7 教育学文献学習ノート(24) 石垣雅也「授業・学習指導における『子どもの事実』をつかむ方法意識-城丸章夫の指導論を手がかりに-」(日本臨床教育学会『臨床教育学研究』第8巻 2020)
(2020刊行 2021.9.29-30通読 2021.10.26-2022.1.6ノ-ト作成)
石垣雅也さんは、2010年代半ば頃から、三重大学教育学部で私の同僚だった大日方真史先生の授業の学外講師として三重大学に来られていて、時々お会いしていました。また、私は三重大在籍時代の終わり近い頃から、石垣さんが中心メンバーのひとりである「教科研若手の会(西)」「授業の中の子ども理解と教育実践研究会」など関西エリアで開かれる研究会に何度か参加させていただいています。2018年度に私が三重大学退職・京都への転居のために研究室・自宅の個人蔵書の断捨離を進めていた時に、石垣さんは拙宅まで来て下さり、学級文庫の蔵書に加えていただくということで、福音館の「こどものとも」「かがくのとも」などのシリーズをたくさん引き取って下さいました。最近では私は、「いしがき実践 looking back または encore」というzoomによるシリーズ研究会(11/3で7回目、継続中)にも参加して、石垣さんの初任の頃からの実践について詳しく聞く機会を得て、大いに刺激を得ています。
そうした繋がりの中で、本論文以外にも石垣さんの以下のような実践報告があることを知りました。下記以外にも私が知らない報告が多数あるだろうと思いますが、取り敢えず読むことができたものだけを列挙してみます。
●「安心と自由」そして「希望と勇気」の風を滋賀から (『教育』 No.741 2007.10)
●青年教師の困難から希望への道筋を考える-「立ち止まって考える」ための時間と仲間のつながりを- (『教育』 No.766 2009.11)
●考え悩み合う時間のなかで教師は育つ 教師が、子どもが、育つ条件 (教育科学研究会編『教育実践と教育学の再生2 教育実践と教師 その困難と希望』 かもがわ出版 2013.6.30)
●子ども理解から始まるカリキュラム・マネジメント (グループ・ディダクティカ編『深い学びを紡ぎだす 教科と子どもの視点から』 黎明書房 2019.1.20)
●(鈴木有と共著)通常学級で学習に困難を抱える子どもへの指導 (教育 No.888 2020.1)
ところで、本ノートで取り上げる日本臨床教育学会研究紀要掲載論文のことは、「教育学文献学習ノート(22)-2」で取り上げた神代健彦論文「教育的価値論-よい教育ってどんな教育?」(2021)で知りました。神代論文の関係箇所を引用します。
「少なくない子どもは、生活や学習の中で『いらだち』『むかつき』『不安』『怖れ』を感じ、それゆえの攻撃性(『死ね』『殺すぞ』『自分なんか死んだ方がいい』という言辞、あるいは自他への暴力行為そのもの)を表出します。知性や道徳の訓練instructionとしての学校教育においてはノイズ、不確実性、危険性として排除されるべき、そんな子どもたちの攻撃性の奧に、『子ども理解』の教育学は、むしろ子どもの生の問いと発達への要求を聴きとります。生活の困窮、虐待、あるいは病や発達障害、聴き取られる声の背景は複雑です。その声に応答すること、つまりはそのような形で現れる次世代の生存の危機への応答を、教育の主要な課題の一つと位置付けること-、ケアの教育的価値説とは、そんな形の、教育の古層の現代的復権を意味していると言えます。(10)」(P.191-192)
そして以下は、上記引用文の最後に付けられた註番号(10)に対応する註記です。
「(10)「古層の現代的復権」という表現はしたがって、今日ケアと呼ばれているような、教師が学習者の人格や存在のあり様に向けるまなざしが、近年になって教育の世界に外部から導入されたというようなことではない、という意味を含んでいる。むしろ優れた実践と呼ばれるものは子どもの学習の指導と並行して、子どもの主観的経験や人格(形成)のありようをつねに意識してきたのであって(石垣2020)、だからケアとは、そのような教育のありようを改めて自覚するための『名づけ』に過ぎないとも言える。したがって今日のケア論の隆盛が、教育なるものをそのままケアに置き換えてしまうようであれば、それは明らかに行きすぎであろう。ここで重要なのは『刷新』ではなく、過去との『対話』なのである。」(P.193 下線は佐藤)
註記中の「(石垣2020)」が本論文を指しています。神代論文では、優れた教育実践が「子どもの学習の指導と並行して、子どもの主観的経験や人格(形成)のありようをつねに意識してきた」ことの証左として本論文に注目しています。
私はこの神代論文によって石垣論文の存在を知り、石垣さんにお願いしてコピーを分けていただき通読しました。そして、まだこれから本論文へのコメント作業に入るところですが、上に挙げた石垣さんのいくつかの実践報告・分析論文を通読し、また最近7回連続で石垣さんが自らの教育実践について語る機会に参加できた中で、「子どもの主観的経験や人格(形成)のありよう」への注目という、神代論文が短く的確にまとめて指摘している石垣さんの教師としての姿勢や視線について、私自身もそれにかなり近いところで石垣実践及び石垣さんの実践の自己分析に対する共感点を見いだせると予感しています。この予感を確かめるという課題意識も持って、本論文を改めて読んでいきたいと思います。
まず、本論文の構成(見出し)をまとめて紹介します。
問題の所在 教育実践から「子どもの事実」が排除される現実
1 「子どもの事実」を理解することと城丸章夫の指導論
(1) 教育の事務化・実務化と「子どもの事実」の排除
(2) 拒否の自由と平行的形成
2 子どもの事実と指導・実践事例の検討から
(1) 事例1 「納得してわかる」方法を探る
(2) 事例2 困難の大きさをおしはかる
3 子どもの事実から始める実践の構想 -二つの事例の検討から-
1) 子どもの事実と発達的理解
2) 安心と自尊心
3) 集団指導
4) 教育内容・方法の選択
4 結論と今後の課題
以下、石垣論文からの引用部分を青色で表記し、城丸章夫の著作からの引用を紫色で表記します。
問題の所在 教育実践から「子どもの事実」が排除される現実
まず石垣氏は、本論文の性格を「授業の中の子ども理解と、教育実践研究会」(石垣氏の勤務地域を中心に、主に小学校教員によって構成。「教育実践研究会」と略記)の「臨床的経験に基づく実践研究論文」(P.72左)と規定します。
そして、「教育実践研究会」の「問題意識の中心」(同)を「授業・学習における教師の指導の在り方を検討する際に、授業・学習の中に現れる『子どもの事実』から出発すること」(同)とし、ここでまず城丸章夫を援用して、城丸が教育学について「教育的事実から出発して、教育的事実へもどる-そういう往復の中で『教育とはなにか』がだんだん明らかになっていくのが、この学問のほんらいの性質だと考えている」(城丸 1978 『やさしい教育学 上』 あゆみ出版 P.11)と述べているのと同様に、「教育実践研究会」の教師たちは「子どもの事実から出発して、子どもの事実へもどるそういう往復の中で、子どもへの指導のあり方を考えあっている」(P.72左)と説明します。
「教育実践研究会」は、「子どもの事実をつかむ方法」(同)として「学習の事実」(同) =「ノートやワークシート、ドリル、テストなど、日常的に子どもが授業で使うもので、そこに書いたり、描いたりしたもの」(P.72右)を重視します。「『学習の事実』を内包して『子どもの事実』をつかもうとする」(同)理由は、「『学習の事実』が見逃されやすい」(同)からです。
「学習の事実」の例として石垣氏は、「『漢字の横棒が一本多い』『消しゴムで何回も消した跡』『数字の“間違い”』『“間違った”計算式』『鉛筆でぐちゃぐちゃと消した跡』」(同)を挙げています。
こうした「学習の事実」は、なぜ見逃されやすいのか? 石垣氏は次の二つの理由を挙げます。
●教師の厳しい労働条件、不十分な教育条件。
●日常の授業で、学力学習状況調査の結果が教師の教育内容・方法選択に大きく影響すること。
小学校学習指導要領(2020年度全面実施)で「カリキュラムマネジメントにおいても『子供たちの姿』をPDCAサイクルの起点に位置づけること」(P.72右-P.73左)を要請しているが、しかしそこで言う「子供たちの姿」は、「調査結果という外形的な単一の指標でとらえるものであり、その結果から学習方法や内容の重点を直線的に導き出し、『授業改善』を遂行させようとし、さらには『学習規律』として予め条文化され明文化するような実践を結果的に生み出している」(P.73左)ため、「そのような実践は子どもの側の事情を問わないし、問うこと自体を排除する」(同)と石垣氏は批判します。
上記引用の最後の部分の表現を裏返した、《子どもの側の事情を問うこと》こそ、そして教師に子どもの側の事情を問いにくくさせている職場や教育政策の現状を常に視野に入れながら《どうしたら子どもの側の事情をきちんと問えるのか?》を問おうとすることが、石垣氏と「教育実践研究会」の教育実践当事者としての重要な実践・研究上のモチーフである。私なりにそう捉えた上で、次に進みたいと思います。
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さて、このあと石垣論文の各所に紹介されている「学習の事実」の取り上げ方をどうするか、考えています。これまで見てきた本論文の課題設定から、具体的な「学習の事実」例は、本論文にとって核心的に重要であると思われます。しかし、学習の事実を私の主観で要約紹介するとその事実の臨床教育学的検討の価値を損なう恐れがあります。かと言って原論文に忠実に引用紹介すると、結局本論文のほとんど全ての部分を引用しなければならない怖れもあります。
そこで暫定的方針として、「学習の事実」の部分を取り敢えずは可能な限り割愛しながら本論文の「方法意識」つまり理論部分の筋を追いながらコメントすることを中心課題とし、そのやり方で本論文の最後まで検討を進めた上で、もう一度全体を振り返って必要があると判断したら、改めて「学習の事実」の紹介を挿入することにします。
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「教育実践研究会」で、「授業・学習を通してつかんだ子どもの『学習の事実』を内包したものを『子どもの事実』と表現する」(P.73右)理由について、石垣氏は次のように述べています。
「実践分析と指導の構想の視野はいわゆる教科学習に限定されるのではなく、学習が成り立つ基盤である教師-子ども(単数であり複数である)関係、発達的特徴(発達段階や発達特性)、親子・家族関係や成育歴なども含んでいるからである。また子どもに関わる教師が、測定と観察可能な事実だけでなく、その子の学習の姿やプロセスを分析的かつ統一的に理解しようとする『方法意識』でもある。その『子どもの事実』は教師に『事実』に応じた指導を要請する。臨床的にいえば、研究会でよく発せられる『それで、どう指導したらいいんだろう』という問いが象徴的である。わたしたち臨床教育学に関心を寄せている教師は、この問いに応える指導論を求めている。」(同)
このように、「学習の事実」を内包した「子どもの事実」の把握に立った「どう指導したらいいんだろう?」という問いに応える指導論の必要性を指摘したところで、石垣氏は再び城丸を援用します。
「子どもたちの外形的な学習成果や行動変容の評価が求められ、管理能力までもが指導力と混同される使用される現場において、管理と指導を区別し、『平行的形成』という概念を用いて教師の指導が子どもの内面にいかに作用するかを分析する城丸章夫の指導論は、今日に継承すべき貴重な教育的視点、実践分析の方法に関する多くの示唆を含んでいると考える。そこで本研究では、城丸章夫の指導論を鍵概念として、『子どもの学習の事実』のとらえ方と、それをもとに指導を構想することをわたしたちの実践を通して論じていきたい。」(同)
1 「子どもの事実」を理解することと城丸章夫の指導論
(1) 教育の事務化・実務化と「子どもの事実」の排除
石垣氏は、「城丸章夫の指導論の特徴の一つは、『指導』と『管理』を区別して用いたことにある。」(P.74左)と述べ、城丸が「教育活動における指導と管理の関係」(同)について「教育の具体的なあり方からすれば、指導のための物的人的条件の整備と統制をおこなうものが管理であり、管理活動は指導活動に従属し、これに奉仕すべきものである」が「管理主義教育はこの関係が逆転しているものである」(城丸 1993a 『城丸章夫著作集』第8巻 青木書店 P.226)と述べていることを紹介します。
次に石垣氏は、「城丸(1987)は『管理主義教育』を『取締り主義教育』と『教育の事務化・実務化』に区別し、『管理主義教育』を『取締り主義教育』に一面化することは誤りであると指摘」(P.74右)したこと、さらに「『管理主義教育』のもっとも重要な表れは『教育の<事務化><実務化>である』(pp.26-27)と指摘」(同)していることを強調します。
上記引用中の「城丸(1987)」とは城丸章夫『管理主義教育』を指しますが、残念ながら私はこの文献を所有していません。現役大学教員時代であれば、自分も何とかして同書を入手した上でものを言おうとするところですが、蔵書を大幅に断捨離して新規入手は最低限にしてダウンサイジングした研究活動を行なっている現在、そこまではできません。それでは研究者失格だとの誹りを受けることを覚悟で、手元にある城丸の文献を参照しようとしましたが、手元の文献では管理主義教育関連の記述を見つけることができませんでした。残念ですが原典の確認は断念して、石垣氏の行論上における紹介を辿ることに留めます。
管理主義教育について深く考察したことがない私の常識的な把握では、管理主義教育とは児童生徒の一挙手一投足を縛る細かい規則を設定して彼らの学校生活を拘束するような非民主的な教育のすすめ方を指すと考えていました。おそらくそれが、城丸の言う「取締り主義教育」ではないかと思います。石垣氏の紹介によると城丸は「取締り主義教育」は「管理主義教育」の一面に過ぎず、「管理主義教育」を「取締り主義教育」だけに一面化して捉えてはならないと警告しているというのです。そして石垣氏自身も、城丸が「管理主義教育」のもう一つの面として指摘している「教育の<事務化><実務化>」に注目して以下のように論を進めます。
「『教育の事務化・実務化』は、『教育活動が子どもの心に働きかけるのではなく、事務でも行うかのように、機械的・形式的に行われていくこと』(城丸1987、p.27)であるとし、『子どもがわかっていようといまいと予定に従って教師が勝手に進めてゆく授業、子ども達の中に争いやいじめがあろうとなかろうと、そんなことは無視して事務的に進められていく学級経営などは、この一例です』(城丸1987、p.27)と、それは学習指導、生活指導いずれの領域でも進行すると述べた。その進行の中で、学習の困難を抱える子どもは、『授業についてゆけない、いわゆる『落ちこぼれ』の子どもたちも実は見棄てるという『管理』の犠牲者」(城丸1987、p.27)になると指摘した。」(同)
「見棄てるという『管理』」。内容はショッキングなんですが、理論的把握としては私には新鮮に響きました。「機械的・形式的」な指導、教師が予定通りに勝手に進める授業、子どもの争いやいじめも無視して事務的に進める学級経営。これらを子どもの個性を無視した指導であり、教育の放棄だと批判することは私にもできたのですが、それを「管理」だと、「見棄てるという管理」だと捉える発想はありませんでした。
管理というと前述のように子どもたちの一挙手一投足を「縛る」、縛るという「積極的(?)はたらきかけ」を教師が行なうこと(あるいは管理職がそのように働きかけることを教師に命じること)と考えていました。子どもの事実を無視した指導を行なうこと自体が「管理」なのだという発想がありませんでした。しかしよく考えると、子どもの事実を無視した指導で突っ走るためには、そのことに対する子どもの反発を、何らかの形で抑え込まなければなりません。逆に言うと、子どもたちの反発や不満をどこかで何らかのやり方で抑え込んでいるからこそ、子どもの事実を無視した指導を「罷り通らせる」ことが可能になるわけですね。教師の指導の暴走を子どもたちが受け入れざるを得ないということはつまり、子どもたちが「管理されている」ということになる、ということでしょうか。
石垣氏は、「現在進行する学習規律の統一や学校スタンダードのように指導の根拠を予め明文化、条文化する教育は『教育の事務化・実務化』の現代版」(P.74左-右)だとし、「それは、学校・地域スタンダードとして推進されている授業スタイルの形式化、授業規律の形式化や、ゼロトレランスにつながるような生徒指導の画一化によって、さらに精緻化され学校へ導入されている。」(P.74右)と、「教育の<事務化><実務化>」を現代の学校支配の状況の分析へと繋げていきます。
そしてその背景に「新自由主義的な教育政策の導入」(同)があり、そこでの「教職の専門性の解体」(同)と関係するとして、世取山洋介(世取山氏は2021.11.17に御逝去されたそうです。御冥福をお祈りします。)の「主人-代理人」論を援用しながら次のように述べます。
「教育の事務化・実務化、すなわち管理主義教育の進行は新自由主義教育改革が、教師の専門性を剥奪することにより、主人代理人関係を成立させることと、教育における指導概念を、管理概念へと変節させることを同一の過程によって進行させる。教師が対面する子どもの姿からつかんだ子どもの事実ではなく、学力学習状況調査などの『調査の結果』を子どもの姿と規定し、それを起点とするPDCAサイクルを回すことが『代理人』としての教師に要求されているのである。そしてそれは教師の専門性の発露としての子ども理解ではなく、調査結果を改善するという実務遂行を評価する。」(同)
石垣氏はこうした状況が「テスト収斂システム」(金馬国晴)と命名されていることを紹介していますが、それについては省略します。
ここで石垣氏は再び城丸に戻ります。
「城丸は管理と指導の概念を区別することによって、教師の指導から管理に相当する要素と方法をできるだけ縮小あるいは後景に退かせることを志向したが、現状では城丸が管理主義教育の重要な現れとして指摘した『教育の事務化・実務化』の能力が『指導力』として解されているような状況が広がっている。その『指導力』は『子どもの事実』を排除する力である。」(P.74右-P.75左)
子どもの事実を無視することこそが「指導力」と評価される。恐ろしい事態だし、まさにそれは「非教育」でしかないと私などは思うのですが、そういうことをあたりまえであるかのように教師たちに認識させそれに従わせる「学校の日常」が学力学習状況調査を環とするPDCAサイクルとして既に全国の学校で常態化しているのでしょうか。
(2) 拒否の自由と平行的形成
石垣氏は、「城丸の指導論のもう一つの特徴は、指導と管理の区別の指標として、子どもの『拒否』を位置づけたことにある。」(P.75左)として、次のように紹介しています。
「城丸(1993a)は、『管理と指導とのちがいで注意すべきことは、指導は相手から拒否されてもいいという基本的前提をもっている。つまり、拒否する自由を保障しているものである。管理は拒否されてはいけないという基本的前提をもってる。拘束力や強制力がなんらかの形でともなうのは、このためである。』(p.190)と、子どもの拒否の自由を認めるものを指導、認めないものを管理と区別する。そして、『「指導」とは、相手をその気にさせることと、これを方向づけること。「指導」は相手に拒否の自由、従わない自由を認めるものだ』(城丸1993b、p.242)という。」(同)
自分の教育実践に即して考えてみました。現在京都女子大学で「ジェンダーと教育」講義を担当しているのですが、毎回の授業後にネット上で(Microsoft Teamsを使って)小レポートを提出することを要求しています。この小レポートには2つの締切があって、一つ目の締切は「金曜0:00」(その後授業当日月曜日の8:00に繰り下げ))、二つ目の締切はリモートで始まった授業開始当初は次回授業開始時(月曜16:30)、対面/遠隔併行授業になってからは月曜13:00です。
一つ目の締切(当初の)、つまり授業が終わってから3日後くらいの締切は、三重大学在職当時にはそれを最終締切としていて、それに間に合えば日常点5点満点、締切に遅れると3点、次回授業開始時より遅れると0点、というように採点していました。昨年度京都女子大学非常勤講師になると同時にコロナ禍でリモート授業となり、大学側からも学生の出欠について機械的に採点せずに事情を考慮してほしいと要請されています。それで今期は、受講生に対して、「私は次回授業までに全員のレポートを読んでできるだけコメントも返したいので、授業準備の都合上次回授業日の3日前の金曜朝には受講生全員の小レポートが提出されていてほしい。しかし大学からの要請もあるので、『金曜0:00』は努力目標としてもらい、それに遅れてもペナルティはない。各自にいろいろな事情もあると思うので、次回授業開始時までに提出された小レポートは一律5点(それを過ぎると0点)とする。」と説明しました(その後対面授業が復活したので、私が出勤のために自宅を出る1時間前の月曜13:00に最終締切を繰り上げました)。
こういうことをやっているのですが、上記の例で当初「金曜0:00」(現在は「月曜8:00」)という「努力目標」としての小レポート提出締切設定は、「指導」と言っていいかなと思います。私の側の事情も説明して、「早く提出する努力をしてほしい」と受講生に協力を求めましたが、受講生はがんばって努力目標の締切までに小レポートを出すこともできれば、それぞれ自分の事情を考慮して敢えて努力目標の締切までに小レポートを提出する努力をしない(拒否する)こともできます。一方、当初「月曜16:30」(現在は「月曜13:00」)の最終締切について、受講生が「そんなん書けへんから拒否」と拒否すると、たとえ前回授業に出席していても出席とは認めず、日常点は0点というルールを私が定めています(ちょっとくらいの締切遅れは大目に見ていますが)。これは「管理」ですよね。強制的に締切までに小レポートを提出させるようなことはありませんが(現実に無理)、提出しないと授業欠席と同じ扱いになります。
ちなみに、現在担当している「ジェンダーと教育」の成績評価基準については、毎回発行する授業通信「ジェンダーと教育」の第1号に以下のように発表しました。
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いかがでしょうか。ずいぶんこまごましたルールだと思われますでしょうか?
こうした成績評価基準は三重大時代からたぶん20数年間は出し続けていると思います。もちろん基準の内容は少しずつ変わってきていますが。
ところで上記に続けて、授業通信第1号では以下のように書いています。
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成績評価の方法について、どうしてそうなっているのか、おかしいのではないか、などの疑問・意見はいつでも承りますので、口頭であるいはメール等でお寄せ下さい。できる限り納得してもらえるよう説明します。
但し、成績評価方針決定の責任と権限は授業担当教員が持っていますので(皆さんからのご指摘でよほど大きな誤りに気づいた場合等を除いては)上記に示した方針を変更することはありません。
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最後の段落に、成績評価基準は「管理」であることを明示しています。つまり、受講生の誰が何と言おうと成績評価基準を変えることはないというような頑迷な態度は取らないけれども、さりとて受講生が意見を言えばそれが必ず反映されて成績評価基準が変わるわけではない、決定権はあくまで担当講師である佐藤にある、と宣言しています。「ジェンダーと教育」を受講して単位取得をめざす学生は、この成績評価基準を「拒否」することはできません。
基準の⑦に書いている「なりすまし出席」ですが、三重大在職時代の一時期に発生しました。私の授業の日常点評価が教室にいたかどうかではなくて事後にレポートを提出したかどうかで判定するルールになっていることを逆手にとって、授業に出席しなかったのに出席したかのように装ってしれっとレポートを出してくる受講生がいたのです。授業では班活動をしていたのですが、ある班の受講生が「○○さんは授業にいなかったのにレポートを出している」と連絡してきたのです(レポートはネット上で全受講生が閲覧できます)。指摘した学生は不満を覚えながらも自分より上級生であるその班員に直接「それはおかしい」とは言えず悩んでいました。結局「なりすまし」をやった受講生がその後授業に出てこなくなったのでうやむやになりました。この例の他にも、授業の最終レポートなどで名指しせずに「なりすまし出席の学生が日常点を取っているのはまじめに出席してレポートを出した学生から見て不公平だ」と指摘してくる受講生もいました。その不公平感はもっともなので、ほんとは「なりすまし」をやらかした学生にもきちんと話を聞いて穏便に「指導」したいところですが、「厳罰(不合格)」という「管理」ルール=「脅し」を示しておくことでバランスを取った感があります。でも近年では事例が発生していないので、この「なりすまし厳罰」という「管理」ルールはそろそろ削除してもいいかなと思っています。
一方で、特にコロナ禍下で昨年度から始まった京都女子大の授業では、「なりすまし」=不正の摘発、というような管理的側面を強調するのではなくて、むしろ授業を欠席しても、評価基準⑧にあるようにネットで授業通信や学習資料を自習して締切までに小レポートを提出すれば「日常点3点」としているように、授業(教室/zoom)に出席したかどうかのall or nothingではなくて、授業の場にいなくても自習によって(評点上は60%まで)カバーできるという基準を示して、授業参加の門戸をより広げています。
かつてならば自己責任での欠席(忌引や教育実習などを除く)については、欠席者にその回の学習情報は提供しても、レポート提出で日常点をある程度獲得できるというチャンスは(本人が自主的精力的に学習をして内容の濃いレポートを出してきた、などの例外的ケースを除いて)与えていませんでした。しかし、コロナ禍で例えば出席するつもりだったのにwi-fiの不具合でzoomにアクセスできないとか、ワクチン接種の副反応による体調不良とか、これまでに考えられなかった出席困難の事情も発生するようになり、これらを考慮することが大学からの要請もあって必要になりました。そうなると、例えば寝坊して欠席しましたとかのケースでも「それはコロナ禍下の困難と関係ないから考慮しない」と線引きしてしまうことは難しい(受講生がメール等で釈明してきた内容の範囲で、「やむなし」or「配慮しない」の判断を私が下すことは難しい)と考え、「欠席しても小レポートを提出したら3点」というルールは例外なしに適用するようにしています。また、前述のwi-fiとかワクチン接種が理由の場合は、不可抗力であったと見なして、まず無条件に出席・小レポート提出者と同等に日常点5点を与え、その上で可能ならば小レポートを提出することを薦めています。
これら一連の、「受講生の様々な事情を配慮して一律の採点をしない」というルールは、指導に属するのか? 例えばすぐ前に書いた「不可抗力」による欠席者に一律5点を与えた上で、可能ならレポートを提出するよう勧める、というのは、レポート提出は拒否できるので「指導」ということになりますかね? でも、一連の評価・採点システムの中で私の判断で「融通を利かせる」だけだし、また私の一方的判断で欠席者にも5点を与えているというのは、そういうシステムを作ってその中で動いているわけだし、自分に対して意地悪な言い方をすれば、受講生から「Aさんは日常点5点なのに私はそうではなく、不公平だ」というクレームが出てくることを事前に封じるための「管理」だ、ということになるんでしょうか........。
大学の講義形式の授業では、受講生との出会いは週に一度の対面もしくはzoomでの授業時間に限られます。たまに学生の側から教室での授業開始前または終了後に、あるいはzoomでの授業終了後に音声トークで語りかけてくることもあります。もちろんそれらはほぼ全て学生の側に用事があるときであり、いわゆる「雑談」の機会はほとんどありません。
授業時間中はどうか。私は毎回まず、授業通信や学習資料をスクリーンに出しながらその日の新しい学習情報やそのあとのグループ討論の段取りについて説明します。そして毎回授業の後半にはグループ討論を行ないます。現在は教室参加のグループとzoom参加のグループがあります。討論が始まってしばらくは、zoom参加グループ(11月第1週までは毎回ランダムに編成)のメンバー確認など事務作業をします。それから教室参加のグループの討論の場を「巡回」しますが、これはまさに「巡回」で、三重大時代からずっと、私がどこかのグループの討論の輪の中に入っていっしょに議論したりということはほとんどありません(巡回中に質問が出てきたらもちろん答えますが)。私がどんどん学生の話には行っていきたい素振りを見せたら学生が構えてしまって討論の雰囲気も変わってしまうのではないかという思いを自分で打破できず、「参加」できないのです。
zoomについては各回の授業でブレイクアウトセッションを一巡するようにしていますが、10グループ前後もあるとほんとに討論の場を「一瞥」するだけですぐ退出します。たまに時間的余裕がある時にあるグループが何か行き詰まったり疑問点を持ったりしている場に遭遇したら一言アドバイスすることもあります。また時にはグループの側からヘルプ機能を使って私に対して音声で質問が入る場合もあります。しかし実態はほんとに各グループが「討論していると確認する」程度のことしかできていません。
というわけで、三重大30年も含めていくつか模索はしてきたのですが、授業という直接学生と「対峙」している場において、学生を受身の状態にさせずに討論等で能動的に授業参加させる「指導」はいろいろ工夫してきたけれども、担当講師である私が受講生と直接対話するという点ではほとんど成果がないまま今日まで来てしまったというのが実感です。
それでは不本意ながらも全く一方的な授業運営を長年続けてきたのかというと、そうとは思っていません。というのは、文字を通じての間接的コミュニケーションには我ながら精力的に取り組んできたと思うからです。
三重大学では在職途中から三重大学Moodleというシステムが導入され、その中のフォーラムという掲示板機能を使うと、受講生がレポートを投稿し、それに対して私や他の受講生がコメントを付け、それらを全受講生が閲覧することができました。1年だけ在職した京都橘大学にも京教大連合大学院にも類似のシステムはなく、フリー掲示板などを利用しましたが十分に代替できる機能がなく、苦労しました。昨年度京都女子大学に来てからも、私自身がLMSという学内教育イントラネットとzoomとを使いこなすのが精一杯で、moodle掲示板の再現のような授業コミュニケーションシステムを作れませんでした。学生のレポートはLMSで受けとることができますが、レポート自体もそれへの私のコメントも提出者本人にのみフィードバックされ、他の受講生と共有できません。それで毎回、提出された小レポートとそれへの私のコメントの全員分を授業通信上にコピペで掲載していました。だから授業通信はA4×20~30ページにもなりました。それを作るだけで相当の労力でした。昨年度前期が終わってから新たにMicrosoft Teamsについて学習し、後期から使用できるようになりました。小レポートの投稿・佐藤のコメント・受講生の相互閲覧やコメントはTeamsでできるようになり、私の授業負担は大きく軽減しました(今でもグループ討論の記録などは改めて授業通信に転載したりしますが)。
なんだか自分の苦労・労力のことばかり書いていますが、言いたいのはそういう工夫もしながら間接的コミュニケーションについては相当の努力を払ってきている、ということ。毎回の授業準備の半分くらいかそれ以上の時間を小レポートを読んでコメントを書くことに費やしています。ある意味その時間が私の授業実践全体の中で一番充実しているとも言えます。
受講生のレポートはそれほど長くないのですが、その文章の中からどこか自分にとって「ひっかかり」があるところを探してそれについての自分の意見を書きます。だから、コメントと言いつつも、学生の文章をきっかけにした私自身の意見の披露になっている場合が多いと思います。なんだそれでは結局一方的な伝達ではないかと言われれば、そうかもしれません。受講生が私のコメントを読んでそれに対してさらにコメントしてくることもまれにはありますけど、だいたい一往復で終わりです。ですから私は、毎回けっこう長いものになってしまう授業通信で縷々書いていることだけでは言い足りないことを各受講生向けに個別に発信しているだけかもしれません。
いつも、「……と私は思います。」という風にコメント文を終わるように気をつけています。私なりに、「これは私なりの考えであって、君の考えはそれとして尊重するよ」というニュアンスを伝えているつもりです。授業の中では大学における学問の自由、思想信条の自由の重要性を強調しながら、私自身の見解(例えば、学習指導要領の「法的拘束力」への徹底批判)を明確に伝えつつ、受講生のみなさんに私の考えを押し付けるつもりはなく、また私の考え方への賛否を成績評価に反映させたりすることは絶対ないことを繰り返し強調しているのですが、それでも今年度前期「教育課程論」終了後の無記名授業アンケートでは「先生の固定観念を押し付けられているような気がしました。学生の考えや意見を否定されていることがあったので、そこは多めに見てもらえたら嬉しいです。」という意見が出されていて、がっかりしました。がっかりはしましたけど、受講生側から見て自分の「意見や考えを否定」して教師が「固定観念を押し付け」ていると感じる場面はあったんだろうから、もうちょっと考える必要があるんだろうと思います。悔しいけど。
これが例えば小学校で、私が担任教師だったとしたら、休み時間なんかに、
「せんせー、こないだの僕の作文にせんせが入れた赤ペン、あれひどいやん!」
「えー、なんで? どの作文?」
「ほらこれ。××××って書いてあるやろ?」
「うん。これのどこがひどいって?」
「だってぼくは××××と思ってこう書いたのに、せんせ全然わかってへんもん。」
「あー、そうゆうことやったんか。先生誤解してたわ。ごめんごめん。もっと話聞かして。」
みたいなコミュニケーションが成立しうると思うんです。
大学生達は大人だし、これをネット上の間接的コミュニケーションでやることも絶対不可能とは言えないだろうとは思うんですが、Teamsへの投稿は数十名の受講生全員に公開だし、ある受講生が「え?こんなコメント?納得できないわ」と不満を持ったとしても、毎回のレポートへの佐藤のコメントに対する他の受講生からの再コメントがほとんどない中で自分が不満を含んだコメントを再投稿することには心理的抵抗があるかもしれません。私としては納得できなかったコメントについてその場で聞いてほしいし、あとで「匿名アンケート」で自分の身を守りながら(?)告発(?)されるのでは、担当講師としてどの受講生のどのコメントが該当するのかを確認して再検討する作業もできず、モヤモヤした思いだけが残るので、こちらの方こそ納得できんわ!という思いもあります。しかしそうは言っても、受講生と担当講師は「権力関係」、つまり後者が評価権=「管理」権を一手に握っている以上、疑問や不満を臆せず正々堂々と名を名乗って表明できない受講生がいても担当講師の立場からそれを非難することはできないのかもしれません。
少し話を戻します。受講生それぞれが持つ意見を尊重するという立場に立って教師としてそれに対する意見を述べても、教師の意見を押し付けようとしていると誤解・曲解されることもあるわけです。だから、小レポートへのコメントは、「あなたの意見を読んだことをきっかけにして、私はこんなことを考えてみたので書きます。これはあくまで私の意見で、それをあなたに押し付けるつもりはありません。」というニュアンスが感じられるように気を使って書いています。これってやっぱりコミュニケーションとは言えないですね。一往復の意見交換。それぞれが自分の考えを相手に伝達しているだけかもしれません。しかしそれでも、やらないより絶対にいいと思うんです。他の受講生にも読まれるということは十分意識した上でだと思いますが、それでも受講生達はいろんなことを書いてくれます。今回のレポートは誰のを読んでも同じだなあ、なんてことは絶対にありません。
後期「ジェンダーと教育」では、「各受講生個人のsexualityのprivacyを授業内とは言え明らかにさせたりすることは絶対にない」と約束して授業を運営するのですが、さすがに授業内公開である小レポートに自らのsexualityについて書く受講生はいないものの、佐藤が読むだけで他の受講生には公開しない自己紹介カードの中では、ここで具体的には紹介はしませんが自分個人のsexualityについて書いてきた受講生が数人いました。この人たちには個人メッセージを送って、私が知り得たそのような個人情報を他の受講生に知らせることは絶対にないから安心してほしいと伝えました。
どの受講生とも個人的に一対一ではほとんど会話したことがない中でも、こういうことが起こります。私の担当講師としての姿勢を信頼してくれたからなのかどうなのか、よくわかりません。ですが、ごくごく一般論として、文章を書く中では読み手がよくは知らない相手であってもその人自身になんらかの安心感や信頼感があれば自分個人のことを書くこともある、ということでしょうか。もちろん個人のこと、特にprivacyに属することを授業のような「公的」集団でどんどん出していってほしい、と願っているわけではありません。だけど、全員を知っているわけではないものの同じ授業を同じルールで受講している人たちが読者、という前提認識があることによって、自分の頭の中にある考え方を、自由に、とはいかなくても、逆に一つひとつ慎重に警戒しながら、ではなくて、率直に書くことができる、そういう仮想空間(?)が成立しているとすれば、それは教育的に何らかに積極的意味があるんじゃないかと思うのです。ですから、受講生相互には読むだけだったり、あるいはどれだけ読んでもらっているかもよくわからないのが実態だけど、担当講師である私だけが読むのではなく全受講生内に開かれた空間で小レポートが投稿されている、ということには意味があると思っています。そしておそらく、私が教師として伝えた情報よりも、それにも触発されながら受講生が相互に行なった意見表明の方が、授業の全過程を終えてみて受講生の中に深く記憶されている、ということはあると思います。授業の最終レポートでそのように感じさせるような振り返りを表明する受講生もこれまでにいました。
だんだんと石垣氏による城丸検討に話を戻していきますね(^^;)。先に《小学校教師である私とある男の子との架空の対話》を書きましたが、もちろん小学校を理想化して描こうとしているわけではありません。大学教師においても、授業の受講生と一対一できちんと対面しての「指導」もできるような授業環境であれば、授業担当者である私が一方的に決めた「管理」ルールで一方的に受講生を「縛る」ことで授業の秩序を保とうとするのではなく、授業で私が発信している学習情報を受講生がどう受けとめ、理解し、また疑問を持ったりしているのか(ここまでは現状でも小レポートとそれへのコメントである程度までは把握できています)、また私の授業運営についてホンネとしてどういう受けとめ方をし、感想を持ち、対処しようとしているのか(このあたりはhidden curriculumに属する事柄なので、何か特別のチャンスでもない限り私には把握できません)を把握できるかもしれません。しかし、私の大学教師生活38年余の中で、(もちろん研究室ゼミのような少人数長期教育の機会は別として)そういう場面はほとんど訪れませんでした。
学習者のことなんか考慮せずにどんどん自分のやり方で授業を進める、これは大学では(割り切れば、ですが)いくらでもできます。「管理」だけで「指導」のない「非・教育実践」をやろうと思えば、できます。評価権=「管理」の権力を意図的に振りかざせば、学生は黙ります(もっとも匿名授業アンケートで「告発」されるかもしれませんが)。しかし、そのようにはなりたくない。そうしたくない。けれども、「単位認定」という「管理権」を放棄してしまうことはできません。市民向けの手弁当の自主講座とかならいざ知らず、学外者身分の一非常勤教師が開設する授業においては、《単位認定-単位取得》という権力関係が存在しない学びの場に学生が集まることはありません。もしそういう(=「管理」抜きの)「教育実践」をしたいのであれば、全く違う戦略が必要です。禄を食むことと関係なしに。しかし、私の「管理」としての評価権・単位認定権の行使は、その責を果たしますという京都女子大学との契約であり、それを前提に私は非常勤講師手当を受けとっているわけですから、私がこのシステムを是認して教育活動を行なっている以上は絶対に拒否できないものです。
前述のように石垣氏は、「城丸は管理と指導の概念を区別することによって、教師の指導から管理に相当する要素と方法をできるだけ縮小あるいは後景に退かせることを志向した」(P.74右-P.75左)と書きました。翻って大学非常勤講師の私が現在置かれている状況では、「教師の指導から管理に相当する要素と方法をできるだけ縮小あるいは後景に退かせる」ことはできません。大学では教員のみならず学生にも意見表明の自由があることを強調し、担当講師-受講生間には《単位認定-単位取得》という絶対に回避できない権力関係(?)があるけれども担当講師としてそのことを背景に受講生の意見表明を抑圧することは絶対にしないと受講生に約束してみても、受講生から見ればそれは担当講師の「匙加減」であって、最後には「管理」が控えていてそれが自分の運命(単位取得)に決定的な影響を与えることはわかっています。その状況で受講生は教師の「指導を拒否」できるのか?教師は「管理」を「できるだけ縮小あるいは後景に退かせる」ことができるのか???受講生は匿名性に身を守られた授業アンケートで毒を吐くことはあっても、授業過程での教師との実名を晒した関係のもとで授業に関する徹底的な批判や不満を述べることはありません。教師がいくら胸襟を開いて見せても、そこに受講生から教師にとって痛恨の批判が打ち込まれることは、評価権という「管理」システムによって(受講生から見て)「自制」を要求されています。受講生が授業における学習に参加しながら、事と次第によってはその学習を拒否したり学習過程から離脱することは、(単位取得を放棄すると決断しない限りは)許容されていない。つまり受講生は教師の「指導」を拒否することはできないのです。だとすればそれは「指導」でなく「管理」だということになりますかね。
そして、そのことを「好都合」と考えるノーテンキ教師ならいざ知らず、そうはなれない私のような教師にとっては、例えば受講生がレポートで授業での私の発言内容であったり授業運営の仕方に賛意を表し、褒めてくれたとしても、(もしかしたら受講生の側ではそれが心からの本心であったとしても)おべんちゃら、教師に好印象を持ってもらうための「作戦」ではないかという疑いを拭えないのです。褒め言葉は嬉しくてもどちらかというとスルーしてしまい、それでも出てくる批判・不満の言葉の方が気になるのです。本意ではないのに敢えて批判・不満を書く受講生はまずいないだろうと思いますから。
このように、学生のレポートを読んで嬉しいことが書いてあっても心中で「本気か?」という疑いを消せず、レポートに対して率直にコメントを書きながらも「この言葉が相手の受講生にはどのように受けとめられるだろうか?」と気にしてしまう。これはまさに、《レポート-コメント》をほぼ唯一のコミュニケーション手段としている私の授業の教師-学習者関係の限界を示しています。ただ一言付け加えると、受講生のレポートでいちばん感動したり嬉しく思うのは、私を褒めてくれたときではなくて、「以前は○○○○だったけど、この授業の学習を通じてこのように変わってきた」というような受講生自身の変化の自己分析を読んだときです。これだって勘ぐれば、「この授業のおかげだよ」と私に媚びを売るための記述と読めないわけではないですが、でも学生たちはそこまですれてはいないだろうと思います。
先の《架空の対話》は、実はこの間石垣先生の実践エピソードを何度か聞いてきていることに刺激されて書きました。《レポート-コメント》のみのコミュニケーションの中で仮に受講生から私への批判が出されると、私はまず、程度の差はあれショックを受けます。どうしてそのように言われたんだろう?自分の実践のどこに問題があったんだろう?と考え込みます。仮に、私自身が提出されている受講生のレポートをうっかり見逃して読んでいなかったとか、自分で設定した授業運営ルールを破ってしまったとかの明らかな失敗の場合は、もちろん「申しわけありませんでした。今後こういうことがないようにします。」と、実践を指摘してくれた受講生やまた受講生全体に対して謝ります。そのことにためらいはないし、それはそれで自分の中で決着します。問題は、身に覚えがないか、そうまでいかなくても「そこまで言われる必要があるのか?」という時です(あまり実例の記憶はないですが)。
私の側の話が長くなりましたが、何か批判的な意思表明をした受講生に方にも、「この批判は担当講師になんらかのマイナスの影響を与える」というそれなりの覚悟ができるはずです。教師がどう反応してくるか気にすると思います。それまでの授業で授業内容に即した《レポート-コメント》関係は成立していたけれども、一つの批判の提起によってそれまでとは違った「波風が立った」と言えます。教師としてこういう「波風」をどう処理するか。
もしも授業内公開であるTeams投稿の中でそういう批判投稿が出たとしたら(そういう実例はまだないのですが)、私は取り敢えずはそれへのコメントとして(つまり他の受講生も読める状況で)対応するでしょう。しかし、個人的事情に絡んできそうであれば、途中から受講生個人宛ての連絡に切り替えるでしょう。京都女子大学LMSには「お知らせ」という受講生への連絡手段があり、受講生全体にメッセージを送ることも特定個人に送ることもできます。それを使うか、あるいは、「お知らせ」だとボタン一つ間違えると個人宛てのつもりが全員に送付されてしまうので(さすがにそういう大失敗をしたことはありませんが^^;)、個人宛てメールを使う場合もあります。ただ、たとえ必要な連絡や意見交換であっても、他の受講生が知らない所で特定の受講生に対して繰り返し繰り返しメールを送るというのは、一般論ですが授業担当講師としては自制した方がよいとも思います。
そして日頃こういう風な気の使い方もしていることから、先の《架空の対話》を思いついたんだと思います。小学校の先生たちが毎日子どもたちとのんびりと会話を楽しむような日常を送ってはおられないということは承知しているつもりですが、それでも朝登校してきてから放課後帰っていくまでの子どもたちと長い時間を接しておられるということは、私のような週1回授業担当のみの大学非常勤講師とは全く違うのみならず、教科担任制の中高の教師とも大きく違うと思います。繰り返しますが、そういう接触時間の長さという環境だけで直ちに子どもがよく見えるとか子どものことがよくわかるというように小学校教師の日常を理想化して捉えているわけではありません。それどころか、何十人もの子どもたちを相手に次々と生じる問題に対応しながら6時間の授業をこなせばあっという間に一日が終わってしまう、という方が実態に近いんじゃないかと思います。しかしそれでも、もし意識しようとすればある(気になる)子どもの複数の授業時間をはじめ給食や掃除やそして私が《架空の話》として想像してみたような個人としての対話も含めていくつもの場面でその「子どもの事実」を確認し、またそれを毎日積み重ねていく中で、言葉の文字どおりの意味で「一面的ではない」子どもの姿をつかんでいきながら、そして、個々の状況には個々に対応しながらも、その子どもに教師である自分がどう対応していくかを時間のスパンの中で検討し試みていく、ということが、小学校教師の場合は「やろうと思えば」できるのではないかと思うのです。そして、一年365日ではないにしてもそれを意識的にやろうとしているのが石垣先生ではないかと。(ようやく石垣先生の話に戻ってきました。^^;)
さて、あまりにも長々と述べてきた39年目の大学教師のつぶやきをここまでにして、石垣論文に戻ります。城丸の「指導」における「拒否の自由、従わない自由」のところからです。私の実践話の割り込みによる中断があまりに長かったので、先に引用した石垣論文の同じ一節をもう一度引用します。
「城丸(1993a)は、『管理と指導とのちがいで注意すべきことは、指導は相手から拒否されてもいいという基本的前提をもっている。つまり、拒否する自由を保障しているものである。管理は拒否されてはいけないという基本的前提をもってる。拘束力や強制力がなんらかの形でともなうのは、このためである。』(p.190)と、子どもの拒否の自由を認めるものを指導、認めないものを管理と区別する。そして、『「指導」とは、相手をその気にさせることと、これを方向づけること。「指導」は相手に拒否の自由、従わない自由を認めるものだ』(城丸1993b、p.242)という。」(P.75左)
そして石垣氏は、上記「拒否の自由」について考察を進めます。
「城丸の定義する指導は、臨床的にいえば、前段については十分に了解可能だが、後段については『拒否されたら何もできない、つまりそれは指導の放棄ではないか』という反論が予想される。」(P.75左)
ここまでだと、「拒否の自由」は学校現場の経験・感覚からは直ちに承認しにくい、という方向へ次の行論が進むのかと思いきや、石垣氏は「指導を拒否する自由を含むという城丸の表現は強調された表現だが、実は多くの教師が日常の教育実践の中で大なり小なり取り入れていることである。」(同)と受けとめます。そして教育実践の経験と臨床教育学の学びを踏まえながら子どもの「拒否」への教師の対応について、以下のように考察します。
「『拒否の自由』『従わない自由』の内実は、臨床教育学的にいえば『子ども理解』(田中孝彦2009)における『子どもの声を聴く』ことであり、生活綴方実践、生活指導教育実践等において探求されてきた。それは子どもの困難でもあり教師の困難にもなる子どもの拒否や否定的表現を読み解き、教育実践の構想に位置づける努力である。これらの実践と研究は『指導の拒否』や『拒否の自由』などの言葉を使用していなくても、子どもの否定的あるいは拒否的な態度や行動、表現を受け入れているが、それは拒否そのものを無検討に受け入れるのではなく、その子の拒否が表す発達要求はなんであるかということを検討するために、拒否を『いったん』受け入れることがその困難を展開していく契機であることを明らかにしている。」(P.75左-右)
「子どもの困難でもあり教師の困難にもなる子どもの拒否や否定的表現を読み解き、教育実践の構想に位置づける努力」。それはどのような方向で模索されるかというと、「拒否そのものを無検討に受け入れるのではなく、その子の拒否が表す発達要求はなんであるかということを検討するために、拒否を『いったん』受け入れることがその困難を展開していく契機である」というのです。
これは、生活綴方実践、生活指導実践やそれらを受けついでの臨床教育学的探求の成果として語られていますが、石垣氏自身の実践経験にももちろん裏づけられていると思われます。本論文の実践事例としては紹介されていませんが、石垣氏は初任の頃を振り返って以下のような報告をしています。
「初任者研修の出張の日に、Tが学校を抜け出すということがあったのです。その日からTとの挌闘の日々が続きました。Tは、僕を小バカにしたように『むっりー きょっひー』『あっそ、よかったね』『かっこつけ』。イライラした怒りをぶつけながら『こっちみんといて』『こっちばかりこんといて』『くさいねん』。興奮して叫びながら『なんで先生がきめんねん!!』『こんながっこうやめたるからな』『こんなせんせいいやや!』『死ね!』と憎々しいまでの表情でありとあらゆる暴言を投げつけてきます。」(石垣「『困難・苦悩』のなかに『希望と勇気』を見つけて -でも…なくていい困難と苦悩は、ないほうがありがたいです-」 『教育』No.744 国土社 2008.1 P.27上-下)
そしてT君の徹底「拒否」にあっている石垣先生の当初の思いも、正直に綴られています。
「正直に言ってTがいなければどんなに楽だろうかと思いました。クラスで風邪が流行った時には、Tも風邪で……と一瞬頭をよぎることもありました。教師なのに、クラスの子どもにたいしてそんなふうに思っている自分が許せない気持ちもあって、だから、僕ではないだれかがT君を出席停止にしてくれたらどんなに楽だろうかと思っていたのです。」(同 P.27下-28上)
しかしそういう自分でも否定したくなる思いを持ちながらも、石垣先生はT君との関係づくりを模索します。T君が阪神・金本選手のTシャツを着ていたので、「『おっ金本やん。かっこええよなぁ金本。先生金本だいすきやわ』」(同 P.27下-P.28上)とT君に話しかけます。これに対してT君は、「『先生も阪神好きなん?』と聞き返して」(同 P.28上)きたというのです。部外者の私は石垣氏の実践記録から石垣先生とT君の関係を断片的に窺い知るだけですから当然のことかもしれませんが、「おおっ!」と思うわけです。「こっちみんといて」「こっちばかりこんといて」「くさいねん」「こんなせんせいいやや!」「死ね!」などと、あらん限りの暴言を石垣先生に投げかけて石垣先生を拒否していたT君が、「先生も阪神好きなん?」と聞いてきた。この時には少なくとも石垣先生に対して興味を持ち、先生のことを知りたいと思ったのでしょう。これで関係劇的好転、というようなオメデタイ話でないことはわかっていながらも、それでも石垣実践の傍観者である私でさえ「よかった!」と思えるのです。
石垣先生は「Tとつながるにはまず野球だ」(同)と思っていたのですが、学校の運動場は野球禁止。しかし生徒指導主任の○先生に相談すると「『Tのことか?』」「教材やって考えたらええやん。』」(同)という絶妙のアドバイスをもらい、安全のためならと新聞紙でバットとボールを作り、T君を野球に誘います。その時のT君は……
「野球をしているときのTの表情はあの挑発的で憎々しいまでの表情が嘘のように、本当に小学校2年生くらいの子どもらしい表情でした。ニコッとほほえんで『せんせい!』と言って新聞紙をガムテープでぐるぐる巻きにしたボールを投げ返してきたときのTの表情を見たときに、Tもやっぱり子どもなんやとホッとしました。新聞紙野球を通してTの笑顔に毎日出会っていくことで、『問題児であるT』だけでなく『かわいらしいT』に出会うことができました。」(同 P.28上-下)
もちろんT君とはそれからもまだまだいろいろなことがあったようですが、敢えて切り取らせていただいた上記の実践記録の断片からだけでも、全くの傍観者である私がうれしくなり、ほっこりし、また子どもの「かわいらしさ」を追体験します。
ちなみに石垣先生は、いまも継続しているzoomミーティング「いしがき実践looking backまたはencore」の第1夜(2021.9.15)と第2夜(9.22)にT君のことを話されました。また第4夜(10.6)には「子どものことをかわいいなと思えた時」という話題を出されて、今年度の担任クラスの子どもたちの話をされています。
実は私自身が京都大学教育学部に進んだ理由の一つは高校紛争を経験して教育行政と学校の関係に関心を持ったことでしたが、もう一つは子どもが好きで子どもと関わりたいという思いでした。近頃では幼い子どもをターゲットとする性犯罪などもある中で、いい年したおっさんが文脈を考えずに「僕は子どもが好きです」とは公言しにくいような嫌な世の中ですが、僕自身の教育学研究や教育実践の根底には子どもが好きだ、子どもがかわいいということがあるのは間違いありません。いつ頃からそういう気持ちになったのか覚えていませんが、もしかしたら小学生の頃に親戚の赤ちゃんを見てかわいいなあと思った経験まで遡るかもしれません。
大学に入って、一方で教科書問題研究会(家永教科書検定訴訟支援会)に入って国家と教育、国民の教育権などについて学びましたが、他方でこの「教育学文献学習ノート」でも何度か言及しているように「芦生(あしゆう)グループ」という京大の学生・院生、京女大の学生で構成する教育実践系サークルに入り、年に数回、由良川源流の京都大学農学部附属演習林がある北桑田郡美山町(現・南丹市)芦生に入って、1973年当時16人しかいなかった知井小学校芦生分校の授業を参観し、子どもたちと遊び、家庭を訪問してお話をうかがうという活動を行なっていました。サークルに入った頃の私は、1回数日間の現地合宿の間に全部で16人の芦生分校の子どもたち全員と話し、遊ぶという個人目標を勝手に立て、なかなか相手にしてくれない高学年女子には苦労しながらも目標を達成しました。朝早くまだ宿舎で寝ている私たち学生を「あそぼー!」と起こしに来る元気な子どもたちに引っ張り回されながら遊ぶことには体力を要しましたが、その中で子どもと話すことには尽きない興味がありました。その活動の中から卒業論文の「子どもの社会認識」というテーマも芽生えてきたように思います。
その後私は同じ芦生グループのメンバーと結婚し、4人の息子たちを育てました。子育てには大変なこともたくさんありましたが、子どもという存在をかわいく思う気持ちはますます強まったと思います。また38年余の大学教員生活の中で数えるほどの機会ですが、小学校で飛び込み授業をさせていただき、それぞれ限られた機会ではありますが小学生との交流経験を持ちました。また教育学部教員として附属小学校など実習校に出向く機会は毎年あり、そこで子どもたちの姿に触れることもできました。
今は退職して非常勤講師となり、仕事を通じて子どもたちと交流する機会はありません。自分の息子たちも成長して各地へ分散し、コロナ禍で7人いる孫たちにもほとんど会えません。私の生活風景の中から子どもの姿は消えつつあります。しかしだからこそ、いくつか参加している教育実践に関する研究会で、報告者の方のお話を通しての間接情報ではありますが、いまの子どもたちの話を聞くことがとても楽しみです。
話を学生・院生時代に戻して、私が教育学を学んでいる動機の一つとして「子どもが好きなこと」「子どもにとても関心があること」がありました。一方、当時のサークル活動などでの同世代、近い世代との対話の中で「子どもが好きだというだけで教師になってよいか?」ということが話題になったりしました。「子どもが好き」というのはとても素敵な動機だと当時の私は思っていたと思います。上記の問いはどういう文脈の中で語られていたことなのかは覚えていないのですが、教師の専門性、それをどう形成していくのかと関わって、「子ども好き」というだけでは不十分だという議論だったかもしれません。あるいは、「好き」というのは主観的で気まぐれな感情だから、それだけを支えに教師になったら子どもを好きになれない状況に遭遇し、それを克服できなくて挫折してしまうのではないか、というような議論だったかもしれません。
しかし、それから数十年の時空を越えて思うのですが、やはり教師には子どもが好きな人がなってほしいと思います。子どもに興味がある、子どもの立場に立てる、子ども目線……いろんな言い方ができるとは思いますが、やはりシンプルに「好き」だということ。それは資質とか資格とかの、努力して到達できるものというよりも、その人自身のキャラクターとして、やはり「目の前の子どもが好き(あるいは好きになれる)」ということは必須なような気がします。
またまた延々と自分の体験を語りましたが、私自身にそういう思いがあるために、石垣先生が「かわいらしいT」に出会ったと書いたり、研究会で「子どものことをかわいいなと思えた時」という話題を出されたことにすごく共鳴するのです。もちろん子どもがかわいいばっかりじゃないことは誰しもわかってるし、石垣先生自身も前述のようにT君を疎ましく思ってしまうドロドロした気持ちを抱えておられたし、そのことで自分を責めてもおられました。そして、そういうことがあっても野球の一件で救われた、みたいなお伽話では決してないんだけれども、ある意味死にものぐるいの関わりの中でT君の中にキラッと発見できた子どもらしさ、かわいらしさを知ったこと、そして紆余曲折はあるけれど、そのT君のかわいらしさが見間違えではなかったことを日々の関わりの中で少しずつでも実感しその実感を蓄積できたことが、T君という子どもをいろいろあってもかわいいと、かわいい面を持っている子どもであると捉えることができる石垣先生の「T君像」を作っていったんじゃないかと思います。
石垣論文に戻ります(^^;)。またすぐ次で脱線してしまうのですが(^^;)。
取り上げた石垣氏の初任時を振り返っての実践記録とあわせて考えると、石垣氏の「拒否の自由」に関する考察は、現に目の前の子どもによる「拒否」の行動が現に発生している時に教師としてどう対応するのかに関するものでした。
これに対して、文脈が全く違うものをまたまた持ち込んで恐縮ですが、私は一般論として子どもが教室での学習内容を「拒否」することが可能か、また教師がそれを認めることができるかについて、以下のような考察をしています。性の学習において、教師や児童生徒などの学習の当事者の性のprivacyに関係することがらを学習の中に持ち込んでよいのかという論点について考察した論文なのですが、その前提として教室空間で学習者が学習したくない内容を「拒否」することの難しさについて論じています。
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本人の意思による私生活公開は、一般的には「表現の自由」に属するものであろうから、それを制限するという発想は、特殊なケースでなければ承認されにくいであろう。
一般的には、社会生活の中で知りたくない他者のprivacyについて知ることを避けることは可能であろうから、権利問題としてそのことが議論されることは少ないと思われる。
2.教室空間におけるprivacy
しかし、教室の中では状況が異なる。
オーソドックスな一斉教授の授業では学習者が予め知ってはいない情報が教師の判断で提供される。この状況では、学習者が自分の知りたくない情報についてそれを受け取ることを予め回避するということは、現実的にはむずかしい。
そして、学習者がある特定の教授内容について「知りたくない」と拒否することは、少なくとも権利として承認されている状況ではない。
「むずかしい」「おもしろくない」などの理由で学習者が教授内容に習得に対して消極的または拒否的であるときには、教師は教授行為の工夫によって学習への参加を促す。また教授内容自体を見直し、再構成する努力もするだろう。良心的な教師ならば、学習者による教授内容拒否が発生した場合、既定の授業プランを変更せずに学習者を強制的にそれに従わせるということはせず、授業プランを修正しながら主体的な学習参加を実現するべく働きかけるだろう。しかし、学習者が教授内容を拒否することを権利として認める教師は稀であろう。それは(少なくとも一斉教授形態による)授業自体の成立を原理的に危うくすることにつながるからである。
3.教授内容としての性とprivacy
授業(一斉教授形態)における教授内容は、授業に参加する全ての学習者にとって価値あるものであることを前提としているし、さらにその授業の学習集団を越えて社会一般に通用する教育価値を持つものと想定されている。性教育において人間の性行為、特に性交(生殖行動及びコミュニケーション行動等としての)は、教授内容として普遍性を持つものである。しかし、人間の性行動の一般的特徴と、具体的な個人の性行動とでは、情報の性格が異なる。後者はprivacyの領域に属する。
個人の性行動に関する情報を教室空間で他者が無断で公開したり、あるいは公開を要求することの不当性は、一般的なprivacy問題の文脈で論じうる。しかし教師自体が個人情報の保持者であってそれを公開しようとするした場合、あるいは学習者がそれをやろうとした場合についてはどう考えたらよいだろうか。
興味ある話題だけに、聞きたいという学習者もいるだろう。しかし、他方で聞きたくないと思う学習者がいても不思議ではない。
授業という集団行動は、チャイムからチャイムまで教師と学習者全員が教室という場にいるということを前提として展開されている。他者の性体験を聞くことに不快感・拒絶感を持つ学習者がいた場合、自ら退席するということは一つの判断・行動としてあり得るが、それはその後の学習過程に参加する権利を自ら放棄するというデメリットを伴う。だとすれば、教室に居続けて情報の提示に対して拒否を表明するという別の判断・行動もあり得るはずである。しかし、席を立つにせよ「聞きたくない」と意思表示するにせよ、その決断を下すことへの心理的プレッシャーは大きい。
教室という、学習に必要なルールによって拘束された空間においては、その拘束を受け入れた学習者が安心してそこに存在することができるような配慮が必要である。知りたくない情報を意に反して目の前に提示されるという事態は回避すべきではないだろうか。
(拙稿「性教育における教授内容とprivacyの関係」 三重大学教育実践研究指導センター紀要』第17号 1997 P.65右-P.66右)
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学校における授業では、教師は予め学習内容を知っているけれども学習者は普通は学習前に予めその学習の内容を知ることはない(学習内容を予め知ってしまうことは学習活動への興味・意欲を減じてしまうから)というのが通例です。従って学習が始まってみて初めて、ある学習者が「この内容は学習したくない」という意識を持つことが起こり得ます。
教師の常識としては、自分が教師としての専門性に依拠して用意した学習内容は学習者にとって適切で価値あるものだと捉えているでしょう。あるいはそこまでの自覚がなくて「教師が教えることを子どもが学ぶのは当然だ」という意識レベルに留まっている教師もいるでしょう。
しかし、城丸の「指導」概念にもとづけば、授業運営という教師の「指導」は、学習者側に「拒否の自由」があってこそ「指導」として成り立つものであり、それを教師が否定するならその授業は単なる「管理」だ、ということになります。
拙稿の流れに戻りますが、学習者がある学習内容(拙稿では教師が性の学習において教師自身の性のprivacyを取り上げようとした場合を念頭においています)について「学習したくない」という意識を持った場合、理論的に可能な行動としては教室から退席するか、もしくはその学習をやめるよう教師に要求することが考えられるけれども、そのいずれにしても学習者は相当のプレッシャーを感じるはずであり、容易ではないと指摘しています。
もう少し立ち入って考察すると、1つ目の「退室」は、学習者自らの行動で「聞きたくない学習内容」から逃れることですが、一旦退室してまた頃合いを見て戻るということは学習者自身がその後の教室での学習の流れを把握できないから難しく、授業終了まで退室したままとなる可能性が大きいです。そうするとその学習者にとって学習したくない学習内容が終了した後も教室に不在となる可能性もあり、その場合は学習者自身にとって必要な学習にも参加できないという不利益を被ることになります。またある学習内容の学習に対する拒否行動は、限定的ではあっても学習者が自らの学習権を放棄することになります。また教師がこの学習内容を全員が学習することは当然だと考えていた場合には、ある学習者の退室はその教師の信念への挑戦となり、教師の怒りを引き起こすかもしれません。「自ら選んで退出したんだから自己責任での行動であり、教師は後のフォローはしない。」と学習権放棄に対して教師は報復的に対応するかもしれません。子ども自身がこのように難しく考えることはないでしょうが、自分の行動が教師の不興を買い、自分にとって不利になるかもしれないということは直観的に理解するでしょう。
2つ目の教室内での当該学習活動の中止要求にしても、局面としてはそれが教師の信念やプライドを否定し傷つけることはあきらかで、また一番目の行動と違って他の学習者の意向とも関わることですから、異論が出て批判されることも予想できます。「たとえ一人でもその学習をすることがいやな子どもがいたら学習は中止する」というような一般的ルールを立てることはあり得ますが、それが予め確認されている教室というのは現実にはほとんどないでしょう。
学校生活における子どもの何らかの「拒否」行動がまず事実として生起した場合(T君の例のように)は、教師はそれへの対応を迫られます。そして新任当時の賢明の模索の中でとは言え、石垣先生のT君への対応には私たちが学ばせてもらうべきものがたくさんありました。
これに対して私が今考察しているのは、本当は学校でのある活動や状況を拒否したいんだけれどなかなかそこへと踏み切れない子どもに対して、拒否したいときは拒否してもいいんだよ、それに対して先生はきちんと対応するから、というルールやシステムを、何かが起こる前に一般論として授業や教室に確立できるか、という問題です。
ここには日本の学校教育の通例である一斉教授・一斉学習・一斉活動をめぐる問題も複雑に絡んでいます。
家庭教師や極小規模校での授業のように教師と子どもの一対一の関係で学習-学習指導が行なわれる場合、学習者が何らかの経緯や理由で学習を続けることを拒否すれば、教師が学習者が学習に戻るように強制力を発揮する(=管理)のでない限りは学習は成立しなくなります。一対一の一方の「一」が学習活動から論理的には「不在」になるわけだから、学習に必要な関係そのものが(少なくとも一時的には)消滅するわけであり、すなわち学習活動自体が消滅するわけです。
教師対学習者数名というような小規模学級の場合でも、例えば児童数4名の学級があったとして、その中のAくんが何らかの理由で教室を飛びだしてしまった場合、Aくんに特別支援のための補助員がついているような場合を除けば、教師は飛び出したAくんを追いかけなければならず、授業を中断しなければなりません。飛び出したAくん以外のBさん、Cくん、Dさんが引き続き教室にいるとしても、その子たちへの教師の「指導」は当然中断されてしまっています。教師が咄嗟に「教科書○ページの練習問題を解いていなさい。」などの自習課題を指示してから教室を出れば、教師が不在でも論理的には教師の「指導」は継続していることになりますが、例えばCくんが先生がいないのをいいことに運動場へ遊びに行ってしまうかもしれません。あるいはリーダーシップを取れるBさんが「先生が戻ってくるまでしっかり自習しよ!」とCくん、Dさんに呼びかけて、3人で静かに自習するかもしれません。どうなるかは学級の状況次第ですが、いずれにしても担任教師がAくん、Bさん、Cくん、Dさんの4人の児童が揃った状況下で行なう学習指導は成立していません。
ここまでは、一人の学習者の学習拒否行動が教師対学習者の通常の学習活動を停止させ続行を(一時的にでも)不可能にするケースです。
これに対して例えば30人前後の多人数学級ではどうでしょうか?その学級で例えばXくんが前述のAくんのような飛び出し行動をしたら…。
もちろんどういう経緯での「飛び出し」かによって対応は異なるでしょう。Xくんが日頃から多動傾向のある子どもであれば、Xくんへの対応のために特別支援補助員が配置されていてその人がXくんを追いかけるということになるでしょう。Xくんの「飛び出し」は、その都度教師や学級の他の子どもたちの心に何らかの波紋を広げるかもしれませんが、授業自体はそのまま継続するかもしれません。一方、Xくんが担任教師に対して常から反抗的、拒否的な態度を取っていてそれがある授業時間に爆発的に表れたんだとしたら、教師は他の人にXくんへの対応を任せて授業を続けるといういわけにはいかないでしょう。「他の人」がいないときにはもちろん担任自身が直ちに対応しなければなりません。こういう時の学級の状況は、上で数名規模の学級について考察したのと類似の状況になるでしょう。
さて、上記で考察してきた3つの架空の状況は、いずれも学習拒否が「劇的」に発生した場合です。そしてこれまで私は3つの架空事例について、ほぼ拒否行動を起こした子ども本人ではなくてその周りにいる教師や子どもたちの「外からの目」で自体への対応を描いてきましたが、この問題の核心は学習を拒否した当事者にあります。
ところで、上記のような「劇的状況」とは違い、もっとひそやかにある子どもの中で学習拒否状況が起こりつつあった時についてはどうでしょう。つまり、ある子が何らかの原因でいま教室で行なわれている授業・学習活動に参加し続けることが困難あるいは嫌になった時の話です。
もっともわかりやすい、と言ったらその子がかわいそうですが、授業中にある子どもが手を挙げたり教師のそばに来て「先生、お腹が痛いんです」「気分が悪いんです」と訴えたら、普通のまともな人間的感覚を持った教師ならば、もうちょっとその子に体調を聞いたりした上で、「保健室に行ってきなさい」「○○さん、付いていってあげて」というような指示を出すでしょう。実はその子が教室から出たいのは別の理由が授業での学習にあったからだとしても、子どもが体調が悪いという「演技」をしたら、それが常習的な行為であったりしない限りは、教師は「うそだろう!席に戻って学習しなさい」みたいなことは言わないんじゃないでしょうか。子どもの健康状態に関わることは、極端な場合生死の問題に繋がることもあり、常識人である教師ならば、学校生活の中で子どもの生命の安全・健康状態の保持は最重要課題だと認識しているでしょう。またもちろん、この問題で基本的対応を誤ることによる責任問題の発生を気にする意識もあるでしょう。こうして、実質であれ名目であれ、「健康状態における不調」を理由にすれば、子どもは教室での学習から「合法的に」離脱することができます。
しかし、教室にいる子ども自身の心身の状態が原因ではなくて、学習している内容自体に子どもが拒否感・嫌悪感・忌避感を抱いた場合はどうでしょうか。日本の教育実践や教育学は、そういう想定を意識的に立ててきたのでしょうか?
まず、あくまで架空の自体の想定になってしまいますが、子どもがある学習内容(学習方法の場合もあるでしょうが、ここでは取り敢えず内容に限定します)に拒否感・嫌悪感・忌避感を抱くケースとして、どのようなものが考えられるでしょうか? 前述の拙稿では、「性の学習において教師や子どもなど学習の当事者自身の性のprivacyについて授業内で語られようとする場合」というのを想定しました。特定の実在の教育実践から援用した事例ではありませんが、仮に教師が自分自身の性行動について授業で赤裸々に語ったりしたら、興味を持って食いつく子どももいるかもしれないですが、強い嫌悪感を感じる子どもがいてもおかしくないだろうと私は考えました。その他にも多様な多くの事例を想定する作業は行なっていませんが、例えばヒロシマの被爆者の激しいケロイドのカラー写真を提示した場合なども別の例として考えられます。戦争の冷酷な事実を認識させるためにそうした写真を子どもに見せるべきだという主張も教育実践上にありますが、私はこれは震災後のPTSD問題などと類似の問題として慎重に検討すべきだと思っています。テレビでも東日本大震災関連の事実報道の際には「この後津波の映像が流れます」とテロップで告知があります。授業においても、「先生は被爆者の人がどんな酷い仕打ちを受けたのかをみんなに知ってもらうために大やけどでケロイドができてしまった被爆者の人の写真を用意しました。だけど、もしかしたらこの写真を見て気分が悪くなったり後で夢を見てうなされる人がいないとはかぎらないから、みなさん全員が見なければならなにとは考えていません。見てみたい、見てもかまわないという人は休み時間に先生の机のところに来たら見せてあげます。こわいと思う人は見なくてもいいからね。」というくらいの配慮はあっていいと思うのです。教師が授業で教材教具を子どもたちに提示する際に、あっと驚かせる内容のものを用意するというのは、一つの教授効果としてありだとは思いますが、その内容がむごたらしいケロイドの写真であってもよいのかは、十分に検討する必要があります。
ところでこのケロイド写真の事例も学習内容として激しい、劇的な部類のものですね。そして学習活動中に子どもが感じる拒否・嫌悪・忌避とはそういう劇的なものだけに限らず、多様に存在しそうな気がします。
あとで石垣氏の事例提示の中でも出てくるので先取りしてしまいたくはないのですが、教師が提示している学習活動への取り組み方とか達成の見通しが見えない子どもがその学習を拒否・忌避というのはありがちだと思います。しかしここではそうではなくて、学習している内容について子どもなりの把握・認識がある程度あり、というか学習活動の中でそれがある程度できてきた、見えてきたことに伴う、それへの嫌悪感・拒否感ということを問題にしています。ただ、教育実践状況についての私自身の貧しい把握の範囲では、そうした子どもたちの認識の事例も、それに対する教師の対応の事例もほとんど捉えられておらず、これ以上論じようとしても架空の話を組み立てて論じるしかないので、このあたりで締め括っておきます。
取り敢えず「拒否の自由」をめぐる長い考察を脱して(^^;)、石垣氏の行論の次の部分、城丸の「平行的形成」について論じた部分に移ります。
「拒否の自由と並んで、城丸の指導論を特徴付けるものに『平行的形成』の概念がある。子どもの学習において城丸(1993a)は『学習と形成とは、人間が対象に働きかけるなかで、主体の側に同時的・平行的に発生する二つの過程である。両者は緊密に結びつき、相互に影響しあっており、一方を他方から完全に引き離すことはできない。また両者を貫く法則は『働きかけるものが働きかけられる』ということである』(p.200)と定義した。学習と当時に子どもの内面におこる形成の作用を『平行的形成』と名付けた。」(P.75右)
そして石垣氏は、「平行的形成」の概念を付加して、城丸の叙述に即して子どもの学習拒否について次のようにさらに考察を深めます。
「そして、『算数を怠けながら学んでいることは、算数を学習しているのであると同時に、怠けた人格の形成に大いに寄与しているのだというふうに教師は自己の教育実践を分析できなければならない。教育実践を、いわば、単眼で見るのではなく、複眼で見ることができなければならないのであ』」(城丸1999a、p.201)という。城丸のいう『怠け』をわたしたちは『イヤ』『やりたくない』『やる気がしない』などの言葉や、『私語をする』『教室から出ていく』『机に突っ伏して取り組まない』などの行動的表れとみる。子どもの拒否は表向きの拒絶に限らない。表面的には従っているように見えても『やりすごしている』場合もある。城丸のいう複眼で見るということは、子どもの内面における平行的形成を指導の構想に位置づけることを求めているといえよう。」(同)
ここでも私は、石垣氏が典拠としている『城丸章夫著作集』第8巻を持っていないために、城丸の原典にあたって主張の真意を確かめることができません。
城丸が子どもが「算数を怠けながら学んでいる」と言い、「怠けた人格の形成」と言う時、それは城丸にとって肯定的、というか、積極的意味を持つものとして捉え得る子どもの「拒否の自由」の表れなんでしょうか。「怠けた人格」というのも、子どもが《怠ける権利》を行使している様として肯定的な意味合いを含んで捉えていることなんでしょうか。引用の範囲からだけ私が主観的に感じるニュアンスとしては、子ども自身が学習活動をスポイルし、またそういう状態に自分を置くことで自分自身をスポイルしている姿と読めるのですが。そこで城丸は子どもにおいて具体的な学習が成立していないことを教師は放置してはならないと同時に、子どもが自分の人格をそういう状況に安住させていることを放置してはならない、二重の意味の否定的自体を放置しないことが教育実践を「複眼で見る」ことだと述べているように読みました。
しかし石垣氏自身は、目の前の子どもの「見えている」拒否行動の裏にあるものを教師は読まなければならないし、逆に表向き拒否的でなくても内面では消極的に拒否している場合もあるので、子どもの行動の表面と内面の関係を丁寧に辿らなければならないという氏自身の実践的把握に引きつけ、子どもの行動の表面的特徴からは直ちに読み取れない「子どもの内面における平行的形成」に対して注意を促しています。そこで、私自身が石垣氏の城丸引用箇所の原典における文脈を直接確認できない以上、「算数を怠けながら」の事例での城丸の子どもの行動と人格への評価に否定的ニュアンスを感じるという私の主観的印象を捨てようと思います。
石垣氏は次に、子どもの学習拒否の中で書くことの拒否に焦点を当てて「平行的形成」についてさらに次のように考察を進めます。
「書くことを拒否するという時、例えば次のような子どもの『平行的形成』についていくつもの仮説を立てることができる。手指や手首の微細運動や協調運動の困難さの自覚から書くことを拒否している、書いた文字を何度も直された経験から書くことを拒否している、その先生の指導に従ってきたが納得いかず反発するようなことになり書くことを拒否している、等々。書くことをいやがるという拒否が、どのような平行的形成によってもたらされているかは、子どもの拒否という事実を検討する中で明らかになっていく。城丸のいう複眼で見るということは、授業においても教育内容を子どもがどのように身につけているか、という狭い学習評価の視野ではなく、子どもの内面において様々な疑問、拒否感、わからなさ、無力感などを含め、平行的形成のプロセスと結果を指導の構想(指導の見通しや展望)に位置づけることを求めているといえよう。」(P.75右-P.76左)
教師が子どもに対してある特定の学習活動に取り組むことを指示したとき、それに対して子どもが何らかの動き、反応を示したとして、その動き、反応の内容は教師が要求した学習活動の内容に対する直接のリアクション「だけではない」ということは、考えてみたら人間一般の観察として当然の常識的な事柄だと思います。しかし、石垣氏が言うように、教師が「教育内容を子どもがどのように身につけているか、という狭い学習評価の視野」でしか子どもを見ていない、見ようとしていないが為に、子どもの動き、反応に含まれる子ども理解のたくさんのヒントを見落としてしまうのでしょう。もちろん何十人もクラスにいる中で一人の子どもが教育内容をどのように身につけているか、身につけることに苦労したり難儀したりしているとすればどこに問題があるかということを授業中の瞬時に把握すること自体にも専心、集中、高度の専門性が必要です。ですから多人数の指導の中で全てのの子どもについてその学習到達以外の様態を的確に把握せよというのは酷なことでしょう。それでもやはり教師にとって気になる子どもについてはその学習活動の様態を「複眼的に見る、見ようとする」という姿勢は必要なのだと思います。授業のその瞬間に複眼的把握に対応したマルチな指導・対応を行なうというのは難しいでしょうが、その日のその後の学校生活の中で改めてその子に対応するなどの努力は必要なんだろうと思います。
石垣氏は、さらにこう述べます。
「『拒否の自由』を認めないということは、その子がなぜ拒否するのかという問いや仮説を教師が持つことを排除する。あらに、拒否を認めず強制的に子どもにその学習をさせた時、それにより子どもの中にはさらなる拒否感、できない自分を『バカ』だと思う自己卑下、劣等感、自己否定、自己肯定感の喪失、学習を否定する破壊的破滅的行動への衝動、ドロップアウトした仲間との群れ行動、歪んだプライドの展開など多くの『平行的形成』の結果が起きることは想像に難くない。それは、子どもが教師とは異なる人格の主体であることの否定的な形での証である。」(P.76左)
教師の「指導」に対して「拒否の自由」を認めない(=「指導」という名目だが実は「管理」)、つまり拒否させない、ということは、大声などの強圧・強迫や学校教育法で禁止された体罰を使用することも辞さなければ、表向きは「達成」すること(子どもが「指導」に従って教師の要求通りに行動すること)も可能でしょう。そしてそうした強制が教師の内面や外的行動にもたらしうる「平行的形成」の発現事例を石垣氏は多項目にわたって例示しています。そして一方教師の側についても、自らの「指導」に子どもを従わせ(従うことを強制することで実は「指導」を放棄して「管理」に走り)、子どもが教師の強制に屈して指示に従ったという結果を持って良しとするような姿勢に立つ限りは、「その子がなぜ拒否するのかという問いや仮説」を持つという、「指導」の大原則としての子どもの立場に立ってみるという姿勢が放棄されていることは明白です。これでは子どもの側についてみても教師の側についてみても、人間関係の荒廃を生み出すしかないことは明白です。
さて、ここからまた、石垣論文の文脈からは外れます。
「平行的形成」という重要な概念について、前述のように私は『城丸章夫著作集』第8巻を参照できず、石垣論文自体の典拠に立ち戻っての概念の確認ができません。ですが、幸いなことに私の蔵書には城丸『やさしい教育学 上』(あゆに出版 1978)があり、そこにも「平行的形成」概念が登場します。『著作集』第8巻は「教育課程論・授業論」という内容だそうですが、そこに収録された論稿の『やさしい教育学 上』との異同や前後関係については、残念ながらわかりません。そういう欠陥を含んだ情報収集状況であることをお断りした上で、『やさしい教育学 上』における「平行的形成」への言及について紹介します。
「第1章 教育学の学としての特質」の中で、城丸は次のように述べています。
「教育実践の定義
教育的目的を達成するために、教育者が被教育者に意図的に働きかけることを、教育実践といいます。
(1)「教育」「教育的」ということは、なんらかの意味で、相手の人格に影響を与えることを指します。(中略)たとえば「女房に魚釣りを教育した」「亭主を教育して茶わん洗いをするようにした」というときには、ただたんにそのやり方を教えたというだけではなく、当人をその気にして、自分から進んでやったり、やりたがるようにしたという人格上の変化を、暗に意味しています。
(2)被教育者の人格に働きかけ、影響を与えるといっても、働きかけた側の意図どおりには、なかなかならないものであります。(中略)それでも、ある知識や技能を教えるということは、どうにか達成できることが多いものです。しかし、その子の性質・性格・好み・人間的傾向といったものに影響を与えること、正義感・道徳的態度・美的情操・人生観・世界観といったものに影響を与えること、これらはいずれも、たいへん困難なことであり、また、教育学としてもどうすることが有効な方法であるかについて、まだ、ほとんどよくわかっていません。(中略)だから、教育の仕事に従事する者は、ほんとうは自分は人間について、まだ十分にわからないままに働きかけているのだということを、お互いに確認する必要があります。
(3)人間が人間に働きかける目的・方法は多様であり、必ずしも教育を目的としているものではありません。勤労大衆にとっては労働を目的として人間相互が働きかけあうことが、いちばんふつうの働きかけあいでありましょう。そして、この労働のための働きかけあいのなかでは、教育を目的としてはいないけれども、私たちは人格への深刻な影響を受けます。教育学的にはこれを<平行的形成>と呼んでおきましょう。教育実践を分析・研究するにあたっては、この<平行的形成>を見落とさないことが大切であります。
ところで、教育的実践とは、相手の人格形成に影響を与えること自体を目的としています。と、いっても、じっさいは限られた時間に、学校という限られた場所で、働きかけるといっても、知識や技能を教えることと、集団的な生活のなかでの行動のしかたを教えることなどをとおして、子どもの人格形成にかかわっているにすぎないものであります。もちろん、この限られた働きかけのもつ、子どもにとっての重大性は、どんなに強調しても強調しすぎるものではありません。」(P.26-27)
城丸のこの文章を、私は最初は月刊誌『子どもと教育』の連載として読んでいたんだと思います(雑誌は断捨離してしまい、手元にありません^^;)。単行本化されたものを読んだ時期は、本書の目次への私のメモ書きによると1984年4月、神戸大学に助手として赴任して2年目のことだったようです(読了日のメモは第5章で終わっており、読了していません^^;)。いま37年ぶりに読み返してみて、何というか城丸の文章にとても魅力を感じます。教育という事象について、また社会現象の中での教育の位置について熟考され熟知している研究者の文章だと思うし、文章の構成、前の段落での後の段落への布石が実に巧みだと思います。また、こういう表現で正鵠を射ているかどうか自信がありませんが、教育という営み(それを取り巻く社会との関連も含めて)をパラドキシカルなものとして把握されていることが重要な特徴なのではないかと思いました。それで、上記引用中で「平行的形成」が登場するのは(3)の部分ですけれども、そこだけに限定して取り出さずに、城丸のパラドキシカルな教育把握が感じ取れるように、(3)への布石にもあたると思われる(1)(2)の一部分も含めて引用してみました。
まずこの引用部分からだけの判断ではありますが、城丸の教育学、教育現象・教育作用・教育という営みの把握において「働きかけ」というのが重要なキーワードではないかと思います。
上記引用のうち私が着目した城丸の行論の骨子だけを取り出してみます。
●「教育実践」とは、(教育者の被教育者への)「意図的」「働きかけ」である。
●《その働きかけとは-ここは佐藤の解釈》相手の人格に影響を与えること。
●人格に影響を与えるとは、その人をその気にして《能動的に動くという-ここは佐藤の解釈》人格上の変化を生じさせること。
●しかし、働きかけられた人は、なかなか働きかけた側の意図通りに動かない《=「働きかけ」は必ずしも成功・目標達成を保証しない-ここは佐藤の解釈》。
●働きかけても、知識・技能についてはまだしも、子どもの性質・性格・好み・人間的傾向、あるいは正義感・道徳的態度・美的情操・人生観・世界観に影響を与えることは困難であり、方法論も確立されていない。
以上の布石を敷いた上で、城丸はいよいよ平行的形成について語ります。
●人間の人間への働きかけ方は多様だが、勤労大衆にとっては労働を目的とする働きかけあいが最も「普通」だ。
●人間の労働目的の働きかけあいは教育を目的としないが、それによって人格は深刻な影響を受ける。これを<平行的形成>と呼ぶことにする。
●<平行的形成>への注目は教育実践の分析・研究において不可欠である。
●教育実践は人格形成に影響を与えることを目的とする(この点で労働における<平行的形成>とは異なる-ここは佐藤の解釈)が、その時間・場所も人格形成への働きかけの内容も限定されている。
●しかしその限定された働きかけの子どもにとっての重大性は強調しても余りあるものだ。
こうしてこの部分の行論の最後は、<平行的形成>ではなくてそれとは区別される意図的な教育的働きかけの人格形成に対する影響の「重大性」へと進むのですが、振り返ってみると教育的働きかけの子どもにとっての「重大性」の強調の前に、<平行的形成>の「人格への深刻な影響」が強調されていました。そして、そのどちらが大きいとは(少なくとも行論のこの部分では)城丸は述べていません。
ここで私が先走ってパラドキシカルと形容した城丸の教育把握、もっと言えば教育的な「働きかけ」把握について、私なりに解釈を述べておきましょう。先ほどの城丸の行論の整理よりももっと私の解釈を盛り込んで書いてみます。
◎教育実践とは相手への意図的働きかけだ。
◎その働きかけとは、自分の思うままに相手を動かすことではなくて、相手をその気にさせて自ら動くように、相手の人格を変化させることだ。
◎自分は意図を持って相手に働きかけるが、相手は自分の思い通りには動いてくれない。(⇒働きかけ意図とその結果とのparadox)
◎相手の人格の中に、自分の働きかけが功を奏しやすい側面と、功を奏させるのが難しい面がある。(⇒働きかける自分の意図があるにもかかわらず、それへの反応の仕方は相手が決定するというparadox)
◎労働をめぐる人間関係の中には、意図的な教育的働きかけではないにも関わらず人格に影響を与える作用があり、これを<平行的形成>と呼ぶ。(⇒教育者が意図的に働きかけても期待通りの結果は出ないことがあるのに、意図的でない社会的作用が人格に一定の影響を及ぼすことがあるというparadox)
◎人間の人格への社会からの諸作用の中で意図的な教育的働きかけは時間的・場所的・内容的に極めて限定されているのに、その働きかけが子どもに重大な影響を与える。(⇒というpadradox)
以上、paradoxと定位するにはちょっと苦しい部分もあるかとは思いますが、要するに教育的な働きかけが二面的な性格を持っているということはいくつかの面から論証できるんじゃないかと思います。
さて、まとめると、城丸は教育的働きかけによる影響ではないのだけれども労働の人間関係の中で人格が影響を受けるというその作用を<平行的形成>と呼びました。ここでは<平行的形成>は意図的な教育の営みの外側で論じられています。しかし、このままでは終わらないのです。平行的形成が教育実践の中に進出してきます。城丸の行論の次の部分を見てみましょう。
「教育的に働きかけるとは
教育的働きかけには、相手の認識活動や思考活動に直接に働きかける方法と、相手の行動に働きかけて、行動のなかで平行的に形成されるものを望ましいものにしようとする方法、のふたつがあります。」(P.27)
ご覧の通り、行論が次の見出し項目に移ると、「教育的働きかけ」に関する説明の中で「平行的に形成される」という表現が用いられています(名詞表現から動詞受動態表現に変わっていますが)。しかしよく見ると、この部分は厳密には《働きかけ主体》の行動について書いている部分ではありません。主語は《働きかけられ主体(子ども)》の方であって、子どもが《行動の中で平行的に形成》するものを、《働きかけ主体(面倒なので便宜的常識的に「教師」としておきます)》が「望ましいものにしようとする」というのです。教師の行動は「望ましいものにしようとする」ことです。これも微妙な表現で、教師が子どもの行動を《教師にとって望ましいものにする》のではないのです(それでは強制であり、「指導」でなくて「管理」ですよね)。「しようとする」とは、子ども自身が行動の中で自ら(平行的に)形成するものを(子どもにとっても、子どもを「指導」する教師にとっても)望ましいものにしていけるように教師として何らかの働きかけ、「指導」をする、というようなことでしょうか。
それでは、子どもの「行動のなかで平行的に形成されるもの」とは、子どもが「行動のなかで」なにごとかを「平行的に形成」するとは、一体どういうことなのでしょうか。前述の引用に続く城丸の行論を追ってみましょう。
「 (1) 前者の働きかけ(相手の認識活動や思考活動に直接に働きかける方法-佐藤註)は、学校では主体として教科の授業のなかでおこなわれ、子どもは一定の認識を獲得し、知的な訓練を受けます。私たちは、こういう働きかけを<知的陶冶>あるいは<陶冶>と呼び、働きかけ・働きかけられるその姿を<教授=学習>といい表わしています。
後者の働きかけ(相手の行動に働きかけて、行動のなかで平行的に形成されるものを望ましいものにしようとする方法-佐藤註)を、私たちは<訓育>と呼んでいます。訓育は、主として教科外の諸活動で強く現われます。
しかし、陶冶にせよ訓育にせよ、現実の教育実践にあたっては、両者は統一的に存在しなければならないし、教師が意識すると否とにかかわらず存在しています。
ひとによっては、<訓育>を<人格形成の仕事>というふうに、いっているひともあります。陶冶も人格形成にかかわる大切な仕事であるのに、なぜ、行動にともなう平行的形成を意図した活動を<人格形成の仕事>と呼ぶかということは、この項の(3)でのべたいと思います。
(中略)
(3) 人間は高等な動物ですから、いちいちためしてみなくても、知識としてさまざまなことを学習します。しかし、それでもやっぱり、<知る>ということの基本は、ひとや物に働きかけることによって知るのであります。たくあんの味は、食べてみて知るのであります。たくあんは、それをかじった人間には、これはしょっぱいぞとか、甘味があるぞとかと教えてくれます。私たちが対象について知るのは、このようにして知るのであります。
しかし、たくあんを食べるという単純そうにみえる行動でも、第一には、そのひとがこれまで獲得した、精神的能力と肉体的能力の、総合したちからの発揮にほかなりません。すなわち、精神的能力を使って「おいしそうだな」と判断し、指先の筋肉を使ってはしを操作し、たくあんの大きさを判断してこれをはさみ、腕や手首の筋肉を使って口にまで運ぶことが必要です。このほかにも、私たちが自覚さえしていないさまざまな能力を、行使しているにちがいありません。しかも、私たちはこれらの能力をバラバラに行使しているのではなくて、「私」という人格に総合・統合し、「私」という人間の全人格の働きとして行使しているのです。だから、つぎのようにいうことができます。私たちはたくあんを食べることで、意識すると否とにかかわらず、それに必要なさまざまな能力を訓練し、学習しているとともに、なによりも、それらの諸能力を総合・統合することを訓練し、学習しているものであるということができます。
第二には、たくあんを食べるということは、仮に台所のすみっこでこっそり食べたとしても、それはそれなりの社会的意味をもってきます。つまり、家族集団内での一定の人間関係のなかで、この行動は発生をし、試食・盗み食い・いたずら等々の意味あいをもちます。そして、同じ行動が家族集団にとっては、感謝のたね・叱責のたね・笑いのたね等々になります。と、いうことは、たくあんを食べることで、当人が意識すると否とにかかわらず、家族集団の内部的人間関係に一定の働きかけをしているものだということであります。そして、そのように働きかけることによって、家族との愛情をたしかめたり、相互の人間関係を認識したり、家族の一員としての行動のしかたを学習したりしているわけです。
いま、家族のためにたくあんを試食した主婦を想定してみましょう。彼女は直接には、その味を知ります。行動としてはそれだけのことです。しかし、この行動が同時に諸認識・諸能力を総合・統合するという彼女の主体内部の働きと、家族に対する責任感や愛情を育てたり、主婦としての<座>を強めるという動きとを、生み出していることを、認めないわけにはいきません。とくに、家族集団とのかかわりは重大であります。大げさないい方をすれば、(以下7文字に傍点-佐藤)たくあんの試食という行動は、味を知ることと平行して、主婦としての人格、主婦としての風格の形成をしているのだといってよいでしょう。先に、私が平行的形成は人格形成にかかわることが多いという意味のことをのべた理由は、ここにあります。
なお、ここでは、行動がもつ認識や行動能力の統合と社会的関係の対応の問題とをふたつに分けて書きましたが、現実には両者は深くかかわりあっており、そのかかわったちからが、平行的な作用として、人格形成に大きくかかわるのだと考えます。また、これらの平行的形成は、働きかけた人間の主体内部に、いわば、自動的におこる(以下4文字に傍点-佐藤)ことがらであるという意味で、伝達による認識や技能の学習とは区別されます。
『働きかける者が働きかけられる』ということばがありますが、私は、このことを、とりたてて平行的形成にかかわることばとして尊重したいと思います。
(4) この項の(2)および(3)は、教育実践を分析・研究する上での、基本的な観点であります。とくに(3)を視野の外に置いたとき、分析は大きくゆがみます。教育実践の総体としては、行動の指導のもつ教育的意義と指導の独自性を見失うことになります。行動の指導までが、教科の授業のやり方を延長したものとなっていくことが、さけられません。竹内常一氏はこういう指導を『学習法的な生活指導』を呼んでいます。」(P.27-32)
長い引用になりました。私自身の理解のために、上記引用部分における城丸の行論の骨格を確認していきたいと思います。便宜的に番号を振ります。
①教育的はたらきかけのうち、「相手の認識活動や思考活動に直接に働きかける方法」のことを「(知的)陶冶」と呼び、「働きかけ・働きかけられるその姿を<教授=学習>」と表現する。これは主体として教科の授業のなかで行なわれる。
②教育的はたらきかけのうち、「相手の行動に働きかけて、行動のなかで平行的に形成されるものを望ましいものにしようとする方法」を<訓育>と呼ぶ。これは「主として教科外の諸活動で強く現われ」る。
③現実の教育実践では、教育が意識しようがしまいが、陶冶と訓育は「両者は統一的に存在しなければならない」 し、存在している。
④「陶冶も人格形成にかかわる」のに、「行動にともなう平行的形成を意図した活動を<人格形成の仕事>と呼ぶ」(「<訓育>を<人格形成の仕事>と」呼ぶ人もいる)のはなぜか。これについては(3)で述べる。
【佐藤註:このあと城丸は(2)で<コミュニケーション>について述べており、これも教育学・教育実践研究における重要な論点だと思うのですが、私は「平行的形成」をめぐる行論を追いかけたいために迷った末に(2)の紹介を割愛しました。】
⑤人間においてもまた、<知る>ことの基本は「ひとや物に働きかけることによって」である。
⑥私たちは知るための「能力をバラバラに行使しているのではなくて、『私』という人格に総合・統合し、「私」という人間の全人格の働きとして行使している」。
⑦私たちはたくあんを食べるという行動によって、「それに必要なさまざまな能力を訓練し、学習しているとともに、なによりも、それらの諸能力を総合・統合することを訓練し、学習している」。
⑧一方、たくあんを食べるという行動によって私たちは、「当人が意識すると否とにかかわらず、家族集団の内部的人間関係に一定の働きかけをしている」。
⑨たくあんを試食した主婦の行動は、「同時に諸認識・諸能力を総合・統合するという彼女の主体内部の働きと、家族に対する責任感や愛情を育てたり、主婦としての<座>を強めるという動きとを、生み出している」。つまり、「(以下7文字に傍点-佐藤)たくあんの試食)という行動は、味を知ることと平行して、主婦としての人格、主婦としての風格の形成をしている」。⇒これが先に「平行的形成は人格形成にかかわることが多い」と述べた理由である。
⑩ここまで行動による「認識や行動能力の統合」と「社会的関係の対応の問題」を分けて書いたが、「現実には両者は深くかかわりあっており、そのかかわったちからが、平行的な作用として、人格形成に大きくかかわる」。
⑪平行的形成は、「働きかけた人間の主体内部に、いわば、自動的におこる(以下4文字に傍点-佐藤)ことがら」であるので、「伝達による認識や技能の学習とは区別され」る。
⑫「『働きかける者が働きかけられる』ということば」を、特に「平行的形成にかかわることばとして尊重したい」。
⑬(3)で述べたこと【佐藤註:この要約では⑤~⑫】を無視すると、「行動の指導のもつ教育的意義と指導の独自性を見失うことになり」、「行動の指導までが、教科の授業のやり方を延長したものとなっていく」危険がある。
う~ん。整理してみても、依然として城丸の行論は微妙で難解です。いや、行論自体は極めてわかりやすく展開されているのですが、その行論が指し示す教育実践の事実を読者である私が吟味する作業において、難渋しています。ここでは<陶冶>あるいは相互作用としての<教授=学習>と、<平行的形成>との関係に限定して考察してみます。
私が引用から整理した11項目の末尾近い⑬から行きます。ここで城丸は《平行的形成は陶冶とは区別される》と言っているようにも見えます。いや、違うかな?⑪で城丸が「伝達による認識や技能の学習」と言っているものが、①の「陶冶」の定義=「相手の認識活動や思考活動に直接に働きかける方法」と同一とは限りません。「直接に働きかける方法」が「伝達」のみであると城丸が見なしていたとは考えにくいからです。私の頭の中には、陶冶あるいは教授=学習という働きかけ、あるいは働きかけ・働きかけられる関係は直接には平行的形成を呼び起こすことはないと城丸が主張しているという「読み」がありました。しかし城丸はそうは言っていません。城丸が言っているのは、平行的形成は「伝達による……学習」が引き起こす結果とは区別される=伝達という教師の指導によって平行的形成が引き起こされるのではなく、平行的形成は教師に指導されている子どもの内部において「自動的に」(=教師の指導との因果関係なしに?)起こるということでした。教師は「伝達」によっては子どもに平行的形成を「生じさせる」ことはできないということでした。
①で城丸が挙げている「認識や行動能力の統合」と「社会的関係の対応の問題」の「両者」についても、最初それぞれを陶冶と訓育に対応させて呼んだんですが、自信がなくなってきました。読み返せば、その直前までの行論は学校生活の風景に関するものではなく、たくあんを食べる人(例えば主婦)を例に挙げてのものでした。引用部分だけをいくら読み返しても答えは出ないのかもしれませんが、私は読みながら、なぜたくあん談義なんだろう?なぜ教室場面、学校場面が引き合いに出されないのだろうと思っていました。
……言い訳がましいですが、石垣論文の検討から関連して城丸の「平行的形成」論を学ぶ作業は、昨年11月下旬以来中旬以来多忙のために約1か月半ほど中断していました。私の目論見としては、石垣氏が参照している城丸の理論について、私も手持ち資料に限りが有るものの可能な範囲で学習し、その理解を携えて再び石垣論文の学習・検討作業に戻ろうというものでしたが、上でわかるように城丸のキーワード「平行的形成」の検討の途中で停滞してしまっています。
石垣論文の検討作業としては、本文全12ページ中「1 『子どもの事実』を理解することと城丸章夫の指導論」(前半の4.5ページ分)をようやくフォローしたところで、後半の実践検討部分=「2 子どもの事実と指導・実践事例の検討から」(後半の7.5ページ分)の部分の検討が全く未着手のままです。
本ノートの冒頭に近い部分で、石垣論文の「学習の事実」にかかわる記述をどう取り上げるかについての逡巡を述懐しました。しかし、唐突ですが石垣論文第2章に入る前の現段階で、今回のノートは締め括りたいと思います。全く個人的な事情ですが、あまりに時間をかけすぎ、また主体として石垣論文へのコメントよりも自分自身の実践の振り返りなどに紙数を割きすぎて、おまけに城丸論文の理解で泥沼に入ったため、石垣氏の分厚い実践記録・資料の部分が本論文でとりわけ重要なことはわかっているのですが、石垣論文の全体をフォローしてコメントを完結させるエネルギーがなくなってしまいました。ノートの途中で、本論文内に掲載されている実践ではないですが、石垣氏の他の実践を紹介して若干意見も述べたことをもって代替とさせていただきます。
結局本ノートは、石垣論文に刺激されつつ城丸章夫の主張に学び、しかしその解釈に難渋して思考が停止してしまった、という記録に終わりました。
これからも石垣氏の教育実践から学ばせていただきたいし、また城丸教育学についても仕切り直してしっかり学びたいと思いますが、今回のノート作成作業はここで終えたいと思います。
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