26 【アーカイブ 10】 教育学文献学習ノート(9)吉益敏文・山﨑隆夫・花城詩・齋藤修・篠崎純子『学級崩壊 荒れる子どもは何を求めているのか』(高文研)
前投稿(25)に続いて、来る2022.12.17の吉益敏文先生のご講演「SOSをだしながら続けてこられた-教科研をもうひとつの学校として-」を拝聴するための「準備の準備」の第二段として、吉益先生が著者グループの一員であった上記の本についての私のコメントを【アーカイブ 10】として再掲させていただきます。これも本ブログを立ち上げる以前にfacebook等に投稿したものです。
本ブログに「準備の準備」として過去の文章を連続再掲しましたが、それを踏まえての本来の「準備」は、吉益先生の単著について新たに作成中の「教育学文献学習ノート(30)」です。講演会当日までには投稿する予定です。
(2011.6.20公刊 2020.12.31-2021.1.9通読 2021.1.9ノート作成 2022.12.13編集)
「ノート(8)」からの延長上にこの文献を選びました。具体的には、(8)で吉益敏文先生の2論文を取り上げた際に、関連してAmazonで吉益先生の著作を検索していて発見したんだと思います。
本書の構成は以下の通り(目次には各構成部分内の細かい見出しまで収録されていますが、それは省略します)。
Ⅰ【座談会】若い教師たちが直面した子どもの荒れ
1 成り立たない授業・子どもたちの反発
2 子どもたちはなぜ荒れるのか
3 いちばんつらい時、何が支えになったか
4 まとめ
Ⅱ【手記と分析】ベテラン教師が遭遇した試練
【手記】荒れる学級の中で悩み続けた一年間 吉益敏文
【付記】子どもたちはなぜ荒れたか、時間を経て見えてきたこと
【分析】苦難をくぐり抜ける道を探る 山﨑隆夫
Ⅲ【手記と分析座談会】教師人生の危機・学級崩壊
【手記】はじめて転勤した学校で直面した困難 花城詩
【付記】孤独とのたたかいだった一年
【分析座談会】学級が荒れた時、教師はどうしたらいい?
あとがき
私は、吉益先生の報告から読み始めました。吉益先生の【手記】と【付記】を読んだ上で、本書の最初から読み始め、吉益先生の報告ももう一度読みました。
吉益【手記】【付記】は、共に『教育』誌に掲載された以下の実践報告に加筆・修正したものとのことです。
吉益「今、教師を続けるということ」(2007.1)
吉益「一人で悩まないで、思いを語り聞いてもらって」(2007.11)
『教育』のバックナンバーをチェックしたところ、以前に吉益先生の上記2編の報告を読んだ形跡はなかったのですが、しかし私は本書で初めて吉益先生の苦闘の記録に接したわけではありません。というのは、京都教科研の2020年1月例会で2020.1月号第2特集「わたしの教師像をつくる」を取り上げて吉益先生が報告を担当されたときに、報告レジュメの中で「吉益の事例」として自らの学級崩壊の経験を語られたことを覚えていたからです。
私は教育科学研究会に入って46年目になり、吉益副委員長のお名前も存じあげていましたが、1986年9月から2018年2月までは京都在住ではなく、院生の頃に野中一也先生を中心に集まっていた『教育』読者会には参加していたものの、京都教科研が発足した1992年頃には三重県在住であり、京都教科研には参加していませんでした。再び京都に戻り京都教科研に参加し始めた時には吉益先生はすでに小学校教師を退職されており、上記の2020.1月例会までは吉益先生の教育実践について詳しくうかがう機会はなかったと思います。穏やかな吉益先生がかつての教師生活において心に深く傷を負う学級崩壊の経験を持っておられることを知り、驚きました。京都教科研には交流掲示板があって、私はそこに2020.5月頃から例会の感想や最近考えていることを頻繁に書き込んでいるのですが、2020.1月例会の時点ではまだ掲示板の存在を知らず(^^;)、書き込みもしていません。例会参加の時にも、当時はレジュメにあれこれ色々書き込んだりせずにメンバーのお話を聞くことだけで満足していたので、吉益先生のお話を聞いてどういう感想を持ったのか、記録が残っていません。
本書において改めて吉益先生の文字化された(それも初発の記録を再検討して修正された)記録を二度読み、心に残った箇所を抜粋します。
【私は以前、教師の苦悩の原因として「様々な外的な圧力や障害より、子どもと教師の関係、いわゆる信頼関係が崩れることが最大のものである」と書いたことがあるが、まさにこの時はそういう状況であった。】(P.64)
【修学旅行後、子どもたちの私に対する言動はだんだんエスカレートして行った。指示がおそかったり、板書の字をまちがったり、子どもたちを注意すると、
「死ね、ハゲ、教育委員会に言うぞ」
「体罰やめろ」
「教師やめろ」
などと、一部の女子と、それに同調するように数人の男子が暴言を吐くようになった。教室においてあった私の筆記用具が壊される、私の靴が隠される、私に対する攻撃で一体化するようになってきた。だれがしたのか明らかにならなかったが、6年から持った女子が中心になり、5年のときに担任していた男子が加わり、他の子どもたちはなんとかしてほしいと思いつつ、傍観しているという感じだった。
授業が成立せず、子どもたちの人間関係も殺伐としたものになっていった。しかし、こうした子どもたちの行動も他の教職員の前ではおこなわれず、私の前だけ「悪態」をつくという事態だった。5年のときに私にいろいろなことを相談していた男子が私に反発するようになり、私はとまどってしまった。私はわらをもすがる思いで必死に教育書を読んだ。】(P.65-66)
【以前、悩んでいる人から相談を受けたとき、「誰でもが指導力不足の側面を持っているから、そんなに落ち込まないで」と何回も語っていたのに、自分自身の問題になると、知っている人に会えば「子どもになめられている、指導力不足教員だ」という眼差しで見られるに違いないとまで考えるようになった。】(P.67)
【6月の後半、自分ひとりの力ではどうにもならないので、私は自分自身の気持ちと学級の様子を、すべて話すことにした。管理職、学年の同僚、職場の仲間すべての人に。
子どもたちが荒れてくると、授業のみならず器物の破損がおこったり、給食の食器の返却が乱れてきたので、給食調理員さん、用務技手さんにも実態を率直に話した。子どもたちの攻撃性の背景には人間関係の不安定さや、甘えの構造が考えられるが、私自身の指導の弱点も当然ある訳だから、自分自身の分析も含めて、職場の研究会や個別の相談もできるだけ詳細にするようにして意見してもらうようにした。
子どもとの間に安定した関係ができている場合はクラスの様子を報告することはそんなに苦痛にならないが、学級崩壊状況となると、自分の力不足を語らねばならないので正直ためらいもあった。ともすると、状況をリアルに語る前に、あいまいな形で報告しそうになった。
しかし一方、困難な課題をかかえた子どもが数人いるので、学級が大変になっていると話したい自分があった。けれども、それでは共通の理解にはならないので、私は自分の弱点、教材研究の不十分なところ、子どもとの信頼関係をつくる上での人間関係、子ども理解の問題、クラス集団の発展の見通しの甘さなどを具体的に報告した。同時に、現在の事態をなんとかしたいという思いと、「うつ」的な状況になり、体に不安があって休みたい気持ちになっていることも隠さずに語った。
そうすると管理職をはじめ、職場の同僚はいつも私の体のことを心配してくれて、時間の許すかぎり複数で授業に入ってくださり、他の同僚も援助してくれた。
(中略)
いろいろな助言をしてもらった。私は自分の悩みを聞いてもらううちに日頃、あまり話せない他学年の同僚と今まで以上に話せるようになった。そして職場の仲間が教師を続ける上で同じような悩みをもちながら仕事をしているんだということをあらためて再認識した。子どもと教師の関係、教師を続けることの悩みなど。まさに老若男女問わず、共通の問題として。】(P.67-69)
【10月の後半、私に暴言を言う子どもたちと個別に可能な限り話した。「いじめ・暴力の授業」のあと、数日間は子どもたちはおちついたように見えた。しかし、数日たつと、
「校長や教頭に言いやがって」
「一人では何もできないから他の先生が教室にくるのやろ。教師失格や」
私の自尊心や教師としてのプライドは子どもたちの発する言葉からずたずたになるようだった。以前なら、すぐ切り返せたのに十分言い返すことができない自分自身にイラダチやら情けないやらで、どんどんおちこんでいった。その後、11月に緊急にもたれたクラス懇談会では、
「子どもたちの気持ちをわかってほしい」
「厳しい指導が必要ではないか
「いじめの授業より楽しい授業を考えてください」
父母の要求は当然であった。協力するといっても学校では私が子どもたちと、どうかかわるかということだから、進展しないクラスの状況に不満を持たれるのは当たり前であった。いくら状況をリアルに語っても、具体的事実で持って子どもやクラス集団が変化しなければ、父母の側からすれば支持のしようがないのである。父母との協力、口で言うのは簡単だが、現実はなかなか大変である。特に荒れた状況のときは。
途方にくれた私は職場や京都教科研の仲間に何度も相談した。ここでもたくさんの励ましの言葉をもらった。
「何を言っても弁解になるからじっと耐えてたんやろ、つらかったな。体を大事にして」
「うまくいかないときはそういうもんや。あせらんと。しんぼうやで。そのうち良いことがあるで。」
「よく、それだけ苦しいこと、つらいことをみんなに話せるな。そんなこと、なかなかできないよ」
「事実から逃げない。リアリズムの教育やろ。頑張って。」
病院や薬を飲まず、私が学校を休まずに登校できたのは、何よりも職場や研究会の仲間の眼差しがあったからと思う。話さなければとても続けられなかった。話して受け止めてもらえる仲間の存在が大きかった。】(P.73-74)
【小学校の場合は、学級担任が全てをみるために全責任を負っている。どうしても、子どもとうまくいかなくなると〔自分の力がたりないから、はずかしいことだ〕と思って自分を責め、自分の殻にとじこもってしまう。そうすると事態は進展しないし、ますます悪くなる。できることなら自分の否定的な事象は人に話したくないのが本音である。心がつらくなり、自分に自信がもてなくなる。しかし、一人で悩んでいるだけでは、何も解決しない。】(P.83)
【私は、子どもたちが私に対して発する言動、誹謗、中傷、暴言の数々に対して、当時は、子どもたちの攻撃性という形で分析していた。しかし、よく観察して見ると、今まで私に対してよく話したり、相談して慕って(?)くれていた子どもたちが、集団の荒れと比例して、一番、反発したり批判的になっていた。】(P.84-85)
【「荒れてる」状態で、私を支持するような態度に出れば、「いじめ」の標的になるかもしれなかったから、ある面、自分を守るために反抗的な態度を取ることが、そのときの賢明な方法だったのだと思う。】(P.86)
【いろいろな分野からの意見は、子どもに対する見方を大局的に見る上でも、子どもを理解する上でも、自分自身の気持ちを落ち着かす意味でも役にたった。事実をリアルに話すということは、すぐに問題解決にならなかったが、私自身の力になったように思う。
もちろん実際のところは、「卒業まで、あと○日だ」「なんで、こんな目にあわねばならないのか」「休みたい、学校に行きたくない」という気持ちが何度も交錯していた。ただ長い教師生活で、こんなことを体験するのもムダではないし、必ず次にいかしていこう、ここでへこたれてたまるか、と考えた。実際の局面は一進一退でなかなか変えることはできなかったが、あきらめないことも思いとしてはあった。】(P.86-87)
【自分の実践がうまくいっているときは舞い上がって父母の思いが見えなくなる場合があるが、逆にうまくいかないときでも父母は支持してくださるんだということも身にしみて感じた。どんな時も自分の実践に対して、舞いあがらず、おごらず、落ち込まずと、日頃思っていたことをあらためて痛感した。】(P.88)
【そんなとき、自分がなぜ教師になったのか、教師としての生きがいとはなんだろうか、もう一度、原点に返って考えてみる。うまくいかないこと、失敗したことが圧倒的に多いのだが、やっぱり、子どもたちの笑顔、父母のひとこと、仲間の励まし、そして何よりも自分が担任している目の前の子どもたちが好きかどうか、どんなに大変でも、どんなにてこずらせても、かわいいなあ、と思い続けられるかどうかが、試金石のように思う。
私の場合、そのどれか一つのことがあったから、今まで教師を続けられたのだと思う。】(P.89)
前述の通り、吉益先生の2報告の初出は、『教育』の2007.1月号及び同年7月号です。それぞれ、「『教師受難』時代に教師として生きる」、「教師への支援」という特集の中に掲載されています。
前者は吉益氏が教職員組合専従から学校現場に戻る際に、
【現場に戻るということでとても嬉しいです。でも時々、夢をみます。学級崩壊になり、子どもたち、父母、職場の仲間から批判され四苦八苦しているところです】(『教育』No.732 P.12/本書P.62に再録)
と挨拶して笑いを誘っていたのが現実の問題になってしまったとして、その「問題意識と体験」を語ったものです。
後者は、
【教師が子どもとの関係で、父母との関係で、同僚との関係で行き詰まった時、どうしたらいいのか、私自身の体験を語るなかで考えてみたい。】(『教育』No.742 P.88)
との問題設定で書かれています。
それぞれの特集の位置付けの違いもあったでしょうが、10ヶ月という短い期間を空けて担任学級の学級崩壊とその中での苦闘について重ねて総括をされています。苦しい作業でもあっただろうと拝察しますが、その2つの自己分析記録が、本書では
【手記】荒れる学級の中で悩み続けた1年間ー一人で悩まないで、思いを語り聞いてもらって
と
【付記】子どもたちはなぜ荒れたのか、時を経て見えてきたこと
という位置付けに再構成されて掲載されています。さらにその後に、
山﨑隆夫氏(都留文科大学)「【分析】苦難をくぐり抜ける道を探るー吉益先生のケースから学級崩壊と子ども世界を考える」
が掲載されています。山﨑氏は吉益氏より2年年輩の元小学校教師であり、その分析も多くの示唆に富んでいます。
本書ではベテラン教師吉益氏の報告と分析の後に、教師8年目で学級崩壊に直面した花城詩氏が登場します。花城氏も年度始めから二学期末頃までの手記と、三学期についての短い手記を掲載しています。そしてそれに続いては、ベテラン教師と思われる齋藤修氏と篠崎純子氏が花城氏を囲んでの座淡会が掲載されています。
また吉益報告の前には、学級崩壊を経験した小学校の1〜4年目の教師、非常勤講師、38年目のベテラン教師による仮名座談会が掲載されています。
なかなかおもしろい、考えられた構成だと思います。駆け出しの教師も、中堅教師も、ベテラン教師も遭遇する可能性がある学級崩壊。原因も経緯も収束の仕方も多様で、一筋縄ではいかない学級崩壊を多角的に取り上げています。
新人教師座談会での教師4年目の別所慶太郎さんの以下の発言に興味を引かれました。
【これはよくあることですが、初任の持ったクラスがグチャグチャになった時、指導教官なり、他の先生なりが入ってその場をおさめてくれたり、授業を代ってやってくれたりということがありますよね。僕はそれは、その初任にとって本当によかったことになるのかなという疑問がずっとあります。
というのは、そういう先生が自分のクラスに来て、子どもたちが静かに話を聞いたとする。そういう光景を見たら、かなりの人は自分はダメだとショックを受けるんじゃないかと思います。確かに子どもの状況は改善するかもしれない。けれど、担任の自尊心というか、“心”は何も救われない。子どもが大喧嘩して、一人では止められないという時には誰かが入ることは必要だけど、担任一人でもやもやしている場面で、他の先生が入ったことで救われるというのは五分五分かなあという気がします。本当に新任のことを考えてくれるなら、「それくらい大丈夫よ!」と言ってくれるだけで僕は十分だと思います。(後略)】(P.50)
先輩教師たちから、「力のない若い教師をサポートしてあげてるのに、何をわがままなことを言ってるんだ」みたいな苦言が飛んで来そうな意見かもしれませんが、でもわかります。ずっと前に初任者研修制度が始まった頃に、新任教員の授業中に指導教官が授業のやり方に介入し、そのことで担任教師が子どもたちから「力のない教師」と認識されていくというやりきれない話を読んだことがあるからです。
別所氏の指摘から、学級崩壊問題というのは、子どもたち相互や子どもたちと担任の間の問題だけど、実は学校内の教師間の人間関係の問題でもあると思いました。吉益先生の場合、学校内外での人間関係を信じ、思い切って依拠されたことでかろうじて苦難を乗り越えられたのかなとも思ったりします。
僕は大学教師を37年やってきて、いまはもう授業担当だけの非常勤講師の身ですが、ゼミ生、担任クラスの学生などの近い関係の学生から「死ね」の類の暴言を投げつけられたことはありません。授業を担当しただけの学生からは、誹謗中傷を含むレポートを受け取ったことはありますが、それも数少ない経験です。
37年間の中で一度だけ、担任した新入生クラスの学生たちとの関係がうまくいかずに、1ヶ月くらいで担任を降りた苦い経験がありますけど、それにしてもバカとか死ねとか人格を否定する暴言を吐かれて訣別するというような状況ではありませんでした。
僕自身は失敗もしながらも大学教師として誠心誠意学生と向き合ってきたつもりですが、その向き合い方というのは一言で言えば「距離をおく」というものです。学生と人生を語ることももちろんありましたけれども、基本はゼミ生の卒論指導のように、相談にきたらきちんと対応する、というスタンスで、こちらから学生を捕まえてあれこれ話すということはあまりありませんでした。だから「先生、もういい、構わないで」というような反応をされたこともほとんどないと思います。
学生は授業を受講して単位取得するとか、卒業研究や進路について相談するとかの目的に沿って教員と関わりを持つことはありますが、その目的を超えて深い、濃い関わりを求めてくることはほとんどありません。だから学生と教員がお互いに人間として鋭く対立するとか、嫌な面も見せ合うということも、僕の場合にはほとんどなかったと思います。
僕の場合も、37年の大学教員生活で、吉益先生が書いておられるような出勤できない、授業ができない、行こうとしても行けないという時期が何度かありました。それは仕事を含めての自分の生活環境の影響もあってのことだとは思いますが、少なくとも学生に背かれるとか無視されるとか悪意のある働きかけをされるとか、そういうことが長く続くとかが原因になったことはありません。自分のメンタルにおける鬱状態の深刻化によって、仕事を休みました。また逆に躁状態で普段より活動的になりすぎたり、人に対して攻撃的になったりした時に、先に書いた担任辞任のような残念な経験もしました。
教師は、人を相手にする仕事です。メンタルを病むと、本当に仕事に行くことが辛くなります。僕自身は普段から、自分にできないことを人に要求してはいけないというポリシーを持っていたので、鬱状態で自分が何もできない、少なくとも主観的に何もできないと思える時に教壇に立ったり、研究指導をしなければならないのがたまらなく辛かったのを思い出します。そういう時に学生たちや同僚たちに非難されたり苦情を言われた記憶はなく、数週間とか数ヶ月仕事を休んでも、周りから暖かく配慮された記憶しかありません。でもそういう時、配慮してもらっているのに自分が応えることができないという事実がより自分を苦しめるのです。
こうやって書いてきて、学級崩壊状況の中で吉益先生が陥られた鬱状態は、私自身の鬱状態とは環境条件が全く違うだろうとは思うのですが、それでも置かれた状況の苦しさについては類似するところもあり、大変であっただろうなと思います。だけどなお、教師としてがんばってきた自分という存在自体を否定される(後から考えれば本意ではない「振る舞い」であったとしても)ことがどれほど辛いであろうと考えると、そこのところは「わかります」とか「大変でしたね」とか簡単に言えないと思います。私自身は、大学教師として学生たちと浅い人間関係の中で関わってきたからこそ、その泥沼に陥ることはありませんでした。もし陥っていたら、そこで燃え尽きていたかもしれません。
教師というのは、素晴らしい仕事だと思いますが、業な仕事でもありますね。
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