10 【アーカイブ02】京都教科研2020年11月例会を終えて(2020.11.22)

(このあと投稿予定の「教育学文献学習ノート(22)-3」の終末近くで太田和敬氏のブログ投稿「『教育』2021年11月号を読む 教育の私事性論は、どこに弱点があったのか」に言及しているのですが、その冒頭部分で私の以下のfacebook投稿とそれに対する太田氏のコメントが私と太田氏の交流の発端であったことを紹介しています。どのような交流なのかを紹介したいのですが、私が下記の文章を投稿した場所はfacebook内の「全国『教育』を読む会」というグループです。教育科学研究会の機関誌『教育』を読んでいる人たちが中心であると思われ、910人のメンバーがいるのですが、そこでの投稿はメンバーのみしか見ることができない「プライベートグループ」です。

 そこへの私の投稿を私が私の判断で自分のブログに採録することは自由であると考えて再録します。

 私の投稿に対して、太田和敬氏から丁寧なコメントを二度にわたっていただき、私もそれに返信しているのですが、この太田氏と私の二度にわたるやり取りについては、プライベートグループの中で行なわれたものであり、太田氏も自らのコメントが「全国『教育』を読む会」グループの範囲を越えて公開されることは想定されていなかったと思われますので、残念ではありますがへの掲載を控えます。)


 昨日(11/21)開催された京都教科研第315回11月例会では、『教育』2020.11月号(No.898)の特集「コロナ禍と教育-その危機と希望」を検討しました(佐藤隆「コロナが照射する日本の教育課題」、汐見稔幸「コロナ下での保育の新しい模索」を中心に)。私はこの特集の全11編の論文・報告、及び関連して『教育』12月号(No.899)の特集2「コロナ禍の今、教員の働き方を問う」の論文・報告全5編を読んだ上で例会の議論に参加しました。この中の状況交流を含めていろいろな意見が出され、私もいくつかのことを考えましたが、ここでは1点に絞って意見を述べたいと思います。それはおおざっぱな言い方をすると「コロナ禍下での政策動向に対する教科研としてのスタンスをどう見極め、定めていくか」に関わることです。いますぐに結論が出ない、数年経ってまた検討し直してみることも必要な大きな課題であることは承知しつつ、模索の中での私見を述べてみたいと思います。
 佐藤隆論文「コロナが照射する日本の教育課題」の中の、「新しい生活様式としての少人数教育」(P.13上段)という見出しが、気になりました。敢えて「見出しが」と書いたのは、見出しに続く本文の中で佐藤隆氏は「文科省は『学校の新しい生活様式』(5月22日)を発し、飛沫感染を防ぐために黙働、黙食を推奨するなど、子どもどうしの密接な関係をつくりにくくした。」と述べて、文科省が要求する「新しい生活様式」の子どもたちへのマイナスの影響を指摘しており、決して政府各省庁、多くの地方自治体、マスコミ等のように「新しい生活様式」を無批判に提案し、受け入れているわけではないことがわかるからです。
 しかしそれにすぐ続いて佐藤隆氏は、「一方で物理的距離を2m以上とるようにも指示しています。現在標準的な教室の広さは60~70㎡だから単純に考えれば、その指示を実現しようとするならば1クラス20人以下にしなければならない。」(同)と述べて、一律的な「三密回避」政策が政府が約40年間サボタージュし続けた学級定数減を回避できないところへ追い込みつつあることを指摘します。これについても私は同意見です。教育再生会議など政府の政策ブレーンもこの方向で動き出し、今後まだ財務省と文科省の「攻防」や、少子化に向かう中で適当なところで折り合いを付けようとする策動なども警戒する必要はあるけれども、今のところ(何人まで下がるかは別として)学級定数減の方向に動き出しつつあるんだと認識しています。
 この動向の指摘の後、佐藤隆氏は少人数教育の教育的意義を述べ、これが「教育の中身と方法を包括するペダゴジー自体の変化を促すことになる。」(P.13下段)と期待を表明し、さらに「その意味では『主体的・対話的で深い学び』は、目新しい教育方法の開発というよりは、少人数学級の実現という物理的な条件によるところが大きいとさえ言えるのではないか。」(同)と述べます。「主体的・対話的で深い学び」については改めて検討しますが、この文脈では佐藤隆氏は少なくとも「主体的・対話的で深い学び」については肯定的に受け止めていると読めます。
 「三密回避」から"瓢箪から駒"(この形容は私が勝手に言っていることであり、決してこれまでの学級定数減を要求する長年の運動の成果を揶揄するものではありませんが)で少人数学級実現必然化の流れができてきました。ここまでは賛成です。そして少人数学級が実現すれば、そこからペダゴジーの変化、「主体的・対話的で深い学び」(後で述べるように私自身はこの提案の枠組み自体に疑問視していますが)の充実を期待できるという期待表明も一応は理解できます。しかし、その2つの事柄の繋ぎ方が見出しに表現されているような「新しい生活様式としての少人数教育」となることが私には納得できないのです。
 佐藤隆氏は文科省の「新しい生活様式」には批判的だけれども、少人数学級の実現によってそれとは違う《新しい生活様式》が実現できると展望しているのでしょうか? もしそうだとしても、先の見出しのこの用語法は誤解を招きます。
 私が「新しい生活様式」への強い疑問にこだわっていることは、京都教科研7月例会での報告「ソーシャルディスタンス/新しい生活様式 を疑う~6月号『からだ』特集から学ぶ~」でA4版22ページに渡る資料を配付して縷々述べました。長すぎてここでは紹介できないのですが、報告資料の「Ⅴ.まとめ」の一部だけを再録します。
「何度も繰り返すが、コロナウィルス感染拡大防止のために、子どもたちの間でウィルスが伝播しそうな行動を抑制するよう指導することの必要性は理解しているつもりだ。
(とは言うものの、コロナウィルスの空気感染の可能性が指摘されている中、人間距離を数メートル空けることにどれほどの積極的意味があるかは疑問だが。)
 問題はこうした行動規制を『新しい生活様式』と呼んでこれを意識的に流布しようとする政府・教委、それに従う学校の思考の安易さである。
 『コロナ時代』は終わらないのか? 人間社会の『新しい生活様式』は、そのままずーっと定着させるものなのか? 誰もそうは言ってない。だけど、『新しい生活様式』と聞いて、それは明日終わるよ、一月で終わるよ、年末までに終わるよ、と誰が積極的に思うだろうか。『新しい』=これまでと違う生活の仕方が、未来永劫続くとは思わなくても、当分終わらないと思わざるを得ないだろう。
 また、『生活様式』って、今日はこの様式だけど明日は、一ヵ月後は、一年後は別の様式になるだろうと、どれだけの人が思うだろうか。だって、『様式』なんだから。今日できて明日(あるいは近い将来に)くずれる、なくなると思う人は少ないだろう。
 子どもと子どもは2~1.5m以上近づかない。これが生活様式、仕方ないと思って(少なくとも教師が見ているところでは)従う子どもたちが増える、そういう子どもばっかりになる。これが、『コロナ禍克服が近いことを期待させる望ましい子ども社会の姿』なんだろうか?
(中略)
 『新しい生活様式』として提案されている『実践例』の中に重要な事項が含まれていることは承認した上で、『人との間隔は、できるだけ2m(最低1m)空ける』というpersonal-spaceのルールについて、(赤の他人が行き交う一般社会はいざ知らず)学校生活に関しては『新しい生活様式(京都市はなぜか新しい生活スタイル)』というような呼び方を辞めて、コロナウィルス感染拡大防止のための当面の緊急避難的行動スタイル(子どもたち向けには『コロナがおさまるまで(もう少しの間)がまんしよう』的なニュアンスを含ませた指導をしてほしい。
 十年後、かつての竹内の指摘のように、『理由は分からないけど子どもと子どもは引き離した方がよい、その方が管理しやすいから』と言うようになる教師たちを増やさないためにも。」
 7月例会でこの報告を行なう中で、かつて大政翼賛会の時代に「新しい生活様式」が言われたという情報も聞きました。建築関係という分野違いの方面からの情報で自分が正確に理解しているかどうか自信がないので、「『新しい生活様式』=戦争への第一歩」というような機械的なレッテル貼りをするつもりはないのですが、国やその実質的「出先」としての地方自治体、さらにはマスコミ等が総動員で国民一人一人に対して「生活様式を新しくせよ」と大号令をかける事態については、十分に警戒心を持っていても間違いではないと私は思うのです。少なくとも民間教育運動は「新しい生活様式」という言葉の使用に対して批判的であってほしい(批判的とは否定や拒否とイコールでないことは言うまでもありません)。
 さて、この上記の論点で書きすぎたので、また自分自身まだまだ学びが不足しているので「主体的・対話的で深い学び」の政策的・理論的評価をめぐる本格的な議論は機会を改めて行ないたいと思います。
 来る12月19日の京都教科研例会では、私が拙著『「生きる力」論批判』(三重大学出版会 2019年)について報告します。拙著の「Ⅰ.中央教育審議会による『生きる力』提案」では、1996/2003/2008/2016年の中教審答申をフォローしていますが、そこでの最新の2016中教審の検討作業は、教育課程政策のキー・カテゴリーの位置からfade outしつつもなお生き残っている「生きる力」論を追うことが検討のメインであり、新たに登場した「資質・能力」「アクティブ・ラーニング」「カリキュラム・マネジメント」などについて丁寧に検討する作業はできていません。ですから私自身拙著出版から約2年経つ今日の地点に立っての政策動向の学び直しが必要だと考えています。「主体的・対話的で深い学び」については、当初「アクティブ・ラーニング」として散々喧伝されながら土壇場の学習指導要領告示の時点でカタカナ用語が引っ込められ、それに替わってこの語が出てきたという経緯も含めて、十分な検討が必要だと思っています。
 佐藤隆論文では、見出しだけで見ても
  「主体的・対話的で深い学び」の原理を求めて
  「主体的・対話的で深い学び」への「補助線」をひく
と、括弧付きではあるもののこの用語を否定せず、デューイにも立ち戻りながら主体的や対話的を積極的に深めようとしています。そこには当然政策側の打ち出し方への批判も背景にあるだろうとは推測するのですが、主体的・対話的で深い学びという枠組み自体は肯定的に受け入れているように見えるところに私自身は疑問も感じてしまいます。
 私自身が「生きる力」論を批判的に検討してきて、その中で中教審-文科省の「生きる力」提案に対する民間側のスタンスに対しての疑問を感じる点があったことが影響しているかもしれません。1990年代に中教審が「生きる力」を提案したとき、民間側の一部には「そんなことは民間側がとっくの昔に、1970年代から提案してきたことだ」という受け止めがありました。その受けとめ方でよかったのか? 《民間側こそ先陣を切っている》という成果の誇示でよかったのか? 政治的には押し込めれているが理論的には権力側を凌駕しているんだ、みたいな自己満足でよかったのか?(言いすぎかもしれませんが) そうとらえることで権力が提起する教育政策の裏側を見失ってしまわないか? 「主体的・対話的で深い学び」についても、一応はその視点で疑ってみたい、というのが私の立場です。まだ十分な検証ができていない乱暴な議論であることは分かっています。
 2016中教審、2017-18新学習指導要領に対応する教科研側の検討作業(『教育』2016.10 No.849特集1「学習指導要領の新たな変質」、2016.11特集1「アクティブ・ラーニング!?」、2018.8 特集1「新学習指導要領と学力、『資質・能力』」など)を学び直しつつ、「主体的・対話的で深い学び」政策の評価をより慎重に行なっていきたいと思います。

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