40 読書ノート 吉益敏文『SOSを出しつづけて―私の体験的教師論』(清風堂書店)

 (2024.9.13刊行 2024.9.13-18通読 2024.9.1920ノート作成)
 私は2019年にふるさと京都に戻る少し前から京都教科研の例会に参加させていただいており、そこで吉益敏文先生と交流させていただいています。
 私の「佐藤年明私設教育課程論研究室のブログ」に、これまでに吉益先生の論文・著書(共著含む)について、以下のコメントを掲載させていただきました。

●25(2022.12.13) 【アーカイブ 09】教育学文献学習ノート(8)吉益敏文「教職志望の学生がもつ『子ども理解』概念についての考察-大学生の授業感想をもとに-」(2018)/「人間発達援助職としての教師論の考察(1)-勝田守一の教師論に着目して-」(2020)
  https://gamlastan2021.blogspot.com/2022/12/25-09820182020.html

●26(2022.12.13) 【アーカイブ 10】 教育学文献学習ノート(9)吉益敏文・山﨑隆夫・花城詩・齋藤修・篠崎純子『学級崩壊 荒れる子どもは何を求めているのか』(高文研 2011)
  https://gamlastan2021.blogspot.com/2022/12/26-10-9.html

●27(2022.12.16) 教育学文献学習ノート(30)吉益敏文『子ども、親、教師すてきなハーモニー』(かもがわ出版 1995)
  https://gamlastan2021.blogspot.com/2022/12/2730.html

●29(2023.3.16) 教育学文献学習ノート(32)吉益敏文「生活綴方を実践する教師の『まじめさ』に関する考察――5人の教師の聞き取りから――」 (武庫川臨床教育学会『臨床教育学論集』第14号 2022)
  https://gamlastan2021.blogspot.com/2023/03/2932-14.html

 上記コメントの3番目までは、2022.12.17開催の関西教育科学研究会学習会(兼 京都教科研第341回例会)における吉益先生の講演「SOSをだしながら続けてこられた-教科研をもうひとつの学校として-」に向けての自分の準備学習の記録でもあります(4番目のものはその後吉益先生からご論稿をいただいた際に書きました)。

 本書「終わりに」での吉益先生の解説によると、【本書をまとめるきっかけは関西教科研の集会で石本日和子さん(教育科学研究会副委員長)が私の拙い歩みの発表を企画していただいたことがきっかけです。】(P.357)とあります。上記のように自分なりに準備学習を続けてきた私も、もちろんこの関西教科研集会に参加しました。吉益先生はこの集会で「SOSをだしながら続けてこられた-教科研をもうひとつの学校として-」と題してご自身の教育実践史・教師生活・教育運動を振り返る講演をされました。私の手元には27ページに及ぶ吉益先生の重厚なレジュメが残っています。
 吉益先生は小学校教師を退職され、また長年勤めていただいた教育科学研究会副委員長の任を近年降りられましたが、現在も大学教員としての仕事を続けておられます。ですからまだ自らの教育実践を集大成する地点に立っておられるわけではないと私見では思うのですが、それでも吉益先生が自らの教師生活を振り返りながら「体験的教師論」を世に問われることには大きな意味があると考えます。

 本書の構成は以下の通りです。



 私自身、ここ数年にわたって吉益先生に近いところで教育実践研究に取り組むことができ、上述のように吉益先生の実践報告・研究論文も多数読ませていただきました。ですから、本書に収録されている教育実践記録や教育運動の記録、その中での吉益先生の子どもを見つめる眼差しや教師としての仕事に難渋した時の苦闘などについては、これまでにも読ませていただき、また冒頭に提示した自分のブログ投稿の中で私なりの感想も書かせていただきました。ですからそれらの述懐と重複することは避けて、本書の感想を二点述べたいと思います。

 第一点は、本書が吉益先生が教師生活の中でそれぞれの時期に書かれた報告や論文の単なる集成ではないということです。
 吉益先生は本書「はじめに」で、各章の趣旨に簡単に言及した上で以下のように書かれています。

【それぞれ初出の論文から若干の加筆修正をしています。ただ当時の雰囲気、時代背景もあるのでほぼ原文のまま再録しています。重複している箇所や現代からするとやや気負いや不適切な表現もあるかもしれませんがご容赦下さい。】(P.5-6)

 この断り書き自体は特に珍しいわけではありませんが、本書を読んでいくと確かに前述のように私が読んだ吉益先生の既出の実践報告として記憶にとどめている内容が収録されているものの、それらの実践の記録を吉益先生が現在の時点でもう一度吟味し直されて、実践の経緯や現時点での思いを付け加えて《編みなおして》おられるのではないかと思われます。
 一例ですが、本書第1章「2.突然の『担任交代』の講師経験」の末尾(P.24)には、「【初出】『子ども、親、教師、すてきなハーモニー』1995年、かもがわ出版、159-161頁」とあります。その紹介に従って原著を見ると、「つらくなると思い出す言葉」(原著P.159-161)という文章がありました。1995年刊の原著の一番最後のエピソードです。6年生を2学期から担任した子どもたちとの十数年ぶりの同窓会の話です。その席で同窓会を前に交通事故で他界した川野さんのことが語り合われます。字がきれいだった川野さん。臨時教員だった吉益先生に卒業の時に心温まるメッセージを送ってくれました。吉益先生はそのメッセージを同窓会で紹介します。そして【私はつらくなったり悲しくなったりすると、いつも川野さんが言ってくれた言葉を思い出します。それは、人間を大切にする教育、一人ひとりのよさを認め、間違いや欠点を励ましていくことの大切さです。】(原著P.161)と書いておられます。
 上記の6年クラスの同窓会と川野さんのエピソードは、本書第1章「2.突然の『担任交代』の講師経験」の後半部分で紹介されています。直前の第1章1の末尾で、吉益先生が教師に採用される前の4年間の非常勤講師生活の中で年度途中の6年生を担任したこと、そしてそれは著名なベテラン教師B先生が不当に担任を降ろされたあとの後継という異常な状況の下であったことが紹介されます。そして第1章2では吉益先生が着任してからのことが書かれています。
 B先生ともサークルで交流があり親しかった吉益先生ですが、講師という立場上職場では校長の指示に従いB先生と対立しているように振る舞わねばならず、神経を使われたそうです。その中で吉益先生はとにかく子どもたちと仲よくなり、子どもたちを知りたいと願い、自分の名前の由来や小さい頃の写真、小学生の時の詩を子どもたちに紹介します。また、【彼らのエネルギーを教室で発展させる一つとして】(P.18)学級クラブを作ります。つりクラブ、UFOクラブ、鉄道クラブ、手芸クラブ、ソフトボールクラブなどができます。本書では鉄道クラブの子どもたちの作文が紹介されています。
 それぞれの子どもの関心にそって組織されたクラブ活動ですが、吉益先生はそれらのクラブ活動について学級の中で交流します。

【私は子どもたちが書いた文を読み合い、語り合う時間ということで、作文の時間を週1時間とっていました。3~4人の子どもたちの作文を2~3枚の文集にしてじっくり読み合いました。そんな時間は、時には、しんみり、時には爆笑するのでした。子どもたちが生活の中で取り組んでいることを積極的に励ましのばす場として大切にしていました。】(P.21)

 このような臨時教員吉益先生と6年生の子どもたちとの交流が描かれた次のページに【その子どもたちが20歳の時、最初の同窓会をしました。そこでのひとこまです。】(P.22)とあって、そこで原著P.159-161のエピソードが紹介されているのです。
 さらに本書ではそれに続いて第1章「3.40年ぶりの再開」として、その同じ6年4組の卒業生達と2017年7月に再会したことが綴られています。そこにはB先生も参加されたそうです。

 突然ですが、私自身は冒頭に紹介したブログ投稿の中の「教育学文献学習ノート(30)吉益敏文『子ども、親、教師すてきなハーモニー』(かもがわ出版 1995)」 で、以下のように書いたことがあります。

「最初に紹介したように本書は『赤旗』日曜版紙上での吉益先生の連載を再構成して刊行されたものであり、一話完結の短いエピソード群を綴っていく形式の本です。刊行時点で40代前半であった吉益先生の小学校教師としての編年史的な実践記録ではないし、中堅教師の年代におられた吉益先生の、教科の授業実践とか生活綴方とか子どもたちとの関わりや学級集団づくりとか親との交流・共同などを分野別にまとめた実践書でもありません。第三者の読者の私がおこがましく評させていただくとすれば、教師としての子どもたちや親との日常を、吉益先生自身の幼少期、恩師、家族とのエピソードを織り交ぜながら語ったエッセイ集、戸惑い失敗もしながら模索してきた「教師としてのつれづれ」を描いた日誌風記録、ということにでもなるでしょうか。」

 上記の文章には持って回った書き方をしていますが、私には長年にわたり教育実践・教育運動に取り組んでこられた吉益先生の教師人生の《編年史的記録》を読みたいという願望がありました。
 また自分のブログの一番最近の投稿「教育学文献学習ノート(34) -1倉持祐二『食べることから始めてみよう~生活科・社会科・総合的な学習~』(喜楽研) 」の最後にでは、次のように書いています。 https://gamlastan2021.blogspot.com/2024/09/3934-1.html

「実践の手引き的役割も意識して編集されていると思われる本書は、全体として大変わかりやすく楽しく読めるのですが、一人の教師である倉持さんが同僚教師とともに奈良教育大学附属小学校の同僚と協力し、民間教育運動からも学び、そしてなによりその時々に出会う子どもたちや親たちと関わりながら実践をつくりあげてきた、その苦闘の(と、私が勝手にドラマに仕立ててはダメですが^^;)実践史を、小学校を離れて京都橘大学で教員養成に取り組んでおられる現在の地点からどう振り返っておられるのかを、いつか聞かせてほしいなと願っています。」

 こちらでは《編年史》とは書いていないんですが、やはり長い実践経歴を持つ実践家の実践経歴をできれば時系列に沿って総括されたものを読みたいという自分の気持ちが滲み出ています。

 しかし、今回吉益先生の本書とそれ以前に公表された実践記録との関係を少しだけ追跡してみて、教師の活動歴から学ぼうとする私のような研究者にとっても、《必要なのは編年史ではない》と考えるようになりました。もちろん年表的な実践の事実の列記も教育実践を研究する上で参考にならないわけではないですが、それより大事なのは実践者としての教師の《意識の流れ》ではないかと思います。そしてもちろん《意識の流れ》というのは、当事者自身によってしか辿れないものです。

 私はここまでの本書第1章の読み取りを、臨時講師吉益先生の6年担任→同窓会での再会→40年度の再・再会、という流れで紹介してきました。しかし、第1章の最初にはここまでで紹介していない「1.アオギリ事件?(私の1、2年生の思い出)」が掲載されています。1995年の原著ではP.48-50に紹介されているエピソードです。「いじめられっ子」でよく泣いていた吉益くんをかばってくれた担任のH先生を吉益くんは大好きでした。ところが2年生の時に理科で冬の植物をさがしてくるという宿題が出て、吉益くんは友だちの大田くんと数メートルもあるアオギリを探し当て、ナタで切ってH先生に届けます。翌日、先生に褒めてもらえるものと思って登校した吉益くんは、H先生に激しく叱られます。先生は吉益くんたちが学校のアオギリを勝手に切ったと思ったのです。先生はさらに職員室で先生たちに謝るように吉益くんに命じますが、しかし吉益くんはどうしても「ごめんなさい」と言えません。納得いかないからです。その後吉益くんがアオギリを切ったのは学校外の空き地だったことがわかります。H先生は何度も吉益くんに謝られました。

【それ以来H先生は、私に会うたびに「あの時はごめんね。今も心が痛みます」と言われます。
 私は、あの時の、怒ったH先生の顔を今でも覚えています。もちろん、いつも私のことをかばってくれたH先生の顔も。それ以上に、私にあやまったH先生の真剣な顔を決して忘れることはありません。
 H先生とは今でも年賀状のやりとりが続いています。そして「吉益君、どんな時も、子どもの心の痛みのわかる先生になって下さい」と励ましのメッセージを送って下さいます。
 今、私はH先生のような教師になりたいと思っています。
 でも、どういうわけか、私は、アオギリ以外の植物の名前はなかなか覚えられないのです。】(P.14-15)


 本書では上記の原著のエピソードの再録の後に、吉益先生は以下のような文章を付け加えておられます。

【※H先生には結婚式にも出席していただきました。現在90歳になられていますが毎年、水墨画の個展をされているのでお会いしています。そのたびにアオギリ事件?のことを話して笑っています。

 H先生のような子どもの心の痛みがわかるような教師になりたい。そう思って教員採用試験を受けることにしました。(後略)】(P.15)


 そしてこの後、前出の不当に担任を降ろされたB先生の後を受けて6年4組を担任した話へと続いていくのです。
 40年ぶりの6年4組卒業生との再会のエピソードの後、第1章の終わりで吉益先生はこのように述べています。

【初心を大事にしなければ、H先生のような教師になりたい、B先生のように困難な事態にあっても屈しない教師になりたいと思いました。けれども正式採用された私は鼻もちならとがった教師として歩んでいきました。まさに失敗の連続でした。自分自身の教師像についていくつか考えた論文を紹介します。】(P.26)

 第1章の記述を、どう読めばいいでしょうか。臨時講師として担任された6年4組の子どもたちとの出会い、そしてその後の二度の再会のエピソードは、教師と教え子の交流の《編年的》な記録と言えなくはありません。また、幼い時のH先生との出会い、教師になってからのB先生との交流は、その後の吉益先生の教師としての成長を支えていて、それも一つの《編年的》な自己形成史であると言えなくもありません。ですが、今の私には《それで何が言えたというのか?》という自問の方が強いです。
 H先生は弱い吉益くんを温かく支えてくれました。しかし一度、吉益くんには納得することができない罪を着せてしまいました。そしてそのことをその後何度も何度も吉益くんに謝ります。また教師となった吉益先生に「どんな時も、子どもの心の痛みのわかる先生になって下さい」と願いを語ります。吉益先生は「H先生のような子どもの心の痛みがわかるような教師になりたい」という思いで教師になります。しかし同時に、「アオギリ以外の植物の名前はなかなか覚えられない」という一種の心の傷を抱えておられます(と、私は解釈しました)。
 講師だった吉益先生はB先生を尊敬しており、その後も長い交流が続いているようです。しかし、担任を引き継いだこと時は、校長の手前もあり、B先生と対立を演じなければなりませんでした。
 教師である限り、様々な機会に《何が正しいことであり、何が間違っているか》を判断することが要求されます。しかし、その判断が間違うこともあるのです。間違った結果、教師が子どもを傷つけることもある。その後了解ができて和解したとしても、傷が残ることはあるのです。過去の事実を消しゴムで消すことはできません。消せない事実を抱えながら教師は仕事を続けていくしかない。
 私は40年以上教員養成大学で仕事をしてきて、その初期には《小学生の時素晴らしい先生に出会ったのであのような先生になりたいと願って教師をめざしている》という話を学生からよく聞きました。もちろん、その人の経験や教職へのあこがれの動機は尊重しなければなりませんが、《いつもやさしく》《いつも自分の味方でいてくれた》教師だけが心に残り、教職への動機となるとは限らないということを、吉益先生とH先生とのエピソードを読んで思います。そしてまた、吉益先生のH先生像は担任してもらった小学校1・2年生の頃から変わらないのか、それとも自ら教師としての経験を積まれる中で変化したのかも知りたい気がします。

 H先生との出会いからB先生との出会いへ、そして6年4組との出会いとその後の交流、これらが吉益先生の《意識の流れ》の中で一繋がりのものとして成り立っているということが重要なのだと思います。《編年的に》語られるかどうかが重要なのではありません。
 そして付け加えるならば、上記引用P.26の末尾にあるように、H先生やB先生との出会いを糧として吉益先生は正規採用後の教師人生を順調に歩んでいった…というストーリーではなくて、「失敗の連続」なわけです。ですが、本書と原著書を対照しながら吉益先生の《意識の流れ》を辿ろうとする試みは、ここまででとどめておきます。

 そこでようやく感想の第二点目に入るのですが(^^;)、本書タイトルにある「SOSを出しつづけて」という吉益先生の教師人生振り返りの視点についてです(2022関西教科研集会講演では「SOSをだしながら続けてこられた」となっていました)。
 「はじめに」には、こうあります。

【本書は「教師になりたい。でも教師には向いてないのでは?」と問い続け「助けてほしい、SOSです」と発し続けた私の体験的教師論です。】(P.4)

 また「終わりに」には、こうあります。

【二つめは自分で抱え込まないで「SOSを出す勇気をもつ」ということです。これは大学の授業で学生さんから教えてもらったことです。まさに私の人生そのものというか、この本のテーマのようなものです。
 「人は自分がリスクを背負うことを覚悟してSOSを出せば必ず手を差し伸べてくれる」助けてくれるということです。これは人事の戦いや「学級崩壊」の時に体験したことから学んだことです。】(P.355-356)


 「SOSを出す」ということ。自分自身がこれまでの42年間の大学教師生活の中で、これができてきたかどうか、という問いが私の前にあります。ですがそのことの前に、吉益先生の述懐を聞きましょう。「第5章 「学級崩壊」現象の体験から 2.一人で悩まないで、思いを語り聞いてもらって 一人では何もできないけれど」からの抜粋です。

【なぜ、休まずに仕事ができたのか。それは職場の仲間の支えが大きかったからだと思います。(中略)
 小学校の場合は、学級担任がすべてを見るために全責任をおっています。どうしても、子どもとうまくいかなくなると(自分の力が足りないから、はずかしいことだ)と思って自分を責め、自分のからにとじこもってしまいます。そうすると事態は進展しないし、ますます悪くなります。できることなら自分の否定的な事象は人に話したくないのが本音です。心がつらくなり、自分に自信がもてなくなります。しかし、一人で悩んでいるだけでは、何も解決しません。
(中略)
 はじめは、自分の恥のように思ったり、無力感に おしつぶされそうになりました。けれど、みんなの前で事実を話していくと気持ちが楽になりました。
 子どもとの関係づくりがスムーズにできないということは、私自身の指導上の問題や弱点があることは明らかです。その上にたって、だからこそ打開の方向を見出すために同僚の知恵と力を貸してもらおうという発想にたつようになりました。
 さらに自分ひとりでは何もできないけど、正直に自分の悩みや苦悩を語れば必ず人は助けてくれるということもあらためてわかってきました。

(中略)
 今まで、あまり話さなかった職場の仲間とじっくり話すようになりました。私自身が、何度も同じことを繰り返して話していたので、聞く側の方は、なかなか大変だったと思います。しかし、実践上、大変事態になっているのに平静をよそおって、何も語らなかったらもっと精神的にまいっていたと思います。実際に「うつ」的な状況の一歩手前の状態だったのですから、職場のあらゆる立場の人に話しました。】(P.249-250)

 すごいな、と思います。すごいと言う前にまず、学級崩壊の中で追い込まれていた吉益先生の状況がいかに大変だったのかを思う必要があるでしょう。そしてその上で、自分の大変な状況を職場の同僚(教員以外の職員も含めて)や組合・サークルの仲間に話して行かれたことがすごいと思います。また、このようにして、医師や薬に頼らずに《うつ一歩手前の状況》を克服していかれたことが、です。
 機械的比較は戒めなけばならない、という大前提のもとに考えます。
 私も教師です。42年間の教師生活の中で何度か、鬱状態になって仕事を休んだことがあります。逆に躁状態になって学生とぶつかったこともあります。授業科目ごとにメンバーが違う多人数講義や、数名を長期間継続して指導するゼミなどが大学教師の教育の場ですから、小中学校の「学級崩壊」のようなことは起こりにくいし、私も経験したことがありません。ただ、メンタルが鬱状態になると授業をすることは、というか、人前に立って何かものを言うこと自体がものすごくつらく、そのために仕事を休んだことがあります。
 休むということ以外に、同僚教師に協力してもらって事態を乗り切るということは、たぶん考えたことがなかったと思います。大学に職員室はなく、一人が一研究室を持っていて、《一国一城の主》です。《どうしたん?ちょっと顔色悪いんじゃない?》とか同僚に声をかけてもらうような機会はほとんどありません。今思えば、だからこそ日頃から意識して同僚と雑談含めいろんな話ができるよう努力しておく必要があったんでしょうね。
 《大学教師と小学校教師》という、またまた《比べる悪い癖》を自重すべきなんでしょうが、そしてまた《大学教師》一般を語ろうとせずに《自分語り》をすべきなんでしょうが、まわりの人たちに率直に《SOSを出す》ということを、自分の人生の中ではできずにきたなあと思います。だからこそ吉益敏文先生という教師に魅力を感じるのだとも思います。


コメント

  1. どこまで今の仕事が続けられるのかはわかりません。
    ただ佐藤さんがおっしゃるように、自分の仕事のまとめというつもりで
    書いたものでなく現時点の覚書のつもりでかきました。

    うまくまとめられませんが、H先生のようになりたいと思いつつ、私はH先生の誤り?と似たようなことを正式採用されて繰り返しおこしています。H先生が自分の教師という原風景でもあり、6年4組の亡くなった教え子の言葉が自分の原点でもあると思っています。教師をいつまでたっても指導力不足であると思います。教師の権力性を自覚しつつ、子どもや保護者に対して負い目を自覚するということでしょうか?対人援助職としての教師の立ち位置についての私の模索です。2つめのひとりでしょいこまないというのは人事のたたかいで学んだことです。リスクを背負うことを覚悟してSOSをだせば人は必ず助けてくれる。「学級崩壊」の時はそんなことを考えていました。それは今でも自分の生き方のひとつの指針です。あまり十分なお答えにはなっていませんがとりあえずのコメントです。佐藤さん ありがとうございました。
     

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    1. 吉益先生、お忙しい中コメントをいただきありがとうございます。
      (実はこのブログが私からの一方的発信に終わることが多いため、私からも吉益先生にコメントをお願いしていました。^^;)
       「2つめ」として書いていただいている「リスクを背負うことを覚悟してSOSをだせば人は必ず助けてくれる」ということは、労働者階級の団結というモラル一般を示しているようにも思えますが、吉益先生はSOSを出す勇気ということについて「大学の授業で学生さんから教えてもらったこと」とも書いておられます。私が考えたよりもっと人間としての深いもの、普遍的なものにつながる知恵なのかもしれません。
       私が「すごい」と書いて注目したのは、吉益先生自身が「『うつ』的な状況の一歩手前の状態」におられたのに、医療にも頼られず仕事も休まずに乗りきられたという事実でした。それは吉益先生が勇気を出してまわりの人たちにSOSを発信され、まわりの人たちがそれに応えて吉益先生を支えられたからなのだろうと思います。そして私の関心がそこへ向いたのは、かつて自分が鬱状態に陥った時の自分自身や自分をとりまく状況と大きく違ったからだと思います。
       現実的には、メンタル面で病的な状態あるいはそれに近い状態にまで到る原因やその時の状況やそこから回復していく筋道は、一人ひとりの人間において千差万別であると思いますし、その意味で他者から《教訓》を学ぶというのは容易なことではないと思います。そうした困難な状況にあったことを勇気をもって公表された人の述懐から謙虚に学びながら、少しずつ人間認識を深めていくことが必要なのだと思いました。

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    2. 吉益でした。

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  2. 佐藤さん、ありがとうございます。確か大学の授業で私の体験を話した時、学生さんからSOSを出す勇気ということですねと言われたように思います。一人で考えていたらもちこたえられない、「男は黙ってサッポロビールなんて古いコマーシャルにあこがれていましたから、べらべらしゃべるのはどうか?という気持ちが正直に思いました。その時職場の女性の先生方をみていると大きな声でよくしゃべり笑い元気なのです。なんか直感的にこれが生きる道なのだと思い、当時は至るところでしゃべりまくりました。職場でサークルで、そして大学院の授業でも。そうすると多くの方が「しんどいのはみんな同じ。よくはなしてくれたね。私もやで」と語ってくださり意気投合というかものすごくうれしかったことを覚えています。そして話しまくる、書きまくるということを続けていくと不思議に気持ちが落ち着きました。「すごい」などとはとんでもないことで苦肉の策でした。

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