31 2023年度前期成績評価活動総括

  「お盆は(ほぼ)ない」というのがここ何十年かの僕の生活のルーティンでした。今年も、8/16の大文字送り火はマンション屋上から見ましたが、菩提寺である徳正寺の盆会参詣は妻に任せました。
 今年は8/1から始まった前期授業(京都女子大学「教育課程論」、新潟大学「教育課程及び総合的な学習の時間の指導法A」)の成績評価活動は、昨日8/19にようやく終わりました。京女大授業最終回(7/28)終了後に最終レポート提出を受け付け、8/5 18時に締め切り。新潟大は7/31最終回授業終了後から8/10 18時まで。受付期間はそれぞれ8日間と10日間。先に授業が終わった京女大から受付を始めたわけですが、大学への成績提出締切は京女大が8/21で新潟大が8/18。受講生の締切から僕の成績提出締切までは、京女大が16日間で新潟大が7日間。そして採点対象は京女大が73名(最終レポート提出は58名)、新潟大が129名(最終レポート提出は108名)です。つまり新潟大は京女大の約2倍の最終レポートを読まなければならないわけで、提出受付が終わった京女大から先に採点を始めていては、新潟大の成績提出に間に合わなくなります。

 ここでちょっと細かい話をすると、新潟大の授業スケジュールは当初7/24で終了のはずでした。しかし新潟大は7/17(月祝)の休講の補填として、7/20(木)を「月曜授業振替日」に指定してきました。これは三重大の時には散々「実施する立場」に立ってきたので文句は言えないのですが、木曜と言えば僕は京女大授業の前日で準備に忙殺されています。だから木曜の代替授業実施は断り、替わって試験期間に入っている7/31を最終授業日としました。新潟大が設定したスケジュール通りに授業を終了していれば、成績提出締切日まで25日もあり、もっと余裕を持って採点できたでしょうが、上記の事情故に新潟大の方が授業終了が後になり、このため両大学の採点活動をまぜこぜにする必要が出てきました。

 さらに、僕自身にとっては決して細かいことではないのですが、僕は7/17にコロナウィルスに罹患しました。7/15にテキサスから一時帰国している次男一家を囲んで佐藤家大宴会を東華菜館で15人で開催したのですが、その翌々日の発症でした。発熱は最高38.3℃で2日間で平熱に戻ったのですが、咳・痰・体のだるさが数週間続きました。発症した7/17(月)は祝日休講日で助かったのですが、7/21(金)の京女大授業日はまだ「安静推奨」期間なので京女大に休講を連絡したのですが、その際1回休講のまま全14回で終了してよいか尋ねると、それはだめでオンデマンドで実施してほしいとの返事。学生のコロナ休講には「最大限配慮してほしい(=一律に欠席にするな)」と散々要請してきながら講師のコロナ発症には何の配慮もなし。ひどい大学です。しかも僕の授業は毎回必ずグループ討論を行なうので、オンデマンドでは実施できません。しかもしかも、京女大は前期スケジュールの中に補講期間も試験期間も設定していないのです。オンデマンド授業をというけど、夏休みに入ってしまう学生にいったいいつ受講せよというのでしょうか。とにかく、ここからもう大学当局とは相談しないことにして、受講生には7/21をzoom授業に急遽切り替えたいと連絡しました。ところが僕の認識不足で、2回生(2022年度入学)が中心である受講生達は、リモート授業の経験が少ないらしく、zoomでは受講が不安だと連絡してきた学生がいました。こういう事情なら大学からの要請を無視して休講で終わるのもやむなしと判断してもいいんですが、もう一策考えました。毎回小レポート提出等に利用しているMIcrosoft TeamsをグループLINEのように使って、文字コミュニケーションによる討論授業をすることにしました。翌週7/28の最終回も、まだ猛暑の中を京女大まで出勤する自信がなかったので、同じやり方で討論を行ないました。そんなこんなで、まだ完全復調ではない状態で8月の採点期間に入ったわけです。

 8月に入り、まず8/1には新潟大7/10授業で提出させた小レポートNo.13の通読作業をしました。6/26, 7/3, 7/10は新潟大授業は授業題目にもあるように「総合的な学習の時間」を扱う期間としていて、7/3と7/10には僕が感銘を受けぜひ新潟大生たちに紹介したいと思っていた『希望の教育実践』(同時代社 2017)の著者である兵庫県の元小学校教師・岸本清明氏にzoom授業にゲスト参加していただいていました。小レポートNo.13は7/10の第13回授業後に受講生が提出したものです。僕は毎回の授業で小レポートを課し、その全てを次回までに通読し、いくつかのレポートを授業通信上で紹介してコメントを付しています。7/10の第13回授業の翌週7/17は祝日休講なので、次回までに十分時間をかけてその準備ができるはずでした。しかし、コロナになってしまいましたので、7/24までに第14回授業の内容を準備するのが精一杯で、小レポートNo.13を読むことができませんでした。最終第15回授業前に何とか流し読み(^^;)をして簡単なコメントを授業通信に書いたのですが、担当講師のモラルとしてそれで終わってしまうわけにはいかないと思い、授業が終わって最終レポート採点作業に入る前にまず「宿題」を片づけたわけです。

 続いて8/2には、京女大・新潟大の最終回授業の出席チェックをしました。前述のように毎回の授業後に小レポートを提出させていますが、最終回授業では終了後すぐに最終レポート提出期間が始まるので、受講生の作業が競合しないように小レポートは課していません。替わってグループ討論の記録の中で出席者を報告させるようにしています。これをチェックしました。
 続いて8/3には京女大の、8/4-8/5には新潟大の日常点集計を行ないました。前述のように毎回小レポートを課し、それが締切(京女大では授業3日後、新潟大では授業翌日の23:59)までに提出されたら5点、遅れて(但し次週授業まで)提出されたら4点として、すでに出欠簿に記録しています。またグループ討論の司会者・記録者を担当した時は2点ずつ加点します。さらに欠席であってもコロナ感染による場合とwi-fi不具合による場合は「自己責任ではない」と判断して出席と同等の5点、欠席したが翌週までに自習してレポートを提出した場合は3点としています。このように毎回記録してある日常点を個人別に全回分集計します。これをしておけば、最終レポートの採点結果を出して合算したら成績評価(100点満点)が出る、というわけです。逆に言うと、授業が終了してさあ採点、といっても、まずこの基礎作業を済ませておかなくては、最終レポート読みから採点・成績評価の作業をスムーズに行なえないのです。今回の採点期間でもレポートを読む作業に入れたのは6日目からでした。
 8/6-7に京女大最終レポートを32名分まで採点しました。このまま京女大採点を完了まで続けてしまうと新潟大の成績提出締切に間に合わないと思い、8/8には新潟大にスイッチして12名を採点しました。
 8/8-10は教育科学研究会第61回全国大会にリモート参加する予定でしたが、3日間参加していては採点が間に合わないと判断して8/9の分科会だけにしました。ところがアクセスしてみると画像フリーズ、音声切れ切れでとても内容を聴き取れないと判断して退出。思わぬ時間ができて新潟大採点を12名。
 8/10は新潟大最終レポート締切日。両大学ともですが、最終レポートを受け取ると各大学のシステム経由で受領した旨のメッセージを送ります。8/10は新潟大受講生への受領メッセージ返信と、何らかの理由で締切に遅れた受講生への対応(きちんと連絡があれば減点せずに受領)でほとんどの時間を費やし、新潟大5名採点。
 8/11-8/17に新潟大の50名を採点し、新潟大の成績評価を完了。なお、最終レポートへのコメントと採点結果も大学のシステムを利用して各自に届けます。新潟大成績締切の8/18まで1日を残していたのですが、新潟大学への成績入力に必要なVPNへの接続が何度やっても不調で入力できないため、急遽教務担当者にメールしてメール添付で成績を送付し代理入力してもらいました。ともかくも新潟大の作業は終了。
 その後8/18-8/19に京女大25名を採点し、こちらも成績評価作業を完了しました。

 さて。
 これに似たようなことは三重大時代からたぶん20数年やってきています。今年は両大学合計168名の最終レポートを採点したわけですが、三重大時代の一時期、文科省が教育課程論を含む教職科目の一部について小免許対象者と中高免許対象者とに別々に開講せよと指示してきた時には、教育課程論を前期3コマ、後期3コマ、計年間6コマ開講したこともあります。各コマ80名をメドに受講制限していましたが、半期3コマとなると期末の最終レポート提出者は200名近くになっていました。
 その頃に比べればまだ今はまし、とも言えますが、その頃はまだ若かった、というのも事実。
 教育課程論の授業担当が僕の大学教員としての(量的に)最大のjobだったのが2018年度の三重大学退職まで。その後1年だけ在職した京都橘大学・京都教育大学連合大学院では、2ケタ台後半の受講生がいるような多人数授業は担当しませんでした。2020年度以降京女大の前期1コマ・後期1コマを担当するようになりますが、受講生は多くて2ケタ台後半にちょっとかかるくらい。従って2020・2021年度はおそらくこれまでの大学教員人生でもっともゆったりと授業担当できたのですが、依頼を受けて昨年度から前期新潟大の100名規模の授業が加わりました。
 去年の日誌を見ると8/1-8/18に両大学の採点活動を行なっており、今年とほぼ同じです。にもかかわらず今年の方が疲労感・倦怠感が強いのです。1年分年取ったというのはもちろんですし、8月初めにはほぼ回復したとはいうもののコロナの病み上がりであることも大きいでしょう。そうではあるのですが、あとどれくらい残ってるかなあと思いつつ採点活動を続けながら、もうやりたくないという気分に何度もなったのは事実。このブログにアクセスする両大学の学生はほとんどいないだろうとは思うのですが(しかし、授業通信でブログのURLを知らせています^^;)、もし見ている人がいたら顰蹙ものですし、それにまぎれもなく自分が出した課題についてほとんどの受講生が誠実に応えて作成したレポートです。読みたくないなら出さなければいい、他の課題の出し方で評価すればよいという話なのです。
 ただ僕の授業は、知識を一方的に伝授して理解したかどうかテストするようなものとはほど遠く、知識は提示するけれどもその理解・活用は受講生に任せて、受講生自身が個々の学習テーマや最終レポートでの全体総括の場で根拠に基づいて自分の考えを表明することを重視しています。意見を表明すること、グループ討論でそれを交流すること、ポートフォリオに記載して自分の考えの変遷を振り返ること、これらのことを重視しています。
 そうなると、成績評価では何を評価するか?
 まずは毎回の小レポートですが、それは知識定着確認のための小テストのようなものとは全く違います。毎回ランダムに編成する小グループでの討論テーマに関連して討論後に考えたことを書いてもらう場合もあるし、グループ討論テーマそのものについて書いてもらう場合もあります。いずれにしてもその回の学習で得た情報や他者の意見を踏まえて自分の考えをまとめるものです。
 さて、今期の最終レポートの課題内容をここで紹介しておきます。京女大「教育課程論」のものです。新潟大も「総合的な学習の時間」に関する項目が入ること以外はほぼ同じです。
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第Ⅰ部:ポートフォリオ(学習過程の記録)
①Teamsに提出した自分の小レポートをコピ-してWordファイルに貼り付ける。その際、投稿日時も含めてコピーしておく。
②各回の小レポート本文の前に、小レポートの課題文を授業通信Curriculum Managemenntから写しておく。
③グループ討論については、自分が記録担当者であったかどうかに関わらず、自分のグループの討論記録もコピ-&ペーストしておく。他の班員の小レポートについても、自分のポートフォリオに関係があって必要だと思う場合は(全文or抜粋を)収録してもよい。
④授業通信やTeamsで自分の小レポートに対して佐藤がコメントを付けている場合は、小レポート本文の後に収録する。
⑤上記の小レポート、グループ討論記録は、回ごとに改行等で区切り、□で囲む、網掛けか斜体文字にするなど各自で工夫して、わかりやすく区別して表示する。
⑥欠席し、かつ次回授業までに自習によって小レポートを提出していなかった回についても、後から授業通信や必読資料・参考資料等を見て考えたことがあれば、授業には欠席したことを冒頭に明記した上で記載する。
⑦提出した小レポートの内容について、その後の学習の進行の中で考え方が変化したり付け加わった場合には、小レポート本文と紛らわしくないように区別して追加コメントとして記入してもよい。
⑧最終回授業についても、小レポートはないが、グループ討論記録とともに、自分がグループ討論を通じて学んだことを記載する。
⑨第Ⅰ部の末尾に、ポートフォリオ作成全体を振り返っての感想を必ず書く。

第Ⅱ部:学習の全体総括
(1)第1回授業で、必読資料②-1(1998教育課程審議会答申)において「教師は教育の専門家として、自らの専門分野の指導力の向上に積極的に努めるとともに、教育課程編成全体にわたる視野をもつことを求めたい」と提言されていること(註・同答申において「教育課程編成全体にわたる視野」についてそれ以上の詳しい説明はありません)を紹介しました。そこで、15回にわたる教育課程論の学習を振り返り、(1)で用意された8つの問いに答えた上で、(2)であなたは「教育課程編成全体にわたる視野をもつこと」に関して何を学ぶことができたか、総括しましょう。
  ①~⑧の各項目のそれぞれについて、必ず以下のa・b2つの項目に分けて、問いに対する自分の考えを述べましょう。
 a.必読資料・参考資料等、その回の講義の中で学習・入手した知識・情報の中であなたの学びを広げたり深めることに役立ったことがらを紹介しながら、自分の考えを述べる。
 b.グループ討論や授業通信に掲載された他グループの討論記録・小レポートなど、他の受講生の意見のうち自分が考え方を広げたり深めたりする上で影響を受けたことがらを紹介しながら、自分の考えを述べる。

 ①敗戦後の日本の学校教育は、戦前戦中の学校教育をどのように反省することからスタートしたのか?
 ②学習指導要領の原点である1947年版学習指導要領の特徴は何か?
 ③教育課程に「全国的基準」は必要か? 「全国的基準」に「拘束力」は必要か?
   ④俗称「ゆとり教育」の主張は日本の学校教育にとっていったいどのような意味があったと思うか?
 ⑤「生きる力」を教育目標に据えたことで学校教育はどのような影響を受けたと思うか?
 ⑥コロナ禍下の学校教育で生じた様々の問題から教訓として学ぶべきことは何か?
 ⑦2020年代以降を予測する一連の教育政策によって、日本の学校教育はどう変わっていくと思うか?
 ⑧hidden curriculum(隠れたカリキュラム)を意識している教師と無視している教師とでは、子どもたちとの関係づくりにどのような違いが生じるだろうと考えるか?
*記載のしかたは以下の通り。
 ①a:
  b:
 ②a:
  b:
  …
(2)前項における本授業の学習項目ごとの総括作業を踏まえて、「教育課程編成全体にわたる視野を持つ」とはどういう意味だと現時点で考えるか、また一教師が「教育課程編成の全体にわたる視野」に近づいていくためにはどのような努力が必要だと考えるかについて、自分の考えを述べましょう。
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 毎回の小レポートとグループ討論記録など、毎回の学習活動の記録を蓄積・集成したものが最終レポート第1部のポートフォリオです。毎回受講生本人もしくはグループの記録担当者によって既に記録として残されているものをcopy&pasteするだけ(もちろん新たに気づいたことがあれば付記するよう指示しています)なのですが、受講生にとってはけっこうめんどくさいものかもしれません。だけど、第1部のまとめとしてポートフォリオ作成を振り返り感想では、自分の考え方の変遷を改めて知ることができて大変役立ったというものもなど、肯定的感想が多く出てきます。
 第2部ではポートフォリオをベースにしながら授業での学習テーマ毎に学習した情報と他者の意見を踏まえて自分の考えを述べ、最後にそれらを総括して「教育課程編成全体にわたる視野」とは何かについて自分の考えを述べてもらいます。

 こうした構成である最終レポートを読んで何を評価するか。授業で僕は繰り返し文科省の教育課程政策、特に学習指導要領に「法的拘束力」があるとする見解を強く批判します。一方でそれと同時に、みなさんは僕の意見も含めて自分の見解を自由に述べてもらえばよく、講師の見解を「忖度」する必要はないんだと繰り返し述べています。ですから小レポートでも最終レポートでも、佐藤の見解に賛同する意見もありますけれども、異論もたくさん出てきます。それでいいと思います。
 そう宣言した以上、最終レポートに書かれた意見が僕の考えと近いか遠いかで点数を付けることは、間違ってもできません。どのような見解もその人の意見として尊重し、また尊重しているよということが伝わるような評価をしなければなりません。
 そうなると結局、設定した課題文をよく読んでそれにきちんと応えて考察しているかというようなことが主要な評価ポイントになります。例えば、上記課題文(2)の全8項目についてaの視点からとbの視点から考察するよう指示していますが、bで他の受講生の具体的意見を全然紹介せずに自分の見解だけを書いている場合などが減点の対象になります。ただ、こういう採点をしていると、その人が考えたことの全体の中ではほんの片隅の形式的なことをほじくっているような気にもなってきます。
 一方、「良い」と判断する場合について。長年のレポート採点経験に基づいてということはもちろんありますが、「ここがこう良いから○○点」というように基準が示せません。最終レポートの採点基準については、授業通信で提示する成績評価基準の中で次のように書いています。
====================
 ・最終レポートを期限内に提出すると、基礎点として15点を与える。
 ・基礎点=15点を与える条件を満たしているものの中で、独自性・創造性に富む思考を展開していると認められる場合、その程度に応じて加点する(最大+15点)。
 ・最終レポートの課題文が要求していることに応えていなかったり、要求したこととは異なる内容であるなど、設定された課題に照らしてレポートの内容に不備がある場合は基礎点から減点する(最大で15点まで減点)
 ・第Ⅰ部及び第Ⅱ部それぞれに部分点を設定してそれを集計するのではなく、全体を一括して採点する。
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 加点法を旨としているはずの僕ですが、上記の「減点」の方はやりやすいのです。一方、僕が「良い」と判断するのは、上の評価基準では「独自性・創造性に富む思考を展開していると認められる場合」であることは間違いないのですが、そして実際にこの基準でかなり多くのレポートに20点、少しのレポートに25点、そしてごくわずかのレポートに30点を今期も付けたのですが、もしもに受講生から「私のレポートはなぜ20点であり、25点ではないのですか?」と質問されたら、具体的にうまく説明できる自信はありません。学生にとって100点満点のうち何点を取れたかということは、GPA(取得単位の平均点数)とも関わることでもあり、もちろん授業担当者としてもいい加減な判断はできません。しかしそれでも、個人の意見を述べたレポートを点数評価する作業はとても難しいです。

 最終レポートを読むとき、第1部ポートフォリオについてはざっと流してみる程度で、きちんと読むのは末尾の「全体振り返り」だけです。第1部と第2部は内容的に連動しているので、以前は少し時間をかけて第1部も見たりしたこともあるのですが、それではとても時間が足りません。ポートフォリオの各回の内容は、毎回の授業後のレポート通読作業で必ず読んでいるので、僕としてはそれでよしとします。
 第2部に入ると、レポートにコメントを付けることを自らに課しているので、(1)の8項目と(2)のうちどの部分にコメントを付けるかを考えながら読みます。全体を総括して包括的なコメントを述べるというようなことは、例えば提出される最終レポートが数名分しかないのであれば、何度か読み返すことで可能になるできるでしょうが、百数十人分を読まねばならないと思うととてもできません。最終レポートのどこか一部分についてコメントを書くことになります。受講生が書いている文章に対して異論、批判的意見を書くこともありますが、その際先述のように、《佐藤と異なる意見だから低い点数を付けられた》と誤解されることがないように注意します。最後に「あくまで私個人の意見です。」と付記したりします。まあ、コメントを付けたくなるようなレポートは、たとえ私の考えとは異なることが書かれていたとしても、しっかりと根拠に基づいて自分の考えを述べている場合が多く、20点以上を付ける場合も多いです。

 まあ、こんなことを考えながら通読・コメント・採点しているのと、その他にポートフォリオと僕の手元の日常点記録と齟齬がある場合にネット上の学習記録と照合したりということもたまにあるので、だいたい1レポートあたり30分近くかかっていると思います。今期も約2週間で170名弱を採点したので1日あたり12人程度。午前午後で6時間前後は採点作業をしているので、やはり@30分程度になります。過去の記憶を手繰り寄せても、三重大時代でも1時間に3人まで採点できたら上々のペースだったと思います。
 今年の8月上旬・中旬は、ほとんど外出することもなく、採点三昧の日々でした。上記で説明してきたことから自分でもよくわかっているのですが、「こうならざるを得ない8月」なのです。でも今年は従来より疲労感・倦怠感が大きかったことから、「来年も続くかな?」という不安があります。すでに新潟大からは来年度授業担当について依頼があり、承諾しました。京女大はまだ先だと思います。新潟大は年度初めに70歳である歳までと聞いているので2025年度が最後です。京女大はわかりません。いつまでも続く仕事ではなくて数年後には完全にお役御免になると思うので、あと数年、オファーが来る限りはがんばって応えようという思いとともに、しかし来年度が今年と同じ程度の仕事量だとしたら果たして同じように責任が果たせるのかという不安もあります。
 すでに年金生活の身であり、両大学の給与を生活の糧としているというわけではないのですが、以前自分勝手に計算したところ、90分の授業担当だけではなくて準備時間も含めると時給600円台しかもらっていないことがわかりました。それでも授業期間は週2コマの授業とそれぞれ1.5日程度の準備時間なので、週2日くらいは休養期間があります。8月に入るなり全く休養期間なしに採点業務に取り組んでくたくたになりましたが、特別な手当てが出るわけでもないし、だいたい両大学は採点結果を受け取るだけで、僕がこんな採点活動をしていることなんて知りません。

 長年やってきたことの延長としての今年、なんですが、誰に頼まれたわけでもなく自分で続けてきたことでしかないこういう内容の採点活動について、少々ばかばかしくなってきていることも事実です。ここまでやる必要があるのか?
 ここから先がこの長い文章を書き出したことの目的なのですが、自分でやり続けてきたことであるだけにやり方を変える策も自分の頭でひねり出すしかないので、何か知恵はないかということ。

 一つ考えられるのは、毎回小レポートを課しているのであれば、その日常点だけで成績評価を行ない、最終レポートを廃止すること。これだと8月は「夢のお休み期間」になります。しかしそうなると、小レポートの評価方法を換える必要が出てきます。これまで小レポートは、締切までに提出すれば5点、としてきました。もちろん僕は毎回の小レポートを全部読みますが、提出されたレポートが課題に全く沿っていないなどの特別な場合を除いて、レポートの内容によって段階評価して点数を差別化することはしてきていません。授業全体の中でその受講生の学習の到達点を点数評価するのは最終レポート(30点満点)のみとしてきました。最終レポート採点で厳しく評価することも高く評価することもしてきました。この最終レポートを廃止した場合、それでは成績評価は毎回の小レポートを提出することで5点(点数は変更する必要がありますが)獲得することの累積のみ、ということにしてよいのか。
 まあ、折衷案として全15回の小レポートのうち数回は配点も大きくして出来映えによって点数を変える、ということもあり得ます。ただこれまでの一律毎回5点方式は、全15回の授業のうちどの回に出席しどの回を欠席しても各回を同等に扱うことを前提にしてきました。今期だってコロナによる欠席もwi-fi不具合による欠席もありました。ある回の小レポートを例えば10点とか15点とか通常より大きい配点にすると、その回に欠席した受講生にとっては大きな減点になってしまいます。三重大時代にも、例えば3コマ分の小レポート通読があまりに大変なので、小レポートは数回に1回課すことにしようかということも考えたことがありますが、この場合も同等の不公平が生じます。たまたま小レポートが課されている回に欠席した受講生と、課されていない回に欠席した受講生の間の不公平です。

 ここでまたちょっと余談。三重大時代から感じていたことですが、教育学部の学生たちの中には「公平」志向、「不公平」への反発が強いです。教育課程の全国的基準と「法的拘束力」について学習するときに毎年多く出てくるのが、法的拘束力に支えられた全国的基準(=学習指導要領)がないと、入試の時に有利不利が生じるという意見です。丁寧に見ていけばこの論点は論破できますが(意地が悪いのでそこまでしませんが)、この主張の論拠は結局、《公正な競争》(の勝者?)としていまここにいる自分という存在を否定されたくないということだと思います。また別のことですが、これも三重大時代ですが、当時も毎回の授業後に三重大学moodleというシステムにレポートを投稿させていましたが、僕が「なりすまし投稿」と名づけた、授業を休んだのに出席したふりをしてレポートを投稿してくる受講生が時々いたようです。こちらではなかなか証拠を掴めないのですが、同じ班のメンバーから「あの人はいなかったのにレポートが出てる」というタレコミ(^^;)がまれにありました。そういう時たれ込んだ学生はだいたい怒っています。自分はちゃんと出席してレポートを書き、提出した。なのに、「なりすまし投稿」の学生と同じ日常点が付く。自分の方がたくさん努力したのに同じ点数。これは《不公平》だと。教員が明確な対応をとらないと、この怒りは教員にも向きます。だから僕は、(「なりすまし投稿」の完全摘発は無理だとわかりつつ)「発覚した場合は厳罰(不合格)とする」という一文を成績評価基準に加えました。タレコミした学生の主張はもっともだと思いますが、ここでも《公平》論の形を取りつつ、努力したものが努力しないものよりも高く評価されるのが当然だという相対的能力主義が根底にあると思います。《競争に勝ってここにきた》あるいは《競争に負けたからここにしか来られなかった》というような、学生の自意識のあらわれではないかと僕は意地悪く想像するわけです。この辺をさらにほじくると僕自身の能力主義も露呈してくるのでこれくらいにしますが。そういうわけで教育学に関する学習としては、「公平」「平等」「一律」などの概念について学生とともに今後とも検討を深めたいですけれども、一方で授業運営において教員の配慮不足や不注意によって受講生から《公平・公正さを欠いている》と不満を持たれるようなことは最大限避けたいと僕は考えています。だから小レポートの間引きや配点の重点化は、やはりできません。

 あと考えられるのは、小レポートも最終レポートも含めて、全ての学習課題について、教員の仕事を課題を出して受講生がそれに応えて学習活動を行なったかどうかを確認することに限定してしまうこと。これは現行の小レポートも最終レポートも維持することを前提しているので、これだと仕事の軽減には大してならないかもしれません。例えば、最終レポートを20点満点とし、現状のような小刻みの評価をやめて、設定された課題に従って作成されたレポートならば20点満点とする。つまり「独自性・創造性に富む思考を展開している」というような内容上の「良さ」を点数化して評価することをしない、ということ。これについては、《レポートにおける思考は思想信条の自由として尊重しなければならず、点数評価に馴染まないので、課題に即しているかどうかを形式的に判定する、最終レポートで大事なことは高い点数を取ることではなくて既定の条件(課題文の内容)を満たしながら自分の考えを自由に述べることだ》ということを、授業期間中にかなり丁寧に説明する必要があります。そして、そうしたとしても、大学の授業の期末に実施されるテストやレポートはその授業の学習で自分がどれだけがんばりどれだけ成果をあげたかが点数で高く表示されるものであり、そのことを目標にがんばる、という学生の平均的なテスト・レポート観から僕の考えはかなり離れているであろうから、理解されにくいかもしれません。
 それと、これを実施した場合、採点者である僕は、「良さ」を点数化するという苦労はなくなるものの、あくまで20点をかけての学習結果チェックである以上、「課題文を満たす」という条件に達していない中途半端なレポートであった場合の「減点基準」は、やはり決めなければならず、加点法的発想で授業を進めてきたはずなのに最終レポートでは減点法的発想が中心になる、という僕自身の授業運営理念と合わない事態が起こります。

 それであればいっそのこと、総括作業としての最終レポートをやめて、15回の授業全回で小レポート提出とし、@7点とする。満点で105点となるがその場合は100点とする、というやり方も考えられます(最初のアイデアに戻りましたね^^;)。小レポート課題は今と同じで各回の学習活動を小総括するようなものとし、課題文の条件を守り締切までに提出した場合7点とする。これであれば毎回の授業後の僕の作業負担は今と変わりませんが、授業終了直後に成績を出すことができます。いろいろどうしようか考えてきた最終レポートを結局廃止することになり、この文章をあれこれ考えながらここまで作成してきたことへの徒労感は残りますが、それでも結局は最終レポートの出し方に小手先の変更を加えても、負担という点では変わらないような気がします。

 さて、最終レポート廃止という英断(?)を自分は本当に実施できるか?
 9月下旬から後期京女大「ジェンダーと教育」が始まりますが、これについてはすでにシラバスを公表しており、また前期「教育課程論」とは異なる授業科目とは言え、年度途中から基本的な授業評価方法を変えるのは自分でもどうかと思うので、この自己提案を来年2月の2024年度シラバス作成時期までひとまず温存・保留しようと思います。
 授業シラバス自体については、作っては壊すということを僕は繰り返してきました。2月に作成・提出したシラバスを4月、9月の授業開講期に授業通信に掲載する全15回の授業スケジュールに転記するとき、たいていどこかを集成してきました。今年の後期授業についても、すでに1点、大きな変更を予定しています。シラバスの変更は学生との契約違反だという主張を見たことがありますが、契約違反になることを理由に不本意な部分を含むシラバスを原案通り実行するより、変更したい理由を受講生にきちんと説明してよりよいと考える方向にシラバスを変更する方が担当教員として誠実だと僕は思います。
 それはそれとして、成績評価を日常点+最終レポート点で行なうのかそれとも前者だけにするのかというのは、授業の根幹に関わる重要事項なので、やはりシラバス段階から明記しておくべきだと思います。今回検討して一応の結論を見た僕の授業の成績評価方法改革は、実施するとしても2024年度前期からということになります。

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