19 【アーカイブ04】 教育学文献学習ノート(14)2018-2021教育政策(関連)文書群 (2021.3.11-13執筆)

※再録にあたって(2022.8.20)

 約1年5ヵ月前に書いて、facebook上に投稿した文章です。
 先日の教育科学研究会第60回大会教育課程と評価分科会に参加し、この間数年の間に出された教育課程に関連する諸政策文書はその圧倒的な量の多さからも研究者個人では到底把握・分析しきれないと痛感しました。
 以下の「ノート」は2021年度京都女子大学「教育課程論」の開講を前に私自身の教育政策認識をrenewalする必要を感じてリサーチし、書いたものです。主な政策文書は一応フォローしたつもりですが、分析についてはそれぞれの文書が目指す「社会像」に限定しており、肝心の学校教育政策についてトータルな流れと個々の文書の特徴を捉えるに到っていません。しかし、これを出発点としてあらためて教育課程に関心を持つ研究者との交流・討議をしていくことが必要だと考え、不十分なものですが改めて公開することにしました。 

 

 三重大学教育学部では、在任最終年度の2019年度まで教職科目「教育課程論」を担当していました。「教育課程論」の内容構成にはいろいろ苦労しました。当初は年間4コマ、「教育課程論Ⅰ」「教育課程論Ⅱ」の2種類各2コマを開講していて、学生は両方を受講することも可能なので(実際にそうする学生はわずかでしたが)、Ⅰを「総論」と位置づけて学習指導要領の変遷等を中心に扱い、Ⅱでは当時教員免許法上に相当する科目がなかった(今はありますが)「総合的な学習の時間」について、ワンテーマ(性、環境など)で半期ずっと取り組む「各論」として取り組んでいました。教職科目における教育課程に関する学習を「各論」だけで終える学生がいてもいいのか?という思いもありましたが、各論を究める?ことにもまた一般陶冶としての意義があるという風に考えていました。
 その後文科省からの突然の指示で「教育課程論」を含むいくつかの教職科目は小学校免許取得希望者対象と中高希望者とを別々に開講せざるを得なくなり、上記のように2つの授業を総論・各論としてそれぞれ開講するということはできなくなりました。そしてその後また文科省から教職科目の開講種類が多すぎるとかで校種別開講は不要というお達しがあって免許校種にかかわらず一つまたは二つの「教育課程論」を履修可能となりました。思うところあって「教育課程論Ⅰ」「教育課程論Ⅱ」を共に東日本大震災学習に充てたこともありましたが(2014年度)、その後また総論(Ⅰ)・各論(Ⅱ)という形に戻し、Ⅰは学習指導要領変遷史等、Ⅱで東日本大震災(最終2018年度は「生と死の学習」)を取り上げるというスタイルで三重大学での仕事を終わりました。
 その後1年だけ在籍した京都橘大学では講義科目担当がなく、また併任の京都教育大学連合教職大学院では「カリキュラム概論」をリレー方式で全体の3分の1の5回分だけ担当し、学習指導要領史のうち、初期(第1・2期)学習指導要領と「法的拘束力」付与の時期(第3期)までを扱いました。
 三重大最終年度(2018年度)の「教育課程論Ⅰ」では、当初シラバスで学習指導要領変遷史をそれまで通り「生きる力」論(第8/9期=2008年版学習指導要領)までとしていたものの、既に2016年12月に中教審答申、2017年3月に小中学習指導要領、2018年3月に高校学習指導要領が告示されて教育課程の移行期間に入っていたので、急遽項目を加えて第9/10期学習指導要領の「資質・能力」「「主体的・対話的で深い学び」「カリキュラム・マネジメント」についても取り上げました。しかし、自分なりの批判的分析は不十分だったと思います。そして翌2019年度は上述の通り私の授業における教育課程改訂の最新動向についての扱いは空白状態でした。
 今年度から非常勤講師として赴任した京都女子大学では前期に「教育課程論」をremoteで担当しましたが、そこでの学習指導要領史の扱いも2016中教審答申・2017/18学習指導要領まででした。教育課程基準としての学習指導要領に関する学習としては、2020年度から小学校が全面実施、他はまだ移行期にあり、取り敢えずそこまで扱っておけば教師を目指す学生もそれほど困らないとは言えるでしょう。しかしこの間、『教育』誌やFacebook上での教育政策に関する情報や意見交換を見ていて、学習指導要領改訂以降に既に教育政策、特に教育課程や子どもの学習活動、教師の指導と関連する領域で新しい政策的提起がどんどん出されていること、従ってそれらをフォローできていない私自身の教育政策認識が遅れてきていることを意識するようになりました。そして、4月9日の来年度京都女子大「教育課程論」開講までにはcatch upしておく必要があると自覚しました。


 3月に入ってから、以下の教育(関連)政策文書を通読しました。「(関連)」としたのは、文科省・中教審の文書だけでなく、経産省関係の文書も含んでいるからです。
 後の言及の便宜のために、文書名に記号を付けておきます。

A.2018.3.8「第3期教育振興基本計画について(答申)」(中央教育審議会)
B.2018.6.5「Society 5.0に向けた人材養成 ~社会が変わる、学びが変わる~」(Society 5.0に向けた人材育成に係る大臣懇談会・新たな時代を豊かに生きる力の育成に関する省内タスクフォース)
C-1.2018.6 「経済産業省『未来の教室』とEdTech研究会第1次提言 『50センチ革命×越境×試行錯誤』『STEAM(S)×個別最適化』『学びの生産性』」
C-2.2019.6 「『未来の教室』ビジョン 経済産業省『未来の教室』とEdTech研究会 第2次提言 EdTechの力で、一人ひとりに最適な学びを STEAMの学びで、一人ひとりが未来を創る当事者(チェンジ・メーカー)に」
D-1.2021.1.25「教育課程部会における審議のまとめ」(中央教育審議会初等中等教育分科会教育課程部会)
D-2.2021.1.26「『令和の日本型学校教育』の構築を目指して ~全ての子供たちの可能性を引き出す、個別最適な学びと、協働的な学びの実現~ (答申)」

また、関連して、以下の文書も(部分的にですが)読みました。

E.2015.9.25 Transforming our world: the 2030 Agenda for Sustainable Devolopment  (United Nations)/仮訳「我々の世界を変革する:持続可能な開発のためのアジェンダ」
F.2018 THE FUTURE OF  EDUCATION AND SKILLS  Education 2030 (OECD)/「教育とスキルの未来:Education 2030【仮訳(案)】」
G.2016.1.22「科学技術基本計画」 (閣議決定)
H.2019.4.17「新しい時代の初等中等教育の在り方について(諮問)」(柴山昌彦文部科学大臣⇒中央教育審議会)
I.(発行時期記載なし)文部科学省「GIGAスクール構想の実現へ 1人1台端末は令和の学びの『スタンダード』 多様な子供たちを誰一人取り残すことなく、子供たち一人ひとりに公正に個別最適化され、資質・能力を一層確実に育成できる教育ICT環境の実現へ」

 上記のうちEとG以外は、私がこれまでフォローできていた2017/18学習指導要領以降に公表されている文書です。自分の情報収集・分析の怠慢を棚に上げて言うと、ものすごいスピード、文書量です。

 素朴な疑問が浮かびます。
 今年度(2020年度)が小学校の第9期学習指導要領全面実施初年度(しかもコロナ禍下でさまざまな支障もあった中)、4月からの2021年度が中学校第9期学習指導要領全面実施初年度、1年後の2022年度からが高等学校第10期学習指導要領の学年進行実施初年度です。第9/10期学習指導要領の実施は、まだ完全にスタートしてもいないんです。これまでも「教育課程論」講義などで、「日本の学習指導要領は約10年に一度改訂される。改訂学習指導要領告示から全面実施まで約3年。そしてまだ全学年が新学習指導要領対応学年になりきらない間にもう次の学習指導要領改訂についての検討が始まる。これで学校現場における十分な検証ができるのだろうか?」と疑問を投げかけていましたが、それでもその時想定していたのは、学習指導要領改訂から4、5年は経ってから次の検討が始まるというくらいのサイクルでした。
 そんなこともあり、今年1月にD-2が発表されたと聞いた時も、けっこう頻繁に出される中教審の諸答申の一つだろうくらいに思っていたんですが、いろいろな人が答申に言及していることを知るにつれてどうもそんなもんじゃないらしいと気づくに至ったわけです。そこで文科省HPその他でここ数年に出された教育(関連)政策文書をチェックし、また読み始めたある文書で言及されている別の文書を新たに探すなどの作業をしばらくの間続けました。そこでようやく、政策動向は並々ならぬ状況になってきていることに遅まきながら気づきました。そしてそこで、先の「素朴な疑問」に戻りますが、その前に…

 D-2は、「令和の日本型学校教育」をタイトルに掲げています。後で見ていくように世界の最先端での経済競争に勝ち抜くことを勇ましく宣言している経産省・文科省が、天皇家の私事(平成天皇が現天皇に譲位したこと)を日本社会の「時代の区切り」と見なし、学校教育は(令和という)新しい時代に入ったと宣言していることに、一国民として本当に情けなく思います。まあ、マスコミやそれに踊らされる人々が「令和の~」という枕詞を濫発し、返す刀で過去の時代を語る修飾語として「平成の~」と言い、また「昭和やなあ」と揶揄的に述べる。そうしたゆるい雰囲気も蔓延する中、もともと元号=天皇在位期間を意図的に政治・行政の区切りとする言説を意図的にふりまいてきた政治権力がそれを言うのは当然と言えば当然ですが、私としてはしつこくこだわりたいと思います。2019年4月30日までと、5月1日以降で、いったい日本社会はどう変わったと言うの?と。一昨日は東日本大震災10周年でした。それでは2011年3月11日14:46から2019年4月30日23:59までと2019年5月1日0:00以降今までとで、被災地の人々の暮らしがどう「根本的」に変わったというのでしょうか? ばかばかしい。本当に馬鹿馬鹿しい。
 D-2の発表は2021.1.26ですから、もちろん2019.5.1をもって全く新しい学校教育を実現する(し始めた)などと権力側が宣言しているはずもないし、文書を読んでも「恐れ多くも天皇陛下が御譲位されて新しい天皇陛下の御在世が始まったことでもあるから」みたいなフリはどこにも書かれていません。それをやってしまったら、憲法違反ですからね。また、もしも何か不幸な原因で現天皇がこの世を去ったら、そこで「令和の日本型学校教育」実施が中断されてまた次の「〇〇(=新しい元号)の日本型学校教育」が始まるというわけでもないでしょう。権力の時代錯誤もそこまで酷くはないはず。結局教育政策上の時期区分云々ではなく、「新元号を定着させる」という強い一般的政治的意図の下に政策文書のラベルとして令和を貼りつけた、という程度のことかもしれません。

 戻ります。「素朴な疑問」とは元号のことではありません。
 第9/10期学習指導要領がようやく小学校から全面実施に入ったばかりの2020年度に、どうしてまた新しい教育ビジョン的なものを中教審は打ち出すのか? 2016中教審答申・2017/18学習指導要領はもう反古にしていいのか? そんなはずはありませんね。そうでないとしたら、なぜ走り始めたマラソンランナーを呼びとめて「ちょっと待て、新しい走り方を指示するから」みたいなことをする監督(あり得ませんが^^;)みたいなことをするのか?
 そこでまず遡って、D-1=2021.1.26答申の起点である=2019.4.17の文科大臣諮問文を見てみました。
 諮問のタイトルは「新しい時代の初等中等教育の在り方について」です。令和という元号は2019.4.1に事前公表されていましたが、同諮問は5.1の新元号発効前であるからか、「新しい時代」という表記になっています。
 諮問文の内容を見ると、「次代を切り拓く子供たちには,文章を正確に理解する読解力,教科固有の見方・考え方を働かせて自分の頭で考えて表現する力,情報や情報手段を主体的に選択し活用していくために必要な情報活用能力,対話や協働を通じて知識やアイディアを共有し新しい解や納得解を生み出す力などが必要であり,平成28年12月の中央教育審議会の答申『幼稚園,小学校,中学校,高等学校及び特別支援学校の学習指導要領等の改善及び必要な方策等について』を受けて改訂された学習指導要領の下で,それらの力を着実に育んでいくことが必要です。」とあり、第9/10期学習指導要領への改訂を提案した2016.12中教審答申の実施を求めています。まあ当然ですね。
 一方確かに、この後見ていくようなSociety5.0、ICTなどのトレンド用語がちりばめられているのですが、そうした新トレンドから見て2年半余り前の中教審答申の提案ではもはや不十分だ、と書いてあるわけではありません。だけど結局そういうことなんじゃないかと思うのですが。
 これまで教育課程審議会とか中教審のいろいろな答申を見てきましたが、過去の答申を礼賛することはあっても、不十分な点があったからこのように修正する、という記述は見たことがありません。だから非常にわかりにくいのです。過去に掲げた教育政策に不十分点があったと認めれば、確かに政策立案者や政治家に対する責任追及も起こるかもしれませんが、教育は政治や行政だけが担っているわけではなく、主人公である子どもを中心に教師・学校関係者、親、地域住民などが重層的に関わって運営しています。問題があったとすれば、ちょっと大げさですが国民総掛かりで検討・点検をすればいいのです。しかし前述のように政策文書が過去の点検・反省を怠りながら新しい提案をするので、何をどう変えていけばいいのかわからないまま新しいことだけ降ってくるという学校現場の負担感がますます強まって、「改革」が歓迎されないのです。

 さて、諮問文に戻って、柴山文相は中教審に対して何を提案することを求めたのでしょうか。細かい項目は割愛しますが、大きく以下の4点です。

「第一に、新時代に対応した義務教育の在り方について」
「第二に、新時代に対応した高等学校教育の在り方について」
「第三に、増加する外国人児童生徒等への教育の在り方について」
「第四に、これからの時代に応じた教師の在り方や教育環境の整備等について」

 つまり、令和という「新時代」の発足にあたり、初等中等教育全般についての再検討を求めています。義務教育・高等学校教育の「在り方」の中には当然、教育課程の在り方も含まれるはずですが、新学習指導要領の実施を求めながら一方で教育課程についても抜本的な検討を求めたのでしょうか?

 過去の学習指導要領史を振り返ると、第7期小中/8期高校学習指導要領が1998年に告示され、2002年度に小中が全面実施、そして2003年度から高校で学年進行実施が開始されたばかりの2003年12月に小中高学習指導要領の一部改正が行なわれたことがあります。「総合的な学習の時間」について(やりたい放題ではなく)学校としてきちんと計画を立てることとか、各教科の内容は最低基準であって発展的な内容を上乗せできるとか……要するに世間からの「学力低下」批判に対して2002年度の小学校全面実施を前にした遠山文相談話で文科省は学力保障もちゃんとやってると弁明したものの批判は収まらず、やむなく学習指導要領一部改正で対応したのです。実施に入ったばかりの学習指導要領を一部とは言え「改正」するというのは、学習指導要領史上かつてなかったことです。つまりは、文科省は外圧に負けたのでした。地方教育行政や学校現場=「下」に対しては強い文科省ですが、財界、政治家、御用学者などの圧力には弱いのです。

 こういう過去を知っているので、2021.1.26中教審答申を詳しく読む前は、また同じような軌道修正が起こったかと思いました。答申を、あるいは関連諸文書を読んだ現段階において、そうではなかったと判断を変更したわけではありません。おそらく経産省の動き等を考慮すると、やはり2016答申・2017/18学習指導要領だけでは不十分という判断が文科省あるいは政府レベルで働いていると思います。そして思うのは、約10年前後という文科省が設定した教育課程改訂スケジュールが、経産省はじめ他省庁や、その間に働く諸々の政治力学によって、従来のようには実行できなくなっているのではないか、という推測です。この推測はあくまで推測にすぎませんが、以下のような政策文書の流れをたどる中で傍証できないでしょうか。


◎G.2016.1.22「科学技術基本計画」 (閣議決定)

 まずは、現行学習指導要領を規定した2016.12中教審答申に先立って出されているG(2016.1.22)です。科学技術基本計画は科学技術基本法(1995)にもとづき「10年先を見通した5年間の科学技術の振興に関する総合的な計画」(「第5期科学技術基本計画の概要」)であり、5期目となる今期は2016-2020年度を対象としており、その計画実施はすでに最終盤ということになりますが、提案としては10年先を見通すということなので2025年度頃までの社会に影響を行使することを見込んでいるようです(一方すでに「第6期科学技術・イノベーション基本計画」の答申草案も発表され、意見聴取も終了した段階のようです)。
 わが国の科学技術政策全体を検討する力は私にはありませんが、取り敢えず本計画が目指している社会像だけは見ておきましょう。それは「ICTを最大限に活用し、サイバー空間とフィジカル空間(現実世界)とを融合させた取組により、人々に豊かさをもたらす『超スマート社会』」とされ、「その実現に向けた一連の取組を更に深化させつつ『Society 5.0』として強力に推進し、世界に先駆けて超スマート社会を実現していく」とされています(G 第2章未来の産業創造と社会変革に向けた新たな価値創出の取組 (2)世界に先駆けた「超スマート社会」の実現(Society 5.0) P.11)
 「超スマート社会」のもう少し詳しい説明は以下の通りです。

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 必要なもの・サービスを、必要な人に、必要な時に、必要なだけ提供し、社会の様々なニーズにきめ細かに対応でき、あらゆる人が質の高いサービスを受けられ、年齢、性別、地域、言語といった様々な違いを乗り越え、活き活きと快適に暮らすことのできる社会(同P.11)
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 また、「Society 5.0」には註記があり、
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狩猟社会、農耕社会、工業社会、情報社会に続くような新たな社会を生み出す変革を科学技術イノベーションが先導していく、という意味を込めている。(同P.11)
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とありますが、更なる出典は記載されていません。
 前述のように日本の科学技術政策を検討する素養が私にはないので、「超スマート社会」「Society5.0」がこの第5次の科学技術基本計画において政策文書上初出であるのかどうかはわかりません。第6次計画(素案)も気になるのですが、追いかけていると切りがないので、素案の目次のうち「Society5.0」の語と関係する部分だけを抜粋しておきます。ざっと見ただけなので不正確な認識ではありますが、第5次計画で頻出していた「超スマート社会」の語が見あたらず、「Society5.0」という呼称に統一されたのかなと思います。

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第1章基本的な考え方
 3.Society 5.0という未来社会の実現
 (1)我が国が目指す社会(Society 5.0)
 (2)Society 5.0の実現に必要なもの
 (3)我が国の価値観の世界への問いかけとSociety 5.0
第2章    Society 5.0の実現に向けた科学技術・イノベーション政策
 1.国民の安全と安心を確保する持続可能で強靭な社会への変革
 (1)サイバー空間とフィジカル空間の融合による新たな価値の創出
 (2)地球規模課題の克服に向けた社会変革と非連続なイノベーションの推進
 (3)レジリエントで安全・安心な社会の構築
 (4)価値共創型の新たな産業を創出する基盤となるイノベーション・エコシステムの形成
 (5)次世代に引き継ぐ基盤となる都市と地域づくり(スマートシティの展開)
 (6)様々な社会課題を解決するための研究開発・社会実装の推進と総合知の活用
 2.知のフロンティアを開拓し価値創造の源泉となる研究力の強化
  (1)多様で卓越した研究を生み出す環境の再構築
 (2)新たな研究システムの構築(オープンサイエンスとデータ駆動型研究等の推進)
 (3)大学改革の促進と戦略的経営に向けた機能拡張
 3.一人ひとりの多様な幸せと課題への挑戦を実現する教育・人材育成
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 第6次計画(素案)への言及から離れるにあたって一つ気になるのは、おそらく間もなく発表されるであろう第6次計画の最終決定提案が、またまた教育政策決定の過程に影響するであろうということです。科学技術基本計画と中教審答申等の教育政策分野の文書との内容的連関、前者の後者への影響については確認できていませんが、D-2.2021.1.26中教審答申・「令和の日本型学校教育」提案の中に「Society5.0時代」の語が見られることからも両者の関連は明らかです。


 ここで「Society 5.0」について突っ込んだ検討をする力は私にはないのですが、さきほどのでの説明、「狩猟社会、農耕社会、工業社会、情報社会に続くような新たな社会」から見て人類史的な規模での社会発展の段階を指そうとしているようです。

 そこで、これまで私が検討し得た範囲の教育課程政策文書の中で、来たるべき人間社会像をどのように描いて見せていたのかをちょっとふり返ってみたいと思います。

 まず「生きる力」論を提起した1996年中教審答申「21世紀を展望した我が国の教育の在り方について」においては、来たるべき21世紀社会を以下のように展望しています。

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第1部今後における教育の在り方
(2)これからの社会の展望
 戦後,我が国は,廃墟の中から欧米諸国に追い付き追い越すべく,努力してきた。その結果,驚異的な経済成長を遂げ,世界経済の中で大きな地位を占めるとともに,所得水準の面でも世界のトップレベルに達し,今や国民一人一人が豊かさを謳歌するに至っている。
 しかし,その一方で様々な問題が生じてきている。過疎化や都市化が進行し,企業中心の行動様式が社会に定着する中で,地域社会の連帯感は次第に希薄となってきた。また,核家族化が進み,家族の有り様も大きく変化した。経済成長を追い求め続けてきた結果,いつも何かに追い立てられているような余裕のない生活を送り,また,豊かさを実現したといっても,物質的な豊かさが中心で,あふれるモノに取り囲まれながら,何かしら満たされぬ思いが募る毎日を送っている。このような中で,国民は次第に[ゆとり]や心の豊かさなど多様な価値や自己実現を求めるようになってきている。今日,我々は,これまでの過去を立ち止まって振り返りながら,経済成長の過程で失ったものは何か,今後,我々が本当に求めるものは何であるかを考えてみなければならない。
 また,追い付き追い越せ型の経済成長を遂げてきた我が国は,欧米先進諸国の開発した科学技術を上手に活用するというこれまでの手法はもはや許されず,自ら科学技術を創造し,新しいフロンティアを開拓していくことが求められている。
 加えて,経済大国の地位も,東アジアを中心とした海外諸国の競争力の向上により揺り動かされ始めており,我が国は,単に良質の物を製造するだけでなく,より付加価値の高い製品やサービスを提供する高次な経済社会へと経済構造の改革をしていく必要が生じている。このような経済構造の変革の中で,経済の高度成長に深くかかわった終身雇用や年功序列という日本型雇用システムも揺らいできている。
 さらに,我が国の社会は,今後,様々な面で変化が急速に進むと考えられる。社会の変化の方向については,それらの変化に対応する教育の在り方を提言する第3部で詳しく述べることとしているが,ここでは基本的な展望を述べておくこととする。
 一つは,国際化の進展である。冷戦の終焉や交通手段の発達,情報化の進展を背景に,経済,社会,さらには,文化の面で交流が一層進み,国際的な相互依存関係がますます深まっていく。一方,様々な面で,国際的な摩擦や競争も生じてくると考えられる。
 また,情報化の進展は,さらに新しい段階に入っていくと考えられる。マルチメディアという言葉に集約されるように,世界的な規模の情報通信ネットワークを通じて,不特定多数のものが,双方向に文字・音声・画像等の情報を融合して交換することが可能となりつつある。このような高度情報通信社会の実現は,地球規模で今後の社会や経済の姿を大きく変えていくものと考えられる。
 さらに,科学技術の発展も著しいものになると考えられる。今後,科学技術は,分子レベルでの生命の研究,原子レベルでの物質の研究,宇宙の成り立ちの研究など一層の発展が見込まれる。これらの発展は,人類にとって豊かな未来を築く原動力になると考えられるが,とりわけ,人間の知的創造力が最大の資源である我が国にとって,諸外国以上に科学技術の発展は重要である。しかしながら,一方,科学技術が著しく高度化・細分化・専門化する中で,国民にとって科学技術は分かりにくいものとなり,不安感がさらに高まっていくことも懸念される。
 また,今日,地球環境問題,エネルギー問題など人類の生存基盤を脅かす問題も生じてきている。これらは,大量生産・大量消費・大量廃棄型の現代文明の在り方そのものが問われる問題であるが,今後,地球規模でこれらの問題に取り組んでいく必要性はさらに高まり,この面で,我が国の貢献がさらに強く求められるようになっていくことが予測されるところである。
 さらに,我が国では,今後,高齢化や少子化が急速に進展し,かつて経験したことのないような少子・高齢化社会を迎えることが確実と見られている。また,男女が,社会の対等な構成員として,自らの意思によって社会のあらゆる分野に参画する機会が確保される「男女共同参画社会」づくりも重要な課題となっている。
 これからの社会をどのように展望するかについては,様々な変化や要素を考える必要があり,一概に言い表すことは難しいが,いずれにせよ,変化の激しい,先行き不透明な,厳しい時代と考えておかなければならないであろう。

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 ごく粗っぽくまとめると、戦後日本社会は順調な経済成長を遂げてきたが、ここに来て様々な社会問題の噴出や海外諸国の台頭に脅かされるなど厳しい状況下に置かれており、今後の展望として国際化、情報化、科学技術の発展などが期待されるが地球規模の環境問題や少子高齢化社会の到来など直面し解決すべき重要問題もあり、全体として「変化の激しい、先行き不透明な、厳しい時代」であるとしています。そしてこの近未来社会像から以下のような人間像的教育目標=「生きる力」が導き出されます。

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我々はこれからの子供たちに必要となるのは,いかに社会が変化しようと,自分で課題を見つけ,自ら学び,自ら考え,主体的に判断し,行動し,よりよく問題を解決する資質や能力であり,また,自らを律しつつ,他人とともに協調し,他人を思いやる心や感動する心など,豊かな人間性であると考えた。たくましく生きるための健康や体力が不可欠であることは言うまでもない。我我は,こうした資質や能力を,変化の激しいこれからの社会を[生きる力]と称することとし,これらをバランスよくはぐくんでいくことが重要であると考えた。
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 「生きる力」論については拙著『「生きる力」論批判』(三重大学出版会 2019)で徹底的に批判しましたので繰り返しませんが、上述のように近未来社会像と連動させて捉え直してみると、結局社会はどう変化するかはっきりわからないけれどとにかくそれにcatch upし、しがみついて生きよ(どう進むかわからない社会に、とにかく貢献せよ)という言わば「やけくその人間像」と読めなくもありません。
 世紀の変わり目に社会の進展方向のヴィジョンが持てずに右往左往しているというのではないにしても、確実な方向が示せない中でそれでも次世代の教育指針を示さねばならないという苦渋が滲んでいるようにも思われます。


 それでは全面実施過程にある現行学習指導要領の基礎理念である2016.12.21中教審答申「幼稚園、小学校、中学校、高等学校及び特別支援学校の学習指導要領等の改善及び必要な方策等について」では、どのような社会像を提示しているでしょうか。

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第2章 2030年の社会と子供たちの未来
(予測困難な時代に、一人一人が未来の創り手となる)

○ こうした現状分析を踏まえ、子供たちがその長所を伸ばしつつ課題を乗り越えていけるようにすることが重要であるが、教育課程の在り方を検討するに当たっては、加えて、子供たちが現在と未来に向けて、自らの人生をどのように拓いていくことが求められているのか、また、新しい時代を生きる子供たちに、学校教育は何を準備しなければならないのかという、これから子供たちが活躍することとなる将来についての見通しが必要となる。
○ 新しい学習指導要領等は、過去のスケジュールを踏まえて実施されれば、例えば小学校では、東京オリンピック・パラリンピック競技大会が開催される2020年から、その10年後の2030年頃までの間、子供たちの学びを支える重要な役割を担うことになる。学校教育の将来像を描くに当たって一つの目標となる、この2030年頃の社会の在り方を見据えながら、その先も見通した姿を考えていくことが重要となる。
○ 前回改訂の答申で示されたように、21世紀の社会は知識基盤社会であり、新しい知識・情報・技術が、社会のあらゆる領域での活動の基盤として飛躍的に重要性を増していく。こうした社会認識は今後も継承されていくものであるが、近年顕著となってきているのは、知識・情報・技術をめぐる変化の早さが加速度的となり、情報化やグローバル化といった社会的変化が、人間の予測を超えて進展するようになってきていることである。
○ とりわけ最近では、第4次産業革命ともいわれる、進化した人工知能が様々な判断を行ったり、身近な物の働きがインターネット経由で最適化されたりする時代の到来が、社会や生活を大きく変えていくとの予測がなされている。“人工知能の急速な進化が、人間の職業を奪うのではないか”“今学校で教えていることは時代が変化したら通用しなくなるのではないか”といった不安の声もあり、それを裏付けるような未来予測も多く発表されている。
○ また、情報技術の飛躍的な進化等を背景として、経済や文化など社会のあらゆる分野でのつながりが国境や地域を越えて活性化し、多様な人々や地域同士のつながりはますます緊密さを増してきている。こうしたグローバル化が進展する社会の中では、多様な主体が速いスピードで相互に影響し合い、一つの出来事が広範囲かつ複雑に伝播し、先を見通すことがますます難しくなってきている。
○ このように、社会の変化は加速度を増し、複雑で予測困難となってきており、しかもそうした変化が、どのような職業や人生を選択するかにかかわらず、全ての子供たちの生き方に影響するものとなっている。社会の変化にいかに対処していくかという受け身の観点に立つのであれば、難しい時代になると考えられるかもしれない。
○ しかし、このような時代だからこそ、子供たちは、変化を前向きに受け止め30、私たちの社会や人生、生活を、人間ならではの感性を働かせてより豊かなものにしたり、現在では思いもつかない新しい未来の姿を構想し実現したりしていくことができる。
○ 人工知能がいかに進化しようとも、それが行っているのは与えられた目的の中での処理である。一方で人間は、感性を豊かに働かせながら、どのような未来を創っていくのか、どのように社会や人生をよりよいものにしていくのかという目的を自ら考え出すことができる。多様な文脈が複雑に入り交じった環境の中でも、場面や状況を理解して自ら目的を設定し、その目的に応じて必要な情報を見いだし、情報を基に深く理解して自分の考えをまとめたり、相手にふさわしい表現を工夫したり、答えのない課題に対して、多様な他者と協働しながら目的に応じた納得解を見いだしたりすることができるという強みを持っている。
○ このために必要な力を成長の中で育んでいるのが、人間の学習である。解き方があらかじめ定まった問題を効率的に解いたり、定められた手続を効率的にこなしたりすることにとどまらず、直面する様々な変化を柔軟に受け止め、感性を豊かに働かせながら、どのような未来を創っていくのか、どのように社会や人生をよりよいものにしていくのかを考え、主体的に学び続けて自ら能力を引き出し、自分なりに試行錯誤したり、多様な他者と協働したりして、新たな価値を生み出していくために必要な力を身に付け、子供たち一人一人が、予測できない変化に受け身で対処するのではなく、主体的に向き合って関わり合い、その過程を通して、自らの可能性を発揮し、よりよい社会と幸福な人生の創り手となっていけるようにすることが重要である。

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 1996答申では時期を区切っての未来社会予測はなかったんですが、2016 答申では次期学習指導要領が使命を終えると思われる2030年頃の社会を予測のターゲットとして定めています。そして2008中教審答申以来の「知識基盤社会」という社会像を踏襲しながらも、情報化やグローバル化の加速度的進展を強調します。
 またここでは、「Society 5.0」の語こそまだ登場しませんが、同様の意味の「第4次産業革命」の語が使われ、「人工知能」(今では「AI」の語の方が普及していますね)の普及によって人間の役割が不安定化する予想を紹介したりしながらも、こういう時代だからこそ逆に受け身にならずに「どのような未来を創っていくのか、どのように社会や人生をよりよいものにしていくのかという目的を自ら考え出すこと」こそ人間本来のあり方であること、子どもたちが「予測できない変化に受け身で対処するのではなく、主体的に向き合って関わり合い、その過程を通して、自らの可能性を発揮し、よりよい社会と幸福な人生の創り手となっていけるようにすること」を強調します。
 しかしこうした人間像・子ども像も、結局これまで人間が担ってきた活動のかなりの部分を「人工知能」に肩代わりされる中で、生身の人間がつくりあげていくこれからの人間社会について「人工知能では担えない部分を」という言わば「引き算的ビジョン」しか提示できていないのではないかと思います。


 さてさて、(第5次科学技術基本計画 2016)への言及からずいぶんあちこち寄り道してしまいました。しかしその寄り道作業の中で、取り敢えず私の大きな関心は教育政策が描く近未来社会像にあることもはっきりしてきました。その点についてはそのものが多くのことを語っているのですが、学校教育に特化しての言及はほとんどないようですので、このへんでから離れて学校教育に近づいていきましょう。
 しかしその際に、いま検討している2018-2021年という時期に関しては、すぐに中教審や文科省の文書の検討に移れません。本稿冒頭の一覧表でいうと、C-1C-2をまず見ておく必要があります。
 私自身戦後の教育政策文書を主要なものだけでもほぼレビューしているというわけではありませんが、教育政策に対する経済界からの要求というのは継続的に提出され、教育政策に大きな影響を及ぼしてきたことは知っています。また政府内で文部省・文科省だけでなく他の部署が教育政策に関わる検討・提案をすることが過去にもあったことは知っています。しかし、C-1・C-2での経産省の教育政策への関わり方は、これまでのレベルのことではないように思います。


 あ、ちょっと勇み足をしました。2018.6のC-1、2019.6のC-2を検討する前に、2018.3.8発表のを見ておく必要があります。

◎A.2018.3.8「第3期教育振興基本計画について(答申)」(中央教育審議会)

 2006年に教育基本法が改悪されたことに伴い、国家や地方行政が学校教育の内容・運営について事細かく定め、拘束する仕組みが作られました。これにより国レベルで第1期教育振興基本計画(2008-12年度)・同第2期(2013-17年度)、そしてこれに続いて第3期(2018-2022年度)が策定されたわけです。
 一方、第1期の初年度に学習指導要領改訂(第8/9期)がなされ、第2期の第4・最終年度にも学習指導要領改訂(第9/10期)がなされました。そして最新学習指導要領の移行期から全面実施期と第3期教育振興基本計画がほぼ重なっています。いや、「重なっている」という書き方をしましたが、いずれも中教審が策定して文科省が実施に責任を負う教育振興基本計画と学習指導要領とは、ほんとに連動しているのでしょうか。いずれかがいずれかを無視することはあり得ないとしても、それぞれの計画を遂行し、総括し、次期案を立案する作業は、果たして連動して行なわれているのでしょうか。
 余談ではありますが、かつて俗称「ゆとり教育」批判に取り組んだときに私が指摘したことです。2002年に全面実施に至る学校五日制ですが、その準備は1992年度から始まり、土曜休みが週1日、週2日と増えていきました。教育行政機構に詳しくないのですが、こうした制度変更は、文部省(当時)から地方教育委員会、学校へと指示が下ろされて実行されていったと思われます。ところがその間、学校教育法施行規則に定められる小中高の各教科年間授業時数には全く変更が行なわれませんでした。その結果、週当たりの学校滞在時間が減少していくのに教科の授業時間数は従来通り確保することを指示され、全国の学校は運動会・遠足・修学旅行等の学校行事を取りやめるという苦渋の決断をせざるを得ませんでした。その間、学校五日制全面実施に向けて特別活動領域については縮小してよいという通達があったとは聞きません。素人考えではありますが、文部省内の学校五日制を推進する部局と学習指導要領の実行を管轄する部局が、相互の連絡調整なしにそれぞれ全国の学校にばらばらの指示を出したとしか思えません。縦割り行政極まれり、ですね。
 こういう事例もあるので、文部科学省における学習指導要領実行の指導・助言は、果たして教育政策の他の部門の遂行と整合的に実行されているんだろうかと疑うわけです。


 ともあれ、経産省提言に先立って5年ごとの計画スケジュールに従って中教審が公表したAですが、これについてもやはり、近未来社会ビジョンに関わる部分に限定して見てみましょう。

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II.教育をめぐる現状と課題
2.社会の現状や2030年以降の変化等を踏まえ、取り組むべき課題

○ 現在の社会は知識基盤社会であり、新しい知識・情報・技術が、社会のあらゆる領域での活動の基盤として非常に重要であるが、この知識・情報・技術をめぐる変化は加速度を増している。また、グローバル化の進展等によって、一つの出来事が広範囲かつ複雑に伝搬し、社会の変化を正確に予測することはますます難しくなってきている。
○ このような状況の中にあって、2030年頃には、IoT(Internet of Things)やビッグデータ、AI等をはじめとする技術革新やグローバル化の一層の進展、人口構造の変化や女性・高齢者等の活躍の進展、雇用環境の変化等が予想されている。
(1)社会状況の変化
(人口減少・高齢化の進展)
○ 我が国の人口は、平成20(2008)年をピークとして減少局面にあり、2030 年にかけて20 代、30 代の若い世代が約2割減少するほか、65歳以上が我が国の総人口の3割を超えるなど生産年齢人口の減少が加速することが予測されており、OECDの予測では、生産年齢人口の割合がOECD加盟国中最下位になるとされている。また、65歳以上の中でも、75歳以上が多数を占め、現在よりも寿命がさらに延びていくとの指摘もある。
○ 我が国の小学校・中学校・高等学校の児童生徒数はいずれも近年減少傾向にあり、平成29(2017)年度の調査結果では、小学校及び中学校において過去最少となっている。我が国の高等教育機関への主たる進学者である18歳人口も現在の約120万人から、2032年には初めて100万人を割って約98万人となり、さらに2040年には約88万人にまで減少するとの推計もある。
○ 就業状況に関しては、出産・育児を機に労働市場から退出する女性が多く、特に子育て期の女性において実際の労働力率と潜在的な労働力率の差が大きくなっており、女性の出産後の継続就業は依然として困難な状況である。また、65歳以上の雇用者は増加しており、60歳定年企業における定年到達者の8割以上が継続雇用されている状況である。

(急速な技術革新)
○ 2030年頃には、第4次産業革命ともいわれる、IoTやビッグデータ、AI等をはじめとする技術革新が一層進展し、社会や生活を大きく変えていく超スマート社会(Society5.0)の到来が予想されている。研究・開発・商品化から普及までのスピードも加速化しているとの指摘もあり、次々に生み出される新しい知識やアイデアが組織や国の競争力を大きく左右していくことが想定されるなかで、我が国は第4次産業革命への対応において世界に遅れをとっているとの厳しい指摘もあり、取組の加速が大きな課題となっている。
○ 技術革新の進展により、今後10年~20年後には日本の労働人口の相当規模が技術的にはAIやロボット等により代替できるようになる可能性が指摘されている一方で、これまでになかった仕事が新たに生まれることが考えられる。今後、いわゆるメンバーシップ型雇用からジョブ型雇用への移行や労働市場の流動化が一層進展することも予想されている。

(グローバル化の進展と国際的な地位の低下)
○ あらゆる場所でグローバル化は加速し、情報通信や交通分野での技術革新により、人間の生活圏も広がっている。また、世界の国々の相互影響と依存の度合いは急速に高まっており、貧困や紛争、感染症や環境問題、エネルギー資源問題など、地球規模の人類共通の課題が増大する中、我が国には、それらの課題の解決に積極的に取り組むことが求められている。
○ アジアをはじめとするいわゆる新興国が急速に経済成長し、国際社会における存在感が増しており、欧米のみならず、アジアも世界経済の中心的役割を担うこととなるとみられている。世界のGDPに占める日本の割合は低下傾向にあり、2030年における日本の占める割合はさらに低下するとの予測もある。社会のあらゆる分野でのつながりが国境を越えて活性化しており、人材の流動化、人材獲得競争などグローバル競争の激化が予想される。

(子供の貧困など社会経済的な課題)
○ 子供の貧困は、相対的貧困率について改善が見られるものの、引き続き大きな課題である。専門学校等も含めた高等教育機関全体への進学率は約8割となっている中で、家庭の社会経済的背景(家庭の所得、保護者の学歴など)と子供の学力や4年制大学への進学率には相関関係がみられることを指摘する研究が存在する。
○ また、学歴等により生涯賃金にも差が見られる19。子供の貧困や格差問題に対して対策を講じなければ、2030年以降も貧困の連鎖、格差の拡大・固定化が生じる可能性がある。

(地域間格差など地域の課題)
○ 人口移動の面では、東京一極集中の傾向が加速し、全人口の4分の1以上が東京圏に集中する中で、民間機関による地方公共団体の「消滅可能性」に関する分析結果20が発表され、多くの地方公共団体や地方関係者に強い衝撃を与えた。
○ 地域の経済動向をみると、雇用・所得環境の改善が続いている一方、少子高齢化や人口減少といった構造変化もあり、経済環境の厳しい地域もみられる。消費や生産といった経済活動の動向は地域間でばらつきがあり、東京圏とその他の地域との間には、一人当たり県民所得等に差が生じている。
○ また、大学進学率は都市部では高く地方では低い傾向が見られ、地域差が生じている。例えば、東京都と鹿児島県の高等学校等新規卒業者の大学進学率では、33ポイントの開きがあるなど、地域によって高等教育に関わる状況も異なっている。
○ 東日本大震災や平成28年熊本地震など各地の災害に対して、学校施設の復旧や就学支援、児童生徒の心のケア、学習支援、復興を支える人材の育成や地域の再生などが求められている。

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 2016.12中教審答申と違うのは、まず人口減(高齢化・児童生徒数減・女性労働力減と高齢者雇用増)が挙げられていること。次に、急速な技術革新の指摘は従来通りですが、その中で日本が「第4次産業革命への対応において世界に遅れ」ていると警鐘を鳴らしていること、またグローバル経済競争において地位が低下していると指摘されていること、さらに貧富差の拡大、地域間格差の拡大など社会経済的な問題を抱えていることの指摘など、等々、日本社会を取り巻く客観的状況についても社会の担い手の主体的状況についても、危機意識の方が前面に出ている印象を受けます。
 ちなみに余談ですが、これに続く「Ⅲ.2030年以降の社会を展望した教育政策の重点事項」で目指すべき人間像への言及がある中に、1996・2003・2008・2016中教審答申に登場し続けてきた「生きる力」の語はありません(2021.1.26のD-2では再び小さく登場しますが)。
 教育目標としての目指す人間像・子ども像については別の機会に検討するとして、まずは現行学習指導要領告示から1年数ヶ月後に別のサイクルを歩んでいる国の根幹の教育政策としての第3次教育振興基本計画が出されていること、そこでの社会像認識について押さえておきます。



 さてここでようやく、経産省の領域に飛ぶことにしましょう。C-1C-2、「未来の教室」ビジョンです。
 経済産業省「未来の教室」とEdTech研究会名で第1次(2018.6)・第2次(2019.6)の2回の提言が発表されています。2017年度から2019年度にかけて活動していたようです。経産省がなぜ?ということも含めてこの研究会の発足・活動・終結の経過については調べられていません。経産省「未来の教室」HP(https://www.learning-innovation.go.jp/)を詳しくリサーチすればわかるのでしょうが、できていません。ここでもやはり、提言が描く近未来社会像を見ていこうと思います。

◎C-1.2018.6 「経済産業省『未来の教室』とEdTech研究会第1次提言 『50センチ革命×越境×試行錯誤』『STEAM(S)×個別最適化』『学びの生産性』」
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第1章日本社会と教育の課題
 国家・社会の視点として、日本を「課題先進国」からイノベーションにあふれる「課題解決先進国」へと進化させていくために、また 個人の視点として一人一人が激変の時代に自由を手にするために、 どんな力が必要であり、そのために教育にはどのような役割が期待されるだろうか。
1-1. 日本社会の課題:「創造的な課題発見・解決力」
(1)日本がイノベーションにあふれる「課題解決先進国」であるために
 超高齢社会に突入し、抜本的な社会システム転換の必要に迫られている日本は、自らを「課題先進国」と呼ぶことが多い。しかし、「課題“解決”先進国」と胸を張れる状態にはあるだろうか。
 例えば、「超高齢社会」という課題に対応した社会システムの抜本的な再デザインや、業種横断での高齢者向けサービスのデザインも決して順調ではない。我々にとって、「今までの前提や常識」を疑い、「(表面に見える課題の裏にある)本質的な課題」を直視し、様々な産業分野・技術分野・学問分野を越境し、世界中の知恵を集めて解決策をデザインする力を育むことは大きな課題と言えよう。
 一方、これからの社会保障負担を支える原資を稼ぎだすはずの産業界は「低生産性」という課題を抱えている。 時間当たりの労働生産性は、OECD加盟先進国の平均を下回り(35カ国中の20位)、先進7カ国(G7)でも最下位が続いており、一部のグローバル製造業の高い生産性の陰で、サービス産業分野は付加価値の 向上や無駄の解消に向けたイノベーションや現場のカイゼンの余地が大きい。政府が「生産性向上国民運動」として 大規模な政策出動を始めたように、現状は、「日本中で、現場のカイゼンやイノベーションが自然と涌き起こる状態」にはないのである。
 世界を変える発明やイノベーションも、目を見張るような現場のカイゼンも、気の利いた新サービスも、すべては小さな気付きを最初の一歩に変える「50センチ革命」から始まる。そして、複雑性・相互依存性の増す社会課題や生活課題を解決するイノベーションは、膨大なデータとAIによる解析を味方につけ、問題を俯瞰して構造を把握し、様々な専門性・組織・業種・地域・国境の壁を「越境」し、分野横断の知や技能を集めた「試行錯誤」を繰り返す中で生まれることになるであろう。
 特に、一つ一つの社会課題・生活課題が複雑性と相互依存性を増すこれからの時代は、蓄積される大量のデータを前にし、AIを使いこなし、課題の本質を見極め、解決策を考える必要性が高まるはずである。こうした「50センチ革命×越境×試行錯誤」の力を、一握りのリーダー層だけではなく、一緒に働く誰もが身に付けることではじめて、現場のカイゼンやイノベーションを生み出すサイクルが回り始めるのではないか。

(2)激変の時代に一人一人が「自由」を手にするために
 また、こうした変化の激しい社会において、個人が責任を伴う「自由」を手に入れて幸せに生きるには、「決められたことを決められたとおりに行う力」以上に、「自分なりの問いを立てて、自分なりのやり方で、自分なりの答えにたどり着く探究をする力」や「一人一人の自由を互いに承認し合う感性」を持って、一人一人が、新しい社会経済システムや生活環境を創り出す力を身に付けることが極めて重要になる。
 自らをマイノリティと感じる人や様々な困難な環境で生きる人も含め、「生きたいように、満足して生きる」ためには、社会の構造を理解し、他人の自由を相互に承認し合う感性を身につけ、自分自身と他者の違いを前提に共存できるスペースを主体的に創り出すことが必要になるだろう。
 つまり、「50センチ革命×越境×試行錯誤」の力を誰もが身に付けることは、 自由を相互承認できる市民社会を創り出すための必要条件であるとも言えるだろう

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◎C-2.2019.6 「『未来の教室』ビジョン 経済産業省『未来の教室』とEdTech研究会 第2次提言 EdTechの力で、一人ひとりに最適な学びを STEAMの学びで、一人ひとりが未来を創る当事
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1.「令和の教育改革」に向けた課題
(1)平成から令和へ:今の日本の実力を直視する
 平成の時代が終わり、令和の時代が始まった。新しい時代に入り、それにふさわしい社会の構築が課題となっている。教育についても同様であり、新しい時代にふさわしい教育改革に向けた政府内の議論も本格化しようとしている。改革を実りあるものにしていくためには、まずこれまでの足跡を振り返ることが必要であろう。
 第2次世界大戦後の急激な人口増をベースに続いた右肩上がりの経済成長は、経済的なパイの拡大によって様々な社会的矛盾を吸収しながら、日本社会に大きな「成功体験」を与えた。しかし、平成に入り、内外の環境は大きく変わった。平成の時代は、そうした変化への適応に苦悩し続けた時代であったといえよう。 まず、高齢化・少子化に起因して、世界的に見ても珍しいほどに人口構成が変化した。高齢者が幸せに長生きできる社会の実現は、人類の理想である。だが、それによって社会保障の負担が重くなるとともに、長年続いた少子化の結果、最近になって急速な人口減少が始まった。
 また、世界で急速に進む、デジタル技術革新を核とした産業構造の変化に、我が国がキャッチアップできているかといえば、そうとは言い難い。その結果、世界的な構造変化への対応は遅れ、日本の産業はかつての国際競争力を喪失した。平成初期には日本企業が上位を独占していた世界の企業時価総額ランキングにおいても、日本企業はその上位から姿を消した。行政、ビジネス、医療その他社会の諸分野の変革で世界をリードしようと、Society 5.0 の実現が謳われている。しかし、国内の社会システムの転換、社会の意識変革、そして新しい社会に対応した人材育成が追いついているとは言い難い。
 戦後の工業化社会・大衆消費社会においては、経済成長を通じた豊かさの実現という目標が国民の間で広く共有されていた。しかし、日本社会は変化し、今や共有された国民的目標も存在せず、消費者の選好も、直面する社会課題も多様化・複雑化している。にもかかわらず、有効な解決策を見いだせてはいない。

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 C-1ではまず、「課題先進国」から「課題解決先進国」へ、という国家目標を提示し、また個人としては「一人ひとりが激変の時代に自由を手にする」という目標設定をします。これまでの諸政策でも列挙されていた日本が21世紀を歩んでいく上での様々な困難な課題について、その解決に成功することで世界の先進国の地位を奪還しようということであり、そのプロセスへの参画によってこそ個人も自由を得られるということでしょうか。
 しかしそれに続いて指摘されるのは、「課題解決」が困難な道であることです。超高齢社会への抜本的社会システム転換の不調、産業界の「低生産性」の中、「現場のカイゼンやイノベーション」が自然発生しないことを挙げた上で、小さな気付きによる「50センチ革命」とAI活用による問題の俯瞰・構造把握・各分野の「越境」と分野横断的な知や技能を活かした「試行錯誤」を呼びかけ、そしてこの「50センチ革命×越境×試行錯誤」の力を一部リーダー層だけでなく「一緒に働く誰もが身につけること」を求めています。そして個人に対しては、決められたとおりではなく、「自分なりの問い」「自分なりのやり方」「自分なりの答え」「自由を互いに承認する感性」などを求めています。

 ここで根本問題として指摘したいのは、上記の提起は、人類社会が様々な行きづまりを見せ、諸課題が噴出している中で、これまで歩んできた道をしっかりふり返りながら、これからどうしたら一人ひとりの人間がより幸せに生活し、平和で安定し環境と調和した人類社会を創り出せるかを大いに議論し、模索し、見いだしていこう、という呼びかけではないということ。押し寄せる社会問題にこれまで通り産業界・経済界の主導で開発してきた最新知識・技術を活用しながら乗り切ろうということ、そのためにはリーダーの指示に従って動くのではなくて自分の頭で考えてそうした方向に動け、ということですよね。

 C-2では、もちろん1年前に出されたC-1の社会像を踏襲しているはずですけれども、さらに悲観的な見通しが示されています。人口減と高齢化、世界的なデジタル技術革新による産業構造変化への対応の遅れ、人材養成の遅れ、その中でかつての「経済成長を通じた豊かさの実現」のような「共有された国民的目標も存在」しないこと。
 しかし恐らくこれは、経産省において21世紀の日本社会の近未来像が楽観的になったり悲観的になったりして安定しない、ということではないでしょう。そうではなくて、「このまま行くと、何とかしないことには、日本はヤバイ。だから国民も自分の頭で考えて社会維持に貢献せよ。」という、危機意識を煽っての国民総動員戦略のように思えます。

 その観点から経産省が学校教育に何を要求しているのか、というのが上記2つの提言の勘所なんでしょうが、今回の分析ではスルーして、次の政策文書に移ります。


B.2018.6.5「Society 5.0に向けた人材養成 ~社会が変わる、学びが変わる~」(Society 5.0に向けた人材育成に係る大臣懇談会・新たな時代を豊かに生きる力の育成に関する省内タスクフォース)
 報告の主体は「Society 5.0に向けた人材育成に係る大臣懇談会・新たな時代を豊かに生きる力の育成に関する省内タスクフォース」となっており、文科省が組織した研究グループです。経産省グループのC-1(2018.6)には発表月までで日付が記載されていないので、どちらの報告文書が先に公表されたのかはわかりませんが、に添付された活動日誌の日付が2017.12.1-2018.5.25、C-1は2018.1.19-6.4となっているので、文科省研究グループの方が1ヶ月ほど早く活動し始めていたようです。また、C-1の末尾に「時を同じくして『Society5.0に向けた人材育成に係る大臣懇談会』での議論をもとにビジョンを示した文部科学省等との議論も深めつつ、第2次提言に向けた更なる議論の開始に備えることとしたい。」(P.19)とあるので、両者間に連絡、情報交換があったようです。まあ、同じ政府内ですから当たり前でしょうが。

 さてここでもやはり、社会像関連の記述だけを見ていくことにします。

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第1章Society 5.0の社会像と求められる人材像、学びの在り方(「Society 5.0に向けた人材育成に係る大臣懇談会」における議論を踏まえて)
1.Society5.0の社会像
(1)AI技術の発達
 Society 5.0においては、我々の身の回りに存在する様々なセンサーや活動履歴(ログ)等から得られる膨大なデータ(ビッグデータ)が、AIにより解析され、その結果がインターネットに接続される。そして、多くのモノやロボットを作動させ、様々な分野において作業の自動化等といった革新的な変化が起こされていく。この変革の中核となる技術がAIである。
 AIは機械学習の技術の発展により急激な高度化が進んでいる。現在、音声認識、画像理解、言語翻訳等の分野で人と同等以上の能力を持つに至ってきている。これらを応用した自動運転車やドローン、会話ロボット・スピーカ、翻訳機、介護ロボット・医療診断補助などの製品・サービスは既に実用化の段階にあるか、実用化を射程に入れた研究開発が進められ、将棋や碁をはじめとした完全情報ゲームにおいては、熟達の名人をも凌ぐAIが開発され始めた。
 AIの性能がどこまで向上するかについては意見が分かれるものの、少なくとも近い将来において、定型的業務や数値的に表現可能なある程度の知的業務は代替可能になると考えられる。例えば、健康・医療分野においては、今後、「病気を診る」ことはAIが行い、医師は「病人を診る」ことにこれまで以上に向き合うことができるようになるだろう。このような変化が、社会のあらゆる分野において起こっていくと考えられる。

(2)Society 5.0における経済社会
 これまで人間でなければ担えないと考えられてきた分野に及ぶイノベーションの連鎖は、我々の社会や生き方そのものを大きく変えていくだろう。
 将来、AIやロボットによって多くの仕事が代替され、人間の負担が軽減されていくことが予想される一方で、大量の失業者が生まれるのではないかという議論がある。これまで人類が経験したことのない速度で技術が発展し、新たな雇用が生み出されるとしても、それに対応できるだけの準備が労働者の側になければ、雇用のミスマッチにより多くの失業者が生まれると悲観的に予測する声もある。また、技術革新に伴うスキルの陳腐化は、労働市場の変化のスピードを加速させ、企業の適応力を超えて日本型の雇用システム(企業が必要とする労働者のスキルを企業内で養成するシステム)を大きく変容させるとの指摘もある。
 産業そのものが変わる。プラットフォーム・ビジネスの展開やクラウドによる情報の分散化、所有と利用の分離などが原動力となり、産業構造は大きく変化するだろうと言われている。プラットフォーム・ビジネスは様々な関連するビジネスを巻き込み、拡大していく性質があることから、経済社会における「勝者」と「敗者」の二極化が更に拡大していくことも予想される。AIとロボティクスによる能力のコモディティ化3は、プラットフォームに巻き込まれる関連するビジネスを、すべて“取り換えの利く駒”に変えていくのではないかとも予測する者もある。
 産業が変われば働き方も変わる。人間の業務と機械の業務が再編成されることで業務のモジュール化が進み、業務のアウトソーシングも促進されるだろう。情報通信技術の発達によりモバイルワークの導入も進み、企業に雇われない働き方(自営的就労4)を行う者が急速に増えていくことが予想される。このことは、時間と場所を問わない柔軟で自由な働き方を可能とする一方で、業務のモジュール化とアウトソーシングを更に加速していくと考えられる。
 「働くこと」自体の意味も変わっていく。我々人間が現在担っている仕事が、AIやロボットによって代替されるようになれば、人間の労働力を投入しなくとも生産量を高められるようになり、多くの人が「生きるための」労働から解放され、より「自己実現」や「生きがい」のために働けるようになるとみる向きもある。
(3)Society 5.0に向けた日本社会の課題
 このような経済社会の変化を目前にして、我が国はかつてない変化に直面しており、次のような課題が指摘されている。
 まず、Society  5.0実現の鍵となるAIとその基礎となる数学や情報科学等に関する研究開発と教育が、米国や中国等に比して立ち遅れている。近年、AIに関するマーケットの飛躍的な成長を背景として、AIに関する研究者と技術者は世界的に不足している。我が国は、ボトムアップ型の研究開発に強みがあるものの、AI研究を発達させてきたトップダウン型の研究開発が弱く、質と量で圧倒的な“一強”として君臨するアメリカやそれを猛烈な勢いで追い上げる中国等と比べて存在感を発揮できていない。
 ボトルネックのひとつは人材であろう。アメリカの大学では情報科学を学ぶ学生が増え続けている5が、我が国では情報科学やAIに関する高度な知識・技術を持つ人材の数が極めて限定的6で、多くの学生は十分な情報科学のトレーニングを受けていない。学生や社会人が情報科学の素養を身に付けるための受皿となる情報科学系教育体制の充実は喫緊の課題であると考えられる。
 また、既にGoogleやAmazon、Facebook等が覇権を握る国際的なプラットフォーム・ビジネスに関しては、極めて不利な立場にある。圧倒的なマーケットシェアを獲得し、顧客情報を蓄積しつつあるこれらの“データの巨人”たちと対峙じするには、我が国のトップ企業であっても、データ、技術、人材のすべてにおいて文字通り桁違いの力の差があるのが現状である。
 我が国は、このような新技術の創出と導入の段階において厳しい状況にあっても、その後の高度な応用の段階、エコシステム構築の段階において存在感を発揮してきた歴史がある。緻密で洗練されたものづくりの技術や、独自の文化的創造力、日常的な営みや自然にまで美や崇高さを感じ取る美意識など、様々な我が国独自の特徴を強みとして、新たな価値を創り上げていく必要がある。
 人口構造の変化は、世界でまだどの国も経験したことのないものになる。平均寿命が延伸し続け、人生100年時代が到来するとともに、少子化がこのままのペースで進行すれば、2025年には高齢者1人を支える現役世代の人数が1.8人となると予測されている。これまでのような我が国の経済規模と成長を維持することが難しい状況である。また、高齢化の進展に伴い国民医療費が増大しており、高齢者の健康維持や医療費等の抑制も課題である。さらに、少子高齢化は人口の減少等と相まって、地域コミュニティにおける人と人とのつながり、社会関係資本の在り方にも深刻な影響を与え始めている。

 子供たちを取り巻く環境も変わっていく。これまでも、多様な体験活動の機会の少なさが指摘されてきたが、情報通信技術の更なる発展によりヴァーチャルな体験がリアルさを増していくとともに、都市部への人口集中が進み、自然豊かな農山村の暮らしや遊びの経験のない親世代が増加していけば、自然体験などの体験活動やスポーツをする機会の減少とそれによる影響が懸念される。
(4)人間の強み
 このような技術の発展と社会の変化は、複雑に影響し合いその速度を指数関数的に増加させ、今後訪れる社会がどのようなものかを正確に予測することを極めて難しくさせている。ただ一つ確実に言えるのは、これまでの延長線を大きく超えた劇的な変化が訪れるであろうということである。予測困難な社会の変化の中で豊かに生きるためには、楽観論でも悲観論でもなく、変化に対して受け身で対処せずに、むしろ目指すべき社会像を議論し、共有し、実現していくことが重要となる。我々が目指すべき社会は、経済性や効率性、最適性だけを追求した無機質なものではなく、あくまでも人間を中心として、一人一人が他者との関わりの中で「幸せ」や「豊かさ」を追求できる社会であるべきであろう。

 人間の強みとは何か。それは、現実世界を理解し、その状況に応じた意味付けができることであろう。AIが人間の能力をはるかに超えていくのではないかという意見もあるが、AIの本質はアルゴリズムであり、少なくとも現在のAIは情報の「意味」(背景にある現実世界)を理解しているわけではない。AIに目的や倫理観を与えるのは人間である。アルゴリズムで表現し難い仕事や、高度な判断や発想を要する仕事などは、AIによる代替可能性が低いと考えられている。
 また、様々な人やモノ、情報が複雑に関係し合っていく中において、板挟みと向き合って調整することや、想定外の事態に対処すること、自らの行動を考え責任を持って対応することは、人間の仕事の中でますますその重要性を増すだろう。接客や介護のような他者との対話の中で行われる仕事は、AIやロボットによってある程度代替されながらも、人間が担うことで、それとは異なる付加価値が生まれると考えられる。

 AIと人間との関係を対立的にとらえたり、必要以上に不安に思ったりするのではなく、むしろAIを、人間の能力を補助、拡張し、可能性を広げてくれる有用な道具ととらえるべきであろう。人間は、AIの価値を十分に認識して生活に生かしていくと同時に、AIがもたらす潜在的な危険性や限界を未然に見いだし、適切に対処していくことが可能であるし、そうしていくことが不可欠である。
 AIやデータの力を活用することで、自らの強みを更に伸ばし、あるいは弱点を補いながら新たな地平を切り拓ひらいていくことがあらゆる分野で可能になる。

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 の社会像検討は、いきなり「Society 5.0」から始まっています。引用部分より前の「はじめに」の冒頭には以下のように書かれています。
 
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 今、我々はかつてなく大きな社会の変革期にいる。
 人類はこれまで、狩猟社会から農耕社会、工業社会を経て現代の情報社会に至るまで、生産手段と社会構造の飛躍的な変化を経て社会を発展させてきた。そして今、次の大きな変革としてSociety 5.0が訪れようとしている。
 Society 5.0は、人工知能(AI)、ビッグデータ、Internet of Things(IoT)、ロボティクス等の先端技術が高度化してあらゆる産業や社会生活に取り入れられ、社会の在り方そのものが「非連続的」と言えるほど劇的に変わることを示唆するものであり、第5期科学技術基本計画(平成28年1月22日閣議決定)で提唱された社会の姿である。「超スマート社会」とも言われるSociety 5.0の到来に伴い創出されるであろう新たなサービスやビジネスによって、我々の生活は劇的に便利で快適なものになっていくだろう。
 しかし一方で、このような人類がこれまで経験したことのない急激な変化を前に、漠然とした不安の声も多い。

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 「Society 5.0」の語は、前述のように(2016.1.22第5期科学技術基本計画)において明確に人類社会発展の新段階として描かれていました。現行学習指導要領の基礎である2016.12.21中教審答申にはまだ登場しませんが(「第4次産業革命」の語は記載)、(2018.3.8 第3期教育振興基本計画)には書き込まれています。経産省グループのC-1(2018.6 第1次提言)ではなぜか「第4次産業革命」という用語が中心であり、C-2(2019.6 第2次提言)にも「Society 5.0」は冒頭に一度登場する程度なんですが、むしろもう言うまでもないことと見なされているんでしょうか。ともあれこのでは報告書タイトル及び第1章の見出しにSociety 5.0が登場していて近未来社会を語る最重要のkey wordとなっているようです。
 Society 5.0とは必ずしもバラ色に描かれた社会像ではないと思いますが、(2016.1.22 第5期科学技術基本計画)での用語説明にあったように「狩猟社会、農耕社会、工業社会、情報社会に続くような新たな社会」という構図であり、人類社会は現在の情報社会から新たに質的に飛躍して新しい社会発展段階に入るという把握であろうと思います。「続く」とは書いてありますが、発展、プラスのイメージで描かれていることは間違いないでしょう。

 ではまずSociety 5.0の中核的技術としてAIに言及し、これにより近い将来に人間労働の一部が代替可能になると述べ、さらにこれに関連して失業者の大量発生や日本型雇用システムの変容などの予測もあることを指摘します。また産業構造の変化(platform bussinessの拡大など)と勝者と敗者の二極化という予想を述べます。これに伴い人間の働き方もモバイルワーク導入、企業に雇われない自営的就労の増加が起こり、この中で「人間の労働力を投入しなくとも生産量を高められるようになり、多くの人が『生きるための』労働から解放され、より『自己実現』や『生きがい』のために働けるようになる」(P.4)という予測も紹介していますが、さすがにそれはバラ色すぎると考えたのか「とみる向きもある」と付け加えて一部の見解であるとしています。
 では次に、そのようなSociety 5.0への進化の展望においてAI技術の基礎となる数学・情報科学等の研究開発・教育が日本は米中に比べて立ち遅れていると警告します。そして「ボトルネックの一つは人材」(P.4)として「情報科学系教育体制の充実」(P.5)を訴えます。また、「我が国は、このような新技術の創出と導入の段階において厳しい状況にあっても、その後の高度な応用の段階、エコシステム構築の段階において存在感を発揮してきた歴史がある。緻密で洗練されたものづくりの技術や、独自の文化的創造力、日常的な営みや自然にまで美や崇高さを感じ取る美意識など、様々な我が国独自の特徴を強みとして、新たな価値を創り上げていく必要がある。」(P.5)と述べて、現在は科学技術開発競争において米中に質量の遅れを見せていても、少し長い目で見れば搦め手からのcatch upを図ることができると述べているようです。正面から追い越すことはかなり難しいから違う方向性も特色として出しながら支配権を奪うことを追求してみようということでしょうか。このあたりは経済発展戦略を打ち出す苦しさと「どっこいまけない」と挽回を図ろうとする粘りの両面性の表明ということでしょうか。
 そして、この粘りの表明の延長上に「人間の強み」という項目が立てられています。ここではまず今後の社会に「これまでの延長線を大きく超えた劇的な変化が訪れるであろう」(P.5)と宣言します。これは政治権力側としてもいろいろとヴィジョンを描いては見せているけれど、それらは決定的なものではないことの表明です。そして、(どの範囲の人々に呼びかけているのかは明確ではないですが)「楽観論でも悲観論でもなく、変化に対して受け身で対処せずに、むしろ目指すべき社会像を議論し、共有し、実現していくこと」(P.5)を呼びかけています。その際、「我々が目指すべき社会は、経済性や効率性、最適性だけを追求した無機質なものではなく、あくまでも人間を中心として、一人一人が他者との関わりの中で『幸せ』や『豊かさ』を追求できる社会であるべきであろう。」(P.5-6)とまで述べて経済発展最優先を戒めるかのようなポーズもとってみせています。
 このような「議論」やそれに基づく「合意」が国政・地方自治においても地域社会や学校教育等各職種の世界でも真に民主的な手続きを取りながら行なわれていくならば、近未来の日本社会にも少しは希望が見えてくるかもしれません。しかし現実に返ると、例えば福島原発の放射能汚染処理水の海洋放出への画策という一例を見るだけでも、安心安全で平和で豊かな社会に向けての現状変更がいかに困難か、権力を握る側の美辞麗句がいかにまやかしかは、明らかであると思います。
 最後に検討されている「人間の強み」とは、人間の活動のどこまでがAIによる代替可能で、代替できない労働によって人間はどのような付加価値を生み出せるのか、ということです。AI技術を生み出したのは人間であり、それが一部でなく全ての人間の幸せに繋がる方向で活用されるならば、望ましいことです。しかし、人間として生きること、働くことの価値について、AI技術が生みだしたものを引き算した残りで考えるというのは、なんと貧しい発想なのでしょう? 人間はその全体として、労働、働くことを通じて社会を成立させていますが、しかし人間社会の成員にはまだ働く段階に達しない子どもたちもおり、また病気や障害によって働くことができない人たちもいます。そうした人々も含めて社会は成り立っています。働く人たちも、家族と生活したり、レジャーや学習を楽しんだり、多様な生活をしているわけです。AIは確かに人間社会を動かす量的な力としてはその役割をどんどん拡大しているのかもしれませんが、人間社会が生み出す様々な質、価値に目をやればAI技術がになっているものはその一部にすぎないと思います。
 この項「(4)人間の強み」の最後は、以下のように結ばれています。

「AIと人間との関係を対立的にとらえたり、必要以上に不安に思ったりするのではなく、むしろAIを、人間の能力を補助、拡張し、可能性を広げてくれる有用な道具ととらえるべきであろう。人間は、AIの価値を十分に認識して生活に生かしていくと同時に、AIがもたらす潜在的な危険性や限界を未然に見いだし、適切に対処していくことが可能であるし、そうしていくことが不可欠である。AIやデータの力を活用することで、自らの強みを更に伸ばし、あるいは弱点を補いながら新たな地平を切り拓ひらいていくことがあらゆる分野で可能になる。」(P.6)

 私にはこれが、いろいろキレイゴトを述べていても、結局AI技術を最大限活用した産業発展・経済発展のためにどれだけ多くの「人材」をどれだけ効率的に動員し貢献させることができるか、ということを言っているに過ぎないと見えます。




 さて、3日にわたって作文を続けてきて、もうかなり頭が疲れてきました。最後に最新のD-2(2021.1.25中教審答申)を、やはり社会像についてだけ検討して終わることにしましょう。

◎D-2.2021.1.26「『令和の日本型学校教育』の構築を目指して ~全ての子供たちの可能性を引き出す、個別最適な学びと、協働的な学びの実現~ (答申)」

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 第Ⅰ部 総論
1.急激に変化する時代の中で育むべき資質・能力

○ 人工知能(AI),ビッグデータ,Internet of Things(IoT),ロボティクス等の先端技術が高度化してあらゆる産業や社会生活に取り入れられた Society5.0 時代が到来しつつあり,社会の在り方そのものがこれまでとは「非連続」と言えるほど劇的に変わる状況が生じつつある。
 また,学習指導要領の改訂に関する「幼稚園,小学校,中学校,高等学校及び特別支援学校の学習指導要領等の改善及び必要な方策等について(答申)」(平成 28(2016)年12 月 21 日中央教育審議会。以下「平成 28 年答申」という。)においても,社会の変化が加速度を増し,複雑で予測困難となってきていることが指摘されたが,新型コロナウイルス感染症の世界的な感染拡大により,その指摘が現実のものとなっている。

○ このように急激に変化する時代の中で,我が国の学校教育には,一人一人の児童生徒が,自分のよさや可能性を認識するとともに,あらゆる他者を価値のある存在として尊重し,多様な人々と協働しながら様々な社会的変化を乗り越え,豊かな人生を切り拓き,持続可能な社会の創り手となることができるよう,その資質・能力を育成することが求められている。

○ この資質・能力とは,具体的にはどのようなものであろうか。中央教育審議会では,平成 28 年答申において,社会の変化にいかに対処していくかという受け身の観点に立つのであれば難しい時代になる可能性を指摘した上で,変化を前向きに受け止め,社会や人生,生活を,人間ならではの感性を働かせてより豊かなものにする必要性等を指摘した。とりわけ,その審議の際に AI の専門家も交えて議論を行った結果,次代を切り拓く子供たちに求められる資質・能力としては,文章の意味を正確に理解する読解力,教科等固有の見方・考え方を働かせて自分の頭で考えて表現する力,対話や協働を通じて知識やアイディアを共有し新しい解や納得解を生み出す力などが挙げられた。
 また,豊かな情操や規範意識,自他の生命の尊重,自己肯定感・自己有用感,他者への思いやり,対面でのコミュニケーションを通じて人間関係を築く力,困難を乗り越え,ものごとを成し遂げる力,公共の精神の育成等を図るとともに,子供の頃から各教育段階に応じて体力の向上,健康の確保を図ることなどは,どのような時代であっても変わらず重要である。

○ 国際的な動向を見ると,国際連合が平成 27(2015)年に設定した持続可能な開発目標(SDGs)1などを踏まえ,自然環境や資源の有限性,貧困,イノベーションなど,地域や地球規模の諸課題について,子供一人一人が自らの課題として考え,持続可能な社会づくりにつなげていく力を育むことが求められている。また,経済協力開発機構(OECD)では子供たちが 2030 年以降も活躍するために必要な資質・能力について検討を行い,令和元(2019)年 5 月に“Learning Compass 2030”を発表しているが,この中で子供たちがウェルビーイング(Well-being)2を実現していくために自ら主体的に目標を設定し,振り返りながら,責任ある行動がとれる力を身に付けることの重要性が指摘されている。

○ これらの資質・能力を育むためには,新学習指導要領の着実な実施が重要である。このことを前提とし,今後の社会状況の変化を見据え,初等中等教育の現状及び課題を踏まえながら新しい時代の学校教育の在り方について中央教育審議会において審議を重ねている最中,世界は新型コロナウイルス感染症の感染拡大という危機的な事態に直面した。感染状況がどうなるのかという予測が極めて困難な中,学校教育を含む社会経済活動の在り方をどうすべきか,私たちはどう行動するべきか,確信を持った答えは誰も見いだせない状況が我が国のみならず世界中で続いている。
 新型コロナウイルス感染症の感染拡大に伴う甚大な影響は,私たちの生命や生活のみならず,社会,経済,私たちの行動・意識・価値観にまで多方面に波及しつつある。この影響は広範で長期にわたるため,感染収束後の「ポストコロナ」の世界は,新たな世界,いわゆる「ニューノーマル」に移行していくことが求められる。

○ 「予測困難な時代」であり,新型コロナウイルス感染症により一層先行き不透明となる中,私たち一人一人,そして社会全体が,答えのない問いにどう立ち向かうのかが問われている。目の前の事象から解決すべき課題を見いだし,主体的に考え,多様な立場の者が協働的に議論し,納得解を生み出すことなど,正に新学習指導要領で育成を目指す資質・能力が一層強く求められていると言えよう。

○ また,新型コロナウイルス感染症の感染拡大は,例えばテレワーク,遠隔診療のように,世の中全体のデジタル化,オンライン化を大きく促進している。学校教育もその例外ではなく,学びを保障する手段としての遠隔・オンライン教育に大きな注目が集まっている。ビッグデータの活用等を含め,社会全体のデジタルトランスフォーメーション加速の必要性が叫ばれる中,これからの学校教育を支える基盤的なツールとして,ICTはもはや必要不可欠なものであることを前提として,学校教育の在り方を検討していくことが必要である。

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 学校教育・教育課程政策全般に関わる最新の体系的文書であるD-2は、どのような状況下で出されたのか?
 まっ先に指摘すべきことは、言うまでもなくこの答申がコロナウィルス感染拡大下の日本において検討されまとめられたということです。ここでは社会像に限っての検討ですが、上記引用部分にはしょっぱなから到底認めがたいことが書かれています。
 まずは、Society 5.0時代、社会の「非連続」な変化が言われます。そして2016.12.21中教審答申を援用して「社会の変化が加速度を増し、複雑で予測困難となっていることが指摘された」ともう一度強調します。ここまでは本稿でも耳タコの言辞なのでいちおう措きましょう。

 問題はその次です。上記に続いて、「新型コロナウィルス感染症の世界的な感染拡大のより、その指摘が現実のものとなっている」とあります。「その指摘が現実に」とは何か?社会の変化が加速度的で予測困難だという指摘をコロナ感染が裏づけた?

 本当にそうでしょうか? 確かにコロナウィルス感染の世界的規模の爆発的拡大とそれによる人間の健康、社会経済、総じて人類社会の激動が2020年という時期に起こることは予測できなかったかもしれません。しかし、パンデミック自体は過去の人類史上でも何度となく経験されていますし、近年もSARS等の地域的流行による深刻な被害はありました。それでも人類の医学医療は進歩していて世界全体が恐怖に陥れられることはあり得ないと関係者は慢心していたところへ起こってしまった、ということでしょうか。

 いや、私が言いたいのは人類がコロナ禍を予測し得たかどうかというようなことではないのです。
 一つ例を挙げましょう。2020年2月27日、安倍首相は全国の小中高に対し一斉休校を要請。三学期の残り約1ヵ月間を残して学校は休校に入り、全国の子どもたちが学校生活を奪われ、とりわけ卒園卒業する園児小中高生は門出の儀式とそこに至る様々なお別れ行事などの機会を奪われました。専門家の意見も聞かず、文科大臣にすら直前に知らせ、もっぱら「危機下での首相リーダーシップ」をパフォーマンスするためだけに出された休校要請。その証拠に、当時よりはるかに感染拡大が深刻化している1年後の現在も、子どもたちは様々な制約はありつつも通常の学校生活を送っています。この安倍のパフォーマンスは、明らかに「失政」であり、国民に対する、未来を担う子どもたちに対する「犯罪」です。このことは予測不可能な困難に直面してのやむを得ざる緊急避難ではありません。政権延命願望、政治判断における無能、自己顕示欲、そうした民主国家の政治家にあるまじきボンクラ首相をトップに抱き、またその周辺の全ての政治家・官僚も忖度をしまくって誰一人異議を唱えられなかった、そういう無能力集団による過失、いや確信犯的行為でしょう。
 戻ります。新型コロナウィルスの発生と蔓延自体は、それ以前に人類の誰も予測できなかったことなのかもしれません。ましてや止めることはできなかったでしょう。しかし、コロナ禍に関する事実群全体を「予測困難であった」とすることで人為的に発生した失政、犯罪的行為を免罪するわけにはいかないと思うのです。安倍があれほど馬鹿でなければ、学校での感染拡大状況を見極めながら、登校を継続した場合と停止した場合で感染拡大がどう変化するか慎重に判断することができたでしょう。学校の児童生徒保護任務を全て学童保育に負わせ、子どもたちの安全な居場所がなくて結局休校している学校の校舎に入れるというようなバカげた応急策も必要なかったでしょう。文科省や各分野の専門家の力を借りて緊急にシミュレーションをすれば、子どもたちを引き続き学校に受け入れながらできる限りの感染予防をすることも可能だったと思います。
 もちろんこれらは全て「結果論」です。だけど、加速度的な変化とか予測困難という言辞がこんな風に使われてよいなら、それは社会像の提示でもなんでもなく、単なる失政の弁解じゃないですか。すぐに思い浮かぶのは福島原発事故に関して東電は10mを超える津波を予測不可能だったとしていることです。

 さて、D第Ⅰ部1では、「急激に変化する時代」についてとともに「育むべき資質・能力」について語っているので、(その「資質・能力」についてはいずれ改めてきちんと検討するとして)社会像・時代像について上記以外に書かれていることはあまり多くありません。
 ただ、さらに一つ気になるのは、上記に指摘した部分以外でもコロナ感染に言及し、社会の先行きの予測不可能性を強調しつつ、一方で「この影響は広範で長期にわたるため,感染収束後の『ポストコロナ』の世界は,新たな世界,いわゆる『ニューノーマル』に移行していくことが求められる。」(P.4)と述べていることです。
 「ニューノーマル」とは何でしょうか? 最近はテレビ等でもこの言葉をよく聞きます。昨年の第1波~第2波感染拡大の頃には、厚労省も文科省も地方自治体もマスコミも「新しい生活様式」という語を濫発していました。これと「ニューノーマル」は同じなのでしょうか?
 私は2020.7.18の京都教科研例会で「ソーシャルディスタンス/新しい生活様式 を疑う ~6月号『からだ』特集から学ぶ~」という報告を行ない、「新しい生活様式」に対する強い疑問を提起しました。私の批判は一言で言えば、「新しい生活様式」ではなくて「コロナウィルス感染拡大防止のための緊急避難的行動スタイル」(子どもたち向きには「コロナがおさまるまで(もう少しの間)がまんしよう」)でよい、ということです。この研究会の参加者から「新しい生活様式」は戦時の大政翼賛会においても提案されていたという情報も聞きました。感染拡大を避けるためにマスク・手洗いを行なうのは健康維持上当然だとしても、特に子どもたちが学校生活の中で互いに距離を取るとか給食事に向き合わず黙って食べるとか、こうした集団生活とそこでの人間関係づくりを妨げるルールは、決して「新しい生活様式」にしてはいけない、人々をバラバラにして交流させない、団結させないような行動への指示を決して常識的ルールとして定着させてはならないと思うのです。今後コロナが収束していくとすれば、そうした非常時のルールを子どもたちとも話し合いながら一つ一つ丁寧に平常時のルールへと戻していく必要があります。予測不能の状況というのならその状況への対応は丁寧に謙虚に行なうべきであり、上から「ニューノーマル」として問答無用に下ろしていくようなことはあってはなりません。




 さて、この作業は、最初に明記してはいませんでしたが、昨今教育界に飛び交う「GIGAスクール」、「未来の教室」、ICT教育、パソコン1人1台などの状況の背景にある政策的動向をきちんと把握する必要があるだろうという課題意識で着手しました。その意味では、各政策文書を「社会像」に限定して通観してみるという作業にもそれなりの意味はあるものの、さらに教育目標としての人間像・子ども像とか具体的な教育方法へと検討を進めないと中途半端ではあります。しかし今までの作業で相当の紙数を費やしているので、続きは前期講義が終わった後の夏休み頃にでも再開したいと思います。


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