29 教育学文献学習ノート(32)吉益敏文「生活綴方を実践する教師の『まじめさ』に関する考察――5人の教師の聞き取りから――」 (武庫川臨床教育学会『臨床教育学論集』第14号 )

 

 

  私は、4年前に京都へ戻る少し前から参加させていただいている京都教育科学研究会で、吉益敏文先生ごいっしょさせていただいています。この「教育学文献学習ノート」の(30)では、昨年12月の京都教科研・関西教科研合同研究会での吉益先生のご講演を前にして、『子ども、親、教師すてきなハーモニー』(1995)について書かせていただきました。また、過去にfacebookに投稿してブログに未収録だった以下の2つの投稿を、【アーカイブ】として本ブログに新たに収録しました。

●【アーカイブ 09】教育学文献学習ノート(8)吉益敏文「教職志望の学生がもつ『子ども理解』概念についての考察-大学生の授業感想をもとに-」(2018)/「人間発達援助職としての教師論の考察(1)-勝田守一の教師論に着目して-」(2020)
●【アーカイブ 10】 教育学文献学習ノート(9)吉益敏文・山﨑隆夫・花城詩・齋藤修・篠崎純子『学級崩壊 荒れる子どもは何を求めているのか』(高文研)

 今年に入って、吉益先生から新たに今回取り上げる論文をご恵贈いただきました。その際の吉益先生の添え書きに、以下のように述べられていました。

【2年前に『人間発達援助職としての教師論の考察』(1)勝田守一の教師論に着目して-を研究ノートとしてまとめました。今回の研究ノートは私自身は人間発達援助職の教師論(2)にあたるものと考えています。ただ人間発達援助職の教師論の概念や定義を明確に展開したものではありません。勝田守一が注目した恵那の教師たちの生き方、とりわけ生活綴方教師の「まじめさ」にしぼって考えてみました。その方法として5人の年齢の異なる教師、生活綴方を実践の中核に据えた人たちから聞き取りを行いました。聞き取りに協力していただいた方にあらためて感謝いたします。

 今日の時代に「子どもとともに生きる教育実践」とはどういうことなのか。
「まじめさ」とは何に対して大切なのか。私は勝田守一の論文からなぜ恵那の教師たちが安易に戦後の新教育になじまなかったのかという問いをもちました。勝田は恵那の教師たちの「負い目」に注目したのではないか、その「負い目」とは何なのかなどを考えてみました。さらには「子どもとともに生きる」という思想はどういうものなのか、いくつかの問いがうまれました。私は「まじめさ」とは無批判に権力に迎合することではないと思っています。ただ、全てをこの研究ノートで解明したとはいえません。さらに新たな問いが生まれてきました。遅々たる歩みでかなりの時間を費やして一定の問題提起としてまとめをすることができました。今後も研鑽を続けていきたいと思います。】

 これから検討しようとしている論文の全体像が簡潔に示され、そこに込められた吉益氏の思いもよくわかる文章です。これは論文本文ではないので、論文が収録された武庫川臨床教育学会『臨床教育学論集』で本論文を読む人の目に触れることはないわけですが、吉益氏が論文抜刷を送付された人びと全員に向けて書かれた文章ですので、ある程度公的性格があるものと考えてここに引用させていただきました。

 本論文の構成は以下の通りです。

問題意識と問題設定
第1章 5人の教師の語りと聞き取り
 第1節 表現しない子どもの思いを大切にして -鹿島和夫氏の聞き取りから
 第2節 子どもの前で謙虚に -西條昭男氏からの聞き取り
 第3節 学ぶことを大切にして -C氏の語りと聞き取り
 第4節 文集を作り読みあって -D氏の語りと聞き取り
 第5節 書く事・読みあうこと -E氏の語りと聞き取り
第2章 5人の語りから明らかになったこと
第3章 教師のまじめさ
終章 現代に活かす視点



問題意識と問題設定
 先に引用した本論文進呈者への添え書きと重複する部分はあるのですが、本論文の根幹に関わる部分ですので、この項目の全文を紹介します。

【今回の研究ノートで筆者は、勝田の生活綴方の思想に学び、子どもと共に生きる教育実践をめざした教師の生き方について考察した。5人の生活綴方を実践する教師の語りから教師の「まじめさ」についてまとめてみた。戦前、ほとんどの教師は「皇国教育」にすすんで貢献した。恵那の教師も、それに劣らず「皇国教育」にしたがった。このように恵那の教師は国家の教育要求に誠実に応じたが、しかし、同時に、子どもと地域の人びとの方を向くことを忘れず、その教育要求に応える姿勢を持っていた。すなわち、「子どもとともに生きる」というまじめさに注目したのである。子どもとともに生きるという「まじめさ」こそが、恵那の教師に皇国教育に従ってしまった自らの生き方を反省させ、きびしい自己批判に向かわせ、教師としての自己変革につながっていった、と勝田は考えた。勝田は恵那の教師の「まじめさ」に注目し、戦後、生活綴方教師として成長して行くその思想的根拠を探り出していった。
 勝田は生活綴方教育実践の特徴について次のように書いた。

1、子どもは、表現によって生活を直視し、自らの感情のしこりをときほぐすことができる。
2、教師と子どもの間には、たえず、指導と書き直しの作業がくりかえされる。その過程の中で、お互いの共同性をつくりあげることができる。
3、子どもの表現活動は教師への信頼を前提とする。と同時に、その信頼をさらに深めることができる。

                                        勝田守一1952年「子どもの幸福をまもる教師たち」 著作集第3巻p18
 勝田が恵那の教師たちから学んだ生活綴方の思想である。勝田のこの見解を大切にして、筆者は、以下で、5人の教師の「まじめさ」に注目し、彼らの生活綴方に対する語りを紹介する。】
(P.73-74) 

 ここで、本論文のバックボーンをなしている(従ってこの「学習ノート」の最後にもう一度取り上げたいと思っている)教師の「まじめさ」、もっと具体的に書けば【勝田の――言う:佐藤註――恵那の教師の『まじめさ』】について、本論文の中心部分の検討に先立って取り上げておきたいと思います。
 まず、吉益氏が紹介されている勝田の原著から、該当する部分をやや長くなりますが紹介します(下線は引用者)。

 【恵那郡の教育は、戦時中は、きわめて誠実な「皇国教育」であった。悪夢のような戦時中の教育の中で、二つの態度を大きく区別することができる。一つは、あの教育に迎合した態度とそれを国民大衆の運命のために、誠実になしとげようとした態度とである。後者は誠実であった。これを無知からというのはあやまりではないだろうけれども、それだけに問題はつきないのである。そこには国民の運命とともに生きようとした誠実な精神と努力があった。綴方教師のひとり、恵那郡教育研究所の林鉦三氏は当時を回想したその手記の中で「今までやっていたような教科の指導などそれ程重要ではなくて、時局教育こそ努力の中心であるべきだと思った。もっと直接戦列に加わっていることを意識することがしたいという焦燥があった。」といっている。これは、日本のまじめな庶民の思いであった。恵那は、古い意識と人間関係の支配し続けて来た地方である。黙々として、命令を忠実に守る兵隊を生み出した土地である。この庶民の思いは、無知によってあやまられていたと、あとから批判することは容易であるが、この誠実な思いは敗戦を契機として、かえって直視への道を開かせた当のものであった。
 氏の手記はさらに続けている。人びとが「敗戦になると軍閥にだまされていたのだといい、軍隊のこと戦時中のことを悪しざまにいうのを聞くと何とも言えない不快なものを感じた」恵那のすぐれた教師たちが、戦後の官製の近代化教育に対して、不信を抱き、「新」教育の単なる合理化の運動に同感を示さなかった理由はここにある、といってはいいすぎだろうか。ともかくも、恵那には、戦後はじめから、「新」教育の形式への熱狂は見られなかった。これは無力と怠惰とが生んだ無風状態ではない。むしろ、もっと真実の「新」教育が求められたのである。それは日本の庶民の生活に根ざし、庶民の生活の解放のための、教育であった。こうして、綴方教育によって恵那の誠実な教師たちは立ちあがったのではなかろうか。私たちは、日本の古いものの新しさ、新しいものの古さという、この重大な問題に、ここでもつき当たらざるを得ないのである。】
(勝田守一「子どもの幸福をまもる教師たち」(1952)『勝田守一著作集3 教育研究運動と教師』所収 国土社 1972 P.21-22)

  本論文の終章で吉益氏が言及している佐藤広美『戦後教育学と戦争体験』(2021)は、勝田の上記引用部分に関して次のように述べています(下線は引用者)。

【「子どもを愛し、理解する」。恵那の生活綴方教師の意義を論じる「子どもの幸福をまもる教師たち」(『教育』1952 年8月)で勝田は、恵那の生活綴方教師における「誠実さ」に焦点をあて、皇国教育への忠誠と、戦後における民主教育への踏みだしの関連を論じている。
 戦時中、恵那の教育は典型的な「皇国教育」であったとしつつ、そこには二つの区別が必要であったとする。ひとつは皇国教育に迎合した態度、もうひとつは、教育を国民大衆の運命のために、誠実になしとげようとした態度という二つであった。「そこには国民の運命とともに生きようとした誠実な精神と努力があった」。勝田は、恵那の皇国教育のなかに教師の「誠実な精神と努力」の存在を指摘する。皇国教育は教師の「無知」が大きな原因であったが、戦後の恵那における生活綴方教育を捉えるためには、教師が無知であったという事実の反省を考えるとともに、恵那の教師にはもともと国民のほうを向いてともに生きようとした「誠実な精神と努力」が存在したこと、それと恵那の教育との関連を考えてみることが重要だとのべた。恵那は、黙々として命令を忠実,に守る兵隊を生み出した土地であるが、この教師の誠実な努力は敗戦を契機として反省をよび起こし、かえって現実直視への道を開かせたのであったという。
 恵那には、技術主義に走り現実直視を怠る新教育への熱狂は見られなかったとのべる。それは恵那の民衆が生活に根ざし、生活の解放のための教育を求めることができたからだとする。それは、恵那の教師の「誠実さ」が可能にさせたものだという。
 では、教師らの誠実さとは具体的に何を指すのか。それが「子どもとともに生きる」ということである
 「変革される教師像-林鉦三氏の実践が教えるもの」(『教育』1953年3月)で勝田は、戦前教師の「まじめさ」を論じ、その「まじめさ」はまず国家に向けられていたという。日本帝国の忠良な臣民を形成するというまじめさ。国体の神聖に対する心からの信仰と服従、したがって、批判的な精神と眼は許されなかった。順良・信愛・威重という師範学校の理念は、深く浸透した。「順良は卑屈になり、信愛は意気地なしとなり、威重は官僚主義と面従腹背となった」。
 しかし勝田は、恵那の教師のまじめさは、一方で、もうひとつ別の方向を向いていたという。
それは「子どもとともに生きる」ことであった。教師は子どもへの愛情深い献身を行ってきた。「どんな社会のもとえも、教師や子どもとともに生きてきた」。「この教師の本質的なあり方は、かれのまじめさを独特のものとする」。これが理想の教師像でもあり、これこそが第一の「教師の資格」でもあった。そして、この「視角」を貫こうとするとき、教師はしばしば重大な矛盾に突き当たる。第一に求められた、国家による支配要求との矛盾である。
 戦後、生活綴方教師はこの矛盾に突き当たり、「負目」を感じ、そして「社会と歴史とに眼を向ける」ことができたのではなかったか。子どもへの献身的な生き方は国家への忠誠と矛盾することになり、教師としての「負い目」を自覚するようになる。「この負目の自覚は、教師の純粋さとまじめさから生まれると私は固く信じている」「このまじめさなしに、自己改造は絶対にあり得ない」。このまじめさを根底におかなければ、自己批判は「捨てる自己は変革されず、所有されたものが身を離れるだけ」になってしまう。勝田はこのように考えた。子どもとともに生きるという倫理的価値を根底においてこそ、戦前の自らの国家への忠誠を自己批判し、そうして、平和と民主主義という新しい価値を担う自己再生をはたすことができる。これが勝田の確信であった。
(佐藤広美『戦後教育学と戦争体験 戦後教育思想史研究のために』  大月書店 2021年 第1部教育科学研究会の再建と戦後教育学-勝田守一の教育学を中心に第3章戦後教育学における「倫理的な問い」-1950年代の『教育』と勝田守一 P.70-72) 

 『教育』誌のNo.913(2022.2)「[特別企画]教科研再建70周年・教育的価値と教育実践」では、佐藤広美氏と佐貫浩氏の論文が掲載されました。
 佐藤広美論文「勝田守一と『教育的価値』論」では、上記引用と同様の論点について再度以下のように述べています。(下線は引用者)

【勝田は、(中略)『教育』の再創刊号で「教育の倫理的支柱」(1951年)を論じ、侵略戦争に荷担した教師がどのようにして平和と民主主義を理念とする教育を担いうるのかを問い、それを可能とする根拠はかつて教師がもちえた倫理観であるとした。その倫理観を所持する典型的な存在を勝田は恵那の生活綴方教師に見出した(「子どもたちの幸福をまもる教師たち」1952年、「変革される教師像」1953年)。教育実践と子ども理解を深めようとした生活綴方教師における倫理観への注目である。
「(生活綴方教師の一人林鉦三さん)をして社会と歴史とに眼を向けさせたのは、この負い((ママ))目ではなかったかと思う。この負目の自覚は、教師の純粋さとまじめさから生まれると私は固く信じている。子どもへの責任は、まず自己への鞭となり、鞭はどうしても自己変革を貫徹させないではおかないであろう。」「それは『民主教育』を上から与えられたものとして受け取ることを拒否させた。新教育は、恵那の地では、流行にはならなかった。古い日本の教育に対する克服は自己自身の厳しい批判を通過することなに((ママ))しに行われなかった。そこでは、古いものが古いというだけで、やぶれ草履のように捨てられることはなかった。そのようなことでは捨てる自己は変革されず、所有されたものが身を離れるだけである。」
 勝田は、恵那の教師は、戦前「子どもたちとともに生きる」という誠実さとまじめさを身につけており、それ故にこそ戦後社会的関心を獲得することで自己批判と批判変革を可能にしたと述べた。】
(佐藤広美「勝田守一と『教育的価値』論」 『教育』No.913 P.58-59)

 一方、佐貫浩論文「戦後教育学と『教育的価値論』」では、同じ論点について次のように述べています(下線は引用者)。

【勝田は、「子どものために」という「アプリオリ」な「まじめさ」を両義的な性格において把握し、戦時体制下でも「教師は子どもとともに生きていた」とあえて述べ、その下で多くの教師は、「その愛情と使命とを貫ぬ」いて、「国策遂行のための教化の役割」を担っていたと指摘する。そして戦後、その「まじめさ」が、平和と民主主義の教育への熱意に組みかえられるためには、厳しい戦争反省、戦争に対する科学的認識、教員組合運動などを通した民主主義の体験の獲得、「日本の歴史的課題」の把握、教育実践による検証などが不可欠だとした。「子どもとともに生きよう」とする「まじめさ」の構えが、直ちに教育的価値に繋がるものではなく、時として支配の論理にすら囚われてしまう危うさをもつととらえていた(「変革される教師像」『勝田守一著作集第3巻』29,30頁)。この留意は、継承すべきものであろう。】(佐貫浩「戦後教育学と『教育的価値論』」 『教育』No.913 P.64)

 佐藤広美氏と佐貫浩氏は、ともに勝田が捉えようとした恵那の教師の「まじめさ」、その戦前と戦後ということに注目しながらも、その評価には微妙な違いがあります。この件については教育科学研究会内での両論者のさらに立ち入った議論も行なわれていると聞きますが、私自身が勝田守一から深く学びたい思いは持ちつつも、この件に関しては吉益氏、佐藤広美氏、佐貫氏があげておられる勝田の文献を多少学習してみた程度の理解ですので、これ以上は立ち入らないことにします。
 ただ、本論文のこの後の検討とも関わることとして、もう一件だけ引用させて下さい。それは、前述の佐藤広美氏の著書『戦後教育学と戦争体験』についての吉益氏の書評「戦争責任に向き合う教育の思想とは」です。この中で吉益氏も、佐藤広美氏、佐貫浩氏が論じている教師の「まじめさ」に言及されています。それは当然本論文の課題意識にも繋がっていると思うので、紹介させて下さい(下線は引用者)。

【恵那の教師たちが戦前、皇国教育に翻弄されたが、その「まじめさ」が戦後の自己批判につながり生活綴方教師に自己変革につながったとしている。戦前の「子どもとともに生きる」というまじめさがあったからこそ質的に深い「こどもと生きる」姿勢につながっていく。教師のまじめさが戦前の「負い目」を自覚させる。「この真面目さなしに、自己改造は絶対にあり得ない」そうでなければ「捨てる自己は変革されず、所有されたものが身を離れるだけ」と書いている。過去の「まじめさ」は戦争に加担してしまうが、その「まじめさ」が「負い目」を自覚させ質的に深い自己批判につながり、子ども理解をともなった生活綴方実践に結実していく。だからこそ戦後の「新教育」に簡単になびくことがなかったのである。もちろん恵那の教師たちが教職員組合の結成や社会科学の学習を重ねたことが「まじめさ」を深く重いものにしていく上で不可欠であった。ここでふれられている「負い目」と教師のまじめさとは何だろうか。私自身の教師生活から考えてみると、自分は良かれと思って行動したとしても相手(子ども・保護者)を傷つけたりすることはおこる。私は教師と子どもとの関係でそういう苦い体験を何度もした。過去の行動はとりかえせないが、そこに自己の行動を俯瞰し、負い目を感じることが相手を理解する一歩になり、次の自分自身の成長、思想形成につながっていく。それが人の傷みに寄り添い、他者理解を通して自己理解につながっていく。教師のもっている「権力性」を自覚し、相手に対する想像力をいかに発揮するかが「負い目」の自覚であり「まじめさ」に繋がるのではないだろうか。勝田は自らの戦争責任という「負い目」の自覚が恵那の教師の「負い目」に共感し、その深い自己批判を「まじめさ」の原動力とみたのである。ここが何よりの原点である。】
(吉益敏文「戦争責任に向き合う教育の思想とは 『戦後教育学と戦争体験-戦後教育思想史研究のために』佐藤広美 『教育』No.918 2022.7)

 私の直感的な把握では、吉益氏の勝田理解は佐藤広美氏のものに近く、かつ自らの教師としての経験に裏づけられていることで独自に説得力を持っています。これは私の勝手な理解ですが、吉益氏はこうした勝田の「教師のまじめさ」解釈を戦後を生きている教師たちとの対話によってより確かなものとしようとされているのでしょうか。そのあたりを確かめるという意識も持って、本論文の中心部分の読みに入って行きたいと思います。


第1章 5人の教師の語りと聞き取り
 吉益氏は本論文において【生活綴方の実践をする5人の教師の語りと聞き取りをおこなった。】
(P.74左段)とされています。【5名とも実名での表記について同意をもらった】(同)ものの、前二者を吉益氏はすでに過去の論文・学会発表で実名紹介しているが後三者については【現在進行形で仕事をされているので倫理上の配慮から仮名表記とした】(同)とされています。
 第1~5節からインタビュイー5氏のプロフィールを抽出してみます(Eさんについては吉益氏の紹介文が短いのでインタビューの冒頭部分で補いました)。

【鹿島和夫、1935年生まれ、小学校教師を退職後保育園の園長を勤め、現在、相談室を開設し、あのねちょう教室を開講している。教師になった頃から灰谷健次郎と知り合い交友がはじまっている。『一年一組 せんせい あのね』は灰谷との共編著で多くの人に読まれ、独自のあのねちょう教育として注目された。】
(同)

【西條昭男は1944年生まれ。小学校教師として37年間勤め、生活綴方教育の実践に一貫して取り組んだ。その間、京都市のサークル連絡協議会の会長、日本作文の会副委員長、京都市教職員組合委員長、京都教育センター機関誌『ひろば』の編集長をしている。】
(P.75右段)

【Cは教師になって12年目。新任の時は初任者研修、とりわけ初任者担当教員との関係で悩みその後管理職からの「パワハラ」で休職を余儀なくされた。その後、教職員組合に加盟し、生活綴方で学ぶようになる。】
(P.77右段)

【Dは定年退職して再任用になった。同期の仲間が再任用している事と教職員組合の専従を7年間携わったので「もう少し現場の仕事をしたい」という思いから退職後の進路を再任用とした。ここ数年2年生を中心に担任している。職場の年齢構成から最近は若い人と学年を組んでいる。】
(P.78右段)

【Eは定年退職をして再任用となった。再任用となった動機と生活綴方との出会いと生活綴方を学び、実践してきた要因を次のように語った。
 小学校担任として、中高学年が多かったです。教務も特別支援など全て担当しました。現在は再任用3年担任、単級16人 全校120人 20人規模の学級に勤務しています。現場から教育について発信したいので再任用となりました。(後略)(P.80右段)

 吉益氏は【5人の教師の選考は年齢の違いと生活綴方のサークルに属している人物から聞き取りをした】
(P.74左段)と述べています。個人的なことですが、私は教育における統計的な研究についてほぼ無知・無関心なので、吉益氏が抽出された5人が現在の日本の教師のある特定の群の属性を代表しているかとかについては全く関心はありません。インタビュイーの年齢層としては、退職もしくは再任用の方が4名と現職の中堅教師の方が1名ということになりますが、《一般的な国語科作文教育》ではなくて生活綴方に取り組んできた方、現在も取り組んでいる方となると、広く様々な候補者の中から典型と言えるインタビューを《客観的手続き》で選定することなど不可能だし、またそんなことには意味がないと思います。


第1節 表現しない子どもの思いを大切にして -鹿島和夫氏の聞き取りから
 拙稿「教育学文献学習ノート」の、本稿の一つ前の「(31)ケアについて考える」の中で書いたことと重なって恐縮ですが、私は吉益敏文氏の本論文を読んだことがきっかけとなって、約40年前の神戸大学助手時代に私自身も一度お会いする機会がありながらその後その実践について学ぶ機会を失してしまっていた鹿島和夫先生の著作を読み始め、読むうちにすっかり鹿島ファンになってしまいました。鹿島先生の諸著作の主なものは読破した上でできることならお目にかかってお話ししてみたいなどと思っていたのですが、残念ながらお亡くなりになったと最近知人に教えていただきました。鹿島和夫先生の御冥福をお祈り致します。
 さて、私がそういう経緯でこれまでに通読した鹿島先生の著作は以下の通りです。

 鹿島和夫・灰谷健次郎『一年一組せんせいあのね 詩とカメラの学級ドキュメント』(理論社 1981刊行 2023.2.15通読)
 鹿島和夫編『続一年一組せんせいあのね』(理論社 1984刊行 2023.2.21-22通読)
 鹿島和夫・灰谷健次郎『一年一組せんせいあのね それから』(理論社 1994.7刊行 2023.2.24-3.2通読)
 鹿島和夫『希望をありがとう ダウン症児・由子ちゃんと一年五組の記録』(講談社 1987.3.20刊行 2023.3.8通読)

 さらに以下の本も入手し、読中もしくはこれから読もうとしています。

 鹿島和夫『ダックス先生と40人の子どもたち 1ねん1くみの365日』(小学館 1983.3.30刊行)
 鹿島和夫『1ねん1くみダックス先生』(小学館 1987.4.10刊行)
 鹿島和夫・灰谷健次郎『一年一組せんせいあのね いまも』(理論社 1994.7刊行)
 鹿島和夫『しあわせのおなら』(法蔵館 1995.7.10刊行)
 鹿島和夫『せんせい、あのね ダックス先生のあのねちょう教育』(ミネルヴァ書房 2010.2刊行)

 吉益論文に戻りますが、本節での鹿島先生からの聞き取りとそれについての吉益氏の分析の基軸は、鹿島氏が1973年に赴任した神戸市御影小学校での齋藤喜博との出会い、齋藤喜博による鹿島先生の実践記録への一方的批判や授業介入、それへの鹿島先生の怒りと反発、そして齋藤との決別、その後に「あのねちょう」実践が展開されていく、という流れであると私は理解しました。私自身はもっぱら、1980年代に鹿島先生が一年生の子どもたちに「あのねちょう」を与えて自由に詩を書かせ、学級通信に載せたり本として刊行されるその経緯(ものすごく大雑把な鹿島実践形容で恐縮ですが^^;)を読み、子どもたちの詩、子どもの大人観察の様子に大笑いしたりしんみりしたりしながら楽しんできましたので、その前段の1970年代の鹿島先生の教育実践においてそのような確執があったことは想像しにくかったです。

 吉益氏は、以下のように評しています。

【鹿島は子どもの詩を読み、子どもたちと読みあう中で子ども理解を深め、自らの教師論を構築していった。斎藤への怒りは斎藤の実績を認めつつも「権威的にふるまった」斎藤の教師論とは対極の教師論の確立につながった。教師らしくない教師とは鹿島の教師論であり、あのねちょう実践は目の前の子どもの現実から出発して自らの教育実践を確立した。】
(P.75右段)

 吉益氏の分析に対してものすごい即物的な共感(^^;)をして恐縮ですが、私は鹿島『一年一組せんせいあのね いまも』(1994)のP.146に掲載されていた以下のような詩を思い出しました。

【  先生      きど しおり
  先生はマラソンのはなしをしていました
  とつぜん「しっー」て先生はいいました
  そしたら大きなおならを
  「ぷっ」とこいたのです
  みんなで「くさっ」ってゆったら
  先生は「みんなはしあわせだね」ってゆった
  「だって先生のおならがきけたからや」だって
  そのことをおかあさんにゆうたら
  「先生もとしがいったから女にもてへんのやなあ」
  とゆったよ】

 まあ、教室でおならをしてその音を子どもに聞かせる教師、と一般化して書いてしまうと、いろいろご意見もあることでしょうが、詩の中でしおりちゃんが描く教室の雰囲気、しおりちゃんの家でのおかあさんとの会話を読むと、「教師らしくない教師」鹿島先生は子どもたちや親たちに受け入れられていたんだろうなあ、この雰囲気から親にも教師にも容赦なくものを言う子どもの詩が生まれてきたんだろうなあと思います。

 残念ながら鹿島先生ご自身の口から自らの実践史をうかがうことはもうできなくなってしまいました。私もここまでの鹿島実践の読書は、まだまだ子どもたちの作品のおもしろさ、魅力に引っ張られてしまっています。多くの著作を物しておられる鹿島先生ですが、これまで読んだ範囲ではご自身について語られている部分は多くありません。引き続き読書を続け、文献から可能な範囲ででも鹿島和夫先生の教師としての自己形成史をさぐってみたいです。


第2節 子どもの前で謙虚に -西條昭男氏からの聞き取り
 西條昭男先生の著作については、私は吉益論文の中で最初に引用されている『どの子も見える魔法のめがね』(清風堂書店 1994)を読みました。その次に引用されている『心ってこんなに動くんだ 
子どもの詩の豊かさ』(新日本出版社 2006)と、昨年刊行されたばかりの『そんなに「よい子」でなくていいから』(文理閣 2022)をこれから読もうと思います。鹿島先生の本を先に連続的に読み進めていたのですが、西條先生の『どの子も見える魔法のめがね』もとても魅力的な本でした。吉益氏の分析からまた離れてしまって申しわけないのですが、同書の「1子ども基地から 26のメッセージ」の一番最後の部分「5 先生、お元気ですか(教え子の訪問)」について書きます。

俺、ビッグになりたいねん!
 西條先生が5・6年で担任した3人の教え子たちが、高2の大晦日に訪ねてきました。買ってきたばかりのヘビメタのCDを大音声で聴き、帰っていきました。そのうちのK君が数日後にまた訪ねてきました。3・4年の時の教え子S君の話を聴いてやってほしいというのです。バンドをやっているS君は高校を中退してアメリカに渡るといいます。S君は、「先生、俺、ビッグになりたいねん!」「先生は、なんのために生きてるんや」と問いかけます。西條先生は、【ビッグになれるかもしれない、なれないかも知れない。しかし、大きな目標を持てるものは幸せだ。夢のある目標に向かって一生懸命自分を燃やすことは素晴らしい、そういう生き方を皆したいと思っている、そのことがすでにビッグなことだ、などと話しました】
(P.132)。S君は、「先生の話、アメリカに行く前に聞いといてよかったわ」と帰っていきました。

私より背が高くなって
 西條先生がかつての勤務校の教育懇談会に招かれて会場のお寺に行ったところ、一人の青年が入ってきました。1・2年で担任した相君でした。2年の最後のお別れの作文にこんなことを書いてくる子どもでした。
【『ぼくは西条先生が大すきです。ときどき、おこられるし、おしおきをしはる。それは、ぼくがあんまり言うこときかないしや。わかっているけど、またすぐするから、おしおきしはる。そやけど、ぼくは、いつも、先生の、わきにいたいし、くっついている。そりゃあたりまえでしょう。すきやもん。先生の家にあそびに行って、かくれんぼをしたり、カレーライスも食べた。おもしろかった。先生またよんでや。すぐ行くしな。相ちゃんまっている……』】
(P.135-136)
 中3の時、相君の父親が死亡。先生は葬式に駆けつけます。高3になった相君は、教育懇談会のビラに先生の名前を見つけてやってきたんだそうです。会が終わった後、先生は相君の家まで数分の道を一緒に歩きます。相君は黙々と歩き、どうやら先生も何も問わなかったようです。それ以来二人は会っていません。

自分を探しに
 5・6年で担任した久江君は、大学3年になった時バイクに乗ってやってきました。久江君は小中と勉強もスポーツも何でもでき、有名私立校から有名私立大へ進学しました。ところが高校入学以来、足の病気で体育はずっと見学、直すために手術が必要だが成功の確率は半々と医者に言われ、もうすぐ手術はするけど悩んでいたと言います。彼は、「先生、ぼくは小学校のときはどうでしたか」と問うのです。西條先生はこう書いています。
【久江君は明るく元気いっぱいで、正義感も行動力もあって、力強くみんなをリードする頼もしい子でした。一生懸命考えて、目標を立ててそれをやり抜く努力家でした。
 試練は誰にも公平にやってくるとは思いませんが、足の病は久江君を試練の場に立たせたのです。これが自分であると納得できるものがあるだろうか。人間は自己相対化を進めていくと、自己の人間的な度量の狭さや小ささに愕然とすることがあります。久江君もきっと自分という存在がちっぽけで、あやふやなものに見え出したのでしょう。
 すべてはここから始まります。そこに身を置きつつ、自分を卑下したり、励ましたりして、自分が自分であることを探求する青年らしい生き方は、人生の憧れです。】
(P.141-142)
 その後先生は久江君と会っていませんが、手術はうまくいったそうです。

新たな第一歩 その前夜
 ある夜、先生の家の玄関に、3・4年を担任した松っつんが立っていました。卒業して6年、高3になっていました。松っつんは卒業して明日からホテルに出社します。松っつんは在日朝鮮人ですが、差別されず採用されました。彼は本名か日本名のどちらを名乗るかで悩んでいます。18年の松っつんの人生は、高校入学頃から父親の大きな借金、失踪、残った家族による借金返済と大きく揺れました。長男の松っつんはアルバイトに追われましたが、なんとか退学せずにここまで来ました。その中で在日朝鮮人の問題も考えるようになり、本名を名乗って差別されている事実も知っており、日本名ならずっと日本名だろうと言います。しかし、「先生、どう思いますか?」とは問いません。
 当時の教室の子どもたちの消息など雑談した後、先生が今晩どうして訪ねてきたのかと問うと、【それは日記の返事だと松っつんは言いました。先生が四年生の頃の日記に、これから大きくなっていろいろとつらいことや考えんとあかんことが出てくるだろうが、がんばるように、というようなことを書いてくれていたからだと。どのような内容の日記の返事に書いたのかはすっかり忘れてしまったのですが、たしかに私は松っつんにそのようなことを書いたことがあります。】
(P.146-147)と先生は述懐します。
【松っつんは体育万能で心やさしく、みんなから好かれる子でした。私は今でも、松っつんが書いたやさしくてかわいい詩や作文の二つ三つを思い出すことができますし、文学作品の『ごんぎつね』の感想文などもそのエンピツの跡といっしょの鮮やかに思い出すことができます。】
(P.147)
 一方松っつんは在日朝鮮人であり、表通りに一つの地蔵尊、細い路地の奥の朝鮮の人が多く住むところにもう一つの地蔵尊があって、地蔵盆も二つに分かれて行なわれるような地域に住んでいました。
【心やさしく、友だちとも楽しく遊んでいた十歳の松っつんは、これらのことにまだ十分意識的ではありませんでした。この松っつんの将来に大きく立ちふさがるであろう朝鮮人なるがゆえの諸問題を思いやると、強く生きよと励まさずにおれなかったのです。朝鮮という文字はひとつも出しませんでしたが……。
 その私の思いや言葉がどういう形で松っつんの内に入り、今までどういう意味を持ってきたのかは、言葉少なく語る松っつんからはわかりませんでした。ただ私は、松っつんの話を聞きながら、そうだったのかと、あの頃の松っつんのノートの字を思い出していたのです。】
(P.148)
 帰り際、松っつんは先生がみやげに渡した綴方教育の本の裏表紙に先生の名前を書いてほしいとリクエストします。
【ペンをとって私は松っつんに、「松っつんにと書くか、本名で書くか」と言いました。「沈です。沈と書いて下さい」このとき、松っつんははっきりと言ったのです。その目には強い光がありました。私は、「沈秀高君へ、西條昭男」とゆっくりと書きました。
 松っつんは玄関で靴をはきながら、「きてよかったです」と小さな声で言い、「そうか」と私はこたえました。】
(P.149)

もがきながらも 前をめざして
(このエピソードは、西條先生が5年と6年一学期に担任したM子さんとの手紙のやりとりの内容です。)

ある国際結婚
 5・6年生を担任し、今は大学4回生になった堀井君が彼女と一緒に訪ねてきました。先生に仲人をしてほしいというのです。堀井君は、「ぼくら国際結婚です。」と短く説明しました。先生もそれ以上聞きませんでした。
【堀井君は、明るく、ひょうきんなところがあって、人気がありました。しかも誠実な子でした。いつか六年生のときに、障害児学級の子どもたちを学級に招待して交流会をしたことがありましたが、そのとき、一人でまるでピエロのようににんなを笑わせようと張り切っていたことを思い出します。私はそのとき、〔今日の堀井君はどうかしているなあ、はしゃぎすぎだ〕と思ったのですが、後で聞くと「どうしても杉の子(障害児学級)のみんなに笑ってほしかったんや。楽しんでほしかったんや」と答えました。やさしさや心づかいを、そんなふうに表現する子どもでした。】
(P.157)
【結婚式当日、私は仲人のあいさつの中で、次のような話をしました。
「私は堀井君の担任でした。新郎を教える立場にいました。しかし、今回は、おしえられました。今若い二人がここにこうしてならぶまでには、いろいろなことがあったでしょう。二人はそれを乗り越えました。今、一生懸命、前を向いて歩いていこうとしています。若い二人に負けていられないと思います。
 私も、ともに人生を歩いていく一人の人間として、真実に誠実に生きたいと思います-」
 新婦は泣いていました。堀井君は涙をふいてやっています。ふっと横の方を見ると、友人の席で橋本君がボロボロと手放しで泣いていました。一番の親友である彼はよほど胸に迫るものがあったのでしょう。涙は、彼の大きな目からボロボロと清々しく流れ続けて、とどまるところを知りませんでした。橋本君は、ついに式の初めから最後まで泣いていました。】
(P.159-160)
 堀井君が相談にくる前、西條先生は橋本君から【「あいつ、夜中に急に起きて、フーッとため息をつきよんのや。彼女のことで悩んどるのや、先生」】
(P.155)と聞いていました。卒業して10年経った今も堀井君に心から寄り添っている橋本君。卒業後毎年親の同窓会も開かれていて先生は堀井君の両親ともこれまでもよく話を交わしておられた、というのも驚きです。

 西條昭男『どの子も見える魔法のめがね』(1994)から、西條先生の教え子が卒業後何年も経ってから先生に会いに来るエピソードを5つ紹介しました(掲載された6つのエピソードの中で5つ目の女の子のエピソードは、先生に会いに来たのではなくて手紙のやり取りなので割愛しました)。本当は、この「学習ノート」の読者の方には、『どの子も見える魔法のめがね』P.128-160をそのまま読んでいただく方が、私が恣意的に同書から抽出したり要約してしまった文章を読んでいただくよりよほどいいのです。にも拘わらず、敢えて私なりに5つのエピソード紹介をしました。なぜなのか。しかもなぜ同書のリアルタイムの教育実践の部分ではなくて、卒業後のエピソードを紹介したのか。
 それは、紹介したエピソードが、西條先生と子どもたちのリアルタイムの出会い、関わり、そこでの西條先生の働きかけの「意味」はなんだったのかを私たち実践記録の読者が検証する手がかりになると考えたからです。
 単純なことなんです。卒業して数年とか十年近く経っているのに、かつての教え子がなぜ西條先生に会いに来るのか? 一人一人のケースは多様で決して一般化できないですけど、それぞれ人生の岐路とか悩みの禍中にあって、しかも先生に「答え」を求めて会いに来たというよりは、自分なりに悩みや判断に区切りをつけようとして、それを見守り立ち合ってくれることを先生に求めて、彼らは会いに来たんじゃないかなと私は思います。
 私ごとで恐縮ですが、私は三重大学の30年の在職期間に、約80人の学生・院生などをゼミに迎え、送り出してきました。三重大学を去る直前の2018年2月10日にゼミ生40数名が集まって送別会をしてくれ、それはそれは嬉しかったんですが、そうした場とは別に彼ら彼女らの卒業終了後の私との個別の交流を思い出してみると、その機会は数えるほどしかなかったと思います。結婚式披露宴に呼んでいただいたのは、数人でした(ご祝儀が大変なのでもっと呼んでほしかったとは思わないんですが^^;)。三重大学には1989年赴任で、それからまもなく学生との連絡もメールの時代に入っていき、そんなこともあってか卒業生で年賀状を交換する人も限られていました。卒業生のかなりの部分が教師になっていましたが、私は自分から「授業を見せてほしい」と依頼することはほとんどなく、先方から依頼があった時だけに行くようにしていました。「卒業したら社会人であり対等だ」と考え、彼らの仕事の現場に「元指導教員」ヅラしてしゃしゃり出ることは自戒していました。翻って彼らの在学中も、私は自分の仕事や研究指導と割り切っており、相手から相談された場合以外はプライベートな問題に立ち入ったりしないようにしていました(あたりまえのことだと思います)。それでも卒論最終盤の産みの苦しみの中でゼミ生がほろっと自分を語ったりする場に立ち会えた数少ない機会は、教師としての至福の喜びでした。
 要するに、言い方を変えると、私と学生たちとの関わりは《薄かった》んです。そこに満足しなければならない、見返りを期待してはいけない、と考えていました。そのスタンスでいる方が、ささやかな交流であっても喜びを感じられる、教師冥利に尽きると喜べる、と思っていました。「一生懸命やったのに!」と思わない。そういう自己防衛的スタンスをずっと取っていました。
 だから、西條先生と教え子たちとの関わりを、うらやましく思います。もちろん、そんなことは思ってみてもしかたのないことです。1年とか2年間の子どもたちと西條先生の関わりがあり、そして何年か後の再会があるわけです。西條先生と子どもたちの学級生活に、自分とゼミ生たちとの大学生活とその後を重ねてみても意味がありません。重ねるのではなくて、自分の「教師生活」とはほとんど全く違うけれども、こういう教師と子ども&卒業生の出会いもあるのだということに、すごく魅力を感じました。
 ただ、こういう風に書いてみても、全国の教師と教え子の中で卒業後に同窓会で再会したり、結婚式に招待したり、あるいはそういう機会でなくても教え子が教師を訪ねて行ったりということは、数限りなく起こっていると思うので、まだ私のコメントでは西條実践、教師西條先生の魅力をいかほども語れていないようにも思います。

 西條先生の著作を援用しながらも、長い自分語りをまたしてしまいました。吉益論文に戻ります。
 本論文で【生活綴方の実践と現代の生活綴方実践について】
(P.75右段)として紹介されている西條昭男先生の語りを一部抜粋して紹介します。

かつての子どもたちは、ストレートに自分の周りの生活に対して働きかけたり、それらを本音でしゃべったりするのが普通でした。(中略)嫌なことを嫌と言いなさいと言ったら、嫌と言えるような状況があったと思うけど今はそんなことが言えるものではない。ちゃんと自己規制が働きます。そういう意味では今の教師の方が、昔の教師よりももっと、その子どもの表現の向こうにあるものを読み取る力をもたなければならないのは間違いないでしょう。(中略)先生が、その子どもがよくわからないとか、よく見えてこないというときに、それは今の子どもが悪いとか、今の子どもだからと思うと思考停止になる。今の教師が今の子どもとどう対峙しているか。ひょっとしたら自分は上から目線で子どもをみているのではないか。こんなこともできない子どもというふうにみていないか。自分ができないからいらいらして子どものせいにしていないか。それをもう一度ひっくり返して、自分の目線が、ひょっとしたら子どもの目線より高すぎてないか、あるいは、なめてるのかもわからないという、自分に対する自制心を働かせる契機になるかもわからないと思う。だから「俺が変えてやる」なんておこがましい。子ども自身が見せてくれる、そういう場面に、自分が出合わせてもらっている。幸せなことにであわせてもらっていると思うことです。(P.76左段)

 吉益氏は、西條先生の上記のような子どもを捉え子どもと関わる姿勢を【西條の生活綴方教育の生命線】
(P.76左段)であるとした上で、西條先生の生活綴方の特徴を以下の2点にまとめています。
 第1点は、【子どもの表現を大事にして、どんな学級を持った時も自然な表現を大切にした】
(P.77左段)こと、その根底には【子どもたちが自分の力で、時間はかかっても変わっていくことができるという揺るがない確信、子ども観】(P.77左段)に支えられていること。
 第2点として、西條先生が子どもたちに綴らせる時、【子どもたちの小さなしぐさ、思い、表情を的確に捉えることを自らの生活綴方実践の目的とした】
(同)こと、そして同時に西條先生自身も実践記録を書いてサークルで交流し、それが自らの教師としての成長に繋がったこと。
 第3点として、【教職員をとりまく様々な政策側の掲げる課題に対して教職員組合や地域の父母とのつながりを通して確かな分析をした】
(同)こと、【教職員組合の一員として、生涯、担任として貫き通せた】(同)こと。
 この第3点については、西條先生の実践記録を読むことだけでは掴めないと考えて、吉益論文の註で紹介されている、京都教育センター編『風雨強けれど光り輝く 検証!京都の民主教育1978-2010』(つむぎ出版 2010)の中で西條昭男先生が執筆されている「第8章 京都市の教育」を読んでみました。私は1986年から2019年まで京都を離れていたためほとんど知らないことばかりでしたが、この間京都市の教育行政がいかに酷い教育破壊や教師いじめを行なってきたか、これに対して教職員組合や民主勢力がどう闘ってきたかがよくわかりました。京都市教職員組合執行委員長を勤められた西條先生はまさに闘いの禍中におられたわけです。


第3節 学ぶことを大切にして -C氏の語りと聞き取り
 C氏は前述のプロフィールにあるように教職12年目で、初任者担当教員の軋轢や管理職のパワハラにより休職を余儀なくされ、その後組合に加盟し生活綴方実践に取り組んでいきます。C氏の聞き取り記録のうち、初任者担当教員の不当な振る舞いの部分について、(ひどい内容であるからこそ途中省略するわけに行かないので)全文紹介します。

新任の頃に保護者に11時、12時までどなりちらされ、次の日学校にいけない時がありました。毎日のように新任担当教員から夜の8時まで指導されるのがつらかった。何かあると「準備不足」「指導力不足教員」といわれるので週1回だけのことなのですがおこられないように無駄なことはいわないようにしました。保護者との対応で私の味方になってくれましたがその他は信用しませんでした。とにかく怖かったです。指導教官は「しゃべるより、話を聞いてほしい」と思いました。私が授業してるときに勝手にチョークをとって介入してくるので、その場にいられなくなったことが何回もありました。学年の先生が配慮してくれて担当指導教官の来る日は行事などをあててくれて摩擦がないようにしてくれました。担当指導教官によっては他の職員にきかせたくない事はわざと小声でしゃべったり、自分の自慢話ばかりする人もいました。とにかく子どもがいやがっていました。保護者からも苦情を聞きました。しかし本人は全くわかっていない。担当指導教官というのは新任指導ではなく単なる説明責任の道具のように思います。なくてもいいです。結局は学年に助けてもらうし、困った時に担当教官は何も助けてくれない。怖い、おこってばかりという印象がありました。(P.77左段-P.8右段)

 全くの部外者である私が読んでも怒りに震えるような酷さです。初任者指導の方法や姿勢云々の遥か以前に、人間としての基本的資質や倫理観を疑います。所属学校でどうしようもない教員を辞めさせるわけにもいかず初任者指導に回しているのではないかと穿った見方をしてしまいます。
 授業への介入。全く文脈は違うものの、第一節の鹿島和夫氏の語りにも、斎藤喜博氏による授業介入への怒りが述べられています。第一節検討の際に引用しなかったので、ここで紹介します。

必死に取り組んだ合唱の発表に対しても参加者の目の前で「だめですね」と酷評されたのである。私はその時の様子を今でも覚えているし、当時は身体が硬直しました。その後、斎藤喜博が提唱していた介入授業に遭遇しました。「清兵衛と瓢箪」の研究授業で私の発問のあと斎藤が質問し、授業が私の考えていた方向と違う形に進行し終わってしまいました。斎藤を信奉する校長も同じように授業に介入しました。私は介入授業は授業者が立ち往生するし、好きになれないし、本当の授業研究の姿とは思いませんでした。私は同僚から「見込みのあるものに斎藤は厳しく言うのよ」といわれましたが、斎藤に対する怒りと反発がその後の私の実践の根幹となっていきました。当時もてはやされた斎藤との決別です。私は、斎藤の功績や学ぶべき点は多いのですが、本当にひとりひとりの子どもたち、授業の中で目立たないこどもたちを大事にしているのかという疑問を持ちました。(P.74右段)

 斎藤喜博氏の支持者信奉者の人々からは、いろいろと擁護意見もあるのでしょうが、私は鹿島氏の怒りはわかります。授業はもちろん担当教師の独壇場、独占物ではないでしょうが、教師と子どもたちで進行している授業において、第三者が突然別の考え方を示し、別の方向へ指導を転換することで、子どもたちの学びが改善される、よりよい学習へと変化するということがあるでしょうか。例えば文学作品の読み、ということに限定すれば、ある特定の文学教育論から見れば「介入によって子どもたちの学びが深まった」と評価できるかもしれません。しかし、教室での授業中に子どもたちの目の前で「よその人」によってそれまでの授業の進め方を否定された教師は、子どもたちの目にはいったいどう映るのでしょうか?
 もう手放してしまった本なのですが、私はかつてあゆみ出版編集部・藤井誠二『ルポルタージュ これが初任者研修の実態だ! ものいわぬ教師づくりへの道』(あゆみ出版 1988)で、吉益論文のC氏と同じように授業中の子どもたちの面前で初任者指導教員に「介入」され、授業の方向を変えられた新任教師の経験談を読んだ記憶があります。文献が手元にないので詳細はわからないのですが、覚えている範囲では、やはり子どもたちの前で「能力のない教員」という評価をされることにより、子どもたちや親との信頼関係が崩れたことへの当事者教師の悔しさが述べられていたと思います。
 新任ですから未熟、能力不足はあたりまえで、だけど採用された日からクラスを任され実践の場に出なければならない新任教員は、研修や先輩教師のアドバイスを受けながらOJTで必死に力を付けていくわけです。もちろん、「学校生活の先輩」である子どもたちとか、「子育ての先輩」である親たちからも、基本的な信頼関係が成立していればさまざまな叱咤激励を受けるでしょう。教師の仕事の中心である授業づくり・授業運営についても、もちろん間違ったことを教えてはいけないし、教え方も日々改善していく必要があります。しかし、学校生活は長いのです。ある日の授業で教えたことの中に間違いがあったと後で気づいたら、翌日の授業で「ごめんね」と子どもたちに謝って訂正したらいいんです。板書がきたなかったりわかりにくかったら、放課後に練習して先輩教師に見てもらったりしながら少しずつ改善したらいいのです。授業への「介入」というのは、このような教師の仕事のタイムスパンの広がり・今後の成長可能性を無視して、「今ここで、その指導の間違いを正す」「指導の誤りや弱点は、いまここで修正する」という姿勢であり、しかもそれを授業運営の権限と責任を負っている担任教師を越権して強制するものです。それでいいのだと見なす人は、それが子どもたちのためになると考えるのでしょうか。しかし、いったい「正しい学習指導」というものは、個別の教師と個別の子どもたちの人格的交流を抜きにして成立するのでしょうか。「担任の先生は別の先生に授業のやり方が間違っているといって直された」という事実は、まちがいなく子どもたちの記憶に残るでしょう。「自分たちは担任の先生に教えてもらっているけど、もしかしたら先生が教えていることがまちがいだということが、また起こるかもしれない。」と思う子どももいるでしょう。もちろん教師も間違うものだし、まちがった時には子どもたちにきちんと詫びて間違いを訂正しなければなりません。しかしそのことは、授業中に「他の先生」によって突然指摘される、という形で起こることが必要なのでしょうか? 「介入」して「正しい指導」を強制した初任者担当教員はやがて去ります。そこからは担任教師が一人で学級を、授業を運営し、子どもたちとの人間関係をつくりあげていくことになります。「介入」=新任教師の無能力の証明という《暴力》は、その後の学級づくりにどのようなプラスの遺産を残せるというのでしょうか?

 さて、その後のC氏はどうなったのでしょうか。

私は休職しましたが、そこで親身になって相談してくれた人は組合員の人が多かったです。組合の学習会で学ぶ教科の指導や教材研究は官制研修と違い本物のように思いました。学級通信を毎日のように発行している人がいて、その通信に子どもの日記や作文がたくさん掲載されていました。私もまねして実践してみると子どもたちが集中して読んでくれました。子どもたちの作文を読むのが今は楽しみです。そしてサークルにいって発表させてもらったりして学ぶようになりました。私の周りの若い男性教員は結果主義にとらわれていて「ほうれんそう(報告・連絡・相談)」と躍起になっていてあまり自分で考えていないように思います。私は組合やサークルで学び考える機会が増えました。最近では毎日のように組合事務所に行き、色々相談にのってもらっています。(P.78左段-右段)

 吉益氏は、教師としての危機を乗り越えてきたC氏の語りを踏まえながら、こう述べています。

【Cのような若い教員が一部の管理職や担当指導教官の「パワハラ行為」によって休職したり中には教師を辞めるという事例は少なくない。Cが語った組合やサークルとの出会いが危機的状況から脱出できた一つの要因ともいえる。もちろんC自身の努力が大きいが教職員の超過勤務が社会問題となる中で、学校と家以外の場で教育観や子ども観を磨くことは大切な視点である。Cはサークルや組合の学習会の中で学び続けた。その視点と実践がCの生活綴方教師としての歩みとなった。
(P.78右段)


第4節 文集を作り読みあって -D氏の語りと聞き取り
 再任用で勤務しているD氏は、【生活綴方との出会いを次のように】
(P.78右段)語ります。

大学時代は生活綴方には関心はなかったのです。最初に赴任した学校で先輩のNさんが勉強会を組織していました。(中略)N氏は小川太郎門下生で大阪綴方の会から学ばれていました。はじめは赤ペンで返すだけでしたが、「文集作らないと意味がないぞ」といわれました。今では自分から文集とったら何が残るかなあと思うくらいです。子どものくらし生活は書かしてみてわかる。リアルに丁寧に知る。ずっと続けてきました。研究会などで学び、子どもの見方、子どもってどういうふうに見るのか、子どもは自分で育つという事を学びました。先生が子どもをどうしよう、こうしようとすべきではない。様々な先生をみて、そういう視点で自分の力で子どもが変わったと思う人がいるがおかしいと思い、違和感を感じていた。(中略 引用者註:この後に5・6年を担任した女の子の事例が出てくるのですが省略します。ああ、こういう事書いてるな、と読むことでその子らしさを感じます。その子にとっても読ましてもらう自分にも意義がある。それを読みあい伝える。それが子どもどうしをつないでいるのではないかと思うようになりました。(P.78右段-P.79左段)

 生活綴方実践を続けてきた立場から、D氏は現在の学校の状況についてこう語ります。

(前略)若い人たちの中には文集というか通信を出している人がいますが、何のためにだしているのかと疑問に思うことがあります。文集なり通信の中味が全然ちがうからです。めあてに沿って書かすというか。教師の考えにそった作文を書かせ、それを掲載するのですね。そういう実践をしていた人のあとに私が担任しました。母親から「ずっと書く力がない」といわれていました。「先生の文集はめちゃいいですね。」「子どもの拙さがそのままでていますね」と言われたことがありました。書く力はめあてにそって書かせたからできるというものではありません。私はそのお母ちゃんに「拙い文かもしれんけどその子の一生懸命さがでてますよ。その姿勢が大事ですよ。」といいました。やっぱり子どもの自己表現でないといけない。書いた子が書いてよかったといえるようにならないと。みんなで読みあってよかったといえるようにならないと。自分の書きたいものが大事なのではないかと考えています(P.79右段-P.80左段)

 さらに、こう語ります。

(前略)子どもは未分化だからこそ一所懸命生きている。そこをまず認め、子どもに対して謙虚でなければならない。子どもを調教するのではない。子どもをバカにしてはいけない。周りがどんなものかわからない、不安ゆえに必死に生きる。それが子どもだと思うのです。確かに自分が担任して、この子は変わったと思う時はありますが、それは子ども自身がかわったのであって、担任の力でかわったのではないのです。子どもがかわったというスタンスを大事にしたいです。(後略)(P.80左段)

 教師として子どもから学ぶこと、子どもが変わるのであって教師が子どもを変えるのではないこと。鹿島先生、西條先生とも共通する基本姿勢だと思います。

 吉益氏は、次のようにコメントしています。

【Dの語りから第1に子どもの自己表現を大切にする。そのために文集を作り続けてきた。第2に生活方((ママ))綴方は子どもをどうみるのか、子どもとは何なのかを常に問うている。教育とは何かをいつも考えている。第3に子どもの前で謙虚でありたい。子どもは子ども自身で伸びるのである。教師はその支援をしているので子どもが教師の力で変わったとおもいあがるのは調教と同じだ。(もちろん 私が子どもとかかわったというい事に小さな自信と誇りはある)以上の3点が明らかになった。生活綴方実践は教師の成長にどのような影響があるのか、Dの今までの歩みと現実の姿に体現している。】
(P.80左段-右段)


第5節 書く事・読みあうこと -E氏の語りと聞き取り
 E氏も再任用で勤務しています。生活綴方と出会い、学んできた過程を以下のように語っています。

(前略)自分の新任の頃から多くの人が学級通信を発行していました。それが普通でした。同じようにまねていました。河瀬哲也実践『人間になるんだ』 同授研なんどから多く学んできました。滋賀県から部落問題夏季講座に行く人が多く同和教育から接近しました。
 恵那に県外研修として 聞き取りと授業見学にいきました。部落問題で 正常化攻撃の状況などもよく聞きました。滋賀作文の会、交流研などの活動を現在も続けています。学級通信で 子どもの姿を知らせる。本音が語られる。そのゆったりした感じが 面白いのです。魅力です。子ども理解と接近するように思います。1枚文集 読みあう事を続けています。授業中に書かしています。授業記録日記風に書かしたりしています。学期末に先生のインタビュースタイルで書かしたりしています。自画像に語りかける実践も展開しています。運動会のあとに書かしている時もあります。教師は子どもの抱えているものは簡単にはわかりません。でも知っているのと知っていないのとの違いは大きいです。だから子どもの作品から考えています。臨床教育学の観点から書くことで癒しになるのではないかと考えています。昨年の実践ですが、よみあうことのできない作品もありました。卒業前 コロナ禍のやりきれなさ そうした背景から生まれたように思います。以前はどの先生も学校でやっていました。土壌がありました。今は単年勝負です。文集など発行している人はほとんどありません。積み上げがありません。自分は広げるためにはみなに知らせるようにしています。文集を職場の仲間に配っています。たわいにない作文 おもしろいという反応もあります。かといって広がらない現実もあります。お互いの生活を知りあうことが大事だと思っています。「ああそういうことをかくんだ」書くべきことを見つけるなどです。読みあうことの意義はそこにあると思います。基本は自分のために書く読みあう知りあう人の事を知るために自分も知ることにつながっていると思います。積み上げが大事です。評価にしばられないで、知る喜び成績につながらない事が大切と思います。「切れる子」が自分なりの「反省文」を書いてきました。その子の正直な気持ちをしることになった。読みあう意義はこんな所にもあるのではないかと考えています。コロナ禍の今では休校中のお互いを知る。集まれば楽しいな。拙い文章でも自分の思いを書くことに意義がある。渾身の力で野球の事を書いたこがいました。その文章の熱い思い その子の表現 学力といえないかもしれないが、喜び書けたという満足感を感じました。子どもたちがどんな言葉を創り出すか楽しみです
(後略)
(P.80右段-P.81左段)

 またE氏は、サークル運動や組合運動に取り組んできた経験を踏まえながら、現在と学校現場と特に若い教師たちへの期待を次のように語ります。

(前略)今の現場は形式的な文章をよしとする傾向が強いです。学力テスト体制が今の学校にはあります。その縛りは大きいです。しかし、多くの先生の笑い喜びは子どもとの関係が基礎です。そこにつながっていくことが大事なのではないでしょうか。そこに信頼をもちたいです。若い人たちは生活綴方についてほとんどしりません。けれど、意義がわかると学ぶ大切さをしります。徐々に学んでもらったらいいのではないか思っています。自分としては色々学びそこで自分の実践を展開する。クリエーティブな活動を創り出す大切さ、地域にでることを大切にしたいです。若い人たちの中にあるしばりの強さは 画一的な世代で自分たち以上のものがあると思います。若い人たちを信頼すること、一緒に学ぶ視点が大事と思います。(P.81右段)

 吉益氏は、E氏の語りについて次のようにコメントしています。

【Eの語りは、生活綴方を子どもに書かせ、それを読みあうことでお互いを知り、子どもの理解を深めていった事、その空間 楽しさが持続している原点にある。サークルや組合活動を通して仲間に支えられ励まされて、苦しい時も乗り越えてきた。複眼的にものごとを考えられるようになってきた。若い人たちへの現在の「学力テスト体制」のしばりは大きいが、学べば真実をしっていけば必ず若い人たちもゆっくり変化していくという確信が感じられた。現実をみつめ学び自分の頭で考えはじめてクリエーティブな実践の創造がうまれると語った。】
(P.81右段-P.82左段)


第2章 5人の語りから明らかになったこと
 吉益氏は、勝田守一「子どもの幸福をまもる教師たち」(1952)の一節を引きながら【鹿島、西條、C、D、Eの生き方は、この勝田の指摘に当てはまる】
(P.82左段)とした上で、5人の教師たちの歩みの特徴を次の3点にまとめています。

【1) 生活綴方を実践の核に位置づけ子ども理解を深めた。
  詩や作文など方法は様々だが生活綴方の思想に学び教育実践を展開する。そこから子ども理解を深めた。
2) 子どもの自己表現を大切にし、子どもの成長・発達・自己の育ちを信頼する。
  子どもの作品のできばえより自己表現に注目し、そこから子どもの内面を理解しようと努力した。そして子どもの成長を丁寧に見守る。子ども・若者に対する深い信頼がある。
3) 子どもの前で誠実さを貫いた。
   同時代に共に生きる同伴者としての対人援助職の立ち位置を堅持し、子どもと誠実に対峙した。
   様々な「権威」や圧力に屈せず、子どもの前に謙虚であった。】
(P.82右段)

 そして吉益氏は、【では、教師の誠実さ、「まじめさ」とはどういうことなのか。】
(P.83左段)と問題を立てます。


第3章 教師のまじめさ
 吉益氏は勝田(1953)における恵那の教師についての考察(佐藤註:論文内に明示されていないのですが、勝田守一「変革される教師像-林鉦三氏の実践が教えるもの-」にもとづいています)に拠りながら、以下のように述べます(下線は引用者)。

(前略)戦前の「子どもとともに生きる」というまじめさがあったからこそ質的に深い「こどもと生きる」姿勢につながっていく。教師のまじめさが戦前の「負い目」を自覚させる。「この真面目さなしに、自己改造は絶対にあり得ない」そうでなければ「捨てる自己は変革されず、所有されたものが身を離れるだけ」と書いている。過去の「まじめさ」は戦争に加担してしまうが、その「まじめさ」が「負い目」を自覚させ質的に深い自己批判につながり、子ども理解をともなった生活綴方実践に結実していく。だからこそ戦後の「新教育」に簡単になびくことがなかったのである。もちろん恵那の教師たちにとって教職員組合の結成や社会科学の学習を重ねたことが「まじめさ」を深く重いものにしていく上で不可欠であった。ここでふれられている「負い目」と教師のまじめさとは何か。筆者の教師生活から考えてみると、自分は良かれと思って行動したとしても相手(子ども・保護者)を傷つけたりすることはおこる。筆者は教師と子どもとの関係でそういう苦い経験を何度もした。過去の行動はとりかえせないが、そこに自己の行動を俯瞰し、負い目を感じることが相手を理解する一歩になり、次の自分自身の成長、思想形成につながる。それが人の痛みに寄り添い、他者理解を通して自己理解に繋がっていく。教師のもっている「権力性」を自覚し、相手に対する想像力をいかに発揮するかが「負い目」の自覚であり「まじめさ」に繋がるのである。勝田は自らの戦争責任という「負い目」の自覚が恵那の教師の「負い目」に共感し、その深い自己批判を「まじめさ」の原動力とみたのである。ここが何よりの原点である。勝田は恵那の教師たちの戦争責任にたいする「負い目」を自分の戦争責任と重ねたのである。
 勝田の言う「まじめさ」とは、「負い目」の自覚と自己批判の深さを問うたと考える。】
(P.83左段-右段)

 戦前、「子どもとともに生きる」という「まじめさ」を持ちながらも戦争に加担にしていった恵那の教師たちが、敗戦後その「まじめさ」ゆえに「負い目」を自覚して自己批判に到り、そこから(「新教育」になびくことなく)生活綴方教育に踏み出していく、そのプロセスを吉益氏は、自らの教師人生の中で教師として子どもや親を傷つけてしまい、そのことは取り返せないという「負い目」を背負いながら、その「負い目」とは取り返せないものを悔い続けるということではなくて、相手への想像力を発揮すること、相手を理解することの第一歩であり、自分自身の成長、思想形成につながる、つまり前を向いて進むことにつながっていくと積極的に捉えています。しかしそれは、簡単に過去を清算してしまおうとする姿勢ではなくて、取り返せない悔いがあるからこそ敢えて前を向く、しかし悔いある過去は消え去ったわけではないという苦しみもある、と私は理解しました。
 吉益氏はもちろん、戦前戦後を生きた恵那の教師たちと吉益氏自身を同列において論じていないと思います。吉益論文を読み、関連して勝田・佐藤広美・佐貫の論稿を読んだ私自身は、1954年生まれで全く戦争時代を経験していない者として、もちろん戦争に加担した恵那の教師たちを鞭打つことはできません。また、戦争を経た恵那の教師たちがどのような悔恨や葛藤や自責を経て生活綴方による新しい教育へと踏み出したのかについても、想像に余るものがあります。ただ事実を受け止めることしかできません。
 しかし小学校教師として生きてきた吉益氏は、私のような傍観者的受け止めで済ませることをしませんでした。具体的には書かれていませんが、子どもや親を傷つけてしまった自らの教師としての「負い目」を捉え返しました。「負い目」自体は消せない、消せないけれども、「負い目」を背負いながら教師として子どもたち(や親)の傷みを理解し寄り添おうとする教師としての自らの姿勢を常に問い直し、教師として成長していくことで子どもや親との出会いをより良きものとすることはできる、と捉えられました。
 戦前・戦後の教育を担った教師たちの中には、(私は具体的事例を多くは知っているわけではありませんが)弁解・自己弁護に努めた人も多数いたんじゃないでしょうか。「あの時は仕方なかったんだ。私も決して心から戦争に賛成していたわけじゃない。しかし、反対を表明すればたちまち特高につかまり、悪くすれば死を意味した。死を賭してまで反対する勇気はなかった。私は弱かった。だけどほとんどの教師がそうだったと思う。誰が私を責めることができるだろうか。」(以上は佐藤の勝手な創作の独白です)というように。
 吉益氏は自らの教師人生を振り返って、【自分は良かれと思って行動したとしても相手(子ども・保護者)を傷つけたりすることはおこる。筆者は教師と子どもとの関係でそういう苦い経験を何度もした。】
(P.83左段)と書かれています。もちろんそうした苦い経験についても、本人がそうしようと思えば、あの時はああだったんだ、こういう事情だったから仕方がなかったんだと言い訳することもできなくないでしょう。しかし、「戦争だったから、戦時体制だったから、どうしようもなかったんだ」というように社会体制のせいにし、一教師としては不可抗力であったとすることはできません。時代も状況も全く違うとは言え、一教師としての子どもや親との関係における悔いというのは、まじめな教師にとっては、言い逃れが許されないという意味で、戦時体制における過ちの悔悟よりももっと苦しいものかもしれません。
 「負い目」というのは自分の中で決して消し去ることができないものです。私も40年近く続けてきた大学教師生活の中でそうした「負い目」をいくつも持っています。現在から将来に向けての教師生活を少しでも良きものにするためにいくら努力したとしても、過去の事実とそれへの「負い目」は消えないのです。ハッピーエンドにはできないのです。消すことのできない「負い目」を常に心にとどめながら、それはそれとしながらも、今の自分が教師として精進するしかないのです。いや、「精進」と簡単に書きましたが、その中味が問題です。吉益氏は、【負い目を感じることが相手を理解する一歩になり、次の自分自身の成長、思想形成につながる。それが人の痛みに寄り添い、他者理解を通して自己理解に繋がっていく。教師のもっている「権力性」を自覚し、相手に対する想像力をいかに発揮するかが「負い目」の自覚であり「まじめさ」に繋がる】と書いておられます。「負い目」は心のうずきとして自分の中にしまいこんでしまうものではない、ということです。自分の「負い目」が相手の痛みに寄り添うこと、相手を理解することにつながる、というのです。「負い目」を持つ自分を自覚することが、「権力性」への歯止めになる、というのです。ただそれらのことは、「負い目」の《効能》ではないと思います。「負い目」自体はどうしようもないものとして自分の中にある。その、《自分の中に「負い目」がある》という厳然たる事実が、自分の教師としての子どもや親への関わり方を自省せよと要求してくる。そのことにきちんと向き合う生き方が教師としての「まじめさ」である、ということになるでしょうか。

 長い教師経験から絞り出された吉益氏の述懐を、私が訳知り顔に《教訓化》するかのような文章を書くつもりはないのですが、そうなってしまっているかもしれません。


終章 現代に活かす視点
 吉益氏は、佐藤広美『戦後教育学と戦争体験』(2021)を引きながら、以下のように述べます。

【勝田は戦前の恵那の教師を単純に批判するのでなく、「子どもとともに生きる」という普遍的価値に注目し、そこから恵那の教師の「まじめさ」と「負い目」の自覚から生じた自己批判の姿勢に注目した。佐藤はその勝田の着眼点に注目している。そして「時局の教育」に貢献するという願望は誰にでもあるが、恵那の教師たちは子どもとともに生きる「まじめさ」の重要性と困難性をしっていた。しかし、それを貫けなかった「負い目」が戦後の出発点であった。戦前の状況はものが言えない状況にあった。そうした中での恵那の教師の思想形成に勝田は注目した。】
(P.83右段)

 さて、戦前・戦後を生きた恵那の教師たち、それについての勝田や佐藤広美の考察を踏まえた上で、本論文での5人の教師たちの語りの聞き取り結果について、吉益氏は最後に以下のようにコメントしています。

【現代の学校においては戦前とは異なるが、全国学力調査やPDCA体制のなかでしらずしらずのうちに組織の論理や権力の意図する方向が忍び込む。その中で、子どもとともに生きるという事は戦前とは違った困難がある。そのなかで「負い目」を自覚するという事は、自己を客観化し俯瞰しなければならない。そうしないと質の深い自己批判は生まれない。
 5人の教師たち、鹿島は「権威的実践」に対する矛盾、西條は組合に対する政治的攻撃に対する抵抗、Cは初任研や管理職の「圧力」からの葛藤、DやEは「学力調査」体制の呪縛から、子どもとともに生きる姿勢をつらぬかなければならない「負い目」を感じている。常に生活綴方の思想に学び、深い子ども理解に向かったのである。それは、模索と失敗、挫折を通して自分の思想にしたのである。そこに子どもと共に生きる教師を探求しようとした。誠実に子どもと対峙した。
 今日の時代の中で、「負い目」を感じながら、子どもの前で謙虚に生きる。子どもとともに生きる教育実践はそう簡単にはできないかもしれない。「まじめ」であるというのは権力に無批判に同調する事ではない。戦前のような教師の姿勢ではない。「2009年型教職観」は肯定しない。また「まじめ」は自分を追いつめたり「自己責任」の呪縛に陥る事ではない。勝田が恵那の教師に注目したように、筆者が4人の教師の語りから考えたことは「子どもとともに生きる」という普遍的価値に対する思想を形成することである。その思想とは特定の主義や主張ではない。徹底して子どもの前に謙虚で「負い目」を常に自覚しながら実践する。生活綴方の思想をもってしたたかに生きるということである。】
(P.84左段)

 本論文第3章で吉益氏自身の教師生活における「負い目」の述懐を読んだ時、具体的事例は紹介されていないにも拘わらず私はそれを吉益氏の個人的な失敗への反省と読み、戦争体制をくぐらざるを得なかった恵那の教師の「負い目」とは違うものととらえていました。しかし上記の総括的考察を読んで、吉益氏の「負い目」把握についての自分の解釈は狭すぎたと考え直しました。
 第2章における5人の教師の語りの中からは、私自身は各氏の「負い目」の意識については必ずしも明瞭には読み取れませんでした。ただ、子どもたち自身が伸びていくということへの感動、《教師が子どもを変えた》というような勘違い・思い上がりをしてはいけないという自戒、子どもたちにしっかりと向かい合いたいという気持ちなどは読み取ることができました。このことを裏読みすると、自分個人の未熟さや過ちからにせよ、本意ではない他からの圧力・強制によってにせよ、子どもたちとの向き合い方、関わり方を間違えてしまった、そのことにより子どもを傷つけてしまったという後悔もまた、5人の教師たちの実践の紆余曲折の中で生じていたのであろうと推測することができます。自分の責任から発していない不本意な対応だったとしても、生身の教師が生身の子どもに一回きりで繰り返せない関わりをしている以上、子どもとの関係では《客観的状況からくるやむを得ない対応の誤り》と《自分個人の過失・失敗による対応の誤り》を截然と区別してしまうことはできず、両者を含めての子ども(や親)への「負い目」として教師の内面に沈殿していく、ということでしょうか。

 私がかつて『授業づくりネットワーク』誌の編集委員をしていたとき、「失敗から学ぶ授業づくり」という特集の提案をしましたが、編集代表の藤岡信勝氏に反対され、議論した結果「私の『授業発見』」というテーマに変わりました
(『授業づくりネットワーク』No.18 1990.1)。それでも私はその特集の中で「学習者に批判から何を学ぶか」という自分の大学教育実践での痛恨の失敗に関する報告を書き、そのような報告を掲載することを批判した藤岡信勝氏と誌上で議論したことがあります。
 自らの教育実践における失敗、そのことからくる子どもたちへの「負い目」。そうしたことについて、まじめな教師たちが集う全国の自主的サークルなどでは数多く議論・交流されてきたことでしょう。しかし、例えば官製研究会とか、教育雑誌とか(『教育』誌は違いますが!)の場では、教師の失敗をそのことからくる「負い目」を前面に出して話題にすることは多くないのではないでしょうか。
 もちろん吉益氏は、「負い目」を持たない教師はホンモノじゃないと書かれているわけではないし、私もそうは思いませんが。

 唐突ですが、拙著『「生きる力」論批判』(三重大学出版会 2019)の「はじめに」の一節を引用させて下さい。

「本書で批判的に検討する『生きる力』論は、1990年代に登場し日本の学校教育に大きな影響を与え続けてきた教育目標理念である。
 『生きる力』の主語、主体は何か? もちろん子どもである。
 その『力』が形成されるものであるとしたら、誰が形成するのか? もちろん子どもである。
 では『生きる力』がないと、なくなると、どうなるのか? ……その時は人は、子どもは、死ぬしかないだろう。生きる『力』がないわけだから。
 では、その大切な、生きる上で不可欠の『生きる力』は、どこで形成されるのか? 学校で? それでは学校へ通って教師からの働きかけを受けなければ、子どもは死ぬのか?
 1990年代に登場した『生きる力』論に接した時の私の強烈な違和感の源はここにある。子どもは学校教育を受けることによって『生きる力』を形成するのであって、学校教育なしには『生きる力』を形成できず、つまり死んでしまうのか?
 この疑問の次に湧いてきたのは、次の非難の言葉である。

 『自惚れるな、学校教育!』」(P.1-2)


 ここで私が「非難」しているのは、1996中教審答申とそれに基づく文教政策であり、非難の対象は「生きる力」を学校教育の目標に掲げたことです。「自惚れるな!」と非難した相手である「学校教育」の当事者に私自身もまた含まれていることは、もちろん自覚しています。
 私の言いたかったことの核心は、目の前の生きている子どもたち、その子たちがこうして生きているという「事実」に対して、教育に携わるものは謙虚であれ、ということです。間違っても、《生かしてやっている》《「生きる力」を育ててやっている》などと勘違いするなかれ、ということです。このことは、吉益氏が恵那の教師や彼らから学んでいる勝田・佐藤広美や、吉益氏が語りを聴いた5人の教師たちから学びとろうとされていることと通じていると私は思います。
 すみません、勝手に脱線して。ここまでの行論でとりあげていた吉益論文の末尾の総括部分で議論されていたことのキーワードの一つは、教師の「負い目」でした。「負い目」は過去における教師自身の子ども(や親)に対する関わり、働きかけにおける失敗、誤りに対する自責の念だと私は理解します。その自責を捨てずに持ち続けることが、子どもたちに接する時に先入見にはまらずに虚心坦懐に彼らを掴むことにつながるし、子どもたち自身が伸びてゆく姿を「自分が育ててやった」などと自惚れることなく喜んで見守ることができるのではないか。それでも、完璧な人間はいないわけだから教師はまた誤ることがあり、残念ながら「負い目」は増えていくかもしれない。しかし、それまでの「負い目」を忘れない限り、なるべくなら新たな「負い目」を増やさないよう努力することはできると思うのです。もちろんこのことは、それでは子どもにどう接したらいいのかと手を拱いてしまうということとイコールではありません。そういう局面もあるでしょうが、それを含めての試行錯誤による成長が教師には必要なのだと思います。自責とか自戒というのは、内向きになってしまうこととは違うと思います。なぜなら、教師が勝手にそう思い込んでいるということではなくて、「負い目」を忘れないようにしながら謙虚に子どもたちと接していくその過程で、子どもたちが見せてくれる姿からいっぱい驚きや喜びを感じる機会があるはずだし、そういう経験を通じて教師自身が成長していくのだと思うからです。

 ところで吉益論文全体のキーワードは、タイトルにある「教師の『まじめさ』」でした。最初吉益論文を一読した時、私はそこで論じられている恵那の教師の生きざまや5人の教師たちの語りから導かれる大切な価値が、日常用語としても多用される「まじめさ」という語で表現しきれるか? という問いを持ちました。もちろん、「まじめさ」は、勝田守一「変革される教師像-林鉦三氏の実践が教えてくれるもの-」(1953)や佐藤広美『戦後教育学と戦争体験 戦後教育思想史研究のために』(2021)で取り上げられており、吉益氏も参照されたそうした先行研究を踏まえて読まねばならない概念であることはわかっているのですが、戦前教育への加担を経て戦後教育における再出発をした恵那の教師たちが持つ(1954年生まれの私には想像しがたい)自己形成に端を発して論じられているだけに、それが「まじめさ」という日常用語の文脈にも容易に繋げることができる用語に乗せて語られることに若干の危惧を感じたのです。
 ですが一方で、「負い目」と結びついた目の前の子どもたちへの「まじめさ」という捉え方は、教師という職について率直に自己反省を加えながら進んでいこうとする者にとっては、自分の思考の枠組に引き入れやすい親近性を持っているのではないかとも思います。「まじめさ」という理念の中にいろいろなものが未分化に混ざり込んでいるような気もしますし、「まじめにやろう!」と外に向かって運動論的に提起するのは違うような気もするのですが、教師の自省においては有効に機能するように思います。

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