17 教育学文献学習ノート(29)岸本清明『希望の教育実践 子どもが育ち、地域を変える環境学習』(同時代社)
(2017.5.2刊行 2022.6.7-21通読 2022.6.27-7.20ノート作成)
岸本清明氏は1951年兵庫県生まれ。2011年に兵庫県公立小学校を退職されています。
私は1983.4-1986.9の3年半、神戸大学の教員(文化学研究科助手)でした。杉山明男教授のもと、文学を中心とする授業研究の修業?や学生指導のお手伝いをしていました。当時岸本先生は加東市内の小学校に勤務されていた時期でしたが、残念ながらお会いする機会がありませんでした。
岸本氏は、吉益敏文氏が毎月編集・発行して下さっている京都教科研通信の読者です。京都教科研通信第351号(2022年5月)に岸本氏のご投稿「通信350号を読んで 戦後教育学について」が掲載されました。その中で岸本氏は京都教科研2022年3月例会(神代健彦編『民主主義の育てかた』所収の神代論文「教育的価値論」を検討しました)の神代氏報告と私の「指定討論」について感想を述べていただいています。このことについていずれお礼を兼ねて岸本氏に連絡させていただかなければと思っていたところ、今度は吉益敏文氏が、ご自分宛に届いた岸本氏のメールの中で、京都教科研通信352号(2022年6月)掲載の私の連載「神代健彦編『民主主義の育てかた 現代の理論としての戦後教育学』(2021) (その5)第8章 民主教育論-身に付けるべき学力として(中村(新井)清二) 【5回中の2回目】」について感想を書いて下さっているからというので、岸本氏のメールを私に転送して下さいました。そこで私は吉益氏にお願いして岸本氏のメールアドレスを教えていただき、お礼を兼ねたメールを出そうとしたのですが、そこではたと考えたことがありました。
岸本氏は(吉益氏が転送して下さったメールの中で)私が連載の中村清二論文検討(この「教育学文献学習ノート」シリーズの(22-1)として書いた文章を再構成したものです。原文は本ブログの第3投稿⇒ https://gamlastan2021.blogspot.com/2021/09/322-2021.html )の中で城丸章夫の「概括」概念について取り上げていることに注目していただき、次のように書かれています。私の文章について、吉益氏へのメールの中でお書きになっていることではありますが、すでに公表されている教育実践についての文章であり、また私にとってはこの「ノート」を書くきっかけとなった文章でもありますので、岸本氏のお許しを得て一部に限って再録させていただきます。
「私は1998年に、地元を流れる東条川を教材にした総合学習に初めて取り組みました。その際に、様々な活動をする度に、『自分たちの学んだこと』を一人一人が作文に書き、それを読み合いました。この過程で、半分ぐらいの子どもたちは、自分たちの学びの価値に気づきました。その後、隣のクラスや全校生、市役所の方に対して、自分たちの学びを報告する機会をそれぞれ作りました。その度に、ペープサートや紙芝居、実験など、自分たちの班の得意な方法で報告するようにしました。その過程や他の班の報告を聞く中で、大方の子が自分たちの学びの価値を理解していったのです。つまり概括ができたのです。」
この「概括」を巡っては、京都教科研の別の会員の方からもご意見をいただいていますので、私の京都教科研通信での連載の中村清二論文を取り上げた全5回が終了した後に、補足としてもう1回を充てて改めて書こうと思っています。
ところで、先に岸本氏にメールを出そうとして「はたと考えたこと」というのは、私の連載のことではありません。連載へのコメントを下さった岸本氏がご自身のかつての教育実践と関連づけてご意見を書いて下さっている以上、その実践をさておいてコメントへのお礼だけを述べるのは失礼ではないかと考えたわけです。そこで6月初めに本書を入手し、通読しました。読み終えた段階で6月21日に初めて岸本氏にご挨拶のメールを差し上げ、以来交流を続けています。最初に吉益氏経由で岸本氏のコメントを受け取ってからすでに1か月半も経ってしまいました。
本書の構成は以下の通りです。
はじめに
序章 私の環境学習の舞台
1 東条川と東条の集落
2 もう一つの舞台「鴨川」
3 当地方の1960年代頃までの子どもたちの1年間
4 現代農業と子どもたちの暮らし
第1章 東条川学習の始まり
1 大変だ。5年生の片方のクラスが崩壊した
2 6年生担任が決まらない
3 打つ手がことごとく失敗する日々
4 東条川を見て閃いた
5 ミネラルウォーターはなぜうまい
6 水道水はなぜまずい
7 東条川は汚れているのか
8 東条川の再調査
9 東条川を汚すもの
10 川を汚さない生活を
11 自分たちだけで東条川をきれいにできるか
12 隣のクラスは協力してくれるか
13 保護者の協力は得られるか
14 とてつもない教育をやりとげた
15 全校生に訴える
おわりに
第2章 東条川学習の誕生まで-岸本清明・安藤聡彦との対話から
1 「教育加東」で育つ
2 神戸大学教育学部へ
3 子どもたちに受けいれられる経験の大きさ
4 農村社会で生きるということ
5 教員になって
6 職場の外に学びの場を求める
7 子どもが成長している実感の持てなかった時代
8 「ほんものの教育」への模索
第3章 東条川学習の発展
1 私自身の東条川学習の発展
2 東条川学習の全校実施
3 東条川学習のカリキュラムができた
4 PTAと地域も参加
5 東条川学習の成果
6 東条川学習の成果をもたらしたもの
第4章 小規模へき地校での実践
1 鴨川地区と鴨川小学校
2 山紫水明の学校で、環境学習はなりたつのか
3 野鳥を教材にした環境学習
4 サワガニを教材にした2・3年生複式学級での実践
第5章 環境学習の何が大切なのか
1 総合的な学習の時間が提起された背景
2 総合的な学習が本格的に展開されなかったわけ
3 なぜ総合的な学習の時間なのか
4 どうして環境学習なのか
5 なぜ地域に教材を求めるのか
6 総合学習の手法で展開する環境学習が培う力
7 子どもを育てにくい従来の教科学習の背景
8 ほんものの先生としての再出発
第6章 環境学習をどう作るか
1 地域にある素材を一つ選び、教材とする
2 子どもを学習主体とする
3 学習課題の設定とその追究法
4 地域や行政の人、専門家の参加
5 子どもが周りに働きかけ、問題解決に向けた行動をする
6 学んだことを保護者や地域に返す
7 総合的な学習の時間を使う
8 教員が教育方法を転換する
謝辞
補論1 岸本実践における「総合性」-その希望 金馬国晴
補論2 岸本実践を発展させる
子どもたちの"目"が語る総合的な学習の在り方 黒田浩介
私と総合的な学習 小林豊茂
詳しい目次ですから、これだけでも岸本氏の環境学習実践とそれに対する自己分析の概要がある程度わかります。
序章 私の環境学習の舞台
まず序章では、岸本氏の環境学習実践の舞台となった東条川と東条地区、鴨川と鴨川地区が紹介されます。かつて神戸大学に3年半勤務した私ですが、助手の立場では兵庫県内を教育実習生訪問のために行脚するという機会もなく、故・杉山明男先生に同行して先生の教え子さんたちの文学の授業を見学したり、土屋基規先生のゼミによる但馬・府中小の調査に同行させていただくなどいくつかの貴重な経験はしたものの、本書における岸本実践の舞台となった加東地域には恐らく足を運ぶ機会がなかったと思います。本書のこの部分を読みながら、Google mapで兵庫県加東市を調べてみました。広島県神石高原町の義母宅を訪ねる際に利用する山陽自動車道三木SAから十数キロほど北方向のエリアだということはわかりましたが、土地勘は全くありません。でもその点はどうしようもないので話を前へ進めます。
東条地区は【瀬戸内式気候の少雨地帯】(P.16)にあり、過去熾烈な水争いもあったが、【農村風景はいたってのどか】(同)と紹介されています。鴨川地区はかつての【「丹波道」という宿場村】(P.17)や【「播州清水寺」の門前村】(同)として栄えた地域であり、東条川支流の鴨川には多くの野鳥や昆虫が棲息すると紹介されています。
さて私がこの章で大変おもしろいと思ったのは、上記の地域のプロフィール紹介に続く以下の部分です。前出の目次には現れない細かい見出しと、文章もちょっとずつ紹介します。
3 当地方の1960年代頃までの子どもたちの1年間
(1)待ちかねた春
【堤防に植えられたサクラが一斉に咲く頃には、春風が頬に心地よかったです。川に注ぎ込む溝を少し遡って、石をめくるとサワガニが動き出しました。しかし、その水はまだ冷たかったです。】(P.18)
(2)厳しい労働の初夏
【田植え準備の前には、村中総出で用水路の泥上げをします。大人たちが溝から上げる泥の中に、ドジョウやフナ、タナゴやエビ、シジミやドブガイがたくさんいました。それらをバケツに入れて持ち帰るのが楽しみでした。(中略)
田植えは足腰の痛くなる過酷な作業です。広い田は朝から晩まで苗を植えても終わりませんでした。家族だけでは人手が足りないので、田植えを終えた遠くの村の人に応援を頼みました。日数がかかる田植えの最中には、小学校は農繁休暇になりました。】(P.19)
(3)1日中川で遊んだ夏
【上級生が古い自転車のスポークを外し、その先をハンマーでたたき、道路のコンクリートで磨いて銛を作りました。それから、自転車の古いタイヤチューブももらってきて適当に切り、それを竹の筒に取り付け、ゴム仕掛けでスポークの銛が飛ぶ水中銃を作りました。多くの子どもたちが、上級生に教えてもらって水中銃を作りました。それを手に川に入り、石の間に潜むフナを見つけ、撃ちました。見事に命中した時の快感は忘れがたい記憶となりました。もちろん捕ったフナは持って帰り、煮て食べました。】(P.19-20)
(4)手伝いに励んだ収穫の秋
【ヒガンバナの咲く頃には田から水を落とし、稲刈りに備えました。10月に入ると、たわわに実った稲穂を一株一株鎌で刈り、わらでくくって束にして稲木に干しました。これも腰の痛いつらい作業でした。稲穂の感想が進んだ頃に、脱穀機で脱穀をして、穂からもみを取り離しました。もみを持って帰り、むしろに広げ天日に干して乾かしました。それが終わると、もみするをしてもみがらを取りのぞき、玄米にしました。(中略)
稲わらは田の隅に高く積みあげ、牛の餌用として確保しました。残ったわらは、堆肥にしたり、牛の寝床に入れたり、畑の野菜の下に敷いたりして、無駄にするものは少しもありませんでした。
刈り取りの終わった田を歩くと、湿った所に小さな穴を見つけました。そこを掘るとタニシが出てきました。持ち帰って炊いて食べると、とても美味しかったです。これも貴重なタンパク源となりました。
また、ため池の水を全て落とし、魚を捕る行事も楽しみでした。水の少なくなった排水口付近には、大きなコイが何匹もいて、大人も子どもも泥だらけになって夢中で追いかけました。】(P.21)
(5)子どもは風の子
【冬になると、ため池や川の流れのない所に氷が張りました。その上に石を投げると、キュンキュンキュンと音がして石が滑っていきました。氷の割れ具合を見て、分厚いと分かると氷の上に乗り出しました。運動靴でもけっこう滑って楽しかったです。時たま氷が割れて危険なこともあり、それもまたすりるがあっておもしろかったのです。】(P.21)
断片の抜粋ではわかりにくいかもしれませんが、歳時記というか四季暦というか、かつての日本の農村のほのぼのとした生活風景なのですが、叙述からわかるようにこれは岸本氏自身の幼少期の体験の回顧であると思われます。冒頭に紹介しましたように岸本氏は(私より3年年上の)1951年生まれということですので、1950年代前半から後半に就学前期を、1950年代後半から1960年代前半に小学校期を過ごされたわけです。私自身は京都市で生まれ、ずっと都市で生活してきましたので岸本氏の生活体験と重なる部分はほとんどありませんが、それでも夏休みに父の郷里の島根県大社町へ帰省していとこたちと川釣りをしたり縁側でスイカの種を飛ばしたりというようなわずかな農村体験はありますし、上に出てくる「農繁休暇」というような言葉を知ったのも、大学に入学して教育実践について学び始めてからではなく、1960年代に学んだ小学校の社会科教科書とか当時のニュースなどからではなかったかと思います。ところで、岸本氏は単なるノスタルジーを描いておられるわけではありません。それは次を読むとよくわかります。
岸本氏はその次に節を改めて、1960年代以降の農村近代化について描写しておられます。ここにも岸本実践の背景にある重要な地域認識・労働認識が示されています。
4 現代農業と子どもたちの暮らし
(1)農作業と子どもたちの手伝い
①春が来た
【親たちは塩水を入れたバケツに種もみを入れ、重く沈んだもみを集めて水洗いしています。それから、田植機に載せる四角い箱に用土を次々と入れていきます。種もみが乾くのを待って、用土を入れた箱に種もみを落としていきます。水をかけて土を薄くかぶせるのです。そして育苗器で発芽させてから、田に持って行き、ビニールのトンネルを作り保温します。
今ではこの種もみを蒔く作業も、機械でできるようになりました。子どもたちは、土を入れた箱を運ぶだけになりました。】(P.22)
②初夏の田んぼ
【トラクターでの代かきが始まります。それぞれの田んぼにエンジン音が響くと、あっという間に代かきは終わって田植えができるようになります。二日ほどおいてから田植機での田植えが始まりました。みるみるうちに、か細い苗が植えられていきます。田植機には肥料をまく装置もついています。子どもたちは苗箱を運ぶお手伝いをしています。
植え終わった田には、2度除草剤をまきます。有機栽培で除草剤をまかない田では、ホウネンエビなどの生物がいますが、除草剤を使用した田では、生きものは姿を消してしまいます。川に流れでた除草剤は、川の草をも枯らしてしまいます。】(P.23)
③夏の田んぼ
【夏の光を受けて、稲は背丈を伸ばすとともに株分けをします。50~60cmに伸びた稲には、いろいろな虫がやってきて葉を食べます。そこで、殺虫剤を動力噴霧機で散布します。農業協同組合に頼めば、ラジコンのヘリコプターで殺虫剤を噴霧してくれます。この農薬は田の虫だけでなく、畦にいる生物も殺してしまいます。また、化学肥料を3回に分けて敵期に動力噴霧機で散布します。こういった作業は危険ですから、子どもたちは手伝えません。】(P.23)
④収穫の秋
【大型のコンバインを使えば、広い田でもあっという間に収穫が終わります。
軽トラに積んだ袋から、家の納屋に設置された乾燥機にもみが移されます。そして、そこに風や熱風を送り込み、ゆっくりともみを乾燥していきます。乾燥が終わると「もみすり」です。この作業もよい機械があるので、短時間で玄米にしてしまいます。そして、別の機械で小米を落としたあと、20kgずつ紙袋に詰めていきます。
これらの作業も一人でできます。20kgの玄米(もみを取り去っただけでまだ精米していない米)の入った袋は重くて、子どもの手には負えません。】(P.24)
⑤晩秋から冬の田んぼ
【稲刈りの終わった田には、タニシやドジョウなどの生きものは見当たりません。そんな田に子どもたちは魅力を感じることはありません。冬の田には誰も行かないようになりました。子どもの数そのものが減り、村の子が集まって凧揚げなどもしなくなりました。】(同)
(2)省力化とその弊害
(3)圃場整備とその弊害
(2)(3)は(1)の風景描写を「省力化」「圃場整備」という視点から改めて整理したものですが、その部分を紹介せずとも上記の部分的な引用からも1960年代以降の農業近代化の中で、かつては遊びの部分も含みながら親たちの農業労働と密接に関わる生活をしていた農村の子どもたちがどんどん農業労働から遠ざけられ撤退していったこと、またかつて人間の農業労働の周辺にあって共生していた自然の生きものたちがどんどん田んぼのある風景から遠ざけられ衰退していったことがとてもよくわかります。1990年代末に始まる岸本氏の環境学習実践はそのような農村の自然・社会条件の中にあって展開されていくのです。
岸本氏の環境学習実践は、1998年、岸本氏が47歳の時に開始されます。教職歴20年を越えた岸本氏が、それまでの実践力量蓄積を活かし、様々に変貌しつつも依然として豊かな自然を保っている勤務地の条件を活かした新たな実践に満を持して取り組み始めた……というのとは全く違う経緯で実践は始まります。苦しみながら実践を生み出していかれた岸本氏には申しわけない言い方ですが、私にとってはこの実践開始の経緯が大変魅力的で興味深いのです。
ここでも、見出しと断片的な引用によっていきさつを紹介していきます。
第1章 東条川学習の始まり
【2クラスある5年生の片方が3学期に崩壊しました。子どもたちが荒れて、むちゃくちゃをし始めました。】(P.27-28)
1 大変だ。5年生の片方のクラスが崩壊した
2 6年生担任が決まらない
【新年度、このクラスの担任を決めるのが大変でした。(中略)誰も手を上げず、うつむいてしまいました。その長い沈黙の後に、5年生のもう一方のクラス担任だった女の先生が、「私にも責任がありますので、担任をします」と挙手しました。その勇気に押されて、男で一番年上だった私も手を上げてしまいました。(中略)いじめっ子の多いクラスを私が担任することになりました。】(P.28-29)
3 打つ手がことごとく失敗する日々
【始業式から大変でした。半数は私が4年生で担任した子どもでしたが、別人のように変わっていました。とりわけ男子がひどかったのです。始業式から帰ってきて教室に入り、私が「1年間よろしく」と挨拶しますと、「はげ!」という声が返ってきました。それ以来誰もが、私のことを「はげ!」と呼びました。】(P.29)
【授業も、私の担当科目は何とか成立していましたが、家庭科と図工の専科の授業は崩壊していました。「家庭科は女子がしたらいい」と、男子は教室の後ろでダベっていました。図工で絵を描いている時、少し失敗すると画用紙を破って捨ててしまいました。そして、友だちの絵まで破りに行くようなこともしました。それで、「何とかしてほしい」と専科の先生に泣きつかれました。】(同)
【ある時、「裁判」という手法を思いつきました。学級会では、力の強い子が発言して終わりになります。それで、公正な判断のできる子5人を裁判官にしトラブルになった一方を原告、もう一方を被告としました。そして、双方に弁護人役と検察官役を一人ずつ選ばせ、裁判をすることにしました。いつも一方的に発言する子たちは、発言権のない傍聴人となり、発言できなくなりました。(中略)
この方法は思いのほか有効でした。裁判官役の質問で、いじめの原因がどんどん掘り下げられていったからです。(中略)
しかし、保護者から「裁判とは何だ。子どもを犯罪者扱いしている」との抗議があり、続けられなくなりました。それで、また打つ手がなくなりました。】(P.30)
【職員室に帰ると、「岸本先生、6年生を何とかしてください」という声が、あちこちから聞こえました。「何とかしたいのですが、どうにもできません」私は職員室に帰れなくなりました。まだ6月です。卒業まであと10ヵ月もあります。クラスは崩壊寸前。私の気力と体力が持つか心配になってきました。子どもたちの帰った後、グチャグチャになった教室を一人で掃除し、片づけながら、今までにない激しい疲労を感じる日々を過ごしていました。】(P.31)
上記のような学級はがたがた、担任の岸本先生もボロボロの状態から、どのように起死回生の環境学習実践が発生し得たのでしょうか? それを知るために、次節は省略なしで全文を紹介します。
4 東条川を見て閃いた
【ある日の放課後、一人で教室の整理を終えて、何とはなしに廊下の隅に行ったのです。そして、ふと窓から外を見ると、川の流れが目に入りました。「東条川」という川の流れが。その瞬間、「懐かしいな」という思いと、「これを教材にしよう」という魂胆が交錯し、私は流れをしばし見つめていました。
懐かしいなと感じたのは、私が「川ガキ」だったからです。少年の頃、私は夏になると川に行き、魚を捕ったり、石を投げたり、水泳をしたり、中州に基地を作ったりして、川で1日中遊びました。
「私の大好きな川を教材にしたれ」と閃いたのは、この楽しかった思い出と、教員としての経験による勘です。しかし、今この子たちを川に連れて行ったらどうなることでしょう。水のかけ合いではすみません。石の投げ合いに発展し、けが人の出ることが予測されます。それで、「川に連れて行く前に、何かをしないといけないな」と漠然と考えていました。しかし、どうしたらよいのかまったく思いつかないまま、いたずらに日が過ぎていきました。そんなある日のことでした。】(P.32)
⇒文献を読んでいた全く違う文脈のことを思い出すのが私のくせで、恐縮なんですが以下の教育実践書を紹介させて下さい。
漆間浩一『1時間子ども熱中! 社会科授業のコツ&アイデア』(学事出版 1992)
Ⅰネタさがし ②電車の中でネタさがし
[私の通勤時間は約1時間。朝、電車に乗ったら、まずキョロキョロあたりを見回して吊し広告を見ます。
例えば、『週刊現代』の吊し広告、次の記事が目にとびこんできました。
「『日本人の給料』150種全調査」。
内留時代にお世話になった東大のF先生の給料はいくらかな?などという疑問が頭に浮かびます。
早速、『週刊現代』を購入。期待したほどではなかったのですが、それでもおもしろい。内閣総理大臣からバーテンダー、相撲とりまでの給料が一目でわかります。これは公民の授業で使えそうです。関係する記事だけ破ってカバンへ。後は捨てます。
最近、吊し広告を見て買った週刊誌で得をしたのが、『週刊宝石』。「東京の地酒」という記事に魅かれて買ったのですが、何とグラビアが「南極大陸」特集。1961年発効した南極条約は30年間有効。つまり1991年には南極条約は失効して、領有権の問題が再び持ちあがるわけです。これは地理の授業のネタになりそうです。
それから電車の中では、神奈川新聞を読むか、ラジオを聞くか、本を読むか、寝ています。どのパターンでいくかは気分まかせですが、神奈川新聞を読む確率が比較的髙いです。
自宅で読む新聞は朝日新聞ですが、外で買う新聞は神奈川新聞と決めています。郷土の新聞には郷土の情報が多いのです。電車の中で見つけたこれは!と思う記事は、その場で破ってカバンの中へ入れてしまいます。(その場でカードをつくることもあります。)
電車の中で聞くと決めているラジオ番組は、ラジオ日本の「和田春生のニュースと解説」(6時45分~7時15分)です。後は気分しだい。
ラジオからも意外なネタを得ることができます。
例えば、前のソ連大統領ゴルバチョフの給料はいくらか? 何と月給27万円。世界を動かしたあのゴルバチョフの給料が私より安い。この給料はたぶん、いろいろな特権を別にしての話でしょうが、それでもネタとしてはおもしろいものです。それから、牛乳パックからパルプをつくるという話も、最初はラジオから仕入れた情報です。
ラジオを聞いておもしろいな、と思った情報もすぐカードに記入しておきます。](P.13-14)
漆間浩一氏は、私が授業づくりネットワークの活動の中で出会った素敵な中学校社会科教師です。漆間氏の授業にはVTRや研究会での模擬授業としてしか出会ったことのない私ですが、VTRは大学の授業はもちろん私が担当した専門学校教員や看護実習指導者等の講習会などでさんざん活用させていただきました。授業もとてもおもしろいのですが、私が敬服したのは上記で紹介されている漆間氏の「ネタ集め」、つまりは教材研究の前提となるリサーチです。往復2時間の電車通勤。足りない睡眠時間を補うために使っても誰にも文句を言われないのに、漆間氏は精力的にネタ探しをします。今日の、明日の授業に使うためのネタではないのです。いつ使うかはわからないけど、これは使えそうだ、このネタからおもしろい授業が作れそうと思うもの片っ端から集めるわけです。
話を戻して、岸本氏が放課後の教室でふと眺めた東条川から教材づくり、学習活動のヒントを得られたというエピソードから私が想像したのは、岸本氏の頭の中にも漆間氏とはまた違った形で教材のネタ、授業づくりのネタがストックされていたのではないか、そのネタの箱のフタが偶然の経過から開いたんじゃないか、ということです。漆間氏の場合は通勤途中に何が飛び込んでくるかわからない様々な情報の中からビビッと直観に訴えるものを選び出しておられます。岸本氏の場合は「川ガキ」だった原体験がベースにあると書かれていますが、切羽詰まって疲れ切っている学級運営の日々の中でなぜ突然そこに意識が行ったかについては、本書によってもまだ解明されてないがありそうな気がします。しかしそこは第三者の私が詮索してもしかたありません。それと、岸本先生と子どもたちを取り巻いて東条川と地域の自然があったという厳然たる事実の意味も大きいように思います。
ただ、岸本氏も書かれているように、氏自身の魅力的な「川ガキ」体験をそのまま当時の子どもたちにぶつけても、それで直ちに先生と子どもたちの信頼関係が回復されてすばらしい学習活動が展開されるとは思えなかったのでしょう。でもしかし、そこで「やっぱり無理か」と諦められなかったことがすごいと思います。それが次項での活動スタートにつながります。
5 ミネラルウォーターはなぜうまい
【たまたまスーパーに入ると、ミネラルウォーターが入口付近にたくさん置いてありました。その瞬間、これが使えそうだという気がしました。それで、3種類の日本のミネラルウォーターを買い込み、子どもたちに飲ませることにしました。
グルメ時代の子どもたちは、ミネラルウォーターを「おいしい」と飲みました。そして、ある子が「3種類のミネラルウォーターの順番を変えてもう一度出せ。オレが銘柄を当てたる」と言い放ちました。私は「そんなもの当たるはずがない」と思い、順番を変えて出しました。すると、50%の子どもが見事に当てました。まさかこんなにたくさんの子が当てるとは、私は思いもしませんでした。】(P.32-33)
⇒結果的に実践への入口となるこのエピソードが、私にはすごいと思えます。なにがすごいかというと、まず、荒れていた学級の、おそらくやんちゃな子どもが(「出せ」とか「言い放ち」という表現からそう思えます)ミネラルウォーターの銘柄を当てると言い出したこと。学校の授業で水とは言えおいしいものを飲んだことによる高揚がきっかけとなっていると思いますが、それにしても、「なんだ、水か、つまらん」とあしらうのではなく、「オレが銘柄をあてる」とくいついてきたのは、子どもと岸本先生の信頼関係がまだ失われてはいなかった証拠ではないかと私は推測するのです。「そんなもの当たるはずがない」と思いつつも、岸本先生は子どものポジティブな反応がうれしかったんじゃないでしょうか。 次に読み落としたくないのは、岸本氏が「50%の子どもが見事に当てました。」と書いていること。つまり先生は、言い出しっぺの子どもだけではなく(おそらく)全員に(少なくとも複数に)銘柄当てトライアルの機会を用意したのです。これも推測ですが、「もう一度出せ」と言い出した子どもの内心には、「そんなこと岸本は認めないだろう」みたいな思いもあったんじゃないでしょうか。そこを咄嗟に受け止め、しかもみんなの課題にしたこと、そこがすごいと私は思います。
そしてさらに強く印象に残ったのは、岸本先生の子どもたちへのリスペクトです。「グルメ時代の子どもたち」の味覚の鋭敏さ、ということになるでしょうが、言い出しっぺの子の見栄っ張りかと思ってたら、実際に半分の子が各銘柄の味を味わい分けられた。このことに岸本氏は心底驚かれたようですが、それが学級の荒れで揺らいでいた子どもたちへのリスペクトを再生させる一つのきっかけになったのではないかと思うのです。
【子どもたちは乗ってきました。このチャンスを逃したらダメだと思い、違うスーパーに行き、また別の3種類のミネラルウォーターを買い込みました。そして、同じようにしてみました。すると、今度は70%の子どもが当てました。あまりにも子どもが乗ってきたので、また違うミネラルウォーターを買い込み、やってみました。そのたびに子どもたちの正答率は上がっていきました。私自身は微妙な味の違いがまったく判別できず、一人蚊帳の外でした。】(P.33)
⇒岸本先生は、同じ質の活動を銘柄を変えて3回繰り返しています。ここが重要だと思うのです。子ども目線から見て教科の学習の中で「おもしろい」「もっとやりたい」と思う活動に出会うことはなかなかないと思うのですが、それでもたまにはあるだろうと思います。それでも次の回の授業ではもう別の学習活動に移ってしまうのが普通です。そこを岸本先生は3回繰り返したのです。それは、子どもたちが「乗って」きたからであり、先生も「このチャンスを逃したらダメだ」と思ったからです。きっと子どもたちと教師の信頼関係回復のきっかけになる、そうしたいと思われたんだと思います。
子どもたちも活動の繰り返しの中で、銘柄が変わっているのにどんどん正答率を上げていきます。単純な活動ですが、子どもたちの中に教室での活動を通じての達成感が広がっていきます。それは、荒れた教室を長く経験してきた子どもたちにとっても久しぶりの体験だったことでしょう。
次に、岸本先生が「蚊帳の外」に置かれたということが重要です。「岸本、全然あかんやん」くらいのことは子どもたちから言われたことでしょう。子どもたちはだめな先生の姿を笑ったことでしょう。だがしかし、そういう子どもが先生を《下に見る》感覚は、先生を「はげ!」と罵倒したり画用紙を破いたり男子が家庭科の授業への参加を拒否したりというような、《学校秩序の意図的破壊》をおもしろがったり、それでストレスを解消していた以前の荒んだ子どもたちの姿とは変化してきたのではないかと私は推測します。「僕らすごいやろ。先生はあかんなあ。」てな悪態をつきながらも、そういう子どもと教師の立場が逆転するような楽しい経験の場を用意してくれたは、しかも二度ならず三度も用意してくれたのは、自分たちが「あかんなあ」とくさしている先生その人であることに、子どもたちはしっかり気づいていたと思うのです。ここに私は、ミネラルウォーターというネタがおもしろいということだけには絶対解消されない教師と子どもたちの人間関係の重要な変化を読み取るのです。
その後、子どもたちに「くさい」と不評だったエビアンと、おいしい「六甲のおいしい水」についてのメーカー照会の活動、さらに井戸水の調査へと続くのですが、このままいくと本書の実践の全ての局面を紹介することになるので(^^;)省略します。ただ、井戸水調査の際に、これまた先生と子どもたち、あるいは子ども相互の関係を揺さぶるエピソードが紹介されているので、そこには触れたいと思います。
【その後、井戸水についても調べることになりました。担当する班の子たちは、初めなかなか調べに行きませんでした。ふだん教室ではとても「元気な」子どもたちなのですが、大人にインタビューをしたことはありません。それで、どういうふうに挨拶をして、どう聞き出したらよいのか分からなかったのでしょう。「『こんにちは。井戸水の調査に来ました』と言って入ったら、ちゃんと答えてくれてや」と言っても、なかなか腰が上がりませんでした。発表の終わった子たちが、「俺たちの班はもう終わった。今度はおまえらの班の番や。早く調べに行け」と促してくれたので、やっと重い腰が上がりました。】(P.34)
⇒私が岸本先生なら、「元気な」の後に(苦笑)と入れたいところです。学級で傍若無人に振る舞ってきた子どもたち。教師を嘗めきっていた子どもたち。でも地域の人たちに対しては同じ振る舞いができないどころか、訪ねて行って話しかけること自体に尻込みしてしまう。やっぱり子どもです。かわいいものですね。岸本先生は、「いつもの『元気』はどうした?」と子どもたちを茶化されたかどうかはわかりませんが、訪問調査での礼儀作法、振る舞い方を子どもたちに教えました。子どもたちは人生経験の長い教師からのアドバイスが重要であることを痛感したでしょう。しかもさらに大きいのが、先に行った班の子どもたちが渋っている班の子どもたちを叱咤激励したということ。大事な方向への前進のために学級のあるグループが他のグループを後押しするというのも、崩壊寸前の学級状態においてはなかったことじゃないでしょうか。
6 水道水はなぜまずい
【それからミネラルウォーターと水道水を飲み比べさせました。最初にミネラルウォーターを飲んでから水道水を飲ませました。すると、「まずー」と子どもたちは吐き出しました。ふだんは何も思わずに水道水を飲んでいますが、ミネラルウォーターの後に飲むと、とてもまずく感じてしまいます。それで「ミネラルウォーターはおいしいのに、水道水はなぜまずいのか」という学習課題ができました。】(P..35)
⇒この持っていき方にも感服です。もしもこの学習が水道水から始まり、子どもたちが最初に水道水を飲んでいたら、日常生活でもやっていることだけに、特に感慨も起こらなかったことでしょう。おいしいミネラルウォーターの銘柄当て体験があり、井戸水の調査があり、水道水まで来てミネラルウォーターと飲み比べすることで、「毎日お世話になってはいるけど、決しておいしくない水」という特別な感慨を伴うものとして水道水が子どもたちに意識されました。
【女子のある班が東条の水道事業所に行き】(P.35)調べて試算してみると、【一ヵ月に町民の使う水道水をミネラルウォーターに変えると、水道代が25億円になると計算】(P.36)しました。P.36の子どもの発表掲示の写真を拡大鏡で大きくしてみると(^^;)、この地区で使う実際の1ヵ月の水代は3165100円と書いてあるので、約800倍かかるということですね。詳述されていませんが、子どもたちはこの数字だけからもいろんなことを考えたんじゃないかと思います。
岸本先生は、【子どもって本当にすごいです。】(P.36)と書かれ、また子どもたちの発表方法の進化を捉えて、こう書かれています。
【それをそばで見ていて、「子どもって自分で学習する動物なんだな」と思いました。それまでは、「先生が教えたらな、何もできない」と思っていました。ところが、本当はそうではありませんんでした。子どもは知りたいことや表現したいことがあったら、大人以上にうまく調べてまとめ、表現することに気づきました。】(P.36)
⇒学級の荒れに疲れてふと東条川を眺めたときの岸本先生は、川を舞台に何か学習活動を行なったらおもしろいだろうけど、当時の子どもたちの状況では危険なことや問題を起こして収拾がつかなくなってしまうだろう、教師である自分にはコントロールできないだろうと判断して、すぐに川へ行くことは保留されました。ところが今の岸本先生は、子どもが知りたいことや表現したいことがあったら自ら行動していくんだと見方を変えられました。実際に動いてみて問題が起こらないかどうかはわからないけれど、子どもたちの力を信じようと決断されたんだと思います。これが岸本先生の側から見た東条川学習への大きな転機になったんじゃないでしょうか。
そしてもう一つ、本節の末尾に重要なことが書かれています。
【「水道水はまずい」と子どもたちが言った時、水道事業所のおじさんが、こんなことを言ってくれました。「水道水がまずいのは、原水である東条川がすごく汚れているので、塩素を大量に入れるからだ。自分たちは塩素を減らしたいのだが、川の汚れがひどいので、やむをえずやっている」と。】(P.37)
⇒子どもたちの関心が東条川へと向かう重要な契機となる発言ですが、同時に日常経験に基づく試行錯誤の活動に対して、科学の知見をそれを持つ専門家の協力という学習環境の重要な変化が加わった瞬間でもあると思います。
7 東条川は汚れているのか
子どもたちは東条川は汚れているのかと考え始め、分担して調査に行ったのですが、その結果は岸本先生の予想に反し、【「きれいな方」と報告するグループの方が多かったのです】(P.37)。岸本先生はその原因を次のように考察します。
【なぜそうなのでしょうか。子どもたちは毎日、東条川を右に左に見ながら登下校します。黄緑色の川を6年間見つづけてきたので、川はもともとそんな色をしているのだと思いこんでいるのではないでしょうか。】(同)
しかし、これまたさすが!と思うのですが、岸本先生は日常に根ざした子どもたちのこのような認識を、教師からの《正しい知識の提示》によって修正しようとはしません。
【もし、その時私が「東条川は汚れてそんな色をしているんだ」と言っても、子どもたちは信用してくれないでしょう。一部の子は、「先生にとって都合よい結論に導くため、そんなことを言うんだろう」と思うことでしょう。】(P.38)
一度は学校の秩序、権威を徹底的に拒否した子どもたちです。学習が再び軌道に乗ったからといって、既存の《教師の権威》に頼ってそれを運営しようとしたら、「先生にとって都合よい」学習運営のにおいを嗅ぎつけて反発し、拒否する子どもたちもいるだろうと岸本先生は予測しました。
それではどうするか? 岸本先生は、子どもたちの「生活の論理」を、生活の時計の針を逆まわしして見せることで揺さぶろうとしたのです。子どもたちのおじいさんの一人を教室に呼び、昔の東条川の話を聞かせてもらいました。おじいさんは、ホタルが飛び交い、「川ガキ」たちが魚を捕ったり泳いだりし、大人たちは洗濯や食器洗い、牛の背中洗いをした昔の東条川の風景を語ってくれました。すると……
【その話を子どもたちはポカンと口を開けて聞いていました。そして、子どもたちは言いました。「東条川が汚れたのは、つい最近のことなんやな」と。「そしたら俺たちがきれいにしたる」と言い放ったのです。私は冗談やろと思いましたが、子どもたちは本気でした。学級崩壊を起こすほどのクラスは、ものすごいエネルギーがあります。その子たちが、「きれいにしたる」と言ったのです。】(P.39)
⇒またしても、驚き。3つの驚きです。
一つ目の驚きは、おじいさんが語った東条川の昔話の《説得力》です。昔を懐かしんで自然に語られたことが、子どもたちにとってちゃんんと目の前の東条川を目の前の姿だけで見てはいけないという《視点の二重化》とでも呼ぶべき作用をしたのです。
二つ目の驚きはそこから直ちに子どもたちが「俺たちがきれいにしたる」と言い出したことです。何が子どもたちを突き動かしたのか? これも全く私の推測なのですが、おじいさんが懐かしんで語られた昔の東条川への郷愁が子どもたちに「いまの東条川は昔の姿とは違う」ということに気づかせ、そこからさらに、変わってしまってはいるけれど自分たちの日常の中にある東条川への《愛着心》、「何とかしなければ!」という思いが湧き起こったんじゃないでしょうか。
そして三つ目の驚きは、その子どもたちの変貌の姿を、岸本先生が「学級崩壊を起こすほどの」「ものすごいエネルギー」と見たということ。あれほど先生を苦しめた学級の荒れ、その子どもたちの振る舞いを「エネルギー」と捉えたわけです。荒れに荒れた子どもたちがその行動を精算して(心を入れ替えて)学習に精進しだした、という捉えではなく、いま学習に、活動に突き進まんばかりの子どもたちのエネルギーをかつてはきちんと受け止められていなかったという教師側の教訓とした、とも言えるでしょう。私のこの解釈は私の勝手な主観かもしれません。しかし、本書の単なる一読者であるにも関わらず、私には学びが回復されていく過程で子どもたちと岸本先生が一つひとつボタンをかけ直していくようにジグザグながら信頼関係を築き直していく姿が見えるような気がするのです。
そして次の展開にもまたまた驚かされます。岸本先生は子どもたちのエネルギーに後押しされてさっそく東条川をキレイにする活動に着手したわけではないのです。
【私は「うれしいわ。でも、ちょっとだけ待ってな」と言いました。黄緑色に汚れた東条川は、クリーン活動できれいになるとは思えません。それで、まず「川を汚しているものは何なのか」を、この子たちに追究させたいと考えたからです。】(P.39)
8 東条川の再調査
子どもたちが校区内の川のきれいな水の所、少し汚れた水の所、汚れた水の所を調査した結果、【「集落の少ない上の方が汚れていて、大きな集落を通りこした下の方が汚れが少ない」という結果】(P.40)になり、それはおかしい、【調査が甘かったと子どもたちは感じた】(P.40)のです。
⇒これはすごく大事なことだと思います。何がかというと、自分たちの足と目で調べ学習をした場合、子どもたちがそこで掴んできたことを絶対視しても無理はないと思うんです。しかし、学級全体で調査結果を集計することで、下流より上流が汚れているのはおかしいと子どもたちは結果を疑うようになりました。そしてそこから調査方法を見直した。もちろん岸本先生の指導も介在しているでしょうが、調査結果への疑問から調査方法の再検討と再調査へという流れが、科学者の試行錯誤と似ており、子どもたちにとって貴重な経験だと思うのです。
今度は土手の上からではなく、水辺まで降りて観察することになりました。子どもたちは散乱するゴミ、洗剤の泡、空き缶、ペットボトル、レジ袋、アルミホイル、換気扇、テレビ、軽トラまで見つけます。
【各班の報告を聞きながら、「これはダメだ」というい気持ちに、みんながなりました。「先生、軽トラが落ちていた。ありえん」と報告した班がありました(この頃から、私は「はげ」ではなくて、「先生」と呼ばれるようになりました)。子どもたちの心に、「東条川はこれではあかん。絶対ダメだ」との思いが渦を巻き出しました。】(P.40)
⇒さりげなく挿入された括弧書きに、岸本先生の静かな喜びを感じます。先日「チコちゃんに叱られる」で、子どもはなぜ先生を「お母さん」と言い間違えたりお母さんを「先生」と言い間違えるか?という疑問が取り上げられていました。詳しく覚えていませんが、脳内の記憶の部位の中でともに子どもにとって親しい存在である先生とお母さんが近くに位置しているので、呼び出す時に取り違えられる、というようなことだったと思います。岸本学級の子どもたちは、一度は先生を自分の脳内の親しいものの部位から追放し、侮蔑の言葉を投げつける対象として意識したんだと思います。そしておそらく岸本先生は、「先生に向かって何という呼び方をするのか!」というような叱責はされなかったんじゃないでしょうか。ミネラルウォーターから始まって東条川の水に到る追究に追究を重ねる真剣な学習活動への集中を通じて、子どもたちにはそのような学習の場を提供し続けてくれる岸本先生への尊敬の気持ちが再度芽生えたんじゃないでしょうか。そして、前からの勢いで先生に対して侮蔑の言葉を投げ続けていいのかという自責の念も沸いたんじゃないでしょうか。意を決して再び「先生」と呼びかける子どもがあらわれ、やがてそれが多数になっていったんじゃないでしょうか。
9 東条川を汚すもの
【「東条川を汚しているのは誰だ」と、子どもたちはわめきました。何でも「人が悪い」という子たちですから、最初に「工場が悪い」と言いました。5年生社会科の公害学習を思い出したのでしょう。でも、校区内にそんなに川を汚すような工場はありません。すると、今度は「ゴルフ場だ」と言いました。確かに広いゴルフ場はありますが、それが汚れの主因だとは思えません。それで私は「自分たちも川を汚していること」を、どうしたら子どもたちが気づくかを考えました。そうしないと、ほんものの環境学習にはならないからです。人を責めるだけの環境学習は意味がないと思います。私は今まで、環境のことを詳しく知れば、子どもたちの環境意識が高まると考えていました。でも、この子たちの発言を聞いていると、原因を特定して、発生元を糾弾すればよいと思っているように思えました。特定の工場が排出する害毒で公害が発生している場合ならともかく、今は自分たちの暮らしそのものが川を痛めつけているのです。「自分たちの暮らしを変えていく」そこに持っていかなくては、解決につながらないと考えました。】(P.41)
⇒何でも「人が悪い」と言い、「発生元を糾弾すればよいと思っているように」見える子どもたち、という描写に恐らく学級の荒れにも繋がったと思われる子どもたちの言動の特徴が垣間見えます。知識を一方的に伝達する学習ではなくて、子どもたち自身が歩き回り話し合い考える学習活動では、当然ながら日常生活における思考の特徴も出てくるでしょう。自分たち自身に目が向けばただ糾弾するだけですまないことに気づくだろうというのは、岸本先生の生活指導上の方針でもあったでしょう。しかし、岸本先生が生活指導を先行させた学習指導を使用としたと私は考えているわけではありません。生活と接点がある川について考えることは、とりもなおさず自分たちの生活を考えることでもある。そこに気づかなければ足元がふらついた環境学習になると、岸本先生はそれまでの学習指導や教材研究の経験を踏まえて考えられたんだろうと思います。
【それで、東条川からエビや稚魚を捕ってきて、三つのビーカーに入れ、そこに各種洗剤や漂白剤、シャンプーや農薬を入れる実験をしました。その時、子どもたちは「やめたってくれ」と叫びました。私は「これと同じことを、ぼくたちは毎日しているんだ。よく見てほしい。知らず知らずのうちにしていることを……」と言いました。実験直後に「ビーカーの水を替えたってくれ」と子どもたちは叫びました。水を替えましたが、稚魚は死んでしまいました。台所用洗剤では死ななかったエビは、農薬では即死でした。この実験は子どもたちに大きな衝撃を与えました。
それは「魚の入ったフラスコに、洗剤を入れる時いやだった。なぜかというと、死ぬと分かったからだ。まず、中性洗剤を入れた。でも、死ななかった。次のシャンプーで死んだ。生活排水はすごい威力だ」とか、「この魚の死はけっしてムダではない。なぜなら、人間の出す生活排水が川を汚し、魚を減らしていることを知らせてくれたからだ」と敏感に感じとったのです。
どうしてこんなむごい実験をしたかというと、川の中に農薬の紙袋や洗剤のプラ容器がたくさん捨てられていたからです。また、洗剤やシャンプーは子どもの家で使っているものだからです。
一方、私は「やめたってくれ」と叫ぶ男の子のやさしさに、大きな衝撃を受けました。彼らの本心はやさしいのです。そんなやさしい彼らが、つい今し方まで、どうしてあんなに荒れていたのでしょう。それが私には大きな疑問となりました。】(P.41-42)
⇒岸本先生の「むごい実験」は大きな賭けだったんじゃないでしょうか。へたをすれば子どもたちが「先生だって魚を殺すような残酷なことを平気でする。僕らが友だちを殴ったりけったりしても先生は怒れないはずだ。」と教師不信の世界へ逆戻りするきっかけにならないとも限りません。それとも岸本先生は、ここまでの学びの軌跡を踏まえて「いまならこの実験をしても子どもたちは受け止められるはず」と子どもたちを信じたのでしょうか。
目の前の魚を確信犯的に殺しながら、「これと同じことを、ぼくたちは毎日しているんだ。」と自分たちの日常生活における環境破壊を類推させるのは、極めて強引な飛躍です。しかし、岸本先生はこういうショック療法を用いてでも子どもたちに自分たちの日常へと目を向けさせようとしました。子どもたちはまずビーカーの中の魚の命に共感して「やめたってくれ」と言い、自分たちが魚を殺す行為に加担する状況から逃れたいと望みました。そしてさらに、「この魚の死はけっしてムダではない。」と考える子どももいました。次の学習への見通しが見えてきたのかもしれません。
岸本先生が子どもたちの反応は全て織り込み済みで実験に取り組んだわけではないことは、「男の子のやさしさに、大きな衝撃を受けました。」という言葉からも明らかです。先生がこの段階に到っては子どもたちをすっかり先生のペースに載せることができると考えていたわけではなく、ここでも子どもから学び、またふり返って荒れの原因を考えるとまだ答えが出ないままに実践を続けておられたことがわかります。教育実践は、「ものすごいエネルギー」を持った子どもたちだから、そのエネルギーの方向さえ変えればうまくいく、というような生易しいものではないのですね。
10 川を汚さない生活を
【子どもたちは、この実験の本意を読みとりました。そして、自分の行動を変えました。習字の時間、手本を一人一人に書く時、女子の背後に立っても、リンスや洗剤のにおいがまったくしなくなりました。それはリンスをやめ洗剤を変えたからでした。男の子たちは、毎日同じ服を着てくるようになりました。(もちろん下着は替えているのですが)その理由を聞いてみますと、「洗濯の量や回数を減らすことで、洗剤の使用量を減らしたい」と答えました。私は何も指示をしていません。それなのに、子どもたちの多くがそうしていました。他にも、湯飲みを洗うのは水洗いだけ、洗濯は粉石けんに変えたそうです。中には、台所の中性洗剤を薄め、川の負担を減らそうとしていた子もいました。私や家族の知らない間に、多くの子どもたちはそんなことを始めていたのです。】(P.42)
子どもたちの行動は早く、きっばりしていますね。足元から努力しないといけない。言動一致。それを身をもって示してくれています。しかし子どもたちのささやかな努力だけでは東条川の汚れはなくなりません。そこで……
11 自分たちだけで東条川をきれいにできるか
自分たちの努力だけでは限界があると気づいた子どもたち。そこで隣のクラスに協力を呼びかけようという提案が出ますが、5年生から6年生にかけていじめや嫌がることをしてきた相手なので絶対無理だという反対意見が出て、岸本先生も【「本当にその通りやなあ。えらいことをしてしまったなあ」と言って、その場は終わりにしました】(P.43)。
ところが、岸本先生は一方でちゃんと手を打っていたのです。日頃から隣のクラスの担任に東条川学習の話をし、「いつかは共同で」と話し合っていました。先の話し合いの後岸本先生は隣の先生に1組から2組に呼びかけるから【「賛成するよう指導してください」とお願い】(同)し、隣の先生も【「その準備をちゃんとしておきます」】(同)とこたえてくれたのです。ここは岸本先生、思い切って先回りしたわけですね。
12 隣のクラスは協力してくれるか
その呼びかけというのも、1組の子どもたちが2組に行って「いままですみませんでした。謝りますから、僕たちの活動に協力して下さい」と言う、とかではないのです。周到な準備を経て、2組に対して1組のこれまでの学習成果のプレゼンテーションをするのです。
【子どもは本当に自分のやりたいことがあったら、どんどんやるんだなと思いました。私の指示なんか邪魔になるだけでした。子どもたちは学級会を開いて、まず「司会者」を募って決め、次に発表の分担も自分たちで決めました。もう教科の学習時間は使えませんので、発表準備の時間がとれませんでした。「どうしたらいい」と私がたずねますと、「発表の日だけ決めてくれたらいい。後は自分たちでするから」と言いました。私はそんなことでできるのか心配でしたが、ちゃんとできていました。私は本当に驚きました。5年生の学級崩壊は何だったんでしょう。】(P.44)
⇒「子どもを信じよ」とお題目のように唱えることは簡単です。岸本先生ははらはらしながらも子どもたちを見守りました。そして、無難に発表を行なった子どもたちに安堵する、というのではなくて、やりきった子どもたちに心から敬意を表しておられます。子どもたちもすごいのですが、見守る岸本先生の姿にも心を打たれます。
13 保護者の協力は得られるか
今度は参観日に保護者に協力を要請することになりましたが、その参観日は何ヵ月も前から決まっていた岸本先生のハワイ旅行の日。いろいろありましたが、先生は子どもたちの了承も得て予定通りハワイに行くことに。
【当日お母さんたちは「担任のいない参観日なんて初めてだ」と、怒って学校に来ましたが、子どもたちは頑張りました。自分たちで45分間の授業をやりとげてしまいました。それを見ていたお母さんたちは、「5年生の時にボロボロになってしまったのに、よくここまで立ち直った」と喜んで帰られたそうです。それで、私が参観日を休んでハワイに行ったことは、何も問題になりませんでした。】(P.45)
⇒偶然の巡り合わせですが、でも教師自身とかその家族の病気で大事な出勤日を休まないといけないことだってあるわけですからね。担任からの助力ゼロの中でプレゼンをやり切ったことは子どもたちにとって重要な経験になったことでしょう。
14 とてつもない教育をやりとげた
【3学期になると、クラスは和やかでした。1学期のとげとげした雰囲気はもうどこにもありませんでした。学級遊びでドッジボールをしても、相手の能力を考え、受けられるか受けられないかのぎりぎりのスピードで当てるのです。そして、相手が受けると、みんなが拍手しました。子どもたちのその変容に、私はただ驚くばかりでした。
その時私は、今まで自分の実践してきた「学力」をつける教育のほかに、「もう一つの教育」があることに気づかされました。だが、その自分も受けたことのない、その時まで自分も実践したことのない「もう一つの教育」とは何なのかが、よく分かりませんでした。ただ、自分が「とてつもない教育をやりとげた」という実感だけはありました。】(P.45-46)
⇒最初にこの部分の「とてつもない教育」という表現を読んだ時は一読者としてはピンと来なかったんですが、こうして実践記録を辿り直してみるとなんとなくわかってきたような気がします。
15 全校生に訴える
最後に【子どもたちが「全校生で東条川をきれいにしよう」と呼びかけようと考えた】(P.46)ことから発表会を行なうことになります。卒業を前に時間がなかったのですが、子どもたちは昼休みを全部使って準備するといいます。1組の子どもたちが東条川の昔と今を題材にした吉本新喜劇張りの脚本を書いてきましたが、女子は尻込みして舞台道具係に回り、男子だけ出演することに。頼まれて事前に劇を見に行った岸本先生は、椅子から転げ落ちて笑いこけます。【吉本バージョンのおもしろいシーンの連続で、笑いがこみあげてきて息苦しかったのです。でも、その笑いの中に、笑えない「東条川の今」をあぶり出していました。それを見て、今の子はすごい表現力を持っていることに気づかされます。】(P.47)
臨時の全校集会では、1組の劇に全校生が笑い転げます。【一方、隣のクラスは、どうして東条川が汚れてしまったのかを模造紙に書き、格調高く報告してくれました。この集会では、このようにクラスのカラーが見事に表れました。そして、両者が相まって東条川学習が全校に広がる大きな契機になりました。】(P.47-48)
⇒5年当時の担任の女性教師が「私にも責任がありますので」と意を決して引き受けられた6年2組。こちらにもいろいろな苦闘やドラマがあったことでしょう。東条川学習を学年に広げることに賛同され受け皿を作る努力をされた担任の先生と2組の子どもたちが、1組とは全く違うカラーのプレゼンテーションで全校に訴えたとはとてもよかったんじゃないでしょうか。
さて、発表会後に岸本先生が東条川の校区外エリアについてはどうしたらよいか子どもたちに問いかけたところ子どもたちは「環境省に行こう」と言い出します。岸本先生は、【とんでもなにことになりそうな予感がしたので止めて】(P.48)(^^;)、東条町役場課長と新聞記者を学校に呼びます。
【その日子どもたちは、「東条川がこんなに汚れていることに、大人は責任を感じないのか」と課長に激しく迫りました。課長は「東条川をきれいにしてくれてありがとう。大人も頑張る」と言ってくれました。それから子どもたちは、「役場南側の川岸がゴミだらけだ」と厳しく追及しました。それに対して、「すみませんでした。君たちの気持ちは良く分かりました」と課長は答えてくれました。
それを見ていた記者は驚いたと言います。それは、子どもたち全員が真剣だったからです。こういうケースは、しゃべっている子だけが真剣で、それ以外の子はうつむいて別のことを考えたり、聞いていなかったりするのが普通なのだそうです。それに、厳しい質問をすることにも驚いたと言います。この会が終わって、「新聞記者に言いたいことのある人は……」と私がたずねますと、ほぼ全員が手を上げました。それで、新聞記者は「それは無理だ。代表を5人に絞ってほしい」と言いました。私は泣く泣く5人に絞りましたが、選から漏れた子は教室への帰り道、不満をぶちまけました。それだけ聞いてほしいことが、みんなにあったのでした。しぶしぶ教室に帰って、記者の取材に応じた5人が帰ってくるのを待ちました。その時何人かが帰ってきませんでした。それは、5人のインタビューが終わった後で記者を取り囲んで、「しっかり記事を書いて、自分たちの思いを伝えてくれ」と迫っていたのでした。そのことにも記者は驚いたと言います。そして、記者は裏付けをとってから、丁寧な署名記事を書いてくれました。
ちなみに翌日、役場南の川岸はきれいになっていたそうです。子どもたちは、「言ってみるもんやな」と笑っていました。
子どもたちは卒業式で、「東条川学習はおもしろい。ぜひ全校でやってほしい」と呼びかけて、卒業していきました。】(P.49)
⇒子どもたちの「言ってみるもんやな」の意味は、とてつもなく大きいと思います。環境学習のような身近から始まって近隣へ、そしてより大きな社会へと広がっていく学習活動では、子どもたちはどこかで「ぼくたちが一生懸命考えて呼びかけても、大人たちは応えてくれない」という壁にぶつかり、挫折感を味わうことも多いんじゃないかと思います。その時教師がどうフォローするかもとても重要です。
その意味では、東条町役場の課長さんも、また掃除した職員さんたちも、署名記事を書いた新聞記者さんも、極めて誠実な対応を子どもたちにしています。仮にこれが不誠実なごまかしの対応であったら、6年生の子どもたちの東条川学習の締めくくりもかなり違うものになっていたんじゃないでしょうか。
おわりに
岸本氏自身による東条川学習実践の総括の中から、特に私が強く共感した2箇所だけを紹介します。
【今まで私は、おもしろい教材を用いて教えれば、子どもたちは意欲的に学ぶはずだと考えてきました。確かにその面はあるにしても、今回は完全に違っていました。子どもたちは、ミネラルウォーターや水道水、東条川の水を教材に自分たちで調べ、その結果をみんなに報告しあいました。それをもとに、みんなで一定の結論を導くとともに、次の課題を見つけていきました。それを繰り返して、自分たちで一つの学びを創り上げたのでした。まさに「行動主体」へと子どもたちは成長していったのです。】(P.50)
【この過程で、学級も劇的な成長を見せたのです。それは、「東条川をきれいにする」という目標ができ、いろんな活動をするたびに、みんなの中に「協力、共同する」関係ができあがっていったからです。
それはまず、自分たちの作った学習課題に対して、各班で一所懸命調べてきたことを伝える言葉が、互いの心に響いたのです。それに、すぐれた報告をしてくれる友に対して尊敬の念も生まれてきたのです。また、様々な集会を準備している際に、友のアドバイスを聞いて報告の仕方を変えると、自分の思いがより伝わることを実感したり、自分一人ではできないことを、班やクラスですると思いのほか簡単にやってしまえることに気づいたりしたのです。その中で、子どもたちの間に「聴き合う関係」が、自然に構築されていったのです。こうなると、クラスは安定します。】(P.50-51)
さて、ここまで本書の序章・第1章を私なりに丁寧に追跡してきました。ここまででまだ本書の4分の1強のページ数です。
「第2章 東条川学習の誕生まで-岸本清明・安藤聡彦との対話から」では、安藤聡彦氏(埼玉大学)の問いに応えて岸本氏が自らの生い立ち、教師になるまでやなってからの模索と成長を振り返って語っておられます。
「第3章 東条川学習の発展」では、1998年度3学年での「ホタルいっぱいの東条川に」実践と1999-2001年度におけるその全校実践への発展が報告されています。私はちょうどそれに重なる時期に三重県いなべ市立立田小学校(2016年度で閉校)の全校「ホタル学習」を何度も参観に行っていました。地域や学校の条件の違いに留意しながら両校の実践を比較してみるとおもしろいと思います。
「第4章 小規模へき地校での実践」では、岸本先生が次に移動された加東市立鴨川小学校での、幸いにも汚されていない自然条件下での野鳥(6学年)やサワガニ(2・3学年複式)学習の実践が報告されています。私はここを読んで、日頃自分が京都市内の高野川や鴨川を散歩して見かける、しっぽをフリフリ川原をささーっと走って移動する愛らしい鳥の名前がセグロセキレイだと知ることができました(^_^)。
セグロセキレイの動画→https://www.nicovideo.jp/watch/sm37818079
「第5章 環境学習の何が大切なのか」は、(岸本先生の豊富な実践蓄積を踏まえた)本書の理論編です。
「第6章 環境学習をどう作るか」は、実践報告と理論編を踏まえた環境学習の実践方法、実践の手続きについての提案です。
「補論1 岸本実践における『総合性』-その希望」は金馬国晴氏(横浜国立大学)による岸本実践の分析、「補論2 岸本実践を発展させる」は、若手教員の黒田浩介氏と中堅教員である小林豊茂氏による岸本氏から学んでの教育実践の報告です。
こうしてみると、私が詳しく検討した第1章に加えて第3章・第4章までの環境学習問題記録は、第2・5・6章や補論によってより深く理解できるし、また一つではなく様々な角度から学ぶことができます。
ですが私としてはこの「学習ノート」をここまでの第1章を中心とする検討をもって閉じたいと思います。私個人にとってはそこにあまりにも多くの学びがあったからです。後続の諸章を含めて検討を続けようとすると、新たな検討視点を加えることで第1章での自分の学びが拡散してしまいそうなのです。
それでは、第1章の叙述にかなり自分なりにこだわりながらの岸本氏の行論に沿ったコメントは最終的にどのように総括できるのかというと、まだそれほど明瞭にはなっていないのですが、取り敢えずいくつか書いてみます。
第1に、教育実践が始まる、動き出す契機について。自然に囲まれた校区ではあるが人間の営みにより川は汚れている。そのことに何らかのきっかけで子どもたちが気づき、探求が始まる。こうした環境学習実践は、おそらく全国に多数あると思います。これは環境の側が教師の、そして子どもたちの気づきを待っている、気づいたところで実践が始まるという経緯での実践です。岸本実践も大きくはそういう構図に収まるのかもしれませんが、きわめて特徴的なのは、崩壊寸前の学級に立ちすくむ中堅教師がふと東条川を眺めて川ガキ時代を思い出すというエピソードが直接の実践スタートの契機となっていること。これを偶然のなせるわざと片づけることは容易です。また、そういう具体的いきさつはあったにせよ、教材研究や学習指導の経験が豊かな岸本氏の過去の実績があってこそ東条川という学習対象を見出させたのだと説明することもできるでしょう。しかし私には、それだけではこの実践は始まらなかったような気がしてなりません。
第2は、岸本先生の子どもへの信頼、あるいは子どもを信頼しようという信念です。記録を読む限り、学年はじめの6年1組で、子どもたちは教師の人格を引き裂くような破壊的攻撃的否定的行動をとりました。岸本先生は必死に対応策をとりますが、徒労感も蓄積していたはずです。しかしそれは幸いにして、岸本氏をして教師として子どもたちに対してあるべき行動をとることを最終的に断念させるところまではきていなかった。そして、ミネラルウォーターへの子どもたちの食いつきによって岸本氏の子どもへの信頼は再生していくのです。「こないだまでのあの行動は何だったんだ?」と首をかしげつつも、しかし子どもたちに対して彼我の行動の不一致を問い詰め叱責するということはいっさいなく、岸本先生は子どもたちの学びの姿に驚き、感動し、学んでいきます。上から目線で「よくぞ成長したな」というのとは、違うと思うのです。子どもたちから学ぶことによって教師としてのエネルギーを得、教師として成長し、またそれを手がかりに子どもたちとの新たな質の関係づくりを模索していく。この信念、信条のような灯は、荒れた子どもたちに苦労して対応しながらも、結局岸本氏の中で消えることがなかったんじゃないでしょうか。
第3は、実践の発火点はどこか?ということ。疲れ切っていたが誠実さを失わない岸本氏という教師がいた。無軌道だが突き進むエネルギーを持っている子どもたちがいた。ミネラルウォーターという教材があった。この3つで古典的な教師-子ども-教材の三角形を描くこともできます。しかしそういう《静的な》話ではないのです。私はやはり、ある子どもがミネラルウォーターの銘柄を「当てたる」と言い出したところが発火点だと思います。子どもの自己顕示欲も、また教師に対して一本取ったるという山っ気もあったでしょう。そしてミネラルウォーター。岸本先生が3種類のミネラルウォーターをラベルだけ剥がしたボトルのまま提示したのか、それともボトルは隠して同じコップに入れて出したのかそれはわかりません。ただコップだと元の銘柄との関係でごまかしてないかと一悶着起こる可能性もありますね。それはともかく、透明で見た目は全く見分けがつかないミネラルウォーターの3種の銘柄を半数の子どもたちが当てたという驚き。私には十分に分析しきれませんが、透明な3種のミネラルウォーターに子どもたちが身を乗り出してくる(身を乗り出してくる子どもがいる)秘密があったと思います。そして、「当たるはずがない」と思っていた岸本先生にも、「当てたる」と意気込んだ子どもにも(この子が実際に当てたのかどうかは書かれていませんが)、テイスティングした子どもたちにも、50%正解と聞いてまぐれではないという確信を含んだ驚きが走ったことでしょう。
そしてここからエビアンを飲んだらくさかったとか、一人の男の子が家から持ってきた井戸水がオレンジジュースの味がしたけどそれはペットボトルはよく洗ったけどキャップを洗うのを忘れてたという笑い話とか、いつも何も思わず飲んでいた水道水がミネラルウォーターと飲み比べるとまずくて飲めないとか、「水」とその「味」をめぐるいろいろなエピソードが派生していきます。もちろん岸本先生の「仕込み」もあってのことですが、水とその味というシンプルに感覚に訴える素材が子どもたちの興味を捉えて放さなくなっていきます。けれど、このミネラルウォーターは、岸本先生と子どもたちのある意味抜き差しならぬ停滞した関係の場に突然差し出されたからこそ、その関係の中で独自の意味を持ち始めたと思うのです。従ってここのところは、一般化したりまねをしたりはできない部分だと思うのですが、それでもこのミネラルウォーターの、ミネラルウォーターをめぐる岸本先生と子どもたちの関係、その動き出しの意味を探ることには教育実践研究としての意義があると私は思います。
スッキリ整理できてはいないままですが、以上本書第1章を中心として私が学んだことを書き出してみました。
最後に、これは善し悪しの問題としてでなく単に事実として気づいたことですが、本書における岸本氏の実践報告には、子どもの個人名が登場しません。もちろん昨今は、教育実践記録に個々の子どもを登場させる場合にも、ほとんどの筆者は仮名表示か記号表示を使います。実践記録に登場する子どもの個人情報を保護するためにこの作法が一般常識となっていると言っていいでしょう。ところが、岸本氏はそうした形でも学級の子ども個人を浮き立たせる記載の仕方をしていません。ミネラルウォーターの「銘柄を当てたる」と名乗り出た子どもについても、「ある子」としか書かれていません。クラスの中にAという子どもとBという子どもとCという子と……がいて、それぞれの子どもが学級生活のそれぞれの局面でどのような言動をとり、それがどう動き変化していくかという実践の描き方を岸本氏はしていないわけです。特定年度の学級崩壊寸前だった6年生学級という状況から、狭い地域社会のこと、いくつかの点としての言動記録を結んでいくとその人物が特定される危険があるからそうされたんでしょうか。しかし、個人名をあげない記録方法は、第3・4章にも一貫しているようです。このあたりの考え方について、機会があれば岸本氏に伺ってみたいと思っています。
上記の「学習ノート」に対して、『希望の教育実践』著者である岸本清明先生から丁寧なコメントをいただきました。岸本先生のお許しを得て転載致します。岸本先生、ありがとうございました。
返信削除以下はいただいたコメントの前半です。
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佐藤年明先生
おはようございます。朝起きてメールを見たら、先生のブログが添付されていました。中を恐る恐るのぞいてみますと、すごい膨大な文章が記載されていました。
ご多用の中、膨大な時間とエネルギーを傾注して下さいましたこと、まずお礼申し上げます。そして、東条川学習の最初の実践を、「希望の教育実践」を引用しながら、教育学者らしく実践のポイントになる点を丁寧に分析しながら、その教育的価値がよりはっきりと見えるように構成してくださいました。そのことに深くお礼申し上げます。
先生の分析を見るまで、当時の私にはこのようにたくさんの「選択の機会」があったことを、私自身は認識していませんでした。無我夢中で、どうしたら良いのかその時その時に考えて選択していたのだと思います。
もし、それぞれの機会で私が判断を大きく誤っていたら、その時点でこの実践は終わっていただろうなと、改めておそろしく思いました。
先生も記されていますように、この実践の最大のポイントは、ミネラルウォーターの飲み比べです。
「銘柄を当てたるから、もう一度出せ」といったのは、やんちゃな男子の一人です。彼とはこの時まで話をしたことがなかったのです。だから、意外に思ったのです。おいしい水が飲める、銘柄を当てるクイズができる、子どもたちは「おもしろい」と感じたのでしょう。やんちゃな彼は全て正解でしたが、同じ地区に住む勉強のできるもう一人の男子は、ほとんど合いませんでした。やんちゃな彼が私の所に来て「勉強と舌とは別物なんやな」と言い放ちました。彼の劣等感の一部が氷解した瞬間だったなのだなと、私はその言葉を聞いて思いました。
隣の6年1組担任は、「この飲み比べが全てだった」と、年度末に話してくれました。というのも、この飲み比べが始まってから「2組の男子たちが1組の教室にいじめに来なくなった」と。そして、1組の子たちが、「2組の子が何かおもしろいことをしている」と話していたからです。
水の飲み比べも最終段階で、一人子どもが「話し合う時間がほしい」と言ってきました。「どうぞ」と言って何を話し合うのかを見ていますと、「どのミネラルウォーターが一番おいしいか」でした。子どもたちはけっこう長い間真剣に論議していました。そして、「水は好みの問題だから、どれが一番かは決まらない」との結論を出していました。私たち大人からすると当たり前のことでも、テストでいつも正解は一つとすり込まれている子どもたちには、おいしいミネラルウォーターも一つになると思っていたのでしょう。
「人によって違う」ことを容認すること、これもクラスが大きく変わる契機となりました。
それと、東条川の最近の汚れを証明するのに、お年寄りを呼んできたことです。後からこのおじいさんか東条町議会の議長だったと知りました。私は子どものおじいちゃんという感じで2度も訪問しました。この人は私の真意を知ろうと、いろいろ質問をしてくれました。そして、納得してクラスで話をすることを引き受けてくれました。
その後この人は、東条川学習を全校で実施する際に、大きな推進役をしてくれました。というのも、他学年の東条川学習の講師を全て引き受けてくれたのです。また、子どもたちが魚取りをすると言ったときには、知り合いのお年寄りを紹介してくれたのです。そしてことある度に、東条川学習の真意と真価を村人に説明してくれたのです。彼のおかげで、東条川学習に対する地域の反対はありませんでした。
この東条川学習は、運も人も味方してくれたのだと思いました。
学習を進めていく中で、意外に思ったこともありました。それは、稚魚を入れたビーカーの中に洗剤を入れる実験です。それは子どもたちに大ショックだったのです。ひどいいじめをしていた男の子たちが、「やめたってくれ」と叫んだことです。女の子たちも驚いたと思います。男の子たちのやさしさに。同級生に口だけでなく、時には暴力をふるっていた子たちが、「魚が死ぬんだから、やめたってくれ」と叫んだことには、私自身もたいへん驚きました。
この実験は、「子どもたちも川の汚れに対する加害者である」という立ち位置を明確にしたことは間違いありません。この実験以降、彼らの取り組みはより真剣になっていきましたから。
この実践を通して私が学んだことはたくさんあるのですが、中でも表現活動の大事さです。自分たちの実験や取り組みを、子どもたちが模造紙に書く、ペープサートという簡易人形劇でする、紙芝居にする、クイズにする、劇をする……様々な方法で、同級生、親たち、市役所の課長、全校生に報告する機会を持ちました。
それら報告会の前に、私は学級会で司会者と何を報告するかを決めると、後は司会者に任せました。すると、司会者はみんなの意見を聞きながら、報告を分担するグループを作っていきました。そして、予行の日を決めました。予行の日か来たら、司会者が司会をしながら各班に報告を促していきました。うまくやった班は拍手喝采です。そうでない班は、注文が殺到です。そして、本番を迎えました。すると、注文が殺到した班も何とかクリアーできる内容にまで高まっているのです。驚きました。その班の子どもたちは、いつどこで話し合いと練習をしたのか。
人間とは表現する動物なのです。自分が表現したいと考えたことは、私たちが思う以上に巧みにするのです。それまで私は、恥ずかしながら表現の真意に気づいていなかったのです。子どもたちに本格的に表現をさせていなかったのです。つまり、子どもが表現したくなるような教育実践を創り上げていなかったと思うのです。
ところが、このような総合学習をするようになって、子どもたちが心を動かし、これをみんなに伝えたいと思うような内容を私は創っていけるようになったのです。
私は、全ての学校の教員たちに、このような総合学習に取り組んで、「子どもたちが心を動かし、これをみんなに伝えたいと思うような内容を創っていける」ような教育実践をしてほしいと考えています。そうすることによって教育内容が変わるだけでなく、教育観や児童観も大きく変わっていくと考えるからです。もともと子どもたちには様々な能力が備わっていて、私たちが感じている以上に賢いことに気づくでしょう。それが分かるだけで、教育実践の質と方向は変わっていきますから。
(後半へ続く)
岸本先生からのコメントの後半です。
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最後の方で、私の総括の中で、先生が強く共感された2箇所をご紹介下さっています。
【今まで私は、おもしろい教材を用いて教えれば、子どもたちは意欲的に学ぶはずだと考えてきました。確かにその面はあるにしても、今回は完全に違っていました。子どもたちは、ミネラルウォーターや水道水、東条川の水を教材に自分たちで調べ、その結果をみんなに報告しあいました。それをもとに、みんなで一定の結論を導くとともに、次の課題を見つけていきました。それを繰り返して、自分たちで一つの学びを創り上げたのでした。まさに「行動主体」へと子どもたちは成長していったのです。】(P.50)
【この過程で、学級も劇的な成長を見せたのです。それは、「東条川をきれいにする」という目標ができ、いろいろな活動をするたびに、みんなの中に「協力、共同する」関係ができあがっていったからです。
それはまず、自分たちの作った学習課題に対して、各班で一生懸命調べてきたことを伝える言葉が、互いの心に響いたのです。それに、すぐれた報告をしてくれる友に対して尊敬の念も生まれてきたのです。また、様々な集会を準備している際に、友のアドバイスを聞いて報告の仕方を変えると、自分の思いがより伝わることを実感したり、自分一人ではできないことを、班やクラスですると思いのほか簡単にやってしまえることに気づいたりしたのです。その中で、子どもたちの間に「聴き合う関係」が、自然に構築されていったのです。こうなると、クラスは安定します。】(P.50-51)
暴力を伴ういじめが解消されたのはなぜか、それは上記の2つの理由からです。言い換えると、一つは、おもしろい学習を自分たちで創り上げていくなかで、価値の高い自己実現ができることに気づいたのです。
それに、子どもたちは、いろんな機会に学んだことを発信します。発信された方はそれをきちんと受け止め、行動で返してくれる。東条町役場の課長がその典型です。子どもたちは、不信感を持っていた大人をも信頼し始めたのです。
もう一つは、子どもたちの中に、協力・共同の関係が自然にできあがっていくのです。東条川学習も終末に近づいた日に、「東条川をきれいにしよう」というビラを作成し、校区に全戸配布することを自分たちが提案したのです。すると、何人かが下書きを創ってくれました。それをもとに、絵のうまい子、字の上手な子、構成が得意な子が見事に協力して、一枚のビラに仕上げたのです。提案から一週間経たないうちにビラが完成です。そのビラを見て、これ自分一人ではできないなとみんなが感じたのです。1000部印刷すると、子どもたちは手分けして、喜んで校区全戸配布してくれました。残念なことに、そのビラの原本は紛失してしまいましたが。
このように知育と徳育とが同時にできていくような実践は、私には初めてのことでした。そこに、「もう一つの教育があった」と感じたのです。
良いものに出会うと、子どもは驚くほど成長するのです。その貴重な一時期を私たち教員は関わるのです。そのことを肝に、教員は子どもたちと関わっていかなければならないと改めて思いました。
佐藤先生、膨大なしかも精緻なブログの作成、ありがとうございました。私の実践の教育的価値を再確認するとともに、別の角度から再検討できて、とてもありがたく、うれしかったです。
先生は教育学者ですから、言葉を手かがりに実践を掘り起こして行かれます。私は実践家ですから、子どもがおもしろいと感じたことや私が教育的価値があると思ったことに、のめり込んで実践していきます。しかし、それが思い込みだったらという恐れを、常々感じていました。何せ私か東条川学習を報告したとき、全教の全国大会の分科会と教科研以外は、沈黙、冷笑、全否定、拒否……、苦い苦い体験がありますから。
しかし、教育とは自分を教えることでもあるのです。たくさんの本を読み、教科研や森垣先生の研究会など、あちこちの研究会で報告の機会をもらい、ようやく評価も定まりました。その後、似たような総合学習を展開する中で、自分の実践はそう捨てたものではないと、確信するようになっていったのです。
教育実践には、教育学が必要だと常々考えていました。それで、佐藤先生がどう評価されるか、とても気になっていたのです。
今後、概括など自分の教育実践の総括をしていく中で、大事な観点を示して下さっています。実践家の私には実践の中で、概括の意味を深く考えていきたいと思います。
今後ともよろしくお願いいたしまして、お礼の手紙といたします。
2022/07/23
岸本 清明