13 教育学文献学習ノート(22)-3-1「太田 和敬ブログ」掲載(2022.3.3)の太田和敬氏投稿「佐藤年明氏の批判に応える 学校選択と公共性」を読んで
(2022.3.6ノート作成)
「太田 和敬ブログ」への太田氏のご投稿
「『教育』2021年11月号を読む 教育の私事性論は、どこに弱点があったのか」(2021.10.26付)
http://wakei-education.sakura.ne.jp/otazemiblog/?p=2811#more-2811 (以下「太田(2021.10.26)」と略記します)
につきまして、
私の「佐藤年明私設教育課程論研究室のブログ」への以下の投稿で言及させていただきました。
「12 教育学文献学習ノート(22)-3神代健彦編『民主主義の育てかた 現代の理論としての戦後教育学』(2021) 第2章 「『私事の組織化』論-教師の仕事にとって保護者とは?」(大日方真史) 【後半】」(2022.3.1) https://gamlastan2021.blogspot.com/2022/03/12-22-32021.html (以下「佐藤(2022.3.1)」と略記します)
その旨を、太田氏の上記ブログ投稿下のコメント欄に書き込んだところ、太田氏から同ブログ上で下記の丁寧なご回答をいただきました。ありがとうございました。
「佐藤年明氏の批判に応える 学校選択と公共性」(「太田 和敬ブログ」(2022.3.3付)
http://wakei-education.sakura.ne.jp/otazemiblog/?p=3126 (以下「太田(2022.3.3)」と略記します)
太田氏と私の意見の違いは明確に存在すると思いますが、だからこそ意見交換の意義があると考えます。太田氏の2022.3.3付ご投稿「佐藤年明氏の批判に応える 学校選択と公共性」を読んで私が考えたことを書きたいと思います。
まず、太田(2022.3.3)の全文の中で、私と意見が一致していると見なせる部分をピックアップしました。以下の引用中の太字・黄色網掛けの部分です。
(※太田氏と私以外の読者の方々に申しわけないのですが、太田(2022.3.3)も佐藤(2022.3.1)もインターネット上のブログであるため、ページ番号がありません。そこで、太田(2022.3.3)については、段落に通し番号を付けました。佐藤(2022.3.1)については、全文のうち太田氏の2021.1026付ブログ投稿に言及させていただいた部分に限定して段落番号を付けました。読者の方にはこの段落番号から言及箇所を辿っていただくことが可能です。)
【正直なところ、私は教科研で使っている公共性という概念の意味が、あまりよくわからないのです。少なくとも、大日方氏のいうような、子どもや親の要求に応える教育実践をすることが、公共性の構築とは、私の概念規定では、ならないのです。もちろん、そうした教育実践は、大切なことですが。「他の子どもがみえるようになる」とか「共通関心が形成される」とか、「組織化」とかが、「公共性」だと言われても、私にはなるほどとは思えません。そうしたことは、とてもめざすべき価値でしょうが、公共性とは関係ないと思います。そういうことが実現しているクラスの子どもたちは、素晴らしいと思いますが、それとはほど遠いと感じているクラスの子どもが、その素晴らしいクラスに移りたいといっても、開かれていませんね。だから、「公共性」とはいえないのではないでしょうか。」(太田(2022.3.3) 第19段落)
太田氏は、佐藤の強調部分については、あたりまえのことだとおっしゃるかもしれませんし、またそれはこの段落の中心的な趣旨ではないとおっしゃるでしょうし、その通りだと私も理解していますが、それでも強調部分を確認しておくことは、私にとっては重要です。大日方氏が調査研究において取り上げている西間木紀彰氏らの教育実践自体は「大切なこと」であり、そのようなクラスの子どもたちは「素晴らしい」。また、「他の子どもがみえるようになる」、「共通関心が形成される」、「組織化」などは「めざすべき価値」であると太田氏は認めておられます。ここは私との一致点であることをまず確認したいのです。
ついでながら、類似の言及は以下のように太田(2021.10.26)にも見られます。
【大日方氏の論は、当初は自分の子どもしか見ていない保護者(私事)が、教師の発行する学級通信などによって、他の子どもも見えるようになり、「共通関心」が形成される。そのプロセスにおいて「組織化」が現実化し、公共性が実現するという論理建てになっていると解釈できる。そのような優れた実践が保護者の認識を変え、子どもの成長を促進することは間違いないし、そうした実践を拡大していくことも、また大いに賛成である。】(太田(2021.10.26) 第6段落)
このことへの言及だけで終われば、太田氏に「公共性の問題はどうなる?」と問われると思うし、私にはその問いに応える力量も準備もないのですが、とりあえずそのことを先送りさせていただきます(前倒しで申し上げますが、私はこの「ノート」で「公共性」をめぐって持論を展開することはできません)。なぜなら私は、前述の「確認」と結びつけて、以下の問いに答えたいからです。
【最後に、以下の佐藤氏の文章は、私にはまったく不可解なのですが、どういう意味で書かれているのでしょうか。
「大日方氏が調査研究を継続してきた霜村学級、西間木学級のような学級やそこにおける教師-子どもたち、教師-親たちの関係をめぐる事実が、おそらく残念ながら日本の学校教育で稀少な事例であること。よその学校・学級に行けば、無気力な教師や学級崩壊状態も多数存在していること。これはおそらくその通りだろうと思います。でも、だから何なんでしょうか?」
正直、この文章を読んだとき、目が点になりました。「よその学校・学級にいけば、無気力な教師や学級崩壊状態も多数存在していること」私の研究目的は、そういうことを無くすためには、どうしたらよいか、あるいは、なくならなくても、被害を受ける子どもはいるので、どうやって救えるか、どういう制度にすればよいか、それを明らかにして実現することなのです。学級崩壊が多数あっても、他の子どもを考えられる学級集団があれば、そこで公共性が形成されるから、それでオーケーなんですか?学級崩壊状態の子どもは、どうしようもないわけですか?
「だからなんなんでしょうか?」というのは、そういう意味にとれるのですが。りっぱな学級があって、しっかりした教師がいれば、他に酷い学級があって、子どもが苦しんでも、「だから何なんでしょうか?」ですか?何かの書き間違いであると思っていますが。】(太田(2022.3.3) 第24-27段落)
引用中黒字箇所は佐藤(2.22.3.1)から抜粋された部分です。太田氏自身がここで私が言及した霜村三二氏の学級通信・学級づくり・親との関係づくり実践や西間木紀彰氏の学級通信・学級づくり・親との関係づくり実践についてどのように認識され、評価されているかについては伺っていません。私自身も両実践について主として大日方(2008, 2015, 2017)を通じて間接的に得た情報に基づいて事実認識や価値判断を行なっているため、教育学研究者としてある教育実践について十分なリサーチを行なった上で見解を述べているとは言えません。そういうことを前提としてですが、私自身は霜村三二実践や西間木紀彰実践から多くを学ばせていただき、高く評価しています。そして、(自ら統計的な調査をしたわけでもなく既存の統計調査に依拠しているわけでもありませんが)これまで民間教育研究運動等の場を通じて見聞きしてきた感触として、霜村実践や西間木実践は「おそらく残念ながら日本の学校教育で稀少な事例である」と述べました。この先に書いていなかったことをもう少し述べれば、だから霜村実践や西間木実践が優れているからと言って日本の教師たちの教育実践や親との関係づくりの現状が楽観できるとはとても考えられない、ということです。
しかし私は、だからと言って大日方氏が調査分析したような優れた教育実践の価値が下がることはない、ということを言いたいのです。優れた実践を優れた実践としてその価値を明らかにする大日方氏のような研究についても同じです。
ここで私が太田氏に引用していただいたような投げかけをする原因となった太田(2021.10.26)の末尾近くの文章を紹介します。
【大日方氏に、単純な質問をしよう。
学級通信を出して、共通関心が形成された学級の保護者は満足して、いい学校だ、りっぱな先生にあたってよかったと思っているだろう。しかし、そのママ友は、となりの学校で、学級通信などなく、いじめがあっても対処せず、学級崩壊状態が続いているとする。その保護者が、大日方氏に、私たちの学級は、あなたの公共性論でどのようになるのでしょうと質問したら、なんと答えるのだろうか。】(太田(2021.10.26) 第21・22段落)
上記引用の最初の事例が、大日方氏が研究対象とした西間木学級等の保護者を直接指しているかどうかはわかりませんが、それに近い状況にいる人を想定していると思われます。
次に、「そのママ友は、となりの学校で、学級通信などなく、いじめがあっても対処せず、学級崩壊状態が続いている」という仮定が措定されます。こうした状況に太田氏が心を痛め、この問題に取り組んでこられたことは、再引用になりますが、以下の記述からもわかります。
【「よその学校・学級にいけば、無気力な教師や学級崩壊状態も多数存在していること」私の研究目的は、そういうことを無くすためには、どうしたらよいか、あるいは、なくならなくても、被害を受ける子どもはいるので、どうやって救えるか、どういう制度にすればよいか、それを明らかにして実現することなのです。】(太田(2021.10.26) 第26段落)
このことはよく理解していると敢えて強調した上で、次に進みます。
太田(2022.3.1 第24・25段落)の関連部分での論述の流れを再度整理します。
・「以下の佐藤氏の文章は、私にはまったく不可解なのですが、どういう意味で書かれているのでしょうか。」と述べて、
・佐藤(2022.3.3)第58段落(~何なんでしょうか」で終わる)を引用。
・「正直、この文章を読んだとき、目が点になりました。」
・「『よその学校・学級に~実現することなのです。」(=私が先ほど紹介し、理解していると強調した文章。)
・そして次に続く文章を、もう一度紹介します。
「学級崩壊が多数あっても、他の子どもを考えられる学級集団があれば、そこで公共性が形成されるから、それでオーケーなんですか?学級崩壊状態の子どもは、どうしようもないわけですか?
『だからなんなんでしょうか?』というのは、そういう意味にとれるのですが。りっぱな学級があって、しっかりした教師がいれば、他に酷い学級があって、子どもが苦しんでも、『だから何なんでしょうか?』ですか?」
私は、自分が大日方氏の研究から学んだような優れた教育実践・親と子の関係づくり事例があることを書きました。一方、無気力な教師や学校崩壊状態も存在するだろう、と書きました。両方の事実があること自体は、もちろん太田氏とも共通認識になると思います。
その上で、「だから何なんでしょうか?」と問いました。この二つの事実から太田氏がどのような認識を引き出されるのかを確認したかったのです。
そこから私が「学級崩壊状態の子どもは、どうしようもない」と捉えているんじゃないかと推測されてしまうとしたら、私こそ太田氏のお言葉をお借りして「目が点」です。
「りっぱな学級があって、しっかりした教師がいれば、他に酷い学級があって、子どもが苦しんでも」とおっしゃいますが、価値判断以前に、そういう両極の事実があること自体は、紛れもない事実です。事実を指摘すること自体が、後者の残念な自体に対する無責任を意味するでしょうか?
もちろん太田氏も私も、そして大日方氏も西間木氏も霜村氏も、日本の学校教育を様々な形で少しでも良くしようと努力している、そういう自負を持っている「教育関係者」ならば誰でも、学校崩壊等の不幸な事態に対して「私は関係ない」「私は関心ない」などとは言わないだろうし、またもちろんのこととして、「学校崩壊なども事態もあるが、すぐれた教育実践もあるから日本の学校教育は安泰だ」などとノーテンキなことは言わないでしょう。
太田氏は、「大日方氏に、単純な質問をしよう。」(太田(2021.10.26) 第21段落)と投げかけをされました。
それに対して佐藤は、以下のようなリアクションをしました。
「私はこの質問に対して大日方氏に替わって答える資格もないし、もちろん意思もありませんが、太田氏はいったい何を問いたいのだろうという疑問は持ちました。
まず、なぜここで「公共性論」の語が登場したのかわかりませんでした。(中略)
ただわからないのは、《大日方氏が自ら調査研究上関わっているインタビュイーではなくて、全く無関係の保護者と、その保護者が関わる学校・学級の惨状が「公共性」論でどう読み解けるかを問う》という太田氏のsituation設定の意味です。
〔佐藤註・ここに太田(2022.3.1)で引用されている、「何なんでしょうか?」で終わる文章が入ります。〕
大日方氏に替わって反論する資格も意識もない(もちろん大日方氏もそのようなことを望んでおられないはずですし)と先に書いた通りなので、ここでやめますが、太田(2021.10)の末尾近くで表明されている上記の「質問」について、読者としてはその意図がわからないと再度申し上げておきます。」(佐藤(2022.3.3) 第51-59段落)
私は、上記で太田氏に対して「いったい何を問いたいのだろう」、太田(2021.10.26)の読者として「その意図がわからない」と書きました。「だから、何なんでしょうか?」というのも、その延長上、同一線上の問いであって、両極の事実を並べた上で太田氏がおっしゃりたいことを問いたい、ということに過ぎません。
論争を行なう上で、「あなたはこう書いてはいないけれど、本当はそう思っているんでしょう?」とやってしまうと、泥仕合になります。私も太田氏の議論を検討させていただく上で、推測を行なった部分もあるかと思いますが、「自分としてはこう解釈するがどうか?」というスタンスは守ろうと(つまり相手の主張について断定的に決めつけはしないと)努力したつもりです。
佐藤(2022.3.1 第57段落)で私は、太田氏の「単純な質問」について、「ただわからないのは、《大日方氏が自ら調査研究上関わっているインタビュイーではなくて、全く無関係の保護者と、その保護者が関わる学校・学級の惨状が「公共性」論でどう読み解けるかを問う》という太田氏のsituation設定の意味です。」と書きました。そこでは「太田氏のsituationn設定の意味」について自分運勝手な解釈を披瀝することはしませんでした。
だけど、太田氏とのコミュニケーションも2ラウンド目に入って、私自身の主張についても太田氏からいくつか憶測を受けていますので(後述します)、泥仕合にはならないように自戒しながら、以下の(1)~(10)少し憶測も含んだ自分の見解を述べ、太田氏のコメントを待ちたいと思います。
(1)西間木学級等をフィールドとした大日方氏の教育実践・教師-親関係の研究によって明らかにされた学校教育・教育実践の事実とその価値、またそうしたことを明らかにした大日方氏の研究については、太田氏も「優れた実践」「めざすべき価値」等の言葉で積極的に評価されています。
(2)一方太田氏は、(おそらく西間木学級のような)優れた実践・関係を生み出している学級の親と対極的な「となりの学校」の「ママ友」を設定してその子の学級では学級通信もなくいじめがあり学級崩壊状態であるという設定をし、しかもその親が大日方氏に「私たちの学級は、あなたの公共性論でどうなるのでしょう?」という、私からすればよく趣旨のわからない質問(仮想のん「ママ友」には失礼かもしれませんが、親が教育学研究者に対して「公共性論」について質問するというのは、私にとっては考えにくい設定なので)をするとして、大日方氏は何と答えるのだろうかと問いかけをされています。
(3)太田氏の「質問」をどう受けとめどう対応するかは大日方氏の問題であって、私がしゃしゃり出る問題ではありません。しかし、公開された「太田 和敬ブログ」の一節ですから、私にも検討し意見を述べる権利はあると思います。
(4)もしこれが、小学校教師西間木紀彰氏の教育実践と親との関係づくりに関わる研究者を含む関係者の共同討議・共同研究の場であるならば、個人情報の扱いに細心の注意をしながらも、西間木学級の子どもたちと親の状況をさらに詳しく検討したり、同学年の他学級や学校内の同僚相互の関係、親や地域の状況も踏まえながら「私事の組織化」のテーマのもとに実態把握と課題探求をさらに進めることもできると思うし、実際に大日方氏や西間木氏がそうした実践研究をさらに進めておられるかもしれません。われわれ教育学研究者はそうした実践・研究成果を摂取しながら、状況に応じて共同討議に加わって意見表明することもできると思います。私も機会があればそうしたいです。しかし太田氏の仮定は、そうした議論の場の設定を求めてのものとは、私には思えませんでした。
(5)仮に、太田氏が想定されたように、望ましい教師-親関係が形成されているある学級(「A学級」とします)のある親に「ママ友」がいて、彼女の子どもの学級の残念な状況があったとします。A学級担任教師は、その「ママ友」に話を聞いて、その学級の「改善」のために近隣学級の一教師として奔走すべきなのでしょうか? 学級崩壊に心を痛める教師が学校内外にいて、できることからその学級、その教師に手を差し伸べるのは一般論として望ましいことではありますが、親のママ友経由で他校教師が介入するとなると、うまくいかないことの方が多く想定されそうな気がします。もちろん太田氏の仮定には担任教師は登場しないので、ここ部分は私の勝手な想定です。だけど、研究者が調査に入っている学級の親の「ママ友」と直接対峙するということはまずないだろう(仮定として意味がない)、もしそういうことがありうるとしてもA学級の担任教師が間に入らないことには、研究者は全く繋がりがなかった他校他学級の親とコンタクトを取ることはあり得ないだろうと言いたかったので、まずは担任教師のことを考えてみました。
(6)前項でもうおわかりかと思いますが、私は大日方氏が自分が調査している学級の親ではなくその友人(しかも困難な状況にある学級にわが子を通わせている)と対峙して質問を受けるという想定が、意味がないと言いたいのです(ここから、「もし私が大日方氏なら…」という言葉が喉元まで出かかっているのですが、それは第三者が勝手に代弁すべきことではないのでやめます)。一つひとつの学校・学級と丁寧に関係づくりをし、個人情報等にも丁寧に配慮しながら研究成果の公表もされている大日方氏のような研究者が、直接にはすでに知り合っている親を介してではあれ、大日方氏自身とそれまで全く研究調査上のコンタクトがない他校の親と、その親の子どもが通う学級をめぐる事態について「公共性論」の視点から意見交換をする、という事態は、仮定だと言っても何重にもあり得ないと私は思います。勝手に「大日方氏なら」と想定を述べるわけにいかないので私なら、ということですが、もし私がA学級に研究調査に入っていて、すでに知り合っているある親から、「実は私のママ友のお子さんのクラスで…」と話を持ちかけられたら、まずはA学級の担任教師と相談します。私はA学級とその学校についてはすでにある程度の情報を持ち信頼関係も築いているでしょうが、ママ友さんの子どもがいる学級(B学級とします)・学校については情報がありません。もちろん個人としての研究者が個人としての親に協力し、支援することはあり得ることなので、少なくとも担任教師と相談した上で「会ってみてもいいのでは?」ということになれば、A学級の親といっしょにママ友さんに会うことはあり得るでしょう。そこでママ友さんからB学級の憂うべき状況についてお話を聞くこともあり得るかもしれません。だけど私が研究者としてそこからどう動くかについては、相当慎重な検討が必要になります。A学級は良好な状況にあり、私自身も時間をかけて丁寧に担任教師や子どもたちや親との信頼関係を築いてきていたとすると、そうした経緯のないママ友さんとの接点を起点にB学級と関わりを作っていくというのは並大抵のことではないでしょう。学級崩壊状態なわけですから。もちろん太田氏は、崩壊状態の学級とも敢えて関係をつくっていくべきだなんて書いてはおられません。でも、教育学研究者として初めてB学級の親と会って話を聞くということは、「ああそうですか」で終わり、ということにはならないはず。今後何らかの関わりを持つことも想定・覚悟した上でお話を聞く必要があるでしょう。それにしてもここまでだったら絶対ないことではないし、様々な学校・学級でフィールド調査をしてこられた大日方氏も、あるいはそれに似た経験をお持ちかもしれません。ただ、その先は、ほぼ絶対あり得ない仮定だと思います。「ほぼ」というのは、その「ママ友」が太田氏のように公共性論を研究する研究者で、その立場から従来からもわが子の学級を見て意見を持っておられた人、そして大日方氏の「私事の組織化」論についても熟知しておられ、この論ではわが子の学級の事態の解決にはつながらないと批判を持っておられた場合……これは「ほぼ」あり得ないと思うのです。従って、余計なお世話ながらも、私は大日方氏がそのような仮想世界に入って「答弁」をされることは不要だと思います。
(7)仮定はあくまで仮定であり、仮定でものを言うことによってお互いの考え方がよくわかって理解が進む、というケースもあるかと思いますが、私は太田(2021.10.26 第50段落)の「質問」における<いい学校の保護者-となりの学校の「ママ友」-大日方氏>という仮構は、教育実践を研究する私の立場から見れば意味をなさない、意味がわからないと思いました。だから、「だから何なんでしょうか?」と問いました。
(8)これに対して太田氏は、「りっぱな学級があって、しっかりした教師がいれば、他に酷い学級があって、子どもが苦しんでも、『だから何なんでしょうか?』ですか?」(太田(2022.3.3 第27段落)と書かれています。断定ではなく私への質問となっていますが、「だから何なんでしょうか?」という私の問いかけについて、優れた状況の学級があり、一方酷い状況の学級があるという両方ともに残念だけれど事実して認めないといけない状態について、あたかも私が前者を高く評価する一方後者を無視しているかのような把握をされています。
私は両極端の状況を並べた上で、それでそこから太田氏は何を言われたいのかを問いました。
これに対して太田氏は、その問いを投げかけることで佐藤は両極端のうち後者を無視し、大したことではないかのように捉えているように思われるがどうか?と問いかけられています。
答えはもちろん「NO」です。太田氏はもちろん私の立場について断言されていませんが、そのように推測されたことも大変心外です。
(9)先に、西間木氏のようなすぐれた実践やそこへの大日方氏の着目については、太田氏も肯定的に評価されていることを確認しました。この点では太田氏と私の意見は一致しています。一方、私は大日方真史論文「『私事の組織化』論-教師の仕事にとって保護者とは?」(2021)を拙稿「教育学文献学習ノート(22)-3神代健彦編『民主主義の育てかた 現代の理論としての戦後教育学』(2021) 第2章 「『私事の組織化』論-教師の仕事にとって保護者とは?」(大日方真史)」の中で取り上げ、そこで関連して太田(2021.10.26)に言及させていただきました。大日方氏は一連の研究の中で、学校を巡る困難な状況の中でも学級通信を出し続け、教師-子ども関係や教師-親関係、親相互の関係について模索の中で少しずつ前進してきている学級事例について、特に親へのインタビューを重ねることを重視しながら調査研究を続けておられます。大日方(2021)以外の大日方氏の論稿も含めてそこから学び得たことを、私は「ノート」に書きました。
そこでは教師の無気力とか学級崩壊などの否定的事例については前面に取り上げていません。しかし、そうしたことを取り上げることが不要だと考えているわけではもちろんありません。太田氏がそのような否定的事態への対峙を研究の正面に据えて取り組んでおられるのであれば、敬意を表したいと思います。しかし、その研究について言及しない者がその領域に無関心であるというのは、少々思い込みが過ぎるのではないでしょうか。
(10)関連して、【佐藤氏も含めて、教科研などで活動しているひとたちは、素晴らしい実践をしている教師が多く、また彼らと協力している研究者だから、教師の多くは子どものことを心底考えていると思っているでしょうが、実際には、とうていそうは思えない教師もたくさんいます。】(太田(2022.3.1) 第12段落)の太字・黄色網掛け部分は、(こういうことを否定しなければいけないのは非常に消耗な事態ではありますが)教科研の他の人びとのことは横に置いて、私については大変な思い込みです。「でしょうが」と推定表現にはなっていますが、本人がそうではないと述べているので、訂正していただきたいです。私だって、そのようなノーテンキなスタンスで40年以上教育学研究・教育実践研究を続けてきてはいません。
さて、太田氏は、太田(2022.3.1)の中で、佐藤の指摘を以下の3点に整理して下さいました。
【1 国民の教育権論は、自爆したという表現があるから、使命を終えたのか、再建が可能、必要だと思っているか、明らかでない。
2 「どんなに熱意のない、学級通信などまったく作成する気もない教師にあたったからといって、委託してはいないから、本当に委託したい教師に自分の子どもを任せたいといっても、聞き入れられないのだし、国民の教育権論者は、そうした意識を受けとめなかったのである。」と書いているが、国民の教育権論は、「委託したのだから」などと説明していたのか。そんな国民の教育権論者はいないのではないか。
3 大日方氏の私事の組織化から公共性が実現するという論理をどう考えるか。】(太田(2022.3.1第3段落)
1について太田氏は、こう述べられています。
【私は現在でも、国民の教育権論者であり、だからこそ、度々、国民の教育権論の再建を主張しています。】(太田(2022.3.1) 第5段落)
私としては、この一言で満足したいと思います。太田氏は、「国民の教育権論」の弱点、特に「教育の自由化論」への対応の混乱について述べておられます。これについては、学ばせていただきたいと思います。つまり、私独自にコメントする素養、研究基盤を持っていないということです。
2に関わって、学校選択制度についてきちんと対応しないと委託を実体化できないということも理解できました。ただ、私が「教育学文献学習ノート」で検討した大日方(2021)は学校選択論を対象とするものではないので、ここでも学ばせていただいたということにとどめます。
3の「公共性論」については、逃げるようですが、私は「公共性」について学び始めたばかりです。去る2022.2.19の京都教育教科研究会第331回例会で『教育』NNo.913(2022.2)特集1「高校教育における『公共性』を考える」を学習し、関連して齋藤純一『公共性』(岩波書店 2000)、村上弘「公共性について」(『立命館法学』316号 2007.6)を入手した、という段階です。従ってこの論点についても、太田(2022.3.1)に学ばせていただいたということにとどめます。
これでは太田氏から、きちんと丁寧に説明した各論点について佐藤はリプライしていないではないかとお叱りを受けそうですが、私の側からの論点とは結局、太田氏が「目が点になりました」とおっしゃる、「何なんでしょうか?」という問いに尽きると思います。
それは結局、様々な下位専門領域を持つ教育学研究者が、互いの研究について議論しあう際の、特に教育実践の事実とそれに対する分析・見解を相互に吟味しあう際のモラルに関することだと思うのです。
《A氏はaという枠組みで事実Xを検討し、研究上の提起を行なっている。これに対しB氏は、aに対しては批判的でこれを容認していないbという枠組みを主張している。B氏は、A氏が検討した事実Xではなくて、それを一部連想させる仮構Zを設定し、「このZについてA氏はどのような見解を持つか?」と問うている。》
太田氏の大日方氏批判の構図を、私はこう捉えました。この捉え方がおかしい、間違っているようでしたら、ぜひご指摘下さい。
なお私はもちろん大日方真史氏に対しても、「教育学文献学習ノート」で大日方(2021)他を取り上げさせていただいたことをお知らせしていますし、その中で太田(2021.10.26)の大日方批判のことにも言及しています。
大日方氏自身が太田(2021.10.26)をどう読まれどのような見解をお持ちかについては、まだ伺っていません。太田(2022.3.1)における太田氏の佐藤へのコメント、および今締め括ろうとしているこの文章についても、太田氏と共に大日方氏にもお届けしようと思います。
佐藤さん、長文のコメントをありがとうございます。私としては、このまま継続してもあまり意味がないと思いますので、お礼と簡単な私の考えを、こちらに書いてとりあえず終わりにしたいと思います。
返信削除まず、確認してほしいことは、私が大日方氏の文章についての文章をブログに書いたのは、あくまでも『教育』掲載の論文を、継続的に検討する一環としてであり、かつ、大日方氏が、「なぜ今『私事の組織化』論か」という論文を書いたからです。この論文は、教育実践論ではなく、あくまでも「教育権論」として書かれていると読める題名です。実際に、ほとんど無力になっている国民の教育権論を、再び「私事の組織化」論で強化、再建しようという意図で書かれていると理解できます。そして、そのために、私も佐藤さんもともに高く評価する実践的なことを軸にして、共同性のようなものを構築することが、私事の組織化を実現していくことになるという結論を示しているように、私には理解できました。
そして、それは間違っているというのが、私のだしている結論です。大日方氏は、何故国民の教育権論が無力になったのかの原因分析をしておらず、従って、提起されていることでは、復権はできないということです。そして、私なりの無力になった原因の分析と、再建に必要な条件提示をしたわけです。
つまり、あくまでも国民の教育権論の検討という、「権利論」の領域での議論をしているわけです。もし、佐藤さんが、私の見解を批判するならば、国民の教育権論の現状認識と、もし、無力になっているとしたら、大日方氏の処方箋が有効であるとするなら、その理由、同時に私の指摘の間違いを指摘すべきものです。しかし、その点は、私の読む限り、ほとんどふれられていないので、議論は進まないと思います。
ただ、領域がずれているといっても、最初にだされた疑問については、可能な限り答えたつもりです。
一点、「目が点になった」ことについては、やはり、佐藤さんは、理解されていないようなので、再度説明しておきます。
「権利論」というのは、権利が満たされている状態は、あまり問題にはせず、権利が満たされない状態の分析と対策について論じるものです。だから、優れた教師が担任の子どもはいいだろうが、そうでない教師の子どもはどうなるのか、という問題は、もちろん、「私事の組織化」論として、どうなるのかという意味です。私事の組織化論は、教育を受ける権利の根拠を示す議論なのですから、優れた教師(大日方的実践をしている教師)の担当の子どもたちは、教育を受ける権利が充足されるとしても、そうでない教師の教育を受ける権利は、大日方氏の「私事性論」では、充足されるのですか?という質問なわけです。ごく当たり前の問いかけです。それに対して、「それがどうしたのか?」と、まるで問題でないかのようなことを佐藤さんが書いたから、「目が点になった」わけです。別に、大日方氏の実践理論を問題にしているわけではありません。あくまでも権利論を問題にしての文章という前提で受け取ってもらわなければなりません。そもそもが、大日方氏の「私事性論」の論文へのコメントなのですから。
国民の教育権論が盛んであったときにも、実は、大日方氏のような論理構成がほとんどだったのであり、権利論としては、いかにも楽観的すぎるし、あえていえば、独善的なものだったのです。だから、私事性と公教育の架け橋であった「委託」論を抽象的に述べていただけで、文科省によって、具体的な委託制度(学校選択)を提示されたときに、猛反対して、みずからの委託論を否定してしまい、国民の教育権論が破綻してしまったのです。
現在の私の作業は、再建する論理を構築することで、ブログを書いているのもその一環です。もし、このレベルでの疑問がありましたら、いくらでもお答えします。しかし、教育実践論は、私の領域ではありませんし、大日方氏の優れた論考に疑問を呈する意志もありません。
↑ 太田和敬のコメントです。名前表示欄がなかったので、無名になってしまった。
返信削除太田さん、失礼しました。
削除コメント投稿の設定を初期設定から変更していなかったため、コメント投稿者がgoogleアカウント所有者のみという設定になっていました。
変更しましたので、どなたからも氏名(URLは任意)記載で投稿していただけます。
太田和敬様
返信削除さっそくコメントをいただき、ありがとうございました。
異なる立場から意見交換をさせていただいたことには意義があったと思います。
ただ私も、太田さんとの共通理解を確認できたことには意義があったと思いますが、意見が異なる点についてこれ以上確認を進めることはあまり生産的でないと思いますので、議論はここで打ち止めとしたいと思います。
議論につき合っていただき、ありがとうございました。