8 【アーカイブ01】教育学文献学習ノート(21)藤原辰史「子どもの商品化に抗する思想」(『教育』No.907 旬報社 2021.8)
(本ブログの開設以前に私が主としてfacebook等に投稿した文章のうち、必要があって再録したいものを【アーカイブ】シリーズとして随時掲載していきます。)
(以下の文章を、Facebookの佐藤年明のウォール及び「全国『教育』を読む会』ページ、並びに「京都教科研・交流のひろば」掲示板(https://6203.teacup.com/keijiban/bbs?)の3箇所に投稿しました。 2021.7.17 佐藤年明)
(2021.7.12通読 2021.7.17ノート作成)
ほんとなら祇園祭前祭の山鉾巡行日だった本日(2021.7.17)、夕刻から京都教育科学研究会第324回例会が開かれます。目前に迫った教育科学研究会奈良大会(2021.7.31-8.2 対面+オンライン)に向けて『教育』No.907(2021.8)特集1「対話と交流で人を育む」の検討を行ないます。
同特集の冒頭に、今回大会はじめの集いで講演される藤原辰史氏(京都大学人文科学研究所准教授)の、講演タイトルと同名の論文「子どもの商品化に抗する思想」が掲載されています。同論文のPROFILE紹介によると藤原氏の「主な著作に『分解の哲学』(サントリー学芸賞)、『ナチスのキッチン』(第1回河合隼雄学芸賞)、『給食の歴史』(第10回辻静雄食文化賞)、『縁食論』『農の原理の史的研究』がある。」とのこと。また、読み始めている『縁食論』(ミシマ社 2020.11.22)のプロフィールによると、「専門は農業史、食の思想史」です。
教科研大会での講演を依頼された方ということで関心はあるものの、専門分野から見て自分の研究とどれだけ接点があるかな、ついていけるかなと思いながら論文「子どもの商品化に抗する思想」を読み始めたのですが、大変刺激的でした。全編を通しておもしろいのですが、しかし冒頭の教育学研究者である私にとって非常にショッキングで考え込んでしまう藤原氏の投げかけに、どうしてもひっかかり、こだわってしまいます。そこでこのノートでは藤原論文から刺激を受けたあれこれのことを並べることはせず、一点に絞って考えてみたいと思います。
それは、「人格」について、「人格形成」についてです。
(1)
藤原論文の冒頭は、次のように始まります(太字下線は引用者)。
【育てるとは何か。
私は、育てるとは、子どもの人格を作り上げていくことではない、と考えている。子どもという複雑な存在を、この、生物と鉱物とチンプンカンプンな謎で張り裂けそうな世界に向けてほどいていくことである。人格というものが仮にあるとすれば、それは作り上げられるのではなく、子どもを世界にほどいていく過程で偶然に生じるものである。
そして、育てるとは、社会で迷う子どもたちに正しい道筋を示すことでもない、とも思っている。】(P.6上段)
また、論文の中盤では以下のように述べられています。
【子どもの人格など、神様でもないのだから作れない。人格は形成されるのではない。人の格、つまり自分というもののあり方とは、鉱物や生物や海や川や泥などにもみくちゃにされて、世界に向けてほどくあり方である。ブロックのように積み上げるものではない。
「欠損」からの教育
近代教育を人間を商品に変えていく行為だとする批判はこれまでもなされてきた。私はそれらの批判をすべて読んだわけではない。ただ、商品化を批判したとしても、教育を、人間の人格の「形成」ととらえる見方までは、まだ脱ぎ捨てられていないように思える。形式だけだとそれが壊れることが想定されづらい。形成という言葉の中に分かちがたく結びついている分解という現象を直視して、人間観をもう一度、一から考え直さなければならない。なぜなら、「教育は形成である」という考えだけでは、教育における欠損や分解のポジティブな面を素通りしてしまうからである。】(P.8上段~下段)
藤原氏は、子どもを育てることを「子どもの人格を作り上げる」と捉えることを否定し、人格とは「作り上げられる」ものではなくて、「偶然に生じるもの」だとしています。
また、「子どもの人格」とは「形成されるのではな」く、人格(自分というもののあり方)は「世界に向けてほどく」ものだと言います。
さらに、「形成」と不可分の「分解」という現象を直視して、人間観を根本的に作り変えることを要求しています。
さて。どうしましょう。
教育学では「人格形成」という語を当たり前のように用いてきました。少なくとも私はそうです。教育実践の世界ではどうでしょうか。堅苦しく感じられる「人格」という用語はあまり使われず、人格を指す場合にも「子ども」などが使われてきたでしょうか。それでも教育を原則的に論じたい時は「教育は、人格の完成をめざし(旧教育基本法第1条)/教育は、人格の完成を目指し(改悪後の教育基本法第1条)」という法理念をひきあいに出すこともあるんじゃないでしょうか。藤原論文は教基法の教育理念は間違っていると言っているわけですね。教基法では「完成」と言ってますから、ますます《分解と共存して折り合いをつけること》(これは藤原氏でなく佐藤の藤原論解釈)にはほど遠いことでしょう。
ただ、最初に確認しておくべきは、藤原氏は「人格」という人間把握自体は(積極的に肯定しようとしているのかどうかはわかりませんが)否定はしていないということ。「人の格、つまり自分というもののあり方」というようにこの語を解釈しており、それ自体には批判的否定的語調は感じられません。そこに「形成」という関わり方が出てきた途端に批判に転じるようです。そして「商品化を批判したとしても、教育を、人間の人格の『形成』ととらえる見方までは、まだ脱ぎ捨てられていないように思える。」(P.8下段)という一文から推測すると、「教育=人格形成」と捉えているかぎり本論文の中心課題である「子どもの商品化」への批判としては不徹底だと言っているように読めます。
なぜそうなのかを、本来なら本論文の核心である「商品化批判」についてより深く学ぶことで理解する、というのが本論文の正当な読み方なのかもしれませんが、ここではそれをしません(^^;)。そうではなく、他分野の気鋭の研究者から投げかけられている「教育=人格形成」批判に対して教育学研究者の一人として考えてみたいと思うのです。
(2)
藤原氏は、「人格は形成されるのではない。」(P.8下段)と言います。そこでの「形成」の主語は誰でしょうか? 教育論の誤りを批判するという文脈で語られているので、その人格(を持つ子ども)に対して働きかける親や教師やまわりの大人が想定されているのでしょうか。それなら人格の主体(こういう言い方でいいのかどうか、ほんとは「人格」の定義をきちんとしないといけないんですが、とりあえず)である子どもが「人格を形成する」ということも、ない、あり得ない、そう考えてはいけないと藤原氏は主張するのでしょうか? それとも「形成」という作用をもっぱら人格の外からの働きと捉えておられるのでしょうか?
教育学では「自己形成」ということも語られてきています。「人格形成」という語で想定することがらについても、古い機械論は克服されて、外からの作用と中からの作用の相互作用として実現していく、というのが常識的な捉え方なのではないかと私は思います。人格の主体、持ち主である子ども自身が自らの人格を「形成する」と考えることについても、藤原氏は人間のありようを考える上でふさわしくなく、克服すべきだと言われるのでしょうか。
(3)
ここまで書いてきて、私には教育学における「形成」という概念について、もう一つ別の方向からの引っかかりがあります。40年くらい前の学生時代に学習した、あるいは伝聞として知っているだけできちんと学習していないのかもしれないのですが、「教育と形成」についての宮原誠一の整理についての記憶です。とぼしい記憶を辿った範囲では、教育における意図的な働きかけを「教育」とし、社会生活における様々な要因からの無意図的な働きかけを「形成」とする、というように理解していました。当然宮原論についての他の研究者の見解・異論もあっただろうし、それから現在に至るまで宮原の整理が教育学界における定説となっているのかどうかもわかりません。
改めて原典にあたりたいのですが、宮原誠一の著作を持っておらず、ネット検索でも「宮原「形成」論の原典を発見することはできませんでした。そこで、まことに恐縮ではありますが、次善の策として宮原に関する以下の先行研究から重引として宮原の主張を紹介します。
佐藤一子他「宮原誠一教育論の現代的継承をめぐる諸問題」(『東京大学大学院教育学研究科紀要』第37巻 1997)の「Ⅰ 『形成』と『教育』-その今日的意義を探る-」(櫻井歓)より
【A「形成」概念を介しての「教育」概念の相対化
戦後日本における社会教育学のパイオニアとなった宮原誠一は、「教育」の概念をいかに捉えていたのだろうか。このことを問うとき、宮原による「教育」概念の把握の仕方には、少なくとも二つの相対化の契機が存在するように思われる。すなわち、一つは《「形成」概念を介しての「教育」概念の相対化》の契機であり、いま一つは《「社会教育」概念を介しての「学校教育」概念の相対化》の契機である。これらの契機を含んだ宮原の「教育」概念の把握は、今日、われわれの「教育」認識に対しても一つの視座を与えてくれる。そこで本章では、宮原教育学における「教育」概念を構造的に把握し、その今日的意義に関わって、上記のような着眼から若干の課題提起を試みる。
まず、本章で捉えるところの二つの相対化の契機を、宮原のテクストに即して確認していく。
第一に、《「形成」概念を介しての「教育」概念の相対化》の契機である。これについては、宮原の教育本質論は「形成」と「教育」との区分を主張するものであったことが想起されよう。1949年の論文「教育の本質」では、次のような「形成」と「教育」の区分論が述べられていた。すなわち、社会的生活による人間の形成の過程には、①社会的環境、②自然的環境、③個人の生得的性質、④教育、という四つの力が作用しているが、前の三つは「自然成長的な力」であるのに対し、残りの一つは「自然成長的な形成の過程を望ましい方向にむかって目的意識的に統禦しようとするいとなみ」であり、これが「教育」である(I, pp.7~8)。したがって、「形成と教育という二概念は、区別されなければならない」(I, P.15)。このモチーフは既に1940年の論文「形成と教育」において見いだせるものであるが、40年の論文では、さらに従来の教育学における「教育」概念の広狭二義について論じ、広義の「教育」はむしろ「形成」と呼ばれるべきであり、狭義の「教育」こそが学校教育のみならず広汎な社会教育の過程を含めて「教育」と呼ばれるべきであるとされている。
このように、宮原において「教育」という概念には、「形成」に作用する諸力のうちの一つという位置付けが与えられる。すなわち、「教育」の概念は「形成」の概念を前提として規定されるのである。そして、この「教育」は、「形成」に与る他の三つの「自然成長的な力」に対して、その目的意識性において特徴付けられる。49年論文によって確認しておく。すなわち、「教育は目的意識的な過程であ」り、「人間が人間の形成のために目的的に努力するということが、教育の本質である」(I, p.14)。しかし、宮原にとって「形成」に対する「教育」の位置付けは幾分控え目なものであった。すなわち、「教育が形成にとってかわることはできない。形成が基礎的な過程である」。そして、「教育は形成の過程を統禦しようとするいとなみにすぎないのだ。形成の過程と並行的に教育の過程が進行するのではなくて、教育とは形成の過程と取組む努力に過ぎないのだ」という。このような意味において、「教育は、人間の形成の過程に内包される一要因にすぎない」のである(I, p.22)。このように、「教育は……にすぎない」という消極的な規定の仕方はきわめて印象的だ。ここには、宮原の捉えた、「教育」をも内包する「形成」の過程の圧倒的な優位性を読み取れるように思われる。「教育」とはいわば、「形成」のうちにあって「形成」と挌闘する目的意識的な営為なのである。
ここにみるように、宮原における「教育」の概念は「形成」と切り離して把握することはできない。教育は「社会の基本的な再分岐にほかならない」とする、有名な再分岐論の規定(I, p.23)も上のような「形成」と「教育」との連関構造のうちに位置付けられる。そして、みてきたような宮原の概念規定に従うならば、「教育」に対する認識は単に「教育」の問題にとどまる筈のものではない。すなわち、われわれは、「教育」の領域の外側に、「教育」には解消しえない広大な「形成」の領域を見出すことができるのである。ここに、《「形成」概念を介しての「教育」概念の相対化》の契機がある。
B 「社会教育」概念を介しての「学校教育」概念の相対化
(中略)
むすび
さて、ここまでにおいて、《「形成」概念を介しての「教育」概念の相対化》ならびに《「社会教育」概念を介しての「学校教育」概念の相対化》という二つの相対化の契機をテクストに即して確認してきた。これらの相対化によって、われわれの「教育」認識にとって改めて二つの領域が浮かび上がってくる。それはすなわち、二つの相対化においてそれぞれ媒介となった「形成」と「社会教育」である。「教育」の陰に隠れて、あるいは「学校教育」の陰に隠れて、ともすると見失われがちなこれらの領域を今日の時点でどのように捉えるのか--、このことは宮原の「教育」概念の検討を通じて照らし出される課題である。本章でのこの課題について包括的に論じる余裕はないが、若干のコメントを加えておく。
宮原が「形成」と「教育」の区別を論じ、二つの意味における「教育の原形態としてえの社会教育」--起源と未来--を論じて以来、すでに50年前後の歳月が経過し、「教育」とそれを取り巻く社会の状況は少なからず変化した。この50年の間、「教育」は政治・経済との関連で、またそれに対する民衆の運動との関連で、常に話題とされ、クリティカルなテーマとなり続けてきた。いわば、「形成」の過程を目的意識的に統御しようとする「教育」の営みは常に焦点化されてきたといえる。ところが、「教育」の過程を介して「形成」をコントロールしようとするルートが常に焦点化されてきた一方で、「形成」に作用する環境の要因も、--社会的環境も、自然的環境も--ここ50年間のうちに大きく変化してきた。このように社会的環境・自然的環境の変容を経た今日、もはや必ずしも「教育」の問題に収斂せずに、むしろ人間の「形成」に働き掛ける社会的環境、そして自然的環境の創造へと展開してゆくべき課題もいくつか立ち現れているように思う。21世紀を間近にひかえた今日の時点で、宮原の「形成」と「教育」の思想を、ふたたび「形成」において捉え直し、そのことを子ども・青年のために環境創造の課題として実践に具体化してゆく可能性もあるのではないか。
そしてふたたび、「教育が形成にとってかわることはでき」ず、「教育は形成の過程を統禦しようとするいとなみにすぎない」(I, p.22)としても、なお「教育」はその目的意識的な営みとしての独自性を発揮しない訳にはゆかない。その意味では、「教育」は、やはり「形成」の過程には解消しえないのである。だが、このようにいう場合にも、それはもはや「教育」の中心に学校教育を据えることではない。宮原の枠組みそのものが、学校教育を大きく相対化するものであったのである。そして、「教育」概念をこのように考察してくるとき、そこに、宮原の捉えた「社会教育」概念を今日においていかに理解するべきかという課題があるように思われる。「教育の原形態」として発し、近代的な形態を経て、新しい次元でふたたび「教育の原形態」となるべき「社会教育」--、このような歴史的パースペクティブをもって捉えられる「社会教育」を、どう理解するか。だが、この問いは直ちに、翻って、宮原の捉えたこのような歴史的な過程のなかで、なお学校教育に固有な任務があるとすればそれは何か、を問うことにもなる。かつて勝田守一は、宮原の再分岐論を承認しつつも学校の独自性に着目して自らの学校論を展開した。宮原による「教育」認識は学校をラディカルに相対化するものであったが、そのように相対化されてもなお譲れない学校の任務を問うことも可能である。その意味では、勝田教育学は多分に異なった形で、実は宮原教育学もまた独自な学校論の契機を有していたように思われる。】(P.316-318)
私は社会教育学には暗いので、「むすび」の末尾部分の考察については十分理解できませんが、櫻井歓氏の丁寧な整理・紹介を学ぶことを通じて、「教育-形成」及び教育の中での「学校教育-社会教育」という対比的構図の全体をおおよそ理解することができました。私なりに櫻井解説を通して理解した宮原誠一の「教育と形成」論理を整理してみると、
●「教育」概念は「形成」概念を介して相対化される。
●人間の「形成」過程には①社会的環境②自然的環境③個人の生得的性質④教育の4つの力が作用している。前の三つは「自然成長的な力」であるのに対し、残りの一つは前の三つを「望ましい方向にむかって目的意識的に統禦しようとするいとなみ」である。
●広義の教育=形成(すなわち上記のうち①~③の作用)であり、狭義の教育=学校教育+社会教育である。
●「形成が基礎的な過程」であり、「教育は形成の過程を統禦しようとするいとなみにすぎない」。「教育は、人間の形成の過程に内包される一要因にすぎない」
あくまで重引作業の結論ですので、宮原の原典を正しく切り取れるかどうかは自信がありません。また紹介者の櫻井氏の行論の狭間からは宮原の<形成-教育>の構図を理解しつつもその中で教育の役割を消極的に把握してしまうことへの危惧が滲み出ていますが、私自身は原典にあたっていないために、櫻井氏の宮原解釈に対して私なりの論を立てることができません。
さて、藤原論文へのコメントの途中から櫻井歓氏の紹介による宮原教育論に長く入り込んでしまいました。学校教育よりも社会教育に軸足を置いているであろうと思われる宮原誠一の「教育と形成」論とそれに対する今日的評価をめぐる議論が21世紀の日本の教育学においてどのような位置を占めているかについてはわからないのですが、私のようなあやふやな理解者も含めて「宮原『形成』論」が自己の教育学的課題意識の中にそれなりの位置を占めている者にとっては、「形成」とは「教育」よりも広く、「教育」を包摂する概念であり、「教育」は「形成」を意識してそれに意図的に働き掛けることはあるけれども、決して「教育」が「形成」にとってかわることはできない。逆に、「教育」は自然・社会の人間に対する様々な「形成」作用のまっただ中で「教育」は行なわれており、そのことを無視すると「教育」は暴走し、失敗に帰すものだ、というような「形成-教育」観を持っているのではないでしょうか。
(4)
ただ、もちろん「形成」という概念は宮原教育学やそれを継承する人びとの独占物ではありません。
辞書を引いてみると(『新明解国語辞典 第4版特装愛蔵版』 三省堂 1990)、「形成」とは「未完成なもの、また混沌としたものが外部から必要なものを取り入れて次第により完全なものになること。『人格の-・言語の-期』」とあって、藤原氏が否定する「人格の形成」の用例に挙がっています。外部からの影響を受けて「完全なものになる」とあり、教育による意図的な働きかけは除外されていません。
いま「形成」を修飾した複合語をランダムに思い出してみると、「人格形成」のほかに「学力形成」「価値観形成」「キャリア形成」「世論形成」「資産形成」(^^;)…などランダムに挙げるだけではわけがわからなくなってしまいますが、これらの語彙の範囲では主体の側の意図的な動きのニュアンスを感じさせるものが多いですね。意図的ではない外部からの影響を重視する教育学界の「形成」論は日常用語の中ではなかなか市民権を得られないものかもしれません。ただ、一教育学研究者としては、過去の教育学界におけるこうした「教育と形成」をめぐる議論についても知っていただきたいなとは思います。
(5)
ただ、これまでの論点から全く離れてしまうのですが、藤原論文には、私にとって非常に魅力的な以下のようなフレーズが散りばめられています。
【子どもという複雑な存在を、この、生物と鉱物とチンプンカンプンな謎で張り裂けそうな世界に向けてほどいていく】(P.6上段)
【誰かの手にしがみつきながら、誰にも検索されることのない世界の中で、思う存分迷うこと】(P.6下段)
【鉱物と生物があふれる世界では、「大事なものが欠けている」という不思議な見方はしない。「欠けている」ということは、別の存在とのあいだで何かが起こるきっかけでしかない。】(P.9上段)
【欠けているのではない。失っているのではない。場を作っているのだ。寄り添う場所を形成しているのだ。健常者は、足のない生が生きられない、目の見えない生が生きられない、という意味で障害者でもある。】(P.9下段)
【育てるとは、組み立てていくことではない。子どもに傷がついていくことだ。子どもが無傷なまま、ツルツルの表皮と頭脳で、商品のように陳列室に置かれることを、どうして大人は望むのだろうか。】(P.10上段)
【欠けていくことも、落ちていくことも、誰もが経験することであり、老化とはその速度が上がっていくことにほかなあない。重力と老化から私たちは自由になれない。いや、重力と老化という自由を楽しむことが、人の生ではないか。】(P.10下段)
【壊れていることや割れていることを前提にして、なんとかやりくりしていくこと。傷口をチャーミングポイントに変えていくこと。これを育てるというのではないか。】(P.12下段)
【作ってばっかりでは疲れる。ほどいたり、崩したりしなければ、息が続かない。和服はほどくことが簡単だ。再利用できることがすでに組み込まれている。それと同様に、崩されることを、作ることの前提として考えなければならない。壊れないものを作ってはならない。】(P.13上段)
【子どもは実は壊すことが好きだ。】(P.13下段)
ほどくこと
崩すこと
迷うこと
欠けること
傷がつくこと
落ちていくこと
老化すること
壊れること
割れること
これらの、世界のなかで、日常生活の中では普通に起こっていることを、教育の世界ではタブー視してこなかったでしょうか。タブーとまでいかなくても、価値を置いてこなかった、あわれんできた、あるべきでないことと退けてきた……とは言えないでしょうか。そこにこそ意味があるという藤原氏の指摘にはっとし、魅力を感じるのです。
自分の既存の教育学的認識とまだ折り合い、調整をつけるには至っていません。
ただ、自分の中に全くなかった発想だとは思いません。そのことの証左となるかどうかわかりませんが、拙著『「生きる力」論批判』(三重大学出版会 2019)の冒頭の一節を以下に引用します。
【学校教育は,人が生きること,子どもたちが生きていくことにどう関わっているのだろうか?
深く関わっていると言うこともできる。あるいは,一生を通じて見れば,その影響は限定的である,と言うこともできよう。いずれにせよ,関わっていることは間違いない。
しかし,その関わり方はどのようなものなのか? 異論や批判を全く許さない状況下で強制的に行なわれる学校教育ならばいざ知らず,現代日本の学校教育としてイメージされるものは,成長・発達していく主体は子どもたちであって教師や親はその成長・発達がよりよきものとなるよう見守ったり支えたり援助するという関係ではないだろうか。
本書で批判的に検討する「生きる力」論は,1990年代に登場し日本の学校教育に大きな影響を与え続けてきた教育目標理念である。
「生きる力」の主語,主体は何か?もちろん子どもである。
その「力」が形成されるものであるとしたら,誰が形成するのか? もちろん子どもである。
では「生きる力」がないと,なくなると,どうなるのか? ……その時は人は,子どもは,死ぬしかないだろう。生きる「力」がないわけだから。
では,その大切な,生きる上で不可欠の「生きる力」は,どこで形成されるのか? 学校で? それでは学校へ通って教師からの働きかけを受けなければ,子どもは死ぬのか?
1990年代に登場した「生きる力」論に接した時の私の強烈な違和感の源はここにある。子どもは学校教育を受けることによって「生きる力」を形成するのであって,学校教育なしには「生きる力」を形成できず,つまり死んでしまうのか?
この疑問の次に湧いてきたのは,次の非難の言葉である。
「自惚れるな,学校教育!」】(P.1-2)
拙著出版の(感情面の)動機は、「教育」できないことがらを平然と「教育」しようとする《過剰教育勢力》への怒りでした。私の「過剰な教育」への怒り、苛立ちは、「人格を形成しようとすること」への藤原氏の怒り?に通じるものがあるかもしれない、とも思うのです。
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