14 教育学文献学習ノート(26)瀬成田実『震災を語り伝える若者たち みやぎ・きずなFプロジェクト』(かもがわ出版)

 

(2022.3.11刊行 2022.3.15通読 20223.16-18ノート作成) 

 本書が出版されることを、私は2月16日に瀬成田実先生からいただいたメッセージで知りました。出版されるご著書で私の名前を記載し、私の三重大時代に瀬成田先生にお願いしたゲスト講義のことを紹介してよいかという大変丁寧なお尋ねでした。私はもちろん快諾し、出版を楽しみにしていました。
 まずは私が掲載を快諾した該当部分から紹介します。

【震災から6年後、三重大学教授の佐藤年明さんに招かれて震災特別講義をしました。佐藤さんは、学生に「当事者意識」をもたせるために熱心に震災を学ばせていました。その中で、『当事者』を『自分事』ととらえてみようと語っていたのです。少しニュアンスは違うかもしれませんが、自分事という言葉だと、遠く離れた西日本の若者たちも考えやすいようでした。】(P.154-155)

  私の三重大学時代の震災学習の取り組みの、まさに核心を突いた紹介だと思います。「自分事」云々については、後に説明します。
 しかしその前に、三重大学教育学部で瀬成田先生の特別講義を実現するまでの私と瀬成田先生の交流の経緯を説明しなければなりません。そしてそのためには、宮城の元小学校教師だった徳水博志氏についても触れなければなりません。いつもながら廻り道の多い私の「学習ノート」ですが、しばらくお付き合い下さい。

 徳水博志氏は宮崎県出身、京都で学生時代を過ごし、教師をめざしておられた頃、1980年代初めに私と出会います。ともにうたごえ運動の洛北青年合唱団の2期研究生となり、修了後団員となっていっしょに活動していました。1986年10月に私は宮城教育大学に採用されて家族で仙台に引っ越しました。奇しくもその半年前、徳水さんは宮城県の小学校教員採用試験に合格して石巻に赴任していました。二人ともに宮城県民となったわけです。
 私の宮教大時代は短く、2年半後の1989年4月には三重大学に移ったのですが、その間に徳水さんの結婚式の媒酌人を務めたりしました。
 私が宮城を離れて22年後の2011年3月11日、東日本大震災が発生しました。私は情報が少ない中で宮城の知人と連絡を取ろうと努力しました。メールを送っても返信がなかった徳水さんからようやく電話があったのは1ヶ月ほど経ったときでした。いま何が必要かを訪ねると、生活物資の援助は足りてきたけれど文化的な刺激が少ないとのことだったので、さっそく音楽センターの子どものうたCDを送りました。8月には名古屋で開催された日本生活教育連盟大会で徳水さんが被災地からの報告をされるので聴きに行き、終了後一緒に飲みました。10月には秋田大学での学会の後に仙台に2泊し、校舎が全壊して北上川の上流の河北中に間借りしていた徳水さんの勤務校・石巻市立雄勝小学校の仮校舎を訪問し、徳水さんの復興教育の授業も参観しました(10月にはもう一回、別の研究会の後に名取市閖上も訪問しました)。
 しかしその後の約2年半、私の被災地との関わりは停滞します。徳水さんとの交流は続いていたし、石巻の産品を購入するなどささやかな支援はしていましたが、自分の足元の三重で、三重大学で行動を起こすには到っていませんでした。父を見送ってまもない2013年の暮れから約3ヶ月間私は病気休職をしたのですが、その中でいろいろ考えたことにもとづいて、2014年度から三重大学教育学部で担当する「教育課程論」の授業で東日本大震災を取り上げることにしました。実践の経緯については、以下の報告にまとめています。
  教育学部「教育課程論 I」「教育課程論 II」において東日本大震災を学ぶ-「非当事者性」とどう向き合うか-
                             
https://mie-u.repo.nii.ac.jp/index.php?action=pages_view_main&active_action=repository_action_common_download&item_id=11259&item_no=1&attribute_id=17&file_no=1&page_id=13&block_id=21

 私の実践の経過は上記報告にゆずりますが、2014年度前期・同後期・2015年度前期と東日本大震災に特化した「教育課程論」授業を行ない、徳水さんの震災復興学習についても紹介しました。徳水実践について詳しく触れ出すと瀬成田先生のご著書にいつ戻れるかわからないので(^^;)、下記を参照していただきたいと思います。

 『ぼくたちわたしたちが考える復興 夢をのせて 宮城県石巻市立雄勝小学校 震災2年目の実践 <監修・指導>徳水博志先生』(DVD 日本児童教育振興財団)
 徳水博志『震災と向き合う子どもたち 心のケアと地域づくりの記録』(新日本出版社 2018)


 DVDは徳水さんからいただき、私の授業の中でも視聴しました。徳水さんの著書は私の授業実践の時点ではまだ発刊されておらず、そのもとになった実践資料を徳水さんからいただいていたので授業で配付しました。
 前後の詳しく語っていないことで徳水実践やそれを位置づけた私の実践について誤解されることを怖れますが、(次に繋ぐために)敢えて以下の事実だけを紹介します。2015年度前期の「教育課程論Ⅰ」授業受講生の徳水実践への質問集を徳水さんに送ったところ、以下のようなコメントをいただきました。
「学生の感想、に関しては被災地を外からしか見ていない非当事者の視点から脱し切れていないという感想をもちました。(中略)被災地から遠く書留した場所で文献と映像だけで学生に被災地と複輿教育を論じさせることには限界があると感じました。」(佐藤前掲報告P.29)
 これに対する私の率直な受け止めは以下の通りです(その後の2015年度後期「教育課程論Ⅱ」授業通信より)。
「まさにおっしゃる通りだとも思うし、一方で被災地から遠い三重県の大学で取り組んでいる授業なのに、それを言っちゃあおしまいよ、という患いもあります。だけど、形だけとか義理で、ではなくて真剣に震災学習に取ち組むのであれば、やはり徳水先生の批判を何らかの形で受け止めないといけないと思いました。」(佐藤前掲報告P.30)

 そんな経緯から、2015年度後期「教育課程論Ⅱ」では、初めて受講生に対して被災地訪問を提案しました。おっかなびっくりの提案でしたが、幸い4人の受講生が参加を表明し、2015.12.16-18に大川小学校、雄勝町、女川町、名取市閖上の被災地を訪問しました。この時、徳水さん夫妻が主宰する雄勝ローズファクトリーガーデンの学習室で、徳水さん、佐藤敏郎さん(元女川町の中学校教師。大川小6年だった次女みずほさんを亡くされた)、制野俊弘さん(当時東松島市の中学校教師。現在は大東文化大学)のお話を伺うことができました。アレンジしてくれた徳水さんが「この3人が一同に会することは珍しい」とおっしゃっていましたが、本当に貴重な機会でした。この時の訪問後に受講生に向けて書いた「自分事宣言」という文章をあとで紹介します。
 お話の内容や事前学習した「教育課程論Ⅱ」受講生とのやりとりなども紹介したいですが、それではいつまでも瀬成田先生のご著書に戻ってきませんので、敏郎さん、制野さんの実践(瀬成田先生のご著書の中でも言及されています)については、以下をご参照下さい。

 制野俊弘『命と向きあう教室』(ポプラ社 2016)
 雁部那由多・津田穂乃果・相澤朱音 案内役佐藤敏郎『16歳の語り部』(ポプラ社 2016)

 さて、私の実践は続き、2016年度前期「教育課程論Ⅱ」でも震災を取り上げ、また被災地訪問を呼びかけたのですが、この時には残念ながら応募者がありませんでした。そこで(徳水さんには学生を伴わないでは意味がないじゃないかと言われたのですが)私一人で2016.6.10-12に雄勝、大槌町、陸前高田市を訪問し、授業でも報告しました。また、2016.7.8には徳水さんが私の授業に来て下さり、被災地の話だけでなく三重大学周辺の津波浸水のシミュレーション動画なども提示して下さったので、受講生に大きなインパクトを与えました。


 さて、ようやく私と瀬成田先生のつながりについて書ける地点まで来ました(^^;)。
 上記の徳水さんのゲスト講義直後のメールのやり取りで、徳水さんに私が日本教育方法学会での自由研究発表「被災地外の大学で学生と東日本大震災の学習プランをつくる-非当事者性とどう向き合うか-」を準備しているとお伝えしたのに対し、最終的には【未災地で、当事者性をどう育てるか-教師も子どもも未被災者の場合-】を目ざすべきで、「非当事者性」を意識させることが最終目標=【未被災地で、当事者性】を育てることにどうつながるかを明らかにする必要がある、と指摘されたのです。
 またまたずっしり重い宿題をいただきました。
 そして、その同じメールの中で徳水さんは、瀬成田先生の実践をぜひ読むようにと勧められました。瀬成田氏の勤務校・七ヶ浜町両洋中学校には被災者が少なく、大部分が未災者である子どもたちが震災を調べている。地域を見ようとしなければ地域の震災に気づかず関心も持たなかった子どもたちがだんだんと当事者性を獲得していく。このケースと三重の学生のケースを対比的に扱うことも面白い、と徳水さんはアドバイスしてくれました。このアドバイスを学会発表に反映させることはできませんでしたが、瀬成田実践のことが気になり始めました。
 教育科学研究会第55回全国大会(2016.8.7-9 大東文科大学)1日目に教育問題フォーラムF「東日本大震災から5年」が開催され、その中で瀬成田先生が報告されました。『教育』誌NNo.847(2016.8)に以下の報告が掲載されています。
 瀬成田実「震災を学ぶ総合学習」(P.74-76)
 いま手元に明確な記録がないのですが、上記大会を前に私から瀬成田先生に(facebook上で?)コンタクトをとったようで、2016.8.3に瀬成田先生から初めてメッセージをいただきました。教科研大会で瀬成田先生に初めてお会いし、報告と歌を拝聴しました(これがきっかけで翌年の三重大学教育学部での特別授業でも歌っていただきました)。
 また、2016.11.23に大津市で開催された大津市民活動フェスタ2016で瀬成田先生が報告されると伺い、夫婦で拝聴しに行きました。その頃に私から瀬成田先生に2017年度前期「教育課程論Ⅱ」でゲスト講義をお願いしたいと依頼したようです(瀬成田先生とのMessengerでのやりとりは初回分から残っているのですが、それ以外のメール等のやりとりが全部は残っておらず、あいまいにしか書けません)。2017.6.23に瀬成田先生の特別講義「東日本大震災を考える~未災地の人は、被災地の教訓をどう生かしたらよいか~」を実施しました。これに先立ち、5.12/5.19の授業で瀬成田実践の資料を学習し、「七ヶ浜の中学生たちと我々を結ぶものは何か?」というテーマで討論も実施しました。また、2016.6.3-5には希望した4人の受講生とともに雄勝・陸前高田を訪問し、6/9, 6/16の授業では参加した受講生に環流報告をしてもらいました。また特別講義当日も、遠路はるばるおいでいただいた瀬成田先生のお話を伺うことに全時間を費やすべきだったかもしれませんが、授業の後半約3分の1の時間を使って、事前に受講生から出されていた話題(震災の記憶を風化させないためにはどうすればよいか/あと数年で震災を知らない子どもが小学生になり、このような授業も変化していくと思うが、どうしていくべきか(未災地での震災教育にも繋がる)/被災した人たちで学習を深めていくなかで、非被災の人にどのように出来事、教訓を広めていくのか)をもとに受講生の討論も行ないました。
 この特別授業に向けての瀬成田先生との準備交流や当日の授業の内容についても語りだせばきりがないのですが、すでに多くの字数を費やしているこの文章の本題は、あくまで瀬成田先生のご著書についてコメントすることですので、そろそろ……いやその前に脱線の最後に、2015年12月の授業受講生との初めての被災地訪問を終えた直後に、「教育課程論Ⅱ」受講生に向けて書いた私の「自分事宣言」という文章を紹介させて下さい。

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                                  自分事宣言
        -2015.12.18-20宮城訪問を終えて、教育課程論Ⅱの全受講生の皆さんに-
                                                          2015.12.23 佐藤年明
1.
 東日本大震災は、私にとって自分事です。
 僕は、東日本大震災の当事者です。
 今回の宮城訪問を終えて、僕はそう考えることにしました。
  皆さんにとって、東日本大震災は自分事ですか?
2.
 2日間の宮城石巻訪問が終わりました。実に、実に、実りの多い2日間でした。
 僕にとって嬉しかったことは、元雄勝小学校教師の徳水博志さん、鳴瀬未来中教師の制野俊弘さん、亡くなった大川小児童の父親でこの春まで中学校教師だった佐藤敏郎さん、この3人が顔を合わせての学習の場というのは、地元石巻でも大変珍しいことだったということ。僕が徳水君に訪問受け入れを要請したことが発端となって、こちらからお願いした徳水君と制野さんによる講話に加えて、徳水君が佐藤敏郎さんを呼んでくれたことで、この形が実現しました。
 僕が要請、と偉そうに書きましたが、もともとは今年8月頃に、前期教育課程論Ⅰについて僕が徳水君にメールで報告したのに対して、彼から「被災地の実践記録を読みVTRを見てあれこれと議論しているだけで、現地に来ることがなければ、結局被災者のことはわからない。」という趣旨の厳しい指摘を受けたことが発端です。
 その時の僕の気持ちは二つ。
 一つは、そんなこと言われたって三重大学の授業で学生を連れて行くなんてできっこない、ということ。
 もう一つは、せっかく昨年来ここまで東日本大震災を取り上げて授業を進めてきたんだから、ここで引き下がらずにやってみようか、という気持ち。
 そして結局、僕は後者を選びました。
3.
 僕は、三重大生の皆さんを見くびっていたことをお詫びしなければなりません。
 実は、半分以上の確率で、皆さんの中から誰も行く人が出てこなくて、宮城訪問は僕の単独行となると予想していました。
 しかし、2つの授業の100人あまりの受講生の中から4人ではありましたが、身銭を切って(帰路飛行機組は3万円以上かかっています)、また冬休み前の授業も終わらない中(彼らは21日も朝1コマ目または2コマ目から授業でした)、石巻まで行ってくれました。
 もちろん僕からも事前に、せっかくの貴重な機会を大事にしようということは言ってましたけど、彼らは期待にたがわず、3人の先生たちに活発に質問しました。時間が足りないくらいでした。
 彼らはきっと心にずっしり重いものを刻んでくれたと思います。まだ卒業して教師になるまで3年以上あるので、じっくり咀嚼してほしいなと思います。
 僕にとって、3先生はじめ石巻での出会いと学びが貴重であったのはもちろんのことなのですが、Isさん、Icくん、Kさん、Fさんの4人との被災地での「出会い直し」も、貴重な体験でした。
4.
 今回の宮城訪問、3先生には私たちに伝えたいことがいっぱいあり、学生たちも聞きたいことをいっぱい持っていたので、僕が喋る場面はすごく少なかったです。いくつか、「この場面で4人の学生に伝えたい!」と思いつつ、我慢したことがあります。帰ると忘れてしまいそうなので、20日に仙台からの飛行機でセントレアに着き、津エアポートラインでなぎさまちに着くまでに思いつくままにメモを作り、Facebookに投稿しました。翌日の21日まで、投稿は全5回に及びました。その内容を再度整理して、この「自分事宣言」を書いています。
5.
 昨年度前期教育課程論Ⅰ以来今年度後期教育課程論Ⅱの現在に至るまで4期連続で、東日本大震災から学びまたそれを教える学習プランを作ることを受講生に提案して続けてきました。その際に、学生の皆さんと彼らが数年後に教えることになる(多くは東海エリアの)子どもたちが、震災の「非当事者」であることを繰り返し強調してきました。その際に、僕自身もかつて(震災よりずっと以前に短い期間ですが)宮城に住んでいて知り合いもおり、震災から半年後に二度被災地を訪ねた経験はあるけれど、やはり震災「非当事者」であることは受講生の皆さんと同じであると強調してきました。
6.
 しかし、20日午前の制野俊弘先生のお話の中で、地元で中学校教師を続けてきた制野先生自身の口から、被災した生徒が抱える苦難を前に、自らの「非当事者性」を痛感したという言葉を聞き、愕然としました。
 被災地で奮闘する制野先生の口から「非当事者」という言葉を聞いてしまった以上、、もはや僕自身が同じ言葉を使って自分を「非当事者」と形容することはできない、とその瞬間思いました。自分に貼る新たなラベルを早急に見つけ出さなければならなくなりました。
7.
 この緊急課題について考える前に、僕がなぜ自分と三重大生を「非当事者」と規定したかを書きます。
 三重大学のような国立教員養成大学の学生は、小中高と中位以上の良好な成績で過ごし、多くはモデルとなる憧れの教師にも出会い、そしてその延長上に自らの教師への道を描いていると思われます。要するに「揺さぶられていない」のです。(勝手に断定してすみません。反論はいくらでも受け付けます。)
 僕が教壇から、「学習指導要領にもなく、教科書にもまだあまり取り上げられていないけれど、東日本大震災について学ぶことは重要だ!」と言えば、多くの学生たちが「はい、重要だと思います」と(表向きは)反応します。学習プランを作ろうといえば、ネットなどで情報を得て、いかにもわかったようなプランを作ることもできるだろうと思うのです。 でも、それではダメなんです。
8.
 大体において、教師の教える仕事ってほとんどが「非当事者」としてのものじゃないでしょうか。そしてそれを、いかにもそれらしくまことしやかに教えてしまうことだってできると思うんです。
 そうでなくて、当事者となることや当事者とつながることが、どんなに大事で、どんなに重く、どんなに泥臭い、でもどんなに充実した営みなのかを、教員養成学部の学生の皆さんに知ってほしいんです。
 だから、敢えて我々の非当事者性を強調し、そして、「だから何も教えられない」ではなく、当事者とつながる努力をしようよ、ということをわかってほしかったんです。
9.
 12月19日~20日の2日間で、僕はいっしょに行った4人の学生たちはもはや非当事者ではなくなっていると思っていました。訪問の終盤では僕のメッセージとして彼らにそれを言ってあげようと思っていました。
 しかし、制野先生の報告、制野先生自身にもある「非当事者性」という話を聞いて、これまでの自分の思考の構図が瓦解してしまいました。
 高速船が津なぎさまちに着岸する直前に、思い至りました。
 僕自身が、もう「自分も含めて非当事者」などと自己規定していてはいけないんです。
 僕は東日本大震災の当事者です。
 もちろん被災者ではありませんが、もうしっかりと被災地・被災者と関わっています。さらに関わろうとしています。だから当事者なんです。
10.
 19日2コマの教育課程論特殊講義(学部 受講者1名)の内容を「[番外編]東日本大震災被災地訪問の報告-石巻市大川小学校、同雄勝町、女川町、名取市閖上(ゆりあげ)-」としました。20日2コマの「現代社会の課題と国民的教養」(学部 4名)と4コマ「教育課程特論」(大学院 7名)も同じタイトルで実施しました。また、19日4コマの卒論指導でも、当事者・非当事者の話、僕は「東日本大震災の当事者だ」という話をしました。
 もちろん「私は震災の当事者だ」などという発言を軽々にはできないと考えています。ただ、場を選んで、あくまで自分の主観の表明として「東日本大震災は自分事だ」と語ることは許されると思います。
 そう、「自分事」。これも被災地訪問で学んできた言葉です。僕はもはや東日本大震災の「非当事者」ではありません。震災は僕にとって「自分事」となりました。どのような意味合いで「自分事」なのかはこれからもっともっと深めていきますが、その前に「自分事」と宣言することは許されると思います。これは自分の判断、価値判断なのですから。
11.
 僕が1983年4月~1986年9月の3年半、神戸大学大学院文化学研究科助手として通勤していた神戸で、1995年1月17日に大震災が起こりました。
 僕が1986年10月~1989年3月のわずか2年半ですが勤務し(宮城教育大学助教授)、居住していた宮城で、2011年3月11日に大震災が起こりました。
 いずれの場合も震災発生時に僕はもうそこに通勤したり居住したりはしていませんでしたが、いずれの地でも僕が親しくさせていただいていた人たちや教え子たちが被災しました。今考えれば、その時点でもう僕にとって二つの震災は「他人事」ではなかったのです。
 もちろん、被災された方は他人であって家族親族ではないですが、神戸市灘区の元上司宅へ片付けを手伝いに行ったり、仙台市泉区のもとの自宅の近所へお見舞いに訪れたりして、「他人事」ではないという感じ方はしていました。
 それでも、僕自身がM9という想像できない激震や恐ろしい破壊力の津波に現地で対面したわけでなく、その後の被災者苦難の生活もテレビやネット、本でしか知らないことから、そしてまた授業で学生の皆さんがあまり悩むもことなしに震災を「訳知り顔」に語るような状況(こういうことを想定するのは皆さんに失礼な話かもしれませんが)をつくってはいけないという思いから、被災地の人々の苦しみは私たちが簡単に理解共感してしまえるものではない、つまり私たちは震災の「非当事者」という把握を強調してきました。だから、僕にとっての「自分事」の面は後景に退いていたと思います。今度の訪問でそのことを自覚することができました。
12.
 12月19日に津なぎさまちに着岸する直前に僕は発想を転換し、自分は「東日本大震災の当事者である(被災者ではないが)」ということを意識的に強調して述べていくことにしました。
 そして学生諸君には、(「1」で書いたように)「僕にとって震災は『自分事』。君たちは東日本大震災を『自分事』とすることができると思うか?」と問いかけたいと思います。
 「『自分事』にせよ」ではありません。そのようなことを強要することはできません。
 でも、「『自分事』にすることができないままに、わかったように震災を語ることはやめよう。」とは言いたいと思います。
13.
 震災だけではありません。教師は子どもたちに教えようとするあらゆることを「これは『自分事』なのか?」と自問すべきだと思います。学習指導要領にあるから、教科書にあるからと、「自分事」であるかどうかも吟味せずに教えるというのは、生身の人間としての教師がすべきことではありません。自分にとって大事だ、切実だ、意味がある、と思えることでなければ教えるな、と僕は言いたい。自分にとって「どうでもいいこと」をいかにも大事なことであるかのようなふりをして教えるのは、教師の自殺行為だと思います。
 そして、こう考えるならば、「東日本大震災は『自分事』だからこそ子どもたちに教えたい」というのは、あたりまえの発想ということになります。そしてこの発想からすれば、「全ての教師がどうしても震災を教えるべきだ」ということにはならないのです。一人一人の教師が、それぞれの「自分事」を探して、それが震災でないとしてても心を込めて教えたらいいのです。
14.
 ところで、東日本大震災が僕にとってなぜ「自分事」なのかを、まだ十分に整理できていません。先ほど書いたように僕自身が神戸にも宮城にも個人として地縁を持っていることは原点だと思いますが、それだけではありません。
 宮城について言うと、2年半の在住の中で僕が築くことができた人的つながりはわずかであり、それも離れて27年経った今かなり薄れていますが、京都にいた時からの合唱団の仲間で、僕が1986年10月に宮城教育大学に赴任するより半年前に宮城県小学校教員に採用されて石巻に赴任していた徳水博志君の存在がやはり大きいと思います。
 それも宮城に来てから最近までは年賀状交換くらいの関係になっていましたが、震災後に彼の生存が確認でき、同時に彼のおつれあいのお母さんがなくなられ、彼が家を失ったことを知り、また震災直後には家族を連れて郷里の宮崎に戻ろうかとまで考えた徳水君が、やがて雄勝の地で被災地再建と復興教育に取り組んでいく過程を彼からの情報で随時知るようになりました。
 2011年10月には秋田大での学会の後仙台に2泊して、徳水君のいる雄勝小学校(石巻市立河北中学校に曲がり中)や大川小学校、雄勝地域を訪ねました。僕の初めての被災地訪問でした。その後同じ10月の中旬にもう一度宮城(名取市閖上など)を訪ねましたが、それ以降は今回まで訪問できずにいました。
 このように徳水君との友人関係を軸に、僕の「震災当事者性」は少しずつ形成されてきたと言えます。
15.
 震災の年2011年の8月に名古屋で行なわれた日本生活教育連盟大会で徳水君が被災地報告をしました。僕は聴きに行き、終了後徳水君と飲んで別れました。このことが先ほど書いた2011年10月4日の石巻訪問につながります。
 昨年2014年8月、東京での教育科学研究会大会で徳水君に再会しました。
 昨年度前期に僕は、初めて「東日本大震災から学ぶ」をメインテーマに掲げた教育課程論Ⅰの実践に取り組んだのですが、その中で石巻市雄勝での復興教育実践についての徳水君の実践報告を紹介したところ、「子どもたちを十年後の雄勝復興の担い手に」という教師や地域住民の願いについて「それは大人のエゴだ」と批判する学生の意見が多数出てきたことに、大きなショックを受けました。そのことを授業当時には(あまりにも失礼と考えて)徳水君には報告できず、8月の東京での研究会の彼がいる席上での僕の発言の形で初めて彼に伝えました。会合終了後彼は、他の大学での類似の反応が出たことを教えてくれました。彼はすでにそれへの反論も用意していました。
 その後の2014年度後期教育課程論Ⅱから、徳水実践のより詳しい記録を学習してもらうことと、徳水実践を丁寧に取材したDVD『ぼくたちわたしたちが考える復興 夢をのせて 宮城県石巻市立雄勝小学校 震災2年目の実践』(皆さんにも視聴してもらったもの)を授業内容に加えたので、受講生の反応も少し変わっては来ました。
16.
 しかし、次の転機は今年の夏に訪れました。
 前期の教育課程論Ⅰの様子を徳水君にメールで伝え、10月初めには岩手大学で日本教育方法学会があるのでその後に宮城に立ち寄りたいと伝えました(この訪問は母の死により実現しませんでした)。「2」で書いたように、その時の彼からの返事で、自分の実践の文字記録を読み、VTRを見て討論しているだけでは限界がある、被災地に足を運ぶことが必要だという批判を受けました。
 その時に前述のように二つの道の選択を迫られたわけですが、僕は後者を選ぶことにしました。今考えると、ここで僕の「震災当事者性」が次の段階に進んだと思います。
 自分一人が教育学研究者として被災地に足を運ぶことはそれまでにもしていました。しかし、大学教師として学生にその行動への参加を呼びかけることはしていませんでした。
 呼びかけた結果として、4人の学生の参加という事実が残りました。2つの授業の全受講生数から見れば数パーセントに過ぎません。だけど、量の問題ではないのです。
 みんな他コースの学生であり(僕が指導を担当しているのは学校教育コース、人間発達科学コース)、ゆっくり話すのは宮城に行ってからが初めてでした。現地でも、3人の先生のお話を聞いたり見学をすることが中心だったので、そんなに彼らと話せたわけではありません。でも、本当によく来てくれたと思います。帰り道に聞いたところでは、強行軍の結果、貴重なお話なのにと思いながらも睡魔と戦っている場面もあったようです。
 でも、ここで皆さんに向かって言うのも変ですが、僕の日頃での授業で例えば何かのVTRを見せた時など、机に突っ伏して寝ている学生も何人もいます(今期のVTR視聴の時には少なかったですが)。「VTRを見たいけどどうしても睡魔に襲われて矢も楯もたまらずに寝た」とは到底思えない姿です。寝に来た、という感じ。
 そんな経験もしている僕にとっては、現地に同行した4人の姿は、ちょっと大げさですけど、輝いて見えましたね。
 しかしそれは裏返すと、当事者性への歩みについて僕が三重大生全体を見くびっていたことの表れでもあります。それはまた学生の皆さんの当事者性意識を呼び覚ますことへの教師としての僕のこれまでの怠慢も意味しています。これまで教育学部生の皆さんの授業中の嘆かわしい姿も多々目にしては来ましたが、それを目にしながらしかるべき対策が取れなかった自分の怠慢も恥じなければなりません。
17.
 「9」で書いたように、僕は宮城訪問に参加した4人の学生たちはすでに当事者になっていると勝手に判断しています。彼ら自身がそういう意識を持ったかどうかは聞いてみていませんが。
 とにかく、僕が教壇から震災について話し学生達がそれを聞くという段階から、僕と希望する学生達がともに被災地に立つ、という段階まで来たのです。僕の当事者性は、学生を巻き込んだものになりました。
 4人と話していて気づいたんですが、彼らは震災の時中学校3年生でした。来年大学に入学してくる1年生は震災当時中2。僕が退職する2019年度に入ってくる学生だと震災当時小学校5年生です。もちろん東日本大震災についてのような大事件について何らかの記憶はあるでしょうが、テレビ等の間接情報を含めて自分の生活史の中に震災の痕跡が残る世代はもうあと何年かに限られるわけです。そのしばらく下の、現在4歳以下の世代にとってはもはや「私が生まれる前に大きな地震があったそうだけど、よくは知らない」ということになります(もちろん新たな大災害がいつ起こるかわかりませんが)。
 そう考えると、当事者性の喚起を狙って行なう震災学習というのは、もう今から何年も何年も先までできることではないんですね。もちろん間接情報だけでは当事者性を確保することは無理、と断言することはできませんが、その人にとって「同時代性」(その時代を自分も生きているという意識)がない場合に、当事者性はなかなか成立しにくいと思います。当事者性の喚起は、すごい歴史性、歴史的限定性がある教育課題なんです。
18.
 一方そうなってくると、「当事者」には「歴史の証言者」という意味もあるんですね。普通「歴史の証言者」とはヒロシマ・ナガサキの被爆者の方とか震災被災者の方とかを指して言う言葉なんでしょうが、その同時代を生きた私たち「周辺の人々」が歴史の証言者となることもまた大切であると思います。
 歴史の証言者になるとは大げさな宣言のようでもありますが、しかしこの世界に生きる誰もが歴史の「当事者」ですよね。
 歴史の証言者になることは誰もがこの時代を生きる当事者であるということなんです。ここには特殊な状況に置かれた、特殊な体験をした人だけが当事者なのではない、と考えるルートが開かれているような気がします。
 僕自身はえらく仰々しい決断をして「震災の当事者」宣言をしたような書き方をしましたが、当事者になるというのは、そんなにハードルの高いことではないんだと思います。
19.
 ここで再び2015年度後期教育課程論Ⅱの受講生の皆さんに問いかけます。
  皆さんにとって、東日本大震災は自分事ですか?
 僕の考え方では、東日本大震災を自分の心に思い浮かべることで、すでに東日本大震災は自分事になっていると思います。ただ、一度は思い浮かべたけどその後忘れてしまったり関心がなくなったとすれば、東日本大震災は自分事ではなかったことになります。
 東日本大震災に関係する何らかの行動を自分で起こしたとしたら、東日本大震災はさらに強く重い意味で自分事となります。
 だけど僕は、「心に思うだけで行動に移していないんじゃ、自分事とは言えない」というような線引きはしたくありません。東日本大震災について、被災地や被災者について、心に思うことはあっても、それを行動に移せない状況にある人はいると思うのです。病床にある人はそうですね。被災地へ支援に行きたいけれどお金がない、時間がない、あるいは親に反対されて行くことができない、という事情がある人もいます。
 病気は別としても、それ以外の理由については「言い訳に過ぎない。本当に行こうと思えば障害となっていることを乗り越える努力を懸命にするはずだ」という厳しい批判があるかもしれません。すでに震災に関する行動を積み重ねている人は行動しない人に対してそう言いたいかもしれません。
 しかし、他者に対して「本気で行動しようとしているか?」とか「本当に真剣に行動しようとしているのか?」と批判することは、他者の行動の価値をランキングすることであり、自分事の度合をランキングすることを意味します。
 すでに震災に関わって行動を続けているNPO団体とかボランティア活動組織の中では、そうした議論が必要な場面がもしかしたらあるのかもしれません(僕にはそういう体験がないためわかりませんが)。しかし、東日本大震災に限らず何かあることに関心を持ち始めたり、そこから少し進んでその関心あることに対して何か行動にでようかどうか考え始めている人、要するに自分事にするかどうかの境界線あたりにいる人に対して上記のような批判をすることは、「生半可な気持ちなら行動に参加するな」と切り捨てることにしかならず、東日本大震災を自分事として行動に立ち上がる人を制限するというマイナス効果しか果たしません。
 話を戻して、あることについて関心を持ち始めたら自分事、その関心の延長に何らかの行動を起こせばさらに自分事である、というのが僕の考え方です。
 その考えに基づけば、今回の宮城訪問に参加したIsさん、Icくん、Kさん、Fさんは、すでに東日本大震災を自分事にしていると僕は思います。
 しかし、ここがもう一つ大事なことですが、僕が4人に対してそう思っているということはどうでもいいのです。自分事なのかどうか、自分事になったのかどうかは、自分自身が決めることですから。語義からしても自明のことですね。
 だから、受講生の皆さんは、「東日本大震災は自分事ですか?」という僕からの問いに対して、僕にその答えを表明する義務はありません。もちろん、例えば「私にとって自分事です!」「自分事になりました!」という声が聞けるとしたら、それは僕にとってとてもうれしいことですから、表明する意思のある人は課題レポートでも最終レポートでも口頭ででも、どうぞ表明して下さい。でも自分の心の中で思っているだけでも十分なのです。自分事とは自分についてのことだし、自分が自分に責任を持って決めたらいいことだし、自分が意識していればそれでいいことですから。
 そしてもちろん、「授業で取り組んではいるけど、やっぱり東日本大震災は自分事ではない。」「考えてはみたけど、自分事にはならない。」という人もいるでしょう。それはそれでいいのです。自分事にならないまま学習に取り組むことは苦痛も伴うことでしょうから、今からでも自分事にならないかもう一度検討してみてほしい思いはありますが、それは皆さん自身が決めることです。
20.
 最後にもう一度皆さんに問いかけます。
 皆さんにとって、東日本大震災は自分事ですか?
 僕からのお願いです。第10回授業と第11回授業の間の今の冬休みの時期に、上記の問いを自分自身に問いかけて下さい。そして現時点での答えを導き出して下さい。
 また現時点でのその答えが今後最終第14回授業を経て最終レポートを完成するまでに変化するのかしないのかを、ぜひ見極めて下さい。
 それをすることが、皆さんにとって今期の教育課程論Ⅱを履修し、学習活動に参加したことの自己総括におけるもっとも重要な評価基準になるんじゃないかと思います(皆さんの自己総括ですから僕がとやかく言う必要はないですが)。
 但し、このことは皆さん一人一人の一身上の価値判断の問題ですから、教育課程論Ⅱにおける私の成績評価の観点にするつもりはありません。

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 ここまで読んで下さったみなさんは、先に私が地の文で書いた《今日に至るまでの佐藤の被災地への関わり》をもう一度おさらいしているように思われた部分もいくつかあったでしょう。申しわけありません。すでに書いた部分を「(中略)」にしてもよかったのですが、大学教員として初めての学生との被災地訪問を終えた直後の自分の勢い?をそのまま伝えたくて全文紹介しました。
 ここでようやく本「学習ノート」冒頭での瀬成田先生のご著書P.154-155での三重大学教育学部における「震災特別講義」の話につながります。佐藤が「『当事者』を『自分事』ととらえてみようと語っていた」と瀬成田先生が書かれているのは、上記のような経緯があってのことです。「自分事宣言」発出は2015年度後期「教育課程論Ⅱ」であり、瀬成田先生を迎えたのは2017年度前期ですが、「震災を自分事ととらえられるか?」という学生への投げかけは続けており、そのことの影響は瀬成田先生の特別授業の後半での討論テーマとして受講生から出されたことにもある程度反映していました。

 ただ、本書を通読した現時点で「自分事宣言」を振り返ってみると、特に「17」「18」についてはもう一歩考察を深める必要を感じます。そのことはこの後の本書を振り返る流れに沿って改めて論じようと思います。 


 本書のタイトルの中に「語り伝える」とあります。私も例年の教育課程論の授業の冒頭で、(他にも多くの仕事があることはわかっていて敢えて)「教師の仕事は伝えること」と強調してきました。本書の読者である私が、「伝わったなあ!」と思う叙述をページを追ってピックアップしていきます。本書には著者の瀬成田先生の他に様々な人びとが登場するので、抜粋の後にページ数と、どんな人の言葉なのか簡単に説明を入れます。黄色網掛けは、引用箇所の中でも私が特に印象に残った部分です。


はじめに◉震災を学び、子どもたちと紡ぐドラマ
私は、学習や企画のたびに、必ず作文や感想を書いてもらいました。子どもたちの心の変化を追いたかったのです。それを知っていただくために、本書ではその作文や感想をたくさん掲載しました。これらを通し、子どもたちの心の変化や成長ぶりを、みなさんに感じとっていただければと思います。】(P.5 瀬成田)


Ⅰ部 ミユウとユウミ 語り部誕生の物語
1章 震災の記憶を伝える 紙芝居に託した若者たちの思い
家族を亡くした双子の体験を紙芝居に

【2019年7月2日、宮城県七ヶ浜町にある松ヶ浜小学校で紙芝居の上演がありました。
 町立向洋中学校を卒業した高校生たちが、自作の紙芝居を初めて披露したのです。
 観たのは小学2年生。演じたのは高校生8名。構想から1年余り。紙芝居を完成させたメンバーが選んだ上演先は自分たちの母校でした。小学2年生を対象にしたのには意味がありました。子どもたちは、高校生が被災したときと同じ学年なのです
(P.14 瀬成田)

震災のことをずっと知りたかったので、すごく伝わってよかったです。】(P.18 紙芝居を観た松ヶ浜小2年生の子ども)

どんな言葉で語る? シナリオづくり
【モモカ 遺体って聞いたとき、痛いという感情になる。
     亡くなった…。死んでしまった…。
(中略)
 コナミ 実感がないってわからないよね。
 モモカ ふたりはわからなかったのです…。】
(P.21 Fプロジェクトの紙芝居のシナリオづくりで、ユウミの母親と祖母のことをどんな言葉で語るかの議論)

【小さい子にいきなり伝えていいものかということがあるけど、でも、もしかしたら、次の日には大事な人が事故で死ぬかもしれないとか、予想できないじゃないですか。それはやっぱり伝えた方がいいのかなと。】(P.22 モモカ)


園児に防災意識の芽生え。幼稚園で初上演
【さて、メンバーの当初からの願いは、幼稚園児に震災を伝えることでした。2020年1月20日、ついに町内の幼稚園での上演が決まります。それに向けて、1月上旬、シナリオをどう手直ししたらよいか、メンバーが集まって議論しました。
 「お葬式ってわかるかな」
 「死んでしまったとか誰かを失った…も別の言い方にできないかなあ」
 「避難所とか震災学習って伝わる?」
 その結果、十数か所を手直しすることになりました。それは、次のことなどです。
  お葬式→お別れ会
  死んで→天国に行って
  避難所→避難所という逃げてきた人が集まる場所
  震災学習→地震と津波のことをお勉強する時間
 メンバーは、知恵を出し合って言葉を修正しました。後日、彼らの活動を知る人たちから、「よく自分たちでやさしい言葉に修正できたね。えらい!」とのおほめの言葉をいただきました。】
(P.27-28 瀬成田)


伝承活動に確かな手ごたえ
【震災当時は自分はまだ幼稚園児でした。(中略)中学校に入り、震災学習で災害公営住宅や被災地などを訪れ、被災者の話を聞きました。(中略)震災を覚えていないから語ってはいけないということではありません。実際に被災地に行ってみたり聞いたりして、画面で感じ取れないものを学んでください。みなさんも未来に語り継ぐ1人になりませんか(P.29 2020.9.8に修学旅行で訪れた福島県昭和村立昭和中3年生に、Fプロジェクト高1メンバーのハクトの語り)

語り部になった高1男子トリオ
【(前略)私が伝えたいことは、津波はいのちを奪うものです。家族、友だちを失うこともあります。そして、家族、友だちに悲しい思いをさせないため、家族、友だちと楽しいことをするために、まずは自分のいのちを守ることを優先してください。地震や津波は突然来ます。いつ来るかわかりません。そのためにも、今回学んだことは忘れないでください。今回学んだことは絶対に役に立ちます。
 もう一度言いますが、地震や津波は突然来ます。いつ来るかわかりません。自分のいのちは自分で守ってください。
(P.32 2020.11.6仙台市立台原小でのハヤトの語りの末尾部分)

【高1トリオが被災したのは6歳のとき。記憶を絞り出し、文章にまとめ、小さい子に語ろうとする姿勢は実に頼もしいものでした。
「身内を亡くしていなくても、記憶がかすかであっても語り部はできる」
 これは、多くの語り部の方から聞かされていた言葉です。
学習を積んできた彼らの挑戦に、私は心から拍手を送りました。】
(P.33 瀬成田)


2章 「つらくてもやってみたい」 14歳の震災語り部誕生
震災が教えてくれた今生きている奇跡

【息子が亡くなり、思い悩んでいたとき、出会ったのはここにいるお医者さんの桑山紀彦先生です。桑山先生は「お母さん、つらかったねえ」「がんばったねえ」と言ってくれました。息子のために涙を流してくれたのは、桑山先生が初めてでした。今までは、「がんばってね」とは言われても「がんばったね」と言われたことがなかったのです。
 ある方から「この球根を植えてね」と、チューリップの球根をいただきました。それを亡くなった閖上中の生徒14名の慰霊碑のわきに植えたのです。春になると14本のチューリップが咲いたのです。ああ、魂はまだここにあると思ったのでした。本当に悲しいのは、体がなくなることではなく、その人がこの世に生きていたということを忘れることです。
 私は津波は来ないと思っていました。もっと地震を学んでいれば、息子を助けられたのです。後悔しかありません。今は、息子の声が思い出せません。みんなは今生きていることが奇跡なんです。奇跡の上に生かされているんです。失われたいのちがあるからこうして出会い、いのちについて話をすることができる。震災はとても大切なことを教えてくれたのです。その答えをおとなになりながら見つけてください。】
(P.46-47 2016.3.18中学1年生たちへの、中1の息子さんを亡くされた名取市閖上の丹野祐子さんの語り)


あの日を語ると、未来の話になる
【2年生に進級し、半年経った2016年9月6日、「16歳の語り部」活動をしている相澤朱音さんを招きました。
 相澤さんは次のように語りました。
「自分は親友を亡くしました。悲しかったけれど、その思いを伝えることで、友の死を無意味なことにしないですむのではないかと思うようになりました。でも、まじめに話すと泣いてしまいそうだから、笑顔で話してしまう。(中略)生きていれば必ずいいことがあります」
 娘を亡くした教師の佐藤敏郎さんは次のように語りました。
あの日を語るといつの間にか未来の話になります。これはとても大事なこと。女川の中学生は『3・11は私たちの足かせにはならなかった。これからどう生きるのかの指針になった』と言っています。みなさんが生きている日々は、震災で亡くなった2万人の人が生きたかった日々なのです。防災は『ただいまを必ず言うこと』です
 感想を読むと、中学生と年齢の近い相澤さんの話や娘を亡くした佐藤さんの話は、中学生のこころにぐっと刺さったようです。】
(P.47-48 瀬成田)



 私自身は、佐藤敏郎さんの東松島市矢本二中での教え子・卒業生で敏郎さんの支援を受けて震災語り部活動をしている相澤朱音さん、そして雁部那由多さん、津田穂乃果さんのお話を、敏郎さんが事務局長を務めるNPO法人キッズ ナウ ジャパン主催の「みんなで防災 必ず来る想定外を生き抜くために3」(2016.12.23文京シビックセンター)で聴きました。
 佐藤敏郎さんのお話は、学生たちと雄勝を訪問した2015.12.20と2016.6.11にうかがい、敏郎さんの案内で関係者しか立ち入れない大川小学校の内部も見せていただきました。廊下の上履き袋を掛ける場所に、亡くなった敏郎さんの次女みずほさんの名札がまだ残っていました。その後、2016.11.25に三重大学にほど近い津市一身田小での敏郎さんの講演会を聴きに行き、さらに2017.10.6には、当時私が三重大学教職員組合教育学部支部の役員をしていたことから自ら提案した、三重大学教育学部での佐藤敏郎さんの講演会を実現しました。今から考えると、瀬成田先生と向洋中の生徒たちが敏郎さんや高校生語り部たちから学んでおられた時期と重なっていました。
 瀬成田先生が紹介されている、「防災とはただいまを必ず言うこと」という言葉は、私も敏郎さんから何度か聴きました。朝、「行ってきます」と家を出たら、必ず無事に家に帰って「ただいま」が言えること、これが防災ということなんだと。みずほさんの「ただいま」を聞けずに見送られた敏郎さんの痛切な思いであり、親しい人を失った被災者の共通の思いだろうと思います。


震災と向き合う語り部になりたい
丹野祐子さんの話を聞いて
 閖上中では14名もの方が亡くなられたと知ってびっくりしました。私も母と祖母を亡くしているので、丹野さんの話はすごく共感できることが多くて、特に「息子の声を思い出せない」というのは、私も同じで、母と祖母の声を思い出せず、どんな声だったか必死に思い出そうとしたときがありました。
 とても悲しくなりましたが、私も丹野さんのように誰かに語ってみたいと思いました。私は、友だち人自分の心情を話したことがありません。でも今回の講演を聞いて、丹野さんのようにいつか話せるようになりたいなと思うし、いつか頼られてみたいと思いました。丹野さんの話を聞いて、もし、丹野さんみたいな気持ちの友だちがいたら、私から聞くのではなく、相手から話してくれるのを待って、話をきちんと聞いてあげたいし、「がんばったね」と声をかけてあげたいです。震災をとても身近に感じた時間でした!
 「生きていれば何とかなる」ということを忘れずに、これからも生活していきたいと思います!(2016年3月18日)】
(P.49-50 ユウミ-陸前高田で被災後七ヶ浜へ-の感想)

相澤朱音さんと佐藤敏郎さんの話を聞いて
 私は2人の話を聞いて、とても共感できる話がたくさんありました。まず、朱音さんは、生きることの大切さを語り部で伝えたいと言っていて、3つしか歳が変わらないのにすごいなと思いました。
 次に佐藤さんの話は、聞いていて共感できたし、すごくつらくなりました。何よりも共感できたのは、家族を亡くしたという子が書いた俳句「逢いたくて でも会えなくて 逢いたくて」です。これは、私も母とおばあちゃんを亡くしているので、すごく共感できました。佐藤さんの娘さんが言った「後悔」(佐藤年明註・正確な記憶ではないんですが、震災の日の朝にみずほさんとお姉さんがケンカをしてそのままそれぞれ学校に行き、仲直りしないままにみずほさんが亡くなってしまった、という話ではなかったかと思います)はすごく悲しくて、少し泣きそうになりました。佐藤さんの話は、どれも泣きそうになる話ばかりでした。特にみずほさんの火葬の話です。私も母の火葬をしました。そのとき、火葬の前に「お母さんの顔を見なくていいの?」と、来てくれた人が言ってくれたのに、私は見ませんでした。あのとき、顔を見ていれば、今、こんなに後悔しないですんだんじゃないかなって、佐藤さんの話を聞きながら思いました。
 2人の話を聞いて、私もやってみたいことができました。それは「語り部」です。他人に、震災を経験していない人に、自分のことを言うのは緊張することだと思うし、語っているうちに泣くこともあるんじゃないかなって思います。語り部をしたいと思った理由は、佐藤さんがスクリーンに映した「向き合う」の字を見て、私はあんまり震災と向き合っていないような気がしたからです。だから、「つらくてもやりたい」と思いました。
(P.50-51 ユウミの感想)

【ユウミの2つの作文を読むと、「いつか話せるようになりたい」から「語り部をやってみたい」「つらくてもやりたい」に変わっています。心の変化が読み取れます。被災した当事者の話の力の大きさをこれほど感じたことはありませんでした。でも、彼女が実際に語るまでには、もう少し時間が必要でした。(P.51 瀬成田)



中学生から小学生へ 「語りのバトンリレー」
【震災で女川のおじいちゃんが亡くなりました。信じられないし、悔しいし、悲しいし、たくさん泣きました。去年、相澤朱音さんの話を聞いて、私も誰かに伝えてみようと思いました。Fプロ活動をするうち、悲しいだけだった震災を、未来につながるものとして考えられるようになりました。小さなことからでよいので行動しましょう。あなたのおかげで誰かが救われるかもしれません】(P.51-52 2017.2.14松ヶ浜小5年震災授業でのカナエの語り)

3歳年上の相澤朱音さんの話を聞いた中学生のカナエやモモカが、3歳年下の小学5年生に語り部をしたのです。まさに「語りのバトンリレー」です。震災の記憶があるぎりぎりの世代が伝え合っている姿に私も感動しました。(P.53 瀬成田)


ユウミ、震災語り部に挑戦
【2017年4月、メンバーは3年生になりました。ある日、私はユウミとこんな会話をしました。
 「どう、語り部そろそろやってみない」
 「修学旅行が終わった後ならいいですよ」
 「じゃあ、原稿を書いてみて」
 「原稿はもうあります。メモですけど」
 「そうなんんだ。じゃあ、Fプロメンバーが集まって、みんなで原稿を練っていこう」
 ユウミは、2月に語り部をしたカナエをとても信頼していました。そのカナエから、「ユウミ、やってみない」と勧められていたそうです。
 カナエに聞いたら、「自分が挑戦したら心が楽になったので、ユウミにも勧めていました」とのこと。友だちに背中を押されてユウミはついに決断したのです。
(P.53-54 瀬成田)

【私は岩手県の陸前高田市に住んでいて、母と祖母と叔父、姉と自分の5人家族でした。叔父が父のような存在でした。あの日、3月11日は、母は仕事、祖母と叔父は家、姉と私は学校にいました。何日か前に大きな地震があったので、「きょうは地震がないな、よかった」と思っていたら、グラッと大きく地面が揺れました。クラスで飼っていた金魚の水槽の水は左右に揺れ、水が水槽から漏れていました。隣の席の女の子は泣いていました。先生の指示で校庭に出ると、校庭のところどころに水があふれていてびっくりしました。「親が迎えに来たら、みなさんを親に返します」と言われて、自分の親が来るのをみんなで待ちました。母と祖母が来て「おじちゃんんを迎えに行くから待っててね」と言われ、母の友だちの家に預けられました。
 とうとう津波が来て、母の友だちの家の近くのん避難所に逃げました。逃げる途中、後ろをふり返ると、家がどんどん流されているのが見えました。私の家も海のすぐそばだったので、全部流されてしまいました。避難所にはたくさんの人がいて、ご飯をつくってくれたおばさんたちもいました。夜になっても、母と祖母が来なくて不安になって泣いてしまいました。しかし、母の友だちが「大丈夫、大丈夫」と支えてくれ、少し安心できました。翌朝、「ミユウちゃん~、ユウミちゃん~。迎えが来たよ」と言われ、うれしくなりながら、玄関に行くと、叔父しかいませんでした。「ママとおばあちゃんは?」と聞くと、「おまえらといると思った」と言われました。その瞬間、目の前が真っ暗になり、その場から動けなくなるくらいショックでした。
 避難所で生活して一か月がたった頃、母の遺体が見つかりました。しかし、祖母の遺体はまだ見つかっていません。早く見つかってほしいと思います。でも、母と祖母の葬式をしました。私は実感がなく、葬儀場を走って姉と遊んでいました。そのときに、母の遺体が運ばれてきて、「顔を見る?」と聞かれましたが、私は見ませんでした。それは、実感がないし、母が死んだなんて信じられなかったからです。でも、最近、母の顔を思い出そうとするとモヤがかかったように思い出せなくなってきてしまいました。なので、今では、あのときに母の顔を見ればよかったと後悔しています。
 私は今、体育祭のお昼休憩が嫌いです。なぜなら、みんなにはあたりまえに親がいて、「ママー」や「おとうさーん」と親を探している声を聞くと私にはやっぱり親がいないんだなぁと実感が湧き、つらくなります。ほかにも、授業参観など、親が参加する行事のときも同じ気持ちになります。なので、私はあたりまえに親がいるみなさんがとてもうらやましいです。
 私は、母や祖母に伝えたいことがたくさんあります。もし、母や祖母に会えたら、「短い間だったけど、育ててくれて本当にありがとう」と伝えたいです。でも、できません。
 みなさんに言いたいことがあります。誰かを失ったとき、あのときああすればよかったと思っても、もう遅いです。自分の家族はひとつしかありません。だから、今を後悔しないように、伝えたいことがあれば、そのときにその人に伝えてください。1分1秒を大切に過ごしてください。
 私は、姉と叔父と私の周りにいてくれる人を大切にしたいと思っています。】
(P.54-56 2017.5.24中1の後輩たちへのユウミの語り)


Ⅱ部 ふるさと・復興・future/Fプロジェクト始動
3章 地元七ヶ浜の復興を支える中学生プロジェクト
復興の役に立ちたい。Fプロジェクト結成

【Fプロジェクト(Fプロ)は、2016年3月8日、中学1年の終わり頃、生徒有志20名が立ち上げました。4章で詳しく紹介しますが、中学1年生のとき、この学年の子たちはたっぷりと震災学習をしました。学習を終えたとき、何名かから「七ヶ浜の復興の役に立ちたい」「先生、団体をつくりましょう!」という声が上がったのです。
 この取り組みを紹介すると、よく「先生はこのようなチームができるのは予想していましたか」とたずねられますが、私はこう答えています。「はい、このような学びをすれば、必ずそういう声が上がるだろうという確信がありました」と。長年の教師の勘からかもしれません。

 さて発足したFプロにはミユウとユウミも参加しました。ちなみに「Fプロジェクト」というのは当時の校長、櫻井覚先生による命名です。「ふるさと」「ふっこう(復興)」「フーチャー(未来)」の頭文字のFを取って名づけられたのです。
 リーダーはカナエとアキコの2人。サブリーダーは3人。計5人でリーダーグループを構成。会議は部活に影響が出ないよう昼休みに随時開催。メンバーの入退会は自由。行事への参加呼びかけは全校生徒に行う。そんなゆるやかな約束を確認してスタートしました。】
(P.60 瀬成田)

災害住宅入居者と元気な笑顔で交歓
【公営住宅に住んでいる人の笑顔を見れてよかった。自分が仮設(住宅)に住んでいたとき、こうやってイベントをやってもらってすごくうれしかったことを思い出した。今回はそれができてよかった。今回は困っていることを聞けなかったけれど、入居者の方々から自分も元気をもらえました。】(P.63 2016.7.31 菖蒲田浜地区災害公営住宅での交流会後のユウミの感想文)


震災と向き合えたときが真の復興
【私たちは、中学生1年生のときから「総合の時間」で震災総合学習に取り組んでいます。最初は、震災をふり返ることに対して不安や嫌な思いを抱く生徒も多く、私もその一人でした。しかし、学習を重ね、町の方から話をうかがい、震災への思いを共有することで、震災に対して抱く感情が前向きなものへ変わっていきました。震災のことを思い出すのはつらいかもしれません。でも震災に向き合うことは当時のことを風化させないよい機会だと思います。私たちはこの授業を受けて、少し、壁を乗り越えた気がします。
 震災から、6年が経ちました。しかし、千年に一度と呼ばれる大震災が、いつまた起きるかわかりません。「あのとき、ああしておけばよかった」と後悔しないためにも、震災の教訓を後世に伝えなくてはいけません。去年4月に熊本地震が起きました。私たちに何ができるのか、同じ思いをした者どうし、助け合えるのではと思いました。まだまだ七ヶ浜は復興したとはいえません。それは、町並みの復興より私たちの心の復興のほうが遅いからです。震災への思いを私たちの心から消すのではなく、震災と向き合えたとき、それが真の復興だと私は思います。
 私たちの世代は、社会を、将来を元気づけていく、そして、これから未来を背負っていくという役割を担っています。
 私たちにできること。それは、心の復興のために、手をさしのべ、協力していくこと。6年前よりも明るい未来を築くため、努力を惜しまないことをここに誓います。
(P.70-71 2017.3.11七ヶ浜町東日本大震災追悼式での中学生代表・モモカの「復興への誓い」)


池袋で七ヶ浜とFプロ活動をPR
【海苔とパンフレットを渡すとき、最初はもらってくれる人がいなくて心が折れそうになりました。けれど、笑顔で受け取ってくれる人もいっぱいいました。「どこから来たの?」と聞かれ「宮城県の七ヶ浜町から来ました!」と言ったら、「わざわざご苦労さまです。がんばってね」と言われました。東京は怖い人がたくさんいるイメージしかなかったけど、笑顔で話しかけてくれるやさしい人や、若いサラリーマンの人がいることもわかりました。

 自分で袋詰めした海苔やリーフレットを渡して、最初は緊張したけど、時間がたつにつれて緊張がほぐれて、たくさんの人に話しかけて渡すことができました。「海苔の試食です」と言うと、海苔について聞かれました。星のり店で学んだことをたくさん話せたのでよかったです。袋詰めなどがんばってよかったな、と思いました。

 宮城出身の人が多く来ていました。向洋中出身の方や七ヶ浜を知っている方が来て、「がんばってね」や「ありがとう」などの言葉をいただきました。その声に私は「1時間で絶対に売り切るぞ!」という気持ちが高まりました。残り時間が1分になったとき、2袋残っていましたが、あきらめずに売っていたら、最後に女の人が2袋買ってくれました。すべて売れて本当にうれしかったです。このような活動を続けて七ヶ浜をもっと知ってもらいたいなあと思いました。】
(P.72/74 2017.5.11修学旅行で宮城県アンテナショップ「宮城ふるさとプラザ」前で宣伝活動を行なったFプロ有志)

 本書P.73にもFプロジェクトの生徒たちが池袋で配付した両面刷リーフレットの片面の写真が載っています。私は実物を瀬成田先生にいただいて保管していたので、下に写真を載せます。



被災者の思いを受け取るバスツアー
【大川小に着くと目の前に慰霊碑があり、多くの人の名前が刻まれていました。その中には、お年寄りや3歳の子どもの名前もありました。とても悲しくなりました。涙がこぼれ落ちました。震災前の写真を見ると、震災後の光景は一変していて驚きました。体育館がなく、そして柱が100トンの水の力で押し倒されたと聞き、とてもびっくりしました。震災の悲惨さがわかりました。百聞は一見にしかずで、とても勉強になりました。(3年)

 きょう、大川小学校を初めて見て信じられない景色でした。山のほうにたくさん花が置かれているところに子どもたちの遺体があったと聞いて、ものすごく切なくて悲しくなりました。なんで川の方に避難してしまったんだろうと思いました。只野さんは「震災で起きたことに向き合わないといけない。乗り越えるって言葉は好きじゃない。ちゃんと向き合って震災の怖さや体験などを教えないといけないと言っていました。確かにそうだなと思いました。震災を知らない人にも、3・11のことを知ってもらって、今後あのようなことを防げるようにしてほしいです(3年)
(P.77-78 2017.7.30Fプロの全校生への呼びかけで生徒26名が参加した被災地学習バスツアーの感想・抜粋)


Ⅲ部 社会科教師として取り組んだ いのちの学習
4章 今、震災学習の意味を問う

【2015年4月、私は組合専従の仕事を終え、七ヶ浜町立向洋中学校に赴任しました。奇しくも向洋中学校は30代に一度勤務した学校であり、そこは被災地に立つ学校でした。このことが退職まであと3年という私の心に火をつけたのは言うまでもありません。赴任早々思い描いたのは、組合専従時代に向き合ってきた震災を子どもたちに伝えることです。そして、子どもたちが震災と向き合い、学ぶことによって復興や町づくりに主体的に関わるようになってほしいという願いでした。】(P.88 瀬成田)


震災総合学習に思いを込めて
【最初に震災学習を提案したのは、2015年5月の学年会だったと記憶しています。
「この子たちが被災したのは、小学校2年生のときです。その後、子どもたちはあまり震災にはうれてこなかったと聞いています。私は組合専従として被災校支援をする中で、震災と向き合わせることによって子どもたちが前を向くようになったというたくさんの実践にふれてきました。この学年の子たちの中にも家族を亡くした子がいます。陸前高田で被災して入学してきたミユウとユウミもいます。この子たちのためにも震災学習をやってみませんか」と提案しました。
 学年の教師の中には不安そうな表情の人もいましたが、特に反対もなく全員が賛成してくれました。
 6月の学年会では、地域調査を中心とした具体的な計画を提案し、了承されました。
 櫻井覚校長の後押しも大きかったです。櫻井校長は私と同い年の元同僚で、親しみやすく話しやすい人でした。私の提案に「大事なことだと思うよ。応援するから、ぜひ進めて」と言ってくれたのです。
 最終的に、8月20日の職員会議で職員全体の合意を得、取り組みが決まりました。】
(P. 90 瀬成田)


東日本大震災 あの日・その後・いま
【私が行った最初の授業(第1時)は、震災当時のいくつかの学校で実際に起きた出来事=事実を学ぶ授業です。
 東松島市立浜市小学校や南三陸町立戸倉中学校での出来事を映像や写真で紹介し、制野さんの「命と向き合う教室」のビデオも見せました。
 中学生2人の感想を紹介します。

 この授業は、私たちの中にある震災を風化させぬための、恐ろしさを忘れないための授業なんだと私の中で思いました。私の祖母は、津波の被害にあいました。祖母は私の家に一時期避難していましたが、そのときは同じ話を何回もくり返し、恐怖を伝えていました。あのときのことを思い出すと同時に、恐怖をかみしめ、災害について考えていきたいと思いました。たくさんの犠牲になった方々のためにも後世に伝えること、この思いを忘れぬこと、犠牲者を増やさないためにも、このことをしっかり学びたいと思いました。モモカ

 お年寄りを助けようとした猪又先生とお年寄りが亡くなって、自分だけが助かってしまった先生の心の痛みを想像して心が痛くなりました。中学2年生の勇気には感動しました。自分のいのちの危険よりも目の前のいのちを助ける、そういった姿はとても、かっこよかったです。平塚さんの作文には、私も祖父を亡くし、毎日涙が出たこともあり、大切な人を亡くすっているのはこういうことなんだなぁと思いました。変わりたいと思っても変われない自分のままでした。そんな祖父との思い出を思い出した2時間でした。カナエ

 モモカは、前述のように、後にリーダーとなり、紙芝居づくりの発案者となる子です。カナエもリーダーとなり、「Fプロの顔」となる子です。2人は、最初の授業で祖父母が被災したことを涙ながらに語り、2年生の終わりには、学年最初の語り部になりました。あの日の悲しい出来事を中学1年で追体験をしたのでしょう。彼女らにとってインパクトの強い授業になったのだと思います。
 そのときのミユウとユウミの感想も紹介します。

 平塚亜美さんの「手が届かないとわかっているのに、頼ってしまう自分が嫌」や「悪循環をあの日からくり返している」といういのを見て、私も母とおばあちゃんを亡くして、震災から1年経つくらいまでは、毎日のように泣いていたけど、今は頼れる人や信頼できる友だちがまわりにいるので、頼ってばかりではないけど楽しく過ごしています。いろんな人が支援をしてくれたおかげだと思っています。ミユウ

 私は震災で母とおばあちゃんを亡くしました。ショック過ぎて、お葬式の時も泣けませんでした。震災から1年くらいまでは、ミユウと一緒に夜泣くことはよくありました。この授業でみんなもそういう経験をしているんだと知りました。私は、母やおばあちゃんの分までしっかり生きなきゃと再確認のできる授業でした。ユウミ
(P.93-95)

 カナエさん、ミユウさんの作文で言及されている平塚亜美さんは、制野俊弘さんが指導した東松島市の中学生で、NHKスペシャル「いのちと向きあう授業~被災地の15歳・1年の記録」(2015.3.29)、制野俊弘『いのちと向きあう教室』(ポプラ社 2016.5.18)にも登場します。テレビも見て本も読んだ私にとっても、大変強く印象に残っている生徒の一人なので、制野さんの著書から抜粋紹介させて下さい。
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第四章「《命とは何か》を問う授業へ 「《命とは何か》を問う授業へ (3)「命」とは何か(その三)~「私の震災体験」から考える「命」の問題~
 事実をありのままに綴り、矛盾や葛藤が表れている作文を取り上げ、みんなで読み合わせました。作文は子どもたちの心を揺り動かしました。

 私は、今日昇汰君の作文を聞いて、私もお父さんとお母さんが亡くなった時に、「何であの時あんな声のかけ方をしたんだろう」「もっと一緒にいれたんじゃないかな」とか、たくさんの事を考えました。そして、お父さんとお母さんが亡くなった時は、光が届かないほど深い闇に閉じ込められた気分でした。もう何もしたくない」「生きたくない」「誰もいない」など、多くの事をずっと思っていました。今でもたまにあります。このような事を思う時は決まったように、お父さんとお母さんが笑って自分のことを見ています。私はそのお父さんとお母さんの方に手を伸ばそうとします。しかし、全然届きません。でも届くことはないと実感しているのに手を伸ばし続ける自分が嫌です。だから、心のどこかで誰かに助けを求めていると思います。そう思うとまた嫌になります。私はこんな悪循環をあの日からくり返しています。                         (亜美)

 私は、亜美の変化に注目しました。両親を失い、弟と二人きりになった亜美。決して弱音を吐かず、常に前向きに生きることに努めてきた亜美。
 「私は後悔をあまりしないようにしました……そうすることで前へ進むことができました」この運動会での「決意の言葉」が象徴的でした。人間は「後悔しないようにする」ことなどできない動物なのです。この時、私は亜美にこう言いました。
「人って後悔してもいいんじゃない?」
 すると亜美はボロボロと涙をこぼしました。前向きに生きることを半ば演じることで、周囲に気を遣わせずに生活しようと心がけていたのです。私たちには、悲しみを覆い隠すように希望を語り、やるせなさを悟られないように、笑顔を見せる姿が痛々しく映っていました。
 そんな亜美の告白は、やっと心の内を見せてくれた瞬間でした。同じクラスの仲間の作文を読みながら、「このクラスなら受け入れてくれる」「思い切って綴ることで何かを打開したい」と思ったのかもしれません。亜美の作文は、ほんの小さな光を発していました。
(中略)
(4)命とは何か(その四)~二人の作文から考える「命」の問題~
 亜美と蘭の作文を取り上げ、読み合わせしました。人の「死」や居場所喪失という問題に対するリアリティを持ってもらいたいと考えました。
 亜美については、普段明るく振る舞っていても、どこかで誰かに助けを求めているという事実、でも誰かに頼ると相手に迷惑をかけてしまうと心を砕いている事実、その葛藤に触れさせたいと思いました。
 しかし、亜美の心に土足で踏み込むわけにはいきません。私は、亜美とじっくり話をしようと思いました。
「(お父さんとお母さんは)夢の中とかで出てくるの……」
「うん……」
「一生懸命手を伸ばそうとするんだ……」
 彼女は涙をこらえながら、静かに頷きました。
「『届くことはないと実感しているのに手を伸ばし続ける自分が嫌です』って……なんで嫌なの?」
 「届かないって自分ではわかっているんだけど、それでも手を伸ばし続けるのは、心のどこかでまだ、お父さんやお母さんに頼りっぱなしのところがあるから……それが嫌……」
 私は、言葉が出てきませんでした。心が目詰まりを起こしたのです。そして、しばらくして何とか言葉を熾し、ほとんど無意識にこう語りかけました。
「手を伸ばしてもいいんじゃない?」
 自然に涙が落ちてきました。
「頑張れる時は頑張ってもいいけど、でも頑張れない時は頑張らなくていいし……もし自分の気持ちの中で誰かを頼ってるなと思うんだったら、もう思い切って頼っていいんだよ……」
 今思えば、この言葉は、私自身がそれまで溜め込んでいた彼女への言葉だったような気がします。そして、それは身内を亡くした子どもたちへのメッセージでもありました。
 しかし、それでも彼女の苦悩はそう簡単には解けません。
「でもそれで頼りっぱなしになったら、その人の負担になりたくないから……そんな頼りっぱなしにもできない……」
「相手が困ってしまうから?」
 彼女はまた小さく頷きました。熾りかけた小さな火が、またふっと消されたような感覚になりました。
 しかし、私はすぐに何人かの子どもの作文を思い起こしました。亜美を取り巻く子どもたちの声が聞こえてきたのです。そのうちの一人、篤志の作文を私は彼女に紹介しました。
「『同じ学年の人なのに知らないことがいっぱいあることに気づいた』……篤志なりに、自分は何も知らないってことを後悔してるっていうか、申し訳ないっていうか……そういう思いはあったと思う……これくらいしか書いてないんだけど、なんかいいなあって」
 亜美は少し笑みを浮かべて、その作文を覗き込みました。「解読」に時間のかかる文面でしたが、確かに私が紹介した部分があるのを、亜美は確認し、また小さな笑みを浮かべました。亜美の悲しみと教師の苦しみ、そして仲間の励ましが交錯した瞬間でした。
 そして、亜美は、みんなの前で自分の作文を発表してもいいと、後日伝えてきました。躊躇していた亜美の背中を押したのは、普段はあまり人前に出ることがなく、教室の後ろの方で隠れるように勉強している篤志の言葉でした。
「知らなかったことを申し訳なく思う」
 篤志らしい優しさの表現でした。
             (P.143-146)
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 私は上記の亜美さんと制野先生の対話の場面をNHKのドキュメントで見ました。そして今回改めて録画を見直してみました。番組で亜美さんと制野先生の対話が紹介される直前の部分では、職員室で制野先生と話していた学年主任の先生が、亜美さんが心の内を作文に書いたことに驚きながらも、「手を伸ばせないと思っているうちはこの子は一歩前に進めない」と語っていました。対話の中で制野先生が亜美さんに「手を伸ばしてもいいんじゃない?」と言われたシーンを最初見た時に私はとても驚き、どうしたらこのような言葉をかけられるんだろうと思ったんですが、制野先生ご自身が「ほとんど無意識に」語ったとされる言葉の背景に、生徒たちを気遣う学年教師集団の思いもあったんだなと思います。番組ではその後の「命の授業」で亜美さんが作文を読み、そこで語られていることの重さを配慮して制野先生がすぐに発言を求めるのではなく亜美さんの作文への感想作文を生徒たちに求め、半月後に集められた作文を亜美さんが自宅で読むシーンなどが続きました。目の前で母と姉を失った佑麻君は、自分は母や姉が夢の中に出てくることなんてないから、夢にでも出てくるだけでいいじゃないか、夢から覚めて両親がいないことに気づいて泣きたくなったら泣いて、みんなに助けを求めてもいいんじゃないかと感想を述べています。なんてすばらしい!「ピア・エデュケーション」と言葉で言うのは簡単ですが、まさにこういうことなんじゃないかと思いました。佑麻くんの亜美さんへのアドバイスが正鵠を射ているかどうかが問題じゃないんです。同じ被災地に暮らしながらも背負っている悲しみや傷は同じじゃない。だからこそ互いに気遣いもあったはずの生徒たちが、制野先生の「命の授業」の中で少しずつ互いを支える力を発揮していくのです。
 瀬成田先生の授業でも生徒たちはNHKスペシャル「命と向きあう教室」を見ています(私も三重大学「教育課程論」で学生たちに見せました)。遠く離れた未災地の私でも番組や制野先生自身の語りから大きなインパクトを受けたのですから、被災地に暮らす向洋中の生徒たちの心には深く響いたんだろうと思います。


「母と祖母を亡くしました」ミユウとユウミの初めての告白
【この授業で、ミユウとユウミは初めて自分の体験をみんなに語ることになりました。

背中を押されて生きている ミユウ
 お母さんとおばあちゃんが迎えに来てくれて、お母さんの友だちの家に預けられて、「おじちゃんを迎えに行ってくる」と言って迎えに行ってしまいました。おじちゃんに「俺のせいでお母さんとおばあちゃんが死んだ」と言われて泣きました。
 私たちは、お母さんが自分たちを友だちの家に預けなければ、今、生きていないので、お母さんとおばあちゃんに背中を押されて生きていると思ってがんばりたいと思います。私のクラスの子は一人亡くなって、その子のお父さんとお母さんも亡くなりました。その子のためにもがんばって生きたいなとまた思いました。

 ミユウの学級では、班ごとに作文を読み合った後、班代表がみんなの前で発表しました。ミユウの作文は、本人の希望で担任がみんなの前で代読しました。その後、クラス全員が「友だちへのメッセージ」を書きましたが、ミユウに対して書いた子が多かったそうです。2人のメッセージを紹介します。
「ミユウはいつも明るくて元気で笑顔でいるので、きょう聞いたときは驚きました。たぶん、地震の話をしているときも悲しい気持ちを我慢して笑っていたのかなと思います。すごくつらかったと思います。何か不安なことがあったらみんなのことを頼ってね」N
「ミユウがあんなにつらいことがあったとは知らなかった。あんなことがあったのにいつも笑顔で過ごしていてすごいと思う。これから何かあったら相談とかしてね。いつでも待ってるよ」K
 隣のクラスのユウミは、「班内ならいいですよ。でも自分で読むのは嫌です」とのことで、同じ班の男子が代読する形で作文が読まれました。
 入学して半年がたち、この日ふたりは、悲痛な体験を級友とシェアすることになったのです。担任たちも緊張の日を過ごしました。
 その後、ふたりに大きな変化は見られなかったのですが、担任たちは「ミユウ、ユウミと級友との距離が縮まったような気がする」と語っていました。
(P.98-100)


被災した雄勝の子どもたちに学ぶ
【第4時は、10月2日に行いました。それまでの「大震災」を知り「いのち」を考える授業と、後半の七ヶ浜聞き取り調査をつなく内容です。「地域復興に携わっている人の体験談を聞く」と題し、石巻市雄勝で復興教育に取り組んでいる徳水博志さんのお話を計画したのです。当日、講師の徳水さんがご病気で来れなくなったため、急きょ、ビデオ『ごくたち私たちが考える復興 夢をのせて』の鑑賞に変更しました。
(中略)
 生徒たちは、年齢が自分たちより2つ下の子どもたちが、町をこよなく愛し、町の復興のために真剣に学ぶ姿に心を揺さぶられます。そしてほとんどの生徒が、「町の復興の力になりたい」と書き綴ったのです。「子どもの姿に子どもが学ぶ」という、まさにそんな感想を読み、私も心が震えました。
(P.100/102 瀬成田)


さあ町へ。「聞き取り調査」開始
□聞き取り調査

【11月6日、聞き取り調査を実施しました。どの訪問先も生徒を快く迎え入れてくれました。船で養殖場に案内してくれた漁師、車で当時の痕跡が残る場所を案内してくれた水道事業所職員、当時避難所となった施設を案内しながらていねいに「あの日」を語ってくれた被災者のみなさん…。
 生徒たちは、被災者や支援者の復興にかける思いに直接ふれ、「中学生は日本の宝」「いっぱい勉強してほしい」「おとなになったら人の役に立つことをしてほしい」など、どのグループも熱いメッセージをもらいました。被災者から励まされ、大きく心を揺さぶられた体験学習となりました。
 2人の感想を紹介します。
(中略)
佐藤鮮魚店
 私は、佐藤鮮魚店に聞き取り調査に行きました。私が学んだことは、津波が店の中に1メートル50センチくらい入ってきて、壁や天井についた泥の片づけが2か月以上かかってたいへんだったことや、震災でたくさんのものを失ったけど、支援物資で得たもののほうが失ったものよりも多かったということです。また、世界中からの支援がうれしくてありがたかったことなど、いろんな話を聞くことができてよかったし、貞子さんの話を聞き、同じ津波の経験者として共感できるところもありました。復興に向けて取り組んでみたいのはボランティアです。特に、話を聞いてあげたり、土や泥の片づけや、被災した子どもたちと遊んで気持ちをなごませてあげたりして、自分がボランティアの人にしてもらってうれしかったことを、自分も誰かにやってあげたいです。さらに詳しく調べてみたいのは、東日本大震災で津波がきた地域の中でいちばん高い津波が観測されたところに住んでいる人にも、いろいろな質問をして話を聞いてみたいと思いました。ミユウ
 ミユウは、同じ被災者の視点で共感し、支援の側に立ちたいという思いをもったようです。】
(P.105/108)


震災、地域に対する気持ちが変わった
【気持ちの変化を書いた子も多くいました。

 私は震災の授業が始まったとき、とても嫌な気持ちでした。なんで被災したことをふり返らなきゃいけないの?と思っていました。でも、授業を通して、震災に向き合うことで、自分たちがしなきゃいけないことがよくわかりましたし、被災した人の声を直接聞くことができました。忘れてはならない思い出と、この授業を伝えていきたいと思いました。H
 震災の勉強の前は「ああ、とうとう来たか…」って感じで、そこまで気乗りしなかったけれど、七ヶ浜の震災について5年間ふれてこなかったので、とても興味深い学習となりました。学習してよかったと今では思っています。そして、自分の思い、町民の思いを全員でシェアできたことでとてもよい学習になりました!カナエ
 私は「何でこんなことするの?」と思っていました。私の知り合いが一人亡くなり、思い出したくありませんでした。でも授業をやっていく中で、被災した人の気持ちを聞き、初めて興味をもち、今では、もっと調べてみたい!という気持ちになりました。1年生の学習は終わりといってたけど、もっとやりたいと思いました。ほんとにこの授業があってよかったです。A
 この授業を受ける前までは、あまり自分の地元に興味はありませんでした。でも、七ヶ浜町のことを少し知り、聞き取り調査をしてきた今は、私の地元の七ヶ浜町に対する気持ちは変わった気がします。まだ苦しい思いをしている人たちがたくさんにることをあらためて知り、そんな人たちの心の支えになれたらとか、何かできることはないかなと考えられるようになったと思います。人の役に立ちたいという気持ちが生まれてきた気がします。S
 この学習で、悲しいだけだと考えていた自分から、復興をするためにできることを考えられる自分に成長できたと思います。T
 震災当時、食べ物がなくて、おとなたちが朝早くお店に並び、食べ物を買っていたことを覚えています。2年生だった私だけど、「食べ物を大切にする。残さない」ってお母さんに言ったのを覚えています。でも最近、その「記憶」も遠くなってきました。しかし、今回の学習で、あらためて食料の大切さを学びました。そして、いのちの重み、大切さを、学びました。R
 はじめは、別にそんな学習はしなくていい、震災での体験を忘れなければいいと思っていました。でも学習していくにつれて、震災の怖さや災害の復興のために支援してくれた方の思いなどがわかりました。今回の学習は、自分たちが発信元となって町全体の取り組みになるそうなので、震災を体験した人もしていない人にも知ってもらいたいなぁと思いました。N

 これを読んで、子どもたちは5か月間の学びで大きく変わったと感じました。はじめは「とても嫌な気持ちだった」「気乗りしなかった」子どもたちが、「七ヶ浜を調べたいと思うようになった」「七ヶ浜が好きになった」「学んでよかった」「伝えていきたい」「復興の力になりたい」「(震災学習を)もっとやりたい」と語り綴るようになったのです。
 このことに驚きと感動を覚えたのは私ひとりではありません。学年の教師や保護者、お世話になった方々、研究者のみなんさんなど関わったすべての方がそう感じたと思います。
 普段は勉強、部活、スマホに明け暮れる普通の子どもたちですが、震災学習で、町民とふれあい、研究者の話を聞くという非日常的な「場」を経験することにより、より深く「いのち」「町」「友」を考えるようになったのではないかと思います。この学習をやって本当によかったと思っています。】
(P.115-117)


 Ⅳ部 地域とともに未来に生きる
5章 未来を照らすおとなたちに支えられて
特別授業「陸前高田の子どもたちの今」

【2017年2月、渡部さんの特別授業が実現しました。対象は2年生。テーマは「大震災を経験した陸前高田の子どもたちの今」です。
 渡部さんは次のようなお話をしてくれました。
「陸前高田では小中15校中5校が浸水しました。死者は1555人。松の木7万本が流され、1本だけ残りました。この1本が『奇跡の一本松』です。(略)アニバーサリー反応というのがあって、つらい体験をした季節や時期が来ると、思い出して涙が出たりすることがあります。(略)陸前高田の中学生が修学旅行先でのPR活動のためにカードなどをつくりました。私は、小学校の子どもたちと一緒に、語り継ぎのための歌をつくったりもしています。】
(P.120)


陸前高田の子どもたちに勇気をもらう
【渡部さんの特別授業の感想を紹介します。
 まず、後に紙芝居づくりの中心になったコナミの作文です。

 私は、1年生の頃からユウミとミユウのふるさとが陸前高田だということは知っていました。私自身、今までミユウやユウミにn支えられてきたことがたくさんあります。でも、私よりも震災で悲しい思いをしたのはそのふたりだと思います。ふたりはいつも明るいけれど、本当は無理をしているのかもしれません。もしもふたりがこれから先、つらい思いをしていたら、次は、私が励ましたり、支えてあげたいと思いました。そしてこれからは、もっとFプロの活動に力を入れて、七ヶ浜をもっと活気づけたいと思います。

 では、ユウミはどうでしょうか。

 渡部さんの話を聞いて、懐かしいなと思いました。高田東中学校で、修学旅行のときにカード配りとか、日めくりカレンダーとか、向洋中より全然すごい取り組みをしていて、すごいと思うと同時に、向洋中でももっとFプロとして活動したいと思いました。渡部さんの話で心に残ったのは、「一人ひとり違って当然」という言葉です。みんなが復興に前向きになっている中、自分だけ前に進めない、それでもいいんんだって思えました。カレンダーの言葉はすごくて一人ひとりの言葉が伝わりました。「誰も欠けてはいけない」-この言葉にとても共感しました。そして、「高田の未来は俺がつくる」という言葉を見て、今は七ヶ浜にいるけど、私もいつか高田に帰って復興の手伝いをしたいな、ととても思いました。ユウミ

 ユウミは渡部さんの言葉や高田の子どもたちの姿に勇気をもらったようです。
 一方、ミユウは次のように書きました。

 高田の被害の大きさや行方不明でまだ見つかっていない人もいることがわかりました。きょう、話を聞いて、早く私のおばあちゃんも見つかってほしいなと思ったし、まだ見つかっていない人の家族の人たちも七回忌になるから、前向きになってほしいです。ミユウ

 ミユウは、ユウミに比べて心の回復が少しゆっくりなのが感じ取れました。ミユウはおばあちゃんっ子だったのです。
 渡部さんはその後まもなく向洋中を離れましたが、彼には思春期の多感な時期のふたりをいっぱい支えてもらいました。
(P.121-122)


地域で活躍する身近なおとなたち
□RSY、支援活動を終えて

未来を照らすトーチであれ!     元RSY七ヶ浜スタッフ 石木田裕子
 きずなFプロジェクトのみなさんと出会ったのは、みなさんが中学生のときでした。すでに行っていた震災学習の報告やメンバーの震災体験などの活動発表の場でした。地域貢献や震災の伝承という目標を掲げ、RSYの活動とも連携しながら、震災を体験された地域の方々との交流や紙芝居の制作等々、懸命に取り組んでいました。中学を卒業すると「いつまでも先生に頼らず、自分たちからやっていかないとね」と、真顔で言われたときには、おとなになったなぁと自立への気概を感じました。ふるさとを愛し、人とつながり、自分たちが描く未来に向かって、仲間という灯りを携え進んでいってください。】
(P.129)


6章 高校卒業後も将来に続く学び
震災10年、母校にて

【震災から10年となる2021年3月、メンバーは上演や取材で、引っ張りだこでした。
 3月4日、再び母校の汐見小学校で出前授業を行いました。きっかけは、6年生の担任のKさんから次のような依頼があったことです。
「昨年度、5年生の時に紙芝居を見た6年生がまもなく卒業するのですが、きずなFプロジェクトのメンバーがどんな思いで活動をしてきたのかを聞かせてほしい。小学校を卒業する子たちが、これからの生き方を考えるきっかけにしたいと思っているのです」
 Kさんは、隣の松ヶ浜小学校に勤務していた当時、ナツミやナナの担任をしており、彼女らの活躍ぶりをずっと注目してくれていたのでした。
 当日は、高3メンバー6名と高校1年生のハクトが参加。小学1年生に紙芝居を上演した後、6年生との交流会に臨みました。
(中略)
女子B 「語り継ぐ」とはいっても、震災を覚えていない私は、何を語ればよいですか。
ハクト 自分も幼稚園年長のときだったのであまり覚えていなかったのです。語り部をどうしようかと思っていたのですが、きょうみたいにおとなの人から学んだことを、おうちの人や友だちに伝えるだけでも語り部につながると思うので、ぜひ、家の人に伝えてほしいです。
(中略)

 8人の児童が次々と質問をし、真剣な中にも和やかなやり取りとなりました。ナツミの「ほかにないですか!」、モモカの「ソーシャルディスタンスを保ちながら話し合ってみて!」など、ハキハキした進行ぶりはみごとでした。
 授業後の児童の作文を紹介します。

 今回の授業で、今まで自分が知らなかったことや当時のようすがよくわかりました!
 七ヶ浜の死亡者の数、行方不明者の数も詳しく知れたし、きずなプロジェクトさんたちの体験談などを話してもらって、東日本大震災のんことを今まで以上に知れました!
 自分もいつか3月11日が近くなってきたら、震災を体験していない子たちに「こういうことがあったんだよ」とFプロのみなさんのように説明します。
 最後に、私たちが卒業する前に汐見小学校に来てくれてありがとうございました!(女子)

 Kさんからは、後日、次のようなお手紙をいただきました。

 さて、先日は本校にてすばらしい授業をしてくださりありがとうございました。6年生の子どもたちは、より年齢の近い高校生、しかも地元七ヶ浜出身の先輩が授業を行うということで、とても楽しみにしておりました。特に、「気軽に語ってほしい」というメッセージには衝撃を受けていました。私たち担任が行う防災の授業は「真剣に」「いのちの大切さ」を感じられるように行ってしまうので、子どもたちに何か気負いのようなものを感じさせてしまっていたのではないかと反省しました。
 高校生ならではの真剣さに加えて、軽やかさ、柔軟さが6年生の子どもたちをひきつけ、より真剣に考えるきっかけを与えてくれました。
 ありがとうございます。
 年齢が近い、しかも卒業生の言葉には、6年生の心に響く確かな力があったのです。
               汐見小学校6年担任 K】
(P.132-135)


それぞれの道を歩み始めたFプロ初代メンバー
【初代メンバーは、2021年春、進学や就職でそれぞれの道に進みましたが、うれしいことに5月に行ったミーティングには、ほとんどのメンバーが「活動を続けたい」と集まりました。しかし、その後再びコロナの感染が拡大し、事実上の活動休止に。
 第5波が落ち着いた10月、メンバーに今の思いやこれからの抱負を聞きました。
 まず、現リーダーのナツミです。

 私は、これから多くの子どもたちに東日本大震災を伝えることで、防災減災の重要性を広める活動をしていきたいです。そして、伝承活動をしている方や被災した方から当時の話を聞き、自分自身も震災について学び続けていきたいと思っています。また、私は将来、小学校教師になって震災学習に力を入れたいと思っています。自分が語るだけでなく、語り部を招いたり、被災校では町探検などを通して被災前後の比較を行うような授業をしたいと考えています。ナツミ

 ナツミは、震災時、町でたくさんのボランティアが活動するのを目の当たりにし、自分も何かしたかったのに小さくてできなかったことを歯がゆく思っていたとのこと。中学校で震災学習をしたとき、「自分がやりたかったのはこれだ!」と感じ、その後Fプロ活動に打ち込むようになりました。中学時代はどちらかといえば控え目で、みんなを支える側だった彼女。しかし、今やFプロの大黒柱。出前授業では、明るくてきぱきと進行をこなす実に頼もしい存在です。私は、彼女の姿を見て、経験は人間をたくましく成長させるということを実感しています。
 ナナはこう語っています。

 Fプロ活動は、自分が変わるきっかけになったと思います。中学までの自分は、震災のことは話したくない、話す必要はないと思っていましたが、今となっては伝えていく大切さを感じています。私は神社に就職し、巫女をしています。職場で震災の話題が出たときに経験を語ったことがありました。また、石巻の伝承館で語り部をすると伝えたとき、上梓が「いい活動をしているね」とほめてくれました。社会人なので活動への参加は厳しくなりましたが、震災の教訓を伝えるために、これからも参加していきたいと思っています。ナナ

 ナナもFプロ活動に意欲的に参加し、ほぼ皆勤賞です。聞くと、震災時、学校からの帰り道で泣いていたところ、近所の人に連れられて避難したとのこと。実際に津波も目の当たりにしたそうです。その体験から、震災を思い出したり、海を見るのが怖かったそうですが、今では伝承への強い思いを持っています。「Fプロが自分を変えた」と語っています。2021年3月の高校卒業式の日、テレビニュースで彼女の特集が紹介されました。
(中略)
 ハジメも語ります。

 きずなハウスで交流会をした中2のときのことです。ふと震災の話になったときに立ち上がって席を離れた数名の町民の方がいました。終了後、その人たちは、震災で家族を失い、震災の話を聞きたくないから席を離れたと聞いたのです。震災から何年もたち、まわりは少しずつ復興しているのに、人間の心の傷はまだ復興できていないんだと当時思いました。この経験が、自分にとっては大きかったです。その後、心に傷を負った人の気持ちを少しでも軽くしてあげられればと思い、活動に熱心に参加するようになりました。
 春から運輸会社に就職しましたが、Fプロでは普通に生活していては得られない知識を学べました。今はコロナ禍で大変ですが、自分たちが得た知識を知らない世代に伝えていきたいと思っています。自分も力になれればと思っています。ハジメ

 ハジメは、初代メンバーの中で数少ない男子です。控え目ですが、地域の人々との交流を通し、大きく成長しました。現在、運輸会社で働いています。
 メンバーの中には「Fプロは卒業します」と宣言した子もいます。
(中略)
 カナエもこう語っています。

 中学時代は、当時の自分にとっては震災と向き合ういい時間だったのではないかと思います。でも今思うと、ミユウとユウミの話を聞くことについては、もしそれでふたりが少しでも楽になればと思っていましたが、自分が経験を話すことについては、まわりに気をつかわせてしまったりしていたのではないかなとも思います。
 Fプロは、ボランティアを通して異世代間交流ができ、中学生ながらおとなとどう接しようかや、小さい子にはどんな言葉を使えばいいかなども考えていたので、同級生より一歩おとなに近づけたのかなと思います。まわりの人が笑顔になると、自分もとても幸せになるのです。
 私はこれから先、震災に関わる活動をするつもりはありませんが、これまで、相手に寄り添って話を聞くだとか、誰かの心の拠りどころになるだとか、笑顔にすることは、自分にとって得られるものが多かったので、そういうことをこれからも続け、大学卒業後は理学療法士として、体験をさらに生かして行けたらいいなと思います。カナエ

 カナエは、中学時代のリーダーで、ユウミが最も信頼を寄せていた子です。中学時代に最初に語り部に挑戦し、ユウミの背中を押しました。県外の大学に進学しました。
(中略)
 この7人だけではなく、初代メンバー全員が震災学習やFプロで培った思いをもち続けています。
 2021年4月、それぞれが6年間の経験を胸に、未来に向けて再スタートを切りました。七ヶ浜に残ろうが離れようが、Fプロを続けようが卒業しようが、どのメンバーもそれぞれの思いをもって新たな一歩を踏み出しています。私が望むのは、地域の人と手を結び、地域の中で生きていく。そして自ら考え行動する主権者として生きていく。そんな人間であってほしいということです。この若者たちが、未来の社会を創っていくのです。震災学習やFプロの活動がどう生かされるのか、これからが楽しみです。】
(P.138-143)


震災を「学ぶ側」から「伝える側」に
【11月7日、七ヶ浜町内の菖蒲田浜地区で、メンバー自身が学ぶフィールドワークを開催しました。町内の被災地巡りは、2018年8月以来、実に3年ぶりとなる企画です。
(中略)私は次のようにアドバイスをしました。「震災を知らない子どもたちが増えているよね。ただ話を聴くだけではいつまでも受け身だから、学んだことをまとめ、今度は自分たちが小さい子を集めてガイドをしてみない?」と。(中略)
 この日のメンバーの表情は真剣でした。「学ぶ側」から「伝える側」になるからです。資料づくりのために、必死にメモを取ったり、写真を撮ったりしていました。
 この日は大きな収穫がありました。メンバーが2人増えたのです。ハクトの誘いで参加した高校同級生のけんたがきずなFプロに加入してくれたのです。そしてもう一人は、アシスタントガイドとして参加してくれた19歳のナツコです。ナツコは隣の中学校出身ですが、小学校のとき、ナツミやナナと同級生でした。中学校のとき、私の震災出前授業を聴いており、その後ずっと向洋中のFプロに興味をもっていたそうです。彼女はいじめられていた時期がありました。小学生当時、仮設住宅暮らしをからかわれ、苦しんでいたのです。この日、初めてそのつらい体験を語ってくれました。ナツコはメンバーから拍手で迎えられ、語り部デビューの記念日にもなりました。
 こうしてきずなFプロジェクトは、初めて向洋中出身者以外のメンバーを迎えたのです。】
(P.152-153)


震災「当時(←ママ)者」とは誰か。テレビ小説「おかえりモネ」を観て

【震災当時(←ママ)者とはいったい誰のことでしょうか。西日本の人々から見たら東北の人々はみな「当事者」でしょう。しかし、宮城県内で見ると、沿岸部以外の人は「当事者でない」と考えているかもしれません。沿岸部でも、家を流されたり家族を亡くしていない人は「当事者ではない」と語るかもしれません。
 私は初任地が気仙沼ということもあって、NHK連続テレビ小説「おかえりモネ」(2021年度前期)に見入っていました。震災により無気力になった主人公・百音(清原果耶)が気象予報士を目指し、地域に貢献する姿を描いた物語です。
 2021年10月19日付朝日新聞に「震災当時
(←ママ)者とは?『モネ』の問い」という記事がありました。記事では脚本を書いた安達奈緒子さんが「当事者と、そうでない者とのあいだに『一線』が引かれたら、互いがgわかり合いたいと手を伸ばしても、ふれ合うことが許されない」と考え、診療所の医師・菅波先生(坂口健太郎)の「あなたの痛みは僕にはわかりません。でも、わかりたいと思っています」というモネへのセリフ人たどり着いたと語っています。
 これを読んで私は気づいたのです。このドラマで、菅波先生が「当事者になった」と言えるかどうかわかりませんが、寄り添い、わかりたいと努力することが当事者に近づく第一歩なのではないかと。

 私の場合、宮城県民ですが、家族を亡くしていないし、家屋も大きな被害はありませんでした。でも当時、組合活動で沿岸部を走りまわる中で、出会った被災した人々の悲しくつらい胸の内を理解しようと自分なりにに
(←ママ)努力しました。その行動を通して私は当事者に近づけたのかなと思っています。
 震災から6年後、三重大学教授の佐藤年明さんに招かれて震災特別講義をしました。佐藤さんは、学生に「当事者意識」をもたせるために熱心に震災を学ばせていました。その中で、「当事者」を「自分事」ととらえてみようと語っていたのです。少しニュアンスは違うかもしれませんが、自分事という言葉だと、遠く離れた西日本の若者たちも考えやすいようでした。
 2021年10月28日、私は、宮城教育大学の防災教育を考えるゼミの学生に震災の講義をしました。私は次のように話しました。
当事者というと難しいが、他人事ではなく自分事としてとらえるというふうに置き換えるとわかりやすいでしょう。そのためには学ぶこと、知ることが大事です
 参加した学生たちが深くうなずいていました。
 秋田県出身のある男子学生は、「宮城で学んだ震災の知識を生かし、秋田で教師として伝えていきたい」と語りました。彼は、学びを通して震災が他人事から自分事になり、当事者意識も育ったのだろうと思います。
 私の教え子たちも、ミユウとユウミや祖父母を亡くした子以外は当事者とは思っていないようです。「自分は家を流されていないし、家族や親せきを亡くしていないので被災者ではありませんが…」と前置きする子が多いのです。しかし、多くの被災者から話を聴き、震災を伝えたいと語り部や紙芝居の上演を続ける彼らは、震災を自分事と認識しているし、りっぱな当事者になったと、私は思っています。
 震災をまったく知らない世代の子どもたちは当事者にはなれませんが、自ら学んだり語り部の話を聞いたりすることを通して自分事として考える人間になれます。おとなが子どもに伝え、その子たちがさらに下の世代に伝えていく。東日本大震災の風化を防ぐには、戦争や原爆の伝承と同じように、世代間継承が大事です。私たちは「自分事」と考える人を育てなければなりません。
(P.153-155)

 さて、本「学習ノート」の冒頭で引用した瀬成田先生の三重大学教育学部での特別講義のエピソードを含む部分の記述まで来ました。ここに来て私が、本書からの一連の抜粋・引用作業に入る直前に自分に課した「宿題」に言及する必要があります。私は以下のように書きました。

「ただ、本書を通読した現時点で「自分事宣言」を振り返ってみると、特に「17」「18」についてはもう一歩考察を深める必要を感じます。そのことはこの後の本書を振り返る流れに沿って改めて論じようと思います。」
 私の「自分事宣言」の関連部分も再度引用します。
17
 「9」で書いたように、僕は宮城訪問に参加した4人の学生たちはすでに当事者になっていると勝手に判断しています。彼ら自身がそういう意識を持ったかどうかは聞いてみていませんが。
(中略)
 4人と話していて気づいたんですが、彼らは震災の時中学校3年生でした。来年大学に入学してくる1年生は震災当時中2。僕が退職する2019年度に入ってくる学生だと震災当時小学校5年生です。もちろん東日本大震災についてのような大事件について何らかの記憶はあるでしょうが、テレビ等の間接情報を含めて自分の生活史の中に震災の痕跡が残る世代はもうあと何年かに限られるわけです。そのしばらく下の、現在4歳以下の世代にとってはもはや「私が生まれる前に大きな地震があったそうだけど、よくは知らない」ということになります(もちろん新たな大災害がいつ起こるかわかりませんが)。
 そう考えると、当事者性の喚起を狙って行なう震災学習というのは、もう今から何年も何年も先までできることではないんですね。もちろん間接情報だけでは当事者性を確保することは無理、と断言することはできませんが、その人にとって「同時代性」(その時代を自分も生きているという意識)がない場合に、当事者性はなかなか成立しにくいと思います。当事者性の喚起は、すごい歴史性、歴史的限定性がある教育課題なんです。
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 一方そうなってくると、「当事者」には「歴史の証言者」という意味もあるんですね。普通「歴史の証言者」とはヒロシマ・ナガサキの被爆者の方とか震災被災者の方とかを指して言う言葉なんでしょうが、その同時代を生きた私たち「周辺の人々」が歴史の証言者となることもまた大切であると思います。
 歴史の証言者になるとは大げさな宣言のようでもありますが、しかしこの世界に生きる誰もが歴史の「当事者」ですよね。
 歴史の証言者になることは誰もがこの時代を生きる当事者であるということなんです。ここには特殊な状況に置かれた、特殊な体験をした人だけが当事者なのではない、と考えるルートが開かれているような気がします。
 僕自身はえらく仰々しい決断をして「震災の当事者」宣言をしたような書き方をしましたが、当事者になるというのは、そんなにハードルの高いことではないんだと思います。



 さてどうでしょうか。
 私は「自分事宣言」の冒頭「」で、「東日本大震災は、私にとって自分事です。/僕は、東日本大震災の当事者です。/今回の宮城訪問を終えて、僕はそう考えることにしました。」と「宣言」しました。ここでは「自分事」と「当事者」を同義として扱っています。
 「」では学生との被災地訪問(2015.12.19-20)までの2年間、「教育課程論」での東日本大震災学習の中で自分を受講生と同じく震災「非当事者」であると強調してきたことをふり返っています。
 「」では、被災地訪問で被災地東松島市の中学校教師である制野俊弘先生の口から、「被災した生徒が抱える苦難を前に、自らの「非当事者性」を痛感したという言葉を聞き、愕然とし」たこと。そして、「被災地で奮闘する制野先生の口から『非当事者』という言葉を聞いてしまった以上、、もはや僕自身が同じ言葉を使って自分を『非当事者』と形容することはできない」と吐露しています。震災を語ってきた大学教師としての自分のidentityが揺らぎ始めたんです。
 どうしたらいいのか?「」で私が出した答えは、ある意味で開き直りです。
「僕は東日本大震災の当事者です。/もちろん被災者ではありませんが、もうしっかりと被災地・被災者と関わっています。さらに関わろうとしています。だから当事者なんです。」
 自分運は被災地・被災者と関わっており、関わろうとしているから、当事者だ、と。
 もちろんこう言っただけでは、未だ苦しみを抱えて被災地で生活している人たちから「何をわかったようなことを!」「私たちの何がわかるというの?」と批判されて当然です。それくらいは私にだってわかるので、「10」でこう書きました。
「もちろん『私は震災の当事者だ』などという発言を軽々にはできないと考えています。ただ、場を選んで、あくまで自分の主観の表明として『東日本大震災は自分事だ』と語ることは許されると思います。/そう、『自分事』。これも被災地訪問で学んできた言葉です。僕はもはや東日本大震災の『非当事者』ではありません。震災は僕にとって『自分事』となりました。どのような意味合いで『自分事』なのかはこれからもっともっと深めていきますが、その前に『自分事』と宣言することは許されると思います。これは自分の判断、価値判断なのですから。」
 そう、それで「自分事宣言」をしたわけです。「私は東日本大震災の被災者や被災地に関心を持っています」と意思表明することに対して、誰も「それはおかしい、間違っている」とは言えません。
 さて、その上での「17」「18」です。ここでは私とともに被災地訪問をした4人の学生たちを念頭に置いて書いているためか、主観性のニュアンスが強い「自分事」の語ではなくて再び「当事者」という語を使用しています。4人の学生たちはすでに東日本大震災の「当事者」になっていると引率教員として賛辞を送り、しかし彼ら自身の意識を立ち入って聞いてみたわけではないので「彼らにとって『自分事』だ」とは敢えて書けなかったんだと思います。
 いずれにせよ私たちのように自ら被災地に足を運びそこに暮らす人々から学ぶ経験をしたことは、東日本大震災に当事者として関わることの一つの前提条件をクリアしたとは捉えていました。そして、震災を自ら体験してはいなくても、体験した人から話を聞いて学ぶことで当事者と繋がり自らも当事者となれるかもしれない、ということから、翻って東日本大震災から時が流れ、あの日あの時そこにいた文字通りの当事者がだんだんと高齢化し、また被災地への復帰がままならないままに各地に分散する、などの中で自分の体験として震災を語る人が被災エリアでもだんだん少なくなっていく、総じて狭義の震災当事者が減少し、従って狭義の震災当事者から震災非経験者が体験を継承する機会も減っていきます。
 先日、東日本大震災11周年を迎えました。震災当時に生まれた子どもたちが11歳、小学校5年生です。自分自身の何らかの記憶に震災が残っている世代は、中学生以上ということになります。
 瀬成田先生も自分自身は家族は無事で家屋にも大きな被害はなかったと書かれています。先生自身は震災当時宮城県教組書記長として被災地を走りまわっておられ、被災した数多くの教師、子どもたち、住民と出会われ、苦しみや悲しみを共有したり問題解決に奮闘されていたそうですが、それでも上記引用の中で「その行動を通して私は当事者に近づけたのかなと思っています。」と控え目に書かれています。被災地の中で自分の家族は無事なのに、家は無事なのに、知り合いに家族や家を失った人がいることで、後ろめたく思ったり自分を責めたりする人もいたと聞きます。そういう心情もあり、被災者同士でも震災について率直に語り合えない、相手のことを気遣うあまり何も聞けないということがあったり、学校で震災を語ることがタブー視され語れなかったという「16歳の語り部」雁部那由多君の証言も読みました。大震災に見舞われた地域の中でも、被害の程度、その時どういう状況下にいたか、身内を亡くしたか、家を失ったか、等々の各自の置かれた状況の違いが、被災地外の者が勝手に思い描く「復興に向けての地域住民の一致団結」というような予定調和の神話とは違う難しい状況を発生させていたようです。
 瀬成田先生の勤務地の七ヶ浜町も、もちろん被災地なのですが、大槌町、陸前高田市、名取市閖上、等々の住民丸ごと大被害に遭ったような地域とは異なり、相対的には被災程度は軽微だけれども、その中にも身内を亡くした人もおり、またユウミとミユウの双子姉妹のように震災で親を亡くして陸前高田から転入してきた生徒もおり、こういう言い方でいいのかどうかわかりませんが、被災状況としても被災者意識としても「まだらの状況」であったと思われます。そういう中での向洋中の総合学習(2015年度)であり、そこからの「Fプロジェクト」(2016.3-)「みやぎ・きずなFプロジェクト」(2018.3-)の発足と展開であったわけです。2015年度に震災総合学習に取り組んだ中学1年生が2003年度生まれで、震災当時は小学校2年生。そこがFプロ活動の起点で、もちろん彼らは幼稚園児とか地域住民とかいろいろな世代のいろいろな人たちに活動の成果を伝え、影響を与えていますけれど、そして本書発刊時点で初代の人たちは大学生や社会人になっており、後継者も育ってきていますけれど、客観的に見れば、後継者世代はすでに震災発生時に小学校就学以前まで降りてきており、もうまもなく「自分自身としては震災の記憶のない世代」、そしてほどなく「震災後に生まれた世代」になっていきます。
 最近「東日本大震災○周年」前後でもテレビの特集番組などはめっきり減っており、日本全体としては震災の記憶の風化も言われます。こと被災地についてはもちろん同様の状況ではないだろうし、今なお震災の忘れ得ぬ記憶を持つ人たちも数多く、また未来に震災の記録をとどめる遺構もあります。それでも、モノや文字という形になったものは残していけますが、実際に震災を体験したことを証言できる人は、毎年確実に減少していきます。悲しい記憶を忘れたいと思っている人もいるだろうし、時が進んで行く以上過去が忘却の彼方へと去って行くのは致し方ないとも一般論としては言えますが、しかしこと震災に関しては、「過去に悲惨な、悲しい出来事があった」で済ませるわけにはいきません。ただ、今後起こり得る地震津波災害に備える「減災」のための科学技術の英知の結集という課題と、震災に関する人々の記憶の継承とは、関係はしているけれども少し別の課題のように思います。
 瀬成田先生は上記引用の最後に、震災を全く知らない世代の子どもたちは「当事者」にはなれないが、学ぶことを通じて「自分事」として考える人間にはなれるとし、世代間継承が大事と書かれています。全くその通りだと思います。ただその世代間継承はいずれ、震災を全く知らない世代同士の継承になるかもしれません。もちろん2022.3.16深夜に発生した最大震度6強の地震を見ても東日本大震災は終わっていないと思えるし、全国他地域も含めて今後大地震が発生する可能性はあります。しかし、2011.3.11の東日本大震災自体が過去に遠ざかっていくことは事実です。時代状況の変化の中で「3・11を学ぶ」ということ自体が重要な課題ではなくなっていく、ということも今後あり得ると思います。
 だけどこうやってつらつら考えてくるうちに、東日本大震災に関する学習が今後どうなっていくか、ということが、いま私たちが考えるべき主要課題ではないような気がしてきました。瀬成田先生たちの取り組みは、確かに中学校総合学習に端を発した中学生・高校生・社会人とつながっていく自主的な震災学習、と形容することはできます。しかし、私の主観ですが、大事なことは、東日本大震災の発生という大惨事を契機としながら、そこから少しのタイムラグを経て、中学生が震災を学び、重い口を開いて自分の被災経験を語り、それを語り聞くことを通じて気遣いの中でそれまで十分に踏み込めなかった人間関係を少しずつ深め、さらに震災経験をもっと多くの人たちと共有しようと幼稚園や小学校で紙芝居、震災出前授業をし、その中でいろいろな人たちから励まされ期待され、そういう中でこれまでの震災学習を振り返りながら自らの進路を定めたり、逆に震災学習から卒業して新たな道に進もうとしている、そういう人間関係、人間模様自体がとても貴重だと思うのです。


7章 若者の人生を地域で支える中学校教師
コロナ禍を学びに位置づけて

【コロナは、いのちだけではなく「人権学習」の機会も与えてくれました。
 私が2021年3月まで勤めていた中学校でこんなことがありました。2020年6月下旬のことです。東京から1年C組に転入して来る生徒がいることを知ったD組のサチコがC組担任に「東京からの転入生のコロナが心配だ」と言いに来たのです。サチコだけではなく、ほかの生徒も、ひょっとしたら親たちも同じ気持ちだったかもしれません。一方で、事務手続きに来た転入生の保護者も「コロナの件でうちの子がいじめられたりしないでしょうか」と心配していました。
 学年主任の私は学年スタッフに「コロナが流行っている東京から来るというだけで、彼女が避けられたりしたら問題です。対策を立てましょう」と提案。転入予定日の数日前、学年道徳と銘打ち、朝に臨時学年集会を開きました。
「転入生は、自分がどう見られるか不安でいっぱいのはずです。その気持ちを理解してあげてほしい。東京は確かに感染者が多いけれど、感染の危険は誰にでもあります。決して東京から来るということだけで転入生を避けたりはしないでほしい」と話しました。生徒たちは真剣な表情で私の話を聞いていました。

 実は、私には、この集会で聞かせたかった話がもうひとつありました。担任の1人である若い教師トシオ先生の体験談です。
 「高1のとき、原発が爆発し、福島から東京に避難しました。ある銭湯で『福島ナンバーの方は入浴を控えてください』と言われ、どうして福島から来たというだけで差別されなければならないのかとショックを受けました」
 この話を聞いた多くの子どもたちは、「トシオ先生の話を聞いて、自分だったら心の傷になっていたと思う」「東京から来る転校生の子を心から受け入れてあげたい」などという感想を書きました。
 不安な気持ちをC組の担任に伝えたサチコも、「ほかの県から来た人でも、みんな同じ人間なのだから、そのことを受けとめていきたい。東日本大震災でも心が傷ついた人がいたということも実感しました」と書いていました。福島から東京に避難したというだけで差別されたトシオ先生の体験談は生徒たちの心に届いたのです。あわせて彼の次の話も、生徒たちの心に響いたのでした。
「別の銭湯に入っていたとき、放送が入り、『近所の人たちからトイレットペーパーや食料の差し入れが届いています。福島からいらっしゃったみなさん、入浴帰りに受付に寄ってください』と…。涙がでるほどうれしかった」
 この話についてある男子生徒は「2つ目の銭湯の話に感動した。こういう人が日本にもっと増えるといいと思った」と書きました。
 わずか10分あまりのミニ集会でしたが、意義深い道徳の時間になりました。その集会が功を奏したのか、転入生はみんなに温かく迎えられました。コロナ禍で起きた出来事がきっかけとなり、人権学習ができたのです。学校現場は、未だに厳しい状況におかれていますが、いのちと人権の学習はますます必要性を増していると思います。】
(P.160-161)   



 さて、本投稿の原稿である一太郎ファイルはすでにA4版39ページに及んでいます。学ばせていただいた文献の記述を、読者である私の牽強付会にはならないように丁寧に引用しながら自分のコメントを述べることを私の「教育学文献学習ノート」のスタイルとしているのですが、それにしてもあまりに多くを引用しすぎたかもしれません。
 ただ私としては、本書を通読した後に改めてふり返るときに、(抜粋引用を開始する直前に書いたように)本書の「語り伝える」というモチーフに一読者として大いに共鳴するところがあり、読者として伝えられた、受け止めたと実感する部分を改めて拾い上げる作業自体をこの「ノート」の中心にしようと考えたのでした。
 当初は、とにかく抜き書きする作業を続けていたのですが、途中から、抜粋部分の中で特に自分が強い印象を受けた部分、実際に読むときに黄色のマーカーで線を引いていた部分を、このノートでも黄色網掛けで表示することにしました。瀬成田先生に本書を読み終えたこと、いまコメント作業を中であるけれども、大半が本書からの引用になってしまいそうだとお伝えしたところ、「抜粋でも嬉しいです。客観的に自分の実践を見るために。」とお返事いただいたので、せめて自分の注目箇所を明示しようと思いました。

 最後に、読み進めながらおもしろいなと思ったのは本書の構成です。
  1章:2018~2020年    きずなFプロジェクト結成・紙芝居制作・上演
  2章:2016~2017年    語りを聴く・語り部誕生
  3章:2016~2018年  Fプロジェクトの誕生と活動
  4章:2015~2016年  向洋中1年の震災総合学習
  5章:2015~2021年  Fプロ・きずなFプロを支えた人たち
  6章:2021年              初代メンバーが高校を卒業
  7章:2020~2021年  最後の赴任校での出来事
 年代の後に付けたのは、本書の章タイトルと関係なく私が付けた内容要約です。
 編年的には、2015年度向洋中震災総合学習⇒2016.3.8Fプロジェクト誕生⇒2018.3初代メンバー中学卒業、「きずなFプロジェクト」と改称⇒2021.3初代メンバー高校卒業、となるのですが、1~4章はどちらかと言うと時代を遡る形で、まずはきずなFプロジェクトの旺盛な活動を紹介しながらその淵源を辿る形で叙述されています。中学生たち、後の卒業生達の活動の発展の経緯を淡々と辿るというのではなく、ユウミとミユウの双子姉妹をはじめとする中学生たち、プロジェクトメンバーたちの変化・成長を浮き彫りにしていくためにも敢えて編年体をとらなかったのかなと思いました。


 本ノートの最初の方で、2014年度前期~2017年度前期の私の三重大学教育学部「教育課程論」における東日本大震災学習のことを語り、その中での瀬成田先生との出会い・交流のことを語りました。
 実はそれ以降、私の東日本大震災学習実践は、新たな展開を見せていません。
 2014年度・2015年度は前期・後期の「教育課程論」を両方とも「東日本大震災」を全体テーマとして実施しましたが、2016年度は前期「教育課程論Ⅱ」で震災学習、後期『教育課程論Ⅰ」は2013年度以前の学習指導要領変遷史中心の概論的構成に戻しました。2017年度前期「教育課程論Ⅱ」は震災学習(この期に瀬成田先生の特別講義実施)、後期「教育課程論Ⅰ」は前年度と同じ概論的構成。そして三重大学在職最終年度となった2018年度の前期「教育課程論Ⅱ」は、冒頭で震災も扱いながらそこだけにとどまらず、「生と(性と)死の学習」を全体テーマとしました。これは、退職に先立つ10年くらい前から退職前には扱いたいと思いながら、教職カリキュラムの改変などに阻まれて扱えずにいた私にとって大事なテーマです。そして最後となる後期は、概論的構成にしました。
 そんなわけで、瀬成田先生をお迎えした2017年度後期以降は、2018年度前期の冒頭3回で、制野先生の「命と向きあう授業」を含む東日本大震災関連の3つのNHK番組を視聴し考えさせたくらいでとどまっています。京都橘大学・京都教育大学連合教職大学院には1年間しか勤務しなかったので、担当授業の中で震災を取り上げるところまで行きませんでした。その後の京都女子大学「教育課程論」では、非常勤講師としての教職科目担当の中で震災に特化した学習を行なうという判断はできず、取り上げられていません。
 そういうわけで、2015年の暮れにえらそうに「自分事宣言」なんてしながら、震災を学び震災から学ぶ私自身の実践は、2018年で停止しています。今後も、大学の授業の中で震災を取り上げる見通しは、残念ながらありません。
 ただ、思うのは、私の三重大学教育学部でのささやかな教育実践の中で2015年12月に4人、2017年6月に4人、計8人の三重大学教育学部生を宮城、岩手の被災地に引率し、学びを経験してもらうことができました。未災地住民による単発的なイベントであり、被災地地元のFプロジェクトの活動の足元にも及ばないささやかな試みでしたが、今は20代前半~後半になっている彼らの人生において何らかの軌跡として残ったのではないかと思います。だから何、ということもないのですが、自分事としてなにほどか被災地に関わる活動ができたということは、67年の私の人生の中では大きな記念碑となりました。
 Fプロジェクトで学んだ若者たちが、それぞれの人生を切り拓いていかれることを期待しています。

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