岩波哲学・思想事典』(1998)に拠って「価値」を【広い意味では<善いもの>ないし<善い>といわれる性質】(P.173)とする定義を紹介します。そしてこれにもとづいて「教育的価値」を【教育という営みにおいて、そのなかでも(以下2文字に傍点-佐藤註・Bloggerの書式では語句に付した傍点は表記されないため、このような注釈を付けています)よい(優れた)と呼ばれうる教育の実践、はたまたそれを支える制度が共通に持つ性質やその度合い】(P.173-174)と規定します。但し、「定義」とか「規定」という用語は私が勝手に使ったものであり、神代氏はそれぞれの概念の説明において【~だと言われます】、【というくらいの意味になるでしょう】という表現をしており、厳密に定義・規定するというよりも、取り敢えず学界で承認を得られるような説明の仕方に従って議論を始めましょう、というような柔らかいニュアンスを残しています。

 ⇒T.Satou:私のように子どもの価値観とか価値判断について関心を持ちながらも、「価値」「価値観」について深く原理的に考察をしたことのない者にとってはこの最初の定義部分から、素朴な疑問が浮かびます。
 それはつまり、価値というものが価値判断や価値観形成の基準となるとすれば、<よい>という価値があることはわかるけれども、それは<よい-悪い>・<正しい-間違っている>・<優れている-劣っている>・<美しい-醜い>等々の、二項で対をなす価値群の中の一つではないのか? ということです。教育における価値を取り出すときに、たとえば「醜い」という価値判断をメインに据えることの不適切さと比較すれば、教育の目的に照らして「よいもの」という価値を追究しようとすること自体の意義はわかるつもりですが、しかし人間の営みに関わる価値群というのはもっともっと多様ではないのか?
 取り敢えずこの問いを保留しながら、神代氏の行論を追っていきます。



 教育の「(以下2文字に傍点)よさ」を大事にする神代氏の課題認識を、先の「教育的価値」の規定に続く部分から追っていきます。

【その性質や度合いは、わたしたちが教育一般からよい教育を区別するときの指標であり、また同時に、教育一般がそれを目指して前進すべきところの理念(あるべき姿)を構成することにもなります。
 また、そんな教育の(以下2文字に傍点)よさは、教育を他の事象から区別する指標でもあります。教育という営みは確かに、権威や権力、管理や秩序と呼ばれるものを含み、費用や効果などといった尺度で語られることもあります。その意味では教育も、政治や経済といった他の人間事象と無縁ではありません。しかし他方で、少なくともわたしたちの歴史における教育の探求は、教育における(以下2文字に傍点)よさという観点から、権威や権力、管理や秩序、費用や効果といった事柄を-まったく排除するというわけではないですが、少なくとも-厳しく吟味するという営為を含んでいた/いることも事実です。教育と政治や経済は、現実においてしばしば似ています。しかし教育は、その最良の形(理念)においては、政治や経済とは違った仕方で人間を扱うものとして、私たちの歴史のなかに息づいているわけです。】(P.174)

 ⇒T.Satou:なるほど。教育という人間の社会的活動、社会事象を、そこに様々な事実が含まれ、また対立も含んだ様々な価値判断・価値観が関係している営みと捉える、という中立的な見方をとらず、(以下2文字に傍点)よさ」を追求することこそが「教育を他の事象から区別する指標」であると。「教育の探求」は、(以下2文字に傍点)よさという観点から、権威や権力、管理や秩序、費用や効果といった事柄を(中略)厳しく吟味するという営為」を含むものであると。つまり教育という営みは最初から《よきものを追求する、実現しようとする》という価値的選択を前提として成立しているという立場と理解しました。但し、神代氏の表現はここでは(以下2文字に傍点)よさという観点から」ということにとどまっているので、私は読み込みすぎかもしれません。

 続いて神代氏は、先に提出した「(以下2文字に傍点)よさ」に、次のような留保を付けます。

【もちろん、その(以下2文字に傍点)よさは必ずしも一元的ではありません。ここでいう(以下2文字に傍点)よさとは、真理であること(正しさ)、道徳的よさ、美しさ、あるいは強さ、慈悲深さ、公正さ、しなやかさ、誠実さ…その他まだ名前の付けられていないさまざまな(以下2文字に傍点)よさを含み込んだ包括的で未分化な概念です。そして教育的価値(よさ)は、教師の自由な教育実践が提起するさまざまな(以下2文字に傍点)よさの総体につけられた、仮の名前(仮説的概念)です。だからそれは、既に定まったものではなく、教師の実践的探求によってその都度豊かになっていく、歴史的に開かれた概念であるといえます。】(P.174)

 ⇒T.Satou:ここで神代氏の(以下2文字に傍点)よさ」が私がこれまで持っている「価値(体系)」に関する俗流の理解では捉えることができないものであることがわかりました。つまり、「教育的価値」というのは、私が想像したような<よい-悪い>・<正しい-間違っている>・<優れている-劣っている>・<美しい-醜い>等々の二項対立的価値項目が雑然と混在しているような価値観・価値体系ではなくて、「真理であること(正しさ)、道徳的よさ、美しさ、あるいは強さ、慈悲深さ、公正さ、しなやかさ、誠実さ」等々の様々な(以下2文字に傍点)よさ」「総体」を指す「仮説的概念」だというのです。教育という営みは、まだまだ未解明の項目をも輩出する可能性のある(以下2文字に傍点)よさ」を追求していく活動ということになります。

 続いて、本章の課題が提示されます。

【この章では、そんなよい教育をめぐるわたしたちの探求の指標となる「(以下2文字に傍点)よさ」、すなわち教育的価値という考え方について改めて明らかにしていきたいと思います。なぜか。それはつまり、戦後教育学という学問的潮流において中心的位置を占めていたこの語が、現在、少なくとも学問の用語としては、ほとんど死語となっているという現状があるからです。単に古い言葉が歴史に淘汰されたというだけならよいのでしょうが、ことはそう単純ではありません。実際には、教育的価値の死語化は、ちょうどその分だけ、教育におけるよさ(価値)を吟味するという部門そのものの喪失を意味しています。
 これはとても深刻な事態です。現実をどの方向に変えていくべきかという理想論、理念、「そもそも」論、「べき」論、つまりは教育的価値論は、決して不要な旧教育学の遺物ではなく、むしろ新自由主義やグローバル化が子どもと教師と保護者をますます生きづらくしていく現代だからこそ、なお一層必要なものではないでしょうか? ここでシニシズムに陥るのは避けるべきです。理想論を「現実的でない、理想論だ」と論難するのは無意味です(その通り、理想論ですので)。現実がまさに過酷な現実であるからこそ、なお一層わたしたちはその現実のただなかで、理想や理念を雄弁に語るべきだと思います。そんな教育がよい教育なのか-、教育的価値論の復権は、教育という営みそのものを成り立たせるこの価値の問いを、教育と教育学の世界の中心に取り戻すために、避けて通れない課題なのです。】(P.174-175)

 ⇒T.Satou:神代氏と同じく教育学研究に取り組んでいながら、専門分野や所属学会が異なるためか、私はまだ「教育的価値の死語化」という神代氏の指摘とそれに対する強い危機意識を共有できていません。しかし、「教育的価値の死語化」とはつまり、「現実をどの方向に変えていくべきかという理想論、理念、『そもそも』論、『べき』論」を論じあうことがもはや不要だと捉えられていることだと理解し直すと、なるほどもしそうだとしたら大変なことだなあという気もしてきます。
 私自身が教育学研究に取り組み始めた1970年代以降の状況をざっと考えてみて、子どもたちに豊かな発達や創造的な教育実践の展開を困難にする状況が次々と到来していることは当時においても事実でした。そして彼我の力関係の中での主体的力量の絶対的な小ささはあるものの、こうした状況に「屈服」することなく、「批判する」「抵抗を示す」民間側の行動と言説は存在し続けたと思います。ですがその「主体の力量の小ささ」のためか、「本来子どもたちはこのように伸びていってほしい、伸ばしたい」「このような教育実践をこそ展開したい」とビジョンを語る動きは、必ずしも活発でないかもしれません。
 いつからそうなったのか? 1970年代前半~半ばには、日教組とそこに協力する研究者群によって、教育制度改革試案、教育課程改革試案が提起されました。今からみれば検討すべき問題点も多く含んでいたでしょうが、counter planを出すという民間側の勢いはありました。その頃と40数年後の現在を比べての
「『そもそも』論、『べき』論」 の衰退なのか? それとも民主主義社会と民主主義教育の実現に向けての可能性、未発の契機が現代よりもはるかに確実に存在していた(と見るのか、それは幻想だと見るのか、意見は分かれるかもしれませんが)戦後初期の日本社会まで遡って、現在の「『そもそも』論、『べき』論」 の衰退を捉えるのか?
 まあ、神代論文の核心部分に入る前にここで右往左往していてもしかたがないので、次に進みましょう。



 「はじめに」の最後は、本章の構成についての紹介です。

【この章では、教育的価値の語あるいは教育的価値論という一連の議論を現代の教育と教育学の世界で復権させるため、まずその意味を明らかにしておきたいと思います(第1節)。そこで重要なのは、教育的価値という語がわたしたちに呼びかけている声に気付くことです。教育的価値は、わたしたちに、<人間形成の技の探求という、人類の共同的・歴史的な道行きへの参加>を呼びかけています。そしてその探求への参加とは、わたしたち自身が「よい教育とはなにか」を問い始めるということに他なりません(第2節)。だからこの章自体もまた、現代におけるわたしたちの教育的価値についての仮説を提起することで、その<問い>に参加してみたいと思います(第3章)。そんな仕方で読者にもこの<問い>への参加を呼びかけるというのが、この章のねらいです。】(P.175)

 ⇒T.Satou:「教育的価値」に敢えて「わたしたちに呼びかけている声」を持つという擬人的なポジションを与えての本章の行論の予告が、本文中ではどのような効果を発揮していくのでしょうか。


1 教育的価値とはなにか
 1、経済でも、政治でもなく


【教育的価値とは、他の文化的・経済的諸価値に還元されない、教育固有の価値のことです。このことを定式化したのは、戦後日本の教育学を牽引したリーダーの一人、勝田守一でした。】(P.176)

 神代氏はこう述べて、【勝田の教育的価値の説明(勝田1973a)を、言葉を補いつつ整理しながら解説】(P.176)する作業に入ります。政治や経済との対比で述べている部分を(そこが重要だとは思うのですが)敢えてできるだけカットして、神代氏が勝田論から整理した教育的価値の把握を紹介してみます。

【教育と政治は、人間の集団的な生き方をある種の理想的な姿に向けて統制していく営みであるという点で、限りなく重なりうるものです。】(P.176-177)

【政治は、次世代への、より確実で効率的な既存秩序への包摂としての教育を求めます。しかし教育は、単純にそれに従うという形で展開してはきませんでした。必ずしも労働市場で高値がつくことに直結しない、既存秩序への効率的な包摂ではない-だから経済や政治の論理から言えば無駄な-仕方で、現に教育は営まれているというのは、わたしたちのごくごく常識的な感覚でしょう。】(P.177)

【この端的な事実-親や教師は、経済や政治のことだけを考えて教育をしていないという平明な事実-に教育に固有の価値というものの、少なくともその存在が、示されていると言えます。】(P.177)

 ⇒T.Satou:まずはそちら(=政治や経済)の側から考えてみる。「過剰教育勢力」を拙著『「生きる力」論批判』で論難した私でも、日頃教育学研究に取り組んでいて、やっぱり「教育、このよきもの」という発想に無意識に立っています。教育は人間を、子どもを育てる人類の一大事業である。そこになぜもっと十分なお金や人員を投入して、余裕があり、多様であり、豊かな営みとして展開することができないのか? と、いつも憤っています。一方で歴史に関する常識的知識として、近代に到るまで庶民の子どもに対する独自の社会的活動としての「教育」はほぼ存在せず、産業革命が新しい質と量の「人材」を要求するに到ってようやく学校制度が成立すること、従って歴史的に規定された学校の性格は、少ない投資で多大の効果を得ることであること、こういう政治と経済の論理に学校教育は成立時から規定されていることは承知しているのです。それでも現代日本において基本的人権が憲法上は保障され、民主主義がかろうじて機能している中で、国民としての要求としては「教育を豊かに!それをあたりまえのことに!」という価値観をメインに据えて考えています。
 勝田論に基づく神代解説は、そこを思考実験としてはいったんリセットし、政治と教育が
「人間の集団的な生き方」「ある種の理想的な姿に向けて統制していく営み」であるという共通性を持つことをまず押さえた上で、つまり教育という社会的作用をまずは「統制」と把握した上で、教育による統制は政治による統制(「既存秩序」への「効率的」な「包摂」)とは違い、経済・政治から見て「無駄な」仕方で営まれていることをまず指摘します。
 そして、それに続く行論が極めて重要だと思うのですが、しかしそういうやり方で
「現に教育は営まれている」のであり、「親や教師は、経済や政治のことだけを考えて教育をしていない」のです。政治や経済の側からは「無駄」であり、できれば変更したり排除したりしたい営みであっても、教育は子どもと直接に関わる親や教師の存在、彼らの価値意識とそれに基づく具体的行動を媒介しないことには成立しないのです。ここに我々親や教師や国民が教育を語る際の本質的な《強み》があるんじゃないでしょうか。


 1-2、「なにを・いかに・教えるか」のよさ

【ではその教育的価値なるものを、経済でも政治でもなくという否定の形で、かろうじてその存在を示すだけではなく、もっと積極的にそれ自体として検討してみましょう。仮説的であることを断りつつ、思い切って述べれば、次のようになります。

  教育的価値とは、教育の営みにおける、広義の文化財やその組織の仕方としての制度・技術が持っている、人間の成長・発達を媒介する、その意味で望ましい性質、またその度合いである。】(P.178)

 ここで神代氏は「発達」の概念を心理学の用語にもとづくがそれに還元されない以下のような内容をもつものと規定しています。

【それは、教える-学ぶという関係性のうちで見出される人間の変容、そのなかでも、なにかしらよさを伴った変容を指す、教育の世界の独自の概念です(中略)。その変容は、単なる量的な増大(例えば身長や体重の増大)ではなく、その前後で人間のあり方が質的に異なるような、変容のプロセスにおける「節」を含意します。】(P.178)

 T.Satou:神代氏は上記の定義にあたって、心理学の「発達」概念との相違についても【とりあえずその是非は措くとして】(P.178)と述べるなど、慎重に、仮説的に提案しているのですが、それに続く以下のコメントは、1-1における教育的価値についての語り出しからつながる、別の意味での議論の正当性を想起させるもので、私としては大いに納得がいきます。

【このように定義として正確に言おうとすれば難解ですが、さしあたって、わたしたちが日常でしばしば目の当たりにする、子どもがなにかしらできるようになる/わかるようになる/その他、なにかしら質的に異なるかたちで(以下2文字に傍点)よくなる(卓越)という事実を、まずは想起すればよいと思います。】(P.178)

 ⇒T.Satou:ここで「這えば立て、立てば歩めの親心」を持ち出すのが適切かどうかわかりませんが、幼い子どもが世界に向かって自分の可能性を広げていく行動というのは、親、大人から見れば掛け値なしにうれしく、ほほえましく、励ましてやりたいもの。もちろん現実にはそうでない親子関係や家庭の状況もあるとはわかりつつ、「この子が歩けるようになったから、このままどんどん伸びたら、将来陸上選手として活躍できるはず」とかいうような損得勘定ではなくて、目の前の子どもの営み自体を「愛でてあげる」という大人の構えが、大人から見た素朴な「発達」の認識だということだ、と私は理解しました。目の前に展開する素朴な事実に立ち戻るということは、もちろん教育を考える上で万能ではないけれども、決して忘れてはいけない原点だと思います。
 ところで私は我田引水的に
「発達」の把握を大人の「愛でる」行為と解釈しましたが、神代氏はあくまで教育的価値論の探求の筋道から逸れずに(以下2文字に傍点)よくなる(卓越)」ことの捉え、とし、しかも「よくなった」という主観としてではなく(以下2文字に傍点)よくなる(卓越)という事実」として押さえています。しかし、「事実」とはしたものの、以下のように慎重に留保を付けています。

【もちろんその(以下2文字に傍点)よさは多元的で、それ自体定義されることを拒むような、しばしば論争的なものでもあります。また発達は、教育に先立って定義されるというよりは、教育することによってむしろそれ自体を現すという側面があります。その意味で発達は-少なくとも教育における発達は-、教育の実践的探求の(以下2文字に傍点)前にであると(以下3文字に傍点)同時に、その(以下9文字に傍点)プロセスと相即して理解されていくような、開かれた概念です。教師は、教育実践の前に、ではなく/あるいはそれと同時に、実践の(以下3文字に傍点)なかで、子どもの発達をつかみます(「子ども理解」)。難解ではありますが、しかしともあれ、子どもが時間的経過のなかで、他者の働きかけを介して、しばしば(以下2文字に傍点)よくなるという事実自体は-その内実は曖昧で論争的であるとしても-、極めて一般的で揺るがしがたい事実といえるでしょう。】(P.178-179)

 ⇒T.Satou:私の読み込みすぎであることを恐れつつも書きますが、上記部分は非常に重要な提案を含んでいるように私は受けとめました。
 子どもが(以下2文字に傍点)よくなる(卓越)という事実」としての発達。しかし「よさ」「多元的」であり、「論争的」であり、定義は難しい。しかも「教育することによってむしろそれ自体を現すという側面」もある。ということは、どのような働きかけをするかということも、その結果発現されたものにどのような「よさ」を見出すかも、それぞれの大人(教師、親)によって様々である。ということは、大人同士が具体的な働きかけやその過程/結果に見出すことができる発達の事実を語り合い交流するときに、「その働きかけは間違っている」「そのとらえ方は間違っている」「違う働きかけをした方がいいんじゃないか」といういきなりの批判、ましてや否定は、「よさ」を見出そうとする潜在的な志向性を持っている(はずの)大人同士の発達をめぐる交流の仕方としては望ましくないのではないか? 子どもたちが「よくなるという事実」を把握し得たという経験自体を尊重し合い確認し合うことがまずは重要ではないか? こういう風に、子育て・教育をめぐる組織論・運動論に引っ張り込んで、やや強引に私は理解を試みたんですが、いかがでしょうか。
 ただしかし私自身が注意して読むべきは、神代氏がそうした(人によってとらえ方が違うと思われる)
「よさ」をそのまま「教育的価値」だとしているわけではないということです。

【では、教育的価値とはなにか。それは、上記のような成長・発達という人間の生のよさと深くかかわりつつも区別される、成長・発達を媒介する事物の性質やその度合いのことです。】(P.179)

 「成長・発達を媒介する事物の性質やその度合い」。その具体的内容はまだここではわかりません。引き続き見ていきます。

 次に神代氏は、教育的価値を【教育の内容としての価値】(P.179)と【方法としての価値】(同)に【相対的に区別】(同)します。
 神代氏はまず、【教育内容のレベルでの教育的価値】(P.179)に言及し、これが【この語の一般的な使用法に近いかもしれ】(同)ないこと、【わたしたちはしばしば、具体的な文化財を指して、そのものの教育的価値-それが持っている、成長・発達を媒介する性質の度合い-を論じることがあ】(同)ることを指摘し、具体例を挙げて例証します。その後、【教育的価値とは、教育において「なにを」教えるべきか、ということの指標にほかなりません。】(P.180)と述べ、続いて【教材(学習材)とは、事物(文化財)が持っている、人間の成長・発達を媒介する性質の度合いを見極めつつ、それらの事物を取捨選択して組織(配列)したものと言えます。】(同)と述べます。

 ⇒T.Satou:ここでちょっと気になるのは、神代氏が「教育内容」「教材(学習材)」の関係をどう捉えているのか、さらには「教育内容」とその背景にある「文化財」の関係をどう捉えているかです。神代氏の行論はこの後「方法」の問題に移っているので、これ以上はわからないのですが。
 教育方法学、教育課程論の研究者としてそれなりに教育内容・教材について学んできた私にとって、まず改めて繙くべきは
中内敏夫『教材と教具の理論』(有斐閣 1978)です。全体が教材(と教具)を論じている同書の中でさしあたって抜粋した箇所が適切かどうかわかりませんが、同書「Ⅰ教材論の立場 1 教材と教具の世界 一 教材の概念の項に以下の記述があります。
====================
 教材と教育目標  教材(subject matter)と教育目標(educational objectives)の混同がある。目標ということばは、図2(省略-引用者)のように、ひとつの教材をいくつかの指導過程や段階に層化・区分して展開するばあいの指導のスモール・ステップの目じるしとして使われるばあい(このばあいには図1(省略-引用者)のばあいとちがって、目標の方が教材の構造によって規定される)と、もうひとつ、図1のばあいのように、個々の教材の担っている内容の意味に使われるばあい(このばあいの目標を到達度目標、評価運動の現場では「基本的指導事項」とか、その「指導のねらい」とよぶばあいがある)とがある。(中略)いずれのばあいも、目標または内容をなすものは、わかちつたえることのできる文化(人間発達の「外化された」遺伝情報ともいうべき文化)であり、普通教育のばあいはその基礎的なもの、つまり基本的な科学的法則や芸術上の典型的なテーマや知識・技能などである。これらの目標は、これを加工しないでそのまま与えたのでは、子どもにはわからないばあいが多い。反対に、その精神活動を抑圧するばあいがある。そこで、目標と子どもをつなぐ媒体がここに必要になってくる。教材は、いずれにしてもこの媒介の働きを担っている。(P.15-16 下線は引用者)
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 中内の場合、上記引用にも「内容」の語は2回登場するものの、《教育内容-教材》という対の用語法を用いておらず、「内容」「目標」と同一視されて《教育目標-教材》という用語法となっています。その際、「目標(内容)」とは、「わかちつたえることのできる文化(人間発達の「外化された」遺伝情報ともいうべき文化)」「普通教育のばあいはその基礎的なもの、つまり基本的な科学的法則や芸術上の典型的なテーマや知識・技能など」とされます。そして、「教材の担っている内容」という用語法や、上記引用で「教材と教育目標の混同」を批判し、教材とそれが担う内容(目標)を整理し区分して論じようとしています。
 また、
藤岡信勝『授業づくりの発想』(日本書籍 1989)の「一 授業を構成する四つのレベル-教育内容・教材・教授行為・学習者 1 教育内容と教材 「教育内容」と「教材」の項においても、授業記録における「教材」の把握の曖昧さを指摘した上で、次のように述べています。
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 授業者がここで子どもに教えようとしている「密度」の概念のようなものを教材としての(以下2文字に傍点)現象と区別して「教育内容」とよぶことにしよう。教材は教育内容のために用意される。教育内容は教材の善し悪しをはかる基準となる。授業は教育内容と教材のレベルのちがいを意識し、それらを関連づけることで構造的に把握できる。(P.16)
====================

 藤岡の上記のような概念整理に当時授業づくりネットワークの活動や三重大学での集中講義などで接した私は、「『教育内容』では教科外活動の領域にも対象が広がってしまって曖昧ではないか」と考えて、自分では《教科内容-教材》というセットの用語法を意識的に用いていましたが、いずれにしても中内・藤岡に従って「教材」とそれが担う「内容」とを区別し、関連において捉えることは、教育実践の事実に即しても妥当であると今日まで考えてきました。

 このような学びの筋道を辿ってきた私としては、神代氏が
「教育内容のレベルでの教育的価値」(P.179)について具体例を挙げた上で、「だから教育的価値とは、教育において『なにを』教えるべきか、ということの指標にほかなりません。ちなみに、教材(学習材)とは、事物(文化財)が持っている、人間の成長・発達を媒介する性質の度合いを見極めつつ、それらの事物を取捨選択して組織(配列)したものと言えます。」(P.180)とするその行論にやや戸惑いました。
 一文目の「なにを」とは、この段落の冒頭の「教育内容(のレベル)」を示すと思われます。そして、これに続いて(先には引用はしませんでしたが)「『スイミー』の教育的価値」(P.179)・「バスケットボールの教育的価値」(同)という事例が登場します。
 その後に上記で再引用した
P.180の二つの文が来るのですが、その二番目の文では、「教材(学習材)」の概念が説明されます。「教材(学習材)」の概念は、1-2、「なにを・いかに・教えるか」のよさを読み返してもここまでには登場しておらず、ここで初登場です。
 さらに
P.179-180にまたがる段落の冒頭で「教育内容のレベルでの教育的価値」に言及した直後の二文目、つまり私の先の引用箇所の二つの文のうち一文目で「わたしたちはしばしば、具体的な文化財を指して、そのものの教育的価値-それが持っている、成長・発達を媒介する性質の度合い-を論じることがあります。」と記述しています。
 神代氏が、
  ●文化財
  ●教育内容
  ●教材(学習材)
の各概念を区別せずに論じておられるとは思えないのですが、それでも私が読む限りでは
P.179-180にまたがる一つの段落の中に連続して登場する三つの概念の関係は明確ではありません。
 「文化財」については、「文化財を学ぶ」という学習活動が歴史なり国語なり美術なり音楽なりで行なわれているという事実は事実として、常識的には《文化財=教育的価値》とストレートに等号で結ぶことはないでしょう。神代氏も「わたしたちはしばしば、具体的な文化財を指して、そのものの教育的価値-それが持っている、成長・発達を媒介する性質の度合い-を論じ」ていると書いておられ、思考としては「文化財」「教育的価値」としての側面を抽出するというのか、その視点を文化財鑑賞活動の指導の中に確立するというのか、とにかく「文化財」本体と「文化財の教育的価値」とはイコールではなく区別されますよね?(但し神代氏は「そのものの教育的価値」と書いておられるので、私が書いているような二者の区別は「文化財の教育的価値」把握の本質を外してしまうことになるのかもしれませんが)
 また神代氏は、
「事物(文化財)」「人間の成長・発達を媒介する性質」を持っているとし、「その(=成長・発達を媒介する性質-佐藤)「度合いを見極めつつ、それらの事物を取捨選択して組織(配列)したもの」「教材(学習材)」であると述べています。
 「事物(文化財)」「人間の成長・発達を媒介する性質」の発動というのは、教育実践の過程で具体的に確認できるものでしょうか。というよりは、教師が教育実践を計画する段階で、子どもがその「事物(文化財)」を学習する過程とその結果において子どもたちの中に形成されることが望ましいと考える認識・感情・行動その他の学習成果群についての構想、それらがつまりは教師が子どもたちによる獲得を指導しようとする「教育内容」ではないかと私は思うのです。これに対して「教材(学習材)」は抽象的観念ではなくて子どもたちの目の前に提示され、子どもたちがそれと取り組み、挌闘し、利用し、理解し、学び....しながら、教師の指導の下ある一定の学習成果の獲得に向けて進んでいくことを支援するtoolだと思います。授業の実態としては「教育内容」は「教材」の中に潜在して獲得されることを待っているとも言えますが、一方は教師の計画の中にある理念的なもの、他方は子どもたちの学習活動における実体的な伴走者であり、両者の区別は必要です。私自身はそのように理解してきました。
 私は、神代氏が教育内容と教材を区別していないと断じようとしているわけではありません。次の「方法レベル」に関する叙述を読み進めながら、もう少し検討してみたいです。



 神代氏の《内容レベル》に関する記述から《方法レベル》に関する記述への繋ぎの部分を見ていきます。
 《内容レベル》に関する記述の最後に、既述のように「教材(学習材)」の定義がなされています。少し語順を変更して私なりに整理すると、「教材(学習材)」とは、「人間の成長・発達を媒介する性質」を持つ「事物(文化財)」を「取捨選択して組織(配列)したもの」です。
 ここで神代氏は、《方法レベル》へと議論を進めます。曰く、

【ただし、この「取捨選択」や「組織(配列)」という部分には、すでに方法(「いかに」教えるか)という意識が入り込んでいる点が重要です。人間の成長・発達は、それらを媒介する性質を(潜在的に)もった文化財を、ただ無秩序に押し付けるだけでは上手くいきません。】(P.180)

 ⇒T.Satou:ここで私の思考はまた《教育内容-教材》関係に戻ってきます。「事物(文化財)」の中に見出される「人間の成長・発達を媒介する性質」。それは「事物(文化財)」が本来備えているものだからこそ教師・教育研究者はそれを見出すことができるのだ、とも言えますが、そうした「人間の成長・発達を媒介する性質」すなわち「教育的価値」「事物(文化財)」の中に見出せるかどうかは、教師・教育研究者の専門的力量にかかっている、とも言えます。そしてその見出したものが「教育内容」だと思うのです。それは「この事物(文化財)に関する学習を通じて、子どもたちにこのような認識(・感情・行動・態度等)を獲得させたい」という形で(従って中内が言うように教育目標として)明示することができるものであり、またそれは(学習指導要領の「内容」とは違って)仮説的性格をもつもの、教育実践を通じて検証され改編される可能性があるものです。
 ところが、私が読む限り神代氏の行論においては、この「教育内容」の抽出/措定の作業が明示されていません。
「文化財」「無秩序に押し付ける」ことによっては、「文化財」「人間の成長・発達」「媒介する性質」「上手く」発揮することはできない、と神代氏は言うのですが、そこにおける無秩序な押しつけとは正反対の作業こそ、教師の専門的職務経験の蓄積や、教育学・教育課程論・教育内容論等の専門研究の蓄積を活かした《教育内容の抽出・選択・編成》の作業だと思うのです。それは実際の学習過程において教師が子どもたちに提示し、子どもたちが学習活動のtoolとして使用する「教材」の開発作業と同一ではありません。もちろん、「教育内容」を(仮説的に)措定してから「教材」の開発へという一方向の流れだけではなく、実際には《教育内容⇦⇨教材》という双方向的な活動である必要がありますが、いずれにしても、「教育内容」の抽出・選択・編成レベルの活動と教材の開発・作成の活動は作業手順において論理的には区別される必要があると私は思います。
 しかし以下に見るように、神代氏は「文化財」と「学習主体」をどう繋げるのかという角度から一連の流れを捉えることを重視しているように思われます。上記引用にすぐ続く文章から引用を再開します。


【むしろ高度に洗練された教育は、文化財を、学習主体についての適切な理解に基づいて精妙に取捨・配列するという方法の意識をその核とします。のみならず教育は、学習主体がその文化財を摂取する前提や形式にも注意を払います。学習主体はその文化財を適切に摂取できる段階にあるのか(レディネス)、学習活動は個人で行うか/集団か、受身を廃し子どもの自主性や主体性を尊重できているか…、教育的価値は、これら広義の「いかにhow」という発想、「方法的価値」(勝田1973:440)の考え方を含んでいるわけです。】(P.180)

 ⇒T.Satou:紹介されている勝田の原著における「方法的価値」については、私は現在、その記述が収録されている勝田守一著作集第6巻『人間の科学としての教育学』を、冒頭に掲載されている『能力と発達と学習』からゆっくりゆっくり読み進めているところですので、いずれ自分でも検討させていただくとして、いまは措きたいと思います。
 神代氏は、
「文化財」「精妙に取捨・配列する」という「学習主体についての適切な理解」を要する仕事を、もちろん教師・教育専門家の営みと措定していることと思います。しかし続いて、 「学習主体」が「文化財を摂取する」とも書いています(もちろんここで論じているのは「学習主体」「摂取する前提や形式」について教師の側が「注意を払」うという指導側の任務についてですが)。
 仮に、
「人間の成長・発達を媒介する性質」(P.179)を持つすぐれた「文化財」を教師・教育専門家が自主的に渉猟・抽出して学校における学習過程に自由に持ち込むことができるような理想の教育環境を措定できるならば、教師が導入する「文化財」に子どもたちがどのように出会うことを教師が期待するか、子どもたちにとって意味ある出会いを実現するために教師や教育研究者がどのような学習環境や学習の段取りを用意するかを考える、という発想でよいと思うのです。教師と子どもたちがともにすばらしい「文化財」に出会う、ある意味その感動体験を共有する、という。
 しかし、現実の学校教育環境は違いますよね。学習指導要領があり、「教育内容」は教師の意図とは無関係に予め設定されている。学習指導要領の中には意義ある教育内容も含まれているかもしれませんが、子どもたちが彼らを取り巻く世界についての認識を深めていく上で有効でない「教育内容」、無駄としかいえない「教育内容」、有害である「教育内容」も多数含まれています。法制的にはその「教育内容」についての指導を義務づけられている教師たちですが、彼らの中の意識的な人たちは、目の前の子どもたちの現実と教師自身の既存の教育経験、教育科学や専門諸科学・文化の成果の学びに基づいて、学習指導要領の「教育内容」の成否を問い直し、例えばすでに学習指導要領の中で学習対象として指定されている
「文化財」について、そこから抽出可能な「教育内容」を組み変え、それに基づいて教材の開発・作成を行なう努力を重ねています(そういう作業を日常的に行なえている教師は、残念ながら極めて少数かもしれませんが)。
 神代氏の構想においては、
「文化財」とはそもそも「人間の成長・発達を媒介する性質」を持つすぐれたものとして選び出されたものを指しているのかもしれません。私の上記の論述に即して言えば、学習指導要領を鵜呑みにせず、本当に子どもたちにとって価値ある「文化財」を選びぬいた上で、しかしそれを 「学習主体」「摂取」するために「方法(「いかに」教えるか)いう意識」「入り込」(P.180)むと。そのように思考することはもちろんあり得ると思います。

 ただ私には、やっぱりこだわりたくなるもう一つの問題があります。それは、神代氏が
「方法(「いかに」教えるか)いう意識」と言う時、そこには上記で私がこだわってきた授業(学習過程)の構成・計画段階の活動に関する「意識」と、実際の授業の実施・運営・臨床的対応の段階での指導に関する「意識」が区別されていないのではないか? ということです。もちろん両段階は時系列で繋がり、この後さらに授業についての総括・仮説の検証や必要な変更などを経て次の「計画」段階へと繋がっていくので、「方法(「いかに」教えるか)いう意識」は全体としてひとつながりの教師の意識・行動の流れとして展開していくとは言えます。しかし、教師の活動において両者のの時系列上の区切りがあるということも事実です。
 神代氏が挙げている
「学習主体」「レディネス」、学習形態、「自主性」「主体性」を引き出す工夫などは、授業以前の教材開発・指導過程の計画の段階でももちろん意識されます。実際の授業での学習指導は、指導計画=仮説に沿って展開されますが、子どもたちの思わぬ反応等、予期せぬ状況に遭遇してその場での臨機応変的な指導方針変更を迫られる場合もあり、そしてそれがうまくいく場合も失敗する場合もあります。それらの教授-学習経験を教師が事後に総括してまた次の授業実践へ、となるわけですが、私はやはり計画・構想段階の教師の「方法」意識と、実践・臨床段階での教師の「方法」意識とは、関連しつつも区別して論じる必要があると思います。臨床場面の総括=授業分析の観点は、事前計画の良否、可否以外にもいろいろある(子どもの生活行動・意識、学級の人間関係その他)と思うからです。


 
神代氏の行論に戻ります。神代氏は上記に続いて、【この「方法的価値」の射程は、かなり広く理解したほうがよい】(P.180)として、以下のように議論を学校制度にまで広げます。

●【「学校の教育的価値」という言い方】(同)をするならば、それは【学校という(以下2文字に傍点)制度が持っている、子ども(集団)の成長・発達を媒介する度合い】(同)のことである。

●【制度と方法という語】は、【まったく異なる位相の語彙に思われるかもしれ】(同)ない。

●しかし、【これを「いかにして教えるか?」-「学校という人間形成の方式を介して」という問いと応答の形】に言い換えると、【学校教育制度は、方法的価値を問われているといえる】(同)

●【その限りで学校制度は、広義の方法の範疇に入る】し、【方法的価値という語は、このような制度をその尺度の射程に含むもの】


 ⇒T.Satou:ここまでの神代氏の行論において、
「学習主体」という言葉は出てくるけれども、「学習主体」の学習活動を指導し援助する教師という主体が語として出てこないなと思っていました。もう一度1-2冒頭における「教育的価値」の(仮説的)定義を振り返ってみると、次のように述べられています。

【教育的価値とは、教育の営みにおける、広義の文化財やその組織の仕方としての制度・技術が持っている、人間の成長・発達を媒介する、その意味で望ましい性質、またその度合いである。】(P.178)

 
「教育的価値」という理念的なものについて、常にその担い手、主体を云々するのはお門違いかもしれませんが、上記定義内の「教育の営み」については、その「営み」の主体を詮索するのも不当ではないでしょう。そしてさらに定義を読んでいくと、焦点は「制度・技術」「性質」とあるので、「教育の営み」の主体は教師のような具体的個人だけでなく社会制度も含めて措定されていることがわかります。そうであるならば、神代氏が「方法的価値」の射程を学校制度にまで広げることに矛盾はありません。
 私の意識としても、とりあえずここまでの神代氏の行論の検討作業と切り離すならば、《学校制度を方法的価値として捉える》というのは大変新鮮で、興味ある問題提起です。コロナ禍下の学校教育の状況を想定すれば、この視点で検討すべきことは多々あるように思えます。
 しかしそれでも、神代氏がここでの議論においてなぜ教師という具体を前面に登場させないのかについては、十分理解できません。
 私の読み誤りでしょうか?

 
ここで神代氏は、第1節を以下のように締め括ります。

【教育的価値とはなにか-、それは、教育という文化財の伝達形式のあり方(「なにを・いかに・教えるか」)に関わる、そのよさ(成長・発達を促す性質の度合い)のことです。わたしたちは、成長・発達という人間の望ましい変容を導くための技法を、膨大な試行錯誤-ときにそれは取返しのつかない惨禍をすらもたらしもしましたが-の上に積み上げてきました。そしてそんな実践的探求そのものがまた、成長・発達という人間の生のよさの理解を促進してきました。成長・発達という人間の生のよさが教育のよさを導き、また教育のよさが成長・発達を導く-、二つの循環するよさの螺旋、互いが互いを露にしていくその過程こそが、まさに教育の歴史であるといっても、過言ではないでしょう。】(P.181)


 教育=
「文化財の伝達形式」には「あり方」=価値的に選択できる選択肢(→佐藤解釈)があり、その選択肢には「よさ」という「成長・発達を促す性質の度合い」=質及び量を持つ属性(→佐藤解釈)があり、それが「教育的価値」である。
 私たちは、
「教育」「あり方」に関わる「よさ」を実現するために、「取返しのつかない惨禍」をも含む「膨大な試行錯誤」を積み上げてきた。つまり「よさ」の追求は逆方向の結果をもたらすこともあった。
 しかし、大きな歴史的経過としては、
「成長・発達という人間の生のよさ」「教育のよさ」は、「循環するよさの螺旋」を形成し、そのことで「互いが互いを露にして」きた。それが「教育の歴史」である。
 以上のように私は読みました。そうすると、上記引用の二文目と四文目との関係がしっくりこないですね。特に
「人間の生のよさ」「教育のよさ」「循環するよさの螺旋」を形成するという部分は、「教育的価値」を大切にする立場にある人の自画自賛的に読めてしまいます。「そうあってほしい」という思い、願いを持つという点では私も人後に落ちないつもりではありますが。


2 理論的な批判に応える-歴史・なかま・批評-

 神代氏は、【教育的価値(論)を教育と教育学の世界において復権させるのは、決して簡単では】(P.181)ないとして、教育的価値論への批判に【一定程度応えるという仕方で、教育的価値(論)の性格について、もう少し理論的に深め】(同)る作業に移ります。

 2-1、歴史的な概念としての教育的価値

【勝田の教育的価値論についてのもっとも直接的な批判としては、教育的価値という語(概念)を「ア・プリオリ(あるいは「超越的」)なものと解釈しつつ、そのことが教育学の視野の「狭隘化」をもたらしたとする森田尚人(1992)のものがあります。】(P.181-182)

 ここに来て私は、自分が第1節の後半部分を神代氏自身の主張としてのみ読み進めてきたことに気づきました。もちろん神代氏の主張が述べられていることは間違いないのですが、その背後には政治や経済から相対的に独立した「教育的価値」の独自性を勝田守一の教育的価値論に立ちもどりながら明らかにするという本章の趣旨がありました。
 そして神代氏の行論は必然的に勝田教育的価値論への批判にどう対峙するか、という領域に踏み込みます。
 ですが、大変申しわけないのですが、私の関心は、引き続き神代氏自身の(批判への対応ではなく)積極的主張を追跡するところにあります。もちろんその主張が「××と批判されるがそうではなくて○○なのである」という行論によって明らかにされていくことは百も承知なのですが、批判者の批判への対応も含めて追いかけていくと、結果として第2節の文章を全文写し取ることになってしまいそうなので、以下ではつまみ食い的な抜粋と批判されることを覚悟で、神代氏の主張をピックアップしていきます。森田尚人の批判内容の紹介の部分は読者に神代氏の行論の流れを誤解させるようなことがない範囲で可能な限りカットすることになります。

【一般にある学問領域が、本当はその学問にとって重要な特定の対象を議論の射程に捉えきれていないということがあったなら、それは克服されるべきでしょう。だから、教育的価値が、歴史的に生成してくる新しい「教育のよさ」を認められない-既存の定義に合わないものは一切認めない-硬直したものでしかありえないならば、そのような議論は放棄されるべきだと言えます。その点、勝田はどうでしょうか? 少なくとも勝田は、教育的価値なるものが、歴史的に変化していくことを認めています。

  「教育的」価値は歴史的なものである。歴史的であるということは、つねに変化するということだけを意味す    るのではない。歴史的な変化に規定されて発展すると同時に、それ自身がまた、のちの教育的実践の指標となり、理念となるという性格をもつということである。(勝田1973a:436)】(P.182-183)


【教育的価値とは、歴史的現実に根を持たない、学者(勝田)が「ア・プリオリ」に前提した空虚な理論概念ではなく、むしろその教育の歴史的現実が(おそらくは葛藤を含みながら)それ自体として実現しようとしている(以下2文字に傍点)よさ(●●)につけられた仮の名前(「名目的定義」)であるということ-】(P.183)

【教育的価値とは、「よい教育とはどのような教育か」をめぐって歴史的に、また現在進行形で遂行している実践的探求の、(以下11文字に傍点)その都度の暫定的な回答を捉えたものです。その探究のプロセスにおいてはもちろん、後に「誤り」とされるような教育的価値(の暫定的回答)も含まれています。しかし、そのような「誤り」の存在が、この実践的探求全体を否定する理由になることはありえません。なぜなら、「誤り」を含むこと、つまり「試行錯誤」であることが、この探求の本質的性格だからです。】(P.184)

【逆に言えば、もし教育的価値の概念あるいは議論が、その枠組みそのものとして否定されうるとするなら、それはわたしたちの社会、あるいは広く人間の歴史において、「よい教育とは」という探求そのものがまったく存在しない場合に限られるはずです。(中略)現にわたしたちは、歴史的に連綿と、何らかの形で、「よい教育」を求めてきましたし、いまこの瞬間もそれは続いています。その中身の真偽、当否はともかく、この探求の活動の存在そのものは、まったく自明と言っていいはずです。もちろん、その探求においては、様々な対立や葛藤があります。だからそれは、多様で多元的で、だから現実の教育はつねに改訂に開かれた「暫定協定」のうちにあります。しかし逆に言えば、わたしたちが何らかの形で「よい教育」を探求している限り、その探求において見出される暫定的な回答は、その都度、空虚な理論でも現実をみない理想論でもなく、むしろ教育と社会の現実そのもの、過酷で残酷な現実を超え出ようとする現実そのものであるところの、教育的価値なのです。】(P.184)


 
2-2、教育的価値の自覚の条件

 前項と同趣旨で引用を続けます。

【他方で価値は、人々の意識において自覚されることなしには、現実のちからとはなりえないということも事実です。実際、その価値を人々が自覚できないばかりに、歴史のなかに消えていった教育の技や工夫が多いだろうことは、想像に難くありません。価値は、それを価値として自覚されることを必要とするのです。そして勝田は、教育的価値なるものの自覚の条件として、実践性と共同性の二つを強調していました。例えば以下の引用部分は、前者の実践性を強調するものと言えます。

  私たちは、教育の領域における問題への取組み方に実践的でなければならない、ということをいってきた。実践的ということは、もちろん、実践を通して、はじめて、教育の問題の価値と意味とがとらえられるということである。(勝田1972a:47)

 「実践を通して、はじめて、教育の問題の価値と意味がとらえられる」とは、何を含意しているのでしょうか。一つは、「教育の問題の価値と意味」-それは教育的価値の手掛かり、あるいは教育的価値そのものであったりするでしょう-が、一般的な意味までの科学的認識では捉えがたいものであるということです。一般に認識とは、観照的態度、すなわち、対象と距離をとって立ち止まって見る(分析する)ことを要求します。しかし教育的価値は、そのような観照的(科学的)認識ではつかみ得ないものです。それは実践、すなわち、生きてはたらく対象と実定的に関わり、それに働きかけていくことのうちに自覚される-、勝田はそう考えていたように思われます。言い換えれば教育的価値は、科学によって独占的に発見されるのではなく、科学に支えられた実践的努力が(以下12文字に傍点)発明すると同時に自覚するものです。そうやって現れる教育的価値は、もちろん物理学的対象のような実在性をもつわけではありません。しかしそのことをもって、これを虚構のように扱うことは正しくないでしょう。】(P.184-185)

【また、そのような教育的価値の自覚(認識=実践)は、一人の教師の孤独なしごとではありません。むしろ教育的価値の自覚は、教育のよさをめぐる探求の共同体に参加するという仕方で、共同的になされるものと勝田は考えました。教育的価値の自覚の条件の二つ目、共同性について、勝田は、教育実践記録をめぐる主張のなかで、以下のように述べています。

   記録は単に私的な覚え書やひそかな逃避の感傷ではない。それは、なかまとともに語られ、問題が発見され、整理され、意識されなかったものに意識の光が当てられるためのものである。共通のねうちをもつものが掘りおこされるのである。(勝田1972b:85)


 教師は必ずしも自分自身の実践の価値(「共通のねうち」)を正確に自覚しているとは限りません。一般に教師は、実践のプロではあるでしょうが、必ずしも実践を語るプロではないからです(もろん例外はありますが)。子どもの成長・発達とそれを媒介する教育のよさの螺旋的な前進は、それが自覚されるために、掘り起こされること、表現されることを必要とするのですが、それは、一人の教師の孤独な作業としてではなく「なかま」の存在によって、「なかま」との共通の財産という形でこそ可能になるというわけです。】(P.185-186)

【ただし、教育的価値の自覚が、「なかま」による共通の財産化とほとんど同義であるとするなら、逆に言えば、「なかま」でなければ、その価値は理解できないということでもあります。教育的価値の自覚は、自覚を共有しようとする主体の変容(「なかま」化)を要求するということです。ここに、教育的価値論あるいは戦後教育学に対する批判の、一つの論点があります。(中略)このことは例えば、ものづくりの世界における職人の「コツ」や「勘」といったものの有り様と似ています。そうした「コツ」や「勘」は職人の仕事を成り立たせる重要な要素ですが、科学的につかみ出すことが難しい、ある意味で秘教的なものです。
 (中略)必要なのは、とてもユニークだがひどく秘教的なそのなにかを深く吟味しつつ、多くの人々の共通の財産としていくという仕事です(ちなみにわたしはそうした実践の読み解きの仕事を、「教育批評」と呼びたいと考えています)。そして勝田は、教育の世界において、現実の教育の営みのうちに根付いたその何かを教育的価値とよび、その解明の仕事を広く呼びかけた教育学者だったのでした。】(P.186-187)

【結局、教育的価値とは、言わば、わたしたちが実践的・共同的に相乗りする、下船不可能な「ノイラートの船」なのです。すでに航海に出てしまっている船は、不具合があるからといって-例えば学者の扱う操作的な概念のように-最初から作り直すことはできません。現に迫りくる航海の危機に、不具合のある部分を少しずつ修理しながら対処して進むしかないのです(実践性と共同性)。しかしそのことは別段、その船を頼りに進む教育と教育学の致命的な失敗を意味してはいません。過去の人類の試行錯誤の結晶としての古い教育的価値に支えられつつも、時代に応じて部分的に改修(価値の改訂)しつつ進む船は、その姿かたちこそ、出航した数千年前とは似ても似つかない、継ぎはぎだらけの船かもしれません。部外者から見れば、いかにも野暮ったくみっともない、そんな船のあり方はしかし、乗員(「なかま」)になることではじめてわかる歴史的必然性をもっている場合もあるのではないでしょうか(歴史性)。
 そして、その歴史的必然性を自覚する「なかま」こそが、その船を時代に合わせて適切に改修(改訂)していくことができる主体だ、と勝田は言うのです。もちろんそれは、閉鎖的な「なかま」ではありません。乗船の条件は、「よい教育とはなにか」を語りだそうとする意志、それだけです。その船は、そんな意志を持つ新しい「なかま」に開かれていると言えます。ともかくもそんなかたちで、船は航海を続けているし、その船でともに行く「なかま」は、丘から見るのとは違った、その都度つねにあたらしい豊かな海の景色を眺めながら、航海を続けることになります。
 教育的価値とは、そんな船の名なのです。

   なかまとは閉鎖している徒党ではない。どこまでも開いたなかまである。「なかまはどこにでもいる」という拡がるなかまである。実践がそのなかまの共有財産になるということは同時に、その内容がなかまを拡げる力をもつということでもある。(勝田1972b:88,89)】(P.187-188)


 
勝田「教育的価値論」への批判に対する反批判としての第2節を、敢えて批判の紹介の部分をできるだけカットして抜粋してみました。ここで本節における神代氏自身の「教育的価値」の語についての定義的説明の部分を再度抜粋してみます。

●教育の歴史的現実が(おそらくは葛藤を含みながら)それ自体として実現しようとしている(以下2文字に傍点)よさにつけられた仮の名前(「名目的定義」)(P.183)

●「よい教育とはどのような教育か」をめぐって歴史的に、また現在進行形で遂行している実践的探求の、(以下11文字に傍点)その都度の暫定的な回答を捉えたもの(P.183)

●わたしたちが何らかの形で「よい教育」を探求している限り、その探求において見出される暫定的な回答(=教育と社会の現実そのもの、過酷で残酷な現実を超え出ようとする現実そのもの)(P.184)

●観照的(科学的)認識ではつかみ得ないもの(実践、すなわち、生きてはたらく対象と実定的に関わり、それに働きかけていくことのうちに自覚される)(P.185)

●科学によって独占的に発見されるのではなく、科学に支えられた実践的努力が(以下12文字に傍点)発明すると同時に自覚するもの(P.185)

●「教育のよさをめぐる探求の共同体に参加するという仕方で、共同的に」「自覚(認識=実践)」されるもの(P.185-186)

●教育的価値の自覚は、自覚を共有しようとする主体の変容(「なかま」化)を要求する(P.186)

●教育の世界において、現実の教育の営みのうちに根付いたその何か(「ものづくりの世界における職人の「コツ」や「勘」といったものの有り様と似てい」て、「科学的につかみ出すことが難しい」「とてもユニークだがひどく秘教的なそのなにか」)(P.187 下線は佐藤)

●わたしたちが実践的・共同的に相乗りする、下船不可能な「ノイラートの船」
 ・「不具合があ」っても、「作り直」せない。
 ・「不具合のある部分」を「修理しながら対処して進む」しかない。(実践性と共同性)
 ・それは「船を頼りに進む教育と教育学の致命的な失敗を意味してはい」ない。
  ・「過去の人類の試行錯誤の結晶としての古い教育的価値に支えられつつも、時代に応じて部分的に改修(価値の改訂)しつつ進む船」の「あり方」は、「乗員(『なかま』)になることではじめてわかる歴史的必然性をもっている場合もある」。(歴史性)
 ・「その歴史的必然性を自覚する『なかま』こそが、その船を時代に合わせて適切に改修(改訂)していくことができる主体だ」。
 ・それは「閉鎖的な『なかま』では」ない。「乗船の条件は、「よい教育とはなにか」を語りだそうとする意志、それだけ」。
 ・「『なかま』は、丘から見るのとは違った、その都度つねにあたらしい豊かな海の景色を眺めながら、航海を続ける」


 ⇒T.Satou:う~ん……丁寧に考察されたものを粗っぽく解釈してしまうことは失礼なんでしょうが、私にはどうも《教育的価値を探求している人たちが探求しているものが教育的価値だ》というように読めてしまうのです。
 
「科学に支えられた実践的努力」によって「発明」され「自覚」されるんだけれども、「観照的(科学的)認識ではつかみ得ないもの」。
 
「職人の『コツ』や『勘』」に似ていて「とてもユニークだがひどく秘教的」なもの。
 
「不具合」がありながらも「修理」して進む「ノイラートの船」「乗員」として「丘から見るのとは違った、その都度つねにあたらしい豊かな海の景色」として見えるもの。
 
「ノイラートの船」「乗船の条件は、『よい教育とはなにか』を語りだそうとする意志、それだけ」だというのですが、条件をクリアして乗船した「乗員」がただちに「科学」に支えられるが「科学的認識」ではない、「秘教的」「教育的価値」を紡ぎ出す作業・議論に参加できるのか? もしかしたら「乗員」は平場で議論する人とその議論から価値を紡ぎ出す専門家に分かれるのか?
 私自身、
「ノイラートの船」についてweb事典の説明を読んだレベルの知識しかないこともあり、比喩としての「ノイラートの船」と神代氏自身の「教育的価値」についての考察が頭の中でこんがらがったままです。
 ただここで私が気になるのは、
「教育的価値」の追求が「一人の教師の孤独な作業としてではなく『なかま』の存在によって、『なかま』との共通の財産という形でこそ可能になる」(P.186)というその「なかま」についてです。私の読みの浅さが原因ならおわびしないといけないのですが、神代論文のこれまでの行論で、という「教育的価値」という人間の営み(行為)の結果生みだされるものについて論じる際に、行為の担い手、個別具体的な行為・認識・価値判断主体への言及があまりないなあと思っていました(直前の引用部分では「一人の教師の」と書かれていますが)。「ノイラートの船」の喩えでは、「『よい教育とはなにか』を語りだそうとする意志」を持つという条件だけでひとしなみに「乗船」を許されるフラットな存在、主体として「乗員」が描き出されていますが、現実世界において「乗船」すなわち《教育的価値の探求・創出行為》に参加するのは、教師であり子どもであり親であり地域住民であり専門科学の研究者であり行政関係者であり政治家であり........具体的な社会的ポジションを持ついろいろな人たちですよね。いろいろなポジションにある人たちがそれぞれの関心や利害を背負いながら「教育的価値」について議論し、対立したり合意したりする、その具体的局面については敢えて積極的に言及することなく神代氏の行論はここまで進んできたように私は読みました。もしその「読み」が間違っていないとしたら、それはなぜなのかを知りたいです。


3.わたしたちの・現在の・教育的価値

【教育的価値とは、歴史的に形成されてきたものである以上、つねにいくらか過去のものです。しかしそれは同時に、現在と未来の人々による、過去との対話を経た、実践的で共同的な改訂に開かれたものでもあります。「よい教育とはなにか」という探求の共同体に参加すること、つまりは、ともに問うという仕方で、教育のよさをめぐる人類の歴史的な道行きに連なること-、教育的価値とは、現在と未来の人々に向けられた、そんな呼びかけの声を含んだ概念なのです。したがって、現在のわたしたちが、この語の呼びかけに応えるということは、過去に蓄積された教育のよさを継承することだけではなく、むしろ積極的に<わたしたちの・現在の・教育的価値>を語りだすことを意味します。
 だからこの最後の節では、勇気をもって、<わたしたちの・現在の・教育的価値>を語りだしてみたい。
 わたしたちのこの現在において、よい教育とはどのような教育なのでしょうか。教育は、いま現在、教育と社会の歴史的現実との関係において、どのような性質を備えることを要求されているのでしょうか。これまでの議論から、当然ながらそれは、現代の教師の実践的な努力のうちにその原石が見出される類のものです。ここではそれをケア、そして自治という二つのアイデアに暫定的に集約して示しておきたいと思います。】(P189-190)

 「よい教育」とは「いま現在、教育と社会の歴史的現実との関係において、どのような性質を備えることを要求されているの」か。神代氏はそれについて「ケア」「自治」の2つの「アイデア」を「暫定的に」設定して語ろうとします。その作業は「勇気をもって」行なう必要があるものです。


 3-1.ケアという教育的価値

【「思いやり」「配慮」「受容」「共感」「肯定」「心配」「気遣い」あるいは、「世話」「保護」「養育」「看護」「手当」「面倒を見る」…、他者に対する意識や感情の向け方や関わり方のうち、これらに類する緩やかな集合を、ここではケアと呼んでいきたいと思います。】(P.190)

 以下、「ケア」自体の内実よりも、それを「教育的価値」であるとする神代氏の行論を追うことを意識して、関係記述を抜粋します。

【現在を生きるわたしたちがしばしば思い描く「よい教育」が、ここでいうケアとかなりの程度重なっていることを、認めないわけにはいかないでしょう。教育がなにがしかケア的であるということは、それがよい教育であることの、十分条件とは言わずとも、ほとんど必要条件と言ってさし支えないように思われます。実際、現代の教師たちのなかには、子どもの生の質を気遣うこと、理性的な「意見」というよりは、情動の発露としての「声」を聴きとることを試みる人たちも、少なくありません。】(P.190)

【要するに、教育 education という語には、わたしたちが先に述べたような教育の一つのイメージ、すなわち、文化財を適切に摂取させることを介して育てる(教えて-育てる)という意味に先行する、次世代の生存を根底的な部分で下支えするという意味合いが含まれている、ということです。
 だから、わたしたちの現在の教育的価値としてケアなるものを提起することは、教育 education という語の古層を歴史的に振り返り、復権させるという側面を持つともいえます。】(P.191)

【ただしもちろん、現在の教育的価値としてのケアは、食物を与え肉体的欲求を充足するというような、基底的な部分-もちろんそれも重要かつ必要ではあるのですが-だけに留まってはいません。この教育の古層の現代的な形態を探求するヒントは、例えば田中孝彦が強調するような「子ども理解」あるいは「子どもの声を聴く」というフレーズに象徴されているように思われます(田中2009)。
 少なくない子どもは、生活や学習のなかで「いらだち」「むかつき」「不安」「怖れ」を感じ、それゆえの攻撃性(「死ね」「殺すぞ」「自分なんか死んだ方がいい」という言辞、あるいは自他への暴力行為そのもの)を表出します。知性や道徳の訓練 instruction としての学校教育においてはノイズ、不確実性、危険性として排除されるべき、そんな子どもたちの攻撃性の奧に、「子ども理解」の教育学は、むしろ子どもの生の問いと発達への要求を聴きとります。生活の困窮、虐待、あるいは病いや発達障害、聴き取られる声の背景は複雑です。その声に応答すること、つまりはそのような形で現れる次世代の生存の危機への応答を、教育の主要な課題の一つと位置付けること-、ケアの教育的価値説とは、そんな形の、教育の古層の現代的復権を意味していると言えます。


   
むしろ私たちは、実践されているすぐれた教育のやり方そのものを通して、子どもと子どもをとりまく社会の矛盾やその本質的なしくみをとらえなくてはならない。〔中略〕子どもの現実の悩みや喜びや問題をとおしてつかまれた、その生活にふくまれている子ども自身の矛盾を通して、社会のしくみをとらえるということである。(勝田1972a:47) 】(P.191-192)

 神代氏は「教育的価値」としてのケアの提起は、現代の子どもたちが置かれている深刻な状況に対する「子ども理解」の取り組みの意義に通じると同時に、「教育 education という語の古層を歴史的に振り返り、復権させるという側面を持つ」(P.191)、「教育の古層の現代的復権を意味している」(P.192)と意義づけます。


 
3-2.自治という教育的価値

【政治と教育は、つまるところどのような関係にある(以下2文字に傍点)べき(●●)なのか、「よい教育」のなかに、政治はどのように位置づけられるのか-、この古典的な難題について、わたしたちの教育の歴史と現在から回答するなら、そこには必然的に、民主主義あるいは自治という語の教育(学)的理解が含まれることになるでしょう。これを、自治の教育的価値説と呼びたいと思います。】(P.192)

 「よい教育」における政治の位置づけを考える上で「民主主義あるいは自治という語の教育(学)的理解が含まれる」ことは必然だ、と神代氏は述べています。神代氏は「語の教育(学)的理解」という慎重な書き方をしていますが、私はこれは《民主主義/自治は教育的価値だ》という主張とほぼ同義だという意味だと受けとめました。もちろん私自身もそうであると考えます。
 だから神代氏はここで、なぜ民主主義/自治が教育的価値なのか? と問いかけてはおらず、民主主義の「よさ」自体について語り、その上で【<自治>という主題】の【入れ子構造になっている二つの課題】を次のように提示します。
  1つめ:【教師と子どもという指導-被指導の垂直的な関係のなかから、いかにして子どもたちの自治を生み出すか】(P.192)
 2つ目: 【子どもたちによる<みんな>の質の絶えざる追求】(P.193)


 ⇒T.Satou:このあたりは第8章「民主教育論」での中村清二氏の議論と深く絡んでいると思われ、恐らく本書編纂の過程で両氏の意見交換が行なわれていると推察されるので、その議論を聞いてみたいなと思いました。 


 「自治」に関わる検討の最後に神代氏は、【蛇足ながら理論的な整理】(P.194)として、以下のように述べます。

【ここでいう民主主義や自治といった事柄は、それを経験することによって子どもが成長・発達するという意味での手段(方法)としてのよさを持つものであると同時に、それを(失敗も含めて)経験すること自体がその子たち自身の生のよさの一部であることは、強調されてよいと思います。本章は先に、成長・発達という人間の生のよさと、それを導く教育のよさ(教育的価値)という、互いが互いを高め引き出し合う二つのよさについて言及しましたが、民主主義や自治は、その両者にまたがった価値だということです。
 このことは逆に言えば、発達という、心理学に由来し、また個体の変容に焦点化された表現を今後も教育学の中心概念として維持するかどうかという理論的問いを惹起するかもしれません。発達を、民主主義的に生きるという集団のあり方としてのよさを含んだ概念として読み直すか、それとも別のカテゴリーとして理解するか、ということです。】(同)

 ⇒T.Satou:とても興味深そうな示唆が最後になされているようなのですが、残念ながら私にはよく理解できません。ただ、ふと思うのは、
「成長・発達という人間の生のよさ」「教育のよさ」「両者にまたがった価値」という特質は、一つ目に取り上げられた「ケア」については言えないことなのか、ということ。私自身に何か考えが合って疑問を提起しているわけではありませんが。


 さて、この項のまとめです。

【ケアと自治-、この二つの主題こそは、日本の教師たちが歴史的に探求してきた/現代の教師たちもまたその探求のうちにあって、いままさに自覚されつつある、教育の「よさ」と呼ぶに相応しいなにかです。これをわたしたちの・現在の・教育的価値に数え入れることは、「歴史的な変化に規定されて発展すると同時に、それ自身がまた、のちの教育的実践の指標ともなり、理念となる」(勝田1973a:436)ものであるところの教育的価値の性格規定に照らして、まったく適切であるように思われます。】(P.194)

 ⇒T.Satou:この部分の記述の趣旨に全く異議はないのですが、ここに来て登場する
「日本の教師たち」「現代の教師たち」「教育的価値」「探求」の《主体》(佐藤註・この言葉は使われていません)であるということがらです。
 もちろん当然の前提として、私は《教師が「教育的価値」探求の主体である》という事実にも主張にも賛同するものです。ただ私が引っかかっているのは、神代論文がその語り始めから、
「教育的価値」の探求を「教師」による営みとして措定していたのかどうか、ということです。
 (実はこの問いに関わる自分の考察を、私がまだ検討を残している神代論文の一番最後の項目
(3-3)についての考察の後に、つまり本「学習ノート」の最後の部分に回そうと一旦は考えたのですが、考え直してここに続けることにしました。神代論文の構成全体に関わる問いではあるのですが、少し3-3に入り込んでみて、3-3を読む前のコメントとして出してしまった方が私の考えの流れとしてはすっきりするように勝手に思えたからです。)

 自分はイヤラシイ論文の読み取り方をしてるのかな、と若干危惧しつつも、もう一度神代論文の冒頭から、
「教師」の語を含むフレーズを全部ピックアップしてみることにしました(下線は佐藤)。

●教育的価値(よさ)は、教師の自由な教育実践が提起するさまざまな(以下2文字に傍点)よさの総体につけられた、仮の名前(仮説的概念)です。だからそれは、既に定まったものではなく、教師の実践的探求によってその都度豊かになっていく、歴史に開かれた概念であるといえます。(はじめに P.174)

●現実をどの方向に変えていくべきかという理想論、理念、「そもそも」論、「べき」論、つまりは教育的価値論は、決して不要な旧教育学の遺物ではなく、むしろ新自由主義やグローバル化が子どもと教師と保護者をますます生きづらくしていく現代だからこそ、なお一層必要なものではないでしょうか?(同 P.175)

●これは、経済や政治の要求に即応できない親や教師たちの無能さを示すのでしょうか?/そうではないと思います。彼らは(以下5文字に傍点)劣っているのでは(以下2文字に傍点)なく、(以下2文字に傍点)別の価値、(以下2文字に傍点)別の関心に突き動かされているとみるべきです。この端的な事実-親や教師は、経済や政治のことだけを考えて教育をしていないという平明な事実-に、教育に固有の価値というものの、少なくともその存在が、示されていると言えます。(1-1 P.177)

●教師は、教育実践の前に、ではなく/あるいはそれと同時に、実践の(以下3文字に傍点)なかで、子どもの発達をつかみます(「子ども理解」)。(1-2 P.179)

●また、そのような教育的価値の自覚(認識=実践)は、一人の教師の孤独なしごとではありません。(2-2 P.185)

●教師は必ずしも自分自身の実践の価値(「共通のねうち」)を正確に自覚しているとは限りません。一般に教師は、実践のプロではあるでしょうが、必ずしも実践を語るプロではないからです(むろん例外はありますが)。子どもの成長・発達とそれを媒介する教育のよさの螺旋的な前進は、それが自覚されるために、掘り起こされること、表現されることを必要とするのですが、それは、一人の教師の孤独な作業としてではなく「なかま」の存在によって、「なかま」との共通の財産という形でこそ可能になるというわけです。(同 P.186)

●これまでの議論から、当然ながらそれは、現代の教師の実践的な努力のうちにその原石が見出される類のものです。(3P.190)

●実際、現代の教師たちのなかには、子どもの生の質を気遣うこと、理性的な「意見」というよりは、情動の発露としての「声」を聴きとることを試みる人たちも、少なくありません。(3-1 P.190)

●これを教育の世界において表現するなら、クラスの子どもたち全員が、<みんなの利益>という考え方に基づいてなにかを決定する決定主体であること-日本の教師たちの伝統的な言い方で言えば<自治>-こそが、それにあたります。(3-2 P.192)

●一つは、教師と子どもという指導-被指導の垂直的な関係のなかから、いかにして子どもたちの自治を生み出すか、ということです。教師-生徒という垂直的関係は、学校という人間形成方式の基軸ですから、教室の民主主義(自治)の追求は、学校において学校に抗するという実践的/実験的な挑戦の形をとります。(同 P.92-193)

●教師からの子ども集団の自律は、必ずしも子ども集団自身の民主主義を保障しません。(同 P.193)

●しかしここでは、それらに先行して、日本の教師たちが伝統的に積み重ねてきた、生活指導という営みの教育的価値についても強調しておきたいと思います。(同P.193)

●ケアと自治-、この二つの主題こそは、日本の教師たちが歴史的に探求してきた/現代の教師たちもまたその探求のうちにあって、いままさに自覚されつつある、教育の「よさ」と呼ぶに相応しいなにかです。(同 P.194)

(※ここから後は、本「学習ノート」でまだ検討していない神代論文最末尾の部分です。)

●ケアと自治という先の新しい教育的価値(候補)は、どちらかと言えば、教師の実践的努力において探求されてきたものを理論が後を追って概念化するという経緯をたどっています。(3-3 P.195)


 以上のように、(私の見落としがなければ)神代論文において「教師(たち)」の語は計20回にわたって登場しています。もちろんその全ての箇所で「教師」という存在が「教育的価値」と直接に結びつけて語られているわけではありませんけれども、神代氏が「教育的価値」の探求の実体的な担い手、主体として教師を念頭に置いていることは十分に読み取れます。いやそんなことは、わざわざ確認する必要もない、自明のことでした。
 にも拘わらず私がなぜ神代論文における教師の営みとしての「教育的価値」の措定のされ方について疑問を感じたのか?
 先の
「教師(たち)」の登場回数を論文の構成部分に分けてもう一度みると、以下のようになっています。
 
 はじめに…  3回     〔10回〕
  1-1  … 2回     〔 1回〕
  1-2  … 1回     〔 3回〕
  2-1  … 0回     〔 4回〕
  2-2    …  4回     〔 1回〕
  3       …   1回     〔 5回〕
  3-1  … 1回     〔 3回〕
  3-2  … 7回     〔 2回〕
  3-3  … 1回     〔 2回〕
           (計20回)     〔計31回〕

 だから何なんだ? と言われそうだし、行論との関係で
「教師」の出現頻度が変わるのは当然のことなのですが、全体の流れを見ると、
  
はじめに
  2-2.教育的価値の自覚の条件
  3-2.自治という教育的価値

の3つの部分で「教師」の語の登場回数が多く、他の部分では少ない、ということがわかりました。

 もう一つ、私の疑問の別の原因が見つかりました。それは上記の表に
〔 〕の表記で示しているものです。これは、神代論文の各文章の主語として「わたしたち」が使われている回数です。全体で31回使われています。(取り急ぎ本書の各章をざっと概観した限り、他の執筆者による各章の行論において「わたしたち」という主語を置くという共通の特徴は見られないので、この語法は神代論文独自のものと思われます。)
 そこで、もっとも
「わたしたち」の登場回数が多い「はじめに」に限定して、登場箇所を改めて抜粋してみます。「教師」については、本「学習ノート」のここまでの部分では引用していなかった箇所も含んでいたので、文章単位で引用しましたが、「はじめに」は既に一度ほぼ全文近くを引用しているので、「わたしたち」が登場する文脈が最低限わかる範囲で短く引用します。

●わたしたちが教育的価値という言葉を使うとすれば(P.173)
●わたしたちが教育一般からよい教育を区別するときの指標(P.174)
●わたしたちの歴史における教育の探求(同)
●わたしたちの歴史のなかに息づいている(同)
●よい教育をめぐるわたしたちの探求の指標(同)
●なお一層わたしたちはその現実のただなかで(P.175)
●教育的価値という語がわたしたちに呼びかけている声に気付くこと(同)
●教育的価値は、わたしたちに、<人間形成の技の探求という、人類の共同的・歴史的な道行きへの参加>を呼びかけています。(同)
●わたしたち自身が「よい教育とはなにか」を問い始める(同)
●現代におけるわたしたちの教育的価値についての仮説を提起する(同)


 さて、この
「わたしたち」とは誰でしょう?
 もちろん神代氏が含まれるのは自明ですが、それ以外にどの範囲の人々を包括しているのでしょうか?
 人類全体、人間社会の構成員全体ではないと思います(但し、
「教育的価値は、わたしたちに、<人間形成の技の探求という、人類の共同的・歴史的な道行きへの参加>を呼びかけています。」(P.175)という文章から、人類の壮大な事業に共に参加する「わたしたち」という想定はあるようです)。
 教育というものに、良心的に、善意を持って関わっている、関わろうとしている人の全体を一般的抽象的に指すのでしょうか?
 それとも、教師、子ども、親、教育研究者、地域住民……等々の、広範囲ではあるが具体的に特定できる人々を指すのでしょうか?
 それとも、もっと他にこの主語の含意があるのでしょうか?

 ここからは私の勝手な考え方ですが、
「教育的価値」とは、それが具体的にどのような内容のものであれ、一人ひとりの人間の頭の中に(さまざまな経緯を経て)思い浮かび像を結ぶものだと思うのです。《わたしたち》という複数形主語の行為の結果としての「集合意志」?ではないと思います。一人ひとりの具体的人間の「教育的価値」に関する(他の何についても、ですが)思考が交流されることを通じて多数の人の「教育的価値」に関する合意が形成されるということはあり得る事態だと思うし、それをもって《わたしたちの教育的価値》と呼ぶことも可能でしょうが、その合意のもととなる価値観・価値判断の形成過程とその内容は、個人によって違い、全く同一になることはあり得ません。
 そして、それぞれに
「教育的価値」を形成していく人々は、その置かれている場、環境、関わっている人間関係などによって、異なる価値観形成(やその変化、更新、動揺、自己否定など)を経験するはずです。「教師」「子ども」「親」などとそれぞれ一括りにすることも正しくないでしょうが、少なくともそれぞれ立場の違いによって、それぞれの個人の「教育的価値」に対するアプローチの仕方も、当面大事にしたいと考えることも、異なってくると思います。個々の人間における「教育的価値」の形成とか探求とか変容いうのは、そういうもんじゃないでしょうか。

 以上、
「教育的価値」の形成・探求の「主体」に関わって私の個人的見解を述べてきましたが、以下の神代論文最終項目を読むと、私ももう少し違う枠組みで「教育的価値」について考えるべきなのかな?と、また揺さぶられることになりました。


 3-3.能力の承認と自己決定の相克-未決の教育的価値

【最後に実験的に問いたいのは、教育的価値なるものの成立において理論が先行しうる可能性についてです。ケアと自治という先の新しい教育的価値(候補)は、どちらかと言えば、教師の実践的努力において探求されてきたものを理論が後を追って概念化するという経緯をたどっています。では、その逆はないのでしょうか。要するに、理論によって予感され、実践に手渡されるものとしての教育的価値の可能性はないのだろうか、ということです。この理論→実践の方向性を模索するうえで、筆者は以前、ドイツの社会哲学者A・ホネットの承認論と呼ばれる理論を援用したことがあります(神代2016)。ここでその議論をいま一度援用しておきたいと思います。】(P.195)

 私はかつて、上記神代論文「教育学の承認論的展開?-あるいは、アナクロニズムの甘受について-」(田中拓道編著『承認-社会哲学と社会政策の対話』所収 法政大学出版局 2016)にもとづく神代報告「現場とつながる『承認』の教育学」(教科研若手の会(西) 2016.6.19 西宮市)を聴きに行きました。たぶんその時が神代氏の研究報告を拝聴した最初の機会ではなかったかと思います(続いて2016.12.17の京都教科研特別例会で、神代報告「『~べき』の復権のために -勝田守一の批判的継承-」を聴きました)。田中拓道編著『承認』という分厚い集団的労作も、西宮市での研究会参加のために入手しました(但し、神代論文以外の諸論稿について今後自分自身が理解し学び深められる見通しが立たなかったため、『承認』はその後の断捨離作業の中で手放しましたが)。

 そのように学ばせていただいていること(しかも残念ながらその学びを十分に自分自身に関わることとして深められていないこと)を表明した上で、この神代論文最終部分の紹介は、依拠されているホネットや勝田の言説をぎりぎりまでカットして(私自身が理解を深められていない神代氏のホネット・勝田援用を、二次的に援用しても意味がないという意味で)、神代氏の【三つ目の新しい教育的価値】定立の模索、試みの思考の筋と思える部分だけを引用することにします。

【ホネットが提唱した「承認論」によれば、諸個人が自由で善い人生を追求できる善い社会とは、少なくとも三つの意味での承認(愛、法、連帯ないし社会的価値評価)の契機がある社会です。】(P.195)

【ここまでの説明で、読者は、この愛と法の承認が、先に触れたケアと自治という新しい教育的価値のアイデアと一定程度対応していることに気付いたのではないかと思います。】(P.196)

【筆者としては少なくとも、日本の教師の伝統的なしごとは、ホネット、またそのアイデアの源泉であるヘーゲルという偉大な哲学者が深めた人間の自己実現の条件と重ねても遜色のない深度を持っている、というように捉えておきたいと思います。】(同)

【能力の価値は、その所有者個人の生存を豊かにすると同時に、他者あるいは社会の福利の増進に寄与することから生じるということ-これが、勝田(ヘーゲル=ホネット)的な、能力の価値に関する議論です。そしてそのことの自覚そのものが、子どもたちを、さらなる学習へと誘うということが述べられています。
 それは、教育的価値論にいかなる意味を付与するでしょうか。一つには、教育はそもそも能力の増進を目指すものであり、したがってある教育がより能力を増進しうる性質をもつとき、その教育は、教育的価値を持つということが言えます。これはむしろ、よい教育というときのごく一般的な規定でしょう。ただし、ここにいう能力の価値論が前提されるならば、教育は、学習者の個人的な利益を促進するだけではなく、彼の力量が社会全体の福利につながるよう導くという側面を含まなければならない。また同時に、自己自身の利益だけではなく、より広範な社会的利益を追求するように、子どもたちを動機づけることも必要でしょう。
 ただし、このような能力の承認による自己実現というい主題は、かなり微妙な問題を孕んでいるというのも事実です。】(P.197-198)

【むしろ、わたしたちが着手すべきなのは、教育界を市場から遠く引き離すことでも逆に全面的な市場化でもない、もっと微妙で繊細なその「中庸」を射抜くことでしょう。つまり、教育が市場に置き換えられること(競争と選抜のシステムの全域化)に抗しながら、しかし子どもたちを、市場を含む社会へと適切に準備させていくような教育の構想です。
 この適切さのカギはおそらく、子どもが自分自身の人生を選んでいく「自己決定」の質です。子どもが将来どのように生きていくかを決定する、その決定が、社会による評価の一方的な内面化ではないという意味で、より真正なものになっていく-そのような自己決定の質、選択の質を高めていくということが、ここでぼんやりと浮かび上がるもう一つの教育的価値といえるかもしれません。】(P.199-200)

【職業選択の契機も含みつつ、その教育(実践)がもっている、学習者が自分自身の生き方を適切に選択することを助ける度合い-これをここではぜひ、教育的価値の候補の一つに数え入れたいと思います。】(P.200)

【この三つ目の新しい教育的価値のプロジェクトは、新自由主義が浸潤しつつある教育の世界を立て直すと同時に、新自由主義という政治的、社会的、経済的危機を克服するような社会像の追求を、わたしたちに課しています。新自由主義(市場の全域化)に抗する教育のよさと社会のよさを同時に探求する、政治・経済・教育の領域横断的な対抗的プロジェクト-そのための新しい連帯が、必要なのです。

 ものすごく荒っぽくまとめると、(ヘーゲル・)ホネット(・勝田)に依拠しながら、新自由主義の社会へと子どもたちを「適切に準備」させつつも、同時に新自由主義に抗し、それを克服することをめざす教育的価値と社会像の創出を企図する、という構想が、現実を十分に踏まえて控え目な形で提案されている、と捉えました。


 ⇒T.Satou:そこでやはり、本項(3-3)の前の部分での考察に戻らざるを得ません。本項の冒頭で神代氏は、
「教師の実践的努力において探求されてきたものを理論が後を追って概念化する」という「教育的価値」の成立過程とは反対に、「理論によって予感され、実践に手渡されるものとしての教育的価値の可能性」(P.195)について考えたいと述べていました。また 「日本の教師の伝統的なしごとは、ホネット、またそのアイデアの源泉であるヘーゲルという偉大な哲学者が深めた人間の自己実現の条件と重ねても遜色のない深度を持っている」(P.196)と述べています。「人間の自己実現の条件」の考察とは「教育的価値」の探求と重ねて理解してよいものでしょう。
 この書き方から見ると、神代氏はヘーゲル→ホネットや勝田という人間に関する思索の専門家が示唆してくれている
「教育的価値」と日本のすぐれた教師たちが実践の中で編み出していった「教育的価値」について、両者のどちらが時系列的に先に生みだされたものであるかにはさほどこだわっていないようにも見られます。しかし一方、《新自由主義との挌闘》ともいう現代の教育実践者に課せられた重く難しい課題を前にするとき、たとえ実践による突破を先行して進めることができなくても、ホネット「承認論」などから示唆を得てまだ実践的・現実的基盤は持ち得ていない「教育的価値」を積極的に提起することによって、教育実践を積極的に刺戟することは可能だ/ではないかと言いたいのでしょうか。
 その提起は私にも理解できるし、教育に関わり教育を理論的にも考察してきた者の一員として大いに勇気づけられもします。
 しかしまたそこで、継続している私の疑問が頭をもたげます。新たな
「教育的価値」「理論によって予感」(P.190)し、「実践に手渡」(同)す、その認識と行動の主体は、誰なのでしょうか?
 
「教育的価値」について専門的に考察することを職としている教育学研究者なのでしょうか。
 あるいは、(教育学研究者が多くの場合兼任している大学教師を含めて)学校現場を活動拠点とする教師たちが、仕事の日々の進行とは別に何らかの機会に教育の現実を省察してそこから教育的価値を定立し提案する可能性についても想定しているのでしょうか。いやいやそれは逆方向=
「教師の実践的努力」(同)「概念化」(同)なのだ、ということでしょうか。
 現実には、上述のように教育学研究者も多くの場合大学教師としての実践を自ら行なっており、また教師として教育現場にいながら学会、専門的研究会等に参加して学的コミュニケーションに参加する人もいます。だから、
「教育的価値」に関する理論的提起をしたりそれについて他者とのコミュニケーションを行なう《主体》をそうでない人と截然と区別することはできません。また、そうした区別・区分・分断は、教育実践と教育学研究の進展にとって好ましくないと考えることもできます。
 神代氏が本論文で教師についても子ども・親等についても言及しながらも多くの箇所で
「わたしたち」という主語で「教育的価値」を探求するいとなみについて語ろうとしたのは、  「『よい教育とはなにか』を語りだそうとする意志」(P.188)を持つ全ての人々が「ノイラートの船」(P.187)に乗り込んで「教育的価値」について語り合い、交流し合い、その中から新たな「教育的価値」を生み出していく、そのような集団的ないとなみを一つの理想として、そこに向けて歩を進めていこうと考えているからであり、乗船にあたって乗員となろうとする個々の人間の所属や属性を問い、それに基づいて議論に参加する人の地図を作り上げることは建設的なことではない、と考えるからでしょうか。


 いずれにしても、神代論文から多くのことを学ばせていただきながらなお、「教育的価値」について、常にその個別具体的な担い手=主体を想定するという思考から離れずに神代論文を読み終えた私の作業が、実は根本的な読み誤りや混乱であったとならば、私なんと非生産的・非建設的な学び方をしてしまったのだろうか......という危惧から離れられないままに、この長いコメントを終えたいと思います。

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