23 【アーカイブ 08】(2019.6.18 Facebookへの投稿 平井美津子 「慰安婦」問題を子どもにどう教えるか

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(2017.10.25刊行 2019.6.16-17通読)
 昨16日大阪高津ガーデン(大阪教育会館)で第10回関西教育科学研究会が開催され、本書著者の平井美津子さんが「今、教師・人間として生きる」と題して講演されました。平井さんのお名前はかねがねうかがっていましたが、お会いするのはこの日初めて。会場で本書を購入し、講演が始まる前に平井さんと少し話しました。僕は40年以上の教科研会員だが、途中から授業づくりネットワークにも参加し、自由主義史観研究会にも初期には参加していたことなどを話しました。
 帰りのおけいはん特急の中で本書を読み始め、今朝読み終わりました。
 まず、僕がマーカーで線を引いた箇所を抜粋していきます。そうした個別表記のモザイク・集合体から本書全体の印象を形成してもらおうというつもりは全くありません。僕個人が関心を持った箇所をあげたいだけです。

「生徒から、『先生、戦争好きなん?』と聞かれることがある。『なんで?』と聞くと、『先生、戦争のことになったらすごく熱いもん』と。『好きなはずないやん。でも、もし私が熱くなってるとしたら、戦争の実態をしっかりと伝えたい、知ってほしいと思ってるから』と言っている。(「はじめに」P.5)

「今戦争を学ぶのは、戦争への過程、加害、被害、抵抗や反戦、加担といった戦争のあらゆる面を見ていくことで、戦争の実相を知り、そのことが再び戦争が起きることを防ぐ力になると思うからだ。」(同 P.5)

「子どもたちが戦争について知る機会は祖父母らのような家族からではなく、学校やメディアからでしかなくなっているのが現状である。」(同 P.5-6)

「当時の私の授業は、『戦争を教えたい、知ってほしい』という思いばかりが先行する内容だった。なにせ教科書では10時間程度でのところを18時間もかけてしまったのだ。実際には子どもたちにとっては消化不良になるものだったかもしれないと、今考えると反省しきりだ。」(「『慰安婦』問題を教えた最初の授業」 P.26)

「このころの私は、戦争の実相を学ぶだけでなく、戦争についての責任を問うことや、被害者への償いはできているのかというところにこだわっていた。」(同)

「『はい、平井先生熱く語る~!』/授業の前にちゃかす生徒がいる。私の授業はどうも私が熱弁をふるう形になってるようだ。自分ではそんな意識はないのだが、子どもの声は正直だ。」(同 P.39)

「当時の子どもたち曰く、『先生は嬉々として、熱く語っていた』そうだ。/これは教師としては大いに反省すべきことだ。教師が何かのアジテーションのようにとうとうと自分の考えを話す授業は子どもたちの学びにはつながらない。そういう授業を楽しみにしてくれている生徒もいるが、やはり授業改善が必要だとその時に感じた。/実際、NNNドキュメントを見た大学時代の友人からは、『熱意は伝わってくるけど、アジっぽかったよな~』と手きびしい感想がやってきた。いたく反省、原因はわかっていた。子どもたちに考えさせようとしていたものの、自分自身が伝えたいと思うことを一方的に話し、用意された結論へ導こうとしていたのだ。」(同P.39-40)

「子どもたちからの疑問(どうして日本軍は戦場で『慰安婦』を必要としたのか? 賠償をしないのはどんな理由か? 『慰安婦』だった人の要求は? なぜ日本の政治家の中に事実を認めようとしない人がいるのか?)は置き去りになっていた。あとで、私に何人もの生徒が疑問を投げかけてきたことがその表れだろう。」(同 P.40)

「当時の私にとっては、『慰安婦』の授業をすることが金学順さんをはじめとする『慰安婦』だった女性たちへの私なりの教師としての応答責任であり、河野談話を実践することだという自負があった。」(同 P.41)

「私にとっては『慰安婦』問題を授業で扱うことはアジア太平洋戦争を教えるうえで、あまりにも当然のこと過ぎて、扱わないという選択肢はなかった。(「先生、『慰安婦』の授業まだ?」 P.97)

「質問につれて、つらそうな顔、怒っている顔、戸惑っている顔、うつむく顔、いろんな表情をくるくる見せる様子は、子どもたちが授業に入りこんでいる証拠だ。」(同 P.104)

「慰安婦の授業をすると男子たちは借りてきた猫のようにもじもじする。照れくささからか逆にはしゃいだり茶化したりするのもいる。そこが、『慰安婦』の授業を教師側が躊躇する一因でもある。子どもたちの照れを誘わない覚悟が教える側には必要だ。堂々と性の問題を取り上げる。性の問題を考える一番大切なときは中学生だ。だからこそ、子どもたちの思いを大切にしたい。好きな人ができてどきどきしたり、物悲しかったり、その人のことを大切にしたいという思い。そこから考えてほしいのだ。」(同 P.105)

「『慰安婦』を教えるときは緊張してしまう。こちらが真剣でないと子どもたちにも伝わらないから。ただ教師があまりにも真正面から切り込みすぎると、子どもたちを萎縮させてしまう。普段にぎやかな男子も、ここで下手なことは言えないという感じでまごまごしがちだ。だから、『慰安婦』の授業では、思春期の女の子や男の子たちが恋愛に対して抱く淡くて純粋な気持ち、好きになった人を大切にしたいという思いに触れながら、問いかけたい。」(同 P.110)

「子どもたちからは仕方なかったのかどうかという点での感想が多かった。予想はしていたが、仕方はなかったという意見は少数ながらもあった。男子もよく発言をした。それは、『仕方がない』という言葉が男性の側から戦場における兵士の行動を正当化するものとして出たものだったからだ。この発言によって男子たちにとって『慰安婦』は戦場での女性の被害という認識から、自分たちの問題となった。男子たちは『自分がもし戦場にいたら?』と考え始めた。そして戦場の自分と今の自分が対話し始めたのだ。これまで女子たちが『慰安婦』にさせられたかもしれない自分と対話し、今のハルモニたちの行動に共感し、その思いを受けとめようとしてきた。今回は、『兵士にとって慰安所は必要だったのか?』ということに男子として向き合わざるを得なかった。『慰安婦』にさせられた女性、『慰安所』を利用した男性。両面から考えることができたのではないだろうか。」(同 P.111)

「私は『慰安婦』問題を通じて、そういった現在起きている性暴力に対しても子どもたちに他人事としてでなく自分事としてとらえてほしいと思っている。当事者性をもって考えてほしいのだ。」(同 P.147)

「考えると、ここ10年ほど私は常に抗ってきた。時には在特会に、教育委員会に、管理職に、民主的な教育を押しつぶそうとする動きに対して、抗うのは自分への攻撃に対してだが、それが自分に対してだけではなく学校という場、ひいては子どもたちにかけられている攻撃だからだ。私はたたかっているつもりはない。たたかうというのは相手を負かそうと考えてやる行為だ。私は負かそうとは思っていない。相手の攻撃をやめさせたいと思っているだけだ。だから、何度やられてもそのつど抗う。攻撃してくる相手を負かそうとはしないけれど、相手には負けたくない。通じないことはわかっていても、理をもって粘り強く抗うしかないと思っている。抗うためには、学ばなければならない。周りの人々にどちらに理があるかをわかってもらわなくてはならないから、説得力のある言葉も必要だ。面倒くさい。でも、続けていくしかない。理不尽な攻撃をする勢力に、自分たちがやっていることが社会をよくすることにつながらないということをわからせるために。そんなことをしても無駄だと思わせるために。」(「怯まずに『慰安婦』問題を教えよう」 P.152)

「戦争によって非業の死を遂げたり、人生を破壊されたりした人々の悲惨な体験は何を物語るのか。それは単なる悲劇の物語ではない。終わった過去のことでもない。/そこから学ぶべきは、その真実を知り、記憶し、未来の平和を築くために継承していくことではないだろうか。体験をただ聞くだけでなく問いを立て、その答えを模索していくプロセスを大切にしなくてはいけない。『戦争はいけない』『平和がいい』という言葉をいくら並べ立てても、本質にたどりつけないばかりか、形だけで時がたてばわすれられていくものでしかない。教師として自分自身が行ってきた平和学習について改めてふり返る必要性を感じさせられた。」(「おわりに」 P.186)

 平井さんのお話を聴き、著書を読んで僕が共感した面は、先日Fbに投稿した以下の自分の文章と軌を一にするものです。
「京都教育科学研究会第302回5月例会に参加して考えたこと(『教育』6月号中嶋哲彦論文の検討から)」 佐藤 年明·2019年5月21日火曜日
 その中でも特に以下の部分です。
 
「現憲法を未来永劫変えないわけではないとしても、全文・9条を始め守り続けなければならないものがたくさんあります。そして、憲法を守るためには、衆議院・参議院のそれぞれ3分の2以上の議決で改正が発議されないようにしなければならない。たとえ発議されても国民投票の過半数で改正が決定されないようにしなければいけない。主権者の多数により良識を発揮して改正を阻止しなければならないわけです。多数を結集しなければならないのです。だから教師は生徒に向かって、次のように訴えてもいいと思う。
『君たち一人一人が、もしも憲法改正が発議された際にどういう意思表示をするかは、もちろん君たち一人一人に任される。しかし私は、教師である前に一人の国民として、戦争の大きな犠牲を経てようやく制定された日本国憲法の民主的理念を守り続けるためには、憲法改悪を狙う勢力の意思を国民多数の良識の結集によって打ち砕くしかない、そう自分が思っているということをみんなにも知ってほしいんだ。私は君たちの多くが憲法改正に反対する考え方を持つようになることを一人の国民として望んでいる。もちろん強制はしないし、テストに『改正反対』と書いたら○を付ける、なんてことは絶対にない。ただ、君たちの多くが憲法改正に賛成するようになったら、おそらく国民の多くも賛成するようになるだろうし、そうなったらいまの憲法は守れない。先生はそういう事態にはなってほしくないんだ。』
 単なる演説になってしまってもいけないし、生徒が聞く耳を持ってくれないような状況なら訴えても無駄ですね。しかし世間の状況が厳しくなっていく中、一人の教師が教室で自分の思想信条を生徒に向かって語ることはあってもいいと思う。それが生徒の思想信条、権利と自由の抑圧や生徒による『忖度』につながってしまうかどうかは、それまでの授業運営や学級づくりにもよると思います。
 信頼して語り合える学級、授業であれば、児童生徒の側から『先生はどう思うの?』と問いかけてくる場合だってあるでしょう。『君たち自身の考え方にヘンな影響は与えたくないから、先生自身の考えは話さない。』というのが正しい対応でしょうか?
 とても乱暴な締めくくりですが、文学読本『はぐるま』で読んだ『最後の授業』(フランス万歳!)や、学生の頃に読んだ三上満さんの著書で、教師であり労働者である満さんがデモやストライキに出かけるときにそのことを生徒たちに話した場面などをおぼろげに思い出しています。」
 
 乱暴にまとめてしまえば、平井さんのように教師としてだけでなく一人の人間としての生きざまを子どもたちの前に晒すことは、言いたいことが十分に言えない窮屈なこの世の中においてとても貴重だ、重要だということ。
 さてしかし一方で、僕は最近こういうことを考えています。僕が30数年研究と実践に取り組んできた「性の学習」においては特にそうなんですが、例えば文科省が学習指導要領で「性交」の学習を実質的に禁止している中で、果敢に性交も含めて生殖の性行動や触れ合い・コミュニケーションの性行動を授業で取り上げる教師たちが少数ながらいます。しかし、「禁じられても教師としての信念にもとづいて敢えて実践する」緊張関係のもとでの実践であるために、共感する教師たちがその先進実践から学ぼうとしたり、実践者自身が例えば性教協(“人間と性”教育研究協議会)の夏期セミナーその他の場で講座を担当して実践を紹介する、つまり、<<啓蒙し啓蒙される>>関係は成立し得ても、その中で実践の不十分点を明らかにしたりさらなる課題を提示するというような、普通自主的民主的な教育実践研究運動の中では行なわれているようなことが等閑に付されているのではないかと思うのです。要するに相互検討・相互交流が不足しているのではないか。
 昨日の関西教科研での報告や議論の内容については当事者の許可を得ないと他で公開しないことになっているので述べませんが、僕の印象では平井さんの生徒や同僚等との人間関係づくりの努力に対しては多くの人の称賛的発言があったものの、平井さんの「慰安婦」授業、「沖縄戦」授業の内容そのものについて、つっこんだ検討はありませんでした。
 例えば元「慰安婦」の証言として平井さんは金学順さんやペ・ホンギさん、イ・オクソンさんの証言を取り上げているが、この人たちの証言は問題を提起している元「慰安婦」の人たちの中でどういう位置にあるか(どういう典型性があるか)?他の人の証言と比べてどういう意義があるのか、というようなことです(僕が質問すればよかったんですが^^;)。教科研のような民間教育研究団体の中で平井さんの実践がストレートすぎて敬遠されたとは思えないんですが、激しい攻撃に屈せずに地道に実践と人間関係づくりを進めておられる平井さんへの尊敬の念が先に立って、批判や疑問を述べるに至らなかったのではないかと憶測するのです。そして、民間教育研究運動というのはそれでよいのか?と。
 突出した実践家に共感し、また運動的に支えるだけでは、教育実践研究運動は前進しないと思います。
 初期の自由主義史観研究会まで参加していた僕は、藤岡信勝氏の影響を受けていることを否定しません。彼のその後の言動の大半は支持できませんが、今も頭に残っているのは、日本軍の「慰安婦」問題を問題にするなら、戦後韓国軍がベトナムに進駐した際に売春婦を抱えていたことは問題にしないのか?というような藤岡さんの批判です。きちんと自分で事実を検証しないままに取り上げるのは無責任と思いますが、「軍隊が性奴隷を抱えるのは世界中にあること」というような言説に対して、もし「そういう問題ではないのだ!」と言うとしたら、どういう問題の立て方をするのでしょうか?
 民間教育研究運動の中に、「慰安婦」問題を取り上げた授業実践(平井さんだけでなく)に対して、批判的に検討しようという動向はあるでしょうか?(学生院生によく言うのですが、「批判=否定」ではありません。よく検討した上で肯定し摂取することも批判です。)そういうこと自体が自民党や在特会を利する行為だというスタンスはないでしょうか?
 論点を変えます。例えば平井さんの教え子たちの感想の中に、こういうのがあります。
 
「戦争中に日本軍の性の相手をさせられた『慰安婦』、それをさせた日本との和解はとても難しいと思います。(後略)」(「真の和解とは何か-考え始めた中学生」 P.132)
 
 この生徒は「性の相手」ということをどれくらい具体的にイメージしているでしょうか。
 上にも少し書いたように文科省は、小学校学習指導要領理科5学年のヒトの誕生の学習において「受精に至る過程は取り扱わない」と明記して、要するに性交の学習を禁じています(拙稿「学習指導要領は性をどう扱ってきたか?」『教育』2018.11 参照)。覚悟を決め肚を据えた少数の教師のもとで学んだ小学生以外は、学校の教室で性交について学んだことがないまま中学校へ進学してきます。
 これまでの性教育において、それでも敢えて性交を取り上げる場合、多いのはやはり生殖の性としてでした。たくさんの子どもたちが(密かに)疑問に思っていること=精子と卵子(これはどの教科書にも出ている)は別々の人が持っているのにどうやって出会うのか?に答えることは必要です。そして「生命」は教育の大事な課題でもあり、だからこそ「生殖の性」からが入りやすいんだと思います。
 慰安婦の「性の相手」とは、生殖の性としての性交ではありません。愛し合い信頼し合うパートナー同士のふれあい・コミュニケーション・快楽追求の性交でもありません。暴力・強制の下で兵士がむりやり自分のペニスを女性のワギナに挿入する強姦行為です。
 人間が取り結ぶ性の関係には、生殖の性行為もあり、触れ合いの性行為もあり、暴力・強制の性行為もあり、また(「慰安婦」問題において意図的に混同されやすい)商行為としての性行為もある。平井さんはこうしたことについて、歴史学習としての「慰安婦」授業とは別にある程度の学習を組織されたのでしょうか?教科担任制の中学校だから、ただでさえ「慰安婦」問題に多くの時間を割く必要がある中、そこまでは無理だったのでしょうか?
 慰安所における暴力的な強制性交は、「慰安婦」の人たちの心と体の傷として残っていると思われ、そこを詳細に聞き取ったりそれを授業で中学生に伝えることが教育的かどうかについては慎重な検討が必要です。しかしもしも平井さんが中学校歴史学習において人間の性行為を取り上げる際に、書いていらっしゃるような「思春期の女の子や男の子たちが恋愛に対して抱く淡くて純粋な気持ち、好きになった人を大切にしたいという思いに触れながら」という位置付け方(これ自体はとても大事だと思いますが)からだけ性を語られるとしたら、決定的に不十分だと思うのです。
 中学生と性との関わりはそのような牧歌的なものだけじゃないでしょう。実際に平井さんが関わられた生徒の中にはいないのかもしれませんが、一般論でいうと小学校高学年や中学校で性交を経験する子どもはいます。「援助交際」のような形で「商行為としての性」に関わっている中学生だっていると思います。具体的場面のリアルな描写が必ずしも必要とは思いませんが、人間の性い汚れた面があるという「知識」は中学生なら持っておく必要があるでしょう。
 平井さんが紹介されている男子生徒の様子が、僕にはとても気になります。
 
「慰安婦の授業をすると男子たちは借りてきた猫のようにもじもじする。照れくささからか逆にはしゃいだり茶化したりするのもいる。」
 
「普段にぎやかな男子も、ここで下手なことは言えないという感じでまごまごしがちだ。」
 
「男子もよく発言をした。それは、『仕方がない』という言葉が男性の側から戦場における兵士の行動を正当化するものとして出たものだったからだ。この発言によって男子たちにとって『慰安婦』は戦場での女性の被害という認識から、自分たちの問題となった。男子たちは『自分がもし戦場にいたら?』と考え始めた。そして戦場の自分と今の自分が対話し始めたのだ。」
 
 もじもじしたり、まごまごしたりする男子は、性に関わるこんな話を初めて聞くから戸惑っているだけなんでしょうか?
 それとも性交を始め性行動をすでに経験し始めている自分と引き比べている生徒もいるんでしょうか?
 「男の性は暴走する」として危険視されることを予測しているんでしょうか?
 「戦場の自分」、一体そんなことを想像できるんでしょうか?(そこから派生して言えば、「慰安婦」問題で非難されるのはまともに補償に取り組もうとしない政府だけなんでしょうか?それともむりやり連れてこられた女性たちを強姦した一人一人の男性兵士の責任が問われるんでしょうか?)
 戦場での兵士の体験についてはいろいろな記録や小説等が残されてはいるでしょう。現代の中学生が想像とは言え戦場の兵士、とりわけ慰安所を利用する兵士の位置に自らを立たせることはできるのでしょうか? また教師はそのようなシミュレーションをさせるべきでしょうか?(平井さんがそうさせたと言っているのではありません。生徒自身が考え始めたんだと思います。)
 生徒たちを大切にし、同僚や親との関係も大事にされる平井さん。それらの人たちから謙虚に学び、実践の弱点や課題も率直に書いておられます。教師として、人間としての平井さんを(よく知りもしないのに傲慢ですが)尊敬します。
 しかし、平井実践には課題もいっぱいあります。「『慰安婦』について教える授業実践」にも課題がいっぱいあります。果たしてそうしたことは、日本の民主教育の中できちんと検討されているでしょうか? 僕にはそう思えないのです。
 
 
 
付・上記の佐藤の投稿への平井美津子さんのコメントと佐藤の応答(佐藤が「公開」設定した投稿についてのコミュニケーションですので、ここに再録してよいと判断しました)。
 
平井 美津子
佐藤さん、昨日はありがとうございました。ここに書かれているご指摘、私自身も感じているところです。私はまつりあげられる存在になってはいけないと思っています。そして、私自身の授業の内容についての検討も必要だと思っています。今回の講演ではそのことは私自身問うものにしませんでしたが、「頑張っている先生」とか「勇気ある先生」と言われるためにやっているのではなく、「慰安婦」の授業をどう作っていくのか、それこそ一緒に考えたい問題なのです。佐藤さんがこのように書いてくださったこと、ありがたいと思います。今後ともよろしくお願いいたします。
 
佐藤 年明
平井さん、こちらこそありがとうございます。
「問うものにしませんでした」とお書きですが、本書を読めば問われようとしていることはよくわかります。
いろいろコメントに書きましたが、初対面の先生に対してこのようなコメントをぶつけても大丈夫と僕に思わせたのは、やっぱり子どもたちの姿について、また平井さんと子どもたちとの交流について本書の随所に書かれているからでした。
引っかかりながら読んでいた川田さんや西野さんの慰安婦本は、たぶん転職にあたって断捨離(あるいは大学図書館への返却)の対象にしたと思います。性教育の中でも慰安婦問題を今後の自分の短い研究者人生の中で再び取り上げることはないだろうと考えてのことだったと思います。しかしそうも言っていられないと昨日から思っています。
僕もまた多くの性教育実践者と同じく「生殖の性」から入りました。そして今は、生殖じゃない性、ふれあい・コミュニケーション等いろいろ言われるものの自分としては快楽の性、これが果たして学校教育の学習対象となるかということを考えています。その延長で考えると、望ましいというのも変ですが楽しめる(パートナー双方にとって)快楽とともに、ひとりよがりの快楽も問題にしなければなりません。
コメントに書いたように慰安所に通う兵士の心情はおしはかりようもないですが、緊張の連続の戦場で男がひとときの「快楽」を求め、女がその犠牲にされた、ということはあったのかなと思います。
さらにはいずれ、快楽を与えるプロフェッショナル(オランダの飾り窓のような)や、身体障害のある人に性的快楽を提供するセックスボランティアのことなども、(高校くらいなら授業のテーマにもできそうな気がするので)考えないといけないと思っています。
フェミニズムの中では批判・糾弾・怨嗟の対象にしかならなかったであろう男の性の問題も、事実をもとにきちんと学習と検討の対象にする必要があります。そのためには、一般論として人間の行動の一形態としての性交が、学校教育でも当たり前に取り上げられるようになる必要があります。
 

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