11 教育学文献学習ノート(22)-3神代健彦編『民主主義の育てかた 現代の理論としての戦後教育学』(2021) 第2章 「『私事の組織化』論-教師の仕事にとって保護者とは?」(大日方真史) 【前半】

 (2021.7.10刊行 2021.8通読 2022.2.8-3.1 ノ-ト作成)

   本ノート(22)-2で本書神代論文を検討させていただいてから5ヵ月のブランクがありました。中堅の教育学研究者たちから学ばせていただく作業を再開します。
 大日方真史さんは、私のかつての同僚です。佐藤廣和先輩が停年退職されたのと入れ替わりに2013年度に三重大学教育学部に赴任されました。2018年度末に退職した私は、大日方さんと6年間一緒に仕事をさせていただきました。彼と今年度末に退職される森脇健夫さんと私は、学校教育講座の中で(森脇さんは後に教職大学院に学内異動されましたが)教育方法学領域を専門とし、それぞれ生活指導論分野・教授学分野・教育課程論分野を担当していました。教員養成学部の学校教育講座・教育学部門(一番多いときでも8名のスタッフだった)の中で教育方法学領域が3人いたというのはたぶん珍しいんじゃないでしょうか。
 大日方さんが教育科学研究会の活動にも参加されていることは、時々『教育』誌にも登場されるので知っていましたが、私は「性と教育」「教育課程と評価」などの分科会に参加していて活動の場は重なっていませんでした。大学においては、授業を見せ合うとか学内研究会での発表を聴くとかの機会が何度かはありましたが、今から考えると大日方さんともっと実践交流・研究交流をしておけばよかったなと思います。
 さて、大日方論文ですが、まずその全体構成を紹介し、その後行論の中で私が関心を持った文章を抜粋しながらコメントを付けていきます。

はじめに
1 「私事の組織化」論とは何か
 1-1.「国民の教育権」論における位置づけと論の構成
 1-2.私的な事柄から公共的な事柄へ
2 「私事の組織化」論の現代的意義
 2-1.批判とそれをふまえた展開-保護者参加の追求へ
 2-2.「教育の私事化」状況における私事の組織化の課題
 2-3.保護者における「共通関心」形成の意義
  2-4.教師の専門性と地位に関する再構成
3 理論の課題
 3-1.保護者間の差異
 3-2.教育実践の位置
おわりに



はじめに

【教師の地位の成り立ちは、保護者たちが、わが子の教育に関する自身の権利を、共同で教師に委託することに由来する-これが、本章で取り上げる「私事の組織化」論の中心にある考え方です。子どもたちをそれぞれに教育する権利をもつ保護者たちの存在がまずあって、その保護者たちの共同によって教師の仕事に位置づけが与えられる。はじめに保護者ありき。文字通り、「保護者なしに、教師の仕事は成り立たない」。これが「私事の組織化」論の採る考え方です。】 (P.45)

【本章では、まず、この「私事の組織化」論が何を課題としており、どのような構成をもつかを確認します。続けて、この理論へ向けられた批判のうちで代表的なものを紹介します。そのうえで、批判もふまえてこの理論を展開させていく意義を探ります。その意義は、保護者との関係が教師の仕事の成立自体を揺るがしかねないような危険をはらんだ問題となっている現代においてこそ、探る値打ちが増すものです。「私事の組織化」論を今こそ再検討することによって見える道筋。これを探究しましょう。】(P.45)
 

 ⇒T.Satou:「私事の組織化」という用語については、私にとってはもしかしたら大日方論文で初見かもしれませんが、考え方自体は私の教育学研究の黎明期?に学んだ記憶があります。1973年に京都大学教育学部に入学した私は、たぶん入学後まもない時期に教科書問題研究会(家永教科書検定訴訟京都学生支援会の京大支部でもあった)に入りました。国民教育運動が勝ち得た画期的判決と評価された家永教科書検定第二次訴訟第一審判決(杉本良吉裁判長)から3年後で、サークルの学習会で杉本判決を学びました。杉本判決の全文は、以下で読むことができます。

 (大阪教育法研究会web page)
「S45.07.17 東京地裁判決 昭和42年(行ウ)85号 家永教科書検定(第二次)訴訟・杉本判決(検定処分取消訴訟事件)」
http://kohoken.chobi.net/cgi-bin/folio.cgi?index=lb2&query=/lib2/19700717.txt

杉本判決は、日本国憲法第26条の「教育を受ける権利」について以下の通り判断を下しています(太字黄色網掛けは佐藤)。

 第四 本案の判断
一 教科書検定制度の違憲、違法性の有無
1 教育を受ける権利および教育の自由を侵害するとの主張について
(一) 教育を受ける権利
(1) 憲法二六条は、一項で「すべて国民は、法律の定めるところにより、その能力に応じて、ひとしく教育を受ける権利を有する。」と定め、二項で「すべて国民は、法律の定めるところにより、その保護する子女に普通教育を受けさせる義務を負ふ。義務教育は、これを無償とする。」と定めているが、この規定は、憲法二五条をうけて、いわゆる生存権的基本権のいわば文化的側面として、国民の一人一人にひとしく教育を受ける権利を保障し、その反面として、国に対し右の教育を受ける権利を実現するための立法その他の措置を講ずべき責務を負わせたものであって、国民とくに子どもについて教育を受ける権利を保障したものということができる。
 ところで、憲法がこのように国民ことに子どもに教育を受ける権利を保障するゆえんのものは、民主主義国家が一人一人の自覚的な国民の存在を前提とするものであり、また、教育が次代をになう新しい世代を育成するという国民全体の関心事であることにもよるが、同時に、教育が何よりも子ども自らの要求する権利であるからだと考えられる。すなわち、近代および現代においては、個人の尊厳が確立され、子どもにも当然その人格が尊重され、人権が保障さるべきであるが、子どもは未来における可能性を持つ存在であることを本質とするから、将来においてその人間性を十分に開花させるべく自ら学習し、事物を知り、これによって自らを成長させることが子どもの生来的権利であり、このような子どもの学習する権利を保障するために教育を授けることは国民的課題であるからにほかならないと考えられる。
 そして、ここにいう教育の本質は、このような子どもの学習する権利を充足し、その人間性を開発して人格の完成をめざすとともに、このことを通じて、国民が今日まで築きあげられた文化を次の世代に継承し、民主的、平和的な国家の発展ひいては世界の平和をになう国民を育成する精神的、文化的ないとなみであるというべきである。
 このような教育の本質にかんがみると、前記の子どもの教育を受ける権利に対応して子どもを教育する責務をになうものは親を中心として国民全体であると考えられる。すなわち、国民は自らの子どもはもとより、次の世代に属するすべての者に対し、その人間性を開発し、文化を伝え、健全な国家および世界の担い手を育成する責務を負うものと考えられるのであって、家庭教育、私立学校の設置などはこのような親をはじめとする国民の自然的責務に由来するものというべきものである。このような国民の教育の責務は、いわゆる国家教育権に対する概念として国民の教育の自由とよばれるが、その実体は右のような責務であると考えられる。かくして、国民は家庭において子どもを教育し、また社会において種々の形で教育を行なうのであるが、しかし現代において、すべての親が自ら理想的に子どもを教育することは不可能であることはいうまでもなく、右の子どもの教育を受ける権利に対応する責務を十分に果たし得ないこととなるので、公教育としての学校教育が必然的に要請されるに至り、前記のごとく、国に対し、子どもの教育を受ける権利を実現するための立法その他の措置を講ずべき責任を負わせ、とくに子どもについて学校教育を保障することになったものと解せられる。
 してみれば、国家は、右のような国民の教育責務の遂行を助成するためにもつぱら責任を負うものであって、その責任を果たすために国家に与えられる権能は、教育内容に対する介入を必然的に要請するものではなく、教育を育成するための諸条件を整備することであると考えられ、国家が教育内容に介入することは基本的には許されないというべきである。
 この点に関し、義務教育に関する憲法二六条二項の反面から、国家もまた教育する権利を有する旨の見解があるが、しかし、同条項に「すべて国民は、法律の定めるところにより、その保護する子女に普通教育を受けさせる義務を負ふ」というのは、上記のような親の子どもに対する教育の責務の遂行を保障したものと解するのが相当であって、この規定の反面から国にいわゆる教育権があるとするのは相当でないというべきである。


このように杉本判決は、
(1)
日本国憲法第25条(すべて国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する。② 国は、すべての生活部面について、社会福祉、社会保障及び公衆衛生の向上及び増進に努めなければならない。)に基づいて、同第26条(すべて国民は、法律の定めるところにより、その能力に応じて、ひとしく教育を受ける権利を有する。②すべて国民は、法律の定めるところにより、その保護する子女に普通教育を受けさせる義務を負ふ。義務教育は、これを無償とする。)は、「生存権的基本権の文化的側面」(この格調高い言葉!50数年前に学んで以来忘れません!)として国民の「教育を受ける権利」を保障し、その反面国にこの権利実現のための措置を講じる責務を負わせている。
(2)憲法が教育を受ける権利を保障する理由は、民主主義国家が自覚的国民の存在を前提すること、教育がj次代育成という国民全体の関心事であることにもよるが、(ここが重要!)教育は「何よりも子ども自らの要求する権利」であるからなのだ。
(3)近現代では、個人の尊厳、子どもの人格・人権が尊重・保障されなければならないが、子どもの本質は未来に可能性を持つ存在であることであるから、人間性を十分に開花させるべく学習し、事物を知り、自らを成長させることが子どもの生来的権利である。
(4)このような存在である子どもの学習権を保障し教育を受けさせることが国民的課題であるからこそ憲法第26条の規定がある。
(5)教育の本質は、子どもの学習権充足、人間性開発、人格の完成であるとともに、国民の文化を次世代に継承し、民主的平和的な国家の発展、世界の平和を担う国民を育成する精神的文化的な営みである。
(6)この教育の本質に鑑み、子どもの教育を受ける権利に対応して子どもを教育する責務を担うのは「親を中心として国民全体」である。
(7)国民は自らの子どもをはじめ次世代の全てに対して、人間性を開発し文化を伝え健全な国家・世界の担い手を育成する責務を負う。
(8)家庭教育、私立学校設置等は親をはじめとする国民の自然的責務に由来する。
(9)国民の教育の責務は、国家教育権に対して「国民の教育の自由」と呼ばれる。
(10)国民は家庭、社会で様々な形で教育を行なうが、現代では全ての親が自ら理想的に子どもを行なうことは不可能であり、親は子どもの教育を受ける権利に対応する責務を十分に果たし得ないため、公教育としての学校教育が要請される(→憲法第26条2項の根拠)。
(11)従って国家の責任は、もっぱら国民の教育責務遂行の助成であって、国家に与えられる権能は教育内容への介入を必然的に要請するものではない。国家の責任は教育育成のための諸条件整備であり、国家が教育内容に介入することは基本的には許されない。
(12)憲法第26条2項は、親の子どもに対する教育の責務遂行を保障したものが解すべきであって、国に教育権があるとするのは相当でない。

 私は教育法・教育行政が専門ではないので、杉本判決に基づく日本国憲法第26条の解説を講義で詳説することはありませんでしたが、自分の専門である教育課程論を講じる際に必ず言及する(講義全体のメインと言ってもよい)学習指導要領の「法的拘束力」批判において、
「旧」教育基本法第10条((教育行政)教育は、不当な支配に服することなく、国民全体に対し直接に責任を負つて行われるべきものである。②教育行政は、この自覚のもとに、教育の目的を遂行するに必要な諸条件の整備確立を目標として行われなければならない)を援用し、その10条2項の解釈として上記杉本判決の論旨の(11)(12)に該当する内容を必ず強調してきました。教育権論として講義を展開したわけではありませんが、教育課程の基準としての学習指導要領の「法的拘束力」なるものが存在するという文部省/文科省の立場がいかに不当であるかを力説してきました。

 さて、大日方論文に話を戻すと、私の理解では「私事の組織化」論とは上記杉本判決の論旨の(10)に該当すると思われます。教育方法学・教育課程論を自らの専攻とし、教育法・教育行政については「専門分野内のサブ『専門外領域』」として多くを学んでこなかった私ではありますが、憲法第26条・「旧」教育基本法第10条については上記のような初歩的理解をしています。このことを自分のスタート地点として、大日方論文を読み進めていきます。


1 「私事の組織化」論とは何か
1-1.「国民の教育権」論における位置づけと論の構成

【「国民の教育権」論には、論者によってさまざまなバリエーションがありますが、概ね共有しているのは、次の点です。すなわち、教育に関する国の決定が及ぶ範囲は、教育の条件整備(外的事項)であり、教育内容に関しては、原則として、保護者と教師を中心とする国民が決定するという点です。】(P.46)

 ここで大日方氏は杉本判決にも言及した上で、「国民の教育権」論のその後の展開について次のように述べます。

【ただし、「国民の教育権」論と「国家の教育権」論とをいずれも極端な見解だと判断した旭川学テ最高裁判決(1976年)以降、教育権をめぐる議論の焦点は、教育権を各主体にいかに分配するか、各主体の権限の及ぶ範囲をどこに設定するかという点に移行したとされています。1980年代以降、「国民の教育権」論は、その歴史的使命を終えているとの評価が下されることも多いのです。】(同)

 大日方氏は、「私事の組織化」論が堀尾輝久によって提起されたことを紹介し、その内容を以下のように説明しています。

【堀尾は、「子どもの発達の権利を保障する義務と権利(狭義の教育権)は第一次的に親にある」といいます。しかし、「子どもをその親の教育的配慮に委ねる」ということは、現実には、「子どもを非教育的環境に放置するに等しい」ため、「親義務の共同化したものとして学校を設け、教育条件を整え、専門の教師を雇」うという論理を形成します。この論理において、「親権の被委託者」、「共同化され社会化された親義務の代行者」としての教師の地位が規定される、というのです。これが、「親義務の委託ないしは共同化(私事の組織化)」としての公教育の構想です。
 また、堀尾は、「教師の教育権限」の根拠は、「教師の専門的力𠈓に対する、社会的に組織され共同化された親義務の委託」にもとづいており、その根拠は、「教師がその専門性と指導性を十全に発揮することによって、すなわち子どもの学習権を充足させる専門的力𠈓をもつことによってはじめて」えられると指摘します。すなわち、教師の地位が教師の専門性を条件に成立するという関係性を指摘するのです。そして、教師の専門性の内実に関しては、「子どもの成長・および成長と学習の関係を十分理解しておく」こと、「「子ども」についての専門的知識」をもつこと、「真実を、子どもの発達に即してアレンジする」ことといった役割や、「子どもの発達、教育の内容、授業展開の法則等についての専門的知識」を要求するといった事柄を挙げています。】(P.47)

 大日方氏は、堀尾が提起した「私事の組織化」論には【保護者たちがそれぞれの親義務を共同化するという契機・過程】(P.48)と【その共同化(私事の組織化)によって教師の地位が確定されること】(同)という二つの【重要なモチーフ】(同)があると捉え、特に【第二のモチーフについて、教師の地位を確定させる事柄としての、共同化された親義務の委託が、子どもの成長と学習に関わる教師の専門性に対してなされると論じられている点を強調】(同)します。


1-2.私的な事柄から公共的な事柄へ

 大日方氏は、【私的な事柄としてのわが子に対する教育と、公共的な事柄としての学校教育とは、どのような区別と連関において把握されるのでしょうか。】(P.48)と課題設定します。
 ここから先は、大日方氏の行論を追うことを優先するため、堀尾らからの引用は、大日方氏の文章中にはめ込まれている場合を除いて紹介を省略します。

【堀尾(と勝田)は、「「私事」が
(佐藤註・次の5文字に傍点)組織されるということは、じつは、その本質である自由が、その意味を変化させるということであるし、「私事」がじつは(佐藤註・次の11文字に傍点)単なる私事ではなくなることなのである」(堀尾1971:416)と言います(傍点原文)。ある保護者にとっての私事は、他の複数の私事と組織化されることによって、「単なる私事ではなくなる」というのです。これは、いったい、どういうことなのでしょうか。
 これに関連する、堀尾(1961:28)による次の指摘も紹介しましょう。
(中略)
 ここでも、私事の組織化が「私事の変質」への見通しを与えるものであるとの認識が示されています。さらには、「新しいパブリックの成立」の可能性にも言及されています。堀尾によれば、組織化の過程で、私事は公事とは対立しなくなるというのです。 】(P.48-49)

 そして大日方氏は「私事の変質」の意味をさらに探っていくのですが、 ここでも原典引用を省略して大日方氏の捉え方だけを抜粋します。

【保護者たちの私事・私的関心がただいくつも集まるだけでは、相互作用も連帯も生じず、関心の変容は望めないでしょう。それでは、「エゴイズムへの陥落」など、ネガティブな事象すら生じかねません。私事の組織化とは、それとは異なる過程なのであり、保護者の関心がわが子以外にも広がっていくことを含むはずです。
 堀尾(と勝田)の次の指摘を紹介しましょう。
(中略)
 私事の組織化にあたっての教師の努力の必要を述べるという文脈ではありますが(そして、これに相当する教師の役割こそが、後述する「私事の組織化」論の現代的意義に関連して意義深いのですが)、ここでは、互いに相違する保護者の関心や要求が単純に束ねられ集計されることではなく、私的関心からの意識の拡大という、保護者の意識の内部における質的な変容が重要だと指摘されているのです。
 保護者の教育に関する関心・意識が、公共的な性質を帯びてきて、私的な性質のみでは特徴づけられなくなってくる。この変容が、私事の組織化において/によって生じるというのです。】(P.50-51)


2 「私事の組織化」論の現代的意義
2-1.批判とそれをふまえた展開-保護者参加の追求へ


 大日方氏は、「私事の組織化」論への批判の動向を、以下の3つに整理します。

【第一に、実態が伴わず、現実に即していないと指摘するもの】(P.51)

【第二に、保護者のおかれた社会の現実をふまえると、保護者の要求における質的相違を当該理論が等閑視している点には問題があるとの批判】(同)

【第三には、教師に対する保護者の「委託」によって教師の地位を定めるという論理が、保護者の権利に対する実質的抑圧として機能することを批判したもの】(P.52)

 次に大日方氏は、これらの批判への反批判を展開した論者として、まず佐貫浩を取り上げます。

【佐貫(2008:236)は、「私事の組織化」過程が、「異質な価値が出会い、争い、論争し、そういう中から合意が形成されていく民主主義的過程、コミュニケーション的合意形成の過程」だともいいます。佐貫は、民主主義的なコミュニケーションとしての私事の組織化の展開を保護者参加に焦点化して解明するという課題設定を試みるのです。】(同)

 そして大日方氏は、以下のように佐貫の主張を「私事の組織化」論批判に応え得るものと評価します。

【佐貫による、保護者参加に焦点化した課題の設定とその追求は、例えば、今日までに各所で進められてきている三者協議会などの学校参加の実際の仕組みや取り組みの蓄積に基づいてなされるでしょう。そうであれば、上記三つの批判すべてに応えた展開が見出せるという意味で、妥当だと思われます。つまり、「私事の組織化」論は相当する現実を欠くとの第一の批判に対して、事実の提示を通じて応えうるでしょうし、保護者の要求に対する抑圧に関する第三の批判に対しても、保護者参加の実質化にこそチャレンジするのだと応答できます。また、保護者参加の民主主義的な質の探究こそが課題となるでしょうから、それは、第二の批判の論点に沿った課題になるはずだともいえるのです。】(P.52-53)


2-2.「教育の私事化」状況における私事の組織化の課題

 大日方氏は前節末尾で佐貫の「私事の組織化」論について、「三つの批判すべてに応えた展開が見出せるという意味で、妥当」としましたが、このうち第二の批判への対応については、やや含みを残し、「保護者参加の民主主義的な質の探究こそが課題」であるのでそれを追求することが「第二の批判の論点に沿った課題になるはず」だとしています。
 そして本節に入ると、【この課題こそが実は難しい】(P.53)、【とりわけ、今日の状況では厳しいはず】(同)とし、【「消費者としての保護者」という現象は、「私事化(privatization)の現われである】(油布佐和子)、【自子中心主義】(小野田正利)という先行研究の指摘を引きながら、【それでは、現代における私事の組織化(論)にとって、つまりは保護者参加を通じた私事の組織化の追求にとっては、同じ「私事」の語を共有する「教育の私事化」とは、いかなる問題なのでしょうか。】(P.54)と検討課題を設定し、その【大きな問題の一つ】(同)として、【私的関心に保護者の意識が集中している状況における保護者間の抑圧・排除の危険性】(同)を挙げます。


2-3.保護者における「共通関心」形成の意義

 大日方氏はここで改めて1-2で確認した【私的な事柄の公共的な事柄への変容(私的関心からの意識の拡大】(同)に注意を喚起し、【仮にそれが保護者の意識のうちに確認できれば、2-2でみたような保護者間の抑圧・排除の危険性を縮減させつつ、保護者参加(私事の組織化)を追求する可能性が見えてくるのではない】(同)か、【圧倒的に大きな現実の壁(私事化状況)を前にした、可能性のカケラではあるかもしれ】(同)ないが、【そこに含まれる意味は決して小さくない】(同)と強調します。
 そして、【教師の教育実践を通じて、保護者において、わが子以外の子どもたちや、教室の様子へと向けられる関心(これを「共通関心」と呼ぶことにします)が形成されてくることを示したい】(P.55)と本論文後半の中心課題を示し、教師たちが試みてきた【保護者の関心を拡張し、保護者間の関係を形成することを可能にするための方法】(同)としては【保護者たちの「飲み会」や保護者同士が交流する「回覧ノート」など(今関2009:82-89)】(P.55註(6))もあるし、【授業参観や保護者会・懇談会を通じた保護者における共通関心形成の可能性】(P.55)もあるけれども、としながらここでは大日方氏自身の先行研究に拠りながら【教師の発行する学級通信を通じた保護者における共通関心の形成】(同)を例示すると述べます。
 大日方氏が学級通信に着目するのは、それを通じて保護者が【教室に生起した出来事や子どもたちの姿・声などといった「教室の事実」を知ること】(同)となり、それによって【保護者における共通関心の形成】が促されるからです。従って【「教室の事実」が、授業参観や保護者会・懇談会、その他を通じて保護者たちに伝わりうるとすれば、学級通信以外でも共通関心の形成が可能になる】(同)としています。

 ⇒T.Satou:共通関心形成のための学級通信以外の方法について、大日方氏はここでこれ以上言及していませんが、学級通信のみに頼ることの限界性については念頭に置かれていたと私は推測しました。
 本論文の末尾に掲載されている大日方氏自身の8篇の先行研究論文のうち、私は以下の2篇を読んでみました。


大日方真史「教師・保護者間対話の成立と公共性の再構築-学級通信の事例研究を通じて-」 『教育学研究』 第75巻第4号 2008

大日方真史「学校参加に向けた保護者意識の変容過程における教師の役割-教師と保護者に対するインタビュー調査をもとに-」 『三重大学教育学部研究紀要』 第66巻(教育科学) 2015

 このうち前者の論文で、大日方氏は次のように書いています。

「すでに15年前、碓井岑夫は、近年、自由な意見を表わしにくい職場の状況や、地域・家庭に発信する情報が管理される状況のもとになって、個性的な学級通信が発行しにくくなっていると指摘していた。」(P.28)

 私は碓井岑夫先生とは、1970-80年代に教育科学研究会社会認識と教育分科会・部会で交流させていただいたので、なつかしく思いました。大日方氏が援用している碓井論文は、大日方氏も私も所属している教育科学研究会の機関誌『教育』掲載のものであり、バックナンバーを見つけることができました。碓井論文の中の大日方氏が参照されたのは、以下の部分だと思われます。

「学級通信は、すべての教師が発行しているわけではない。現代の学校で学級通信を発行することは、父母や地域から教師の顔が見えることになり、教師の個性や考え方、子どもの見方、教育活動の事実が顕わになることだから、ある意味でたいへん勇気のいることになっている。とくに、近年、学校が閉鎖的で管理的な組織になって、なにかにつけて足並みをそろえたり、教職員集団が一致してという美名のもとに自由な意見が表わしにくい職場の状況があるから、ますます、個性的な学級通信が発行しにくくなっている。さらに、学校に競争と管理主義がはいりこみ、教師の目が学校の外にむくようになったり、子どもへの対応に追われ、授業をこなすことに汲々として多忙になってくると、それを発行する教師が少なくなってくる。「多忙」化政策は、教師が自分の意見をまとめたり、自主的に交流することを妨げるために、授業、研修、会議、研究発表や部活で教師を追い回しているのかも知れない。」(碓井岑夫「教育メッセージとしての学級通信」(『教育』No.556 国土社 1992.12)

 『教育』同号は、「共感を育てる学級通信」という特集を組んでおり、碓井論文の他に以下のような論稿・実践報告が掲載されています。

太郎良信 学級通信の歴史-その素描
橋本誠一 集団を高めていく要(小学校)
笠原紀久恵 学校は豊かな森(小学校)
尾木直樹 現代史を見つめ、豊かに生きあうコミュニティー(中学校)
木元康博 「学年だより」「学校だより」綴り続けて2400日(中学校)
桑田靖之 「いのちを励ます教育のひとこま(高校)
橋本英幸 教える者がもっともよく教えられる(高校)


 この『教育』誌の学級通信特集についても、いずれあらためて学んでみたいと思いますが、1990年代には碓井が指摘するような学級通信発行をめぐる困難がありつつも、学級通信を意識的に発行しながら子どもたち・親たちと交流する実践が(多数派ではなかったにしても)小中高にわたって展開されていたことがわかります。

 ここからは私の全く勝手な推測なのですが、1950年代頃から民間教育研究運動に集う教師たちによって公表されてきた教育実践記録は、上記『教育』特集が行なわれた1990年代頃からは下火になっていったんじゃないかと思います(もちろん私自身は、それが当然だと思うわけではなく、重厚長大な実践の記録を読めなくなったことを大いに不満に思っているんですが)。その一つの理由として考えられるのが、1980年代以降の「教育技術の法則化運動」に代表されるような、軽薄短小な教育実践に関する提案/教育雑誌の見開き2ページで読める/教育目標について難しい議論を一致させなくても雑誌に書かれた発問・指示・説明などをそのまま使って明日の授業ができる/個々の子どもや親の抱える深刻な事情などは敢えて共有・共感の対象としない/そういう《無色の/を装った教育技術普及運動》やそれをバックアップする教育ビジネスの全盛です。私自身も、敢えて誤解されるような言い方をしますが、《法則化運動と民間研の間》に立ち位置を見出した「授業づくりネットワーク」の実践研究運動に1980年代後半から2000年代頃まで熱心に関わっていたので、上記のような1980-90年代動向の論評のしかたは無責任かもしれません。ただ、私自身がどういうスタンスを表明するにせよ、1980-2000年代頃の学校教育界における《法則化的な》教育技術の普及・交流の流行は、歴史上の事実です。それ以前の時代であっても、一冊の教育実践書を通読することで先輩実践者から学ぶという営みは、忙しい学校教師にとって簡単なことではありませんでした。しかしその需要はあったんだと思います。1980年代以降、まじめな教師の学びとして、重厚な教育実践記録の通読よりも、些末だが気軽に摂取できる膨大な量の実践技術情報から任意に選択して実践力量をつけることの方が、「人気」となったんだと思います。
 ところで1980年代頃の私は、当時設置された教育科学研究会賞の受賞作などをはじめとして、いろいろな教育実践記録を読みましたが、その中で一つ大きな疑問を感じるようになりました。もう今は断捨離してしまって手元に文献がないため、あいまいな書き方しかできないのですが、例えば千葉の中学校社会科教師だった安井俊夫氏の実践記録です。安井氏が注目した生徒のことを中心にして多くの生徒が登場するのですが、その全ての生徒に「仮名」が振り当てられています。現在から見れば、なんだそんなのあたりまえじゃないか、と多くの方が思うでしょう。学力や生活面での困難を抱え、問題行動を起こしながらも少しずつ変革し成長していく子どもたちの姿を安井はじめ多くの人が実践記録に描いたわけですが、そこに描かれている子どもたちのリアルな属性(氏名、学校・学級名等)をそのまま記録し・発表することは、社会に対して保護されるべき個人情報の暴露であり、人権侵害であるから、当然やってはいけないことだと多くの人が考えるでしょう。
 私自身もそのこと自体に反対するわけではありません。現在では、教育実践記録において子どもの実名は出せないでしょう(私自身はかつて、関係者の許可を得て教師や子どもたちが全て実名で登場する教育実践分析論文を書いたことがあります。
→佐藤年明「子どもの社会認識を育てる授業づくりのために」 社団法人部落問題研究所・同和教育における授業と教材研究協議会共同編集『月刊どの子も伸びる』第108号 部落問題研究所 1986.4)。ただ、実名が出せないからそれぞれの生徒に仮名を振り当てて教育実践、そこでの教師と生徒相互の人間を描く、ということに、私は抵抗を感じるのです。
 結論を先に言うと、実名を出さないなら、生徒1、生徒2、生徒3…とかA、B、C…とか機械的に割り当てられた名前を使うべきではないかと思うのです。実名ではないのに太郎とか花子とか具体名を使うことに抵抗を感じるのです。読者は、実践記録に描かれるある生徒の言動を「太郎」という名前と結びつけます。もちろんそれが仮名であることは読者にもわかっているし、また同じ生徒のことがあちこちに書かれている場合に関連づけて読めるので、固有名は便利です。また「生徒1」と書かれるよりは具体的な人間としてイメージしやすいでしょう。しかし…
 実世界では人はそれぞれ自分の氏名を背負って生きています。親が心を込めて付けた場合もあるだろうし、適当に付けられた場合もあるだろうし、名付けるべき人の存在が不明で代理の人が付けた場合もあるかもしれません。そういう経緯は経緯として、自分の名前が大好きな人も、また嫌いでしかたがない人もいるかもしれません。そうしたことも全て含めて人は自分の名前を背負って生きています。
 そしてどんな人のどんな名前であれ、他者がある人のエピソードを何らかの形で聞いた場合、その人の名前は、聞き手の世界においてエピソードの中で特定の役割、意味合いを持つものとして立ち上がると思うのです。いちばん単純なのは「○○さんについてのこういうエピソード」として特にそれ以上の意味づけなく聞く人に受けとめられたり記憶されたりする場合ですが、それでも「ある人が…」と具体名なしに語られた場合よりも強く印象に残ると思います。「なるほど、つよしくんだから力がつよいんだなあ」みたいに名前と事象と語呂合わせ的、こじつけ的に結びつけて会話の中で笑いの対象にしたりする《露骨なラベリング》をしてしまう場合もあるでしょうが、そういうこじつけをしなくても、あとで「えーと、何ていう人だっけ? そう、つよしくん。その人こんなことしてたよねえ。」と会話で話題にしたり、頭の中で思い出したりする、そういうときにまず名前を手がかり人することってありますよね? そういう意味で具体名が人に関するエピソードに離れがたくくっついている(もちろん記憶違いも含めて)ってこと、ありますよね?
 実践記録の大半は、リアルな現実を描写しています。もちろん登場する人への配慮等から事実を「一部加工」してある場合もありますが、全体としてもフィクションであるような話を教育実践記録として公表することは(誰にも迷惑をかけないとしても)モラルとして許されないと思います。教育実践記録の価値、魅力、迫真性は、それが現実に生起したことであるからこそだと考えます。そして、ほんとのリアルな世界では、実名を持った人が相互交流・交渉しているわけです。名前をいつも呼び合うかどうかは別として、具体的な人間関係が成立している場合、氏名は当事者相互において認識されています。
 仮名による実践記録は、たとえ描かれている事実がリアルなものであるとしても、リアルな事実やその相互関係、リアルな人間関係の中から「名前」の部分だけを引き剥がし、隠し、違うラベルを付与して描写するわけです。先に「教育実践記録の価値、魅力、迫真性は、それが現実に生起したことである」と書きましたが、登場人物の属性である氏名だけは、その特徴から外されています。
 例えば実践記録の中に子ども同士の会話があり、そこで互いに名前を呼び合っているとして、親しい者同士であれば、呼び方は「○○○○くん」のようなフルネーム、「△△さん」のような苗字呼びでも「××ちゃん」のような名前呼びでもなく、「つよし」を「つよぽん」と呼ぶようなニックネーム呼びも多いはず。その呼び方自体に子ども同士の関係が反映しますよね。
 しかし、実践記録中の会話の記録に登場するのが仮名であり、例えば実名が「つよし」である子を、実践記録では仮名「たけし」として登場させているとします。リアルな教室世界では、ある友だちがつよしを「つよぽん」と呼びました。このことを実践記録ではどう表現しますか? 「たけぽん」? 実名からのニックネーム命名やその常用には子どもたちの微妙な人間関係が反映します。実世界でつよしをつよぽんと呼んでいるという事実が実践記録で《たけしをたけぽんと呼んでいる》こととして描かれたとき、果たしてそのことにどのような意味があるのでしょうか? 言い方悪いですがリアル教室世界の事実から何を選んで記録するかは《教師の匙加減》なわけですから、実名からニックネームが派生することをめぐる《虚偽の事実関係とその背後の人間関係》(=たけしという人物は実在しないのに、そのたけしが誰かがつけた別のあだ名で呼ばれているという、実在世界と何の繋がりもない虚構)を提示してしまうという愚を犯さずに、この会話場面の実践記録への収録を断念する、という選択もあり得ます。しかし、後に大日方論文の該当箇所においても取り上げますが、教師と子ども、子ども相互の会話が挿入されることで教室場面の記録の臨場感が高まるという効果もあるので、実践記録から会話場面を削除すべしという一般方針は妥当ではないでしょう。
 今までの長い述懐で要するに私が言いたかったのは、登場人物が全員仮名で登場する実践記録は、たとえリアルな現実社会世界について個人情報について配慮しながら描いたものであっても、現実世界とは異なる別の意味世界を読者の頭の中に成立させることにならないか、ということです。たとえ人物の氏名(及び、著者が何らかの配慮で「加工」した部分)以外にリアルな現実が書かれているとしても。
 繰り返しますが、私は1980-1990年代において《教育に関する記録や提案における主役交替》があった、すなわち、重厚な特定実践の記録からお手軽な教育技術提案へと教師のニーズの《主流》が変わった、と認識しています。ただ、重厚長大教育実践記録を忌避する《気分》の中には、《匿名性》や《事実の加工》という《リアルな記録と称するものが抱える虚構性》に対して読者が食傷気味になった、という面ももしかしたらあったのではないか?というのが私の邪推?です。時間をかけてじっくり記録を読み、感動も納得もした。しかし、もしかして、自分が感動し納得した内容の中に、著者の「配慮」によって作りかえられた《事実と異なる部分》が含まれてはいまいか?という思いが起これば、読者はシラケてしまうのではないか?
 事実の加工は、あくまでも個人情報保護のため(あまりにリアルに事実を書くことで、登場人物の実在が特定されたり、その特定された人物自身が公表を望まない事実が流布したりする危険を防ぐため)、著者自身の判断(もちろん当事者との協議をも含んで)と、著者自身のモラルに依拠して行なわれる。この判断やモラル保持の是非については、登場する当事者の個人情報と人権に関わる事柄であるので、事実をあずかり知らない第三者による検証の対象にはならない。その意味で、教育実践記録は科学論文の要件を備えてはいません。第三者はもちろん教育実践記録に対して感想を述べることはできますが、そこに記述された事実や判断について著者に変わって「検証」することはできません。検証に必要な材料、evidenceを持ちあわせていません。
 「当事者への配慮から事実の一部を加工した」というような断りは、ふつう教育実践記録の冒頭などに書き添えられます。ただ……どの実践記録発表者も、実践に関係する子どもへの配慮からだけ、実践の事実の一部を「加工」するでしょうか。一連の実践の過程で、自分自身「痛恨」の失敗があった、感情にまかせて子どもに暴言を吐いてしまった、自分の指導に配慮が足りないと親から痛烈な批判を受けた……そのような時、当初は失敗した!自分は何をやってんだ!と自責の念に駆られた、しかし、時間が経つ中で、いろいろな経過があり、失敗を克服していった、失敗からも学んだ、そういう教師もいるだろうし、そういう教師ならば失敗関連のエピソードも実践記録に書き込むでしょう。でも、「少々の失敗も、終わり良ければ全て良しだ」とばかりに、記録から省略する教師はいないでしょうか? 私が先ほど、リアル教室世界の事実から何を選んで記録するかは《教師の匙加減》という乱暴な表現を使ったのも、ここにつながってくるのです。
 うんと悪意のある言い方をすれば、ある教師が自分にとって都合のよい事実だけを繋ぎ合わせて作った記録であっても教育実践記録として成立しうる、ということ。もちろん、忙しい教師生活の中で敢えて時間をかけて自分の実践を記録し、総括し、世に問おうとする教師は良心的な教師である場合がほとんどだろうとは思います。しかし、良心的でない、自己顕示的な、あるいは何か他の意図を持った教師であっても、教育実践記録を書いて公表することは可能です。その記録において事実と事実の短絡的な結びつけとか、自分に都合の悪い事実の隠蔽とか修正のような、総じて《事実の加工》を行なっていたとしても、登場人物の匿名性に守られて、「事実と違う!」と糾弾を受ける心配はありません。もし糾弾を受けても、「本記録においてはどの部分が事実でありどの部分が事実と異なるかを明らかにしていないから」と批判をかわすこともできます。
 話をわかりやすくするために《あくどい教育実践記録著者》を作り上げて話をしてきましたが、どこにもいないようなそんな教師ではなくて、積極的意図から教育実践記録を書く教師においても、《個人情報保護という壁》に守られていることで事実を《加工》することが容認されます。私も含めて日本の教育実践・教育学研究史上に存在する教育実践記録読者は、おそらく意識的あるいは無意識的にそこに書かれていることが事実であると《信じて》、それを《前提として》その実践から学び、その実践について検証してきました。教育実践記録の公表・普及とその検討・分析作業は、《事実と謙虚に対峙して総括した著者教育からの発信》と《その実践の事実から真摯に学ぼうとする読者》との、貴重な、しかし別の見方をすると極めて危うい、関係の上に成り立ってきたと思います。

 以上述べてきたことは、教育実践記録(研究会などの場で限定的に配付されるものは別として、公刊を前提として作成されるもの)というものが、著者教師を中心としてその教育実践自体に登場したり、そうでなくても著者や登場者との直接的な人間関係を持ってはいない第三者を読者として想定していることを前提とした特徴であり問題点、困難点でした。
 ここでようやく、学級通信について検討している大日方論文の行論に沿った考察に戻ることができます。学級通信もまた、教育実践記録の一形態として公刊、公表されることはあります。しかし、学級通信は一義的には、クラスの子どもたちと親たちを対象として担任教師が発行するものです。もちろんいろいろなタイプの学級通信があって、指示伝達だけのものもあれば学級生活の様子をヴィヴィッドに伝えるものもあるでしょう。子どものことが実名で書かれるものもあれば子どもの名前を出さない書き方にする教師もいるかもしれません。しかしいずれにしても、学級通信は学級生活を円滑に運営することを願って教師から当事者である子ども、親に向かって発信されるものであり、当事者を飛び越えて第三者に対して発信されるものではありません。その発信とリアクションに関わる様々な課題は、教育実践記録とは別次元で議論されていきます。



 大日方氏が注目するのは、(良心的な教師の良質な)学級通信がその有力な促進役となりうる(が、授業参観や保護者会・懇談会も他の候補となり得る)保護者の「共通関心」の形成です。大日方論文では、P.55-57の約2ページ間に、保護者の事例も紹介しながら「共通関心」について簡潔に紹介されていますが、その背景には大日方氏の膨大な調査研究結果があることが、先に紹介した大日方氏の2論文からもわかります。大日方「教師・保護者間対話の成立と公共性の再構築-学級通信の事例研究を通じて-」(2008)では、埼玉県朝霞市立小学校教師・霜村三二の2005年度(教職28年目)2年4組における学級通信『らぶれたあ』(219号まで発行 B4判手書き、保護者からの応答掲載が特徴)を取り上げ、2回にわたり保護者(2人、4人)に対して約90分程度行なったインタビュー結果を紹介、分析しています。大日方「学校参加に向けた保護者意識の変容過程における教師の役割-教師と保護者に対するインタビュー調査をもとに-」(2015)では、東京都公立小学校教師・西間木紀彰(2014年度に教職10年目)が発行する学級通信『たいまつ』について、西間木には2009-10年度に2回、また保護者に対しては、2012年度に担任学級6学年の保護者4名(2・5・6年で担任した子どもの母親4名、5・6年で担任した子どもの母親2名)に対して、また2014年度に担任学級4学年の保護者3名(3・4年で担任した子どもの母親)に対して行なったインタビュー結果を紹介、分析しています。

(西間木紀彰氏の実践報告を、私は眼前で聴いたことがあります。「授業の中の子ども理解と実践研究会」第1回研究例会(2017.72 滋賀大学教育学部清流荘)でのこと。当時西間木氏は9年半の東京での教員生活を終えて福井県の小学校に移動しておられ、「授業の自分、教室の自分と生活の自分をつなげる」と題して報告されました。報告資料も手元に残っていますが、おそらく当日の研究会参加者を超えて公開することを予定されてはいなかっただろうと判断し、報告資料の内容には言及しません。)

 保護者において「共通関心」が実際に発生していること、またそれが《良きもの》として受容される【肯定的な経験でありうる】(P.55-56)
(⇒T.Satou:このあたり、大日方氏はあくまでも慎重で、そうでない事例もありうることを想定しています)ことの証左として、以下のような母親たちの発言が紹介されています。

【他の子どもたちのことについても、なんだかよく知っているような気がする】(P.55)
【ああ、こういう子がいるんだなあっていうのをわかって】(同)
【だいたいどんなお子さんかっていうのが思い浮かんだりするようになった】(同)
【学校に行ったきになって、なんだろう、安心しちゃう】(同)
【みんなすごい、かわいいの】(同)

 これらについて、いちいち註記はされていませんが、大日方(2015)に掲載された2012年度・2014年度西間木学級の母親インタビューから抜粋されています。
 これを踏まえて大日方氏は、【学級通信を通じた共通関心形成の条件】(P.56)として次の三つを
(⇒T.Satou:ここでも【例えば】と慎重に前置きしてですが)挙げます。

【①日常的に発行された学級通信が日常的に読まれること】(同)
【②個々の子どもに関する肯定的に評価される事柄が、その子どもの固有名とともに学級通信に示され、受容されていること】(同)
【③特定の子どもだけではなく、満遍なく多様な子どもたちが登場すると感じられること】(同)

 さらに大日方氏は、保護者に醸成される可能性がある「共通関心」の特徴について、保護者の「私的関心」と対照しながら以下のように述べています。
●共通関心は【学級通信を読んだ全ての保護者に一度は生じるわけでは】(同)ない。
●学級通信にわが子の肯定的評価が一度も登場しないと【安心ではなく、心配を招くものとなることもありえ】(同)る。
●【自身の私的関心に対する応答が教師からえられたと感じることによって、共通関心の形成につながっていくともいえそうで】(同)ある。
●【共通関心が形成された後も、私的関心は消滅】せず、【私的関心と共通関心とは保護者の意識の内に連関しながら保持されていく】(同)
●【教室に向けられる共通関心の形成と並行して、教室がいかなる場であるとよいかということに関する認識】を保護者が深めたり、保護者の声が学級通信に掲載されると【保護者同士が関心を向けあい、共通関心の範囲が保護者間に広がるということもありえ】(同)る。
●いったん形成された共通関心は、学年・学校段階が上がっても消滅せず、【持続性をもちえ】(同)る。

 そして、これら、主体として保護者インタビューを通して実証した「共通関心」の特徴について、大日方氏は以下のように総括します。

【このように、共通関心が保護者において形成されうるという事実が、単なる私事ではあらざるものへの変容の可能性、公共的な事柄の成立の可能性を示していることが重要であると強調しておきたいと思います。】(P.57)


2-4.教師の専門性と地位に関する再構成

 大日方氏は、1-1で述べた堀尾の「私事の組織化」論の第二のモチーフである【教師の専門性に対する保護者たちの共同の委託によって教師の地位が確定されること】(同)を再度想起し、【そこで教師の専門性として想定されるのが、子どもに対する教育に関わるもの(「教室実践における教師の専門性」を呼ぶことにします)であること】(同)も確認した上で、【「私事の組織化」論の再構成を、二つのアプローチから試み】(同)ます。
 第一は、【2-3でみたような、保護者における共通関心の形成を促す教師の働きかけを含め、保護者参加にむけた教師の働きかけを、教師の専門的な役割に設定して当該理論に(明確に)位置づけること】(同)です。大日方氏は、【保護者たちとの間に位置づけられるこの専門性によって、「教育の私事化」状況にあっても、保護者たちの意識が私的関心に閉ざされずに、共通関心の形成を促される可能性があ】(P.58)るとします。
 第二は、【「教室実践における教師の専門性」と「保護者との間の関係形成を方向づける教師の専門性」(「保護者参加における教師の専門性」)とが、いずれも保護者に対して示され、保護者たちに認識されるという契機・過程が教師の地位(これを教師の「専門職性」と呼ぶこともできます)の確定につながる可能性の確認】(同 黄色網掛けは佐藤)です(⇒T.Satou:ここでも大日方氏の行論は極めて慎重であり、この「可能性の確認」と締め括っていて、教師の地位(専門職性)が保護者への提示・認識の獲得により確定されるとは述べていません)。【保護者は基本的に、「教室の事実」をその場で教師や子どもたちと共有しているわけでは】(同)なく、【教師の専門性が実際に発揮された場面に保護者が立ち会える機会は、年間数度の授業参観などに限られ】(同)る。だから【教師の専門性が保護者にどのように示され認識されるかを探ることに意味がある】(同)と言います。


 ⇒T.Satou:ここで、大日方氏の続く行論の検討に進む前に、敢えて私の文脈からの議論を差し挟みます。大日方氏のこれまでの極めて冷静で慎重な行論から推測すると、私が提起する問題への答えがこの後の大日方氏の行論に含まれているかもしれませんが、そうであればそれがわかった時点できちんと反省するとして、取り敢えずは私の荒削りな述懐を先に述べてしまいます

 2-3での長いコメントの中で、私は「リアル教室世界の事実から何を選んで記録するかは《教師の匙加減》」と述べました。そこで述べたのは書籍等として公刊される教育実践記録のことです。当該教育実践の当事者と関係がない多くの第三者が読むことを想定して書かれた実践記録であり、実践報告です。そこには当事者、特に子どもや親の個人情報や私的事情が無関係な他者に流出しないようにとの配慮に基づく匿名化や一部事実の加工があります。読者は教育実践当事者の実名や秘匿された事実を知ることはできません。それを知らなくても十分に特定教育実践の価値を学ぶことができるという実践者・関係者・出版担当者・読者の暗黙の合意によって教育実践記録の公刊・普及・学習・論評等の社会活動は成立しています。

 さて、ここで大日方氏が論じているのは、主として学級通信による(それに限定はしていませんが)教師から親への教室実践の事実の報告です。大日方氏は、保護者たちが「私的関心」に閉ざされてしまわずに「共通関心」の形成に向かう契機として保護者参加に向けた教師の働きかけを挙げ、返す刀で?教師の
「専門性」「専門職性」の内実として「教室実践における」専門性・専門職性だけでなく「保護者との間の関係形成を方向づける」ことをも専門性・専門職性と捉え、しかも後者の専門性・専門職性が、前者ともども「保護者に対して示され、保護者たちに認識されるという契機・過程」「確定につながる可能性」があるというのです。
 ものすごく慎重で丁寧な大日方氏の指摘を敢えて佐藤が粗っぽくまとめてしまうと、教師の専門性(子どもとの関係&保護者との関係において)は、教室の事実を教師が保護者に知らせ、保護者がその事実に関心を持って動き出すという相互関係において、実は保護者との関係の中で(もちろん教師自身の教育科学的・専門科学的研鑽や同僚・同業者との交流その他の他の要素もありますが)確立される面もある。教師の専門的働きかけによって保護者が学校教育への関心を「私的関心」から「共通関心」へと展開する可能性があるとともに、教師は保護者に働きかけ・働きかけられる関係・過程において自らの専門性を深化させていく、ということだと理解しました。

 ところでその教師から保護者への働きかけ(主として学級通信を通じての)についてですが、再び言葉が悪くて恐縮ですけれども、私が教育実践記録について書いたのと、内実は違うけれども現象としては類似した《教師の匙加減》が働くと思うのです。決して悪意で書いているわけではありませんが、教師は保護者に教室の事実を伝えるとき、もちろんのこととして全ての事実は伝えられないし、さらにそういう量的限界からだけではなく、「このことは保護者に伝えるべきではない。伝えないでおこう。」という判断もしていると思います。 

 例えば、大日方(2015)で紹介されている西間木紀彰氏の2011年度学級通信第1号(4/6発行)では、【「比べる材料でなくほめる材料、学校の話題の一つにしてください」】と【学級通信の紙面で保護者たちの読み方を方向づける記述】(大日方2015 P.238)がなされています。ここから私が推測として読み取ったのは、学級通信での子どもに関する記述(たぶん実名で記載)は、ほめたくなるような事柄が(全てではないにしても)少なくとも中心だろうということ、そして(ここは断定できませんが)子どもの問題行動、困った事態を(少なくとも実名入りでは)記載してはいないのではないか、ということです。

 ここで話がガクンと脱線することをお許し下さい。三重大学在職時代に、私は二つの看護学校で非常勤講師(「教育学」担当)をしていました。看護職をめざす専門学校生向けの教育学ということでいろいろ試行錯誤した結果、講義はほとんどぜずに学生が動く活動を中心とし、その中でも数回を「構成的グループエンカウンター」の活動に取り組むようになりました。その活動の一つに「Xさんからの手紙」があります。全員に白紙1枚となにも表書きしていない封筒を渡し、白紙の一番上に自分の名前を「●●さんへ」と書いて封筒に入れます。その封筒を集めてシャッフルして1人1枚ずつ配り(従って、封筒を受け取った時点では誰宛ての手紙なのかわからない)、受け取った人は紙を取り出してその「●●さん」に対して「良いところ限定」でメッセージを書き(自分の名前は書かない)、また封筒に入れてもらったのを集めて、シャッフルして配付して……を5,6回繰り返します。最後に手紙を全部回収し、私が一つひとつの封筒の中の手紙の第一行目の宛名だけを確認して(本文は読まず)本人に返します。要するに、匿名でのいいとこメッセージ送りゲームです。
 「Xさんからの手紙」は、毎年の「教育学」授業のいろいろな活動の中でも最終レポートにおける受講生からの評価がもっとも高い活動でした。例年、そうでした。
 もちろん、自分のいいところだけを書いてもらって嬉しかった、自分にとっても意外な面をほめてもらって嬉しい、等の感想が多いのですが、それとともに、友達のいいところをたくさん見つけることができてよかったという、《肯定的メッセージを発信できる自分の再発見》の喜びを書いた感想もありました。
 ただ問題もあって、毎年この活動を始める前には、必ず「いいこと」に限定して書くこと、その人のためにと思ってではあっても、欠点を指摘することはやめよう(それは匿名で手紙を送る活動の中ではなく、面と向かっての人間関係の中で行なうべきことだ)と強調しているのですが、結果的に自分にとって不本意なことを書かれて傷ついたという感想文が時々出てきます。「よいことメッセージ」の場合、授業が終わると同時に友だちに「あんたやろ、これ」と話しかけるなどの「Xさん探し」が起こりますが、それは和やかな雰囲気のなかで行なわれます。しかし否定的メッセージをもらった場合、相手が誰かわからないけれど、「あんたやろ!」と気軽には聞きにくい。そうすると、クラスの誰が私のことをこういう風に悪く思ってるんだろう、あの人?と疑心暗鬼になりかねません。だからメッセージは「よいこと」に限ろうと強調したのです。
 この活動を体験したことがない人は、よいことなら匿名にする必要もないだろうと思われるかもしれません。しかし、例えば親しい友だち宛の手紙が回ってきたとして、日頃「あの子のあそこがいいな」と思っていながらも照れくさくて言えなかったことが、匿名だと(うすうすは相手に気づかれると思ってても)書きやすいとか、手紙が回る回数が増えてきて既に前の人たちが色々書いてしまっていてなかなか自分のメッセージを決められないときも記名なら緊張するけど無記名なら書きやすいとか、《匿名での》いいとこメッセージには独特のよさがあるのです。後で差出人がばれてたとしても別に問題が残りません。
 逆に《匿名での批判》が人間関係にしこりを残すことは、以上の私の経験談からも明らかだと思います。


 大日方論文や学級通信問題から長いこと脱線して済みません。戻ります。
 西間木氏の学級通信では、(クラス全体の問題自体については取り上げておられるかもしれませんが)個々の子どもの問題行動を実名を挙げて取り上げることは(絶対されていないと私が断言することはもちろんできませんが)たぶんされていないんじゃないかと思うし、もしかして子どもの問題行動を匿名で紹介することもされていないのかもしれない、少なくとも問題行動の指摘を学級通信のメインの課題にはされていないだろうと思うのです。クラスの中、ということであれば、匿名で書いて読者が名前を特定できなくても、予想する範囲はクラス内に限定されますから、あの子かな?この子かな?という(言い方悪いですが)「犯人捜し」が始まりうるし、通信には書いてなくても子どもたちはおそらく知っているだろうから、実質的には名前を伏せきることはできないでしょう。日々色々なことが起こる学級生活の中で、ある「よいこと」だけを取り出して学級通信で紹介することと、ある「悪いこと」だけを取り出して学級通信で紹介すること。この二つが教師・子どもたち・親たちの人間関係に及ぼす意味は、全く違うんじゃないでしょうか。
 西間木学級の日常にいいことばかりが起こり続けて悪いことは何も起こっていない、というわけでは決してない。けれどその様々な出来事の中から、教師の目から見てほめたいこと、よいこと、うれしいことを取り上げて子どもたちにも親たちにも知らせていく。友だちのエピソードが載っていても「それに比べてあんたは!」とわが子を叱ったりがっかりするのではなくて、「●●ちゃんすごいね、かっこいいね、いい子だね」と捉えてほしい。「いいこと」を肴にしてわが子と学校の様子を話し合ってほしい。私は西間木先生の親たちへのメッセージをこう読み取りました。
 そして、前述の学級通信が出されたのとは別の年度のクラスではありますが、2012年度6学年西間木学級の親である三田さん(仮名)が
【ああ、あの子、こういうかんじなんだとかっていうのを、実際しゃべったことがなくっても、なんとなく、なんかこう、わかれる】(大日方2015 P.238)と語っておられることからも、西間木学級の学級通信に掲載される「よいこと」は、実名で、誰のことかわかるように書かれているんでしょう。大日方氏自身も、前出論文の「おわりに」で西間木実践から学び得る【学校参加に向けた保護者意識の変容過程における教師の役割】について、次のように書いています。

【第1に、「教室の事実」を保護者に向けて差し出す役割である。「教室の事実」を教師が示し続けていくことが、それらを保護者間の共通関心の対象とする前提となる。西間木は、その意義を自覚して、学級通信に「教室の事実」を日常的に記述していた。それが子どもの固有名を挙げて示されることにより、教室の子どもたちに向ける関心の形成が保護者たちに可能になっていた。教室の子どもたちに日常的に触れることのない保護者たちにとって、子どもたちに向ける共通関心の形成を可能にするものとして、具体的な子どもたちの「教室の事実」がもつ意義は大きい。その内容として、西間木の学級通信の場合には、特に、多様な子どもたちに関して、肯定的に評価される事柄が示されることが重要であった。また、形式としては、保護者を惹きつけられるような記述の意義も確認された。固有名の子どもたちの肯定的に評価される事柄が「教室の事実」として日常的に、読み手を惹きつけるような記述を通して示されることにより、保護者たちにおいて共通関心が形成されうる。学校参加に向けた保護者意識の変容を促すために、教師には、「教室の事実」の示し方の探究が期待される。】(大日方2015 P.243)

 上記引用中で大日方氏が二度言及しているように、西間木学級の学級通信で「肯定的に評価される事柄」として紹介される子どもたちの姿は、【固有名】で書かれています。
 学級の子どもたちにとってはもちろん日々共に学級生活を送っている《誰とわかっている》子ども。親たちにとっては、わが子と親しいのでよく知っていたり、名前を聞いたことがあるくらいでよく知らなかったり、あるいは学級通信を読むまで名前も知らなかった子どもの場合もあるかもしれませんが、とにかく●年●組の構成メンバーであって直接もしくは間接に知っている子ども。その子の「よいこと」が学級通信に記載されている。学級通信の読者である子どもや親にとっての学級通信の内容は、第三者が読む教育実践記録に描かれたある学級の様子とは、当然ながら全く違う意味合いを持ちます。特にわが子以外の、直接あるいは間接に知っている子どものことが記載されている場合、読者である親の受けとめは、教育実践記録における匿名の登場人物について読む第三者読者とは全く違います。そしてそのことが、学級通信の発行者である教師に教育実践記録公刊者としての教師とは全く違う課題を課します。

 公刊された教育実践記録においては、匿名性のバリアがあることで読者は《自分自身は関与しない空間での出来事》として記録を読むし、仮に当該教育実践に関係をもつ人が読んだとしても、自分自身を含む関係性がその場に引きずり出されるわけではないと割り切ることができます。

 一方、当事者間で発行され読まれる学級通信においては、肯定的メッセージを基調とした情報提供であることは保護者にも了承されていると思いますが、それでもさまざまな反応が生じます。
 このうち、肯定的・好意的な受けとめ方については、先に
2-3の項で紹介した西間木学級の保護者のものを再録しておきましょう。

【他の子どもたちのことについても、なんだかよく知っているような気がする】
【ああ、こういう子がいるんだなあっていうのをわかって】
【だいたいどんなお子さんかっていうのが思い浮かんだりするようになった】
【学校に行ったきになって、なんだろう、安心しちゃう】
【みんなすごい、かわいいの】


 しかし、保護者の受け止めは当然ながら上記のような肯定的・好感的なものばかりではありません。例えば、2013年度3年西間木学級・2014年度4年西間木学級の親である野村さん(仮名)の場合。

【わたしも、1回目だけは、チェックしてたんですけど、ぜんぜん〔わが子が:大日方補足〕出てこなくって、もう最後の最後で、作文がまるごと出たときはほんとに泣きそうになって。あ、やっと出てきた、っていうときがありましたけど。もうでも1回まわってきてから、もういいやって、なにもって、そんな見たりしなかったけど。】(大日方2015 P.242)

 この野村さんのインタビュー記録について、大日方氏は以下のようにコメントしています。

【野村さんは、紙面におけるわが子の登場を待ちながら読むという、私的関心に即した学級通信の読み方から、それを気にしなくなる読み方への変容を語っている。わが子の登場により私的関心に応えられたという実感の意味を語っているのである。】(同)

 野村さんの肉声を直接聴いたインタビュアーである大日方氏自身のコメントに対して、大日方論文の一読者に過ぎない私が口を挟むのはおこがましいですけど、野村さんのお話(あくまで掲載されたスクリプトの範囲で、ですが)の最後の部分を私は少し違う解釈で読みました。学級通信通信を受けとり始めて以来、野村さんの関心はわが子がいつ登場するかだった。「最後の最後」、つまりほぼクラスの子どもの登場が一巡する頃にわが子の作文がまるごと紹介されて、「泣きそう」に嬉しかった。1回登場してからは「もういいやって」なった。ここを大日方氏は、私的関心を「気にしなくなる読み方への変容」と読んでおられるのですが、野村さんが 「そんな見たりしなかった」と書いておられるのは、取り敢えずわが子が1回登場したことで学級通信への関心が弱まったという意味とも読めないでしょうか。意地悪すぎますか?

※後から(この「ノ-ト」の文章のここからちょっと先の「※後からの追加」を書いた、さらにその後です)の追加です。この「ノート」の後の方で本論文(神代編『民主主義の育てかた』所収の大日方2021)と既に検討した大日方(2008)、大日方(2015)以外の、大日方(2021)の末尾に掲載された大日方氏自身の先行研究を入手可能なものについては全て通読すると決めてから目にした大日方「学級通信-私事(わたくしごと)をみんなのことへ」(『教育』No.867 2018.4)の中で、大日方氏は、登場する当事者の属性には言及されていないのですが、佐藤が読む限り明らかに野村さんのことに触れて、以下のように書いておられます。

【私が見出したのは、学級通信を通じた保護者の私的関心への応答から、共通関心の形成へといたるという道筋である。次に紹介するのは、共通関心がすでに形成されてきていた保護者たちの声だが、そこにその道筋を読みとることができる。それは、最初はわが子が学級通信に出てくるかチェックしていて、出てきたときにはうれしくて泣きそうになったが、一度出てくるとチェックは「もう、いいや」となったという声や、「まず自分の子が、学校でちゃんとやっているのか」が気になって、学級通信を読んでいたという声である。】(大日方2018 P.86下段)

 上記引用中で紹介されている2事例のうち前者は野村さんであると私は読みました。上記の大日方氏の解説を読むと、野村さんの「もういいや」は、わが子が学級通信に登場したことに安堵して学級通信自体への関心が「もういいや」と低下してしまったという意味ではなくて、毎号毎号わが子が出ているか気にしてチェックしながら読む読み方は「もういいや」となったということなのだろうと思います。大日方論文に掲載されているインタビュアーの述懐の断片から、野村さんを、わが子の学級通信への初めての登場によって安堵して学級通信自体への関心が低下してしまった人と判断した私の「意地悪」な読みは、やはり間違いだったようです。

(ここから先は、上記「後からの追記」を書く前の私の文章に戻ります。わかりづらくてすみません。m(_ _)m )




 ただ、野村さんは次のようにも語っておられます。

【もう、ある意味、あ、この子はうちの子よりこれが優れてるんだろうなって。そこで、わたしは、じゃあうちも負けずにっていう感じよりは、それとして捉えちゃってるっていうか。しょうへい〔息子:大日方補足〕は、この子よりここ劣ってるかもしれないけど、今はしょうがないか、みたいなかんじで。(略)子どもにいろいろ求めてもしょうがないのかなと思って、ぐっと抑えるときとかありますけどね。求めたいところも。】(大日方2015 P.243)

 西間木先生の願いにもかかわらず、親はやっぱりわが子とよその子を《比較する》んですね。それはこの競争社会の中ではしかたないことでしょう。だけど野村さんは、わが子を他の子と比較すると劣っていることもあるけれど、「がんばって追いつけ追い越せ」とわが子に求めてはいけないと自制しているんですね。ここには書いてないけど、わが子ならではのよいところを大切にしたいと思っていらっしゃることでしょう。しょうへいくんの作文が学級通信に掲載されてことで、その思いは強まっただろうと思います。

※後からの追加です。大日方(2015)を改めて読み返してみて、上記のエピソードを紹介してコメントを付けるだけでは、大日方(2015)の一読者としても「片手落ち」(差別用語と言われますがそうではないという見解もあります。他に適当な形容がないので。)と言われても仕方がないと気づきました。というのは、野村さんのインタビュー記録は大日方(2015)の中で下記の通りまだ他にも紹介されているのです。

2.保護者における共通関心の形成
 (3)共通関心形成の条件

【それでは、西間木の学級通信を通じて保護者において共通関心が形成される条件とはいかなるものであろうか。次の4点をあげることができる。
(中略)
 第4に、記述の形式によって、内容に惹きつけられることである。
 インタビューで筆者が「クラスの様子とか、日常のことが、どうしてそんなによくわかるのか」と問うたところ、次のようなやりとりがあった。
(中略)
 また、野村さんも、次のようにいう。

 野村:描写が面白いから、こう引き込まれちゃうのもあるんでしょうけど。
 筆者:描写ですか。
 野村:読み物として。はい。そうですね。情景が思い浮かぶというか。
 筆者:どういうところが情景が。
 野村:〔子どもの:筆者補足〕ことばからはじまったりとか、そういうのがあったりするので。え、これはだれが言ったんだろうみたいな、惹きつけ方が上手だなとか思って。

 こうした語りにみられるように、西間木の用いている、出来事を描写して「教室の事実」を記述する形式が、保護者の関心を惹きつける条件となっていると考えられる。教室の子どもの発言を実際に引用しながら、子どもの固有名をあげて記された学級通信が、日常的に継続して読まれることによって、教室の子どもたちに対する共通関心が形成されてくるのだといえよう。】(大日方2015 P.240)

3.保護者における私的関心の位置
 (2)私的関心の特性

【それでは、関口さん以外の保護者において、私的関心とはいかなる意味をもつのであろうか。2012年の調査においては、関口さんの声を受け、保護者たちの間に、わが子に対する保護者の意識をめぐる話題が生じた。下の引用部分に明らかであるように、わが子に対する保護者の私的関心は、関口さん以外の保護者においても維持されている。つまり、私的関心は共通関心へと組み替えられて消滅するわけではない。
(中略)
 2014年の調査においても、野村さんが、わが子の登場した学級通信に言及して次のようにいう。

 こないだ(略)初めて運動〔に関すること:筆者補足〕で褒められたのはちょっと、うれしかったですけど。ああ、そんなこともあるんだと思って、うれしかったですけどね。でもたしかに西間木先生、ね、比べる材料にしないように、って書かれてるので、比べてるわけではないんですけど、でもやっぱり出てくるとちょっとうれしいっていうところはありますよね。

 この語りにも見られるように、わが子に向ける私的関心は保護者において共通関心の形成を経てもなお維持されており、その私的関心に応じる学級通信の記述は、とりわけ肯定的に受容されている。】(大日方2015 P.241)


 上記のうち2つ目のインタビュー記録で野村さんが「初めて運動で褒められた」と言っておられるのが、私が先に引用紹介した「最後の最後で、作文がまるごと出たというその時のことなのかどうかは確認できませんが、私が紹介した部分での 「ほんとに泣きそうになって。あ、やっと出てきた」という気持ちの吐露と、上記2つ目のインタビュー記録での「ちょっと、うれしかった」という気持ちの吐露とでは、ちょっと感情表現の程度に落差がありますが、しかし、わが子が先生から評価されて学級通信に登場したことへの親としての嬉しさを同じく表現しています。ただ注意すべきは、野村さんが上記2つ目の発言の続き 「たしかに西間木先生、ね、比べる材料にしないように、って書かれてるので、比べてるわけではないんですけど、でもやっぱり出てくるとちょっとうれしい」とおっしゃっていることです。基本はわが子の登場を喜ぶ気持ちの表現なんですが、その前提として西間木先生の「比べる材料にしないように」という提起を十分意識されています。
 さらに上記1つ目のインタビュー記録では、野村さんは「描写が面白いから、こう引き込まれちゃう」「情景が思い浮かぶ」「これはだれが言ったんだろうみたいな、惹きつけ方が上手だな」とも語っておられます。わが子の登場云々以前に教室の情景の描写に惹きつけられて楽しんで学級通信を読んでおられることがわかります。大日方氏は上記2つのインタビュー記録を踏まえて、【わが子に向ける私的関心は保護者において共通関心の形成を経てもなお維持されており】(同)とコメントされており、野村さんにおいてはすでに共通関心が形成されていると評価されていて、これが西間木学級の親の声をたんねんに聴き取って分析された大日方氏の把握であり、野村さんへのインタビュー記録の一部から野村さんの私的関心、わが子への関心の部分にしか注目していなかった私の読み方は一面的であったことがわかりました。
 そのことがわかったなら、この太字表記の部分の前の部分の文章を削除するか訂正したらいいんですが、この文章が「学習ノート」であるという性格から、私自身は読み誤りとその訂正の部分も学習の軌跡として残しておきたい気持ちがあり、修正はせずにこの太字部分を追記しました。



 話を戻します。
 野村さんと同じく2013・2014年度西間木学級の親である永島さんは、クラスのある子の日記を学級通信で読んだ感想をこう語っています。


【すごいそんなこと書けるんだあって。もちろん、うちの子に書けないからそうやって思うんですよ。うちがたぶん、すごい書いてたら、なんとも思わないかもしれない。だけど、できない、うちの子は、そんな視点からは書かないなって思うことだから、興味深いの。楽しくって、みちゃいます。】(大日方2015 P.242)

【うちの子はうちの子で、いっぱいいっぱい、十分やってると思うので。(略)お友だちをみて、ほんとすごいし面白いし、すごいなって思うんだけど、うん、だからって、うちの子がなんで、っていうふうに思わないし。もちろんなんか、ああいうふうに言ってくれればいいのにって、思う、思うけど、それは、あの子の担当だから、いいんです。うちの子が担当じゃないから。】(同)


 私は西間木先生に倣って、野村さんと永島さんを《比較する》ようなものの見方はしないでおこうと思います。両人共に、西間木学級に暮らしそれぞれにがんばっているわが子を、肯定的に評価したいと願っているんだと思います。
 (だから、野村さんとの比較対象ではないんですが)私は永島さんのわが子への見方はすごいな!と思いました。クラスの他の子の日記に対してすごいなと思い、うちの子とは違うなと思うけど、だからこそ
「興味深い」「楽し」いと感じる。うちの子はなんでできないのか、とは思わない。それは「うちの子が担当じゃない」。私たちが教育実践研究の中で語ってきた子ども一人一人の個性、持ち味、大田堯先生がおっしゃっていた(…と、思います。出典が確かめられず、自信なし^^;)違いを個性に、個性に出番を。これらの教育思想に近い、原型としての親の思いを永島さんは語っておられると思うのです。他の子どもとの違いから学ぶことでわが子の子育てを豊かにしようとする、そしてその営みは楽しい。すごい豊かな発想ですね。私たち教育に関わる者は、親からこのような子育ての経験と知恵を学ぶことを忘れてはならないと思います(追記:野村さんの場合も、学級通信の記述自体への興味関心を、わが子が掲載されたかどうかには限らず持たれていることはわかります。)
 もちろん、「永島さんは特に優れた親なのだ。これが親の平均像ではない。一人の親から親の《すごさ》を一般化できない。」という批判はあり得ると思います。だけど親の姿も固定的ではない。永島さんだってわが子の「評価」のしかたに悩むこともあるだろう、他の親だってみんな揺れているだろう、揺れながらわが子の学校生活を支え、また他の子どもも含めたわが子の学級の学級生活にそれぞれなりに注目しているだろう、と思います。そして少なくとも西間木学級においては、わが子の、また友だちも含めた学級生活に対する親の関心は、単に自然発生的に生じているものではなくて、(少なくとも学級通信を読んでいる親の場合は)【「比べる材料でなくほめる材料、学校の話題の一つにしてください」】というメッセージを添えて送られてくる西間木先生の学級の事実についてのメッセージにいろいろな意味で触発されて形成されています。だから、(通俗的すぎるまとめ方で恐縮ですが)《親も教師に育てられるし、教師も親に育てられる》という関係の中での、揺れ動いている親の認識ではあるけれども、それでもやはり、教師も学べるし第三者も学べる《親の知恵、才覚》のようなものは存在すると思います。



 さて、ここまで長々と勝手に述べてきた私の見解を締め括って、本書2-4P.58に立ち戻り、【教師の専門性が保護者にどのように示され認識されるかを探る】大日方氏の行論を追うことにします。私の上記コメントでの関心の中心は親の意識であり、教師への言及は親の意識の分析に関連する範囲に留まりました。一方、大日方氏のここでの行論は教師に焦点を当てています。

【筆者は既に、学級通信の発行によって(また授業参観等の機会を通じても)、両方の専門性(=前出「教室実践における教師の専門性」と「保護者参加における教師の専門性」-佐藤註)を保護者に対して示しうること、保護者がそれらを肯定的に受容・認識できることを明らかにしています(大日方2017)。】(P.58)

 ここで大日方氏自身の新たな先行研究が登場しました。これまで本論文以外に参照してきたのは大日方(2008)と大日方(2015)のみでした。いかにも今更めきますが、よりきちんと考察を進めるために、本論文で引用・参照されている大日方氏自身の先行研究の上記2篇以外の下記のものを全て収集し、更に本論文の「参照文献」リストには挙げられていない最新の大日方(2020)を加えた全7篇を通読することにしました(下記7篇を通読するため、ノート作成作業をしばし中断します)。

大日方(2014) 保護者参加における教師の専門性に関する考察(日本教師教育学会年報 第23号)
大日方(2016) 学校に対する保護者の意識と関与-保護者に対するインタビュー調査をもとに(三重大学教育学部研究紀要 第67巻)
大日方(2017) 保護者および同僚との関係における教師の専門性-インタビューに基づく事例研究(三重大学教育学部研究紀要 第68巻)
大日方(2018) 学級通信-私事(わたくしごと)をみんなのことへ(教育 第867号)
大日方(2019a) 困難な状況におかれた保護者の学校関与と意識変容-わが子の「特性」に困難を抱える母親へのインタビュー調査をもとに(三重大学教育学部研究紀要 第70巻)
大日方(2019b) 評価のまなざしから共感のまなざしへ(教育 第879号)
大日方(2020) 保護者間関係形成の今日的な意義と課題-自発的ネットワーク形成事例の検討-(三重大学教育学部研究紀要 第71巻


 (2022.2.25)約2日をかけて、上記全7篇の大日方論文を読破しました。
 さらに、大日方(2017)もその中に含まれれている、『教育』No.867(2018.4)の以下の特集も全て通読しました。

 特集2 書いてみませんか、学級通信
  霜村三二 「愛のある手紙」として学級通信を書く
  石井崇史 クラスの実態に合わせて学級通信をつくりかえる
  谷侑香里 生徒との関係づくりが、保護者との関係づくりへ
  米田梢  悩み・心配も語り合い、つながり合う姿を届ける
  石垣雅也 謎キャラとの対話でみせる子ども理解の舞台裏
  松島あゆみ その日だけの通信「黒板通信」
  國貞圭佑 学級通信がわりの「教科通信」で学び合う
  西間木紀彰 読み合い語り合い、教師同士の小さなつながりを


 『教育』バックナンバーの中で未読だった特集だったんですが、とても読み応えがありました。縮小して収録されたいろいろな学級通信を拡大鏡で(^^;)見ながら、子どもたちの姿にとてもほのぼのとした気持ちになりました。困難な状況下で柔軟に通信発行を工夫する先生たちの姿にも感動しました。

 また、大日方(2019b)が言及している以下の実践報告も読みました。

  大江未知 笑いあって子どもを語ろう  (『教育』No.850 2016.11)

 さらに、大江報告の次に掲載されていた下の報告も読みました。

    霜村三二 オヤジやママたちがいつも見守っていた (同)

 霜村三二氏の実践については大日方(2008)で取り上げられていることもあり、関心があったからです。

 以上の作業により、大日方氏の研究についての私の理解はいくらかでも広がり深まったと思います。ようやく本論文(大日方2021)の記述の検討に戻ります。2-4の続きからです。教師は「教室実践における教師の専門性」と「保護者参加における教師の専門性」を「保護者に対して示しうる」し、「保護者がそれらを肯定的に受容・認識できる」と大日方氏が述べている部分まで検討を進めていました。
 保護者は、【例えば学級通信を通じて、教師によって示される「教室の事実」から、「教室実践における教師の専門性」に相当する事柄を認識すること】(P.58)も、【そのように「教室の事実」を示すこととして保護者たちに働きかける教師の行為のうちに、「保護者との間の関係形成を方向づける教師の専門性」に相当する事柄を認識すること】(同)もできる。
 従って、教師の【二種の専門性の間の連関】(P.59)が、以下の通り成立するのです。
 【「教室の事実」を示すこととして、「保護者との間の関係形成を方向づける教師の専門性」が構成され】(P.58)ること。
 【これが保護者に認識され、示された「教室の事実」に即して「教室実践における教師の専門性」が保護者たちに見出される】(P.58-59)ること。
 【これらの専門職が相まって保護者たちに肯定的に認識・受容されているという事実が確認された】(P.59)ので、【この点に、教師の地位(専門職性)の確定の可能性を見てみたい】(同)と大日方氏は述べます。
 先に私は、大日方氏の行論引用を長く中断して述べた私見においては、「関心の中心は親の意識であり、教師への言及は親の意識の分析に関連する範囲に留ま」ったのに対して、「一方、大日方氏のここでの行論は教師に焦点を当ててい」ると書きましたが、ここでの大日方氏の教師の「専門性」や「専門職性」への関心は、保護者との関係を不可欠のものとして成立していると思われます。


 先に2-4冒頭で、大日方氏の【「私事の組織化」論の再構成】の二つのアプローチの2つ目として次の一節を引用しました(黄色網掛けは佐藤)。

【「教室実践における教師の専門性」と「保護者との間の関係形成を方向づける教師の専門性」(「保護者参加における教師の専門性」)とが、いずれも保護者に対して示され、保護者たちに認識されるという契機・過程が教師の地位(これを教師の「専門職性」と呼ぶこともできます)の確定につながる可能性の確認】(P.58)

 ここで私は、大日方氏の「専門性」と「専門職性」の用語区別について、深く注意を払っていませんでした。2つの用語の区別は教師論研究の世界では常識に属するのかもしれませんが、私自身の理解のために、大日方「保護者参加における教師の専門性に関する考察」(『日本教師教育学会年報』第23号 2014)の一節を借りて、両用語の区別を整理しておきます。同論文の注(6)によれば、下記の内容は今津孝次郎「教師専門職化論の新段階」(『日本教師教育学会年報』創刊号 1992 P.57-58)を参照して整理されています。

【教師の「専門性(professionality)」と教師の「専門職性(professionalism)」とを区別し、前者を教師の「役割」や「実践」を対象にする概念、後者を教師の「地位」を対象にする概念と捉えれば(後略)】(大日方2014 P.124)

 
 そして大日方氏は、【「保護者との間の関係形成を方向づける教師の専門性」(「保護者参加における教師の専門性」)を理論に組み入れること】(P.59)と【その専門性と「教室実践における教師の専門性」とが保護者に示される契機も組み入れること】(同)が【「私事の組織化」論に対して、いかなる再構成を促す】(同)かという課題を2-4の最後に立て、以下の2点を提案します。

【第一に、保護者からの「委託」に教師の地位(専門職性)確定の根拠をおくという順序性(専門性に対する「委託」→地位確定)に必ずしもとらわれずに、教師の地位(専門職性)確定の根拠の一部を、教師の専門性が示されていく過程に委ねるという転換をもたらしうる】(同)ために、【当該理論に対する、いったん「委任」の契機を経れば教育権は保護者の手を離れるとの解釈に基づく、教師への「白紙委任」との指摘を回避しつつ、教師の専門性に即した専門職性をより実質化する可能性が見出されるはず】(同)であること。
【第二に、教師の専門性提示の過程が、共通関心形成を含む保護者参加の過程でもありうるため、保護者における関心拡大(私事の変質)と、教師の地位(専門職性)の確定という「私事の組織化」論の二大モチーフが、保護者参加の追求によって成立する可能性を、教育実践の経験・分析をふまえ、より強く確認できる】(P.59-60)であろうこと。


 ⇒T.Satou:私なりにまたまた荒っぽく解釈してしまうと、日本国憲法第26条により子どもには教育を受ける権利があり、親にはそれを保障する義務があり、そして教育の素人である親は専門職である教師に教育を受ける権利の保障を委託する、親からの委託により教師の専門職性が確定される、従って教師への委託に伴って親は教育権を手放すというような《親→(委託)→教師》という一方向的な親-教師の関係性の把握ではなくて、教師は自らの「教室実践における専門性」を発揮しつつ教室実践の事実を学級通信等を通じて親に伝えることなどを通じて「保護者との間の関係形成を方向づける専門性」を発揮する(ことが望ましい)のであるから、教育権を保障する義務はボールをパスするように親から教師へと渡されるわけではなく、親-教師の相互関係の中での教師の専門性の発揮とその専門性のさらなる深化を通じて教師による教育権保障が実現され、そのことを通じて教師の専門職性に対する親の信頼も強化される(ことが望ましい)、というようなことでしょうか。またその親-教師の相互関係の中で親の私的関心が共通関心へと発展したり、共通関心の中に私的関心が位置づけ直されたりするわけですから、親の関心事である「私事」も質的に変化していく(可能性がある)ということですね。


3.理論の課題
3-1.保護者間の差異


 大日方氏は、近年の社会学領域における調査研究の動向(社会的属性による保護者の意識の相違)も踏まえながら、【では、いかに、その私事を公共的な事柄へと橋渡ししつつ保護者参加(あるいは私事の組織化)を実現できるかを考えると、答えは容易に見つかりそうに】(P.60)ない、【学校に求める事柄の根本の部分に関わるような相違を前にすると、それらを調整して公教育としての方向性を求めていくことには難しさを感じ】(同)るとし、さらに【課題は、保護者のおかれた社会的状況に由来するものに限定されるわけでは】(P.61)なく、【少なくとももうひとつ、保護者間の差異の要因として注視すべきなのは、子どもの「特性」で】(同)あり、【例えば、既存の学校における生活や学習に適応しにくいような「特性」のある子どもたち】(同)の親の場合には、【わが子の「特性」に即した固有の配慮を学校に求める】(同)、【そうした期待が、他の保護者たちの期待と適合しないことを意識し】(同)て、【自身の期待を表明することに躊躇したり悩んだりする】(同)、【わが子以外の子どもの姿が見聞きされるときに、わが子と他の子どもたちの優劣を比較するなどして、共通関心がすんなりとは形成されないということが起きうる】(同)と指摘しています。この点については、大日方(2019a)において、インタビュー結果の分析によって具体的に深められています。


3-2.教室実践の位置

 大日方氏は、【2-3で紹介したのは、保護者において、教室の子どもたちに向けられる共通関心が形成されることの意義】(同)であるが、「私事の組織化」論再構成にあたりさらに追求すべき課題として、【どのような教室であることが、保護者における共通関心形成の条件になるのか】(P.62)がある、これは【「教室実践における教師の専門性」の一つの内実を探るという課題にもなる】(同)と述べます。「教室の事実」とは、【どのような教室のどのような「事実」でもよいといういことではない】(同)のです。大日方氏は、次のような《困った事態》が「教室の事実」として存在する場合もあることに言及します。

【教室で子どもたちが互いに関わり合うことがなかったり、特定の子どもの存在が無視されていたり、それぞれの子どもの「違い」が相互に受け止めあわれることがなかったりすれば(「違い」が攻撃や排除に結びついてしまえば)、多様な子どもたちの姿が教師によって捉えられ伝えられることは容易でないでしょうし、それらが保護者たちに肯定的に受けとめられることもほぼないと考えられます。】(同)

 そして次のように課題設定します。

【では、保護者がそこに生起する事実を知ることによって、共通関心の形成を促されるのは、どのような教室なのでしょうか。】(同)

 ⇒T.Satou:大日方氏の行論は、ここから前出のような否定的状況にある教室、そこに生きざるを得ない教師と子どもたち、様々な思いを抱えてそれを見守る親たち、そこにおける教師-親の関係性へと展開していくわけではありません。もちろんそればまた別の研究課題であり教育実践上の検討課題でしょう。ただこのことは、後で紹介する太田和敬氏による大日方批判にも関係する論点なので、またそこで改めて取り上げようと思います。
 現時点では私自身は、教師の良質な教育実践や教師-親関係のその良質な部分を徹底的に分析することは、教育実践研究の重要な研究課題であると考えています。良質な実践や良質な関係の分析結果が早計に一般化できるものではないことは、大日方氏が繰り返し強調していることです。


 大日方氏はここで、私が先ほど言及した大日方(2019a)について紹介し、【このことと、2-3で紹介した研究を通じた経験とをふまえて筆者が推測するのは、学校への適応が困難であるような子どもたちを含めて、それぞれの子どもたちの声や思い・願いが交わされ、聴き取られるような受容的な教室が、保護者における共通関心形成の条件となるのではないかということです。しかし、これに関して十分な確証がえられているというわけではありません。】(P.62 黄色網掛けは佐藤。次も同様。)、【また、階級・階層の差異に由来する保護者間の意識の相違に対して(階級・階層の相違は子どもの学校での適応度合いに一定程度影響するはずですが)、受容的な教室が、あるいは何らかの特徴を備えた教室が、保護者の共通関心形成の条件となりうるのかということも、探ってみることができるかもしれません。】(P.62-63)と述べています。

 ⇒T.Satou:それぞれの子どもたちの声や思い・願いが交わされ、聴き取られるような受容的な教室」「階級・階層の差異に由来する保護者間の意識の相違に対して(中略)受容的な教室大日方氏が分析している西間木先生や霜村先生の教室においてそれらがかなり実現されていること、また西間木先生や霜村先生がそのような教室づくりに努力されており、またそうした「教室の事実」を親にも知らせて理解と協力を求めておられることはよくわかります。それらの教師の努力、教師の実践をどのように広げていけるかについては、例えば前出の『教育』No.867(2018.4)における学級通信特集などの中にもいくつものヒントが見出せるとは思うのですが、全体としては難しい、重たい課題ですよね。
 また一方、そうしたとはほど遠い「教室の事実」、あるいはそこまで言わなくても、教師の努力にもかかわらず受容的状況への道筋をなかなか見出せない「教室の事実」は無数に存在するだろうし、
受容的な教室をつくっていくということを自らの実践課題として引き受ける教師が1人でも増えるにはどうしたらよいのか、「保護者の共通関心形成」以前にそのことがまず懸案ではないかと私には思えてしまったりしますが、それもまた一方向的で段階論的な学級づくり方略(=教師の実践だけを切り離して論じて、そこで前進しないと親との関係づくりまで視野に入れることはできないかのように捉えてしまうこと)に陥ってしまっているのかもしれません。


 大日方氏は、本節を以下のように締め括っています。

【社会的属性や子どもの「特性」を背景にした保護者の意識は、容易に変わるものではないでしょう。しかし、いっさい不変であると判断して保護者参加を通じた公教育の展望を断念してしまうのは、早計ではないでしょうか。つまり、3-1で述べたような、保護者たちが学校に向ける多様な期待の調整という難題の前に立ち止まってしまうのではなく、教室実践を通じた共通関心形成という、保護者たちにおける意識変容の可能性の追求へと進み出てよいのではないでしょうか。この試みの余地がのこされているという意味で、保護者参加に焦点化した「私事の組織化」論再構成にあたって、教室実践の位置づけは、十分に追求する価値のある課題だと考えられます。】(P.63)

 ⇒T.Satou:この大日方氏の立場に、全面的に賛成です。


おわりに

【「私事の組織化」論の内容を構成するアイデアを聴き、それを現実離れした夢想だと思う人がいるかもしれません。筆者も、「教育の私事化」状況の浸透を見聞きするにつれ、「私事の組織化」論のリアリティに疑問を抱くこともありました。しかし、教師たちの営みをつぶさに見、保護者たちの声を聴くなかで、やがて、私事化状況にあるからこそ、むしろ、その状況を十分に認識しつつ、そこを起点にした「私事の組織化」論の再検討が必要かつ可能なのではないかと思い至りました。】(P.63)


 ⇒T.Satou:上記引用末尾の「必要」に私も賛成です。しかし、「可能」と判断する根拠は? おそらく、大日方氏自身が調査し分析してきた「教師たちの営み」「保護者たちの声」の中にその可能性が存在することはまちがいないと思います。問題はそうした期待しうるプラスの状況をどのように広げていけるか、「『教育の私事化』状況の浸透」という圧倒的な現状にも関わらず、そこから「私事の組織化」を展望していけるか、ですが、そこについては「可能」とまで言い切れないかもしれません。しかし敢えてそれを展望しようとする大日方氏の立場に私は反対はしないし、それどころか強く賛同したいと思います。
 かなり違う文脈、違う角度からですが、私は自分が専攻する教育課程に関わって、以下のような展望を描いたことがあります。

 
「(10)教師の教育実践の個性的展開の自由とその相互交流の重要性を述べてきた。また、交流における相互批判の必要性も述べてきた。文科省の学習指導要領による教育課程の「法的拘束」は不当である。長年これによって多くの弊害が出ている。もう60年来のことだ。しかしその批判の裏返しは、『個々の教師が好きに教育してよい』ではない。不当な攻撃を警戒したり、仲間の力を結集してこれをはね返したりしながらも、教師同士で教育実践を批判的に検証し合い、違いは違いで明確にし、それを互いに認め合える部分は認め合い、優れた他者の実践を自分も取り入れてみることを試みたり、触発されてまた別の実践展開を計画・実践したりする。そうした闊達な実践者間の関係を形成しておかないと、現在の教育を不当に支配している者たちをたとえ将来において国民的包囲の下で政治的に打破できたとしても、その時に不当な拘束を受けずに自由に展開していく教育実践の方向性を豊かに語り、実践する力量が十分に育っていない、といういことになってしまわないだろうか。

(11)上記のような教育実践、教育実践研究運動への批判も含んだ問題意識の下、実現の現実的条件はない状況ではあるが、教授内容の選択・編成・決定・学習指導において、学習の主体が子どもたちであることを踏まえた上で、教師はどのような権限を行使しうるのか、すべきなのかについて、試論的に考察してみたい。」(拙稿「教授内容の選択・編成・決定・学習指導における教師の権限に関する試論」 『京都橘大学研究紀要』 第46号 2020 P.67 「Ⅰ.問題意識」の末尾部分)


 「違う文脈」というのは、私が論じているのは日本の学校教育課程についてであり、そこにおいて学習指導要領の「法的拘束力」が教師の創造的実践を阻んでいるという教育行政・権力の動向と、そこにおいて教師の実践をどのように発展させていけるかというのが私の関心の文脈だということであり、そこでは取り敢えず親の存在、教師-親関係については意識していないということです。また「(違う)角度」というのは、拙稿の課題が大日方氏のようにそれでも現状の中に(わずかに?)存在している可能性に注目してそれをいかに広げていくか、というものではなくて、「法的拘束力」下で基本的には教師の教育実践が《押さえ込まれている》状況にあるんだけれども、そしてそれをどう打破していくのかについて具体的な展望やスケジュールが描けるわけではないんだけれども、だからと言って《「法的拘束力」打破の展望が見えない以上、打破した先を考えてみても仕方ない》と考えるのではなく、《打破した先のことを考えておかずに打破を叫ぶだけであることこそ、闘いの方略として非現実的ではないか》と、開き直って、《一つ飛ばして、先》を敢えて構想・夢想するということをやってみた、ということです。
 大日方氏とは明らかに「違う文脈、違う角度」からだと自覚しているんだけれども、じゃあ何が共通点だと考えるかと言えば、《現状は厳しいと自覚しているけれども、現状からの変革は不可能だと考えずに、変革の展望を描いてみる》ということです。それだけ書くと何か《心構え論》のようではありますが、でもそれは教育学研究者として、研究者としての基本的スタンスに関わることだと思うのです。



 最後に大日方氏は、本論文で【論じ尽くせていない意義や課題】(P.64)として、以下のことを挙げています。

【本章では、主に個別の学級を単位にした保護者たちと教師との関係を取り上げてきましたが、「私事の組織化」論の射程は、本来この単位に留まるものではないという点です。学校へ、地域へなどといったように、より大きな単位での問題に広げたり、つなげたりする追求が必要になります。その際には、階級・階層によって子どもが通う学校が別れているという事態にも直面するでしょう。学校単位を超えた保護者参加(あるいは私事の組織化)とは、(いかに)構想可能なのか。これもまた、挑戦しがいのある問題ではないでしょうか。】(P.64)

(長くなりすぎて投稿の保存・公開に支障が出ているようですので、ここまでを【前半】とし、【後半】は別投稿とさせていただきます。)


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