27 教育学文献学習ノート(30)吉益敏文『子ども、親、教師すてきなハーモニー』(かもがわ出版)
(1995.11.25刊行 2022.9.30-12.13通読 2022.12.14-16ノート化)
この「ノート」を書き始めた12/14から3日後の2022.12.17(土)に開催される関西教育科学研究会学習会(兼 京都教科研第341回例会 14:00-京都しんまち会館)で、今年夏の教科研大会まで副委員長を務められ、現在も京都教科研の中心で活動されている吉益敏文先生が、「SOSをだしながら続けてこられた-教科研をもうひとつの学校として-」と題して講演されます。
私は1954年京都市生まれで、小中高大院を経て神戸大学大学院文化学研究科助手として勤務していた1986年9月まで京都市在住でした。学部3回生だった1975年に教育科学研究会に入会し、院生時代に京都教育センターの活動にも参加していた関係で、京都在住の終わりころには、教育センターでもお世話になった野中一也先生を囲んで雑誌『教育』読者会を行なっていました。私より2歳年輩で乙訓の小学校教師であった吉益敏文先生がいつから教科研に関わられるようになったか正確には存じませんが、私の京都在住(前半)期終わり頃には吉益先生のお名前はこちらからは存じ上げていたと思います。しかし直接の交流はありませんでした。
「京都教科研略史」(http://www.ne.jp/asahi/kyoto/kyoukaken/profile.html)によると、「1991年2月乙訓地域(京都府)の仲間が集まって”雑誌『教育』(国土社)の読書会が始まりした。」とあり、さらに1992.5.2に京都教科研結成総会が開かれています。以来今日まで、京都教科研は向日市の乙訓教育会館で月例会を続けています。乙訓での読者会開始は、1980年代半ばに私たちが野中先生を囲んで行なっていた読者会とは直接のつながりはないだろうと思います。乙訓の読者会、そして京都教科研結成のころ、私は宮城教育大学を経て三重大学に勤務し始めて間もない頃でした。たぶん、奥谷義一先生のお誘いを受けて三重教科研の例会に参加していた頃だと思います。
この「学習ノート」シリーズの「枕」で何度も書いていることですが、私は2019年2月に京都市へ戻り、第2の京都生活を送るようになりましたが、その少し前から京都教科研や関西教科研の例会に何度か参加させていただいていました。京都に戻ってからはほとんど欠かすことなく京都教科研の月例会や関西教科研の大会に参加しています。
京都教科研の例会は、乙訓教育会館で開かれます。JR列車の賑やかな通過音が頻繁に聞こえますが(^^;)、こうした場所を定例的に研究会に使わせていただけることは大変ありがたいことです(私の三重大学30年の大半の期間、授業づくりサークル「三重まんぼうの会」を三重大学教育学部のゼミ室を利用して行なっていましたが、私の退職に伴い場所確保ができなくなり、残念ながら会を閉じました)。私が住む左京区一乗寺から乙訓教育会館までは、市バス⇒JRまたは阪急で最短で1時間半程度かかりますが、せっかく月一度の遠出なので、早めに家を出て乙訓のあちこちを歩いた上で教育会館に着きます。18:30から例会開始なのでいつも18時前後に着きますが、吉益先生が会館を開けて例会会場で待っていて下さいます。そこで吉益先生とよもやま話(これが楽しみなのです!)をしているうちに三々五々会員が集まられ、例会が始まります。こういう月1回の「日常」をかれこれ3年半くらい続けてきました。
この「学習ノート」の26番目に【アーカイブ10】として再録した「学習ノート(9)」の中で私はこう書いています。「京都教科研の2020年1月例会で2020.1月号第2特集『わたしの教師像をつくる』を取り上げて吉益先生が報告を担当されたときに、報告レジュメの中で『吉益の事例』として自らの学級崩壊の経験を語られたことを覚えて」いると。私が京都に戻り吉益先生と交流させていただくようになって1年近く経っていましたが、吉益先生ご自身の「学校崩壊」の経験をご本人の口から伺ったのは、私にとってはこの2020年1月の京都教科研例会が初めてであったと思います。尊敬する吉益先生のような方が学校崩壊に直面されたと知って、私はかなりショックを受けました。その後吉益先生がその経験を綴られた『教育』掲載の2報告や共著『学級崩壊』を読んで「教育学文献学習ノート(9)」を書いたのが、上記例会から約1年後の2021年1月でした。
吉益先生がそれ以前に単行本を公刊されていたことは知っていたので、このたびの講演会に向けて本書を入手し、読み始めました。
本書は、【「赤旗」日曜版の連載に加筆・修正】(「あとがき」P.165)して、1995年に出版されています。教師、父母をはじめとする様々な読者を想定しての新聞連載ですので、わかりやすい語り口で、また一つのお話が3ページで完結しています。本「学習ノート」では、同書の中から私の心に残った吉益先生の言葉を抜粋して紹介させていただきます。
なお、本書は一つ一つ独立したエピソードの集成であるものの、その「編み方」には吉益先生自らの教育実践やそれを踏まえた提言を世に出す際の先生の思いがあるはずだと考えますので、文章を抜粋をしていない節も含めて、各節の見出しは全て記載しました。
Ⅰ 出会い、とまどいを重ねながら
ぼくのこと、もっと認めて……
【乱暴なまさふみ君であっても、一つひとつの行動をよく見ていると、"ぼくのこと、もっと認めてほしい"と言っているようで仕方ありませんでした。3年生になったら変わるんだ、と心の中で決めているのに、素直に表せない。そんな自分にいらだっているようにも思えました。私は、できるだけ話しかけ、ときには相撲をとって体をぶつけ合いました。勝ったり負けたりしながら……。
新たに、わかったことがありました。
体の大きいまさふみ君は、私と相撲をとるときには力いっぱいぶつかってくるのに、友だちとするときは、力を抜いているのです。相手が自分より小さいときはなおさらでした。わざと負けるのです。】(P.6-7)
【ある日の親子ドッジボール大会でした。
お父さんとお母さんが投げるボールに子どもたちは逃げ回っていました。ところが、まさふみ君は、必死でボールを追いかけ、お父さん、お母さんに当てようとしていました。顔は汗びっしょりでした。
このまさふみ君の活躍をきっかけにして、みんなの見る目も変わってきました。
と同時に、けんかが少なくなり、口より先に手が出ることもなくなってきました。】(P.8)
保子を変えた母の手紙
お父ちゃん、寝たらあかん
【自分が授業をするとき、参観のお父さんとお母さんに、いつも言っていることを思い出しました。
「子どもたちのいいところを見つけてください。たとえ発言できなくても、内面の、心のふるえを、がんばろうという意欲を読み取って下さい。このことがとても大事なのです」
お父さん、お母さんに、偉そうなことばかり話しているのに、いざわが子のことになると、アラ探しをして、小言ばかりを言っている自分がはずかしくなりました。】(P.14)
【娘はもう高校生です。いまも「お父さん、あのときは寝てたんやろう」と、ニヤニヤしながら言います。私がいつも居眠りをするのを見抜いていたのです。】(P.14)
子どものころを思い出せば
【鈴木さんは、六人の娘を持つお父さんです。保育所、学童保育と、いつも役員を引き受けています。仕事で残業も多いのに、いつ会っても、笑顔を絶やしません。子どもたちについて、グチや不満を言うこともありません。
私は不思議に思って、尋ねてみたことがありました。
「鈴木さん、六人の子育てでたいへんでしょう。なにか子育てに秘けつでもあるんですか」
「そんなもん特別にないけど。そりゃあ、子どものことで腹立つことはあるよ。そんなとき、私が娘と同じ年齢のころのことを思い出すねん。そうすると、私の子ども時代よりも、すごいなあと思うことがいっぱい見つかるねん。いいところ見つけると、ストレスもたまらへんよ」】(P.15)
【わが子を見ていて、「こんなこともできないの」と、ついグチが多くなったとき、小さいころの自分を思い出したら、きっと、親をてこずらせ、悪いこともいっぱいしているはずです。ですから、子どもたちには、みずからの子どものころの話、とくに失敗した話をうんとしてほしいと思います。子どもたちからすれば、ホッとすることでしょう。
いそがしいときだからこそ、こんな語り合いが大切だと思っています。】(P.17)
無口なさとし君の"変身"
【クラスの中には、無口で、目立たない子どもがいます。でも、なにかのきっかけで自信が出てくれば、人前でも話せるようになります。というのは、だれでも自分の思いを人に伝えたいし、共感してほしいと思っているからです。
それは、家庭や学校の励ましのなかで、少しずつ口が開いてくるのです。さとし君もそうでした。(後略)】(P.18)
けんじ、学校きとるで!
【私は、途方にくれていまいました。クラスの子どもたちに相談してみることにしました。
「けんちゃんは、学校に行こうという気持ちはあるんやけど、朝になると起きられないんや。みんなのなかで、けんちゃんの家に行って、学校の様子を話してくれる人いないかな。そのときに『学校においで』とは言わなくていいんだ。それから、けんちゃんの家には、毎日、無理して行くこともないから」
何人かの友だちが立候補してくれました。みんなは、けんじ君に手紙を書きました。(後略)】(P.21-22)
みんな、ぼちぼちいこか
【私は、はやる気持ちが出てくると、"ぼちぼちや"と心の中で繰り返して、子どもたちと話しています。】(P.26)
あれ、先生の恋人か
このエピソードは、私自身も長年研究と実践に取り組んできた「性の学び」(sexuality education 私は「性教育」という用語には疑問を持っており、できる限り前述のような表現を用いています)に関するものなので、全文を引用させていただきます。
【性に関する情報は、いまあふれるばかりです。私たちの子どものころとは比べものにならないほどです。
子どもたちの性についての言葉にびっくりすることがいっぱいあります。けれど、思春期の心や体のしくみについての正確な知識は、あまり知られていないのです。
4年生の陽子さんは、授業ではていねいな言葉で発言するのですが、日常の会話となると、驚くような言葉を連発します。たとえは、こんなふうにです。
私が遠足の下見に学年の先生と一緒に車で出発しようとするときでした。陽子さんが走ってきて、「先生、これからホテルへ行くんやろ」とニヤニヤしながら話してきます。習字の時間に新聞が落ちていたので拾って陽子さんに渡すと、「いやだ、先生。ヘアヌードの写真、見たかったんやろ」と新聞に載っている週刊誌の広告のところを指さします。
遠足当日、前の学校でお世話になったお母さんにお会いしたので、会釈すると、また陽子さんが飛んできて、「あれ、先生の恋人か? どこまでいってんの。AかCか」と言います。そのたびに私は、なんと言っていいか戸惑うのですが、黙っていると、たたみ込みように、また話しかけてくるのです。
「そうそう。ホテルと違うけど、いいとこ行くんやで」
「この新聞、また、持ってきてや」
「きれいな人やろ、今度紹介したげるで」
私は、ムカッとなるのを抑えて答えました。
すると、陽子さんは、さっと話題を変えて、ふだんの授業のときの顔に戻るのです。
その後、陽子さんのお母さんにお会いしたとき、陽子さんに冷やかされたことを話すと、笑いながら教えてくれました。
「実は、陽子は生理になったんです。少し早いのですが、それからイライラすることが多くて。このこと、先生には言わんといてと言うのですよ」
私は養護の先生と相談して、性教育の授業をすることにしました。テーマは、「思春期の心と体の特色、第二次性徴」とすることにしました。授業を始めると、陽子さんは、くいいるようにして聞いていました。授業が終わったあと、私のところにきて、こんなことを話していきました。
「女子の生理の意味がよくわかりました。男子にも射精といういことがあるんやね。男子と女子の成長の仕方が違うねんね。男子が幼いのは、ホルモンの影響なんやな。だんだん私ら、おとなになっていくんやね」
それから陽子さんは、体育の時間に休むときや体の調子の悪いときなど、はっきりと自分から言うようになりました。ふだんの会話でも、私が答えに困るような性についての話をしてくるということも少なくなってきました。
私は、いまの時代だからこそ、子どもたちに性に対する科学的なものの見方、人を愛するとはどういうことなのか、という問いかけを、子どもたちの知り得ている情報とかみ合うかたちで、正面から話していく必要があると思うのです。
大切なことは、子どもたちの言う表面的な言葉で一喜一憂しないで、その言葉の裏側にある子どもたちの内面の動きをていねいに聞き、読み取ること-陽子さんは、そんなことを私に教えてくれたように思います。
5年生になった陽子さんに会うたびに、私が「元気か? べっぴんになったな」と声をかけると、「また、先生、同じことばかり言うて。先生もがんばりや」と笑って答えてくれます。大きくなったなあと思って後ろ姿を見ていました。】(P.27-29)
上記のエピソードの陽子さんの姿にも吉益先生の対応にも学ぶところが多くあり、少し書いてみたいのですが、それに先立ってもっとも強い印象を持ったのは、私が下線を付した「陽子さんは、そんなことを私に教えてくれたように思います」という吉益先生の受けとめ方です。性に関わる暴言に近い言葉を先生に投げかけた陽子さんについて、もちろんその後の陽子さんの変化、成長を含めての捉え方でしょうが、教師にものごとを教えてくれた存在ととらえる。これは個々の子どもへの対応に留まらない吉益先生の教師としてのポリシーではあるのでしょうが、ある場面だけを見ると教師の人間としての足元を掬いかねない行動をとった(=privacyでもあるsexualityについて揶揄的侮蔑的な言葉を投げかけた)陽子さんであっても、「この子が私にものを教えてくれた」と受けとめられることはすごいと思います。
後にも書くことになりますが、吉益先生は「いいかっこをしない先生」だと私は見ています。だからこそこの「私に教えてくれた」というのは、掛け値なしの感謝の言葉だと捉えました。
さて、上記に全文引用したエピソードの範囲だけで陽子さんという子どもやこの子に対する吉益先生の対応の全体を判断するのは早計かもしれないことを覚悟の上で、私なりのコメントを述べます。
「ホテル」「ヘアヌード」「恋人」「どこまでいってんの」などの言葉は、陽子さんの《私は大人の性行動についてここまで知ってるんだよ》というアピールと、《先生は子どもからこういうsexualなことについて話しかけられるとは思ってへんor話しかけられたら困ると思ってるやろ。さあどう答える? 動揺するやろ?》みたいな挑戦、挑発であろうと思われます。
しかし授業中には「ていねいな言葉」できちんと参加している陽子さん。このギャップに吉益先生は戸惑ったり、ムカッとしたり、それなりに対応していなしたりしていますが、授業ではないフリーの会話の場でなぜ陽子さんが吉益先生を揺さぶるような行動をとるのか? 吉益先生と陽子さんのお母さんの会話の中にヒントがあったわけですが、そこに行く前に私が全く別のところから入手した情報を紹介させて下さい。
私が三重大学教育学部に在籍していた2002年2月26日に、文科省の科学研究費補助金を得てのスウェーデンのsexuality education(かの国では「性と人間関係sex och samlevnad」の学習と呼ばれる)調査の一環として、ストックホルム市のFarsta Ungdomsmottag(ファシュタ青少年クリニック)で指導員をされているMs Amelie Odhにインタビューをしました。スウェーデンの青少年クリニックは公的教育機関で、個人またはグループで来訪する子どもたちの性を含む様々な悩みや不安に答えて相談に乗ってくれる場所です。相談した内容については秘密を守ってくれて、勝手に親に通報したりしません。また必要な場合無料で避妊具を支給してくれたりもします。学校でももちろん性の学習は行なわれていますが、個別の相談機会として学校も子どもたちに青少年クリニックの利用を推奨します。
私はMs Amelie Odhにいろいろな質問をしましたが、その中で当時の私の中心的な関心事であった、子どもたちが指導員さん自身の性のprivacyに関わることを聞いてきた場合にどう対応するかという問題についてのMs Odhのお話を紹介します。なお、スウェーデンでは社会の一定の範囲でスウェーデン語ではなくて英語でもコミュニケーションができ、Odhさんは英語でのインタビューに応じてくれました。インタビュー記録は私の『スウェーデン王国における性教育の歴史と現在の課題(平成13-16年度科学研究費補助金(基盤研究(C)(2))研究成果報告書)』(2005)に収録していますので、その一部分を紹介します。なお、記録は英語で行ないました。私とOdhさんが話したことをあとからテープ起こしして文字化したのですが、特に相手が話されたことについて間違って聞き取っている部分とか、そのせいもあってか日本語訳しづいらい部分もあり、無理に日本語にしてしまうと私の間違った意味解釈だけが記録に残る危険性もあるため、間違いも含んでいる可能性がある英語記録をそのまま収録しました。ここでは、インタビュー記録のうち私が吉益先生のエピソードと関係すると考える一部分の英語記録を抜粋します。
Ms Odh: It's a very interesting question. I think that they are very interested in examples from life. And of course maybe for some people, much too private to talk about themselves, and some it's OK.... students say about how they react, probably very different. So I don't know if it's right, but it's a good thing to talk about and to discuss. I think that it's important that we know what we are doing and try to understand why we do that way or another way.
And I can see that especially the young boys I meet, that they want to know my experience. They are very curious. But in a way it's also a way of provoking. They want to see where is my.. when do I say "Stop!" or how can I ... They try to meet my stop point : where do I say, "Stop. Here is my private life." And I think that's common for young people. They want to know where do we say yes and where do we say no. That's good that we can say no.
SATOU: So you said to boys, " Don't step in from here"?
Ms Odh: "Here's my private. You can **** to us, but I don't want to answer this question, because it's no need for you to know."
SATOU: Many boys? Occasionally?
Ms Odh: Occasionally they want to know everything. But mostly they want to see how I handle that question. Mostly. I think that's important with the question, it's not really to know what I did or not did. Most important is how I handle the questions.
青少年クリニックに来訪する子どもたちの中には、応対する指導員の個人のsexual lifeのことを知りたがる子どももいる。彼らは興味津々なのだけど、それだけに失礼な物言いもしてくる。そういうときOdhさんは、応対の中で判断して「ここからは私の私生活の領域だから立ち入らないで」と明言することもある。ここまでも非常に興味深い話で、日本の教室での性の学習に関わっても示唆に富むと思うのですが、さらに私が当時話を聞いていて「目から鱗」だと思ったのは、上記引用の最後の部分でのOdhさんのお話です。すなわち、子どもたちは必ずしも指導員さんから性について何もかも聞きだしてやろうと思っているわけではない、というのです。専門の指導員さんを動揺させるような質問を繰り出すことで、子どもたちはこの大人は自分の質問にどう対応するのかを試そうとしている、つまりはこの人は自分がどこまで信用していい人なのかを「値踏み」していると。彼らの最大の関心事はこの大人がどういう人か、信頼できる人なのかを探ることであって、必ずしも性に関する詳細な情報を聞き出すことではない、と。
こういう行動の仕方というのは、もしかしたら心理学で何らかの概念化をされているものかもしれませんが、心理学に疎い私は知りません。ともかくも私は、陽子さんの吉益先生を試すような暴言?から、スウェーデンの青少年クリニックを訪れる子どもたちの、指導員を試すような性のprivacyに関する質問を連想したわけです。
陽子さんは、授業は別として、フリーな時間に吉益先生を試すような性に関わる挑戦的な言葉をかけてきました。それはまず、「ホテル」「ヘアヌード」「恋人」「どこまでいってんの」などの事柄に陽子さん自身が関心があるからであり、そしてまた、そういうことは普通は(特に大人に対しては)口にしない、してはいけないことだという「常識」も陽子さんは意識していたのではないか、しかし敢えて吉益先生にそれらの言葉を投げかけることで、《自分はタブーを破っている。びっくりしたやろ。どう受けとめる?》というような先生への挑戦を意味した、しかし先生が(内心はムカッとしながらも)大人の対応をされるので、それ以上深堀りはしない、だけどまた同様の「挑戦」を繰り返す、というような意識と行動の流れだったんじゃないでしょうか。
ここで私が感心したのは、吉益先生が話しかけられた時の陽子さんのお母さんの対応です。
ここでも吉益先生のエピソード記述だけから、事実はそれ以上でもそれ以下でもないような論評をしてしまうことは危険なのですが、あくまで「佐藤はこう受けとめた」ということとして書かせていただきます。
まずお母さんの対応が大らかだと思います。「陽子が先生にそんなことを言ったんですか!大変失礼しました!すみません!」みたいなことでなく(もしかしたらそういう反応もあったのかもしれませんけど書かれていません)、「笑いながら教えてくれました」とのこと。
次にお母さんは、直感的にでしょうが、吉益先生が驚いたような一連の陽子さんの言動を月経が始まったためだと言い当てています。
さらにお母さんは、初経後の陽子さんは「イライラすることが多くて」と言っています。つまり、「ホテル」「ヘアヌード」「恋人」「どこまでいってんの」などの言葉を用いての陽子さんの吉益先生への挑発は、月経開始に伴う「イライラ」の表れだ、と言い当てているんですね。吉益先生自身の陽子さんの行動に関する描写は、ニヤニヤ、飛んでくる、たたみ込むように話すなど、そこから直ちに感情的な苛立ちを他者が感じ取れるようなものではないようですが、お母さんは感情がそういう屈折を経て行動に表れたと見たんですね。お母さん自身の若き日の初経の経験の記憶から来るものかもしれませんが、慧眼であると思いました。そしてこの陽子さんの感情⇒行動の屈折した発現というお母さんの直感的な解釈を知って、私は20年も前にスウェーデンで聞いた話を思い出した、というわけです。
さて、陽子さんのお母さんによれば、陽子さんが初経の件について「先生には言わんといて」と言っていたとのことであり、従って吉益先生はこの件で陽子さんと直接会話を交わすことはなかったのであろうと推測します。吉益先生の対応は実に正攻法で、養護教諭と共同で二次性徴の授業を実施されました。授業の詳細は書かれていませんが、陽子さんは「くいいるようにして聞いて」いて、授業が終わると吉益先生に自分の学びの成果について話をしています。そこから「ふだんに会話」における「挑戦」も「少なくなってき」たとのこと。吉益先生は「なくなった」とは書いておられないのでまだあったのかもしれませんが、陽子さんが「フリーな時間」における自分を変えようとしたことはまちがいないでしょう。
陽子さんのイレギュラーな言動を叱ったりたしなめたりすることなく、それはそれとして陽子さんが性について関心を持ち始めているということも正当に位置づけながら授業の場で学びを深めようとする吉益先生の姿から、もしかしたら陽子さんは「私の性についての不安やもやもややイライラを吉益先生はわかっていて、受けとめてくれている。そのことに直接どうこうではないけど、いまの自分をよりいい状態へと変えていくことを応援してくれている。」というようなことを実感しつつあったんじゃないかと、私は勝手に思いました。
暴力を静めたひとこと
【そのころ、学年では、合唱コンクールにとりくんでいました。私のクラスは、圭二君にふりまわされて、みんな声は出ないし、歌になりませんでした。たまりかねた私はみんなに呼びかけました。
「圭二のことで見て見ぬふりをするのはやめよう。いやなこと、おかしなことがあったら、はっきり言おう。ムシするというのは、みんなが一番きらいなことやろ。圭二だけ特別あつかいするのはやめよう」
すると、合唱コンクールの練習でピアノを弾いていた美子さんが泣きながら訴えました。
「だって先生、圭二君、先生のいないときは、私たちが何回言っても直らないし、私も圭二君にたたかれるのは怖いんです。それやったら当たりさわりのないように付き合おうと、みんなで言ってたんです。でも、私、合唱コンクールには優勝したいし……」
美子さんの訴えをきっかけにして、少しずつですが、練習にも熱が入ってきました。
合唱コンクール当日、子どもたちは「翼をください」という曲を大きな声で歌い切りました。私は、戻ってきた圭二君に言いました。「よかったよ。とってもいい顔して歌ってた。声もよく出ていたし……」
圭二君はうれしそうに話してくれました。「先生、おれ、美子みたいに面と向かって言われたこと、いままでになかったし、今度みたいにみんなと必死で練習してうたったのは初めてや」
その後、圭二君の暴力は少なくなっていきました。本音をぶつけ合うなかで、クラスのみんなとのつながりも深くなっていきました。】(P.31-32)
先生、きげんええか
【私たちは、おとなどうしで話をするときは、自分の気分感情で大声をあげたり、怒鳴ったり、ということはよほどのことがない限りしないものです。けれども、子どもたちの前では、つい配慮を欠いて、ぞんざいな話し方をしてしまいます。
子どもたちは具体的なことで怒られるのは我慢できても、感情的に怒られることを一番きらいます。むしろ、気を使っているのはおとな以上に子どもたちなのかもしれません。それは、言葉だけでなく、おとなのまなざしを見ただけでわかるようです。
以来、教室に行くときは、毎日、鏡を見て、自分の顔の表情を整えるようにしているのですが、教室に行くと、いつの間にやら忘れてしまって……そんな毎日です。】(P.35)
トントンして寝かして!
この節も、全文引用させていただきます。前のケースとは違って、見出しの「トントンして寝かして!」の重要な意味が、抜粋ではわかっていただきにくいと思うからです。
【小学校高学年の思春期前期になると、個人差はあるのですが、急に話さなくなったり、反抗的になたりするものです。しかし、その内面は激しく揺れ動いています。私の息子もそうでした。
息子は、休みの日になると決まって、「お父さん、キャッチボールしよう」と言ってきました。それが、5年生になり、少年野球のチームに入ってから、急に口数が少なくなり、一緒に野球をしなくなりました(実力がついてきて、父親では相手にならないということもあるのですが……)。そのころから、外で会っても、"どこのおじさん"といった感じで、目も合わさなくなりました。
ある日のこと。野球の練習から帰ってきた息子が、急に大粒の涙をこぼして、オイオイと泣きじゃくりました。
あまりの激しさに、聞いてみると、ポジションをめぐって自分がレギュラーになったのを"うらまれて"、みんなが避けるということでした。さらに詳しく聞いてみると、あとからチームに入った息子が、前から入部していた子より、早くポジションについたため、そのつらさからギクシャクした人間関係になったようです。
私はどう言っていいか迷いましたが、自分の小学校時代のことを話してやりました。
-運動はなにをやっても下手で、「吉益がチームに入ったら負ける」「お前なんか見学しておけ」と言われて、つらかったこと、悔しかったこと。
息子の悩みに、直接答えられたかどうかは、わかりません。息子は、いつしか泣きやんでいました。
息子が聞いてきました。「お父さん、悲しくなかったんか?」
私は答えました。「いやだったけど、自分がヘタクソだったので、とにかく練習だけは、さぼらんとこと思って。そしたら、いつの間にか試合に出してもらうようになったわ」
私は続けて「一生懸命やってても、うらまれたり、ねたまれたりすることはあるで。おまえは、人を傷つけたりは絶対しないから、自信をもって、いまのままのペースでいけや。つらいときは、いつでも聞くぞ」
その日の晩、息子は、どういうわけか寝るときに、私に、「お父さん、トントンして……」と言ってきました。小さいときに肩をゆっきりたたいて寝かせていたのですが、急に言うのでびっくりしました。息子が寝るまで付き合いました。
とうしているうちに、私の方が早く寝てしまうのですけれども、それからは、なにかあると"トントンして"と言うのが、息子のサインのようになりました。
すると横で妹が、「お父さん、お兄ちゃんばっかりかわいがって、ずるい」とすねるので娘には手で、息子には足でトントンしていました。
私の息子に限らず、子どもたちは、一歩家から出ると、一日中気を使って生活しているように思います。周りの友だちに対していじらしいくらいです。そんなとき、ホッとする場が、家族のだんらんや語り合いのひとときです。私は、これがとても大事なように思います。
息子は、現在、中学3年生で野球部に所属しています。相変わらず、外で会っても知らん顔です。いつの間にか、「トントンして」と言うことがなくなりました。】(P.36-38)
なんとも言えずいい話です。このまま絵本にできそうな気もします。
先に取り上げた陽子さんのエピソードと似てるなと思うのは、吉益先生、いや吉益敏文お父さんが、「迷いましたが」としながらも、悩んでいる息子さんに対して父として直接に行動を指図するというような向き合い方ではなく、スポーツが下手だった自分自身の小学生時代の話をされたことです。野球がうまくてレギュラーに抜擢されたからこそ人間関係に悩んでいる息子さんの状況とはかけ離れていて参考にはならないだろう、と見ることもできますが、でも息子さんは「お父さん、悲しくなかったんか?」と尋ねています。もしかしたら、チームの中で自分とは違う状況にいる友だちに目が向いてきたんでしょうか。吉益お父さんの「応答」が息子さんの視界を少し変えるために仕組まれたものだなどとは思いません。書かれているとおり「迷い」ながら絞り出された言葉だろうと思います。しかし、結果としてそうなったのかもしれませんが、涙を流す息子さんへの吉益お父さんの対応のしかたは、「暴言」を繰り出す陽子さんへの対応のしかたに似ているように私は思いました。何というんでしょうか、子どもに対して「おまえの行動はこうだ」と断定的な価値判断を示したり「こうすべきだ」と一方的に指示したりするのではなく、一個の人間として「あなたの話を聞いてこう思ったよ」ということを述べるというのでしょうか。「素直に述べる」というとちょっと違う気がします。陽子さんの時も吉益先生はムカッときていたし、息子さんのいつも見せない意外な姿に吉益お父さんは驚きとまどっていたと思います。でもいずれのケースでも、吉益先生/お父さんが話したことはそうした内面の感情とは全く違っていました。しかしその対応は、「あなたの言っていることを受けとめているよ」というサイン、意思表示にはなっていると思うんです。このことがとても重要なように私は直感しています。
さて、すごいのは、吉益お父さんが「おまえは、人を傷つけたりは絶対しないから」と断言して息子さんの背中を押していること。親として、人生の先輩として、困難から脱却する方法を訓示する、というのではなくて、息子さんが自分の良さを信じて行動したら絶対うまく行くよ、お父さんはそう信じてる、とエールを送っておられるんですね。
そしてそこからおもしろく、ほほえましく思うのは「トントンして」のくだりです。大人の入り口に立ち、親にもつんけんしたり口を利かなくなり、親を避けるようになる時期。そういう自分であることを自らも意識しているはずの息子さんが、言わば敢えて意識的に「赤ちゃん返り」したわけですね。お父さんに「何を赤ちゃんみたいなこと言ってんねん」といなされることはないはずだと信じて甘えようとしたんじゃないでしょうか。かわいいですよね。いい親子関係だなと思います。私も四人の息子を育てましたが、父親として上のエピソードのような場面に出くわしたことは、残念ながらないですね(^^;)。
「給料どろぼう」と呼ばれて
【わが子によくなってほしいという願いから、ときとしてお母さん方、お父さん方の言い分が激しくなることがあります。でもそれは担任の教師に、わらをもすがる思いで、なんとかしてほしいという気持ちの表れ-そう私は思っています。落ち着いて、じっくり話し合えば、いつかは具体的な解決方法が見いだせる、とも思っています。たとえ、時間がかかっても……。】(P.41)
やさしさと、厳しさと
とっておいたチョコレート
【クラスの子どもたちを見ていると、仕事で、家族が離ればなれに暮らさなければならないという家庭が増えています。
3年生の愛ちゃんの家族も、お父さんが単身赴任し、別々の生活をしていました。私は家庭訪問のときに、お母さんから聞いて、初めてその事実を知りました。
(中略)
私は、愛ちゃんの家族を見ていて思いました。家族がいつも一緒にいることが少なくなっているなかで、お互いに信頼し、たとえさまざまな事情で別々に暮らすことになったとしても、心をつなげていくことの大事さを。それはむずかしいことかもしれませんが……。
子どもたちは、現実が厳しければ厳しいほど、あまり直接にそのこと語りません。けなげに心の中にしまって生きています。そうした事実を知り、思いに共感することがとても大切だと思います。具体的な解決にならなくても、子どもたちの心の支えに少しはなると思うのです。「お父さん、背が高いし、家が狭くなったわ」と、愛ちゃんが笑いながら話してくれた言葉が印象に残っています。】(P.45-47)
ごめんね、吉益君
このエピソードは教師・吉益敏文の原体験であり、恐らく吉益先生の教師としての原点に位置付いているのではないか。私は勝手にそう思いました。重要なエピソードでやはり抜粋紹介はできないので、全文を紹介させていただきます。
【だれにも印象に残る教師がいると思います。私は、1、2年生のときに担任してもらった羽賀邦子先生先生がいまも心に残っています。
小学校に入学したころの私は、いまでいる「いじめられっ子」の典型でした。すぐ泣くし、運動はなにをやってもへたくそ、給食も、先生にそばにきてもらわないと食べられませんでした。クラスの子どもたちに強く言われると、すぐ涙ぐみ、そのたびに羽賀先生が飛んでくるのでした。
「吉益君はおとなしいから、そんなに強く言ってはいけません。もっとゆっくり話しなさい」
それでようやく私が泣きやむという感じでした。羽賀先生は、そんなふうに何回も何回も周りの子どもたちに話しかけていました。私は羽賀先生が大好きでした。
その羽賀先生に、私は2年生のときに、ものすごくしかられたことがありました。
理科の勉強で、冬の植物を探してくるという宿題が出たのです。私は友だちの太田君と夜遅くまで探し回りました。そして、高さ数メートルもあるアオギリを探し当てたのです。とりあえず木をナタで切って、その日は、羽賀先生に預けました。
次の日、みんなの前で先生にほめてもらえるとワクワクしながら学校に行きました。職員朝会で学校のアオギリが切られたことを知った羽賀先生は、私の顔を見たとたん火の出るような声で怒り始めたのでした。
「吉益君、なんてことしたんですか! これは学校のアオギリの木でしょう。たいへんなことをしてしまったのですよ。いまから職員室に行って、先生方に謝ってきなさい」
私はなにがなんだかわからないまま、ただ涙が止まりませんでした。大好きな羽賀先生になんでこんなに怒られなければならないのか。「学校の木を切った」という意味がわからなかったのです。言われるままに先生に連れられて、職員室に行きました。そこで私は多くの先生の見てる前で注意されました。初めて入った職員室で、多くの先生たちの見ている前でしかられたのですから、いまでもその場面は私の頭の中に焼きついています。でも、私はそのときどうしても「ごめんなさい」とは言いませんでした。自分のしたことと、先生の怒っている意味が納得いかなかったのです。
しばらくして羽賀先生は、学校のアオギリを切ったという場所に連れて行ってくれました。でも、そこは私が切った場所とは違っていました。私が切った場所は、学校のアオギリから少し離れた空き地だったのです。間違いに気づいた羽賀先生は、何度も何度も「ごめんね、吉益君」と、私に謝られました。
それ以来、羽賀先生は、私に会うたびに「あのときはごめんね。いまも心が痛みます」と言われます。
私は、あのときの、怒った羽賀先生の顔をいまでも覚えています。もちろん、いつも私のことをかばってくれた羽賀先生の顔も。それ以上に、私に謝った羽賀先生の真剣な顔を決して忘れることはありません。
羽賀先生とはいまでも年賀状のやりとりが続いています。そして、「吉益君、どんなときも、子どもの心の痛みのわかる先生になってください」と励ましのメッセージを送ってくださいます。
いま、私は、羽賀先生のような教師になりたいと思っています。
でも、どういうわけか、私は、アオギリ以外の植物の名前をなかなか覚えきれないのです。】(P.48-50)
私も、小学校1・2年の担任だった松本先生のことを思い出してみました。ベテランの女性教師で、厳しい先生だったと記憶しています。私は勉強はしっかりやって成績もよかったんですが、そしてまたがんばっているところを松本先生にほめていただく機会もたぶんあったんだろうとは思うのですが、残念ながらその記憶はありません。はっきり覚えているのは毎日の学校生活の終わりに(上級生に掃除してもらうために)机を後ろに下げて教室前方に整列し、終わりの挨拶をするシーンです。私はいつもぐずぐずと準備をして、列に並ぶのが最後になり、松本先生に「動作が遅い!」と怒られました。私立幼稚園から公立小学校に入った私は、最初は友だちも全然いなくて緊張してたけど、たぶん勉強では負けないみたいな傲りも持ってたかもしれません。松本先生の叱責はひょっとしたらそうした私へのたしなめの意味もあったのかもしれませんが、1年生の私のプライドは著しく傷つきました。松本先生は確か2年生の途中で病気休職されました。子宮癌と聞いたと思います。私たちが3年生か4年生の頃に亡くなられ、私はなぜかクラス代表でお葬式にも参列したと思います。しかし、残酷な言い方ですが、「大好きだった先生がもういないんだ!」というような悲しみを覚えた記憶はありません。
2年生の吉益君の羽賀先生との関わりの記憶は、一つ間違えば吉益君にとって一生のトラウマになるような重大事だったと思います。いつもかばってくれて大好きだった先生からわけのわからないことで厳しく叱責されたわけですから。もしも羽賀先生が「現場」へ吉益君を連れて行くということをされず、真相(学校の木を切ったというのは冤罪だったこと)が明らかにならないままであったら…。もしも羽賀先生が「学校の木じゃなくても勝手に木を切ったには違いないじゃないの!」というように問題をすり替えて吉益君が悪いという価値判断を変えず自分の誤り(学校の木と早とちりした)を認めようとしないような教師であったら…。事態は悪い方へ進んだまま吉益君の記憶に定着したかもしれません。
しかし羽賀先生はそんな教師ではなかった。想像するに、「いじめられっ子」の吉益君をいつもかばってくれた羽賀先生は、その吉益君が学校のアオギリを切るという事実(実際には勘違い)に直面して、いつも暖かく見守ってきた吉益君に裏切られた思いがして、激しく叱責し大勢の教師の前で吉益君を責めたんじゃないでしょうか。そしてそれが冤罪だと判明したとき、日頃吉益君に丁寧に接し励ましてきた自分が、その吉益君を傷つける取り返しのつかない失敗をしたと激しく後悔し、自分を責められたことでしょう。そのことがその後何度も吉益君に出会うたびに謝罪をされる羽賀先生の姿に表れていると思います。
一般論として、教師は教師に対して過ち、失敗をおかしてしまったとき、体裁にこだわらずに素直に非を詫び、子どもに謝罪すべきだ、そうすることで子どもの信頼を回復することもできる、ということは言えると思います。吉益君と羽賀先生の関係もそのように進行したんだと思います。吉益先生は今も羽賀先生を尊敬し慕っておられて、「羽賀先生のような先生になりたい」と書いておられます。ただ一方で吉益先生は、職員室で羽賀先生に厳しく叱責されたことについて「いまでもその場面は私の頭の中に焼きついています。」と書かれています。おそらく羽賀先生を恨んでいるとかそういう負の感情を伴ってはいないのでしょうが、心の傷として記憶に残っているんじゃないかと想像します。
教師も人の子であり子どもの指導において過ちを犯すことはある。それをそのままにせずにきちんと子どもに詫びることで、関係修復ができる可能性はある(できないかもしれませんが)。それは一般論ですが、一方で過ちの事実やそれによって子どもの、あるいは教師自身の心に残る傷は、だんだんと記憶は薄れるとしてもやはり残るものであり、これもまた人生の事実なんだと思います。教師の仕事、難しいものですね。失敗から学ぶ、と言ったらかっこよすぎますが、失敗も起こりうるのだと考えてそれに誠実に対応することを忘れないようにしながら、右往左往して教師人生を進めていくんだと思います。
教室の中の"国際交流"
【ある日、突然、外国の子どもたちがクラスの仲間になる-最近ではめずらしいことではなくなってきました。
中国から父親の研修ということで、一緒にきた張君が4年2組の一員になりました。子どもたちは大喜びでした。なにしろ転校生が外国人なのですから。
(中略)
私は、もっぱら筆談のようなことで、張君と話しました。初めは喜んでいた子どもたちでしたが、やがてトラブルが増えてきました。遊びでけんかしても話が通じないものだから、たいがいの場合、張君が一人で泣くというケースが続きました。
あせっていらいらした私は、そのたびに周りの子どもたちをしかりました。その回数がg多くなったためか、一番、張君の面倒を見てくれていた中西君が学校を休んでしまいました。中西君のお母さんから私に電話がありました。
「先生、息子がきのう泣いて帰ってきました。先生がぼくらばっかし怒らはって、いつも張君をかばうって。何もぼくは悪いことしてないのに、ぼくらの言うことはあまり聞かないで、張君とばっかし話して……。ぼく、学校おもしろくない、休む、と言うのです。うちの息子が悪いとは思うのですが、どうしたらいいでしょうか」
私は自分の一番痛いところを指摘されたようでした。張君は、中国からきて言葉も話せないからと、そればかりに目がいって、周りの子どもたちが見えなくなっていたのです。私以上に張君と接する機会の多い、中西君らクラスの子どもたちの苦労がわかっていなかったのでした。お母さんにおわびして、なんとか中西君が元気に学校にくるようにお願いしました。
次の日、私は心配しながら学校へ行きました。中西君は、いつものように朝から元気に運動場で遊んでいました。
私が「ごめんな、中西君、君ばっかり怒って……。張君の相談役、これからも頼むわ」と言うと、中西君はにっこり笑って言いました。
「先生、もうええで。お母さんといっぱい話をしたし。先生の言いたかったことは、張君は、ぼくらと違って言葉がわからないから、ぼくらの十倍、三十倍ぐらい話をせにゃあかんということやろ。じっくり話すということやろ。ぼくらが、ちょっとがまんしたらいいことやな……。あんまり気にせんでええし」
そう言って、また遊びのなかに入って行きました。その後、中西君のお母さんに会ったので、「この前はすいませんでした」と言いました。お母さんは笑って答えられました。
「先生、もう慣れはりましたか。子どもたちも、このごろは普通に遊んでますわ」
一生懸命ということが、ときとして自分の気負いや、他人の目を気にした行動になると、なにをやってもカラ周りするものですね。
落ち着いて、あせらずに……。そんなことを考えさせられた"国際交流"のひとこまでした。】(P.51-53)
他のエピソード同様、このお話も読者として「ええ話やなあ…」と味わっておけばよく、賢しらにコメントなど付けなくてもいいのかもしれませんが…。吉益先生のように優しく人間味ある教師であれば、ここに出てくる張君のように教室での学習で、あるいは日々の生活において困難を抱える子どもに心を砕き、何とか支え助けてあげたいと思うのは当然だと思います。ただその時、そうして特定の子どもを支えようとしている教師の姿をクラスの他の子どもたちがどう見ているか、どう感じているかにも丁寧に目配りをして、「先生がこうして一生懸命この子を支えようとしているのに、どうして君たちはわかってくれないの!」というような、「その子」と「その子以外の子どもたち」を対立的にとらえる図式に陥ってしまってはいけない、ということですね。あくまでも実際のエピソードを読んだ上での後付けの意見ですが。
待っててや、もうちょっと
【子どもによって、一つひとつのことをやっていくのに時間の差があると思うのです。けれども、1年生でも何か早くできたり、「知識」があったりするほど、"賢い"ような風潮があるのです。
早く正確にできるということは大切なことですが、じっくり考え、なぜそうなるのか、どうすればできるかと、試してみることも重要なのです。
一郎君のように、わからないときやできないときは、「待っててや、もうちょっと」とはっきり言うことがとても大切だと思うのです。】(P.55)
【勉強する量が多くなると、どうしても、早くやらないと遅れてしまうというあせりが出てきます。子どもたちも、教師も、お母さんも、お父さんも、何か追いまくられているようになってしまいます。いま、そんなところが1年生の1学期から現れているのです。
いつもいつもというわけにはいかないかもしれませんが、一人ひとりが「わかった」「できた」と言えるような学習を進めていかねばと強く思っています。学校は、間違って賢くなり、失敗してたくましくなるところなのですから。】(P.56)
"たい"の食べ方は?
Ⅱ 育ちあい、学びあいながら
地域の中で育つ子ども
【子どもたちは、表面的に"しきったり"、前面に出ることをきらいます。けれども、本当は、みんなの役に立ちたい、一緒にやりたいという気持ちを持っています。なにかのきっかけで、それが自信となり、出番となると思うのです。それはどこであってもいいのですが、集団が大きくなればなるほど、その影響力も強いと思います。】(P.64)
わが子守る野犬の気迫に……
子どもたちに慕われる魅力溢れる同僚教師のお話。これもまた途中省略はできないので全文を紹介します。
【どの学校にも、子どもたちと会った瞬間から、子どもたちを引きつけるというか、心を解き放つというか、そんなすてきな教師がいるものです。
私の職場の仲間の川口重雄先生もその一人です。
5年生で私と同じ学年を担当したときのことです。川口先生の教室の横を通ると、シーンと静かだったかと思うと大きな笑い声が起こったり、その間(ま)というか、リズムがとても心地よいのです。そして、いつしか子どもたちは、"川やん"という愛称で川口先生を呼ぶようになりました。そうだからといって、子どもたちはけじめがないというのではなく、集中して行事にとりくむし、授業も楽しんでいました。
私はうらやましくてなりませんでした。私は、5年生ということで「高学年なんだから見本になれ」とか「最後までがんばり抜け」という叱咤激励ばかりで、話せば話すほど、子どもたちと心が離れていくようなあせるを感じていたので、わらにもすがるような気持ちで川口先生に相談してみました。
「特別なことはしてないんですよ。肩をはらずに子どもたちと接するようにしています。僕が5年生のころは悪ガキで……だから、子どもたちを見ているとかわいくてね。クラスの子どもたちには、よく自分の小さいときの話をするんです。それと映画が好きなので、授業のときなど関係する話をするんです。よく聞いてくれますよ。でも、まだまだ勉強が足りませんわ」
川口先生は照れながらもそう言って、自分が小学5年生のころの話をしてくれました。
「僕が通っていたのは、久美浜小学校といって、グラウンドのすぐそばに海のある古い学校でした。いまでも忘れられないのですが、給食室を荒らしに野犬がやってくるので退治することにしたんです」
「朝、みんなで作戦を立て、手に弓や棒を持って、野犬を山の頂上に追い込んで行きました。僕らのグループが最初に見つけました。野犬は『ウーッ』と低いうなり声をあげて鋭い目でこっちをにらみつけるのです。その赤あかと光る目をいまでもよく覚えています。僕は、背中がぞくっておして恐ろしくなりました」
「よく見ると、野犬のそばに子犬がいたんですね。野犬は母犬で、子犬を必死に守っていたのです。僕たちは、そのときの母犬の気迫に完全に負けてしまいました。そういうわけか、それから僕は犬が好きになったのです。いまでも不思議ですが……」
この話を聞いたとき、私は、川口先生が子どもたちの心の動きを手にとるように理解する秘密を知ったように思いました。必死に子を守ろうとした野犬の迫力とやさしさに共感し、それから犬が好きになったという-川口先生の人間に対する見方、接し方にも共通しているような感じがしたのです。
子どもたちと接するときも、決して声を荒立てることなく、淡々と話す川口先生。そして、いつも笑い声が絶えないのです。子どもたちに対する温かい目と信頼が、子どもたちの心をとらえて離さないのかもしれません。
私もそうありたいと思います。さらに、川口先生に見習って、意識的に映画を見るようにしました。そして、子どもたちに見てきた映画のことを話すのですが……。
でも、まだ自己満足の域を出ていないようです。】(P.65-67)
あんたとは握手できひん
目標があるとエネルギーになる
心の中で燃えているもの
くさい、くさい、お話
【子どもたちは、怖い話が大好きです。なかでも便所にまつわる話は人気があります。
ときどき、子どもたちに「怖い話だぞ」と言って、"くさい話"をしています。
それは-。私が小学3年生のころのことです。運動会の行進練習が毎日のようにありました。
(中略)
これが、私が、いつも子どもたちに話す「怖い話」なのですが、子どもは笑いこけて聞いています。
私は運動会の練習が始まるたびに、いつも思い出すのです。
子どもたちは、一日のうちに何時間も体育が続いても、必死に、投げ出さずに、練習にとりくみます。ですから、私は、行進でも形だけの美しさにとらわれて、怒鳴りまくるというのは、くれぐれもいましめなければと……。
子どもたち一人ひとりが主人公になるような運動会こそ大切だと思うのです。】(P.77-79)
かっこつけんのやめてえな
【高学年の女子は、さまざまな顔を見せてくれます。グループにかたまったり、男言葉を使ってみたり、男子にベタベタしたり、友だちどうしのトラブルが続発したり。かと思うと、正義感に燃えて急に泣き出したり……。でも、どれも真実の顔なのです。
運動会が終わって、6年生のクラスの女子の動きが、なにかしら気になり始めました。小学校最後の運動会で、あんなにもりあがったのに、その後のクラスの女子の多くは、掃除しない、だるそうにしている、何人かが集まってはヒソヒソ話をするのでした。そんなとき、坂田さんが、こんな日記を書いてきました。
(前略)
私も6年になってから、他人の悪口を、学校でも家でもさかんに言うようになりました。悪口を言うことが、ストレス解消になってるんじゃないかなと思います。私の場合は。それに、グループでなにかをして先生に怒られても、グループだから怖くありません。生活ノート(日記)だったら、ハッキリと書けるんだけど、いざそのときのなったら流されてしまいます。流されるっていうより、ほとんど自分から流されていってるんだけど。なんだか長い迷路の中を歩いているみたいです。-
児童会役員としてクラスだけでなく全校の代表として行動している坂田さんの内面をつづった日記は、女子だけでなく男子も含めて、クラスの多くの共感を呼びました。】(P.80-81)
【私はうれしくなって「表面には見えないけど、みんな同じ思いをもっているんだから、こそこそしないで、お互いの気持ちを出し合って、友だち関係を、もう一度見直してみよう」と訴えました。そして「これからある学年球技大会にがんばるように」と呼びかけたのです。
すると、堀さんのグループに属しているとみられていた鈴木さんが、私に「話がある」と、強い調子で訴えてきました。
「先生、坂田さんの日記だけで、わかったようなこと言ってるけど、私たち、そんな簡単なものとちゃうねん。自分だけわかったような気になってかっこつけんのやめてえな。私たちのことは、私たちで解決するからほっといて」
彼女たちの悩みがわかったように思っていた私にはショックでした。私は言いました。
「確かに、鈴木さんからみたら、かっこつけてるように見えるかもしれんけど。……みんな同じ思いをもっていながら、行動で揺れてるんやから、そこを可能なかぎり率直に出し合って、話して行くことが大事やと思うんやけどな」
鈴木さんは表情を変えずに聞いていました。
それからも女子のごたごたは続いたのですが、前のように、いつまでも長引くということはなくなってきました。】(P.81-82)
最初、前半部分だけを引用しようと思ってたのですが、それではこのエピソードから吉益先生が伝えたかったことをミスリードしてしまうことになると気づき、後半部分を加えました。
短いエピソードから鈴木さんという子のことをよくわかったわけじゃないですけど、一つ私が思うのは、引用後半冒頭の吉益先生の訴えに対して、もしも鈴木さんが「わかったようなこと言って。勝手に言っとれ!」と内心は思いながらも先生に直接怒りを向けなかったとしたら、先生が知らない所で子どもたち同士の関係がもっとこじれていったんじゃないでしょうか。怒りをぶつけるという形ではあれ、鈴木さんには吉益先生に対して「違う思いを持っている子もいるんだと知ってほしい」と、つまりは曲がりくねった形だけど先生に自分たちをわかってほしいと訴える気持ちがあったし、そこではまだ鈴木さんと吉益先生の信頼関係が成立していたということじゃないでしょうか。
やった。できた。ラッキー!
心に残る父の言葉
【父親の口ぐせ、しぐさというのは、いくつになっても覚えているものです。とくにそれが自分にかかわる言葉げあった場合、より鮮明に覚えています。私の場合、いつの間にか自分の子どもたちに語りかける口ぐせのようになっています。
小学生時代の私はなにをやってもドンくさくて、名前の敏文のわりには"ドジフミ"という感じでした。周りの友だちからは、にぶいやつやと思われていました。小学校の通知表の所見欄(先生のひとこと)には、いつも「もっとテキパキできるように」とか、「要領よくできるように」などと書かれていました。
そのたびに父は私に何度も話してくれました。
「要領なんておとなになれば、すぐ覚えられる。あまり気にせんでいいぞ。することが遅くても、おまえのこだわりを大事にしろ。少々、がんこぐらいの方がいいんや」】(P.86)
私の父は、中京区の古美術商に勤める商売人でした。小学校を卒業してすぐ島根県から京都に来て丁稚奉公からのたたき上げ。私が子どもの頃には営業であちこち出張し、日曜もほとんど仕事に出ていて遊んでもらった記憶は少ないのです。時々家にかかってくる得意先からの電話には饒舌と言えるほどの応対をするのに、家族とはほとんど会話しない寡黙な人でした。吉益先生が書いておられるような子どもの人生を励ますメッセージを父からもらった記憶はありません。ただ一度、私が大学院修士課程で納得いく修士論文を書けずに進路にすごく悩んでいた時期に、父は古美術商に私を就職させることができないか本気で考えて同業者を尋ね回ってくれたようです。「修業に十年はかかるぞ」などと言いながら。結局修士論文が審査に合格して私は博士後期課程に進み、父の援助で進路を変える必要はなくなったんですが、この時の父の対応には感謝しています。
わが子がかわいくない親はいない……かどうかは、今の世の中断言はできませんが(^^;)、父親としてわが子を思う思いのあらわれ方は、さまざまなんですね。
やっぱし母さん待つわ
【子どもたちが表す言葉や行動は、表面的には幼稚さ、低劣さを伴うことがあります。確かにそれ自体は問題なのですが、その背景にある、さびしさやつらさを隠すためにそんなふうに表れていることが多いのです。やさしいまなざしや自分に対する信頼を人一倍求めています。子どもたちが投げ出す変化球をどう受け止めるかが大事だと思います。】(P.91)
父母と教師のすてきな関係
歴史の真実を教えたい
【暴力やいじめが話題になると、よく言われることがあります。ファミコンなどのゲーム感覚からくる戦争賛美の風潮です。確かに、そんな一面もありますが、子どもたちは、平和の問題や、地球環境破壊といった大きな課題には、おとなと同じくらい、いやそれ以上に敏感に関心を持っていると思うのです。】(P.95)
【私は、修学旅行に広島に行ったからといって、すべての子どもたちに戦争反対と声高に叫ばせたり、ひとつの結論を押しつけたりするのは戒めねばと考えています。また子どもたちの日常の生活が、戦争や平和について考えたからといって、一変するなどというのはあり得ないはずです。加東さんが話しているように、平和や戦争について考えるきっかけになればいいと思うのです。】(P.97)
親であるのがつらくなるとき
この節もやはり、抜粋では紹介しきれないエピソードなので、全文を。
【わが子が思うように言うことを聞かなくなると、親であることがつらくなるときがあります。同じようにクラスの子どもと心が通じなくなると、教師であることがいやになるときがあります。私はそのたびに、もし、宝くじを買って当たったら、家のローンを全部払って、教師をやめて……などと不謹慎なことをすぐ考えてしまいます。もっとも、やめたからといってすぐ代わりの仕事などないのですが。
子どもたちの人数が増えて、3クラスから4クラスになった4年生を担任したときのことです。クラスが落ち着かず、毎日のようにけんかが起こり、物が失くなりました。私は、朝、起きてもなかなか学校に行く気がしない日が続きました。
なかでも4年生になって転校してきた和田卓也君と話すたびに、胃が痛くなることがたびたびありました。和田君は、自分の気持ちをうまく表現できないために、すぐ暴言をはく、手を出す、人のものはつぶすということが何度もありました。そのたびに和田君を呼んで、話をするのですが、私がしゃべりだすと、甲高い声で「ゴメーン」と言ってふてくされるのでした。
私は、つい声を荒げて言いました。「ゴメン、ゴメンと安売りのバナナのように簡単に言うのはやめろ!」。和田君は、すかさず言い返します。「ゴメンはお金で買えませえ~ん」
ああ言えばこうで、私は話すたびに消耗するのでした。
ある日、和田君が放課後、低学年の子どもからお金を取っていることがわかりました。和田君を話をし、家庭訪問することにしました。私は、日ごろの様子を話そうと思い、意気込んでいました。ところがお母さんは、私の顔を見るなり、涙ぐんでしまいました。
「先生、ご迷惑をかけています。昨日、お電話をいただいて、びっくりして、卓也に聞いてみました。すぐ暴力をふるったり、トラブルを起こしたりするのは、しょっちゅうだったものですから。ことしも転校したので、慣れるまでがたいへんやなあと心配していたのですが……。やっと落ち着いてきたかなあと思っていたら、ひとさまのものを取るなんて」
「もう、この子の親であるのがつらくなりました。卓也と一緒に死にたいと気持ちになりました。でも、それはできひんし、夫とも夜遅くまで話したのですが、この子をまるごと認めていこう。そのうえで、悪いことは悪いときっぱり迫っていこうと。あした、この子と一緒に迷惑をかけた家に謝りに行こうと思っています」
私も思わず言ってしまいました。
「お母さん、きっと卓也君はお母さんたちの気持ちを真っすぐに受け止めると思います。子育ては、失敗の繰り返しやし、私もわが子のことで悩んでばっかりです。でも、子どもの、ちょっと光るところを信頼して、がんばりましょう」
どんなにつらくても親と子は別れられないのだから、正面からぶつかっていこう、というお母さんの言葉は、その場がおさまればいいという私の甘い考えを打ち砕くものでした。
和田君は、その後、一進一退を繰り返しながらも、真剣に私の話を聞いてくれるようになりました。
私は、親と教師がお互いの弱さを認め合い、悩みを共有し合えるならば、子どもたちは真剣にこたえてくれるんだなあと、つくづく思いました。もっとも、私はそうは言いつつ、しんどくなると、いつも宝くじが当たらへんかなあと思っています。】(P.99-100)
本とおんなじやなぁ
おれ、こんなこと初めてや
【「うるさい! だまれ、ボケ!」。ふだんは無口なのですが、いったん怒りだすと捨てぜりふと二、三発の手や足がでるというのが、6年生の圭二君でした。
(中略)
坂田さんは、こんな文を書いてきました。
「『本当の勇気』とは、きょうの太田君や金山君の発言をさしていると思う。暴力で人を自分の子分のようにあつかうのは、よくないことだし、してはいけないことだ。ネコや犬、ブタ、牛などの動物は、暴力でいうことを聞かせるけど、人は言葉をもっている。言葉で相手の心を支配することができる人が、本当のすばらしい人だと思うから……」
圭二君のわがままを気にしながらも、それに対して何もすることができない坂田さんの悔しい気持ちが書いてありました。圭二君は、坂田さんの分を私が読むと、黙って聞いていました。
圭二君は、少しずつ自分の気持ちをコントロールできるようになってきました。でも、相変わらず自分につごうが悪くなると悪態をつくということが続きました。
坂田さんは、そのたびに圭二君に直接は言わないけど、日記やメモに自分の気持ちを書いてきて、圭二君のことを心配してくれました。圭二君も、文にはうまく書けないけど、ぶっきらぼうな言い方で、クラスのみんなに謝ったりするようになりました。
その坂田さんが卒業式と同時にお父さんの仕事のつごうで九州に引っ越すことになりました。私は卒業式が終わったときに言いました。
「坂田さんが、このあと九州に行きます。みんなつごうがついたら駅まできてください」
クラスの多くの子どもたちがきてくれました。でも、あれだけ世話になった圭二君がきていません。よく見てみると、駅の外で、はずかしそうに立っていました。京都駅に行って新幹線のブザーが鳴ったとき、バタバタと音がしたので、ふりむいてみると、圭二君たち数人の男子が走ってくるのです。ギリギリ間に合いました。
「元気でな」。ひとこと、ふたこと、言葉をかわしていました。坂田さんはクラスのみんなに見送られて九州に引っ越していきました。私は、なにか映画のシーンを見ているような感じでした。
圭二君は私に「先生な、おれ、こんなこと初めてや。初めてやで。すごいな。すごいなあ」と何度も話しかけてきました。
人間をまるごととらえることの大切さを改めて教えられた出来事でした。】(P.104-106)
そんな言い方やめろや!
【私は、子どもたちの発言が一つの答えしかない、いつも正解だけというのでは、認識が深まらないと思うのです。
さまざまな考え方や思いが自由に言えること、そしてみんなで一つの真理を確かめていく、そこに学び、わかる喜びがあると思うのです。
「学校は、間違って賢くなり、失敗してたくましくなるんだよ」
そう私が何回も言うので、1年1組の子どもたちは「間違ってもいいやん、間違うのが賢いて、先生が言わはったやんか」と勝手に言っています。
少しずつ、少しずつ、たくさんの子どもたちが大きな声で発言したり、発表したりするようになってきたのですが、「やっぱり、やめとくわ」という口ぐせはなかなかなおりません。】(P.109)
いじめ、家で泣いていた
わが家の自慢料理は
口は悪い子だけれども……
この節も、登場する真理ちゃんのことをきちんと伝えたいので、全文引用します。
【自分の気持ちを正直に表せなくて、ときには、まったく正反対のことを言ったり、人を傷つけることを言ったりする子どもがいます。
4年生の真理ちゃんも、そんな一人です。ときどき男の子も顔まけするくらい「うるさいんじゃ、早くせい」「ごちゃごちゃ言うな」と言って、すごみをきかすので、周りのみんなも敬遠してしまいます。
女子のなかでは「真理ちゃんが、すぐににらみつける」「怖い」と言って、あまり仲間に入れませんでした。そうすると、真理ちゃんは、ますます意地になって、クラスの女子の名前を書いて、「アホ! 死ね」と落書きをするようになりました。すると、真理ちゃんの靴がなくなることが頻繁に起こりました。
4年生でクラス替えということもあったのですが、私は、胃が痛くなるような日々でした。毎朝、学校に行くと真理ちゃんをめぐってけんかが起こっていたからです。
真理ちゃんは、家では、お母さんに赤ちゃんが生まれるというので、落ち着かない日々を送っていました。
真理ちゃんとゆっくり話してみると、お母さんのことをたいへん心配していました。でも、いったん、みんなの前で話し出すと、どうしても口調がきつくなるのでした。
あるとき、真理ちゃんは、こんな日記を書いてきました。
-ゴールデンウイークにおばあちゃんがきてくれた。とてもうれしかった。おばあちゃんは足が得不自由であんまり歩けないから私が支えてあげる。次の日、天神さんへおまいりに行った。なんて言ったかというと「お母さんが元気な赤ちゃんを産みますようにお願いします」と言った。帰る途中、光明寺に行ってお祈りしてきた。
おばあちゃんが帰るとき、見送りをしてすごく悲しかった。だけど、おばあちゃんが、「また、洋二と遊びにくるからね。真理ちゃんは、お母さんの言うことをよく聞いて、手伝いをいっぴしてね」と言ったのがすごく心に残っています。
家に入ると泣いたけど、あくびをしているようにしていた-。
私は、真理ちゃんに、この日記をみんなの前で読むことをすすめました。真理ちゃんも承諾したので、文集にしてクラスで読み合うことにしました。
クラスの子どもたちは、真理ちゃんの日記について、いくつか話してくれました。「おばあちゃん思いのところがよくわかった」「元気な赤ちゃんが生まれるといいね。お母さんのことでお願いしているところがいいです」
次の日、真理ちゃんはうれしそうに私に話しました。「きょうは、みんなが話しかけてくれはったし」。もちろん、それですべてがうまくいったということではありません。でも、真理ちゃんに対する見方が少し変わってきました。
子どもたちは、人より目立ったり、遅れたりすることを極端に恐れます。普通でありたい-そのことを必死でつくろうとしています。ですから、人より違った言動や行動をすると、排除したり、かかわらないようにしたりしてしまうのです。
だからこそ私は、その人の一面だけを見るのではなくて、人間として認めていくことが、いま、とても大切だと考えています。
真理ちゃんは5年生になっても、口の悪さは相変わらずです。「先生、白髪を黒く染めたやろ。似合わへんで」と朝から言うので、私も「べっぴんの口の悪い真理ちゃん、おはよう」と、いつも言い返しています。】(P.116-118)
6年生の子どもたちと九州へ引っ越す坂田さんのお別れのような、吉益先生が「なにか映画のシーンを見ているような」と形容された名場面に出会うことがあるのも、教育実践の醍醐味かもしれませんが、学校生活の日常は多くの場合そのようにドラマチックに展開するわけではなく、子どもたちの変化も一進一退なんでしょうね。ただ上記のエピソードの場合、口汚い言葉で友だちを傷つけることが多かった真理ちゃんが、吉益先生に勧められてみんなの前で日記を読んだことをきっかけに、次の日みんなが「話しかけてくれはった」ことに素直に喜びを表明しています。クラスの友達も、おばあちゃんやお母さんを気遣う《クラスの日常とは違う真理ちゃんの姿》を真理ちゃん自身の言葉から知ったことで、真理ちゃんの受け止め方、真理ちゃんへの働きかけ方が少し変化したんでしょうね。ここではやはり、真理ちゃんに日記を読むよう勧めるという吉益先生の働きかけのすばらしさが光ります。しかし、日常はいっぺんに大きく変化するわけではないわけです。
Ⅲ あせらず、あわてずに
長い人生なんだから
成績ばかり気になって
【子どもたちは無視されることを恐れているのに、自分が安心したいというか、安定したいために、友だちに余計つらくあたったり、のけものにしたりするのです。テストの結果というものが、知らず知らずのうちに人間を決めるもの差しのようになっているのでした。】(P.125)
いやなやつに会った?!
一人で悩まないで
ぼくらに、まかしときや
【子どもたちは、目当てが決まり、信頼してまかせられると、私たちおとなが想像する以上に大きな力を発揮します。そうした経験を積んで、自信が生まれてくるのだと思います。
もっとも私の音楽の時間は、相変わらず声が出なくて、私はいつも冷や汗をかいているのですが……。】(P.134)
ついつい欲しくなって
【ついつい欲しくなってという気持ちから、お金を使いすぎたり、売買に走ったりしてしまう状況はよく起こります。
もちろん、そのことはよくないのですが、人を責めるだけでなく、その行動について、じっくり話し合って解決していくということが大事だと思うのです。こうした積み重ねがものの値打ちや価値を考えるきっかけになると思うのです。
この話し合いをしたとき、私は小学生のころ、鉄腕アトムのシールが欲しくて、チョコレートばかり買おうとして、よくしかられたことを思い出しました。】(P.137)
私は、私たち家族が仙台に住んでいたとき、小学生になったばかりの長男がビックリマンシールほしさにうちで大切に保管していた記念硬貨を持ち出したことを思い出しました。
だいじょうぶじゃなかった
きっとよくなるで。
ネコの死を忘れずに
先生、泣かんとき。
【子どもたちは、直感的に、おとなの顔を見て、調子がいいのか、苦しそうなのかわかるようです。決して口には出しませんが、学年があがるにつれて見事なまでに、親や教師の表情を見て、そのときの気分を見抜いているようです。お互いに本音を出しているときはなおさらです。
6年生を受けもったときのことです。新学期が始まったばかりで、なかなか落ち着かないころでした。私の祖母の具合が悪く、入退院を繰り返していました。そのため、私は学校を休んだり、早引きしたりで、子どもたちに迷惑をかけていました。
私は、子どもたちに祖母のことを話しました。
祖母はいま97歳で、戦争のときは中国にいて、その後、引き揚げ、女でひとつで私の父を育てたこと。母は病弱で、私の小さかったころは、祖母が母親がわりをしてくれたこと。そしてことあるごとに私に「敏君(私のこと)のお父さんは、曲がったことが大きらいな人や。お母さんは、どんなに疲れていても人の悪口やぐちを家族の前では言わない人やで」と話してくれたことを紹介しました。
子どもたちは静かに聞いてくれました。いつの間にか、子どもたちの方から祖母のことを気づかって声をかけてくれるようになりました。
「先生、気をつけて病院行っといで」「おばあちゃん、早く元気になったらいいのにな」など。
しばらくしてクラスの南村さんが「みんなで作ったんだけど、これ、おばあちゃんに」と言って、千羽鶴を渡してくれました。私の知らない間に、子どもたちで相談して折ってくれたのです。私は何度もお礼を言って、病院に持って行きました。けれども祖母は息を引き取ってしまいました。
そのまま通夜・葬式となったので、私は子どもたちに手紙を書きました。
-明治、大正、昭和と日本の歴史の大きな流れのなかで、平凡だけど最後まで自分の考えを曲げずに生き抜いた人でした。病気で入院していても、最後まで「しんどい」「苦しい」ということを言わずに、病気に正面からぶつかっていったと思います。
間違ったことが大きらいで、「おかしいと思ったら、とことん『おかしい』と言いなさい」と言うのが口ぐせでした。
私が病気になると、「日ごろの節制がたりんからや」と、厳しくしかられたことを思い出します。私も祖母の生き方に学んでいきたいと思っています。
祖母のひつぎの中に、みんなが折ってくれた千羽鶴を入れました。それにkこう書き添えました。「おがあちゃん、この鶴は、いま一緒に勉強している子どもたちが心をこめて折ってくれました」
いろいろ、みんなに迷惑をかけました。あすからは気持ちを入れ替えて学校に行きます-。
この手紙は、同じ学年の山田先生に届けたのですが、山田先生は校長に渡し、校長が教室に出向いて、子どもたちの前で読んでくれたのでした。
次の日、学校に行くと、子どもたちの日記が私の机の上に置いてありました。「先生、泣かんとき。悲しいけれど、がんばって。ぼくらは先生の悲しい顔を見るのはいやだから」と書いてありました。
祖母の死というつらい出来事も、子どもたちに励まされて、のりきれたと思っています。もっとも、いくつになっても私は、祖母のような生き方にはほど遠くて、ふらふら迷ってばかりの毎日ですが……。】(P.147-149)
このエピソードも全文を紹介しました。それは私に、似たようなというか、「違う角度からは似たような」というか、そういう思い出があるからです。このエピソードの冒頭の文章を読んでそう思ったのです。私が小学校5年生か6年生の時でした。5・6年の担任は安田先生という男の先生でした。いつも黒板に小さめの整った字で板書される安田先生の様子が、その日は朝から変でした。いつもまっすぐ縦に書かれる板書の字の行が、心なしかゆがんでいるのです。細かくは覚えていないのですが(50数年前のことなので^^;)、その日の安田先生は子どもの目から見ても「心ここにあらず」の感がありました。案の定、3時間目が始まる頃だったでしょうが、安田先生は弟さんがなくなったので、と私たちにつげて早退されました。
安田先生は吉益先生と子どもたちのように、弟さんのことを私たちクラスの子どもたちに告げてはおられなかったし、亡くなられたあとにもクラスで話をしてもらった記憶もありません。小学校生活の最後の2年間をご指導いただいた、尊敬していた先生でしたが、身内の死に際してそのことをクラスの子どもたちに語られることはありませんでした。もちろん先生なりのお考えがあってのことでしょう。
だから、安田先生と吉益先生を比較してものを言おうとしているわけではありません。ただ思うのは、《学校生活もまた実人生である》ということ。教師と子どもたちは学校で出会い、そこで一定期間生活をともにするわけですが、実はその教師と子どもの共同生活には、それぞれの人の個人の生活・人生がつながっているということ。子ども自身が病気や事故で亡くなるというようなショッキングな出来事も起こりうるし、教師もそうですね。あるいは親の転勤その他の事情である子どもが学校生活から去って行くこともあります。吉益先生の例のように、教師の身内に関わる重大事が起こって教師が自らの仕事を一時期中断しなければならないこともあります。
吉益先生が、おばあちゃんの体調がだんだん深刻になって先生の勤務状態にも影響が出るようになったときに、単に子どもたちに迷惑をかけてもうしわけないとわびるだけではなくて、おばあちゃんのことを子どもたちに話されたことに私は共感しました。たぶん一般論としてはここは判断の分かれ目だと思います。学校では教師は子どもや家庭にかかわることの守秘義務に神経をとがらせています。その意味では、教師自身も自分のプライベートな生活について子どもや親に語らなければならない謂われはない、という判断をすれば、それを責める人はいないかもしれません。しかし私の推測するところ、日々の子どもたちとの関わり、触れ合いの中で時として自分自身の幼少期を思い出してそれを重ねながらいまの子どもたちに接するということをされている吉益先生ですから、まもなく命を終えようとしている自分のおばあちゃんのことは、目の前の子どもたちとは関係がないとは決して思われなかったんじゃないでしょうか。そして子どもたちも話を聞くことで、これまで知らなかった吉益先生の生活のことを知り、またもしかしたら自分のおばあちゃんのことに思いを馳せた子もいたかもしれませんね。
葬儀を終えて出勤した吉益先生への、子どもたちの「先生、泣かんとき。悲しいけれど、がんばって。ぼくらは先生の悲しい顔を見るのはいやだから」というメッセージ。とてもいいですね!大人だったらなかなか言えないと思いますよ。「ご愁傷様でした」「お力落としのありませんように」など、詳しい事情を知らなければなおのこと、当事者を傷つけないようにとの配慮から一般的な弔辞しか述べられないと思います。「泣かんとき」「悲しい顔を見るのはいや」というのは、叱咤激励の言葉です。子どもたちが先生を叱咤激励するという構図自体がすばらしいと思うし、「悲しいとは思うけど元気出して僕たちとの学校生活に戻ってよ」というメッセージは、第三者の私が言うのはおこがましいけれど、教師冥利に尽きる言葉じゃないでしょうか。学校の日常にはいろいろあるにせよ、ここには先生と子どもたちの信頼関係がピュアな形で表れていると私は思いました。
生まれてきてよかった
この節も私の主要な研究関心である性の学びに関するエピソードですので、全文引用します。
【子どもたちも、おとなである私たちも、自分が周りの人たちから愛されていると思うとき、ホッと安心するのではないでしょうか。子どもたちにとっては身近なおとな、両親、先生に自分を大事にしてもらっているという実感がもてたとき、自分というものをリアルに見つめたり、好きになったりすると思うのです。
2年生で性教育をしたときのことです。男の子と女の子と違いについて学習しました。そのあと、私が子どもたちに、お父さん、お母さんからのわが子にあてた手紙を読みました。その一つ、ひろみちゃんのお母さんのメッセージです。
-健康な体で生まれてきてくれてありがとう。ひろみが生まれたとき、お母さんは仕事を辞めようと思いました。一日中、ひろみと一緒にいたかったから。でも、やっぱり続けることになり、ひろみは保育所にいくことになりました。ときどき熱を出したけど、すぐに元気に笑って、おかあさんを安心させてくれました。ひろみが元気でいてくれたおかげで、お母さんもがんばって仕事ができてます。
いっぱい甘えさせてやれないけど、これからも健康でいろいろなことを体験して大きくなってください。元気が一番です。たくましくなりました-。
ひろみちゃんのお母さんの手紙と合わせて、あと数人のお母さんのメッセージを紹介しました。子どもたちは静かに聞いて、読むたびに、うれしそうに拍手してくれました。そのあと赤ちゃんのもとになる話を勉強し、次に自分が生まれたときの様子を子どもたちに発表してもらいました。
「ぼくが生まれるときは、お母さんの体の調子が悪くて、生まれるまで心配していたそうです」
「私の名前がどうして決まったか、教えてもらいました」
みんな得意そうに報告してくれました。授業が終わったあと、子どもたちに感想を書いてもらいました。
こうじ君は-。「体に、こんなたくさんだいじなところがあるなんてしらなかった」
秋子さんは-。「赤ちゃんのいちばんはじめは、たまごだということがわかりました。おかあさんは、私が生まれたときは、うれしくてなみだをながしたそうです。小さいときは、よくびょうきをして、ないていたそうです」
祐太君は-。「おかあさんのおなかのなかで、しんでしまうときもあるときいて、びっくりした。でもぼくは、しんでしまわなくて、げんきにでてきたんだなと思った」
有紀ちゃんは-。「お母さんから三人しまいのなかで、私がいちばんおなかにいたときから生まれるのが、らくだったときいたので、あらためて、生まれるまでがたいへんだとおもいました」
ちょうどその授業のときは参観日だったので、お母さんが連絡帳に感想を書いてきてくれました。
-私たちの子どものころは、性教育の授業がなかったのでたいへん勉強になりました。子どもたちが必死で考えて発言しているのがほほえましかったです。わが子の誕生を思い出してしまいました-。
私は性教育の授業は、それぞれ学年ごとに課題があるので方法は吟味が必要ですが、一人ひとり生い立ちはさまざまであっても、かけがえのない自分、大切な自分であるということに気づくきっかけになると思っています。
自分が周りの人たちから愛されているという思いがあって初めて、生まれてきてほかったという思いが強くなるのです。】(P.150-152)
第6期小学校学習指導要領(1989告示、1992全面実施)では4学年体育(保健分野)で二次性徴を、5学年理科でヒトの誕生を取り上げることになり、マスコミは「性教育元年」ともてはやしました。しかし学習指導要領は、思春期突入以前の低学年期では性の学習を位置づけていませんでした。低学年社会科と理科を廃止して新設された生活科では、2学年の終わりに生まれてから現在までの成長過程をふり返る学習が位置づけられていましたが、そこには受精から出生までの胎児の成長過程は位置づけられていませんでした。上記エピソードで吉益先生の授業の内容は詳しく書かれていませんが、子どもたちやお母さんの感想からおなかの中の赤ちゃんのことが取り上げられていたことがわかります。
吉益先生の2年生対象の授業が第8期学習指導要領の全面実施前のものか実施後のものかなど詳細はわかりませんが、いずれにしても低学年の学習としては画期的なものだっただろうと思います。
子どもと共有しながら学ぶ
【文学教育は、人間の生き方を学ぶ学習だともいわれています。
授業は、子どもたち一人ひとりの思いが十分に語られ、それを教師が交通整理していくこと。そのなかで真理や真実を、教師の結論を押しつけるのでなく、文学体験を共有しながら学んでいくのだと思っています。
毎日が後悔の連続で、充実した授業といういのは、なかなかつくれないものですが、あせらずに子どもたちと毎日の営みを続けていきたいと思います。】(P.155)
たくましくなったな
この節も、中井君の《(大人から見て)新鮮ないきいきさ》とでもいうべきものを一部カットによって損なってしまわないために、全文引用とします。
【入学したばかりの1年生、浮き浮きしていて、張り切っています。でも、初めてのことで戸惑いや不安もあって、疲れることもたくさんあります。
けれども1年たつと、目を見張るように大きく、たくましく、賢くなっていきます。
1年最後の参観日のときです。学習発表会をしました。1年間を振り返って一番心に残っていることを発表してもらいました。
中井君は「ぼくははしりで二位になりました。初めてのことでうれしかったです」と元気よく言いました。
私は、中井君の発表を聞いて、運動会のときに書いた作文を思い出しました。
-はしりのときに2とうになって5てんのカードをもらってよかったです。だからいえにかえって おちゃをのんで つかれをとってから またはしるのをれんしゅうしました。また はしりたくなって あと1しゅうはしりました。でも もっとはしりたくて まだまだはしりたくて もっとはしりました。ひゃっかいはしりそうになりました。だから またまたはしりました。
つかれたので いっかいやすみました。それから またはしりました。かわらこうえんへいっても はしりました。また10しゅうはしりました。
うちにかえっても また おちゃをのんでから ともだちのいえであそんでかえって ばんごはんをたべました。そして2かいにあがってねました-。
中井君はとってもうれしいのです。私たちおとなであればとてもやらないことを、喜んで何周も走っているのです。
当日の学習発表会は、子どもたちの司会で進めていきました。中井君のお母さんは、こんな感想を寄せてくれました。
-自分たちで司会もやっていくということでしたので、だいじょうぶだろうかという思いが、初めはありました。ところが、始まってみると、子どもたちが次つぎと種目をこなしていき、頼もしい姿を見せてくれました。どの子の笑顔も、ちょっと得意げな表情も、テレた姿も、どれも1年で得た力だと感じました。
息子からは、発表会までの役決めのときの話、当日の舞台裏の話も聞かせてもらい、三倍楽しませてもらいました-。
私たちは、子どもたちを見て、子どもらしい姿に目を細めたり、子どもたちの、一途さに感動します。それは、子どもらしさのなかに、おとなが追求しようとしている、本当の意味の人間性を見いだすからではないでしょうか。
私たちは、ふたたび子どもになることはできませんが、子どもたちの純粋さ、素朴さを見つめることで、自分を磨いていくことができます。
私はよく言うのですが、「目の前の子どもたちのことでわからなくなったら、自分自身の子ども時代を振り返ってみて」と。そうすることで、自分の子ども時代より、すばらしいいまの子どもたちを発見できることにつながるからです。もちろん、いまの子どもが持つ課題や欠点も明らかになりますが……。
中井君を見ていて、そんなことを考えました。】(P.156-158)
中井君の作文、愉快ですねえ。2位になれたのがよほどうれしかったんでしょうね。それで、家に帰って休憩していてから走った・あと1周走った・もっと走りたくて走った・100回走りそうになった・また走った・一回休んでまた走った・公園でも10周走った。いったい何回、何周走ったんでしょう。「うちにかえっても また」…走ったのかと思ったら、友だちと遊んで、ごはんを食べて寝たんですね。もう十分に走りを楽しんだのでしょう。走ることの楽しさを思う存分味わっている中井君の姿が目に浮かぶような、愉快なほほえましい作文です。
「子どもたちの純粋さ、素朴さを見つめることで、自分を磨いていくことができます。」という吉益先生の言葉、素敵です。こう考える大人が一人でもふえてほしいです。
つらくなると思い出す言葉
あとがき
【教師になったら結果だけみないで、悩みや取り組みの過程を大切にして子どもたちに接していこうと思っていたのに、しらずしらずのうちに、周りの人たちの自分に対する評価を気にしながら行動するようになりました。】(P.163)
【子どもたちの、ちょっとした表情やしぐさの裏にある思い、父母の言葉の奥にある願いが何であるかを仲間と少しずつ考えていくうちに、人間・教師としてちょっとずつ、一人前にしてもらっているのではないかと最近考えるようになりました。】(P.164)
【この本のタイトルは、少しはずかしいのですが、父母・教師・子どもたちが悩みをだしあい、共感しあうなかで、ちょっとでも前へ進めるようにと思って考えてみました。実際にはなかなかうまくいかないことが多いですが……。】(P.164)
さて、私がここ何年もの間、主に京都教科研の活動を通じて日頃から学ばせていただいている吉益先生の実践記録について、その「学ばせていただいている」という思いをより深めたいという気持ちを大事にしながら、抜き書きノートを作ってきました。
終わってみて、当たり前のことながら、読者の方々には吉益先生の本書そのものを私の余計な抜粋やコメントを抜きにじっくり読み味わっていただく方がよほどよい、という思いを強くします。ですから、この長い文章は結局は、吉益先生の実践やご著書の紹介ではなくて、その作業を借りての私の「自分語り」なんです。吉益先生が書かれたものを紹介しながら自分を語っているわけなので、この作業全体を「自己満足」と言ってしまうと吉益先生に大変失礼なのですが、しかしそういう思いはあります。ただ、自分としては本書を読み返し、書き写すことで「吉益ワールド」に十分浸ることができたという満足感があります。その「吉益ワールド」は、いまを遡ること27年前のものではありますが、私が存じ上げている現在の吉益先生の実像とギャップはないと感じます。
本書の記述を抜粋するときにどんな箇所を選んだか振り返ってみると、一つにはリアルな子どもたちの姿や吉益先生の子どもたちへの働きかけ、関わりの描写が私の心に心にズンと響いた部分を取り上げています。しかし、抜粋しようとして改めて読み直すと、一部分を全体から切り離して紹介することで、吉益先生が伝えようとされている大切なものを洗い流してしまわないかという懸念を感じました、ですからいくつかの節は、抜粋でなく全文を紹介しました。
また抜粋したもう一つのターゲットは、吉益先生が自ら実践の経験をある程度一般化して読者に伝えようとされている部分でした。しかしこれについても、その一般化された部分だけを抜粋して取り上げると、そうした認識に行きつかれるまでの吉益先生の模索や苦闘の部分を洗い流してしまうというためらいがありました。それでも一般性を持つと考えられる言説については、その基礎にある具体的な学校生活の生々しい記述を敢えて割愛して結論部分だけ引っ張ってきた部分もあります。そうしないと、あれもこれもと考えると結局本書をまるまる全部書き写すことになりかねないと思ったからです。
最初に紹介したように本書は「赤旗」日曜版紙上での吉益先生の連載を再構成して刊行されたものであり、一話完結の短いエピソード群を綴っていく形式の本です。刊行時点で40代前半であった吉益先生の小学校教師としての編年史的な実践記録ではないし、中堅教師の年代におられた吉益先生の、教科の授業実践とか生活綴方とか子どもたちとの関わりや学級集団づくりとか親との交流・共同などを分野別にまとめた実践書でもありません。第三者の読者の私がおこがましく評させていただくとすれば、教師としての子どもたちや親との日常を、吉益先生自身の幼少期、恩師、家族とのエピソードを織り交ぜながら語ったエッセイ集、戸惑い失敗もしながら模索してきた「教師としてのつれづれ」を描いた日誌風記録、ということにでもなるでしょうか。とにかく、学ばせていただくところのすごく多い本であり、にもかかわらずこれだけ長くノートを書いてきても自分が本書から学んだことを十分に文字化できていないんじゃないかという自分に対する不満が残ります。
最後に、一つ感想を述べてこのノートを閉じます。
これまでの記述で、本書の文章を抜粋した部分の一部を黄色網掛けで表示しました。その部分だけを改めて抜粋します。
【娘はもう高校生です。いまも「お父さん、あのときは寝てたんやろう」と、ニヤニヤしながら言います。私がいつも居眠りをするのを見抜いていたのです。】(P.14)
【私は、はやる気持ちが出てくると、"ぼちぼちや"と心の中で繰り返して、子どもたちと話しています。】(P.26)
【以来、教室に行くときは、毎日、鏡を見て、自分の顔の表情を整えるようにしているのですが、教室に行くと、いつの間にやら忘れてしまって……そんな毎日です。】(P.35)
【私もそうありたいと思います。さらに、川口先生に見習って、意識的に映画を見るようにしました。そして、子どもたちに見てきた映画のことを話すのですが……。
でも、まだ自己満足の域を出ていないようです。】(P.65-67)
【私は、親と教師がお互いの弱さを認め合い、悩みを共有し合えるならば、子どもたちは真剣にこたえてくれるんだなあと、つくづく思いました。もっとも、私はそうは言いつつ、しんどくなると、いつも宝くじが当たらへんかなあと思っています。】(P.99-100)
【もっとも私の音楽の時間は、相変わらず声が出なくて、私はいつも冷や汗をかいているのですが……。】(P.134)
【この話し合いをしたとき、私は小学生のころ、鉄腕アトムのシールが欲しくて、チョコレートばかり買おうとして、よくしかられたことを思い出しました。】(P.137)
【毎日が後悔の連続で、充実した授業といういのは、なかなかつくれないものですが、あせらずに子どもたちと毎日の営みを続けていきたいと思います。】(P.155)
本書を通読中に私は、「ははあ、吉益先生はいつも最後はこういう《謙遜言葉》でエピソードを締め括られるのか」と思ったりしました、それは全くの私の早とちりで、全51話のエピソードはそれぞれに多様な締め括られ方をしています。ただそのうちの8話は、上記引用のように《謙遜言葉》で締め括られています。
吉益先生が、子どもの捉え方や、授業実践の進め方や、子ども・親との関係の作り方をつくりあげていくことに必要な「確かな目」をお持ちであることは、本書の内容からも明らかです。先生が本書を刊行された意図の中には、専門的知見の獲得や実践経験の蓄積の中で確かめられた子どもの捉え方、教師のあり方について、広く社会的に提起したいという意図もあるであろうと私は推察します。しかしそうしたいわゆる《ベテラン教師の知見》を伝える際に、吉益先生は正しいと考える見方・考え方をきちんと呈示されると同時に、《自分も試行錯誤の中でようやくこのような見方にたどりついたのだ》とか、《これが正しいと考えて行動するようにしているが、いつもいつもそうできるわけではない》とか、《最初から何が正しいかわかっていたんじゃなく、失敗をくり返しながらようやく見えてきたものがあるんだ》とか、《いつもいつも、正しいと信じた方向に向かって行動できているわけじゃないんだ》とか、そういう、何て言うんでしょうねえ、但し書きというのか、留保というのか、そういう言辞を添えられるという特徴があります。そのことを上で《謙遜言葉》という造語で表現しました。
いま《謙遜言葉》と書きましたが、ぴったりの表現ではないと自分ながら思います。つまり、教師が教育実践に関わってある主張をするときに、これまでの実践経験から自分はその主張に自信を持っているけれども断定的に述べてしまうと聞く人に反発されるから、「私の未熟な経験の範囲では」とか「私の経験が当てはまらない事例もあるとは思いますが」というように《へりくだって》述べる。《謙遜言葉》はそういうニュアンスを読者に与えかねないけれども、私が吉益敏文先生について述べようとしていることはそういうことではありません。
さまざまな試行錯誤を重ねながらも教師という仕事にはある局面で決断をして行動しなけれならないことも多々あるからもちろん吉益先生もそうされてきたけれども、その決断について思慮が足りなかったのではないかとか、感情にまかせてしまったのではないかと、後から反省をされる。下した決断とその結果は覆すことはできないけれども、その反省に立って今後に向けてよりよい判断と行動を模索されている、というようなことでしょうか。違う言い方をすると教師としての実践の道行きを一直線的ではなく行きつ戻りつ、あるい複眼的に捉えるというのでしょうか、それらは対人的な《謙遜》というようなシンプルなものではないと思います。
そういうある意味《ぐずぐず(失礼な言い方ですが^^;)している》自らの実践についての判断-実行-総括の繰り返しの営みと、目の前の子どもたち、親たちが何かを訴えかけ、働きかけてきたときの吉益先生の咄嗟の対応は、どこかでプラスの結びつきを持っているのではないか、というのが私が最後に述べたい仮説です。クラスの子どもに、自分の息子さんに、どうしてこういう話をしたのか。吉益先生自身も(少なくとも本書の中では)自己分析されていないこの「咄嗟の対応」を掘り下げていくと、何か宝が発見できるのではないかと、私は勝手に期待しています。もっともこの意見は、27年前の本書公刊当時にこそ教育学研究者として提起すべきことでしたが……。
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