16 教育学文献学習ノート(28) 奈良教育大学付属小学校『みんなのねがいでつくる学校』(クリエイツかもがわ)

                             (2021.11.30刊行 2022.6.18-7.5通読 2022.7.7-7.8ノート作成)

 私と奈良教育大学付属小学校との間には、ちょっとだけ繋がりがありました。三重大学教育学部に赴任して4年目の1992年度、同僚の森脇健夫先生との合同授業で学生を引率して奈良教育大学付属小学校5学年の倉持祐二先生の学級を何度も訪問しました。地元奈良市の近郊酪農家の仕事を取り上げた社会科授業の観察などから始まり、ちょうど第6期小学校学習指導要領全面実施の年で、5学年理科に初めて「ヒトの誕生」が登場した初年度だったこともあり、三重大生たちが授業プランを作り、倉持先生の「ヒトの誕生」授業の一部分を(いろいろ経緯があって学生がではなく)私が飛び込み授業させていただきました。私にとってはこれがのちに三重大学教育学部附属小学校4~6学年での数次にわたる「ヒトの誕生」授業実施につながるものとなり、思い出深いです。その後三重大学教育学部には奈良教育大学付属小学校から橋本博孝先生が赴任され、橋本先生が三重大学教育学部附属小学校校長となられた時には、校長提案で各教科バラバラだった附属小の学習指導案形式を統一していくための研究会が附属・学部合同で行なわれ、私も委員として参加して大いに刺激を得ました。橋本先生は定年退職後引き続き特任教授となられましたが、その後病気で急死されました。まことに残念です。
 つい先日は関西教育科学研究会の研究会で奈良教育大学キャンパス内の付属小学校を訪ねました。たぶん倉持学級訪問以来30年ぶりだと思うので、懐かしいと思うような記憶は蘇りませんでしたが、休日の子どもたちがいない校内ながら廊下から教室をのぞくとなんだか楽しい気分になりました。「ああ、自分は学校を訪問することが好きだったなあ」と久々に思い出しました(今は大学へ出勤することはあっても、小学校を訪ねる機会が全くないのです)。

 さて本書をいまなぜ取り上げるかというと、私も参加している「子どもを語ろう会」という研究会の次の例会(7/10)で取り上げられることになっているからです。年数回開催されるこの研究会の春の例会で次に取り上げると決まり、早々と入手していたのですが、次の例会が迫ってきて慌てて通読しました。一言で言って、とてもすばらしい実践報告書・実践研究書です。
 本書の構成は、以下の通りです。

はじめに
第1章 みんなのねがい                        (入澤佳菜)

 子どもたちのねがい、おうちの方のねがい そして私たちのねがい
 この社会の中で
 「人間」を育てる
 子どものために
第2章 教科教育
 1 みんなで「わかってできる」をめざして-2年「鉄棒運動」の授業づくり(低学年・体育)                                                                                  (井上寛崇)

   子どもたちのねがい
   体育の授業でつけたい力
   体育科の系統
   2年「鉄棒運動」の授業づくり
   目の前の子どもたちとともに
 2 量分数の世界を子どもたちに- 4年「分数」の授業づくり(中学年・算数)
                                  (大谷陽子)

   「〇ブンノイチ」
   分数ってどんな数?
   子どもの発達と分数の学習
   中学年の子どもたちに出会わせたい量分数
   同分母分数の加減
   先へとつながる分数をみんなで
 3 目に見えない現象に揺れる子どもたち- 5年「溶解」の授業づくり(高学年・理科)                                                                               (勝原 崇)
   わからないに出会う子どもたち
   「溶解」の授業での子どもの姿
   理科の二つの学び方
   6年間を通して理科でつけたい力
第3章 教科外教育                                                 (入澤佳菜・鈴木啓史)
      多数決から見えたこと
   自治の力を育む
   6年間とその先を見通して
   「ねがい」を行動に
第4章 特別支援教育
 1 子どもの不思議を科学する- 教育実践の土台にあるもの     (池田 翼)

       子どもの不思議
   子どもの不思議を科学する
   子どもの発達
   発達の節
   「問題行動」と子どものねがい
   特別支援教育
 2 「鎧」を脱いで- 「学習室」に通ってきた子どもたち      (小野はぎ)
       「学習室」で大事にしたいこと
   「学習室」で支えたこと
   「学習室」にできること
 3 ことばを育てる、ことばで育つ- 特別支援学級で大事にしていること
                                 (北村直子)

      19クラス
   ことばの力を育てる
   長い見通しをもって育つ
   子どもたちの生活をゆたかなものに
第5章 “みんなの学校”                      (鈴木啓史)
       社会的な生き物としてのヒトと教育
   「個別-集団」の二項対立を越えて
   集団の中でこその学び
   <他者>と出会う
   声なき<声>に耳を澄ます
   「わかったつもり」を問い直す三つの<他者>
   「みんなちがう」からこそ<対話>が生まれる
   多様性に開かれた"みんなの学校"
   公教育の先に
解説 ねがいを育て、深め、みんなでみんなの社会をつくる  (神戸大学 川地亜矢子)


 さて、この体育、算数、理科、教科外活動、特別支援教育にわたる広い範囲の学校教育実践記録から、私が学びうることをどう切り出しましょうか。とにかく、気になる記述をピックアップしていくことにしましょう。

第2章 教科教育
1 みんなで「わかってできる」をめざして-2年「鉄棒運動」の授業づくり(低学年・体育)

2 体育の授業でつけたい力

【本校では、「できる」ということだけでなく、認識面への働きかけによって、「わかる」ことも大事にしたいと考えています。どうすれば上達するかが「わかる」ということは、自分の運動に対して見通しや期待をもってとりくむことにつながります。またその「わかる」中身が技術として正しく、科学的であれば、確実に「できる」に向かっていきます。体育の授業では、このように「わかる」と「できる」をつないでいくことが必要であると考えています。】(P.28)

【技術を情報として知る、または学習を進めながらその技術に気づいていくということは大事なことです。その先に、運動とのやりとりを介した、「わかる」という段階をつくっていくことが必要なのだと、今のところは考えています。】(同)

 ⇒体育科教育に疎いので、1970年代の学力論論議でよく飛び交った「わかる」「できる」が体育の指導に即して語られることに新鮮味を感じました。「できる」ということと「技術」が関係していることはどの教科でもそうなのでしょうが、体育では身体運動においてある行動の習得・習熟ということが例えば算数における計算能力の獲得(学習→練習→習熟)とまた違って、学習行動の過程の中に明確に越えるべき壁としてあって、それを越えることが次の学習の展開に繋がっていくというところに独自性があるんでしょうか?

3 体育科の系統
【体育科は同じ運動領域をくり返し学習するところに特性があります。(中略)
 このときに考慮しておきたいことは子どもの身体と認識の発達段階です。身体の発達については、感覚や器用さ、調整力に関わる神経系の発育する時期(低学年の時期)に、その発育を促すような多様な運動を経験することを大事にしています。また、認識面では具体から抽象へと認識が発達する中学年から高学年の時期に、体を動かすだけでなく、考えながら運動をすることも大事にしています(表1)。このように、子どもの身体と認識の発達段階を考慮しながら、系統的なカリキュラムづくりを進めていくとき、子どもの発達を「促す」あるいは、「引き上げる」という視点をもって学習していくことも必要だと考えています。】(P.29-30)

 ⇒体育において子どもの身体、身体能力の発達をよく見極めて学習指導を行なうべきことは知ろうとでもわかりますが、身体発達と認識発達の絡み合いをきちんと捉えるべきことについては、体だけで運動するわけではない以上あたりまえなのに、自分には持ち得ていなかった視点だなあと思います。

2年「鉄棒運動」の授業づくり
(1)器械運動の系統

【また器械運動は、「自分自身のからだに意識を向けさせ、自分の意志でからだ全体をコントロールする能力を養うことのできる教材」であるといわれています(高橋、1998)。したがって、「技」を学ばせるのではなく、「技」を通して非日常的な感覚や力を高めさせたり、身につけさせたりしながら、自分が意識したように体を動かせるようにしていくことが、器械運動で学ばせたいこととなります。
 「逆さになる」「回転する」などの感覚変化の体験は、器械運動のおもしろさの一つともいえます。神経系の発育する低学年の時期に、うんと経験させてあげたいことです。一方で、感覚変化は子どもの恐怖心につながる側面もあります。そのため、はじめから難しい技にとりくむのではなく、類似の易しい運動遊びによって、その感覚を身につけたり、技をスモールステップ化して系統的に学習したりしていくことを大事にしています。また、中学年から高学年にかけての時期は、運動力学等の科学性も意識しながらとりくむことで、身体・認識の発達を促せる時期でもあると考えています。より意識的に体を動かすことをめざして、授業づくりを進めています(表2)。】(P.30-31)

 ⇒当然と言えば当然の配慮ではありますが、前へ前へ!と運動能力を伸ばすことだけに注目せず、運動が苦手な子、体育が嫌いな子への配慮をきちんと指導の中に含めていることが大事だと思いました。
   経緯がきちんとわかるように紹介すると長大になってしまうのでやめますが、この後に登場する子どもの作文から、鉄棒がこわい、やりたくないと思っていた子どもが、スモールステップでの練習や友だちができた姿を見たことなどを契機に少しずつできるようになり、また次は支援なしにチャレンジしようとする姿などは、微笑ましくまた感動的です。


"2年生の"『さか上がり』
【「鉄棒運動」の技の体系からみると、『さか上がり』自体はあまり重要とはいえません。「発展性のある技とはいえず、わずかに後方支持回転との関連性が認められる程度で、あくまでも一つの上がり技として位置づけるべき」(高橋、2009)という指摘もあります。けれど、『さか上がり』は子どもたちにとって特別で、子どもたちが「できるようになりたい」と思う技の一つです。
 『さか上がり』ができない子の多くは、力の抜き入れがわからず、体のあらゆる部分に力を入れて解決しようとする傾向がみられます。できない子に「がんばれ。がんばれ」「もう少し」と声をかけ、何度も何度も同じ失敗をくり返させることは、「できなくなる」力や感覚をつけることになっている場合もあります。
 したがって、"2年生の"『さか上がり』は、『さか上がり』を通して「体を引きつける力」や「回転する感覚」などの力や感覚を高めていくことに重点をおき、そこで感じたことを言語化させていきます。そして、中学年以降で『さか上がり』にとりくむときに、「どこを意識するのか」に傾斜をかけて技術に迫っていくようにしています。】(P.35-36)

 ⇒へえ、そうなんですね。さか上がりは運動技術的にさほど重要なわけではないんですね。だけど学校文化的には、さか上がりができるようになることは子どもたちにとって重要な通過儀礼になっていますよね。それだけに、教師や友だちや親が《善意で》「『できなくなる』力や感覚をつける」ような《支援》をしてしまっているとしたら、悲しいことです。だから、できなくてくさっている子どもへの支援のしかたを含み込んだ指導法は魅力的です。



2 量分数の世界を子どもたちに- 4年「分数」の授業づくり(中学年・算数) (大谷陽子)
3 子どもの発達と分数の学習

【小学校6年間の子どもの認識の発達の過程には、「9、10歳の節」と呼ばれる飛躍の時期があります。自分を客観的に見ることができるようになったり、抽象的な思考ができるようになったり、個別ではなく、関係づけて物事を見ようとします。そして、一つの課題に対して自分なりの根拠をもちながらなかまとの話し合いで乗り越えようとします。中学年の2年間を続けて担任してみると、ちょうど4年2学期ごろでしょうか。子どもたちの言うことややること、考えること、周りの見え方などに少しずつ変化が見られ、(うわ、もう高学年やなぁ)と驚かされる場面が急に増えてきます。その頃を境目にして小学校6年間を前半期と後半期に分けて見ると、子どもの認識の発達に伴って、算数科の学習内容の質も大きく変化していることがわかります。】(P.53)

 ⇒私には算数の学習場面の具体を的確に取り出してコメントする才がないため、どうしてもこうした一般化の箇所に目が行きます。中学年を持ち上がり担任されているという、近年の公立小学校ではあまりないであろう条件もあってでしょうが、子どもと長期的に継続的に関わり、観察を続けている学級担任教師ならではの知見が示されていますね。伝統的に言われてきた「ギャングエイジ」発生時期などともある程度重なっているんでしょうが、4年生2学期を境目として1学期との違い、3学期との違いを意識する、さらに4年2学期を小学校6年間全体の節目と見るということは理論的にはこれまでもそれに近いことが言われてきたとしても、実践的には学校教師集団全体での子ども把握の相互交流なしには明らかにできないことでしょう。

4 中学年の子どもたちに出会わせたい量分数
(5)教具で理解を支える

【量分数の学習では、たくさんの教具を使います。既製のものもあれば、手作りのものもあります。特に手づくりのものは、できるかぎり子どもたちの手で作るようにしました。手間も時間もかかります。作ったけれども、授業では1、2時間ほどしか使わないこともあります。それでも教具を作っているときや使っているときに、子どもたちが分数に関わる何かを発見し、学ぶことはたくさんあります。それが子どもたちの学びや理解を支えているなと実感することも多いのです。】(P.61)

 ⇒教具。既製のものもいろいろあり、今はネット上で簡単に入手できるものもあるでしょう。効率的・効果的に「教える」ことだけを考えれば、「手づくり教具」の価値はわかりません。「手づくり」の主語を教師と考えれば、多忙の中避けたくなるのもわかります。しかしここでは「できるかぎり子どもたちの手で作る」とあります。そこでは教具は、単にあることを知る、理解するための手段ではないんだと思います。世界について知るための媒介項を子どもみずからが設定する作業だと思うのです。既製教具で学習していれば同じ時間で数倍の学習情報を得ることができるかもしれないけれど、そのやり方では得られない《自分自身で世界を知るための模索の経験》を手づくり教具づくりの活動はもたらしてくれるんじゃないでしょうか。



3 目に見えない現象に揺れる子どもたち- 5年「溶解」の授業づくり(高学年・理科)
(勝原 崇)

 ここでは、ゆかさんという一人の子どもの学習感想の変化をピックアップしてみます。
1 わからないに出会う子どもたち
2 「溶解」の授業での子どもの姿
1時間目>>> 『とける』を考える
2時間目>>> 食塩(A)とでんぷん(B)を水に入れると
3時間目>>> べんがらと二クロム酸カリウムは溶けているか

溶けたとはんだんするのは、私できなさそう。今までの理科は絶対条件にあってないといけなかったけど、今回は条件にあっていなくても溶けている物もあるから。これからいろんな物を溶かすと思うから、徐々に判断できるようになりたい。         -ゆか
 ゆかさんは色がつくことによって、透明=無色ではないという事実に出会います。無色と有色、透明と不透明についても子どもたちの中では、混乱しやすいことのようです。】(P.79)
4時間目>>> でんぷんと食塩の入った水から食塩水をとり出す
ろ過するのに使った、ろ紙にでんぷんが固まっていた。ろ紙にあいている穴は見えなかったけど、1億分の1cmって針をさしたときの穴より小さいのかな。ろ過する道具があればきたない水→きれいな水にできるかな。                                                        -ゆか
 ゆかさんは、目に見えない物をまず目に見えるもので置き換えて考えています。目に見える物がわかることから目に見えない物がわかるためには思考の飛躍が必要です。そのため、ゆかさんが、まず目に見える物に置き換えて考えているというところを大事にしたいと思います。】(P.79-80)
5時間目>>> 水に溶けた食塩を取り出す
いまいち理解できない。なんで蒸発したらかわくのか……理解しないとよくわからへんから理解できるようになりたい。あと、溶けて見えない(消えた)のに水がなくなれば塩が残るのか不思議。塩は溶けてないのかな。                                                     -ゆか
 ここで、ゆかさんは溶けるとはどんな状態なのかと考えを深めています。いまいち理解できない、とありますが、わかりたいという強いねがいがこもっているように思います。ゆかさんは溶けて見えない(消えた)のにもかかわらず、水が蒸発をしたら、塩が出てくる。この授業のときに、溶ける=消えるのイメージが崩れ始めたのです。】(P.81)
3 理科の二つの学び方
6時間目>>> 水に溶けた食塩はビーカーのどこにあるか

とけて見えなくてもバラバラになって水の中にいることが分かった。なんかだんだん「とける」ってどんなことかわからんくなってきた。だってとけたのに本当は水の中にいて、バラバラになっているし、消えて水と一緒になったのにおかしい。                     -ゆか
 冒頭にふれた、ゆかさんのふり返りはこの溶けた物の均一性を扱ったときに出てきたものです。溶けるとは何か?を問い続けながら学習しているゆかさん。ゆかさんは、前回の授業では消えた(なくなった)と考えていたのが、水と一緒になったと、ビーカーの中にはバラバラの形で存在しているという見方に変わってきています。学習を積み上げることによって、目に見えない物が思考の中で立ち上がっているようにも思えます。】(P.85-86)
8時間目>>> 水500gに食塩30g溶かしたときの重さは何gか
溶けても重さはあることが分かった。「溶解」というのはその名の通り「溶けながら分解されている」のかな。分解されただけやったら、重さも残るかな。水はただ食塩を消したんじゃなんくて、分解していると考えたらいいのかな。                                    -ゆ
 ゆかさんがもっていた水に溶けるのイメージは水の中で消えるから始まり、水と合体するというイメージに変わり、「溶けながら分解されている」というイメージに変わりました。自分のもっていた溶けるイメージでは説明できない事実と向き合い、イメージの変換を求められ続けてきたゆかさん。「溶解」という目に見えない現象がわかるとはこのようなことを指すのではないでしょうか。】(P.88)

 ⇒実験や討論などの学習過程を全部省略してゆかさんの感想だけ紹介しても、読者にゆかさんの認識過程を背景にある学習活動も含めて的確に理解していただくことはできないとは思いますが、学習内容の具体を捨象してもゆかさんが迷ったり行き詰まったりしながらもなお「溶解」を究明して自分なりの考え方を持とうとしている姿がすばらしいと思うのです。そして、唐突ですが、こうした探究の姿は生活綴方を通じて子どもが自らの生活、周りの世界を把握したりそれについて考えを持ったりする認識活動とは(いずれどこかで繋がってほしいけれどもこれ自体は)異次元の教科学習ならではの、つまり教師による周到な教材研究が背景にあり、そうして用意された学習過程に子どもたちが主体的に参加し、共同作業を行ない、相互に意見交換を行ないつつ試行錯誤を通じて自分自身の認識を練り上げていく共同的な科学的認識形成過程であると考えます。子ども自身が試行錯誤的に生活世界を把握し認識していく生活綴方的な認識も大変重要なのですが、そのこととゆかさんやクラスの子どもたちが辿った実験と討論と振り返り感想の連続としての学習過程はやはり質的に違います。私の荒っぽい捉え方としては《両方の過程が並行的に走ること》が必要であろうと思います。



第3章 教科外教育                     (入澤佳菜・鈴木啓史)
1 多数決から見えたこと
【私たち大人が効率を求めて、子どもたちに「すぐ多数決してもだめ。賛成意見と反対意見を言って、話し合うんだよ。多数決は意見を出し尽くしてからするものだよ」と教えることは簡単です。でも、そうやって大人にこうあるべきと示されても、子どもたちはわかりません。わかった気にはなるかもしれませんが、本当の意味でわかるわけではないのです。自分たちでやって、つかみ取っていくもの、それを保障することが学校で必要だと思うのです。】(P.94)

 ⇒私は昨年来、入澤佳菜先生の実践報告「社会をつくる 子どもも私も」(『教育』No.897  2020.10)・「子どもたちと私の2.28」(全日本教職員組合『月刊クレスコ』No.230  2020.5)を読み、京都女子大学「教育課程論」・新潟大学「教育課程及び総合的な学習の時間の指導法A」でも紹介してきました。本書に出てくる体育大会種目の「リレー」「大縄」をめぐるエピソードは上述のうち前者の報告にも出てきます。本書の前出の記述の後に、大縄かリレーかの議論の後に【それ以降、この子どもたちは多数決を使わなくなりました。話し合いで意見や反論を出し尽くした上で決定をすることをめざすようになっていったのです。】と記されていることに私は驚きました。議論を尽くしたら最後は多数決と考えるのが「一般常識」です。しかしこの子どもたちは全員納得して一致できるまで議論を尽くす道を選んだのです。
 そしてそういう子どもたちだからこそ、2020.2.27に安倍晋三首相が「全国一斉休校要請」(後世に残る大失策だと私は思います)を出し、小学校卒業前の大切な期間が一方的に幕引きされようとした時に、「憲法に反する要請に対して異議を唱え、いつも通り学校に来たい人」と書いた署名運動に立ち上がったのです。しかし国立大学法人大学の付属校という複雑な状況もあり、子どもたちがこの署名の提出先として描いていた大学に署名を届けることもかなわず、入澤先生は苦渋ととも
に「これまで、ずっと民主主義を学んでほしいと、要求を持ち実現することの意味を伝えてきた。でも私たち大人はそれにこたえることができなかった。教員集団としても、この社会のつくり手としても。」(P.27)と総括しています。
 かなり本書からはみ出して記述してしまいましたが、《自分たちの生活に関わることについて議論を尽くして納得して自分たちで決めたい。自分たちに関わることなのに一方的に上から決定されるということには同意できない》という民主主義の行動ルールやモラルを小学校時代に実践を通じて学んだという経験は、きっとこれからの成長過程ややがて来る主権者としての社会生活に生きるだろうと思います。


3 6年間とその先を見通して
【1年生では、入学してきたその日から、「あいぼう」として6年生との1対1のかかわりが始まります。「あいぼう」というのは1年生と6年生のペアのことです。教員やおうちの方といった大人ではなく、子ども同士のかかわりを通して、1年生は学校での過ごし方に見通しをもっていきます。その中で、他者を意識し、「自分もああなりたい」というねがいがもてることを大事にします。
 また、少し年上の2年生とのあいぼう関係もつくります。少し先の自分の成長も見通します。】(P.97-98)

【2年生では、学級での係活動が始まります。当番活動とは違い、自分たちが「ねがい」をもち、それを実現するのが係です。自分の好きなこと・やりたいことを通じて小規模なつながりをつくる「この指とまれ式」の活動です。(中略)
 また、時には「おたんじょうび会」のように毎月数人の実行委員で行事をつくることを通して、集団にはたらきかける経験を積み重ねていきます。(中略)そういう決まった枠組みの中で、見通しをもてることに安心して「クラスのみんな」を意識する経験を積み重ねていきます。】(P.98)

【3年生では、係活動をさらに発展させていくことになります。学級集団を視野に、呼びかけ・はたらきかけを行っていくのですが、その際にそれぞれの係が「どんな学級(集団)にしたいか」というめあてをつくり、それを意識しながら活動を行っています。(中略)もちろん、そのめあてと活動が結びついていないこともあります。やりながらだんだん、みんなの姿が見えるようになっていきます。】(P.99)

【4年生でのとりくみは、学級内の係活動に加え、学級外の他者へと意識を向ける活動を指導者側からしかけていきます。特別支援学級(19クラス)の子どもたちとの交流行事や、夏休みの自由研究や自由作品を持ち寄った「4年生自由研究・作品展示会」をつくっていきます。
(中略)こうやって、やりながらわかっていきます。今まではたらきかけてきた学級のなかま以外の他者に出会い、他者のことを考える経験をするのです。
 このようなとりくみは、必ずしも子どもから「これがしたい」と出てくるわけではありません。特別支援学級との交流行事にしても、子どもたちが特別支援学級を常に意識していてなんとか仲良くなろうといつも思っているわけではありません。ですが、指導者側が設定した課題が子どもたちの課題に合っていたとき、子どもたちは自分たちで「したい」と思ってとりくみます。そのための教員の指導性を考えたいと思います。】(P.100-102)

【高学年になると、学年から全校、そして社会へと視野を広げていくことを目指します。
 5年生では、学年で活動する「学年タイム」という時間を設定して、自分たちでどんな学年になりたいか。そのために何をしたいかを考えながらつくっていきます。5年委員を学級から出し、その5年委員がみんなの要求を集め、進めていく、という民主主義の進め方を経験する時期でもあります。リレー大会、王様ドッジボール大会など小さな会の積み重ねで、学年みんなで話し合うことを経験していきます。(中略)
 2学期には、体育大会の委員会に入り、6年生と一緒に全校にはたらきかける経験もします。
 そして3学期には、全校を意識したとりくみを自分たちで行います。これまで6年生が進めていたたてわりグループを5年生が進めるのです。自分のグループの1年生から6年生を思い浮かべて計画し、実際にはたらきかけます。6年生になるために、グループをまとめる力をつけたい、と子どもたちは張り切ります。一人ひとりが1年間でがんばったことのカードをつくってみんなで遊ぶ神経衰弱。大学内のチェックポイントをグループでまわるスタンプラリー。ビー玉でオリジナルの車をつくりみんなで走らせるビー玉工作。毎年いろいろな会がつくられます。ただみんなが楽しいというものではなく、児童会のめあてにそった活動づくりを通して、全校へと視野を広げていきます。】(P.102-104)

【6年生になると、いよいよ児童会づくりを最高学年としてリードしいていきます。児童会づくりを進めていくために、児童委員を選挙で決めます。6年生全員が委員会に入ります。子どもたちが全校にとってどんな委員会が必要かを話し合い、決めるところから始めます。1年間委員会の意味を考えながら、ねがいをもち活動をつくっていくのです。全校のなかまにはいろんな子どもたちがいます。その中で、どの子にもはたらきかけるためにはどうしたらいいか、話し合い、やってみて、葛藤しながら、全校集団を発展させていきます。また、あいぼうをむかえたり、たてわりグループを組織したりして、他者の立場を考えながら集団性を高めていきます。1~5年生は、6年生のはたらきかけに応えながら、児童会を担う一員としての経験を重ねていき、また、自分たちが6年生になったときに全校集団にはたらきかけていくことになります。】(P.105)
【6年生が全校集団にはたらきかける際には、平和学習を通して社会にも目を向けて、そのまなざしで自分たちを見つめ直すことも大切にしています。6年生は1年間かけて、平和学習にもとりくんでいきます。広島に修学旅行に行き、被爆者の方たちに出会います。旧陸軍被服支廠や原爆ドームという被爆建物の声なき声を聞きます。広島で直接学んだことから、自分たちも平和への行動をと考えるようになります。「戦争はいけない」「平和な世界になってほしい」というねがいをもつだけでなく、自分たちに何ができるかという行動までも考えるようになっていきます。それは、6年間の教科外活動をつみかさねることで、はたらきかけられることへの信頼、はたらきかけることへの自信を得ていくことが大きいと思います。自分たちの行動で、確実に何かが変わるという経験が、学級へ、学年へ、そして全校へと広がる先に社会へのまなざしがあるのだと思います。】(P.108)

 ⇒なるほど。こうした6年間を見通した人間関係づくり、集団行動の中での自己形成、異学年の関係も含めての成長経験の蓄積があり、そして6年生では社会科の中での憲法学習の成果もあって、先に紹介した2019年度6学年入澤学級の子どもたちの「突然の休校決定は憲法違反で従えない」という署名活動が実現したんでしょうね。学校生活の範囲での集団の中での成長実感と対比すれば、社会に向けての行動は結果が思うに任せないという挫折感もあるかもしれません。そこは中学校以降の自治に関する学習と行動経験へとつながっていく必要がありますね。



第4章 特別支援教育
2 「鎧」を脱いで- 「学習室」に通ってきた子どもたち   (小野はぎ)
 
2 「学習室」で支えたこと

(1)困っているところを支える
【全校を見渡すと、発達障害の診断を受けている子どもは何人もいます。近年は、放課後等デイサービスを利用している子どもたちも増えてきました。その多くは、学級集団の中で授業者の工夫や配慮による支えのみで学んでいます。通級指導の対象は、これまで、診断の有無ではなく、集団で学ぶときにどれだけ困っているかで決めてきました。どんな子を対象にどんな指導をすると決めておくのではなく、そのときにいちばん困っている子を、まずは受けとめて、学びを保障しよう、というスタンスです。】(P.132)

(2)自分なりのがんばり方を見つける- 中学年期を支えて
【通級を始めてしばらくは、その子の好きなことでゆっくり遊んだり読み聞かせをしたりするなかで、話をし、それぞれの課題をつかむようにします。一対一で関わり始めると、みんな、離席や退室をくり返すときの激しい言動とは違う表情を見せ始めます。目立っていた行動の背景に、自分の気持ちを表現する語彙の少なさや、コミュニケーションの困難さがあったこと、「やるもんか!」「いやだね!」と言っていたことは、本当は「やりたい」「できるようになりたい」ことだったこと。大人をばかにしたような言動に腹が立つこともしばしばでしたが、だんだんと、その裏で本当は彼らこそが困っていたのだと気づかされるのでした。】(P.134)

【一度できないと思うと「いや」と言ってとりくまない子は他にもいました。「日記はいや」と苦手意識を強く出してくる子に、「みんなに伝えたいと思う『ニュース』を書こう」ともちかけてノートの表紙に「ニュース」と書いたこと。社会見学旅行のまとめを『ムリ』と抵抗していた子に、写真を見てふり返り、写真にコメントを一行ずつ書く形にしたこと。通常学級ではできないような大胆な変更も学習室では可能です。その子がなぜ「できない」と感じているかに寄り添って、「できる」と思える方法や分量を探り、実現する努力をしました。学級活動や行事への参加の難しさも、必要に応じて間接的に支えました。
 子どもたちは、「どうせみんなと同じようにでけへん」とあきらめていたことでも、柔軟に方法を変えてとりくむことで、「おれもできた」「できる方法がある」と実感していきました。そうすると、どの子も言動が穏やかになります。その姿に、できない自分のことがつらくてとがっていたのだな、認められたら安心するし、できる喜びはこんなに大きいんだなと、気づかされました。】(P.138-139)

(3)しんどいことをはき出す- 中学年期から卒業までを支えて
【低学年の頃とは違い、自分の席でみんなと同じことに向かえるようになった。なのにうまくいかない。できないことが多いのです。そのことに苛立ち始めましたが、そのときの彼らのプライドはもう、クラスで席を立ったり、みんなと違う行動をとったりすることを許しません。そして、たまるイライラを抱えて学習室に来るようになりました。一度は穏やかに過ごせるようになった時間をお互い経験しているので、私はそれに加えて高学年らしさを求めます。彼らは、高学年としての不安や嘆きを素直に表せずに反発します。ふり返ると、中学年の頃のように「〇〇ができるようになりたい」と単純に語れるねがいではなくなり、自分でねがいが見えにくくなっていたのではないかと思います。】(P.142)

3 「学習室」にできること
(2)役割

【通常学級の担任として集団と向き合っているときには、激しい言動はまず止めなければならず、その裏にある叫びのようなねがいを聞き取る余裕はもちづらいです。わからないという静かな叫びにも気づきにくく、気づいてもそのすべてにすぐに応えることはできません。私は、学級担任の経験を思い出しながら通級指導を担当するなかで、担任ではない立場で個別に支える立場の人間が必要だと感じることが多かったです。その子の困っていることをつかんで共有していくことで、その子のことはもちろん、その言動や対応に悩む担任や保護者のことも少し楽にできるのではないか、また、そうありたい、と思ってきました。
 課題の大きい子どもたちが通ってくる学習室では、自己肯定感を保ったり、自信をつけさせたりすることを目指しますが、それぞれの抱えている困難を完全になくしてしまうことはできません。むしろ、本人とともに困難さを明らかにして、この先その困難を抱えてどう過ごしていくかを考える場所であると思います。】(P.148)

 ⇒学習室に来る子どもたちにとって、まずは安心していられる居場所があることが重要なんでしょうね。暴言を吐いたり暴れたりということもあったりしながらも、そういう行動をとることを含めて自分を受け入れてくれる場所があり、指導者がいることが大事なんだと思いました。
 ※特別支援教育については、全体として納得しながら読んだものの、長い紆余曲折のある指導の過程のある部分を取り出して自分なりのコメントを書くことができませんでした。



第5章 “みんなの学校”         (鈴木啓史)
3 集団の中でこその学び

【集団の中では、この子だから問題が起こるが、別の子であれば問題にならないというような出来事があります。これは、その問題が、その子の発達課題に応じて立ち現れるからです。集団の中での体験は、このように個々の発達課題に応じた経験として顕在化します。こうした経験をしっかりと「学び」としてくぐらせることも大切なことです。ともすれば指導者は、「問題が起こらないように」「つまずかないように」「もめごとにならないように」と先回りをして、つまずきそうな箇所に予防線を引いたり、もめごとにならないようにレールを引いたりしてしまいます。しかし、集団の中での学びには、個々の発達課題に応じた最適な学びの機会が既に含まれています。指導者はそれらを組織し、しっかりと向き合わせる。それこそが「集団の中で(こそ)の個別最適な学び」だと言えるのではないでしょうか。
 「"個別最適化"の何が"最適"か」と問う前に、「そもそも誰にとっての"最適"か」という問いを考えなくてはなりません。当然それは学習権を有する子ども自身であるはずです。であるならば、その"最適化"のプロセスは子どもの内面に形成されなくてはならないと思うのです。集団の中での体験は、子どもにとって自己の発達課題に応じた、自分にとって必要な経験として立ち現れます。そのときに、その経験をくぐり、その状況を乗り越え自己を発達させる力、いわば「最適化する力」は自己の内面に育てられるべきでしょう。それは教科教育でも、教科外教育でも同じです。】(P.183-184)

 ⇒全面的に賛成です。そもそも個にとっての「最適な学び」を政策側が云々すること自体が不自然だし、また「個別最適な学び」と「協働的な学び」を並列してセットにしようとすること自体がいかにも弥縫策的です。



 さて、冒頭で「とてもすばらしい実践報告書・実践研究書」であると感想を述べ、その後「気になる記述」(共感した箇所)をピックアップする作業をしてきたのですが、われながら本書が「すばらしい実践報告・実践研究」であることを浮き彫りにするような「学習ノート」にはなっていないと痛感します。それは冒頭に書いた遥か30年前の訪問以来、私が奈良教育大学付属小学校を再び訪問してその実践、学校生活を直接目にすることをしていないことが大きな原因ではないかと思います。豊富な実践の蓄積から代表的な一部のものを選択して公表された本書の中から、自分個人の関心を引いた箇所を一部引用紹介しただけなので、私のこの「学習ノート」によって奈良教育大学付属小学校の実践の「良さ」が読者に伝わることは、残念ながらない可能性が大きいと思います。ただ自分自身にとっては、社会科教育とか性教育とかに領域を限定せずに一つの学校の教育実践の様々な領域からの実践報告を学ぶことができたことは、大きな刺激になりました。
 全校での実践研究というのは、本校をはじめとする国立大学法人大学の付属学校には宿命的・ルーティン的に課せられているものでしょうが、公立学校においては、研究指定を受けた場合などを除き「日常」ではないでしょう。もちろん公立学校においても「上から課せられている課題」「報告を求められるもの」は多々あるだろうし、また定例的な校内研修も行なわれているだろうと思うのですが、全校の全ての子どもたちを念頭に置き、学年進行に従っての活動の順次性や発達段階・発達課題を意識した指導とその分析を全校教師集団が連携して行なうということは、教師の仕事の多さ、過重労働状態を考えても公立学校ではなかなか困難なことでしょう。本書では奈良教育大学付属小学校の校内研究体制については取り立てての説明がありませんが、おそらく私が上記で描いたような全校連携による教育実践研究が行なわれているのではないかと想像します。

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