22 【アーカイブ07】SEXUALITY研究ノート《前史・下》

 (あまり細かく分割したくないので、後は一気に行きます!)

 

 鈴木大介 最貧困女子  幻冬舎新書
                                                        (2016.1.13-28 2016.1.28投稿)
 1月9日の山田洋一先生の講座で紹介されたので、その場でAmazonに注文しました。  セックスワークに取り込まれる最貧困層の女性の実態。すさまじいですね。
 鈴木氏は、「セックスワーカーをモチベーションで分類すると、三つの層がある」(P.157)と言います。
 「第一に『サバイブ系』。これは『生き抜くため』のモチベーションで、貧困の中で生きるため、またはその環境から抜け出すためにセックスワークに身を投じる層だ。最貧困女子の多くはここに分類される。  次に、『ワーク系』だ。これはセックスワークや水商売などの夜職を『女を売る商売』として認識し、ある種の職人意識的なモチベーションをもっている。(中略)  最後に『財布系』。これはワーク意識もなく貧困状態にもないが、単に財布の中身が寂しいときの副収入としてセックスワークに参入するケースだ。(後略)」(P.157-158)
 多くの最貧困女子への取材を重ねた鈴木氏は、彼女たちの実態に絶望的になりながらも、「苦肉の策」として「セックスワークの脱犯罪化・正常化・社会化」を提案します。
「本書では、セックスワークの周辺に私的なセーフティネットがあり、そこにいる人々と女性との間に強い親和性があることを度々指摘してきた。本来ならば女性の貧困は制度が救いとるものであってほしいが、現状で私的セーフティネット以上に当事者に肌触りが良く柔軟性に富んだものを制度側が作ることは、とても可能とは思えない。  だが、ここには大きな問題がある。いくらその私的セーフティネットが『彼女らの求めるもの』だったとしても、それはあまりにも不完全で不健全なものだということだ。彼女らはそれを求める。だがそれは不完全すぎる。この状況を打開するために必要なのが、セックスワークの正常化だと思うのだ。(後略)」(P.187-188)
 だがその実現のためにあまりにも多くの問題が横たわっていることも鈴木氏は認めています。
 我々学校教育関係者は、(児童)生徒の性的非行や、その結果としての望まない妊娠や中絶や、早すぎる結婚や退学や離婚・シングルマザー化などの実態を知っているとしても、それをあくまで学校の窓枠の中から眺めていたにすぎないのではないかと、本書を読んで気づかされました。
 退学した後、シングルマザー化した後、彼女たちはどう生きているのか、生きていくのかを本書は追いかけています。学校的な、あるいは福祉的な「救済」に反発してそこから逃れようとして生きている少女たち、女性たちであり、したがって論理的にも学校教育が対処しきれる問題ではありません。
 しかし学校における性教育は、最貧困女子たちがどう生きていくか、その実態をも見据えて行なわれる必要があると強く思いました。

 

 

 内田美智子他  ここ-食卓から始まる生教育  
                                     (2007.10.20刊 2016.7.31-8.1通読 2016.8.2投稿)
  性教協山形夏期セミナーの往路の飛行機で読み始め、復路の飛行機で読了しました。
 『牛を屠る』へのコメントの続きになりますが、本書の著者・内田美智子さん(本書は内田さんの文章をベースに共著者の佐藤剛史さん-九州大学農学部助教-が内田さんへのインタビューなどにもとづいて再構成したそうです)は、助産師として長い経験を持ち、『牛を屠る』コメントの中で書いた『絵本 いのちをいただく』の著者です。
 その流れで四日市での校内研修講演の直前に読み始めたわけですが、同時に性教協セミナーへの途上で読むにもまことにふさわしい本でした。
  こういう紹介では本書の正当な紹介にならないかもしれませんが、僕が一点だけ本書に賛成できないところがあります。
  「私の話や考え方のほとんどは、多くの方に賛同してもらえるのですが、一点だけ反論をいただく場合があります。それは、『家庭で性の話をすべきかどうか』の話をしたときです。/これまで積極的に性教育に取り組んできた先生方は、よく、『今まで私たちは性をオープンに語った方がいい、小さいときから性に関しても隠さず何でも話した方がいいとしてきました。そして、そういう努力をしてきました。それは間違っていたのでしょうか。納得できません。』と言われます。/家庭の役割は性の話をオープンにすることではありません。/『こんなことにならないように』と自らの経験や失敗談を語れば、それを聞き続けるうちに、『そんなこともある』と考えるようになります。家庭で性の話をすればするほど、子どもたちにとって性は身近な存在となり、超えやすい敷居となります。(中略)  家庭では性の話はそう簡単にはできない、しない、という雰囲気が大事です。子どもが『うちの家は厳しい』『ヘンなマネはできんぞ』と思うような雰囲気が大事です。そうして『性は大事なことなんだ』と分かるのです。若すぎる性行動への一歩を立ち止まれるのです。/セックス、避妊、妊娠、中絶、やったとかやらないとかいう話は、しなくてよい、どころかしないほうがいい。これまで長い歴史の中で、家庭ではそうした話はできなかったはずです。『時代が違う』という声も聞きますが、家庭の原理、親子の原理、性の原理は変わらないはずです。」(P.56-58)
  確かに、親子で性について話すというのは簡単ではないと思います。親の性のprivacyの問題もありますし。僕も息子たちが小学校低学年の頃に、みずのつきこ『せっくすのえほん』を家に持って帰って読んでやったことがありましたが、思春期に入ってからは性に関する会話はなかったですね。子どもから何か聞いてくれば答えてやらないといけないとは思っていましたが、そうした機会はなかったし、こちらから干渉してはいけないとも思っていました。
 しかしだからと言って、話さないことが正解だとは思いません。さらに、話さないことが正しい教育的影響を及ぼすとはとても思えません。
 親が関わらなくていいんだったら、性教育は学校の教師や養護教諭や保健師や医師のような専門家がやればいいということなんでしょうか。
 いくら親の資格のないような親が一部にいるからと言って、親抜きで性教育がうまくいくというのは、専門家の思い上がりじゃないでしょうか。

 

 

落合恵子 ザ・レイプ 講談社文庫
                (原作1982.4刊、文庫1985.8.15刊 2016.8.2-11通読 2016.8.12投稿
  7月30日に山形市のテルサ山形での性教協(\"人間と性\"教育研究協議会)夏季全国セミナーの中で落合恵子さんの講演「いのちと人権……抗うということ」を聴きました。
  とてもステキな声、話し方だし、勇気づけられる内容で、Fbでも少しコメントしたのですが、性教協は報告者に直接許可を得ることなくセミナーでの報告を外部に公表することを禁じているので、中身については全く書けず、13日後の今はほとんど全く忘れてしまいました。
  ただその講演を聴きながら、これまで読んだことがなかった落合さんの著作をまとめてAmazonで注文しました。落合さんは大会にも販売に来ている地元の本屋さんから買うことを勧めておられましたが、お財布を考えると格安で数多く注文できるAmazon古書に頼らざるを得ません。その時注文した本の中で最初に読み終えたのがこれ。
  「ザ・レイプ」「陽だまりのふたり」という2編の短編が収録されていますが、前者について書きます。
 レイプされ、警察に告訴して裁判を闘う主人公・路子。まさに先の講演にある「抗う」女性なのですが、裁判に持ち込むことで被害者である女性がいかに傷つけられるか(セカンド・レイプ)が克明に描かれています。作中のセカンド・レイプの中心人物である黒瀬弁護士に対しては、憎悪を抱かずに読むことはできません。
 一方、裁判に入ってからの被告についてはほとんど描写されず、また作品は検事が最終の論告を終えたところで幕切れとなり、判決は描かれていません。
 文庫版あとがきで作者はこう述べています。
 「私は、この小説で、弁護士黒瀬雄一郎に、むしろ、私たちが構成する社会に存在する、女性に対する神話や幻想、通年の\"代表者\"としての役割を与えた。従ってこの小説に登場する\"法廷\"はそのまま、私たちの内なる差別意識を逆照射したものである。強者の論理や差別は、すべて\"強姦\"であり、この問いかけを、まず私たちは自分に対して向けなければならないだろう。」(P.159)
  つまりは、悪徳弁護士はこの作品の強い問題提起のためにデフォルメされカリカチュアライズされたスケープゴートだったわけですね。
  しかし、(この面からの女性史については全く詳しくありませんが)この弁護士の口から語られる女性への蔑視、偏見、中傷は、その後30年の日本社会において徐々に告発されていくセクハラ、パワハラ、アカハラ、マタハラ等々の問題性を予見する告発であったと言えるかもしれません。
  引き続き同著者の『セカンド・レイプ』も読みます。

 

 

 落合恵子 セカンド・レイプ 講談社文庫
                                    (1994.2.25刊 2016.8.13-20通読 2016.8.20投稿)
  画像は文庫版しかありませんが原作第一刷を読みました。登録の画像候補としてエロ漫画が大量に表示されるのには参りました。
  著者の『ザ・レイプ』を読んだ流れでこちらも読みました。
  「セカンド・レイプ」「セクシュアル・ハラスメント」「ブレーキング・サイレンス」というカタカナのタイトルの3作品が収録されています。
  「セクシャルハラスメント」は1989年の新語・流行語大賞の新語部門・金賞。
  Breakinf Silenceを検索すると以下のようなlyricsを見つけました。  Breaking Silence    Janis Ian
  Come into my solitude
 though I weary be
 Come into my tenderness
 Dream along with me
 Listen to the whispers sing Listen to the singer shout
 Come into my solitude
 Me and my big mouth
  Thoughts unspoken, thoughts unsaid
 Lies of hearth and home
 Children broken on the bed
 and left to lie alone
 Things you talk around
 Scum you choke on down
 Come into my solitude
 Step on sacred ground
  We were speaking
 of values and violence
 Breaking silence
  Fathers who are lovers to
 the daughters that they own
 Mothers who don\'t leave a child
 a single safety zone
 People so unhinged
 that death is much too kind
 Come into my solitude
 Step over that line
  ...Thought I was the only one
 ...Thought I was the only one
 ...Thought I was the only, only one
  We were speaking
 of values and violence
 Breaking silence
  Come into my solitude
 Welcome to the wheel
 Come into this wonderland
 of wounds that will not heal
 Walls that do not speak
 Steps that do not sound
 Come into my solitude
 Burn this building down
   ジャニス・イアンのこの曲https://www.youtube.com/watch?v=9LRR_9D89ks はざっと読んだところでは子どもへの性的虐待のことを歌っているようでした。
   話が逸れました。
  本書には小説本原著としては珍しく作者あとがきが付いていて、その中で落合さんは以下のように書いています。
  「この作品をわたしに書かせてくれた多くの女性たち。かつて、沈黙しか選べなかった女性たち。いま、沈黙を破ろうとしている女性たち。現に沈黙を破った女性たち。告発と防止をテーマに活動をしている女性グループ。少数ではありながら、性暴力をなくそうと取り組み始めた男性たち。/そういった人々の存在が、どれほどわたしを元気づけ、励ましてくれたか。/感謝の気持ちをあらわず言葉を、わたしはまだ『発見』できていないようだ。/小説に後書きは不要であると考えているわたしがだ、今回は、敢えて感謝の気持ちを後書きに託した。」(P.272-273)

 

 

 渥美雅子・村瀬幸浩『性愛-大人の心と身体を理解してますか』
                      (原著1999 改訂版2008.7.5 2016.8.5-9.30通読 2016.10.2投稿)
  7/30-8/1の性教協夏期セミナー書籍販売で本書を見つけ、帰ってからAmazon古書で購入、日本教育方法学会大会参加のため博多へ向かう新幹線車中で読み終わりました。
 タイトルも装丁も、なかなか他人の眼のあるところでは読みづらい本ですね(^^;)。新幹線で読みましたけど。
 性教協幹事の村瀬さんと弁護士の渥美さんの性愛に関する11回+8年後の1回の往復書簡。
 おもしろい部分を何カ所か。
 「いつだったか従軍慰安婦の方たちと話をしていた時、日本人男性が『従軍慰安婦の存在は、戦地で兵隊の性欲を処理するための必要悪であった』と発言した時、彼女らの一人が、/『だったらマス掻きゃいいじゃないの!』/ と叫んだことが印象に残っています。/そうですとも。コミュニケーションなど要らない単なる発射願望ならマスタベーションでいいではないですか。それとも、見ず知らずの女性とコミュニケーション抜きのセックスをすることが、それはそれでスリリングであるとか、なまじエロティックであるとか、そういうことがあるのでしょうか。/あるいは、もしかしたらそういう男性は、コミュニケーション付きの贅沢なセックスを知らないのでしょうか。知らないから、セックスとはそういうものだと思い込んでいるのでしょうか。」(P.124 渥美)
 「けれども性欲にはヌイておしまいの部分もあるが、ヌクだけでは満たされないものがある--私はそれを心理的欲求といったりしています。/たとえば、 (1)ふれあうぬくもりから安心感を得たい (2)緊張から解き放たれて戯れたい (3)幼児のようになって甘えたり甘えられたりしたい (4)相手に喜ばれて価値ある自分を感じたい (5)抱きしめあって淋しさを癒したい (6)さわってさわられていい気持ちになりたい というような--。/私はこれらをカタ仮名で、\"プレジュアリング\" \"ヒーリング\" \"コミュニケーション\"というように言い表しています。」(P.129 村瀬)
 「大事なことは男が(もちろん女も)日常の性生活において、その欲求や願望を満たされていないこと--買春の日常性、というか、買売春の多さは夫婦の、恋人同士の、パートナーとの性の貧しさのあらわれだと考えられますし、そう考えたらどうか、ということです。/なぜそうなのか、そのわけは沢山あるのだろうけれど、ハッキリといえるのは男がそして女も人間の性行為・セックスを「ヌク」こと程度にしかその意味をつかみとっていないから、だから夫婦の、パートナーとの性関係が深まっていかない、ひろがっていかない。そして金をもった男はまやかしではあれヌクだけではない性のたのしみを買いに行くのです。/そのたのしみをなぜパートナーと共有できないのか、共有しようとしないのか。」(P.134 村瀬)

 

 

                                (2017.7.29投稿)
性教協夏期セミナー
 みんな違ってみんないい。それぞれの人に居場所がある。
 そうなっていくのであれば、特にsexualityだけにこだわらなくてよいと思う。
 また、sexual minorityへの差別意識が完全になくなることは、もしかしたらないのかもしれない。
(devil's advocateを自認する司会者さんの、「男と男がくっついて気持ち悪い」というその気持ち悪いというのは気持ちだからどうしようもないのではないか?という問いに対してあるパネラーが)
 建前のオンパレードに終わらない議論が展開されようとしている。

 

 

                                (2017.7.30投稿)
さて、美食と台風(^^;)の話を挟んで、昨日の続き。
昨日の投稿への補足コメントにある程度まで書いたんですが、「啓蒙」の話です。
人間らしい性のあり方とは何か、それを追求する人たちとそのことを妨害する人たちがいる。この構図は間違いなくあると思います。妨害に反撃して正しい性のあり方を追求しようという方向性は僕も支持しています。
ただ、人間のsexualityについては、まだまだ未知の領域も広がっていて、「正しいあり方」について容易に合意できる状態ではないと思います。
実は昨日、性教協を理論的・実践的に牽引してきたお一人である村瀬幸浩先生に会場でお会いし、僕が書いた2つの研究資料をお渡ししました。そこに添えた挨拶状を再録します。他に公表すべきでない個人間のやりとりなどを内容に含んでいないので、そのまま載せます。
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村瀬幸浩先生
 三重大学教育学部の佐藤年明と申します。約20年前から性教協の会員です。大学での専攻は教育課程論ですが、その中で特に性教育をメインの研究として参りました。スウェーデン、ニュージーランドにもそれぞれ数回の研究調査を行なってまいりました。
 このたび私が書きましたものの中で先生の御主張を取り上げさせていただき、僭越ながら若干の批判もさせていただきましたので、研究活動上の礼儀として私が書きましたものを先生にお届けさせていただきたいと考えました。
 1つは本年6月17日に福井医療大学にて開催されました中部教育学会第66会大会での私の自由研究発表の当日配付資料でございます。全てフルセンテンスで書いておりますが、これ自体は口頭発表の付属資料です。いずれ研究論文にまとめ直すことになると思います。発表題目は「性教育において『快楽追求としての性行動』を教えることは必要/可能なのか?」です。本文P.2の末尾からP.7にかけて先生の御主張を取り上げさせていただき、続いて7人の性教協会員の(と理解しております)性交を教える実践を検討しています。最後にP.14-15で再び先生の御主張にも言及しております。
 もう1つは、琉球大学教職大学院の蔵満逸司先生主宰の「小学校教師用ニュースマガジン」というメールマガジンの中で昨年11月から私が担当しております連載「性(sexuality)を学ぶとは何をすることか」の第8回(本年7月)までのコピーでございます。この連載では初回から第6回まで、「第1部小学校5(・6)年生に性交も含めて生命誕生について教えた経験から」と題して、私がかつて三重大学教育学部附属小学校で行なった生命誕生の実験授業について自己分析を行なってきましたが、第7回(6月)からは話題を変え、「第2部小中高の性教育で『快楽追求としての性交』を教えることは必要か?また可能か?」と題して、前述の中部教育学会発表の内容を再構成したりかみ砕いたりしながら連載を続けていこうと考えております。この連載では学会発表と順序を逆転させて実践の検討から始め、第7回で野津保先生、第8回で白沢章子先生の実践を紹介・検討した上で、そこから村瀬先生の性の快楽性把握の紹介と批判、と申しますか、私は違う考え方をしているということを表明しています。学会発表時よりやや踏み込んで先生のお考えに対してコメントさせていただいています。
 連載についてはつい最近書き、掲載されたばかりですが、学会発表は1か月半ほど前のものですので、もっと早く先生にお届けしなければと考えていたのですが、性教協ホームページ等を見てもご連絡の方法がわからず、夏期セミナーでお会いできれば直接お渡ししたいと考えました。
 もし機会がございましたら率直なご批正をいただきますと幸甚に存じます。今後ともどうぞよろしくお願いいたします。」
 村瀬先生は早速資料に目を通し始めていただいたようで、次の休憩時間の時に声をかけて下さいました(トイレだったので、^^;一言二言話しただけですが)。
 長くなったのでここで区切りますが、上述の学会発表資料は、以下に掲載していますのでご覧ください。
 本文→http://www.cc.mie-u.ac.jp/・・・/left・・・/20170617chubu-main.pdf
 別紙資料(すいません^^;右に90度傾いているのを修正できずにいます)→http://www.cc.mie-u.ac.jp/・・・/20170617chubu-attached.pdf

 

 

                                (2017.7.30投稿)
続けます。
詳しくは学会発表資料をお読みいただけるとありがたいのですが、僕の問題意識を簡単に書くと、
・性交については、(学習指導要領は不当にも禁じているけれども)生命誕生学習の起点として必ず教えるべきだと考える(いつからどのように教えるかの丁寧な検討は必要だが)。
・しかし生命誕生・生殖との関係だけで性交を教えると、「うちは3人きょうだいだからおとうさんとおかあさんは3回性交したんだね」と捉える子どもも出てくる。
・人間の性行動のありようは多様だが、平均的には、生殖目的でない(避妊しての)性交が日常的?に行なわれ、子どもをもうけたい時にだけ避妊を中断して受精を期待するのではないか。となると、生殖に繋がらない性交についても人間の性の自然な?ありようとして学習すべきである。
・性交にはいろいろな側面、局面があるが、暴力・商行為などの否定的な面をとりあえず横におくとして、肯定的人間関係と関わる面として、コミュニケーション・ふれあい・快楽追求などの面がある(これらの相互関係はまだまだ解明されていないが)。
・私はこの中で快楽追求の面に関心を持ち、これを性教育における学習の対象とするべきか、またすることは可能かを考察中である。
 村瀬幸浩氏氏は、生殖につながらない性行動についての解明に精力的に取り組んでおられますが、快楽の位置付けは、村瀬氏が書かれた文章の発表時期により変化しています。個人の感情・感覚としての快楽・快感と、性行動の人間関係的側面との関わり方について、村瀬氏の捉え方は揺れているように思われます。未開拓の領域なのでそれは当然で、僕もいろいろと考えながら村瀬氏と意見交換ができればいいなと考えているところです。
 トイレでの(^^;)会話で村瀬氏は機関誌『SEXUALITY』の最新号でこれに関わることを書いたとおっしゃっていたので、帰ったら探してみようと思います。

 

 

                               (2017.7.31投稿)
あと10分。
講師さんの声からは逃れられないけど(耳でvolume調節できればいいのに...)頭だけは逃れて、この3日間の性教協夏期セミナー参加を総括していきたい。
8月9日に教員免許状更新講習・選択講習「性(sexuality)を学ぶとは何をすることか〜小学校を中心に〜」を行なうが、去年の講習でも今年の講習でも、事前アンケートでLGBT問題が出てきている。それは僕の専門じゃないけど、上記の講習タイトルから離れることじゃないし、講師の方も勉強する努力が必要だ。この面では今回1日目に岡山市や倉敷市の教育委員会の資料も得られて、有意義だった。
ところで僕自身が性教協に参加する最大の理由と言えるのが、「性交の授業」についての研究・実践である。この点では昨日午前に中学校でのふれあいの性を取り上げた授業、午後は小学校で性交の科学的メカニズムを取り上げた授業を、いずれも模擬授業形式で学べたことは有意義だった。但し、知識面で新しく得たものはほとんどなかった。実際にはなれないけど、中学生や小学生の学習者になって学んでみる体験は、意味があったと思う。
同時に、昨日の議論では先進を走る実践者の逡巡する実践者に対する(僕から見れば)「冷たさ」も感じた。このスタンスが変わらない限り、「性教協セミナーに参加して勉強できた。だけど職場に帰ったらなあ・・・」という良心的で迷っている教師たちを動かすことはできないと思う。
幹事の方とちょっと話して、三重に性教協サークルがない話から、「作って下さいよ!」と言われたのが、そうはならないだろうと思う。最大の理由は停年まで3年の大学教員が呼びかけても運動論的組織論的に無理だろうということ。次の理由は、僕自身がそうしたいと思わないこと。自分がすでに関わっているサークルや研究機会において性教育についても語り意見を聞く機会があったら、それで僕的には十分だ。 



伊藤真美子『ゲイでええやん。 カミングアウトは息子からの生きるメッセージ』東京シューレ出版
(2010.8.15刊行 2017.8.13-9.9通読 行きのKorean Air機中で書きました。2017.9.19投稿)
 sexual minority関連の本と思って買いました。読み始めの日付から見て、7/29-7/30の性教協夏期セミナーではなく、その後の8/10-8/12の教育科学研究会近江八幡大会の書籍コーナーで買ったんだと思います。
 タイトル通り、伊藤さんの息子のやおきくんが高校生の時(たぶん)自分がゲイであることを母親に打ち明けたということ、それを母として動揺しながらも受け止めていった様子が書かれているのが「第1章カミングアウト」。
それから「第2章子育ち・第3章不登校・第4章学童保育」と、伊藤さんが学童保育の指導員(後に学童保育協議会の事務局員)として働きながら娘のさわこさん、息子のやおきくんを育ててきた奮戦記が書かれています。
 やおきくんの生育過程を振り返った上であらためてゲイであるとカミングアウトした息子とどう向き合っていくか、が最後の「第5章ともに歩む」の内容なのかと思ったら……そうではなく自分の学生時代や子育てや職場のことがぐるぐると回想されるのでした。やおきくんのカミングアウトをめぐっては、第1章以上には書かれていません。
仕事も子育てもきれいごとやない。いっぱい失敗してきた。自分の子にも学童の子にも間違った接し方もしてきた。子どもに教えられて反省し、右往左往しながら少しずつ成長してきた……この本は結局、そういう伊藤真美子さん自身の半生記でした。執筆の経緯としては東京シューレ出版の人から「いきなりやおきのことを書いてほしいと言われ、ふたつ返事で引き受けた。」(「あとがきにかえて」P.186)とあり、スタートはそういうことだったようなのですが、全体としては家族がsexual minorityであることを知ってそれをどう受け止めたかということをメインにした本とは読めません。
 伊藤真美子さんをよく知る同僚とか学童っ子とか家族、友人ならば、本書を読んで「あーそうだ、あの頃そんなことがあったなあ」と共感できるのかもしれないんですが、全く伊藤さんを知らない読者としては、内容に共感するところは多々あるけれども、正直言ってとても読みにくいです。今の自分のこと、子どもの頃、学生の頃、仕事を始めた頃のこと、二人の子どもの小さい頃のこと、今のこと…….個々の部分ではおおむね時系列に沿って書かれていますが、流れがまた前に戻ったり、一度出てきたことが再度出てきたりします。
 人の回想というのはそういうものなんでしょうが、それをそのまま本に書かれてもわかりにくいなと思いました。内容に共感できても叙述に共感できないのです。



張 賢亮(北霖太郎訳) 早熟 (原題:早安! 朋友)
                (1987原作出版 1988.11.25邦訳出版 2018.6.11-23通読 2018.6.23投稿)
 山本直英『各種性教育探検論[下]アメリカから大阪市立A中学校まで』(東山書房 1989)所収の「第十三話 中国の性教育はいま…… 発禁の青春小説を読み解く」の中で紹介されていた高校生群像を描く青春小説。
 張賢亮氏は1936年南京市生まれで、高校卒業後甘粛省の党幹部学校で教える傍ら詩作活動を行ないますが、1957年に“反右派”闘争において作品を批判され、「労働改造」に送致されます。1979年に名誉回復するまで不遇な生活であったようです。再開した創作活動の中で1987年に発表した本作品も大陸では発禁で香港で出版されました。
 物語は、大学受験期を控えた(もちろん受験しない生徒もいるが)高校3年クラスの自習時間に、男子生徒・王文明(ワンウェンミン)が突然隣席の女生徒・徐銀花(シュイインホワ)の胸を突然つまむという「事件」から始まり、その後退学処分となった王文明は放浪の旅に出る、徐銀花は様々に思い悩みつつ、一方でマスタベーションの快楽を覚え、またそのことに罪悪感を持ってさらに悩んだ末、川に身を投げて自殺。またそこに至る過程やその後に何人かの男女クラスメートが絡み、最後は徐銀花が身を投げた川岸に級友たちが追悼に出かけ、にもかかわらず大騒ぎして帰るという結末。
 発禁の理由は早恋=高校生の恋愛という国家の倫理としてあるまじきことが語られているからであり、またマスタベーションについて描写されているからであると思われますが、逆に言うと、国家や古い世代が口を極めて非難し禁止しても、高校生など若者の性への関心や行動は日本などと大して変わらないんだろうなと、本作品を読んで思いました。
 しかし、性に関わる描写が出てくること以外は、僕が1960年代末の中学生の時期に読んでた学研の学年別雑誌の、ちょっとどきどきわくわくするような青春小説と大して変わらないし、中国の作品だから「おっ?」と思って読むけど、内容的には「だから何?」という感じです。



ロビン・ベイカー(秋川百合訳) 精子戦争 性行動の謎を解く(原著:Sperm Wars: Infidelity, Sexual Conflict and Other Bedroom Battles, Robin Baker, 1996 1997年邦訳原著刊行)
                          (2009.12.20文庫版刊行 2018.2.5-6.25通読 2018.6.26投稿)
 刊行からそれほど経っていない本書の邦訳原著を研究費で購入し、長いこと背文字だけ眺めて読まないまま放置していました。退職が来春に迫る中、研究室図書の処理方針を立てる必要がありました。私費購入図書はもちろん自宅に持ち帰るか断捨離。公費購入図書は三重大学図書館に返却するわけですが、手元に置きたいものは新たに私費購入する必要があります。そこで本書をAmazonで検索すると文庫版の古書があったのでそっちにしました。
 著者ベイカーは1995年にマーク・ベリスと共著で'Human Sperm Competition: Copulation, Masturbation and Infidelity' (精子競争-性交、マスターベーション、不倫)を刊行し、その1年後に『精子競争』の学術的内容をベースにしながら一般読者向けに全32編の「シーン」と呼ばれるショート・ストーリーを加えた『精子戦争』を刊行しました。『精子戦争』は23の言語に翻訳されて大きな反響を呼びました(P.448 文庫版あとがき)。
 性交により男性のペニスから女性のワギナに送り込まれた数億の精子が卵管内の卵子との結合を目指して進む様は、例えば手塚治虫『アポロの歌』(残念ながら断捨離してしまったみたいで確認できないんですが)でも描かれています。競争、闘いのイメージです。そこから最後に残って卵子との受精を果たした精子こそもっとも優秀であるというイメージが描かれます。それに対して、数億の精子は膣から子宮、子宮から卵管へと進む過程でのバリアを打ち破る上で相互に協力しているのであり、ある精子が最終到達できるのも他の多数の精子の協力あればこそという考え方もあります。
 しかしこれらは全て、1人の男性と1人の女性の性交から受精に至る過程についてです。
 これに対し、ベイカーの言う「競争」「戦争」とは、基本的に複数の男性の精子間の関係を指します。結婚していてもしていなくても、1人の女性が複数の男性と、1人の男性が複数の女性とセックスをすることが日常的であるという前提で議論を立てています。
 もちろんそれは、科学者としての調査にもとづくものでしょう。邦訳者秋川百合によると、本書のベースとなった『精子競争』におけるベイカーの「科学的調査研究」は以下のようなものでした。
「ベイカーの行った科学的な研究調査は1980年代半ばから始められたが、その方法と内容は生物学者たちを驚かせ、うならせるものであった。
 まず彼は、約4000人のイギリス女性を対象に、『セックスの相手は複数か』『最後にしたセックスの相手はパートナーか』『そのセックスの前5日間にどれだけその相手と一緒に時間を過ごしたか』など、詳しく性行動について聞いたアンケート調査を行った。
 また、もっと直接的に調べようと、合計約100組のボランティアのカップルから、約1000個の射精された精液を収集したのである。男性にはコンドームを渡してセックスやマスターベーションで出た精液を採取してもらい、女性には射精の後に膣から流れ出たフローバック(逆流)を大変な努力を強いてビーカーに集めてもらった。そして、その中の精子の数を顕微鏡をのぞいて逐一数え、他の男性の精子がミックスされているときは精子はどのように違った行動をするかを観察したり、子宮内に残っている精子の数を割り出したのである。また、同時に『最後に射精してからどのくらいたっているか』『その時の射精はセックスだったか、マスターベーションだったか』『その時の相手は長期的な関係にあるパートナーだったかそれ以外の人か』『セックスの間にパートナーはオーガズムに達したか』『それはセックスの前か、最中か、後か』など、念入りなアンケート調査も行った。」(P.434-435)
 このような科学的調査にもとづき、要するにベイカーは夫婦間のセックスでも不倫関係のセックスでも、あるいはマスターベーションでも同性愛でも、あらゆる性行動が優秀な精子と卵子の受精によって優秀な子孫を残すように予めプログラムされている、と言いたいようです。
「くりかえし見てきたように、射精とオーガズムに関する男女の戦略のほとんどは無意識のうちに行われ、ムードやリビドー、刺激に対する反応の速さなど、一連の動きを通して体によって調整されている。確かに、本書に述べられている行動のほとんどは同じく無意識のうちに行われていて、脳による理性的思考ではなく、遺伝子のプログラミングの産物である。しかし、それにもかかわらず、男女とも「試みと失敗」をくりかえしながら自分たちの感情を満足させる最良の方法を学んでいくので、意識的な要素も重要な役割を果たしている。」(P.311-312 シーン25の【解説】)
 データの裏付けはあるにせよ、結局ベイカーの言いたいことは、人間は反倫理的と言われるものを含めて多様な性行動を展開するが、それら全ては子孫繁栄のために合理的にプログラムされたものだ(当事者が意識しなくても)ということのように思えます。無軌道なものを含め様々な性行動を容認し支持する言説にしか思えないのですが。
 ベイカー自身は、こう言っています。
「描写し解釈した行動の多くは、多数の人にとっては良くて『不道徳』であり、最悪の場合は『犯罪的』である。私にとっては、いかなるモラル的立場もとらないことが肝要である。一人の進化生物学者として、一切の偏見も批判もなしに人間の行動を解釈することに、私の目的はある。」(P.15)
 ええかっこすんな!と僕は言いたい。
 「シーン」に登場する様々の赤裸々な性行動(敢えて紹介しません)について、「いかなるモラル的立場もとらない」なんて言ってみても、仮にベイカーが紹介すべきでないとかしたくないと思った場合には紹介してないわけだから、紹介した事例は少なくとも「検討に付す必要がある」という意味までは価値があると判断しているわけです。偏見を排して検討することは研究者として必要でも、いかなる価値判断も排除して検討するなんてことは、できるはずがないのです。
 最後に、ベイカーが結局人間の性行動を子孫繁栄という観点からしか評価していないことへの強い疑問と異議を表明しておきたいと思います。



                               (2018.8.11投稿)
性の多様性。
 それは、人の集合として見たときに多様なのであって、一人一人の性の有り様はかけがえのない一つのものだ。そのひとつのものにも、もちろん男か女かのような二分ではなく、性自認にも性指向にもグラデーションがあり、また「ゼロ」というのもある。あるけど、とにかく一人の人間の生の有り様は、その人だけのものだと思う。
 ヘテロセクシャルにとってホモセクシャルの人がいるという事実を知り、その存在を認めることは大事だろうけど、だからといって自分のヘテロセクシャルな性指向は変わらないだろうし、異なる性指向に「共感」することも難しい。
 多様性を強調するあまり、自分のsexualityの個別性を大切にすることがあいまいになってはいけないと思う。自分の個性的sexualityを大切にしてこそ、他者もそうだということが理解可能になるのではないか。



                               (2018.10.30)
 たった今友人のwallに投稿した文章です。そちらは「友達限定」なので、一部を省略してここに改めて投稿します。
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 30年近く性教育研究に取り組んでいますが、最近はLGBT(もっと最近はLGBTQですか?)に関わる教育の必要性のアピールが強く行なわれています(僕が見ているのは性教協=“人間と性”教育研究協議会の情報がほとんどですが)。それには共感するし、学校というレベルではもっともっととりあげられていくべきだと思います。
 そのことを大前提としてですが、majority = Cisgender, heterosexual に関わる性教育の課題もまだまだ未解決、未実現のことがたくさんあると思うのです。性教協ではもちろんそれについてもこれまでから取り組んできたし、今も取り組んでいるし、それでいいと思うんですが、言いにくいですけど「性教育の中心課題はLGBT問題」みたいな傾向(誰かが言っているのでなく僕が勝手に感じ取っているだけかもしれませんが)には抵抗を感じるのです。
 どちらが大事、ということではなく、homosexualの課題もheterosexualの課題もどちらも大事だと思うのですが、どうもそういう取り上げ方になっていないように思います。
homosexualの人たち=差別され、権利を奪われてきた人たちであり、いまこそこの状態を克服して人権を擁護すべきであり、heterosexualの人々の中にもStraight allyとしてそれを支持する人が広がればよい。それはその通りなのですが、ではそれによって僕のようなmajority = heterosexualの人々のsexualityはどう深まり豊かになるのか、それが問われると思います。
 もう一つ言うと、性教育において「多様な性のあり方」ということだけが強調されると、「生殖の性は多様な性の一部であるheterosexualの人たちだけの課題だから」ということにならないでしょうか。
 確かに現行学習指導要領・教科書のもとで小学校4年生体育保健分野で二次性徴について学ぶとき、性別違和の子どもは悩み苦しむかもしれない。5年生でヒトの誕生について学ぶとき、性自認や性指向の面で生物的には「産む性」であっても将来そうならないと意識している子は悩むかもしれない。いまはまだカミングアウトも少ない中で教師も気づかずに教えているかもしれないけれど、性自認や性指向を公表する子どもがもしもこれから増えてきたら、これらの学習は簡単には進められなくなるでしょう。
 でも、だからと言って生殖について教えなくてよい、minorityが傷つくから教えない方がいい、ということにはならないと思います。誰かがそう言っているわけではないし、僕はもちろん「生産性」議論に与するものではありませんが。
 minorityについてきちんと考えるということは、majorityについてもきちんと考えることでなくてはいけないと思います。



平井美津子 「慰安婦」問題を子どもにどう教えるか
                                  (2017.10.25刊行 2019.6.16-17通読 2019.6.16投稿)
 昨16日大阪高津ガーデン(大阪教育会館)で第10回関西教育科学研究会が開催され、本書著者の平井美津子さんが「今、教師・人間として生きる」と題して講演されました。平井さんのお名前はかねがねうかがっていましたが、お会いするのはこの日初めて。会場で本書を購入し、講演が始まる前に平井さんと少し話しました。僕は40年以上の教科研会員だが、途中から授業づくりネットワークにも参加し、自由主義史観研究会にも初期には参加していたことなどを話しました。
 帰りのおけいはん特急の中で本書を読み始め、今朝読み終わりました。
 まず、僕がマーカーで線を引いた箇所を抜粋していきます。そうした個別表記のモザイク・集合体から本書全体の印象を形成してもらおうというつもりは全くありません。僕個人が関心を持った箇所をあげたいだけです。
「生徒から、『先生、戦争好きなん?』と聞かれることがある。『なんで?』と聞くと、『先生、戦争のことになったらすごく熱いもん』と。『好きなはずないやん。でも、もし私が熱くなってるとしたら、戦争の実態をしっかりと伝えたい、知ってほしいと思ってるから』と言っている。(「はじめに」P.5)
「今戦争を学ぶのは、戦争への過程、加害、被害、抵抗や反戦、加担といった戦争のあらゆる面を見ていくことで、戦争の実相を知り、そのことが再び戦争が起きることを防ぐ力になると思うからだ。」(同 P.5)
「子どもたちが戦争について知る機会は祖父母らのような家族からではなく、学校やメディアからでしかなくなっているのが現状である。」(同 P.5-6)
「当時の私の授業は、『戦争を教えたい、知ってほしい』という思いばかりが先行する内容だった。なにせ教科書では10時間程度でのところを18時間もかけてしまったのだ。実際には子どもたちにとっては消化不良になるものだったかもしれないと、今考えると反省しきりだ。」(「『慰安婦』問題を教えた最初の授業」 P.26)
「このころの私は、戦争の実相を学ぶだけでなく、戦争についての責任を問うことや、被害者への償いはできているのかというところにこだわっていた。」(同)
「『はい、平井先生熱く語る~!』/授業の前にちゃかす生徒がいる。私の授業はどうも私が熱弁をふるう形になってるようだ。自分ではそんな意識はないのだが、子どもの声は正直だ。」(同 P.39)
「当時の子どもたち曰く、『先生は嬉々として、熱く語っていた』そうだ。/これは教師としては大いに反省すべきことだ。教師が何かのアジテーションのようにとうとうと自分の考えを話す授業は子どもたちの学びにはつながらない。そういう授業を楽しみにしてくれている生徒もいるが、やはり授業改善が必要だとその時に感じた。/実際、NNNドキュメントを見た大学時代の友人からは、『熱意は伝わってくるけど、アジっぽかったよな~』と手きびしい感想がやってきた。いたく反省、原因はわかっていた。子どもたちに考えさせようとしていたものの、自分自身が伝えたいと思うことを一方的に話し、用意された結論へ導こうとしていたのだ。」(同P.39-40)
「子どもたちからの疑問(どうして日本軍は戦場で『慰安婦』を必要としたのか? 賠償をしないのはどんな理由か? 『慰安婦』だった人の要求は? なぜ日本の政治家の中に事実を認めようとしない人がいるのか?)は置き去りになっていた。あとで、私に何人もの生徒が疑問を投げかけてきたことがその表れだろう。」(同 P.40)
「当時の私にとっては、『慰安婦』の授業をすることが金学順さんをはじめとする『慰安婦』だった女性たちへの私なりの教師としての応答責任であり、河野談話を実践することだという自負があった。」(同 P.41)
「私にとっては『慰安婦』問題を授業で扱うことはアジア太平洋戦争を教えるうえで、あまりにも当然のこと過ぎて、扱わないという選択肢はなかった。(「先生、『慰安婦』の授業まだ?」 P.97)
「質問につれて、つらそうな顔、怒っている顔、戸惑っている顔、うつむく顔、いろんな表情をくるくる見せる様子は、子どもたちが授業に入りこんでいる証拠だ。」(同 P.104)
「慰安婦の授業をすると男子たちは借りてきた猫のようにもじもじする。照れくささからか逆にはしゃいだり茶化したりするのもいる。そこが、『慰安婦』の授業を教師側が躊躇する一因でもある。子どもたちの照れを誘わない覚悟が教える側には必要だ。堂々と性の問題を取り上げる。性の問題を考える一番大切なときは中学生だ。だからこそ、子どもたちの思いを大切にしたい。好きな人ができてどきどきしたり、物悲しかったり、その人のことを大切にしたいという思い。そこから考えてほしいのだ。」(同 P.105)
「『慰安婦』を教えるときは緊張してしまう。こちらが真剣でないと子どもたちにも伝わらないから。ただ教師があまりにも真正面から切り込みすぎると、子どもたちを萎縮させてしまう。普段にぎやかな男子も、ここで下手なことは言えないという感じでまごまごしがちだ。だから、『慰安婦』の授業では、思春期の女の子や男の子たちが恋愛に対して抱く淡くて純粋な気持ち、好きになった人を大切にしたいという思いに触れながら、問いかけたい。」(同 P.110)
「子どもたちからは仕方なかったのかどうかという点での感想が多かった。予想はしていたが、仕方はなかったという意見は少数ながらもあった。男子もよく発言をした。それは、『仕方がない』という言葉が男性の側から戦場における兵士の行動を正当化するものとして出たものだったからだ。この発言によって男子たちにとって『慰安婦』は戦場での女性の被害という認識から、自分たちの問題となった。男子たちは『自分がもし戦場にいたら?』と考え始めた。そして戦場の自分と今の自分が対話し始めたのだ。これまで女子たちが『慰安婦』にさせられたかもしれない自分と対話し、今のハルモニたちの行動に共感し、その思いを受けとめようとしてきた。今回は、『兵士にとって慰安所は必要だったのか?』ということに男子として向き合わざるを得なかった。『慰安婦』にさせられた女性、『慰安所』を利用した男性。両面から考えることができたのではないだろうか。」(同 P.111)
「私は『慰安婦』問題を通じて、そういった現在起きている性暴力に対しても子どもたちに他人事としてでなく自分事としてとらえてほしいと思っている。当事者性をもって考えてほしいのだ。」(同 P.147)
「考えると、ここ10年ほど私は常に抗ってきた。時には在特会に、教育委員会に、管理職に、民主的な教育を押しつぶそうとする動きに対して、抗うのは自分への攻撃に対してだが、それが自分に対してだけではなく学校という場、ひいては子どもたちにかけられている攻撃だからだ。私はたたかっているつもりはない。たたかうというのは相手を負かそうと考えてやる行為だ。私は負かそうとは思っていない。相手の攻撃をやめさせたいと思っているだけだ。だから、何度やられてもそのつど抗う。攻撃してくる相手を負かそうとはしないけれど、相手には負けたくない。通じないことはわかっていても、理をもって粘り強く抗うしかないと思っている。抗うためには、学ばなければならない。周りの人々にどちらに理があるかをわかってもらわなくてはならないから、説得力のある言葉も必要だ。面倒くさい。でも、続けていくしかない。理不尽な攻撃をする勢力に、自分たちがやっていることが社会をよくすることにつながらないということをわからせるために。そんなことをしても無駄だと思わせるために。」(「怯まずに『慰安婦』問題を教えよう」 P.152)
「戦争によって非業の死を遂げたり、人生を破壊されたりした人々の悲惨な体験は何を物語るのか。それは単なる悲劇の物語ではない。終わった過去のことでもない。/そこから学ぶべきは、その真実を知り、記憶し、未来の平和を築くために継承していくことではないだろうか。体験をただ聞くだけでなく問いを立て、その答えを模索していくプロセスを大切にしなくてはいけない。『戦争はいけない』『平和がいい』という言葉をいくら並べ立てても、本質にたどりつけないばかりか、形だけで時がたてばわすれられていくものでしかない。教師として自分自身が行ってきた平和学習について改めてふり返る必要性を感じさせられた。」(「おわりに」 P.186)
 平井さんのお話を聴き、著書を読んで僕が共感した面は、先日Fbに投稿した以下の自分の文章と軌を一にするものです。
「京都教育科学研究会第302回5月例会に参加して考えたこと(『教育』6月号中嶋哲彦論文の検討から)」 佐藤 年明·2019年5月21日火曜日
https://www.facebook.com/notes/%E4%BD%90%E8%97%A4-%E5%B9%B4%E6%98%8E/%E4%BA%AC%E9%83%BD%E6%95%99%E8%82%B2%E7%A7%91%E5%AD%A6%E7%A0%94%E7%A9%B6%E4%BC%9A%E7%AC%AC302%E5%9B%9E%EF%BC%95%E6%9C%88%E4%BE%8B%E4%BC%9A%E3%81%AB%E5%8F%82%E5%8A%A0%E3%81%97%E3%81%A6%E8%80%83%E3%81%88%E3%81%9F%E3%81%93%E3%81%A8%E6%95%99%E8%82%B2%EF%BC%96%E6%9C%88%E5%8F%B7%E4%B8%AD%E5%B6%8B%E5%93%B2%E5%BD%A6%E8%AB%96%E6%96%87%E3%81%AE%E6%A4%9C%E8%A8%8E%E3%81%8B%E3%82%89/2246391765443789/
 その中でも特に以下の部分です。
「現憲法を未来永劫変えないわけではないとしても、全文・9条を始め守り続けなければならないものがたくさんあります。そして、憲法を守るためには、衆議院・参議院のそれぞれ3分の2以上の議決で改正が発議されないようにしなければならない。たとえ発議されても国民投票の過半数で改正が決定されないようにしなければいけない。主権者の多数により良識を発揮して改正を阻止しなければならないわけです。多数を結集しなければならないのです。だから教師は生徒に向かって、次のように訴えてもいいと思う。
『君たち一人一人が、もしも憲法改正が発議された際にどういう意思表示をするかは、もちろん君たち一人一人に任される。しかし私は、教師である前に一人の国民として、戦争の大きな犠牲を経てようやく制定された日本国憲法の民主的理念を守り続けるためには、憲法改悪を狙う勢力の意思を国民多数の良識の結集によって打ち砕くしかない、そう自分が思っているということをみんなにも知ってほしいんだ。私は君たちの多くが憲法改正に反対する考え方を持つようになることを一人の国民として望んでいる。もちろん強制はしないし、テストに『改正反対』と書いたら○を付ける、なんてことは絶対にない。ただ、君たちの多くが憲法改正に賛成するようになったら、おそらく国民の多くも賛成するようになるだろうし、そうなったらいまの憲法は守れない。先生はそういう事態にはなってほしくないんだ。』
 単なる演説になってしまってもいけないし、生徒が聞く耳を持ってくれないような状況なら訴えても無駄ですね。しかし世間の状況が厳しくなっていく中、一人の教師が教室で自分の思想信条を生徒に向かって語ることはあってもいいと思う。それが生徒の思想信条、権利と自由の抑圧や生徒による『忖度』につながってしまうかどうかは、それまでの授業運営や学級づくりにもよると思います。
 信頼して語り合える学級、授業であれば、児童生徒の側から『先生はどう思うの?』と問いかけてくる場合だってあるでしょう。『君たち自身の考え方にヘンな影響は与えたくないから、先生自身の考えは話さない。』というのが正しい対応でしょうか?
 とても乱暴な締めくくりですが、文学読本『はぐるま』で読んだ『最後の授業』(フランス万歳!)や、学生の頃に読んだ三上満さんの著書で、教師であり労働者である満さんがデモやストライキに出かけるときにそのことを生徒たちに話した場面などをおぼろげに思い出しています。」
 乱暴にまとめてしまえば、平井さんのように教師としてだけでなく一人の人間としての生きざまを子どもたちの前に晒すことは、言いたいことが十分に言えない窮屈なこの世の中においてとても貴重だ、重要だということ。
 さてしかし一方で、僕は最近こういうことを考えています。僕が30数年研究と実践に取り組んできた「性の学習」においては特にそうなんですが、例えば文科省が学習指導要領で「性交」の学習を実質的に禁止している中で、果敢に性交も含めて生殖の性行動や触れ合い・コミュニケーションの性行動を授業で取り上げる教師たちが少数ながらいます。しかし、「禁じられても教師としての信念にもとづいて敢えて実践する」緊張関係のもとでの実践であるために、共感する教師たちがその先進実践から学ぼうとしたり、実践者自身が例えば性教協(“人間と性”教育研究協議会)の夏期セミナーその他の場で講座を担当して実践を紹介する、つまり、<<啓蒙し啓蒙される>>関係は成立し得ても、その中で実践の不十分点を明らかにしたりさらなる課題を提示するというような、普通自主的民主的な教育実践研究運動の中では行なわれているようなことが等閑に付されているのではないかと思うのです。要するに相互検討・相互交流が不足しているのではないか。
 昨日の関西教科研での報告や議論の内容については当事者の許可を得ないと他で公開しないことになっているので述べませんが、僕の印象では平井さんの生徒や同僚等との人間関係づくりの努力に対しては多くの人の称賛的発言があったものの、平井さんの「慰安婦」授業、「沖縄戦」授業の内容そのものについて、つっこんだ検討はありませんでした。
 例えば元「慰安婦」の証言として平井さんは金学順さんやペ・ホンギさん、イ・オクソンさんの証言を取り上げているが、この人たちの証言は問題を提起している元「慰安婦」の人たちの中でどういう位置にあるか(どういう典型性があるか)?他の人の証言と比べてどういう意義があるのか、というようなことです(僕が質問すればよかったんですが^^;)。教科研のような民間教育研究団体の中で平井さんの実践がストレートすぎて敬遠されたとは思えないんですが、激しい攻撃に屈せずに地道に実践と人間関係づくりを進めておられる平井さんへの尊敬の念が先に立って、批判や疑問を述べるに至らなかったのではないかと憶測するのです。そして、民間教育研究運動というのはそれでよいのか?と。
 突出した実践家に共感し、また運動的に支えるだけでは、教育実践研究運動は前進しないと思います。
 初期の自由主義史観研究会まで参加していた僕は、藤岡信勝氏の影響を受けていることを否定しません。彼のその後の言動の大半は支持できませんが、今も頭に残っているのは、日本軍の「慰安婦」問題を問題にするなら、戦後韓国軍がベトナムに進駐した際に売春婦を抱えていたことは問題にしないのか?というような藤岡さんの批判です。きちんと自分で事実を検証しないままに取り上げるのは無責任と思いますが、「軍隊が性奴隷を抱えるのは世界中にあること」というような言説に対して、もし「そういう問題ではないのだ!」と言うとしたら、どういう問題の立て方をするのでしょうか?
 民間教育研究運動の中に、「慰安婦」問題を取り上げた授業実践(平井さんだけでなく)に対して、批判的に検討しようという動向はあるでしょうか?(学生院生によく言うのですが、「批判=否定」ではありません。よく検討した上で肯定し摂取することも批判です。)そういうこと自体が自民党や在特会を利する行為だというスタンスはないでしょうか?
 論点を変えます。例えば平井さんの教え子たちの感想の中に、こういうのがあります。
「戦争中に日本軍の性の相手をさせられた『慰安婦』、それをさせた日本との和解はとても難しいと思います。(後略)」(「真の和解とは何か-考え始めた中学生」 P.132)
 この生徒は「性の相手」ということをどれくらい具体的にイメージしているでしょうか。
 上にも少し書いたように文科省は、小学校学習指導要領理科5学年のヒトの誕生の学習において「受精に至る過程は取り扱わない」と明記して、要するに性交の学習を禁じています(拙稿「学習指導要領は性をどう扱ってきたか?」『教育』2018.11 参照)。覚悟を決め肚を据えた少数の教師のもとで学んだ小学生以外は、学校の教室で性交について学んだことがないまま中学校へ進学してきます。
 これまでの性教育において、それでも敢えて性交を取り上げる場合、多いのはやはり生殖の性としてでした。たくさんの子どもたちが(密かに)疑問に思っていること=精子と卵子(これはどの教科書にも出ている)は別々の人が持っているのにどうやって出会うのか?に答えることは必要です。そして「生命」は教育の大事な課題でもあり、だからこそ「生殖の性」からが入りやすいんだと思います。
 慰安婦の「性の相手」とは、生殖の性としての性交ではありません。愛し合い信頼し合うパートナー同士のふれあい・コミュニケーション・快楽追求の性交でもありません。暴力・強制の下で兵士がむりやり自分のペニスを女性のワギナに挿入する強姦行為です。
 人間が取り結ぶ性の関係には、生殖の性行為もあり、触れ合いの性行為もあり、暴力・強制の性行為もあり、また(「慰安婦」問題において意図的に混同されやすい)商行為としての性行為もある。平井さんはこうしたことについて、歴史学習としての「慰安婦」授業とは別にある程度の学習を組織されたのでしょうか?教科担任制の中学校だから、ただでさえ「慰安婦」問題に多くの時間を割く必要がある中、そこまでは無理だったのでしょうか?
 慰安所における暴力的な強制性交は、「慰安婦」の人たちの心と体の傷として残っていると思われ、そこを詳細に聞き取ったりそれを授業で中学生に伝えることが教育的かどうかについては慎重な検討が必要です。しかしもしも平井さんが中学校歴史学習において人間の性行為を取り上げる際に、書いていらっしゃるような「思春期の女の子や男の子たちが恋愛に対して抱く淡くて純粋な気持ち、好きになった人を大切にしたいという思いに触れながら」という位置付け方(これ自体はとても大事だと思いますが)からだけ性を語られるとしたら、決定的に不十分だと思うのです。
 中学生と性との関わりはそのような牧歌的なものだけじゃないでしょう。実際に平井さんが関わられた生徒の中にはいないのかもしれませんが、一般論でいうと小学校高学年や中学校で性交を経験する子どもはいます。「援助交際」のような形で「商行為としての性」に関わっている中学生だっていると思います。具体的場面のリアルな描写が必ずしも必要とは思いませんが、人間の性い汚れた面があるという「知識」は中学生なら持っておく必要があるでしょう。
 平井さんが紹介されている男子生徒の様子が、僕にはとても気になります。
「慰安婦の授業をすると男子たちは借りてきた猫のようにもじもじする。照れくささからか逆にはしゃいだり茶化したりするのもいる。」
「普段にぎやかな男子も、ここで下手なことは言えないという感じでまごまごしがちだ。」
「男子もよく発言をした。それは、『仕方がない』という言葉が男性の側から戦場における兵士の行動を正当化するものとして出たものだったからだ。この発言によって男子たちにとって『慰安婦』は戦場での女性の被害という認識から、自分たちの問題となった。男子たちは『自分がもし戦場にいたら?』と考え始めた。そして戦場の自分と今の自分が対話し始めたのだ。」
 もじもじしたり、まごまごしたりする男子は、性に関わるこんな話を初めて聞くから戸惑っているだけなんでしょうか?
 それとも性交を始め性行動をすでに経験し始めている自分と引き比べている生徒もいるんでしょうか?
 「男の性は暴走する」として危険視されることを予測しているんでしょうか?
 「戦場の自分」、一体そんなことを想像できるんでしょうか?(そこから派生して言えば、「慰安婦」問題で非難されるのはまともに補償に取り組もうとしない政府だけなんでしょうか?それともむりやり連れてこられた女性たちを強姦した一人一人の男性兵士の責任が問われるんでしょうか?)
 戦場での兵士の体験についてはいろいろな記録や小説等が残されてはいるでしょう。現代の中学生が想像とは言え戦場の兵士、とりわけ慰安所を利用する兵士の位置に自らを立たせることはできるのでしょうか? また教師はそのようなシミュレーションをさせるべきでしょうか?(平井さんがそうさせたと言っているのではありません。生徒自身が考え始めたんだと思います。)
 生徒たちを大切にし、同僚や親との関係も大事にされる平井さん。それらの人たちから謙虚に学び、実践の弱点や課題も率直に書いておられます。教師として、人間としての平井さんを(よく知りもしないのに傲慢ですが)尊敬します。
 しかし、平井実践には課題もいっぱいあります。「『慰安婦』について教える授業実践」にも課題がいっぱいあります。果たしてそうしたことは、日本の民主教育の中できちんと検討されているでしょうか? 僕にはそう思えないのです。


張賢亮(北霖太郎訳) 男の半分は女 「男人的一半是女人」 二見書房
                      (1985発表 1986翻訳刊行 2017.6購入 2018.6.25-2020.5.10通読)
 2018.6.23に張賢亮『早熟』という作品の読後コメントを投稿しています。
https://www.facebook.com/toshiaki.satou.14/posts/1771681836248120
 そこでも書いているとおり、山本直英『各種性教育探検論[下] [科学・人権・自立・共生]教育をめざして』(東山書房 1989)の「第十三話 中国の性教育はいま・・・・ 発禁の青春小説を読み解く」で、中国で発禁となった青春小説(性に関わる描写もある)『早熟』のことが紹介されています。
 山本さんの紹介を読んだときは「へ~え」くらいだったんですが、三重大学最終年度の2018年度の「教育課程の国際比較」という授業の受講生がたまたま中国からの留学生ばかりだったこともあり、上記文献を受講生といっしょに学習し、さらに紹介だけでは全容がわからないので『早熟』の邦訳版を入手して読みました。その時にもう一冊、張賢亮著の本書も入手していたのです。僕の記憶では、本書も山本さんの本で紹介されていたものと思い込んでいましたが、読み返してみると紹介されているのは『早熟』のみでした。『早熟』を入手したときにAmazonかWikipediaの情報で同じ作者の本作品を知ったんだろうと思います。
 Wikipediaによると張賢亮の経歴は以下の通り。
「1936年(民国25年)南京の裕福な中流家庭に生まれる。祖籍は江蘇省盱眙県。父は米国留学の経験がある国民党の官僚で複数の会社を経営する企業家でもあった。1949年、共産党が第二次国共内戦[要リンク修正]において国民党に対して勝利を収めると、父はスパイ容疑で逮捕され、のちに獄死した。そのため張賢亮は1954年18歳の時に母親と妹を養うために大学への進学をあきらめ、北京を去って寧夏回族自治区銀川市賀蘭県へ赴き、すぐに幹部文化学校の教員になった。
 1950年代初め、中学生のころより創作を始める。1957年までに60余編を発表した。北京で高校に入るがのちに除籍となる。青年時代はロシア文学とフランス文学を好んだという。1955年に甘粛省委員会幹部学校の教員になる。反右派闘争期の1957年7月、21歳の時に『延河』という文学月刊誌に長編詩「大風歌」を投稿するが、これが猛烈な批判を受けることになる。1957年9月1日、『人民日報』が『大風歌を糾弾する』という批判記事を掲載、作品が反党、反社会主義であると糾弾した。作者である張賢亮は『右派分子』のレッテルが貼られ労改送りとなる。以来、22年間にわたり世間と隔絶され、当局の管制下におかれる。文化大革命期には、反革命的修正主義者であるとして糾弾され、逮捕が繰り返された。  1970年に軍事基地の撤去作業の強制労働に従事する。文革終息後の第十一期三中全会において名誉回復が決定、1979年9月28日にこれを知らせる一通の通知が来て『右派』生活に終止符が打たれた。『寧夏文芸』の編集に携わる。張賢亮はこの時すでに43歳の中年になっていた。
 1980年代から精力的に作品を発表、中国作家協会寧夏分会理事に選ばれ、中国作家協会にも加入した。また、全国政協委員を第6期から第8期まで務める。しかしながら、1989年の六四天安門事件の際に抗議する学生たちへの支持を表明したところ、当局により『習慣死亡』を含む作品の発表を禁止され抑圧を受けた。発禁処分は1993年まで続いた。この影響で、しばらく映画製作関連の仕事に活動の重心を移す。1992年には明清時代の防壁の荒涼とした風景に商機を見出し、鎮北堡西部影城という映画撮影基地を設立、自ら董事長となった。ここでは『紅いコーリャン』『楽園の瑕』『チャイニーズ・オデッセイ』といった作品の作品が行われた。
 1993年には、六四天安門事件を追憶する集会を組織しようとした罪で当局に拘束され、三年間投獄された。2012年11月12日、中国共産党中央委員会の機関紙『人民日報』等で一斉に『張賢亮が5人の愛人を囲っていることを暴露する』ゴシップ記事が報道される。2013年頃から体調を崩し、一年近く闘病したものの治療の甲斐なく、2014年9月27日銀川郊外の病院にて死去した。享年78歳。」
 こうしてみると、本作品の主人公章永璘の人物像はほぼ作者張賢亮の前半生と重なるように思われます。
 僕は高校生の恋愛を描いて発禁となった『早熟』の文脈で本作を読み始めました。本書の腰巻き(裏表紙側なので写真には写っていませんが)には本作品の終末近くの以下のような叙述が紹介されています。
「彼女は軀をよじって、むっちりした乳房を私の胸にしっかりと押し付け、まるで決闘にでも臨むような、蓮っ葉な口調で迫ってきた。
『さあ、オンドルに上がって! 今晩はあたしが思いっきりあんたを楽しませてあげる!  一生あたしを忘れられないように、うーんと!』
 月は中天に昇った。部屋の明かりを消すと、月の光が瀧のようにドッと小さな土の部屋に流れこんできた。彼女の切れぎれの、あえかな呟きが、月光のなかにゆるやかにたゆたった。(中略)
 二本の灼けつくような腕が私をしっかり抱きしめ、私を引きずりこんだ……月光にきらめく湖の底へ。私の耳許で、深い水底から湧き上がってくる声が聞こえる。
『……忘れちゃダメよ、あなたを本当の男にしたのは、わ・た・し……』」(本文P.324 本文と相違する記述は本文に統一した。)
 いわゆる濡れ場、性行動の場面であり、腰巻きだけ読むと本作品はこういう場面の連続化と勝手に勘違いさせられてしまうのですが、章永璘と妻の黄香久の性交の場面(そういう言い方では情緒も何もありませんが)は作品全体で3回登場するだけで、それぞれ短く、また描写も控えめと言っていいものです(もちろん当局による検閲を逃れるという配慮もあったかもしれません)。
 章永璘は教師出身の知識人ですが、中華人民共和国の大躍進運動や続く文化大革命の元で右派、反革命分子として罰せられ、強制労役に従事させられています。
 ある日章は、偶然女子隊に属する女性(黄)が全裸で水浴する場面を目撃し、彼女もそれに気づきますが、何事も起こらないままに終わります。8年後、ともに移動させられた二人は新しい作業場で出会い、やがて結婚します。章はそれまで独身で童貞、黄は二度離婚していました。
 新婚生活が始まりますが、章は最初の性行動に失敗します(はっきりと書いていませんが、勃起しなかったようです)。その後も生活を続けますが、性行動はなく、ただ、大雨と大洪水の時の堤防補修で章が献身的に働いて家に戻ったとき、妻の求めに応じて性交を成立させることができました。
 しかしその後も夫婦の気持ちはすれ違ったままで、章は離婚の準備を進め、離婚の申請を出したと妻に告げた夜に冒頭の引用シーンの最後の性行動を行なって物語は終わります。
 こういう紹介だけでは、一組の農民夫婦の結婚と不和と離婚の話、ということになってしまいますが、そしてまた僕自身そういう読み方をしてしまいましたが、最後まで読んでみて本作の主題は性ではなく、中国の革命と反革命をめぐる長年の騒動に人生を翻弄されてしまった知識人出身の農民の悲哀、というところだろうなと思いました。縮めて言えば中国の体制批判だと思います。
 農民(もっとも章自身は懲役労働を課されている囚人・労働者ですが)の生活、農村の四季の情景などはリアルに瑞々しく描写されていますが、一方で世話している馬と会話したり、亡くなった知人とかマルクスの亡霊との対話まで出てきて(それは章永璘の妄想と読んでおけばいいのでしょうが)、ちょっと作品世界全体の構図が掴みにくい話ではありました。
 「男の半分は女(男人的一半是女人)」とうタイトルの意味も、よくわかりません。

 

 

 

 私の教育実践ノート(その  =2020s-12)                   2021.1.31
「ジェンダーと教育」最終レポート採点を終えて


 昨日夕方に全員の最終レポートを読み終え、採点・成績処理作業を完了しました!
 やった! この解放感!!
 これから2ヶ月強は、自分がやりたい「仕事」だけに没頭できます。現役時代には超多忙だった年度末期ですが、リタイアして入試監督も、卒業判定も、教授会もなし。非常勤講師となって収入は激減、年金頼みの生活ではありますが、研究者としてこの「自由な時間」を得たことは何ものにも代えがたい。
 …とはいうものの、「自由な時間」の手始めにやろうとしているのは、大学教師としての仕事としては完了したばかりの2020年度後期「ジェンダーと教育」授業実践についての総括です。まずはこの回で最終レポートの分析をやり、少し間を置いて来年度に向けたシラバス改訂の検討をしたいと思います。
 研究時間を渇望してきた僕ですが、同時に「研究者であるより前に教師」と自己規定してきました。何年か後に非常勤講師もリタイアしたときにも、「これで研究に専念できる!」という意識には多分ならないと思います。研究のmotivationをその後どう維持していくかに苦労するだろうと思います。教師「もどき」でもいいからどこかで活動し続けられないか、もがくだろうと思います。
 さて、最終レポート採点をしながら、ぜひ整理しておきたいと思っていたことがありました。2021.1.28付「2020s-11」ノートで最終レポートの全課題を掲載しましたが、その一部を再録します。
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第Ⅱ部(学びの総括)
(3)佐藤は、本授業のタイトルが「ジェンダーと教育」であることを踏まえて、受講生自身がジェンダーをめぐる諸問題を知り考えるだけでなく、小中高の子ども・青年とともにジェンダー問題を考える学習プランづくりを行なった。自己紹介カードでの意向調査によると24名中教員採用試験を「受ける」8名・「未定」3名・「受けない」13名であった。このことを踏まえ、現時点での自らの教員採用試験についての選択(受ける・未定・受けない)を再度明記した上で、その立場から、授業15回中7回を学習プランの作成・発表に費やしたことが自分自身にとって意味を持ったのか持たなかったのか、持ったとすればどういう意義があったかについて率直な意見を書いて下さい(意見内容が肯定的か否定的かによってレポートの採点を上下させることは絶対にないと約束します)。
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 この課題は、受講生自身の学習総括の課題というよりも、受講生の担当講師に対する「授業評価」のテーマの一つとすべきかもしれません。しかし、京都女子大学のLMS(Learning Management System)上で、授業終了後の1月25日に締め切られた授業アンケートには、29名中17名の受講生が無記名で回答してくれたのですが、案の定、最終設問である「授業でよかったと思う点、授業で今後改善すべき点など」については、回答ゼロでした。受講した多くの授業のアンケートに一つ一つ答える手間を考えたら、文章による回答をしてくれない受講生を責められないと思います。こういうこともある程度予測し、またやはり無記名回答ではなく実名回答してほしい、そのかわり回答内容を採点に反映させないことを確約する、この信頼関係の中で受講生の意見を聞きたいと思ったんです。
 京都女子大学での非常勤講師は今年度が初めて。しかも「ジェンダーと教育」というテーマの授業は、38年の大学教師生活の中で初めてでした。三重大学で長く性教育に関連する授業を続けてきましたが、ジェンダーを前面に出した授業テーマは初めて。
 まだ京都女子大学の事情がよくわからなかった僕は、授業テーマに「教育」が入っていることから、なんとなく教員養成学部である発達教育学部の、教員免許関係科目ではないが選択専門科目であろうと考えてシラバスを作成していました。ちなみに、実際の授業過程でかなり修正をしましたが、修正前の原形のシラバス(授業計画の部分のみ)を以下に提示します。
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第1回
 1.イントロダクション
  (1)いきなり意見交換
  「女らしく」と言われた記憶は? 「女のくせに」と言われた記憶は?
  (2)セクシュアリティの定義・ジェンダーの定義
第2回
 2.「男・女」の区別・差異と性の多様性-生物学的な性・性別自認・性的指向・性的表現について知る-
第3回
 3.生殖としての性とジェンダー
  (1)子どもたちとヒトの生命誕生について学ぶ
第4回
(3の続き)
  (2)文部科学省学習指導要領における「生殖の性」の位置付けの問題点
  (3)「女性=産む性」という固定観念(生殖をめぐるジェンダー・バイアス)
第5回
 4.人間の性について学校教育ではどこまでとりあげることができるか?
  (1)「生殖」は性行動の一部→ふれあい・快楽/暴力・商行為としての性は扱えるか?
  (2)人間の性行動・性生活とprivacy
第6回
 5.『国際セクシュアリティガイダンス』からジェンダーについて学ぶ
第7回
 6.ジェンダー平等の視点から学習指導要領を検討する
  (1)中高学習指導要領の中から検討したい教科を選択し、グループを編成する。
  (2)グループ活動(学習指導要領を読み合い意見交換する)
第8回
(6の続き)
  (3)各グループの検討結果の発表・交流
*なお、プランづくりのスケジュールは、受講者数や受講者の意見によって変更する場合がある。
第9回
 7.「子どもたちとジェンダーについて考える学習プラン」づくり(1)
   ジェンダーという概念(言葉)を子どもたちにどう伝え、教えるのか
第10回
 同(2)
   学習プラン作成グループの編成(以後の活動はグループで行なう)
   学習テーマ案(ジェンダーの何について学習するか)の検討
第11回
 同(3)
   学習テーマの決定
   授業の対象(小学校高学年/中学校/高等学校)の決定
   学習内容・教材さがしについての相談
第12回
 同(4)
   教材研究・学習指導案作成
第13回
 同(5)
   学習指導案の完成
第14回
 同(6)
   模擬授業/学習プラン発表
第15回
 総括:これまでの学習を振り返り、感想・意見を交流する
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 このように、第9回~14回の全6回に渡ってジェンダーについての学習プラン作成を行なう計画です。全授業時間の40%を費やしています。
 ところが、蓋を開けたら、29名の受講生の所属内訳は発達教育学部18名(うち教育学科10名・児童学科8名)、文学部9名、現代社会学部1名、法学部1名でした。そして、最終レポートの設問に書いたように、自己紹介カード提出者24名の中で教員採用試験を「受ける」8名・「未定」3名・「受けない」13名という回答でした。
 ある大テーマの下に小グループ毎に小テーマを設定して学習プラン(数時間構成の単元計画)を作成して相互交流する、という活動は、三重大学教育学部での「教育課程論」授業の中で何度も実践してきたことです。条件があるときには学校現場の先生方にご協力いただいて、学生代表が実際に小学生相手に授業をさせていただいたこともありましたが、それは稀な機会で、ほとんどは大学の授業の中での相互交流、それも教室での発表では時間がかかりすぎるのでMoodle(=教育用イントラネット)に各班がプランを投稿して他の受講生がコメントを投稿するという形が多かったのです(過去のFacebook投稿で何度か紹介していると思います)。
 その延長で、初めての「ジェンダーと教育」授業でも、講師である僕が15回の毎回手を替え品を替えしてジェンダー問題の情報提供するというのでなく、「子どもたちとともにジェンダーを学ぶ」という設定の中で受講生自ら情報収集をし、教師として何をこそ語りたいか、子どもたちにどのような学習活動に取り組ませたいかを企画することを授業後半の学習活動に設定しました。
 発達教育学部生だけでなく学内他学部からの受講生もいることは名簿を見てわかっていましたが、なんとなく教員免許を取る他学部生が関心を持って受講したのだろうぐらいに解釈していました。ところが開始から数回後までに提出された約8割の受講生の自己紹介カードの中で教採を受けるという回答が3分の1、未定も含めても半数弱とわかり、このシラバスのままでいいのかと迷い始めました。しかし、すでに授業が始まっているのに授業後半期の学習活動を大きく組み換える余裕もなく、結局既定方針のまま進めることにしました。そして授業通信や毎回の小レポートへのコメントの中で、たとえ教師を目指さなくても子どもたちとともにジェンダーについて学ぶプランを作成することは決して無意味ではないということはしばしば強調しました。
 しかし、受講生の側が、特に教師を目指していない受講生がこのような学習活動をどう受けとめているかはずっと気になっていました。そういうわけで、授業アンケート的な性格を持つ設問を最終レポートに加えたわけです。受講生が思っていることを躊躇せずに書けるようにと「意見内容が肯定的か否定的かによってレポートの採点を上下させることは絶対にないと約束します」との但し書きも付けました。しかし、そうは言っても、この設問を含んだ最終レポートの全体を私が30点満点で総合評価するわけですから、「約束はごまかしだ」と言われてもしかたありません。今から考えると、最終レポートの課題群とは切り離して、最後に、回答するかどうかも任意にしてこの項目を提示した方がよかったかもしれません。
 ともあれ、最終レポート提出者28名のうち、誤って設問に沿った回答をしなかった2名を除く26名から回答が返ってきました。その中でまず、「教員採用試験を受けない」と意思表示した15名(最終レポートでの意思表示。自己紹介カードでの意向表明より2名増)全員の上記設問への回答を紹介します。
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●学習プランの作成はそれまでの授業で学んだことの実践的な振り返りになったと感じた。また、ジェンダーと「教育」であることを踏まえると、教育場面でのジェンダーの扱いについて考えることは講義の目的を果たしていると思った。よって、長期的な学習プランの作成・発表は自分自身にとって意義を持った。
●受けない立場ではありますが、授業15回中7回を学習プランの作成・発表に費やしたことは自分自身にとって意味のあることであったと考えています。この授業で学んだジェンダーに対する柔軟な考え方は、ジェンダーのこと以外にも生かすことができると思うからです。
●学習プラン作成・発表に7回を費やしたのは私にとって意味をもちました。授業のねらいを学習プラン作成に重きをおくのであればもっと学習プラン作成に回数を費やしてもいいのではないかと思えるぐらい、調べる内容量もその幅も広かったです。ただ7回あると、今回はこれを決めて、次までにこれをしてこよう、前回あれができなかったから先に決めてしまおう、のように少し遅れても修正ができたのが良い点だと思いました。
●各学年それぞれに応じたジェンダーに関する学習指導計画を考え、発表されたものを聞くのは自分自身にとって学びとなりました。自分の班は小学三年生という、教えるのには少し考えることが多いような年齢を担当させていただきました。実際に考えてみることで、小学三年生にはこの角度から教えると伝わりやすいんじゃないかなと班の方たちと意見交換することもよい機会となりました。この学んだものを生かすことはないかもしれませんが、知識として得ておくことは必要であるなと感じました。
●学習プランを作成し、発表したことは大いに意味があったと思う。そう思う理由は、この学習プランを作成しているとき、教える生徒のことを一心に考えて作成できたからだ。ここまで相手のことを直接的に考えてプラン作成できるのは「ジェンダー」という内容であるからこそだと思う。これから先、性教育がどのようにされるのかは分からないが、この授業で出た絵本を使う考え方や身近な例を出して教えると言った方法が実践されていたらいいなと思う。
●学習プランの作成は意味があったと考える。まず、自分の意見だけでは気付かなかった考えや視点をグループで話し合う過程で見つけることができた。新しい知識や見解を得ることができた時点で意味のある取り組みだったと思う。また、教わってわかることとわかるように教えることは全く違う。小学校のころ、授業を受けて内容を理解できていても、友達に教える時には自分の言いたいことがなかなか伝わらないことがあった。自分の知っていることを児童にわかってもらえるような授業内容や誤解を生みにくい言葉選びを考えることは、この授業に限らず様々な場所で役立たせることができると思う。そもそも、自分の言いたいことを相手に伝えるために、その相手に合わせて(この授業では年齢)言葉選びをするというのは、人として必要なスキルなのではないか。
そして、教師にならないからといってジェンダーに関することを教える場面がゼロになるかと言われればそうではないと考える。将来子どもができてその子どもに尋ねられる可能性も十分にある。もしかしたら、昨今のそういったドラマや映画を見て、もしくは視点が偏ってしまっている人の話を聞いてそれらが全てだと思い込んでしまう家族や友人が今後出てくるかもしれない。「教師にならない=教える機会はない」と決めつけて、今回の授業に全く意味がなかったとしてしまうのはもったいないようにも思える。
●学習プランの作成発表の授業の時間は私にとって大きく意味を持った時間であった。ジェンダーについて学びを進めていく中で、生徒として学ぶのではなく、教師側の視点からジェンダーを学ぶことで、新しいジェンダーの概念を見つけることができた。「ジェンダー」という概念を押し付けないように、でもわかるように伝える、教える、考えさせるにはどのようなきっかけが必要であるのか、などを考えるとき、何度も「ジェンダーとは何なのか?」ということを頭の中で考えたし、そのきっかけになった。また学習プランの対象学年の立場になって考えた時、自分が小学校低学年の時の事を思い出し、教えて伝えるだけでなく児童に考えてもらうためにはどのような質問を投げかけるのが良いのか、またその適切な回答はどうすれば良いのか、など考えることで、自分自身が子供を持った時のジェンダーの多様性の教え方に参考にできるとも考えた。
●授業プランの作成活動は私にとって意義のある物だったと考えています。アウトプットが出来る状態にまでインプットを行う機会になったこと、プレゼンテーションの練習が出来たことは、私にとって価値のある物です。わかりやすい、関心を持ちやすい授業にするために身近な題材を探したことで、自分もジェンダーが様々なものと関係を持っていることを知ることが出来ました。また、時間通りにプレゼンテーションを進めるための話すスピードや分量も自分で検証をしました。人前で話す力は今後も必ず必要になるはずですから、ここで2度経験出来て良かったです。
●この授業を受講した理由には「教育に興味がある」「教師になる可能性がある」「ジェンダーに関心がある」などがあげられます。後期になり、自分の将来について考える中で何度も悩みましたが「教師」という選択をなくしました。しかしながら、教育への関心がなくなったわけではないし、現在も塾講師として教育に携わっていることからこの授業は大変意味のある授業であったと感じています。塾講師として働く中で、生徒から恋愛相談や性に関する相談を受けることもありました。年齢が近いということや親しみやすさがあることも関係しているとは思いますが、相談をする生徒の中には「学校の先生には聞きにくいし…」と悩む生徒もいました。生徒にとって相談したいと思える場所が塾なのか、家庭なのか、学校なのかは自由だと思います。相談できる場所として塾を挙げてくれることはすごく嬉しくも感じます。ただ、私自身も「学校での性教育ではやんわりとしか学べないな…」「でも、学校の先生には聞きにくいし…」と悩んだことがあり、一度ジェンダー教育についてしっかりと考えてみる必要があるのではないかと考えたことがこの授業を受講した大きな理由です。そんな経験をした私が「学生」としてジェンダーに関する授業を作成したことには意義があると思います。この授業を通してジェンダーに関する知識を得るだけでなく、「多様性」についても学ぶ事が出来ました。また、授業プランを作成する上では複数の視点から考えることが重要でした。同時にそれぞれ異なる班員の意見をすり合わせながら考えていく必要がありました。この経験からはジェンダーを教える上で重要な「多様性」についてまずは自分自身が理解をすること。自分自身が「多様性」を受け入れるための成長ができたことからも授業の意味を感じています。この経験は今後の授業や学外での生活にも大いに活用していきたいと思います。すごくやりがいを感じる授業でした。ありがとうございました。
●私は英文学科で、入学した時から教員を志望していなかったため、計画を立てて誰かに教えるという内容がとても新鮮に感じました。私が学習プラン作成を通して学んだのは、伝える側と受け取る側では感じ方や捉え方が違うという事です。発言者が無意識に聞き手を傷つけてしまうことは人間関係においてよくあることですが、教員の場合できるだけその溝がないように努めなくてはいけないのだろうと思いました。生徒は、よく言えば純粋で吸収力がありますが、悪く言えば誤解して受け止めやすく、教員の発言で偏見や固定概念を抱くことがあります。
特に今回のようなデリケートな問題では、そのような誤解を招かないように慎重に発言する必要があるのだと思いました。教員にはなりませんが、これから先誰かを指導することはあるかもしれないので、その時はこの授業で学んだことを活かしていきたいと思います。結論として、私のジェンダー、多様性への考え方について大きな変化をもたらしたため意味があったと言えます。短い間でしたが、貴重な経験をありがとうございました。
●この活動は自分自身にとって大いに意味を持ったと思う。生徒たちがどのようにしたら関心を持ってくれるか、不快な気持ちにさせずにちゃんとした正確な事実を伝えることができるか、など実際に私自身が教える立場になることで、ジェンダー問題について深く、そしてさまざまな視点から考えることができた。教える立場でこの問題について考えるのと、教えられている側で考えるのでは内容の重さや深さが全く違うと感じた。教える立場になって初めて気づくことや考えなければならないことなどに、気づくことができ、とても私にとっては意味のある取り組みだった。
 また、私は今年台湾での留学を志望しており、そしてその留学を通して、現地で学びたいことの一つとしてジェンダー問題も含まれている。台湾はアジアで初の同性婚を認めた国であり、この問題に対してかなり力を入れて活動している。そこで台湾でのこの問題に対する捉え方など、国を超えて多様な考え方を学びたいと思っている。そこで、この活動で学んだことは現地でも活かせると考える。また、子育ての時やこれから先いろんな人との関わりの中でもこの活動の成果を発揮できると思う。
 以上の考えから、私は今回の活動が自分自身にとって非常に意味をもったものであると考えた。
●ジェンダーに関する問題や課題を教育と結びつけて考えたことはとてもいい経験になったと感じている。私自身が小学校や中学校、高校でジェンダーに関する授業を受けた記憶が全くなく、LGBTなどのセクシュアルマイノリティはもちろん、子どもを作るための性行為、それ以外の快楽を求める性行為などについて今まで曖昧な知識しかもっていなかった。このような状態で成長していくと、何気ない一言でLGBTの当事者を傷つけてしまうかもしれないし、若くして望まない妊娠をしてしまい、育ててあげることができなくなってしまうなどの問題が発生する可能性が高くなるのではないかなと思う。私の中学の同級生も何人か妊娠の経験がある子がいるが、全員が口をそろえて言うのが、ちゃんとした知識を持っていなかったからこうなってしまったということだ。この言葉を聞いて、踏み込むのが難しいジェンダー教育であっても、将来のためにある程度の知識は身につくよう、授業を行わなければならないと感じる。
 実際にジェンダー教育を行うための学習プランを7回にわたって作成したが、授業の進め方などの教育面は教員を目指していない私にとって直接意味を持つことはないと感じたが、教育面以外の生徒へのアフターケアの方法であったり、性別を分けざるを得ないもの、そうでないものなどのジェンダーに関する事例を考えることは自分のために知識を身に着ける機会になってとても意味を持ったと感じている。私は将来児童福祉の道に進みたいと考えているため、性的違和感を持つ子どもやその親と関わる機会もたくさんある。そのような時に母子ともにどのような対応をすればよいのか、どのような声掛けをすればいいのかなどはある程度知識がなければ適切な対応はできない。そのような事例に遭遇し、対応を考える時が来たら、今回授業で行ってきた授業プランの作成の過程が私にとってとても意味のあるものだったと実感するだろう。直接的に関わって意味を持つ授業ではなかったかもしれないが、今回学んだことは決して無駄にはならないし、間接的であったり一部分だけであったりではあるが将来働くときに役に立つこともたくさんあったなと感じる授業だった。そのため、今回学んだことを今回きりで終わらすのではなく、これから大学で学ぶ様々な授業と結びつけて考えたり、興味を持った部分をさらに自分で掘り下げて学びを深めていくなど、積極的にジェンダーについて学んでいきたいと考えている。
このように感じるきっかけをもらうことができたため、ジェンダーと教育で授業プランを作成したことは全体的にみれば私自身にとって意味のある授業だったのではないかと思う。
●7回の授業を学習プラン作成・発表に費やしたことは意味があったと感じている。
 教員採用試験は受けないものの保育士資格は取る予定であるため、ジェンダーについて子どもに伝える方法や注意するべきポイントなどを考えることができたことに意義があったと感じている。筆者の班は、小学校中学年を対象に学習プランの作成を行い、その中で、子どもの理解力を考え、言葉や教材を選ぶことの重要性や難しさを感じたり、活動の中で最も大切にしたいことを、「正解・不正解はないため、他者の意見を否定しないようにする」などの形で、ルールとして伝えることが、到達目標の達成につながることを知ったりすることができた。特に、教材については、いきなり本題に入るのではなく、子どもの興味・関心があることを導入として利用することで、授業に積極的に参加したいと思えるように考えることが必要だと思た。
 また、別の授業の中で、保育指導案を書く機会が何度かあったが、それらは一人で考えて作成するものであったため、他者と一緒に作成したことはなかった。そのため、今回の学習プランづくりの活動を通して、他者がいることによって自分では思いつかない考え方やアイデアが出てくるメリットと、活動のイメージを班全体で共有することや意見をまとめて一つの学習プランに落とし込むことの難しさなどのデメリットを知ることができたことにも意義があったと感じる。
●受講前はジェンダーに比べて、教育に対する意識は正直低めだったのですが、この講義を通し、「どのように伝えたら良いのか」ということを模索したり、自分自身の中高での性教育への違和感を思い出したりし、教育の責任の重さや重要性に気づかされました。このような講義プランを実際に考える講義は初めてだったので、自分が問題視した部分を解決するような満足のいくプランには至りませんでしたが、ジェンダーを取り巻く日本の教育の現状については非常に考えが深まりました。個人的には、野村先生の授業の様子や、Lousia Allenさんの生殖以外の性交の扱いに関する研究がとても衝撃的だったので、実際のプラン作成の時間を少し少なくして、もう少し事例検討などをしてみたかった気もしています。
 正直ジェンダーや性に関することの講義だったので、最初は気まずさや戸惑いもあるかと思っていましたが、毎回のレポートへの先生の返信や授業通信など、先生の授業への熱量を感じられたことで、臆することなくまじめに取り組みやすい環境になっていたように思います。冒頭の今週のうたも新しい曲や解説を知ることができるので楽しみでした。半年間ありがとうございました。
●学習プランの作成は自身にとって意味があるものだったと考える。(2)内で述べたことと少し内容は重複するが、ジェンダーやセクシュアリティについて、シンプルに、単純なメッセージで伝える方法を考えるという機会が、児童に対して伝えるという授業プランを作成しなければ自身の中でなかったと思う。小学校低学年と関わる機会がなく、幼児や児童目線でジェンダーやセクシュアリティについて考えたことは一切なかった。しかし、学習プラン作成にあたって、実際に児童書を手にしたり、児童や生徒のジェンダー意識に対する論文に触れた。この活動がなければ、ジェンダー問題や意識に対する問いかけが含まれている絵本がこれほどまでに出版されていることも、野村先生のような踏み込んだ性教育を行おうという取り組みがあることも知らないままだった。自分自身、ジェンダー論に興味があって、この授業を受講したが、ジェンダーと教育の授業や、学習プラン作成を通して、日本と諸外国の性教育の違いやいつごろからジェンダーバイアスが生まれてくるのかという問題に興味を持ち、この問題について個人的にも、三回生以降の授業でも学びたいと思った。これらの理由から、私は、教員採用試験を受ける予定はないが、学習プランを作成することに大きな意味があったと考える。
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 以上です。あまり考察内容がわからない短い文章もありますが、15人の文章を(冒頭の教員採用試験を受けないが、という意思表示の部分を除いて)ノーカットで載せました。
内容によって分類することも考えましたが、それぞれの受講生が深く考えて多様な考察をしているので、グルーピングする必要はないと考え直しました。
 分類はしませんが特徴を拾ってみます。
 まあ大学の講義としてこういう学習もあってもいいと許容する(掲げられた目的に沿ったものだから妥当だ)、活かす機会はないかもしれないが知識を得られたことはよい、など、言わば消極的肯定意見。
 成長過程、被教育体験の中になかったsexuality, genderに関する学びを体験できたという意見。
 自分自身が教師を目指していなくても、学校教育と子どもたちのことを考える機会を持ったことが今後の人生に役立つかもしれないという意見。
 「教える」という活動のsimulationに取り組むことでジェンダー概念について何度も問い直すことができたという意見。
 知識をinputするだけではなくて、presentationまで経験できたとする意見。
 授業の中でのコミュニケーションを通じても、授業のkey coceptである「多様性」を体験を通じて受容していく経験ができたとする意見。
 コミュニケーションにおける送り手と受け手の間に生じるギャップを意識化できたとする意見。
 これらをさらに大まかに括ると、
・大学における一般教養的学習として、思考の方法やコミュニケーションの方法に関する刺激を得た。
・genderについて学ぶ方法の一つとして、教えるという活動のsimulationは有効であった。
ということになるでしょうか。
 もちろん、担当講師が授業で学習プラン作成をやると言っているんだから、自分が興味ない、やらないと言っていては単位も取れないし、やるしかない、という割り切りはあっただろうと思います。
 しかし、選択科目であるこの授業を、おそらくはジェンダーについては何らかの関心があるために受講したと思われる人たち、自分の仕事としてそれを学校教育に結びつけようとは(おそらく)当初は考えていなかった受講生たち、少なくともその一定部分が、仮構としてではありますが教育過程・学習指導過程をくぐってみるという思考を体験することで、ジェンダーについて考える自分の思考、認識の深まりを感じとってくれたことは間違いないと思います。そしてこうしたことこそが、大学における授業の第一義的な意義だと僕は思います。
 ジェンダー問題自体についてどれだけの知識・情報を提供できたかについては忸怩たる思いもあり、これについては稿を改めて来年度シラバスの検討の中で考えたいと思います。しかし、僕自身、sexuality educationについては専門研究者・実践者としてのいささかの自負はあるものの、ことgenderについてはまだまだ素人の域をでておらず、その点ではガ受講生たちに対して申しわけなかったとも思うのですが、僕の知らない情報を受講生たちが班活動の中で次々にTeamsに紹介してくれて、僕自身も学びを広げることができました。僕はgenderを歴史学的・社会学的に語れる専門研究者ではないけれども、40年くらい年は離れていても同時代を生きている学生さんたちと、「ジェンダー問題をともに考える」ことはできる。「ともに考える」方法や手順やそれぞれのメリット・デメリット等については、これまでの教育実践研究や自分自身の教育実践においてそれなりの蓄積も持っている。これを活かすことが佐藤版「ジェンダーと教育」のカラーだ。こう開き直って授業をしてきました。このことは、教育をなりわいとする意思のない受講生にもそれなりに伝わったんじゃないかと思います。
 さて、参考までに「教員採用試験を受ける」と表明した受講生の回答も紹介します。全部で10名いましたが、傲慢な言い方ながら、教師を目指す学生にとっては教員養成教育38年のキャリアを持つ僕の「学習プランづくり指導」は役立って当然だと思います。「受けない」学生のレポートは全員分紹介しないとフェアじゃないように思えて紹介しましたが、「受ける」学生のレポートについては特に興味深かった4名に限定して紹介します。
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〇私は、現時点では教員採用試験を受けようと考えています。よって、この「ジェンダーと教育」の授業で学習プランの作成・発表を行ったことはとても意味がありました。京都女子大学に入学してからの約2年間、様々な授業を受けてきました。その授業の中には、道徳などの「個性」という大きなくくりに着目した内容はあったものの、「ジェンダー」という性について取り扱った授業はありませんでした。教員になりたいという強い意志がある私は、ジェンダーだけでなく「教育」との関係についても触れているこの授業を選択しました。他の教科(国語や算数など)では何度も指導案として、学習プランを立てていましたが、「ジェンダー」の授業を1から作ったことはなく、最初は苦戦しました。しかし、私1人で作成するのではなく、班員全員で協力し合う中で、「私の小学校ではこんな授業が行われていた」などの具体的な実践例にもたくさん触れることができました。また、班によって対象学年が異なっており、偏ることなく様々な学習プランが見られて、自分の班にも取り入れたい工夫を見つけました。やはり1度でも学習プランをさくせいするという経験をしておくことで、実際に教員になったときに生きて働く学びにつながると感じました。授業の資料も説明もわかりやすく、コメントに対するフィードバックも丁寧にしていただき、嬉しかったです。最終的に、この授業を選択してとても良かったと思っています。ありがとうございました!
〇現時点で教員採用を受けたいと思っている。私は授業でジェンダー問題を扱うというよりも養護教諭として児童生徒と一対一の関係でジェンダー問題を改善していくことに重きを置きたいと考えている。他には保健だよりや掲示物などを通してジェンダーについて知ってもらえるような働きかけをすることの方が多くなるだろう。学習プラン作りでは教科書を用いず、教材を一から見つけて授業を構成することは今まで行ったことがなく、手順がわからず難しいと感じることが多くあった。実際に出来上がったものもあまり内容を深められず、発問の意図や効果をも曖昧になってしまったように思う。学習プラン作りはあまり意義を持つことができなかったが、それは私自身の授業構成をする上での知識や技量が足りなかったことが多いに関係する。
〇私は教育免許を取得する身だ。その立場から考えると、この講義を受け、とても大きな意味を持った。
  先生は「伝えること」の大切さを強調しておられたが、私は児童や生徒に「伝えること」だけが大切なことではないと、この授業を通して感じた。特に「ジェンダー」というナイーブに扱われている問題に対し教師側が一方的な知識や考えを伝えるだけでは、子どもにとっての「本当の理解」にならないと考えたからだ。(勿論、先生も「伝えること」だけが大切なことではないと考えておられるかと思いますが)「本当の理解」とは、「世界には様々な心を持つ人間がいること」「心と体が誰しも一致しているわけではないこと」など性的マイノリティの人々について心から理解する姿勢を示し、互いに共存し合い、生きていくことだと考える。
  しかし、課題としては、子どもたちはあくまでも学習指導要項に基づいて教育されるので、それに沿った教育を行うことと、学習指導要項に記載されていない事柄をどのように扱っていけばよいかが難しいところだと感じた。
  「性的マイノリティの人々を理解しよう」「みんな平等な見方を持って生きよう」など、理想的な考えを発信することは簡単なことかと思うが、一人一人の意見を聞いて、「なぜそう思うのか、どのような経緯でそのような考えに至ったのか」など話し合う必要があると感じたので、そういった意味で、私たち受講生が行ったグループディスカッションは様々な人の意見が聞けて、とても良い経験となった。
  また、自身は性的マイノリティの人々に対し否定的な考えを持っていないことや、全てのことに対し平等な考えを持っている人間だと思っていたが、「ジェンダー」という議題を通して、ジェンダーに関する問題だけでなく、自分の中に気づかぬうちに根付いていた考えや見方が実は違った意味を持っていることに気づくきっかけとなった。
  2回生前期で、「多文化教育論」という講義を受講したが、この講義では様々な国の子どもたちにどのように対応していくかや異文化に対しての理解が求められるテーマとなる講義であり、「ジェンダーと教育」とは異なった議題であるが、子どもたちに「伝えること」を仕事とする身として、また教師を目指す身として、広い視野を持って子どもと関わることの大切さを学んだ。
  教師が多種多様な考えを持つことで子どもたちに沢山の選択肢を与え、そして、良い影響を与えられるはずだと考えた。私はそんな教師を目指したいと思う。
〇幼稚園教諭の教員採用試験を受けるつもりです。
 学習プランの作成は、私にとって意味のあるものになったと感じています。
 私は児童学科なので、これまで、乳幼児に対しての視点や、指導案を多く考える機会はありましたが、今回、年齢を自分たちで設定するとのことで、私の専門で学んでいる年齢とは大きく離れた高校3年生を設定しました。普段とは全く違う年齢について考えることで、知識の幅も、考え方の幅も広げることができたなと思います。それと同時に、新鮮さも多く感じることができながら取り組めたことがよかったです。
 また、時間をかけて学習プランを考えることにより、もっとこうしたらよくなるのではないかなどという風にも考えることができ、妥協することなく向上心をもって行うことができました。
 高校生に対しての計画であっても、乳幼児に対する計画で大切にしていきたいことは繋がってくる部分はあるなと感じたので、ジェンダーに関してに部分はもちろん、伝え方や、言葉選びなども意識して、これからに活かしていきたいなと思います。
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 教師を目指す受講生とそうでない受講生の両方のジェンダー学習プランづくりの学習活動に対する評価を聞いてみて、現時点の方針としては来年度も受講生の構成にな変わらず学習プランづくりの活動を続けようと考えています。
 その際に、今年度は4~5人ずつの班の編成を受講生の希望に任せたんですが、来年度は教職課程を履修している受講生、教員採用試験受験を考えている学生を各班に散らばらせてもいいかなと思っています。受講生のほとんどは2回生ですが、教師を目指す学生はすでにある程度教職課程の授業科目も履修していると思われ、また今後の履修をより意識的・意欲的に行なってもらうためにも、学習プランづくりの班の中でkey personの役割を担うことを要求してもいいかなと思うのです。教師を目指している学生とそうでない学生の混成班を編成した方がお互いに刺激になると思います。
 このことを含めた2021年度後期の「ジェンダーと教育」シラバス・授業計画については、もう少しあっためてから改めて「私の教育実践ノート」に投稿します。

 

 

私の教育実践ノート(その  =2020s-14)
京都女子大学2021年度後期「ジェンダーと教育」授業計画をつくる

                                                        (2021.2.8-2.10  2021.2.10投稿)
 こちらも2月19日シラバス締切です。
 初めて担当した今年度後期のシラバスは以下の通りでした。
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ジェンダーと教育
後期授業形態:対面授業を希望
後期授業形態詳細:対面授業の場合、ほぼ毎回少人数グループによる討論を行ない、さらに時間的に可能な場合はグループ討論結果についての全体交流も行なう。万が一遠隔授業に変更する必要が出た場合にも、原則として毎回ブレークアウトセッションを行なう。
副題:人間のセクシュアリティ・ジェンダーについての豊かな理解と教育実践への展望
授業の到達目標:人間の性について生物的性(sex)とともに性に関する社会的規範(gender)が社会生活の隅々に様々な影響(多くはマイナスの)を与えている。女子大学の学生はこれまでの生育歴の中で女性の性役割について期待されたり強要されたり、またそれに反発したり納得できないままに従ったりした経験を多かれ少なかれ持っているのではないか。このことについての(あくまで本人の任意を前提としての)交流を出発点として、genderを含めた人間のsexualityについて広い視野から、また様々な考え方に触れることを通じて考え、またそのことを通じて教師として中学生・高校生にジェンダーに関わる問題提起をし、また彼らの考えを柔軟に受け止めていける教師となりゆくことをめざす。
学位授与の方針との関連:人間のセクシュアリティについての包括的な知識・理解、ジェンダーについての(論争点も含めた)理解を形成し、そのことによって受講者が学校教育におけるジェンダー平等をめざして冷静に判断し行動できる教師、社会人となることを期待したい。
授業の概要:女子大学での授業であることを踏まえ、これまでの人生の中で「女らしく」「女のくせに」など女性の性役割に対するステロタイプの観念を押しつけられた経験がないかどうかの交流から始める(なお、これ以降も含め、ジェンダーやセクシュアリティに関わって傷ついた経験や人に言いたくない経験を持つ人がそのことの公表を強要されたりすることがないよう、十分慎重に授業を運営したい)。
前半ではジェンダー(性別区分)を含めて人間のセクシュアリティに関する基本概念(その把握をめぐる論争も含めて)を学び、セクシュアリティ/ジェンダーについての(現時点での)正確な知識を得る。続いて、「生殖とジェンダー」「『国際セクシュアリティガイダンス』とジェンダー」など、ジェンダーを考える応用問題的なサブテーマを扱う。
こうしてジェンダー概念についてのエクササイズを行なった上でジェンダー視点から日本の学校教育の公的教育課程基準である学習指導要領を検討するグループワーク、続いてジェンダーに関するサブテーマをグループごとに選んで学習プランづくりに取り組む。
授業の計画:
第1回
 1.イントロダクション
  (1)いきなり意見交換  「女らしく」と言われた記憶は? 「女のくせに」と言われた記憶は?
  (2)セクシュアリティの定義・ジェンダーの定義
第2回
 2.「男・女」の区別・差異と性の多様性-生物学的な性・性別自認・性的指向・性的表現について知る-
第3回
 3.生殖としての性とジェンダー
  (1)子どもたちとヒトの生命誕生について学ぶ
第4回
 (3の続き)
  (2)文部科学省学習指導要領における「生殖の性」の位置付けの問題点
  (3)「女性=産む性」という固定観念(生殖をめぐるジェンダー・バイアス)
第5回
 4.人間の性について学校教育ではどこまでとりあげることができるか?
  (1)「生殖」は性行動の一部→ふれあい・快楽/暴力・商行為としての性は扱えるか?
  (2)人間の性行動・性生活とprivacy
第6回
 5.『国際セクシュアリティガイダンス』からジェンダーについて学ぶ
第7回
 6.ジェンダー平等の視点から学習指導要領を検討する
  (1)中高学習指導要領の中から検討したい教科を選択し、グループを編成する。
  (2)グループ活動(学習指導要領を読み合い意見交換する)
第8回
 (6の続き)
  (3)各グループの検討結果の発表・交流
*なお、プランづくりのスケジュールは、受講者数や受講者の意見によって変更する場合がある。
第9回
 7.「子どもたちとジェンダーについて考える学習プラン」づくり(1)
  ジェンダーという概念(言葉)を子どもたちにどう伝え、教えるのか
第10回  同(2)
  学習プラン作成グループの編成(以後の活動はグループで行なう)
  学習テーマ案(ジェンダーの何について学習するか)の検討
第11回  同(3)
  学習テーマの決定
  授業の対象(小学校高学年/中学校/高等学校)の決定
  学習内容・教材さがしについての相談
第12回 同(4)
  教材研究・学習指導案作成
第13回 同(5)
  学習指導案の完成
第14回 同(6)
  模擬授業/学習プラン発表
第15回
 総括:これまでの学習を振り返り、感想・意見を交流する
授業時間外の学習について:事前にLMSに掲載し、授業でも配付する資料プリントを通読して授業に臨むこと。
毎回の授業終了後に小レポートを作成し、期日までにLMSに提出すること。
課題に関するフィードバック:毎回の小レポートの中で質問を受け付け、コメントを付して返却する。
(前期の他の授業(28名)では、毎回発行する授業通信上に全員の小レポートと佐藤のコメントを掲載して、受講者全員が読めるようにした。本授業は前期の約2倍の受講数なので、全員の小レポートの授業通信への転載という作業は難しく、他の方法で受講生の小レポートの相互交流を行ないたいと考えている。)
関連分野:性科学、性教育論、人権論などの素養が求められる。
教科書:指定せず、適宜資料プリントを配付する。
参考書:以下には、一部をプリントして授業中に配付するものも含まれる。
 狛潤一・佐藤明子・水野哲夫・村瀬幸浩『ヒューマン・セクソロジー 生きていること、生きていくこと、もっと深く考えたい』(子どもの未来社 2016)
 浅井春夫・子安潤・鶴田敦子・山田綾・吉田和子『ジェンダー/セクシュアリティの教育を創る バッシングを超える地の経験』(明石書店 2006)
 浅井春夫・艮香織・鶴田敦子『性教育はどうして必要なんだろう? 包括的性教育をすすめるための50のQ&A』(大月書店 2018)
 UNESCO編 浅井春夫/艮香織/田代美江子/渡辺大輔訳『国際セクシュアリティ教育ガイダンス 教育・福祉・医療・保健現場で活かすために』(明石書店 2017)
学生へのメッセージ:私は30数年間にわたり性教育を主たる研究領域とし、主にsexualityのsex(生物的側面)の面から性を考えてきました。この授業ではsexualityのもう一つの重要側面であるgender(社会的側面)の側から性を考える機会をいただき、改めて広い視野から性について考えていきます。sexualityやgenderは私たちの日常生活に深く関わる問題ですから、難しく考えすぎず、皆さんからどんどん意見や疑問を出していただける授業にしていきたいと思います。また授業後半では、中学校や高等学校で子どもたちとジェンダーについて考える学習を行なうとしたら、というプランづくりも行ないます。
オフィスアワー(質問対応):授業終了時に質問・意見聴取の機会を設ける。毎回の小レポートの中で質問や授業運営への意見を受け付け、コメントを付して返却する。
当該科目に関連した実務経験の有無:1992年から2019年までに、三重大学教育学部附属小学校、奈良教育大学附属小学校、三重県鈴鹿市内の2つの公立小学校などで、3学年から6学年までの児童に対してヒトの生命誕生に関する授業(とびこみ授業)を計10数回実施した。
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 上記中、授業計画(スケジュール)については、私の常套手段(^^;)ではありますが、授業が始まってから変更を加えました(Facebook上では太字や下線を使えないので、変更箇所を【 】で囲んで表示します)。
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第1回  1.イントロダクション
  (1)いきなり意見交換  「女らしく」と言われた記憶は? 「女のくせに」と言われた記憶は?
  (2)【セックス・ジェンダー・セクシュアリティ】の定義
第2回  2.「男・女」の区別・差異と性の多様性-生物学的な性・性別自認・性的指向・性的表現について知る-
第3回  3.生殖としての性とジェンダー
  (1)子どもたちとヒトの生命誕生について学ぶ
   【(1)-1日本の学習指導要領は「性交」を教えさせない】
   【(1)-2.小学校2年生に「性交」も含めて生命誕生を教えた野村正博実践(1988年)】
第4回  (3の続き)
  (2)文部科学省学習指導要領における「生殖の性」の位置付けの問題点
  (3)【「生殖をめぐるジェンダー・バイアス」は、あるのだろうか?】
   【[1]野村先生の授業で、受精後に妊娠過程に入るおかあさんに対するおとうさんのメッセージは「おかあさんこっからお願いね」「こっからは、一人にして育ででね」でよかったか?】
   【[2]学校教育で「新しい命の誕生」について学習することと、ライフスタイルの選択(結婚・出産など)の自由について学習することを、どのように繋いでいったらいいだろうか?】
第5回  4.人間の性について学校教育ではどこまでとりあげることができるか?
  (1)「生殖」は性行動の一部→ふれあい・快楽/暴力・商行為としての性は扱えるか?
  (2)人間の性行動・性生活とprivacy
第6回  5.『国際セクシュアリティガイダンス』からジェンダーについて学ぶ
第7回  6.ジェンダー平等の視点から学習指導要領を検討する
  (1)【4人グループを編成し幼小】中高学習指導要領の中から検討したい教科を選択する。
  (2)グループ活動(学習指導要領を読み合い意見交換する)
第8回  (6の続き)
  (3)各グループの検討結果の発表・交流
第9回  7.「子どもたちとジェンダーについて考える学習プラン」づくり(1)
  (1)-1ジェンダーという概念(言葉)を子どもたちにどう伝え、教えるのか
 【(1)-2活動/授業の対象(幼稚園・保育園〇歳児/小学校〇学年/中学校〇学 年/高等学校〇学年/〇〇対象の社会教育)の決定】
第10回  [遠隔]同(2)
  (2)学習対象の発達段階の把握
 【(3)学習テーマ案(どういうテーマと題材を通じてジェンダーについて学習するか)の検討(班活動2回目)】
  【①班員の追加】
  【②司会者・記録者決定】
  【③(1)-1の内容確認・必要なら修正追加】
  【④学習プランの「テーマ」の設定】
  【⑤子どもたちに取り組ませたい学習活動の列挙、絞り込み】
  【⑥学習活動の資料のリサーチ相談】
第11回  同(3)
 【(4)「学習指導案」への落とし込み作業】
  【⑦学習活動の資料の交流・吟味・選択】
  【⑧授業時数決定/学習活動項目決定と各時への割り振り】
  【⑨班発表形式(全体概要or模擬授業を含む)】
  【⑩次回までの準備分担】
第12回  同(4)
 ※問題提起:「女らしさ」「男らしさ」の意識を学習においてどう扱うのか?
 【(5)学習指導案のさらなる具体化・詳細化】
  【⑪学習活動の各項目に発問・指示・説明・その他を設定】
  【⑫学習活動全体及び各時の学習活動の到達目標設定】
  【⑬次回の学習プラン完成に向けての分担】
第13回  [遠隔+対面]同(5)
 【(6)学習指導案の完成】
 【(7)発表会リハーサル】
第14回  [遠隔+対面]同(6)
 学習プラン発表会
第15回  [遠隔+対面]8.総括:これまでの学習を振り返り、感想・意見を交流する
 8-1.班別学習プランづくりの総括討論
 8-2.「ジェンダーと教育」授業全体を通じて学んだことの交流(ランダムグループ)
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 このように、前半期については大きな修正はなかったのですが、後半の第9~14回の学習プランづくりについては、修正というよりも進行しながら学習活動をより具体化、分節化していきました。
 さて、来年度「ジェンダーと教育」のスケジュール上の段取りを考える前に、授業全体の内容構成のコンセプトについて再検討が必要です。
 私自身は1990年代以来自分の教育課程研究の中心テーマとして性教育を位置づけてきました(最近では「性」を「教育」するという物言いに抵抗を感じて、sexuality educationと英語表記したり、「性の学び」「性の学習」と子ども主体の表記を使っています)。そこでは人間のsexualityのうちsex すなわち「生物的な性」を関心の中心に置いてきました。
 以下は公表した研究成果一覧です(京都教科研12月例会の発表時の配付資料に掲載したものを転載)。
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小野礼子氏の授業「大切な命」(小5・学級活動<性教育>) (小野礼子と共著 『授業づくりネットワーク』No.84 学事出版 1994.8.1)
性教育における教授内容とprivacyの関係 (三重大学教育実践研究指導センター紀要第17号 1997.3.31)
スウェ-デン王国・デンマーク王国の性情報および性教育事情覚書(その1)-1997年9月6日から18日までの私費渡航の報告- (三重大学教育学部紀要(教育科学)第49巻 1998.3.31)
スウェーデン王国・デンマーク王国の性情報および性教育事情覚書(その2)-2つの性教育研究機関におけるインタビューの報告- (三重大学教育実践研究指導センター紀要第18号 1998.3.31)
スウェ-デン王国・デンマーク王国の性情報および性教育事情覚書(その3) : スウェ-デン王国の性教育略史  (三重大学教育学部紀要(教育科学)第50巻 1999.3.1)
スウェーデン王国・デンマーク王国の性情報および性教育事情覚書(その4) : スウェーデン王国の性教育史に関する邦文研究情報集成 (三重大学教育実践研究指導センター紀要第19号 1999.1.1)
スウェーデン王国・デンマーク王国の性情報および性教育事情覚書(その5) : デンマークの性教育絵本の紹介(前編) (三重大学教育実践研究指導センター紀要第20号 2000.3.1)
スウェーデン王国の性教育専門家へのインタビューの記録と分析 (三重大学教育学部紀要(教育科学)第55巻 2004.3.31)
スウェーデン王国における性教育の歴史と現在の課題 (科研費研究報告書 2005.3)
性教育における教授内容とprivacyの関係 (三重大学教育実践研究指導センター紀要第17号 2007.3)
思春期の性教育における男女別学習と男女合同学習の意味-日本とスウェーデンの実践事例にもとづいて- (三重大学教育学部研究紀要(教育科学)第57巻 2006.3)
小学校性教育における「生命誕生過程」の授業実践の自己分析 (三重大学教育学部紀要(教育科学)第59巻 2008.3.31)
三重大学教育学部附属小学校での 2 つの実験授業における指導効果の比較検討 (三重大学教育実践研究指導センター紀要第29号2009.3.1)
Records and analyses of ‘sex och samlevnad’ (sexuality and personal relationship) lessons in the seventh and ninth
grade at Dalarö skola in Sweden (三重大学教育学部紀要(教育科学)第60巻 2009.3.31)
「生命誕生の授業」における児童の認識 : 三重大学教育学部附属小学校2008年度3年A組、5年C組の「赤ちゃんの旅」文集の分析 (杉村伸一・藪中俊典と共著 三重大学教育実践研究指導センター紀要第30号 2010.3.1)
スウェーデンの基礎学校および高等学校における sex och samlevnad (性と人間関係) 授業実践事例の検討 (三重大学教育学部紀要(教育科学)第61巻 2010.3.31)
<書評>広瀬裕子著『イギリス性教育政策史 自由化の影と国家「介入」』 (教育學研究第77巻第2号  2010.6.1)
共生社会における性教育の現代的意義―スウェーデンの先進的事例に学ぶ― (科研費研究報告書 2010.3)
スウェーデンにおけるsex och samlevnad(性と人間関係)の授業から何を学ぶか (三重大学教育学部研究紀要(教育科学) 第62巻2011.3.31)
性教育において「快楽としての性行動」を取り上げることの意義と課題 (三重大学教育学部紀要(教育科学)第69巻 2018.1.4)
性教育におけるコミュニケーションのルールとモラルに関する国際比較研究 (科研費研究報告書 2018.3)

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 上記研究成果のタイトルの中に「ジェンダー」の語を入れたものは実は一つもありません。もしも誰かに「gender研究を回避してきたのではないか?」と問われれば、「そうです」と答えるしかありません。自分自身としては、genderを正面から研究対象としてきたことはありませんでした。ですから京都女子大学から「ジェンダーと教育」授業担当の打診を受けたとき、適任じゃないのでは? というためらいがちょっとありました。でも、sexuality education関係の自分の研究成果を評価していただいたんだろうと前向きに考えて引き受けました。
 今年度「ジェンダーと教育」第1回で抜粋して資料配付した狛潤一他『改訂新版 ヒューマン・セクソロジー 生きていること、生きていくこと、もっと深く考えたい』(子どもの未来社 2020.7.26)の「Chapter I 性の多様性とジェンダー・セクシュアリティ平等 Section 2 ジェンダー・セクシュアリティ平等」では、「ジェンダー」概念について、以下のような説明をしています(P.27-28)。
(a) 人間の性=セックス
「極めて古くから20世紀前半まで、人間の性は英語では単に『セックス(sex)』としてだけ表現されていた。」
「ジェンダー(gender)という単語は、名詞などの性別を意味する文法上の用語であった。」
(b) 人間の性を「セックス」と「ジェンダー」としてとらえる
「1960年代末の第二次フェミニズム以降、セックス(生物学的な性差)とジェンダー(社会的・文化的性差・性別役割)を区別する考えが生まれた。
 もともとは文法上の用語であった『ジェンダー』という語に、フェミニストたちは新しい意味『社会的・文化的性差・性別役割』というものを盛り込んで、人間の性に関して新しく使いはじめたのである。そこには『現実社会には、セックスとは違う、作られる性=ジェンダーがある』という主張がこめられていた。
 また、セックスとジェンダーを分けることには、セックスが生まれながらのものであるのに対して、ジェンダーは社会・文化的に作られているのであり、変えることができる、という気持もこめられていたといえる。ただし、この当時(1960年代末から1980年代ころまで)は、セックスの差異(男と女)は『本質的なもの』と捉えられていた。」
(c) セックスとジェンダーの関係を問い直す
「これらの研究を通じてはたして、セックスが『本質的な』存在であり、ジェンダーはそれに付随するものなのか、セックスとジェンダーの関係は固定的なものなのか、それらが問われはじめたのである。」
(d) セックスもジェンダーによって作られる
「1990年代に入ってからのジェンダー理論の進展は非常に大きかった。/『セックス』という概念も、実は、社会的・文化的なジェンダーの規範に縛られて作られている、ということを明らかにしたのだった。」
「今日では、『セックス』と『ジェンダー』が、人間の認識の歩みを反映して、非常に多様な意味内容が盛り込まれる言葉となった。
 整理しておこう。
 IPPF(国際家族計画連盟)のセックスとジェンダーに関する定義を紹介する。この定義を、現段階での最大公約数的な共通認識としておきたい。
◆『生物学的性差 sex』
 『ヒトの女性と男性を定義する生物学上の特性。一連の生物学的特徴は、男女を区別する結果になりがちだが、双方の特徴をもった個人もおり、男女の違いは互いにきっぱり分けられるものではない』
◆『ジェンダー gender』
 『男性または女性であることに関連づけられる生物学的、法的、経済的、社会的、文化的属性と機会をいう』(『新版 IPPFセクシュアル/リプロダクティブ・ヘルス用語集』 2010年)
(e)大切な概念-セクシュアリティ
「人間の性を考える上で、欠かせない重要な概念として『セクシュアリティ』がある。ジェンダーとセックスが、多数の人びとの集合的な現実を指す概念であるのに対して、セクシュアリティは、どちらかというと、個人の中にある性のあり方に注目した概念だということができるだろう。
 日本社会では明確に意識されていなかった概念のため、要約も翻訳も極めて難しい語であるが、日本語で言うなら、『性と生(生と性と表現する人も)』あるいは『性のあり方の総体』ということになるだろう(本書の『はじめに-性を学ぶ視点に関して』では『性と生のあり方』としている)。」
 以上の(a)(b)(c)(d)の説明の横にはそれぞれセックスとジェンダーの包含関係を示す図が付記されていますが、テキストではなく画像をコピーすると著作権上問題になると思われるため省略します。
 ということで上記資料では、genderの定義としてIPPFの「男性または女性であることに関連づけられる生物学的、法的、経済的、社会的、文化的属性と機会」を「最大公約数的な共通認識として」採用していますが、わかりにくいですね。この定義だと、「男性または女性である」という生物学的特性(sex)が基盤にあってそこからgenderの「属性と機会」が派生するように読めますが、(d)ではsexという概念がgenderの規範に縛られているとあります。これでは堂々巡りではないのか?
 しかしともかく、授業ではこの資料を用いてジェンダーの定義を押さえ、その上で授業通信「ジェンダーと教育」第1号上で以下のコメントを加えました。
 「ここに述べられているように、本講義のタイトルであるジェンダー(gender)自体が、20世紀半ばに新たに主張されるようになった歴史的には新しい概念ですが、そのジェンダーと、人間の性を表すより古い概念としてのセックス(sex)の関係、さらにはセクシュアリティ(sexuality)という概念の関係も、時代とともに変化してきているし、揺れているとも言えます。
 どのような内容の講義であっても、そのスタートにあたって講義タイトルに含まれる用語の概念規定をすることは当然だと思いますが、人文科学・社会科学においては、上記のgender, sex, sexualityのように、一応定義されているけれどもいまひとつすっきりしない、しかしすっきりしないモヤモヤ感を抱えながらその概念を使用してものを考えなければならない場合があります。
 ここではまずそのようなモヤモヤ感を互いに共有することだけでもよいので、資料の文章について、項目毎に『わからないこと』を出し合ってみましょう。」
 このように、講義タイトルに含まれる「ジェンダー」について、一応の定義をするが疑問・もやもやがあってよいというスタンスで授業をスタートしました。
 そして第2回で、上記文献および岡山市ホームページ「多様な性を知ろう」(https://www.city.okayama.jp/・・・/0000003/3039/000346235.pdf 2018年の性教協夏期セミナー岡山大会でこの情報を知りました)を資料として、「[シラバス2.]「男・女」の区別・差異と性の多様性-生物学的な性・性別自認・性的指向・性的表現について知る-」という項目について学習しました。これらの資料から授業通信第2号に抜粋した用語、説明を紹介します。
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多様性 生物学的な性 性自認 性的指向 性的表現
性自認(Gender Identity)
性別違和(Gender Dysphoria)→以前は性同一性障害(Gender Identity Disorder)と呼称
性的指向(Sexual Orientation)
  異性愛(heterosexual)
  同性愛(homosexual) ゲイ レズビアン(「ホモ」「レズ」は差別的呼称)
 両性愛(bisexual)
  全性愛(pansexual)
  無性愛(asexual, A sexual)
Reproductive Bias(性を生殖においてのみ正当とする偏見
性のGradation
性分化疾患(Disorder of Sex Development)→以前は「ふたなり」「半陰陽「両性具有」Intersexualなどの呼称が使われたが、その差別性が当事者たちから批判されるに至り、現在の呼称に。
「本来、性のあり方は多様であり、無理やり変えようとしても変えることはできません。」
からだの性/生物学的性 こころの性/性の自己認識(性自認)
好きになる性/性的指向 性役割/ジェンダーロール
セクシュアリティ
セクシュアル・マイノリティ(性的マイノリティ) LGBT
セクシュアル・マイノリティは約13人に1人
SOGI(Sexual Orientation and Gender Identity)  *全ての人を含む
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 そして、以下のような私のコメントも付しました。
「私が性教育に関心を持ち始めた1980年代頃には、学習テーマとして性的マイノリティが取り上げられることはまだほとんどなく、またその後心の性とからだの性の不一致に悩む人たちのことは、医学用語由来の『性同一性障害』という呼称が一般的でした。しかし、『それは障害なのか?』という当事者の批判もあり、最近になって用語が修正されました。用語についても、性の多様性の区分や全体像の捉え方も、これからもさらに変わって行く可能性があります。そうした動向に敏感になりながらジェンダーについても考えていく必要があります。」
 授業でのこの学習項目(シラバス2.「男・女」の区別・差異と性の多様性-生物学的な性・性別自認・性的指向・性的表現について知る-)設定の意図は、genderをさらに広いsexuality全般の中に位置づけて理解してほしい、概念の定義も含めてまだまだ流動的なので柔軟に受けとめてほしい、ということでした。
 しかし、今思うに、私のこの投げかけは、ジェンダー問題について受講生の学習上の関心を、女性と男性の間に長らく歴史的に存在してきた不平等には集中させず、むしろsexual minorityの存在とそこに起こっている問題へと誘導することによって女性・男性間の問題への関心を後景に退ける役割を果たしてしまったように思います。
 この授業第14回の「子どもとジェンダーについて考える学習プラン」班別発表会にける各班の発表タイトルは以下の通りです。
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①2班(小1・2年)男らしさ、女らしさって何だろう
②5班(小3年)  いろいろな考え方があることを知り、みとめ合おう
③3班(小3・4年)人間の性別は男と女だけなのか
④1班(小4年)  らしさとは何か
⑤6班(中2年)  多様性を守るために
⑥4班(高3年)  ジェンダーと社会の関わり
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 ①は全3時中第2時までは男女の通俗的役割分担意識を問い直す内容ですが、第3時で多様な性自認・性的指向を取り上げています。④も、おにぎりの具の好みを問うことから始まり、常識的「男らしさ」「女らしさ」について問いかけますが、「自分らしさ」こそ大事と、性の多様性に目を向ける内容になっています。⑥もジェンダー・バイアスを見直すことを主眼としているものの、学習対象は性の多様性です。②③⑤もタイトルからわかるように性の多様性がテーマです。
 う~ん、難しい。
 シラバスの「授業の到達目標」に、「女子大学の学生はこれまでの生育歴の中で女性の性役割について期待されたり強要されたり、またそれに反発したり納得できないままに従ったりした経験を多かれ少なかれ持っているのではないか。このことについての(あくまで本人の任意を前提としての)交流を出発点として(後略)」と書いていたのに、女性から見たgender biasに関する学びは、まさに「出発点」だけに終わってしまいました。
 いや、どうなんだろう。受講生たちが男女間の対立よりも性の多様性に関心を向けていったことは、それでよかったんでしょうか?
 第1回授業で採用したIPPFのgenderの定義に従えば、genderとは「男性または女性であることに関連づけられる生物学的、法的、経済的、社会的、文化的属性と機会」。これだけだと、genderとは生物学的な男女二分法から派生する社会的刻印?ということになりそうですが、上記『改訂新版 ヒューマン・セクソロジー』自体は二分法の立場を採りません。key wordは「性の多様性」です。
 まずChapter 1  Section 1 の末尾「⑥『~らしさ』のとらわれ、呪縛」のそのまた末尾では、以下のように述べています。
「この項ですでに学んできたように、人間は発生から誕生、及びその後の育ちの過程で分化していくものである。しかも2つの性に明確に分割され、どちらかに完全に属するのではなく、連続性の中でいずれかにわずかに傾斜しつつ、その位置を占めているというべき存在である。このことはGradation(徐々なる変化)と言われている。(佐藤註・図示したものの説明は省略)その意味では男らしい女、女らしい男がさまざまに存在すると考えるのが、むしろ当たり前で自然ということになる。そして男は右、女は左に寄らなければならないとされればされるほど、自己抑圧が強くなり“偽りの自分”を生きることになるのである。
 我々は性別社会に生きている。しかし異なった性とはいえ、もともとのちがいは極めて限定されたものであり、ちがうちがうと思っていることの多くは文化的社会的につくられたものといってよい。
 またもともとのちがいはあるにせよ、それを理由にして差別や格差をつけたり、上下・優劣という関係を是認することなどあってはならない。
 性の多様性についての学びによって一人ひとりの違いを個性として対等に尊重しあう豊かな関係づくりにつながる考え方と力を身につけたいものである。(村瀬幸浩)」(P.23-24)
 現代日本の社会がまだまだ「性別社会」であることは認めつつ、しかし生物学的な性差は明確な境界線がないgradationである、主体の側から見るならば、「2つの性に明確に分割され、どちらかに完全に属するのではなく、連続性の中でいずれかにわずかに傾斜しつつ、その位置を占めているというべき存在である」というわけです。
 そしてそうなると、性をめぐる社会的関係を、男性と女性の対立、男性による女性の抑圧、女性が不利な状況に置かれてきた歴史として見ることはどうなんでしょうか。事実を隠蔽することはあってはならないことですが、しかし性の多様性の認識の現代的到達点に立てば、以下のような捉え方をすればいいのでしょうか。
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 生物学的性のgradationの中での一方のmajorityである男性が、他方のmajorityである女性に対して、有利な社会的地位に立ち、そこに安住し、女性に対する抑圧を続けてきた。しかし他方のmajorityである女性が自らを解放しようとする社会運動は多くの困難を乗り越えながら徐々に発展し、他方のmajorityである女性の、一方のmajorityである男性に対する相対的位置は向上しつつある。
 しかし、以上のような人間の性差をめぐる闘争は、長い人間の歴史においてごく最近までは2つのmajority集団間の問題と社会一般には認識されており、性差の二分法において見逃されていたsexual minorityの存在の明示化と権利擁護の主張が社会に認知されてきたのはせいぜい最近数十年のことである。
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 sexual minority当事者の主張としても、またそれを支持するmajority側の人々(ストレート・アライ straight ally または単にアライと呼ばれる)の認識としても、ある性自認や性的指向を持つ人々が対全人口比で少数である(7万人対象の調査で7.6%というデータがある)ことは決して、彼らがおかれている状況や抱えている問題が「小さい」ことを意味せず、sexual minorityの処遇は全社会的課題であるという主張でしょうし、また幼い頃からの周囲の無理解やいじめ、学校生活、住居、結婚等様々の領域での偏見や差別は同じ人間として許されるべきものではないという認識に立てば、重要な人権上の課題、教育課題、行政課題として強調されることになります。こういう流れのなかで「二大majority間の確執」だけを言挙げすることが、性の多様性を強調することが市民権を得つつある現代において、視野の狭い、了見の狭い考え方とみなされたりするんでしょうか? もしそういうことが起こっているとしたら、それでいいんでしょうか?
 今年度の「ジェンダーと教育」授業の初回では、冒頭に受講生に以下の問いかけをしました。
  ①「女らしく」と言われた記憶は? (何歳頃、誰に、どういう状況で)
   ②「女のくせに」と言われた記憶は?  (何歳頃、誰に、どういう状況で)
 つまり、これまで約20年の自分の人生の中で、ジェンダー・バイアスにもとづく他者からの評価をされた経験があるかどうかを問いかけたわけです。
 女子大学での授業ですから約30名の受講生は全員女性(但し、sexualityを確認したりはしていませんから、性自認が男性という受講生がいたかいなかったかどうかは不明ですが)。同じ性同士であればジェンダー・バイアスについて話しやすいかなと思いつつ、男性である担当教員の私が問いかけているということも意識して、くれぐれも話したくないことを無理やり話させるようなことにはならないようにと気をつけていました。Teamsを利用して投稿してもらうので、氏名は出てしまいます。ですから「人に言いたくない経験は出す必要ありません。」という注意書きをつけ、また(これ以降の毎回の小レポートとは違って)投稿するかどうかを自由選択としました。
 その結果どういう経験が出されたかを紹介したいのですが、量が多くなりすぎるので授業通信第2号の私の振り返りから間接的にご理解下さい。
 「『女の子らしく』と言われた経験については出席28名中20名の投稿、『女のくせに』と言われた経験については10名の投稿がありました。ただ、嫌だった経験を無理には書かなくてよいという条件を付けたので、それだけの割合(71%・36%)の人がその経験をしていてその他の人はしていない、とは言えません。
 『女らしく』については、言葉遣い、しぐさ・おしとやかさ、服装、あぐら・足、ポーズなどについて、『女のくせに』については身だしなみ、手技、性格、女子力、男子との比較などについて言われたようです。
 言われた相手は母親が多いですが、父親も、そして祖母というのがけっこうあり、親族というのもありますね。言われた時期は小学生が多いですが、中学生から現在までの広がりがあります。
 やはり親を中心に親戚まで含めて『女の子へのしつけ』として言動その他について注意を受けることがたびたびあったようです。あるいは学校で男子の友だちから女子はこうすべき/こうすべきでないと断定された人もいたんですね。
 それぞれの時に言われた本人はどう思ったのかということを掘り下げたり、あるいは男の子の場合は『らしく』『くせに』という言葉を投げかけられた経験が女の子の場合と同様にあるかどうかのデータがあればそれと比較してもおもしろいのですが、ここでは学習の出発点として自らの経験を掘り起こし相互交流したというところで留めておきましょう。15回の授業が終わるまでにこの初回の経験交流を再度ふり返る機会があればいいと思っています。」
 本当はこういうリサーチを男子学生もいるクラスでやりたかったなと思います。「男らしく」「男のくせに」経験の報告が加われば、genderについてより鋭く意識できたんじゃないかと思います。
 ともあれ、こういう調査をしました。ところがそれに続く学習過程で、私としては悪気はなしに受講生の視角を一気に「性の多様性」に広げてしまいました。
 その結果、とは断定できませんが、授業の後半で取り組んだジェンダーを学ぶ学習プランづくりで、女性が社会において不利な状況に置かれてきたことを告発するような問題提起はほとんど現れませんでした。むしろ、(sexual minorityを含めて)一人一人が「自分らしさ」を大切にし、それを相互に認め合い尊重することが大切なんだ、子どもたちにそのことを学んでほしいという趣旨の学習プランがほとんど、という結果になりました。そして、「女らしさ」「男らしさ」は社会からの押しつけであって、そうではなく一人ひとりの個性が大切にされることが大事なんだという方向になんとなく受講生の認識が流れていっているような気がしました。だけど、自己のidentity問題として考えるとき、「女性である」という認識を単なるステロタイプとして押し流してしまっていいのかなということが、授業担当者として気になりだしたのです。
 そこで、担当講師の見解を受講生に押しつけることがあってはならないということは十分自覚しつつも、授業通信12号で敢えて以下のような問題提起をしました。
「83.「女らしさ」「男らしさ」の意識を学習においてどう扱うのか?
  これまで各班の学習プランづくりの活動を横で見ていて、皆さんに対する批判とか疑問じゃないんですが、一つ気になってきたことがあるんです。私も自分の結論を持っているわけではなく、考えている過程です。皆さんにも考えてほしいのです。それは、「女らしさ」とか「男らしさ」というのは、子ども一人一人の自意識として否定されなければならないのか? ということです。
 性別の男女二元論を大前提に『女/男とはこういうもの。こうふるまうべき。』というジェンダーロールを『女性/男性全体』に押しつけるステロタイプ(ステレオタイプ)的思考に対しては、(少なくともこの授業の受講者の範囲では)疑問や批判を持つ人が多いのだろうと思います。私も同じ考えです。
 ただ、それでは、生まれてから今まで女性としての性自認を持って生きてきた人が、『女らしいこういう服装が好き』とか、『私は女の子だから、こんな色/お菓子/漫画/ドラマ……etc.が好き』と意識しているとしたら、そういうふうに『女らしい』とか『女の子だから』と修飾語を付けてものごとを考えること自体が、まちがいなのでしょうか?
 『仲良しの〇〇ちゃんと同じ趣味だから』とか『クラスの女の子のほとんどはアナのファンだ』とかいうように、友だちとの関係、他者・集団との関わりが入ってくると、社会集団として共有されるジェンダーバイアスということになってきそうだし、一人一人の子どもが自分の好みとか趣味について考えるときにはそういう他者の影響が常につきまとうものだとは思いますが。
 いくつかの班が話題にしているランドセルの問題だったら、『女の子だからみんな赤いランドセルと決められるのはおかしい』という考えに賛成する子どもたちも今では増えてきているでしょう。だけど、個人の好みとして『私は赤のランドセルが好き』とか、『赤い色のものはみんな好き』という女の子もいるんじゃないでしょうか。そういう時、その子の好み、趣味に対して、『女=赤というのはステロタイプだ。もっと他の色を好きになるべき。』と言えるでしょうか? その子がもし、『女の子はみんな赤いランドセルを使うべきだ。』と考えているなら『ちょっと待って』ということになるでしょう。しかし、『私は女の子だから赤いランドセルを使いたい』という好みの意識まで否定できるでしょうか?
 皆さん自身のジェンダー問題学習や、子どもたちに向けての学習プランづくりの中で、それまであたりまえのようにとらえていた『女らしさ』『男らしさ』を問い直そう、『〇〇らしさ』じゃなくて、一人一人のかけがえのない個性とその多様性が大事なんだというものの見方を多くの班がプランに盛り込んでいます。それはまったく正しいと思うのです。だけど、『らしさ』というステロタイプ思考を問い直すということは、これまでジェンダーバイアスにも否応無しに影響されながら形成してきた一人一人の子どもの『自分らしさ』意識まで否定することとイコールじゃないように思うのです。『女の子だから』という修飾語を付けつつ服装/振る舞い方/色/お菓子/漫画/ドラマ……等々に対する自分の好み、趣味を意識してきた子どもが、その修飾語を取り去って考えるようになったらもっと幅広い豊かなものの考え方、価値観を持てるようになるかもしれないけれど、『なんで女の子らしくって考えたらダメなの? 私は女だよ。』ってその子に言われたら、女性であるという自意識を捨てなさいとは言えませんよね? 生物学的にも性自認としても女性であるわけだし。
 こころの性がからだの性と一致しなかったり、自分自身が女性なのか男性なのか意識していない/どちらでもないと意識しているという性別違和の人が存在し、その人たちは例えば13人に1人という推計があるようにminorityで、苦しんでいても周りにカミングアウトすることは容易ではないし、また全ての人びとに等しく保障されるべき人権がsexual minoityである人びとには保障されていない事例がたくさんある。だからsexual majorityである人びとも、そうした状況に対して敏感であるべきだし、世の中女と男しかいないような物言いをすべきではない。それはその通りです。
 でもmajorityだから自分のsexualityについて不自由を感じることなく毎日を暮らしているとは限りません。majorityのgender意識について、minorityを知らず知らずに圧迫しているという視点から見るだけではなく、もっと丁寧にとらえて学校教育の課題にものせていくべきじゃないかな、と私は思うのです。
 皆さん、どう考えますか? 上記の私の問題提起に対して、本日の班活動(4回目)の冒頭に、少し時間を取って話し合ってみて下さい。」
 どうでしょうか。学生たちの多くが「自分らしさこそ大切なんだ」という認識に到達したんだったら、その「自分らしさ」の内容がどうあれ、それが他者を傷つけたりするものでない限りは、まずは認め合う必要があると思うんです。女の子女の子した(ヘンな言い方ですが)ファッションとか言動とかを纏っている子どもがいたとして、「あー、典型的なジェンダー・ステロタイプだ」と心のうちで思うことは自由ですが、大人であれ子どもであれそういうレッテル貼りをその子に対して公然と行なうことは、個性の多様性の尊重という観点から間違っていると思います。これはminorityを排除し攻撃する心性と似通っているんじゃないでしょうか。
 いや、ちょっと話がそれてますね。受講生たちの「らしさ」の捉え方に対して問題提起したのでした。これが学習プランづくりの途中ではなくて自由なディスカッションの中で出てきたことであれば、女子学生たちの「女の子らしさ」についての捉え方をもっと出し合ってもらって交流することもできたのですが。
 いずれにしてもこの私の問題提起は、「女らしさ」の捉え方を揺さぶろうとするものではあっても、女性が置かれてきた社会的状況、男性に比べて不利・不公平な状況をどう考えるか、という第1回授業以降未発の方向性を受講生たちに意識してもらおうというものではありませんでした。
 仮に私が、女性-男性関係をめぐる問題に焦点化して考えようと課題提起すれば、まじめな受講生たちですから、この授業はそういうことを追求するのだと受けとめて、学習プランも女性の置かれてきた状況を批判的に学ばせようとするものがたくさん出てきたことと思います。しかし、sexualityを主として生物学的性の視点から研究し実践(小学校での飛び込み授業など)もしてきた私が自分が勝負できるフィールドへと学習の流れを引っ張っていったこともあり、受講生たちの思考の枠組は「ジェンダーと教育」というより、「セクシュアリティと教育」「性の多様性と教育」の方向に定位されたんだと思われます。
 「私の教育実践ノート(2020s-12  1/31)」で私は、今年度「ジェンダーと教育」受講生の最終レポートの分析を行ないました。そこでの視点は、受講生中教職志望者が半数以下であったのにジェンダー学習プラン作成を課したことが妥当だったかを検証することでした。結論的には教職志望でない受講生の多くも学習プランづくりは有意義であったと書いており、やってよかった、来年度も続けよう、という判断です。しかし、そうした授業運営手順よりももっと前提的な問題として、「ジェンダーと教育」を名乗る授業の内容としてこれでよかったのか、来年度もこれに準じる内容でよいのかを考えなければなりません。
 今年度授業の問題点の第一は、女性差別・男女不平等問題を含めて現代のジェンダーに関わる社会問題を十分に取り上げられなかったことです。これは、私自身がリサーチを広げ学習を深めれば改善できます。しかし、きりがない、とも思います。授業は15回しかありません。私が新たな知識・情報を仕入れてそれを受講生に提供しても、その量には限りがあります。それに、今期授業の過程でも、受講生の中には図書館やインターネットでどんどんgender, sexuality関連の情報をリサーチしていく人もいました(もちろん私もそれを推奨しました)。私はジェンダーの学問的研究の実績を持つ専門家ではありませんから、私が探しても受講生が探しても得られる情報レベルは変わらないと思います。むしろ受講生にどんどんリサーチしてもらい、それを随時授業でシェアしてもらう方が、私一人ががんばるよりも効率的です。また、授業の中でジェンダーに関する事実情報提供の時間を増やせば、その分後半期の「学習プランづくり」演習の回数を減らさなければなりません。これは痛いです。ですから結論として、ジェンダー関連情報のシェアを授業期間により意識的に行なうことにして、ジェンダー情報関連のレクチャー時間を増やすことは、しないことにします。
 問題点の第二は、女子大学でのジェンダー関連講義であるにも関わらず、女性が社会的に置かれてきた状況についての学習に焦点化せずに、性の多様性全般に多くの受講生の学習意識が「拡散」したことです。ここは上につらつら書いてきたように、散々悩んでいます。のたうちまわっています。
 二つのsexual majority間の不平等をめぐる問題は、近年新たにsexual minorityをめぐる問題がクローズアップされてきたからといって、解消されていません。歴史の負の遺産としてもそうですし、現状としてもそうです。
 しかし、sexualityの多様性の意識化、そして肯定が少しずつ少しずつ浸透してきた中で現代の人権問題の一つである女性の権利・処遇をめぐる諸問題に「男女差別」「女性差別」というラベルを貼ることが妥当なのか、さらに解決方向としての「男女平等」「男女共同参画」というスローガンを使い続けていいのか?
 女性に対する性役割付与・差別(と、裏返しとしての男性に対する歪んだ性役割付与)という性に関する意図的な社会的制度・慣習・意識の形成と維持の問題を、sexual minorityへの不当な処遇、差別や抑圧・弾圧と何らかの形で関連づけて学ぶことは可能かもしれませんが、へたをすると「性の暗黒史」学習みたいになってしまうかもしれません。一つのsexual majoritiyが他のsexual majorityを抑圧してきた歴史・現状と、sexual majority全体がsexual minorityを差別・抑圧、あるいは隠蔽してきた歴史・現状とは、取り敢えず区別して学習した方がよいのかもしれません。
 ただ、大学教師としての自分の気持ちとしてはっきりしているのは、「暗黒の歴史を告発し、解放の戦士を育てる」みたいな授業は絶対にやりたくないということです。
 「ジェンダーと教育」授業におけるgender学習を全体としてどう構成するか? この問いに応える作業は、取り敢えず「継続」とします。
 それぞれの受講生が自らの生育史や被教育体験を(佐藤があてがったし「視点」にもとづいてではなく)それぞれ自分自身の視点で批判的に振り返る作業はもちろん続けますが、「女性は差別されてきた」という意識、怒りを煽るような意識的情報提供はしません(受講生からの情報提供は歓迎します)。genderを含めsexualityに関する諸概念の最新の状況について学習した上で、(gender bias事例の列挙ではなく)今年度と同じく私のホーム・グラウンドである「生殖の性」に関する実践事例学習を行ないます。学習指導要領を批判的にレビューする(今年度受講生のリサーチの結果、幼小中高の教育要領/学習指導要領に「ジェンダー」の語は存在しなかった)一方で、ジェンダーを学校教育で積極的に学ぶ見通しを持てるように、国際セクシュアリティ教育ガイダンスを学習する機会を今年度より1時間増やします。後半の学習プランづくりでは、対象範囲を大学生まで広げ、「教師をめざす学生の演習」的な色彩を弱めて、「自分たちが考えるジェンダー問題を同世代または後進世代に投げかける学習活動のシミュレーション」という位置づけを強めます。
 ということで、シラバス原稿は以下のようになりました。【】内が2020年度から修正した内容です。
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ジェンダーと教育
授業形態:対面授業を希望
後期授業形態詳細:対面授業の場合、ほぼ毎回少人数グループによる討論を行ない、さらに時間的に可能な場合はグループ討論結果についての全体交流も行なう。万が一遠隔授業に変更する必要が出た場合にも、原則として毎回ブレークアウトセッション【を利用してグループ討議】を行なう。
副題:人間のセクシュアリティ・ジェンダーについての豊かな理解と教育実践への展望
授業の到達目標:人間の性について、生物的性(sex)とともに性に関する社会的規範(gender)が社会生活の隅々に様々な影響(多くはマイナスの)を与えている。【本】学の学生はこれまでの生育歴の中で女性の性役割について期待されたり強要されたり、またそれに反発したり納得できないままに従ったりした経験を多かれ少なかれ持っているのではないか。このことについての(あくまで【受講生】本人の任意を前提としての)交流を出発点として、genderを含めた人間のsexualityについて広い視野から、また様々な考え方に触れることを通じて考え、またそのことを通じて教師として【乳幼児・小学生・】中学生・高校生【・大学生】にジェンダーに関わる問題提起を【試みる。】
学位授与の方針との関連:人間のセクシュアリティについての包括的な知識・理解、ジェンダーについての(論争点も含めた)理解を形成し、そのことによって受講者が学校教育【と社会】におけるジェンダー平等をめざして冷静に判断し行動できる【削除→教師、】社会人となることを期待したい。
授業の概要:【削除→女子大学での授業であることを踏まえ、】これまでの人生の中で「女らしく」「女のくせに」など女性の性役割に対するステロタイプの観念を押しつけられた経験がないかどうか、【及び、被教育体験の中で女性差別(男女差別)に関する学習、LGBTQ(sexual minority)に関する学習を経験したかどうか】の交流から始める(なお、これ以降も含め、ジェンダーやセクシュアリティに関わって傷ついた経験や人に言いたくない経験を持つ人がそのことの公表を強要されたりすることがないよう、十分慎重に授業を運営したい)。
前半ではジェンダー(性別区分)を含めて人間のセクシュアリティに関する基本概念【削除→(その把握をめぐる論争も含めて)】を学び、セクシュアリティ/ジェンダーについての(現時点での)正確な知識を得る。続いて、【「学習指導要領とジェンダー」】「【『生殖の性』の学習】とジェンダー」「『国際セクシュアリティガイダンス』とジェンダー」など、ジェンダーを考える応用問題的なサブテーマを扱う。
こうしてジェンダー概念【をめぐる問題状況について認識を深めるための】エクササイズを行なった上で、【同世代及び後続する世代に対してともにジェンダー問題を考えることを提案するための】学習プランづくりに取り組【み、その活動の発表交流と総括を通じて自らのジェンダー認識を広げ深めることをめざす。】
授業の計画:
第1回
 1.イントロダクション
  (1)生育史に関する交流
    ①「女らしく」と言われた記憶は?
      ②「女のくせに」と言われた記憶は?
  (2)小中高の被教育体験に関する交流
    ①女性差別(男女差別)について学習したり討論した記憶は?
    ②sexual minorityについて、LGBTについて学習したり討論した記憶は?
  (3)大学入学以来これまでのジェンダーに関係する学習体験の交流
第2回
  2.性に関する諸概念の定義
  (1)ジェンダーの定義・セクシュアリティの定義・
    (2)性の多様性について-生物学的な性・性別自認・性的指向・性的表現ジェンダーの定義
第3回
 3.セクシュアリティの視点・ジェンダー平等の視点から学習指導要領を検討する
  (1)「生殖の性」の位置付けの問題点-性交を教えることを禁じていること-
  (2)現行学習指導要領に「ジェンダー」の語はない!?
             -2020年度「ジェンダーと教育」受講生の学習指導要領リサーチ成果から学ぶ-
第4回
 4.「生殖の性」の学習例
  (1)小学校2年生に「性交」も含めて生命誕生を教えた野村正博実践(1984年)のVTR視聴
   (2)野村実践についての意見交流
第5回
 5.人間の性について学校教育ではどこまでとりあげることができるか?
  (1)「生殖」は性行動の一部であるが、それならふれあい・快楽/暴力・商行為としての性についても学校教育で扱えるか?
  (2)人間の性行動・性生活(の学習)とprivacy
第6回
  6.『国際セクシュアリティガイダンス』からジェンダーについて学ぶ
  (1)『ガイダンス』から学んだ点と疑問点を出し合う
第7回
(5の続き)
  (2)『ガイダンス』から学んでジェンダー学習プランのアイデアを考える
第8回
(*第9回以降の学習プランづくりのスケジュールは、受講者数や受講者の意見によって変更する場合がある。)
第9回  7.「子どもたちとジェンダーについて考える学習プラン」づくり(1)
  (1)-1ジェンダーという概念(言葉)を子どもたちにどう伝え、教えるのか
  (1)-2活動/授業の対象(幼稚園・保育園〇歳児/小学校〇学年/中学校〇学 年/高等学校〇学年/〇〇対象の社会教育)の決定
第10回  同(2)
  (2)学習対象の発達段階の把握
  (3)学習テーマ案(どういうテーマと題材を通じてジェンダーについて学習するか)の検討
    学習プランの「テーマ」の設定
    子どもたちに取り組ませたい学習活動の列挙、絞り込み
    学習活動の資料のリサーチ相談
第11回  同(3)
  (4)「学習指導案」への落とし込み作業
    学習活動の資料の交流・吟味・選択
    授業時数決定/学習活動項目決定と各時への割り振り
    班発表形式(全体概要or模擬授業を含む)
    次回までの準備分担
第12回  同(4)
  (5)学習指導案のさらなる具体化・詳細化
   学習活動の各項目に発問・指示・説明を設定
   学習活動全体及び各時の学習活動の到達目標設定
   次回の学習プラン完成に向けての分担
第13回  同(5)
  (6)学習指導案の完成
  (7)発表会リハーサル
第14回  同(6)
 学習プラン発表会
第15回  8.総括:これまでの学習を振り返り、感想・意見を交流する
 (1)班別学習プランづくりの総括討論
 (2)「ジェンダーと教育」授業全体を通じて学んだことの交流(ランダムグループ)
授業時間外の学習について:事前にLMSに掲載し、授業でも配付する資料プリントを通読して授業に臨むこと。
毎回の授業終了後に小レポートを作成し、期日までに【Teams】に提出すること。
課題に関するフィードバック:毎回の小レポートの中で質問【があった場合には、Teams上で】コメントを付ける。【個人にとどまらず全体に説明や問題提起をしたい場合には、毎回発行する授業通信上で言及する。】
関連分野:性科学、性教育論、人権論などの素養が求められる。
教科書:指定せず、適宜資料プリントを配付する。
参考書:以下には、一部をプリントして授業中に配付するものも含まれる。
狛潤一・佐藤明子・水野哲夫・村瀬幸浩『改訂新版 ヒューマン・セクソロジー 生きていること、生きていくこと、もっと深く考えたい』(子どもの未来社 2020.7.26)
浅井春夫・子安潤・鶴田敦子・山田綾・吉田和子『ジェンダー/セクシュアリティの教育を創る バッシングを超える知の経験』(明石書店 2006)
浅井春夫・艮香織・鶴田敦子『性教育はどうして必要なんだろう? 包括的性教育をすすめるための50のQ&A』(大月書店 2018)
UNESCO編 浅井春夫/艮香織/田代美江子/福田和子/渡辺大輔訳『【改訂版】国際セクシュアリティ教育ガイダンス 科学的根拠に基づいたアプローチ』(明石書店 2020.8.10)
【橋本紀子・村瀬幸浩・和田章子・中嶋みさき編『両性の平等と学校教育-ジェンダーという視点からの授業づくり-』(東研出版 1999.1.10)】
学生へのメッセージ:私は30数年間にわたり性教育を主たる研究領域とし、主にsexualityのsex(生物的側面)の面から性を考えてきました。この授業ではsexualityのもう一つの重要側面であるgender(社会的側面)の側【面に焦点を当てながらも、】広い視野か【sexuality】について考えていきます。sexualityやgenderは私たちの日常生活に深く関わる問題ですから、難しく考えすぎず、皆さんからどんどん意見や疑問を出していただける授業にしていきたいと思います。また授業後半では、【乳幼児~高校生、そして皆さんと同世代に大学生を含む幅広い世代の中から任意にある年齢層を選んで、】ジェンダーについて考える学習を行なうとしたら、というプランづくりも行ないます。
オフィスアワー(質問対応):授業終了時に質問・意見聴取の機会を設ける。毎回【Teamsに提出する】小レポートの中で質問や授業運営への意見を受け付け、コメント【削除→を付して返却】する。
当該科目に関連した実務経験の有無:1992年から2019年までに、三重大学教育学部附属小学校、奈良教育大学附属小学校、三重県鈴鹿市内の2つの公立小学校などで、3学年から6学年までの児童に対してヒトの生命誕生に関する授業(とびこみ授業)を計10数回実施した。【「ジェンダーと教育」授業担当は今年度が2年目。】
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 以上です。開講までまだ7ヶ月ありますので、春休みと夏休みにさらに学習を深めて、必要な修正を行なおうと思います。
 特に、日本におけるsexuality教育研究史に立ち入って考えることが必要です。1年前の京都橘大学・京都教育大学連合教職大学院退職にあたり、3つあった書庫(2大学研究室と自宅書斎)を1つに圧縮する必要から、今から考えると残念なことですが、性教育関連でもかなりの文献を断捨離しました。私自身がsexuality教育研究に取り組み始めた1990年代やその直近の1980年代の性教育実践書・理論書はかなり処分してしまいました。手元に残っている本を取り敢えずいくつかレビューしてみると、
●山本直英・高柳美知子・村瀬幸浩編著『青年のためのヒューマン セクソロジー 新訂版 21世紀を生きるあなたへ』(一橋出版 1996.12.10)では、「Ⅳ 『性的自立』を考える 1 性解放と人権」の中に「2 同性愛者と人権」(P.135-136)がありますが、高齢者・障害者の性とともに扱われており、多様なsexual minorityが取り上げられているわけではありません。
●村瀬幸浩編著『セクソロジー・ノート』(十月舎 2004.3.12)では「Chapter3男と女 なにがちがうか ちがわないか ~性差・個人差と性行動」の3項目目に「性の普遍性・多様性~マイノリティの性~」があって、その下位項目は「1 障害者の性 2 同性愛者の性 3 中・高齢者の性」となっています。前述の文献と同様の構成です。
●今年度授業の参考文献とした『改訂新版 ヒューマン・セクソロジー』の初版本(2016.7.27)ではすでに、改訂新版と同じくsexualityの多様性を生物学的な性・性別自認・性的指向・性的表現の4つの面から見るとしています。
 荒っぽい考察ですが、上記から1990年代-2000年代前半と2010年代との間に、性の多様性に関する把握がかなり進化したことが伺えます。
 また現在Amazonで「ジェンダー・フリー」の語を冠した性教育関係書を検索し発注しているところなのですが、1990年代後半~2000年代には多く見られるものの、2010年代に入って減ってきているように思われます。そして、『ヒューマン・セクソロジー』及びその改訂新版では、「ジェンダー・セクシュアリティ平等」という新たなkey wordが用いられています。本稿前半で紹介した改訂新版の一節では、「1990年代に入ってからのジェンダー理論の進展」に言及していますけれども、実はそれ以降の2000-2010年代にも特に社会運動の中でのgender把握には変化が起こっているのではないかと思います。
 このあたりのことについては、この「私の教育実践ノート」ではなく、2020年10月に1回、D.モリス『ふれあい 愛のコミュニケーション』(1974)を取り上げただけで以後進展していないFacebook「Sexuality関連文献学習ノート」の作成を今年度末までには再開して、文献学習を進めながらさらに考えていきたいと思います。 



京都教科研2021年2月(第319回)例会に参加して
                                                            (2021.2.20例会 2021.2.21投稿
(京都教科研「交流のひろば」掲示板(https://6203.teacup.com/keijiban/bbs?)とFacebook「全国『教育』を読む会」グループに、同一内容の以下の投稿をしました。)
 いつものように吉益敏文先生の例会報告に先立ってしまって恐縮ですが、忘れないうちの個人的メモ書きということで御容赦下さい。
 昨日の2月例会では、『教育』2021.3月号(No.902)特集2「ジェンダー平等教育をすすめるために」の検討を行ないました。私も特集の以下の全報告・論文を読んで参加しました。
  金子由美子 「子どものセクシュアリティは今」
    北山優   「低学年と考えるジェンダー」
  樋上典子  「女らしさ・男らしさって何だろう -中学校の性教育実践より」
  山田真理  「卒業までにこれだけは -高校での性の学習」
  杉田真衣  「いまの学校で性の学習を創り出す」
  中嶋みさき 「ジェンダー平等の科学的学習を学校で」
 例会での報告者は、特集報告の執筆者でもあり、この特集全体を企画した教科研「性と教育」分科会の世話人でもある山田真理先生でした。
(私も2013年の教科研全国大会「復帰」以来毎年「性と教育」分科会に参加してきましたが、2019年は迷った末に「教育課程と評価」分科会に参加。どちらも私にとっては大切な領域です。昨夏はコロナのため大会が1年延期となったため、今年はどちらにするか悩んでいます。教科研の分科会はハシゴ参加^^;では得るものが少ないと思うので。)
 山田先生から特集の計画の経緯とか、各報告・論文の位置付け、他の研究会で出た本特集への意見なども聞かせていただき、一人で雑誌を読むよりはうんと視野が広がり、読みが深まりました。山田先生、ありがとうございました!
 例会ではいろいろな議論がなされましたが、例によって自分の関心にぐっと引きつけてコメントさせていただきます。例会でも発言はしたのですが、終了時間も迫る中で手短かに申し上げたので、ここでは少し詳しく展開してみます。
 山田先生の高校では、「生徒の意に反した妊娠」判明をきっかけに「性の学習を生徒の人権学習として位置付けて、学校全体として取り組むようになって3年目」(山田報告P.80)です。人権教育を担当する委員会で、「総合学習で行っている『キャリア教育』に位置付けることができれば、これまでのカリキュラムの中に取り入れて、性に関する学習時間を作ることができると見通し」(同)を立てて3年間のカリキュラムを作成し、全校全学年での性の学習を進めていくのですが、教員間にさまざまな消極、反対意見も存在し、合意づくりに苦労しながらも粘り強く取り組みをすすめます。
 私がこの全校実践報告の中で着目したのは、以下のような生徒たちの反応です。
 予めお断りしたいのは、私の意図は「こんな否定的な捉え方もあるではないか!」と生徒発言から性の学習の指導の不備を衝く!というようなことではありません。ではどういう意図かは、後で述べたいと思いますが、尊敬する山田先生の学校での実践のあら探しをしようとしているのではないことを最初に断っておきたかったんです。
 助産師さんによる「いのちの大切さ」講演の後で、ある生徒はこういう感想を書きました。
「誰もが望まれて生まれてくるわけではないと思います、愛されずに過ごす子どももいると思います。私は母から愛情を感じたことがありません。こんな私でも誰かを愛することはできるのでしょうか? もし、子どもができたときにその子を愛することができるのでしょうか?」(P.83)
 3年生の卒業を前にしたセクシュアリティ研究者(高校教員OB)の講演「性と生」を聴いた後、肯定的な感想が多い中で以下のような感想もありました。
「今日の講演を聞いて、……なぜセックスというものがこの世界に生まれてきたのかがよくわかりませんでした。セックスがあることで女性が傷つくことが増えていくと思いました。」(P.83)
 またこの他にも、性の学習の後、
「NGワードの連発で気分がわるくなった」
「私は性について一切興味を持ちません」(P.85)
などの感想も出てきたそうです。多くの肯定的感想に混じって、であることは再度強調しておきたいと思いますが。
 山田先生の学校の状況、教員の様々な意識や行動、生徒たちの意識や行動等のほんの一端を実践報告で教えていただいた範囲で、生意気を承知で以下に意見を述べたいと思います。あくまでも一般論です。自分で考えを整理するために、ナンバリングして述べていきます。
(1)人間の性の新しい命の誕生に繋がる面=生殖の性の学習は重要ですし、丁寧に取り組む必要があります。単なる生命賛歌(それも大事とは思いますが)ではなく、生命誕生を幸せな状態で迎えることができるためにも自分とパートナーの心身について必要な学習を行ない、望まない妊娠をはじめとする不幸を生まないような理性的行動が必要であることも、基本的にはしっかり子どもたちに学習してほしいです。
(2)しかし人間の性行動は生殖のためだけではなく、むしろ頻度から言えば生殖行動としての性行動は非常に稀なものと言えます。子どもたちが性行動の世界に踏み込んでいくときにも、新しい命の誕生を望んでということはおそらく稀であると思います。つまり、子どもたちの性行動における悲劇も、生殖行動におけるミス、とは違う形で起こっていることがほとんどでしょう。
(3)生殖についてだけではなくて、人間の行動としてのふれあい・コミュニケーション・快楽追求としての性行動の学習に踏み込むしかないのではないでしょうか。先の4人の生徒の感想のうち1番目のものは少し性格が違うと思いますが、2~4番目のものは、一言で言うと人間関係としての性行動に関連して起こってきている否定的受け止めではないかと想像します。
(4)生物として高度に進化した人類は、性行動を生殖のために行なうだけでなく、ふれあい・コミュニケーション・快楽追求といった人間関係を豊かにするための独立した行動として行なうことができます。このこと自体は(一般論としてですが)ポジティブに捉えていいんじゃないかと思います。それだけ生きることを多様に享受し、楽しむことができるのだという意味で。
(5)しかし、ふれあい・コミュニケーション・快楽追求といった人間関係の深め方、享受の仕方は人それぞれに多様であり、性行動を行なうのかどうか、行なう場合にどのような性行動を行なうかということも個人の自由です。このことが重要です。「誰もが行なうべき/行なった方がいい性行動」なんてないのです。
(6)しかも性行動はself pleasureを除いてはパートナーを必要とする行為であり、それを楽しい充実した行動・経験にするためには、どのような行動が快であり楽しいことであり、どのような行動がそうでないかについて、パートナー間の丁寧な合意形成が必要になります。お互いの意思や好悪を尊重するというルールに反する状況では、その性行動にあなたが意に反して参加することはないし、それを拒否することは正当な要求である権利なのです。
(7)以上(5)(6)を踏まえて、セックス=性交を含めて性行動を行なうかどうかは、一人一人の人間の選択に任されています。「私は性について一切興味を持ちません」というある生徒の意思は、(もちろんそれは、今後の生活・行動・人との出会いその他によって変わっていくかもしれませんが)いまはそのまま承認され尊重されるべきです。
(8)どのような性行動がよいのか、楽しいのかは、個人の考え方・感じ方によって多様です。また、実際の性行動は完全にパートナー間に閉じられたprivateな空間で行なわれるものであり、他者の介入を許さないものです。ですから、例えば親しい友だち同士でお互いの性行動について情報交換・意見交換をすることはあり得るとは思いますが、その内容を本人の了解なしに不用意に他者に話すこと(outing)は、個人間の友情を損なうだけでなく相手の人権を侵害する行為であり、あってはならないことです。学校での性を学ぶ授業における発言等にも同様のルール・モラルが守られなければなりません。そうしてこそ、本来人間にとっての自然な行為であり肯定的に捉えてほしい性行動について、「公の場」でも不安や羞恥心にとらわれることなく、安心して学ぶことができるでしょう(かなりの理想論ですが……)。
(9)人間の性行動や性に対する意識の多様性を尊重する立場に立つと、性に関する学習を生徒が拒否する権利も敢えて認めるべきではないでしょうか。望まない妊娠などが起こらないように、生徒が性の面でも健やかな成長をとげていけるようにという教師の願いはよくわかります。しかし、上述のように性は生殖のためだけの活動ではありませんし、生殖に関わって望まないアクシデントを起こさないように性とつきあえばそれでいいというものではなく、人間関係に関わってもっともっと広がりを持つ世界です。そこに自らどのように足を踏み入れるか、また踏み入れないかは個人の自由です。現段階で人間の性というもの自体に対して嫌悪感・忌避感を持っている生徒も、今後の人生の中でそのとらえ方を変えていき、自ら性の世界に足を踏み入れていこうとするかもしれません。その時になって正しい知識がなければ…という教師の心配は当然なのですが、だからと言っていま「考えたくない。学びたくない。」と学習を拒否している生徒にむりやりに学ばせても、それが後で効果を発揮する保証はなく、むしろ嫌いな学習としてトラウマを残しかねません。性の学習で教師が教えることも、外部講師に依頼して授業を行なうこともあるでしょうが、事前に可能な範囲でどのような話を聞くのかを子どもたちに予告し、どうしても聞きたくない子どもがいれば欠席、あるいは代替自習などを認めてもいいのではないでしょうか。
(10)昨日の京都教科研例会の議論では、教師自身のsexualityも問われる、という話になっていました。確かにその通りだと思うのですが、私はそれは教師自身がsexualityに関する学びを深めなければならないという意味だと思っています。教師が人身御供になって授業で自らのprivate sexual lifeを語らなければならないという意味ではありません(もちろん例会では誰もそんなことを言ってませんけど)。性は人間にとって自然な営みであり、それについて公の場で語ることは恥ずかしいことではなくためらってはいけない、という考え方は、性に関する一般的知識・情報については十分あてはまると思いますが、もう一方で一人ひとりの人間の性行動や性意識は極めてprivateな事柄であって、自分自身や自分の性的パートナーという範囲を越えて個人の性情報が暴露されることはどこであれあってはいけないことです。性を学ぶ教室においても当然そうであるという原則を繰り返しきちんと確認し、また性を語る場にいる構成員がルールとして厳守しなければならないと思います。教師自身の性のprivacyも厳格に守られなければなりません。教師は「自分の性のprivacyも少しは語った方が、生徒も性について語りやすくなるのではないか」などと思う必要はありません。授業のような一人ひとり異なる性意識や性行動経験を持つ多数の人間が参加している場(=公の場)で教師が自らの性のprivacyを語ると、一部に非常に興味を持ってもっと聞きたがる子どもも出てくるでしょうが、一方で引いてしまう生徒、先の山田先生の報告に出てくる生徒のように気分が悪くなるとか、一切聞きたくないという強い拒否感を持つ生徒も出てくる可能性があると思います。男子生徒と男性教師、女子生徒と女性教諭というように、生徒の側が教師を性に関する先輩と見なして経験を聞かせてほしいと希望する場合、一対一とか一対少数で教師が自分の性のprivacyを語るということまで否定はしませんが、その場合も、教師は生徒に対してこれは生徒との個人的な信頼関係を前提にして話すことなので、聞いたことを誰彼なく漏らしたりしないと約束させる必要があります。しかし、それでも不十分です。なぜなら、self pleasure以外の性行動にはパートナーが存在し、教師が自らの性のprivacyについて他者に語るということは、パートナーの性的privacyに関することも口外することになるからです。それは本来、パートナーの承認なしにはやってはならないことだと思います。
(11)ここまで考えてくると、具体的な事柄自体は極めてprivateである性行動、性意識について、とりわけ子どもたち自身が性行動の主体になり得る、あるいは既になっているかもしれない思春期以降の教室、すなわち互いに個人的に親しい者同士だけで構成されているわけではない「公の場」で語り合うことは、極めて重要なことでありつつ、極めて難しいことであると思うのです。日本の多くの学校においては、そうした学習活動・コミュニケーションの成熟度が高まるためにはまだまだ多くの試行錯誤が必要だと思います。このことを考えると、「教室その他の公の場で性について学び、語り合うこと」に対して拒否的な感情を持つ子どもに対して、教師は寛容に接していくことが必要であると思われます。そういう反応を示す子ども自身の同意が得られれば、そうした拒否的感情を(匿名でもよいので)取り上げて、それについて他の子どもたちの意見を聞くことも必要かもしれません。
 以上です。何度も繰り返しになりますが、私が事情をよく知っているわけではない山田先生の学校や先生方や生徒たちに対する批判的コメントを述べたのではありません。私が三重大学に赴任して間もない1990年代前半以来約30年にわたって性の学びの教育と研究に取り組んでくる中で考えてきたことを、山田報告に触発されて「一般論として」整理し直したまでです。私が考えてきたことは、ちょっと古いですが以下の研究報告書にまとめています。冊子は残部僅少ですが、電子媒体でお分けすることもできます。
 研究代表者・佐藤年明『性教育におけるコミュニケーションのルールとモラルに関する国際比較研究』(2014-2017年度科学研究費補助金交付研究 基盤研究(C) 課題番号26381263)(全128p 2018.3.1)



(以上です。)

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