34 「隠れたカリキュラム(hidden curriculum)」考 ―佐貫浩『学校と人間形成』(2005)・『危機の時代に立ち向かう「共同」の教育』(2023)と佐藤の京都女子大・新潟大授業における受講生のリサーチ・討論から考える

(2023.9.10-18 執筆)
 先日、「2023.9.9 『教育』を読む会・読者会全国オープン交流会第1回(神奈川『教育』を読む会への参加)」が開催され、私もリモートで参加しました。内容は、佐貫浩氏から新著『危機の時代に立ち向かう「共同」の教育-「表現」と「方法としての政治」で生きる場を切り拓く-』(旬報社 2023)と「人格の基盤から声をつむぎ出す」(『教育』No.932 2023.9)をもとにした話題提供があり、その後神奈川『教育』を読む会の人たちと全国各地から参加した参加者が自由に討論する、というものでした。
 私はこの機会に向けて佐貫氏の新著を読み進めていましたが、時間切れで第11・12章を残し、第1~10/13・14章を読んだ段階で研究会に参加しました。
 ちなみに、佐貫先生の新著の構成は以下の通りです。

佐貫浩『危機の時代に立ち向かう「共同」の教育-「表現」と「方法としての政治」で生きる場を切り拓く-』(旬報社 2023.8.10)
 
  第Ⅰ部 世界と子ども世界の平和の危機の中で
   第1章 平和を回復するための思いをつなげあう場を教室の中に取り戻す
       ―ロシアのウクライナ侵略戦争の中で教育を考える
     一 今学校と教室の中にこの戦争を議論する場をつくり出す
       ―ロシアの侵略を考える教育研究集会への呼びかけ(2022年4月)
     二 ロシアのウクライナ侵略戦争を教育の中でどう学び語り合うか
       ―平和への希望と信頼をつくり出すために
     三 声によって平和をつくる―高校生平和ゼミとともに
   第2章 社会・世界・自らの生活世界を平和の方法でつくり出す
       ―主権者を「現れさせる」民主主義の空間をつくり出す
     一 ロシア侵略による戦争の「世界化」
     二 この流れを止める力
     三 「意味化」の困難と子どもの認識における「分断・乖離」
     四 平和のための「政治」を起ち上げる―平和の方法と力の三つの段階
     五 民主主義は主権者を「現れさせる空間」
     六 今こそ転換の好機(とき)―私たちの目標はどこにあるか
   第3章 個を切り拓く方法として民主主義をとらえる
       ―教育における民主主義の意味と役割
     一 「闘争」の方法としての多数決民主主義
     二 「国民の教育権論」と民主主義の意味と役割
     三 民主主義を平和の方法論として捉える視点
     四 ハーバーマスの「コミュニケイション論」との出会い
     五 「主権者教育」と「方法としての政治」
     六 新自由主義批判、そしてケア論との出会い
     七 新自由主義の展開と民主主義をめぐる対抗の新たな展開
   第4章 「方法としての平和」論再論
       ―平和と表現・民主主義の関係を考える
     一 「たたかいの方法としての平和」
     二 平和の方法は力を持ちうるのか
     三 「表現」とは何か
     四 表現とケアの関係
     五 再び「方法としての平和」を考える
   第5章 気候・人権の危機と教育の課題
       ―システムチェンジを引き起こすSDGsの取り組みを
     一 人類史的な危機への対処を困難にする新自由主義
     二 危機に向かい合う共同への信頼と希望を取り戻す
     三 真の危機に向かいあうSDGsの視点を
     四 生きる方法としての「政治」を立ち上げる
     五 教師と大人と子どもが「本気」で繋がること
  第Ⅱ部 学力と人格の関係をめぐって―「資質・能力」論批判
   第6章 コロナパンデミックと新自由主義
       ―危機の中から教育の未来を切り拓くために
     一 新自由主義とは何か
     二 新自由主義の舞台上に展開するコロナパンデミック
     三 社会と人類の危機に対処する構えを創り出せない教育
     四 新自由主義に対抗する基盤を教育の場につくり出す
     五 子どもの学びの本質に立ち返る
   第7章 「学力と人格の結合」論と「資質・能力」論
       ―今、学力問題はどこに存在しているのか
     はじめに―問題関心
     一 「資質・能力」論の戦略
     二 「学力と人格の結合」論と「資質・能力」論の共通土俵
     三 「資質・能力」視点の歪み
     四 コンピテンシー・「資質・能力」視点の危うさ
     五 AI、GIGAスクールの展開と知の変質
     おわりに―教育学が問われている
   第8章 評価と「資質・能力」論―高校における観点別評価をどう考えるか
     一 観点別評価の基本構造
     二 観点別評価の矛盾への中教審の「弁明」
     三 「態度」概念の二つの規定、その相互浸透性
     四 「学力と人格の結合」と評価の関係
     五 現代における三つの評価の交錯
     六 評価の肥大化、PDCAシステムによる支配の全面化
     七 教育学の課題
   第9章 GIGAスクール・AIと知の構造変容
       ―学びの危機と民主主義教育の課題
     一 「個別最適」は何を意味するのか
     二 教育内容のコントロールと編成の論理の転換
       ―「教育の自由」のための権利論の再構成
     三 「学力」と「コンピテンシー」の違いについて
     四 「合意知」と「科学知」、そしてAI知
     五 人格的結合の意味について―<Face to Face>の意味について
  第Ⅲ部 方法としての政治と新自由主義による人間管理
   第10章 「危機の時代」教育と教育的価値としての政治
       ―学びと発達の場に「自治と共同のための政治」を
     一 今、直面しつつある「危機の時代」の本質とは
       ―教育的価値としての「政治」概念を考える
     二 生きるための「方法としての政治」を子どもの中に取り戻す
     三 危機の時代と「方法としての政治」のための教育
       ―ケア、表現、コミュニケーション、公共性、参加、子どもの権利
   第11章 M.フーコーの新自由主義把握の検討
       ―競争を生み出す統治技術と「生政治」
     一 なぜフーコーの新自由主義論を検討の対象とするのか
     二 フーコーの新自由主義把握の構造と論理
     三 フーコーの新自由主義概念の継承と批判の視点
     おわりに
   第12章 新自由主義と「ホモ・ポリティクス」vs「ホモ・エコノミクス」
       ―ウェンディ・ブラウン著『いかにして民主主義は失われていくのか―新自由主義の見えざる攻撃』の提起するもの
     一 ブラウンのフーコーに対する理論的な立ち位置
     二 新自由主義による社会と生活の再規定の展開
     三 「ホモ・エコノミクス」と「ホモ・ポリティクス」
     四 ブラウンによる「ホモ・ポリティクス」の復活の視点
   第13章 道徳の教科化による公教育の質の転換
       ―勝田守一の道徳教育論の把握にかかわって
     一 国民の道徳性をめぐる異常事態の出現
     二 道徳的価値をどう扱うのか―勝田守一の道徳教育論の構造
     三 関係性としての道徳性とケアの論理の関係をめぐって
     四 道徳「教育」の対抗戦略
   第14章 道徳的価値を教育はどう扱うべきか
       ―道徳性の教育の方法と「政治」の方法の関係を軸に
     一 道徳性の教育の方法について
     二 道徳性の形成に働く価値のありようについて
     三 「方法としての政治」と道徳的価値をめぐる合意の形成
     四 教科「道徳」に対する私たちの「対抗」戦略
   あとがき

 ところで私はこれまで、「教育学文献学習ノート」シリーズの中で佐貫氏の著書を2回取りあげていましたが、それは本ブログを立ち上げる前のことでしたので、先日以下の通り【アーカイブ】として本ブログに再録しました。

32 【アーカイブ 11】教育学文献学習ノート(19)佐貫浩『学力・人格と教育実践 変革的な主体性をはぐくむ』(大月書店 2019.7.12刊行)
https://gamlastan2021.blogspot.com/2023/08/32-1119-2019712.html

33 【アーカイブ 12】教育学文献学習ノート(20)佐貫浩『「知識基盤社会」論批判 学力・教育の未来像』(花伝社 2020.3.5刊行)
https://gamlastan2021.blogspot.com/2023/08/33-1220-202035.html

 『学力・人格と教育実践』は、2019年夏に私が自分の初めての単著である『「生きる力」論批判』(三重大学出版会 2019)を佐貫氏に送ったところ、佐貫氏から折り返し送って下さったものです。その後『「知識基盤社会」論批判』も入手して読みました。上記2編の「学習ノート」は2021年5月から6月にかけて書いたものです。両方ともに相当膨大な量の引用を原著からした上で、「我田」に引っ張り込んでコメントを書いています。どちらの「学習ノート」においても私の主たる関心は、私が拙著で批判した教育目標としての「生きる力」について、佐貫氏がどこでどのように言及しているか、でした。

 今回の新著についても当初私は、「教育学文献学習ノート」シリーズの最新投稿の対象として、著書全体を見渡して学ばせていただいた部分を引用し、その上で自分の関心ある角度からコメントを書こうと思っていました。しかし読み進めるうちに、「学習ノート」前2作にも増して《我田引水読み》だと読者の方々から言われるのを覚悟で、全体にわたる抜粋・紹介作業はせずに、自分が関心ある切り口からのみコメントを述べることにしました。
 ちょっと言い訳すると、本書とその前に読んだ中西新太郎・谷口聡・(故)世取山洋介著・福祉国家構想研究会編『教育DXは何をもたらすか 
「個別最適化」社会のゆくえ(大月書店 2023 Kindle版)については、私の残り少ない大学での教育課程論関係授業担当において教育課程の最新動向をversion upして語るための自分のテキストとして活用したいと考えています。これまで「学習ノート」という体裁で教育学研究者の研究から自分が学んだことを抜き書きしてコメントしてきましたが、コメントなしに抜き書きだけしている部分もたくさんありました。それもまた自分にとっては学びの軌跡なのですが、ほとんどが抜き書きである文章を自分のブログで他者に示すことにどれだけの意味があるかを改めて考えてつつあります。「学習ノート」をやめる、というわけではないのですが、今回は従来の「学習ノート」とはちょっと違う形で発信してみます。

 さて話を最初に戻して、2023.9.9のリモート研究会参加なのですが、私としては佐貫氏から新著についてのお話を伺えることを楽しみにしていましたが、自分でも全14章中12章分を読んだ段階で、この後書くような問題が気になりつつありました。しかし、その問題は佐貫氏の新著全体で論じられていることとの関係では中心部分ではないような気もして、研究会当日は発言しようとは思っていませんでした。だけど、研究会の運営を担当されていた寺尾さんが、私が前述の自分のブログで佐貫氏の過去の2つの著書へのコメントを投稿し、そのことをfacebook上でも告知していたのを見つけて読んで下さったようで、私に発言を振って下さいました。それでせっかくなので、気になっている「隠れたカリキュラム」をどう見るかという論点について発言しました。私は佐貫氏への質問とお答えを聞いた後の感想の計2回発言しました。佐貫氏は、丁寧に答えて下さいました。しかしこのやりとりはもちろん口頭発言で、私も佐貫氏の応答をうかがいながら簡単なメモをしましたが、もちろん悉皆的に記録したわけではありません。ですから研究会での応答内容自体はここへ持ち出すことはせず、文献として確定しているものを手がかりに論じたいと思います。


Ⅰ.佐貫浩氏の「ヒドゥン・カリキュラム」把握について

Ⅰ-1.佐貫浩『危機の時代に立ち向かう「共同」の教育』(旬報社 2023)における「ヒドゥン・カリキュラム」関連記述 


 後で述べるように、佐貫氏のこれまでの著作にも「ヒドゥン・カリキュラム」関連記述があるのですが、今回の私の問題意識の流れに沿って、まず新著における記述から取りあげたいと思います。
 私が気づいた限り、佐貫氏は以下の箇所で「ヒドゥン・カリキュラム」に言及しています。文字通りその箇所だけを抜き書きするのでは不十分と思いますので、同書の構成上どのような部分で言及されたのか、私の理解の範囲で最低限の紹介をします。

第7章 「学力と人格の結合」論と「資質・能力」論―今、学力問題はどこに存在しているのか
  三 「資質・能力」視点の歪み

 この節の冒頭では、【国の学力政策が、「資質・能力」論として展開し始めるなかで、学力を、人格との関わりで把握するという理論と政策が国と教育行政の側から展開され始めた
(P.133)こと、【中教審は、OECDのコンピテンシー論を基盤に置きつつ、その質を「資質・能力」という概念に組み込む形で導入した(同)ことが指摘されています。そして日本においてコンピテンシー論が「資質・能力」論に読み替えられていく過程で学力と人格の関わりに関してコンピテンシー論が持っていた【良質な面(P.135)が【改変され(同)てしまったと指摘します。 そして佐貫氏は「図2 政策における学力と「コンピテンシー」の改変の構図(P.135)を提示し、3点にわたってこの図の説明を行なうのですが、その第2点の中に、以下のように「ヒドゥン・カリキュラム」への言及があります。

第二に、「資質・能力」型モデルでは、子どもの人格の中に、➀「資質・能力」型教育によって、能動的に働く新自由主義的な価値規範が組み込まれ、子ども自身の人格的能動性へと組み込まれようとし、②同時に学校・教室の空間の新自由主義的性格―競争と自己責任規範―による形成作用
(ヒドゥン・カリキュラム)によって、新自由主義的な行動規範が強力な影響を及ぼしている。だから学校の教育・形成作用によって、人格の中に、新自由主義的な規範に立ったサブ人格の組み込みが企図され、その能動性と学力形成との結合が目指されていくことになる。(P.136 下線は佐藤)

 私が引っかかった部分は、(私の読み誤りの可能性もありますが)下線部の最後に(ヒドゥン・カリキュラム)と記載されていることで、その前段、すなわち「学校・教室の空間の新自由主義的性格―競争と自己責任規範―による形成作用」と「ヒドゥン・カリキュラム」とはイコールなのか?ということです。
 佐貫氏は本書の別の箇所(第10章 「危機の時代」教育と教育的価値としての政治―学びと発達の場に「自治と共同のための政治」を 三 危機の時代と「方法としての政治」のための教育―ケア、表現、コミュニケーション、公共性、参加、子どもの権利 (3)教室を世界のリアリティとつなぐ―閉ざされた「自己責任」意識を「社会矛盾」へ開く)で、以下のことを述べています。

今、子どもたちも日々の生活の中で、次のような課題や矛盾を感じながら、不安や困難を実感しつつ日々を生きている。
 ➀<競争の圧力>競争と自己責任の世界。勉強、受験、社会格差の中でのサバイバル
 ②<バーチャル世界>ネット世界やSNSへの没入とその中での他者との関係への囚われ
 ③<教室、仲間関係のミクロ・ポリティクス世界>暴力と同調、主体性の剥奪
 ④<世界の危機>格差・貧困社会、コロナ、気候危機、ロシア侵略と戦争の危機、等々
(P.216)

 先の「学校・教室の空間の新自由主義的性格―競争と自己責任規範―」とは直接には上記記述の③や➀に該当し、さらにその背後には②や④も存在するという重層的関係を構成していると理解していいと思われます。

 また、「序 (5)政治とは何か―子どもが生きる方法としての政治」には、以下の記述があります。
実は政治は、子どもたちの生活世界において、現にリアルな方法して、そしてある意味で子どもたちを不自由にする性格を帯びて、機能し続けている。
 具体的にはいじめという支配の方法がまん延し、同調と忖度、強いものへの屈服、表現の自由の剥奪、自分の人間的思いの封印、ジェンダーによる差別、暴力による支配、等々を内容とするミクロ・ポリティクスが展開している。もちろん、それは事柄の一面である。子どもたちが生きている「親密圏」の生活世界においては、人格と人格の共感的な交わりの世界もまた展開している。個の尊厳を土台としたケアの関係もまた存在している。しかし現実には、その双方が入り交じった生活世界を―全体としては否定的な性格が支配的になった状況の中で―子どもたちは生きさせられている。
(P.10)

 上記の子どもの世界に関する概括的ではあるが丁寧な描写を読めば、佐貫氏が教室空間に現出する子どもたちの関係やそれを規定する要因を柔軟に把握していることはよくわかります。
 ただ、それでも教室空間の「ヒドゥン・カリキュラム」とは、子どもたちに対する新自由主義的な支配・管理・拘束のシステムとイコールなのだろうか(教室空間の構成要素はそれだけではないとしても)?という疑問が、私の中ではまだ解けていません。



 佐貫氏が「ヒドゥン・カリキュラム」に言及している次の箇所に移ります。

第9章 GIGAスクール・AIと知の構造変容―学びの危機と民主主義教育の課題
  五 人格的結合の意味について―<Face to Face>の意味について


教育という仕事は、人格と人格の関係を、人格形成への教育力として再組織化するという側面をもっている。たとえば、ヒドゥン・カリキュラムという問題把握は、学校や教室の中の人と人との関係の中につくり出される規範が、学ぶことの意味や価値を規定することによって、学びそのもののありようを規定し、否定的な人格形成として働く―具体的には、競争という規範に沿う人格の形成、学力格差によって社会格差を自己責任として受容する態度、強いものへの服従の戦略を獲得すること、等々―ということに注目した概念である。教師は、子どもたちが生きている(子どもたちが支配されている)その空間の競争や支配の論理、規範(ヒドゥン・カリキュラム)それ自体を組み変え、教室を民主主義や平和、平等、人間的な共同の価値が組み込まれた空間へと組みかえることで、子どもがその新たな規範を自己のエンパワーメントの方法として獲得し、学びの性格を人間化していくというような働きかけをしてきた。それは、生活指導や自治市との教育方法論であるといって良い。
(P.186 下線は佐藤)

 佐貫氏は上記で、「ヒドゥン・カリキュラムという問題把握」と形容し、学校・教室における人間関係の規範が「否定的な人格形成として働く」「ということに注目した概念である」と述べていて、ニュアンスとしてはある意味で《そういう一つの学問的枠組みもある》と、客観的に叙述しているのだとも読めなくはありません。しかしその後で「その空間の競争や支配の論理、規範
(ヒドゥン・カリキュラム)」とも書いているので、学校・教室空間における《望ましくないもの》を取り出すのに有効な概念装置であるという価値判断に基づいてこの語を用いているとも読めます。
 しかし、ヒドゥン・カリキュラムとは活動であり、自覚的な教師の働きかけの結果として「組み変え」ることが望ましいものなのか? というより、そのような教師-子ども関係を作り上げるということが、今ではないにしても将来的に可能なことなのか? そうするのがよいのか? というのが私の疑問です。この点については、本稿の後半で私の大学教育実践について述べる際に詳論します。


第10章 「危機の時代」教育と教育的価値としての政治―学びと発達の場に「自治と共同のための政治」を
  二 生きるための「方法としての政治」を子どもの中に取り戻す
 (2)子ども世界と教室に「政治」を立ち上げることの困難

 
 私が気づいた限りでの、本書における「ヒドゥン・カリキュラム」への最後の言及箇所は、以下の通りです。

人類が方法としての政治に、人権や平等や民主主義の価値を組み込むには実に長い挌闘があった。その意味では、子どもがその生きる共同関係の中で、人権と平等の規範に依拠して、民主主義的なコミュニケーションを方法とした政治を立ち上げることは、極めて意識的な社会=大人の側からの働きかけを必要とする。政治は、極めて高度な文化的な方法だといわなければならない。だから文化的かつ生活指導による自治への働きかけ(教育)なしには、子どもは政治という方法を人間の自己実現のための共同を創り出す強力で人間的で平和的な方法として認識し、身につけることは難しいだろう。
 しかし現実は、それ以上に大きな困難と課題を抱えるに至っている。それは、あらためて整理すれば、以下のような事態が関係している。
 ➀「勉強」、「学習」という営みは、現実には、排他的な競争と自己責任規範に貫かれている。共同によってよりよく生きる方法に対して、競争によって他者よりも有利に生きる方法が、学校教育が奨励する方法となっている。
 ②格差・貧困の拡大によって、平等という理念が大きく否定されている。しかもそれらが自己責任化され、社会的に解決すべき課題として把握できなくなっている。差別的な「能力競争」の結果を理由とした格差、不平等がむしろ正義であるとの観念も強い。
 ③いじめなどを含んで、暴力による支配が、広く浸透している。それは今子どもたちのものとすべき民主主義や平等や人権やコミュニケーション的合意の方法の対極にあり、平和と民主主義の政治を教室・学校に実現する見通しをもてない状況にある。
 ④孤立しないための戦略が同調や弱者排除、表現抑圧等の病理を生んでいる。表現の自由が封殺され、自分の思いや願いと表現して、他者とつながり、安心して生きていく空間が奪われている。表現の自由は、コミュニケーションを方法として行使する上で決定的な重要性をもつ。
 ⑤教室が「正解知」伝達の場となり、学習の過程においてコミュニケーションと民主主義の方法が獲得されていない。学習空間が、民主主義と表現を拡大する機能をうまく実現できていない。
 ⑥子どもたちが成長する環境としての汚れた現実政治が、個の尊厳に基づく人間的共同の方法であるべき政治への信頼を奪っている。……等々。
 これらの性格が、子どもたちから「方法としての政治」を見えなくし、「政治」を自らが生きる方法として獲得することを妨げている。学校・教室空間には、方法としての政治が立ち上がることを拒否する力学が展開しており、新自由主義の規範にしたがって人をホモ・エコノミクス化する人間形成作用がより強力に機能している。このような強力なヒドゥン・カリキュラムが存在する故に、そのカリキュラムに対抗し、それを組み替える意識的実践なしには、子ども世界、教室空間に、人間が大人へと成長していく学びの場に、民主主義的な「方法としての政治」は立ち上がらないのである。
(P.206-208 下線は佐藤)

 「ヒドゥン・カリキュラム」とは、「学校・教室空間」において、「方法としての政治が立ち上がることを拒否する力学」「新自由主義の規範にしたがって人をホモ・エコノミクス化する人間形成作用」のことである、と読めます。民主的教育実践、民主的教育学、民主的社会変革実践が立ち向かい、乗り越えていくべき対象と想定されているように読めます。上記の①~⑥の子どもたちを取り巻く憂慮すべき状況についての記述を読めば、教育に関わるそれに対して我々が手を拱いているわけにはいけない、立ち向かっていかなければならないということにも納得できます。しかし、「学校・教室空間」における「ヒドゥン・カリキュラム」とは全てそのような、究極的に打倒すべき対象なのかどうか?については、私には「ちょっと待てよ」という気持ちがあるのです。



Ⅰ-2.佐貫浩『学校と人間形成 学力・カリキュラム・市民形成』(法政大学出版局 2005)における「ヒドゥン・カリキュラム」関連記述 

 私が所蔵している範囲で佐貫氏の他のいくつかの著作を渉猟したところ、上記の著作に「ヒドゥン・カリキュラム」についてのまとまった記述があることを確認しました。該当箇所の構成は、以下の通りです。

 
第2部 学校の転換
   第4章 学校の転換を―新しい教育課程創造の原理 ヒドゥン・カリキュラムとの対決
      1     現代の学校の形成力
    1.1    現代の学校の形成力の特質
    1.2    「知」と「方法」の乖離
    2     ヒドゥン・カリキュラム(hidden curriculum)
      2.1    ヒドゥン・カリキュラムの具体例
    2.2    ヒドゥン・カリキュラムの性格について
    2.3    ヒドゥン・カリキュラムと教育実践
    3     カリキュラム改革への視点
    3.1    子どものなかに学習への熱い課題を見いだす
    3.2    学校文化の作り直しを
    補論 学生の出会ったヒドゥン・カリキュラム  
   

 ここでは、同書第4章の「ヒドゥン・カリキュラム」についての記述部分を叙述の流れに即してピックアップし、コメントすることにします。

 1  現代の学校の形成力
1.1  現代の学校の形成力の特質

それでは、教育課程と学習行為に対して現代の学校が固有に持っている(背負わされている)規定性、現代の学校がおかれてている全体的関連のゆえに学校が背負わされている性格とはどのようなものであるのか。次のような点が挙げられるだろう。
(中略)
 第二に、学校での学習行為を意味づける次のような「隠れたカリキュラム」(ヒドゥン・カリキュラムhidden curriculum)の強力な教育力が働いている。それは、子どもを学習に駆り立てる動員として働き、子どもをその価値へと同化させている。その教育力は、現代の学校を、現代社会秩序、現代の差別的競争の論理を正当なものとして受け入れさせる場として機能させている。
 たとえば、
(後略)】
(P.90-91 下線は佐藤)

 「たとえば」以下を省略したのは、具体例については後出のより詳しい記述があり、そこで検討したいと考えたからです。
 ここでは、「ヒドゥン・カリキュラム」の「強力な教育力」が子どもたちに「現代社会秩序」「差別的競争の論理」を受け入れさせる言わば《教化の機能》を担っているものと捉えられています。つまり、「ヒドゥン・カリキュラム」の生成と機能の過程で子どもたちの《自由意思》が入りこむ余地はなく、子どもたちを自分の意思とは無関係に新自由主義的競争に巻き込むものが「ヒドゥン・カリキュラム」だと捉えられているようです。読み込みすぎかもしれませんが、取り敢えず私はそう読みました。

2  ヒドゥン・カリキュラム(hidden curriculum)
2.1  ヒドゥン・カリキュラムの具体例

ところが、カリキュラムにはそれと異なった、隠れたカリキュラム、あるいは潜在的カリキュラムと呼ばれるものがある。それは、上に述べたような顕在的カリキュラムとは別に、教育・学習過程に介入して、意図されざる教育効果、多くの場合に反教育効果をおよぼすカリキュラムのことを指す。
(P.96 下線は佐藤)

 「多くの場合に」とされていて、全ての場合ではないわけですが、「ヒドゥン・カリキュラム」がその「反教育効果」に着目して捉えられていることは間違いないと思います。
 もう一つひっかかるのが、教育・学習過程への「介入」という強い言葉を使いながら、一方で「意図されざる」と主体の意思に関わる表現が使われていますが、それでは「ヒドゥン・カリキュラム」を通して教育・学習過程に介入するものはどういう主体で、意図せずそこに巻き込まれる主体は誰なんでしょうか?

これだけの規定ではイメージがわかないと思われるので、最初にそのいくつかの具体例を紹介しよう。
➀今まで日本の学校のなかでは生徒の名簿の順位は大体男子が先で女子が後となっていた。ところが最近は、混合名簿などの試みが広まっている。日本の場合は男尊女卑の風習の中で、伝統的に男子が先で女子が後というのが一般的な「秩序」として存在していた。しかし男女平等という視点に立てば、その根拠はなくなる。しかし、実は男子が先で女子が後という学校生活の日常の行動習慣がカリキュラムとして働き、今日の子どもにも男が先、女は後ということが常識として定着してしまっている。男子が先の名簿は、今日では、男子優先の価値観を教えるために意図的に設定された習慣ではなかったにせよ、そういう意図されざるカリキュラムとしての効果を持っていることが指摘できる。
(P.96)

 ⇒指摘されているような実態が今日の学校にあることについてはよく理解できます。しかしこの件とヒドゥン・カリキュラムの関係についての私の解釈は違うのです。後に紹介するように、(私が「教育課程論」等の授業で紹介する教育社会学の文献に影響を受けての解釈ということになると思いますが)「顕在的カリキュラム」との関係で「ヒドゥン・カリキュラム」の外延を確定しようとするとき、学校生活の中で文書・口頭を問わず明示的に規定され、児童生徒に対しても表明されるものは全て「顕在的カリキュラム」である、というのが私の理解です。男女順の名簿にせよ、混合名簿にせよ、当該学校ではそれを使用することが決定され、現実に使用されているのだから、それは「顕在的カリキュラム」です。児童生徒の名簿が作成がどのような(教育)理念を根拠として行なわれているかは重要であり、そこに問い直されることなく生き続けているジェンダー・バイアスについては、学校における教師による児童生徒の管理という「顕在的カリキュラム」の世界の課題としてきちんと議論されなければなりません。もちろん、仮にその議論を経て男女順名簿が混合名簿に変更された(=「顕在的カリキュラム」の改変)としても、教師の世界・子どもたちの世界・学校社会の中に「なんだかんだ言っても結局男子優先だ」みたいな考え方が残ることはあり得るし、公式の制度・ルール(=顕在的カリキュラム)ではないのにジェンダーバイアスが隠然と残り続けるとしたらそれは「ヒドゥン・カリキュラム」の問題であり、そこに「顕在的カリキュラム」の側からどうアプローチするかは重要な課題です。しかし、佐貫氏の例示のように、学校教育で確定した「男女平等」理念があるのに実際には男女順名簿に見られるように男尊女卑の「ヒドゥン・カリキュラム」=「意図されざるカリキュラム」が入りこんでいる、と捉えることは、「顕在的カリキュラム」自体の改革という課題の焦点をぼかしてしまうことにならないか、危惧するものです。

②家庭科は昔は、女子だけの履修科目であったが、1975年の国際婦人年後の運動で、男女共修となっていった。女子が裁縫や家事や子育てをするという日本の古い伝統や価値観が支配的ななかでは、家庭科は女子だけに必要なものという考えが支配的、一般的であった。しかし戦後の男女平等社会になっても、家庭科は女子のものという教育習慣が続いており、その差別が男女の役割分担を古い形で正当化するヒドゥン・カリキュラムとして働いていた。それは、必ずしも教師がそういう役割分担を正当化するために行なったものではないにせよ、男女別のカリキュラムの習慣が通常の感覚になってしまうと、男子が働くのは当然だが、女子は働きに出ないで家事をやればよいというような差別的な役割分担が人々の意識の中に定着していく。これもまた隠れたカリキュラムということができる。
(P.97)

 ⇒家庭科が男女共修化されるまでの経過については不勉強で詳しく知りませんが、実現までの過程に伝統的ジェンダー・バイアスとの闘いがあったであろうし、実現までの過程でも、また共修化された後にも、教師や子どもたちや親たちや地域社会の中に男女役割分担意識が残存していて、そのことが家庭科教育実践にもマイナスの役割を果たすだろうということはわかります。また、「顕在的カリキュラム」において家庭科男女別修であった時期に、理念としての「男女平等」はありつつも現実的に差別的役割分担が肯定されるという事態があったということもわかります。ただ、それ自体は当時の「顕在的カリキュラム」が教室・学校を越えて及ぼしたマイナス影響ということですし、共修化で「顕在的カリキュラム」の側が家庭科教育における男女平等問題に一応の決着を付けた後に、実際の家庭科授業における教師の指導や子どもたちの活動にどのような問題が生じているか、そこに背景としての「ヒドゥン・カリキュラム」に関係する問題があるのかどうかというのは、また別の新しい問題だと思います。

 さて、この後もさらに5つの事例が提示されますが、私は一つ一つの事例と佐貫氏のコメントに対して疑問や異論を対置しようとしているわけではないので、あともう二つだけ取り上げることにします。

④学校での学力偏差値システムもまた隠れたカリキュラムとして働いている。学力偏差値システムは別にカリキュラムとして存在しているものではないが、日本の子どもたちはこの学力偏差値によって自分の値打ちが決められるというある種の恐怖感、強迫観を強く持っている。学校の成績としてある学力偏差値、学力順位を与えられると、そこであたかも自分の人間としての値打ちが決まってしまうような感じを持つ。教師も親も勉強がよくできないと将来良い生活ができないというような眼差しを生徒に送っている。そういう子どもが大人になって安定した職業に就けず社会の底辺に置かれたときに、「それ見たことか」と周りからも見られ、自分でも学校での成績が悪かったから仕方がないとあきらめる。社会が学力、能力の違いによって給料の差、社会的対応の差をつけるのは当たり前で、それこそが正義で、自分が落ちこぼれたのは、自分の能力のせいだと考えてしまう。すなわち偏差値システムは、それ自体が、能力主義的な理由づけを持った社会的差別を個人の責任として受け入れさせるイデオロギー作用を持っていて、それが隠れたカリキュラムとして働き、差別的な能力を社会観として受け入れさせてしまう。教師は、学力によって人間の値打ちが違うんだというメッセージを伝えるために偏差値を利用しているのではないだろうが、にもかかわらず、学校が行なっている行為がそういう過酷なメッセージとなって、日々学校の中で子どもを苦しめているのである。とすると日本の学校は、この差別的な能力主義社会、学力差別社会を正義のシステムとして受け入れさせる強力な教育力、ヒドゥン・カリキュラム生((ママ))み出していると言わざるをえない。
(P.97-98)

 ⇒「学力偏差値システム」は「別にカリキュラムとして存在しているものではない」けれども、「それ自体が、能力主義的な理由づけを持った社会的差別を個人の責任として受け入れさせるイデオロギー作用を持って」いる「隠れたカリキュラムとして働」くと佐貫氏は言います。
 しかし私の捉え方は、「学力偏差値システム」という学習内容は「顕在的カリキュラム」の中にないとしても、「学力偏差値システム」は現行の学校教育課程(=「顕在的カリキュラム」)と不可分のものとして教育制度に組み込まれているシステムであり、そうであれば「顕在的カリキュラム」と見なすべきではないか、というものです。

⑥教師は子どもの表現の自由を励まし、意見表明を促そうと苦労している。ここでは表現の自由を行使できる力量の獲得が、明示的なカリキュラムの目的である。けれども実際には暴力や支配的な動向への同調圧力が高い教室空間では、暴力のターゲットにならないように、めだたないように、みんなと異なる意見を発言することは断念されがちである。自分の意見を言う自由が抑圧されているのである。安全に生きる戦略として、子どもたちは自己表現をしない道を選ぶように訓練される。言いたいことを言えばみんなに馬鹿にされるクラスの雰囲気や、腕力の強いものに自分の意見を言えば攻撃されてしまうような状況は、日本の教室が、強い相手や支配的なものには逆らわないことがこの世で安全に生きていく方法だという「教訓」を教える空間になっていることを意味している。表現の自由を行使するなというこのメッセージは、日本の青年の表現べたを生み出すカリキュラムとなっているのではないか。ここでは明示的なカリキュラムとヒドゥン・カリキュラムが対決し、大概の場合ヒドゥン・カリキュラムが勝利を収めている。
(P.98-99)

 ⇒上記で佐貫氏が指摘されている学校・教室空間の実態については、私も理解し納得できるのですが、そこにおいて「顕在的(文中では「明示的な」)カリキュラム」の目的としての「表現の自由を行使できる力量の獲得」vs「表現の自由を行使するな」という「ヒドゥン・カリキュラム」、という2項の対置が、私にはしっくりこないのです。私は「隠れたカリキュラム」を、どのような内容であれ、「これに従っていれば学校生活を安泰に過ごせる」「これに逆らうとまずいことになる」という形で子どもたちの側に意識されているルールと捉えています。だから、「言いたいことを言えばみんなに馬鹿にされるクラスの雰囲気や、腕力の強いものに自分の意見を言えば攻撃されてしまうような状況」がある中で、《うまく・無難にやる》というのが「隠れたカリキュラム」であると言われればなるほどと納得するのですが(あくまでも善悪の判断を横に置いてのことですが)、そしてその「隠れたカリキュラム」観察者(教育学研究者)の側から要約的に述べれば「表現の自由を行使するな」ということになるのもわかるのですが、しかしそれは子どもたちの側の意識状態、「隠れたカリキュラム」の支配のもとで生活している当事者としての子どもたちからは距離があるのではないかと思うのです。もちろん、「顕在的カリキュラム」の中で表現の自由について学習しており、その意味を理解しているにも拘わらず……という子どももいるかもしれませんが、それはそれで、その子どもの意識と行動をどう見るかはかなり複雑な問題であると思います。
 「顕在的カリキュラム」において「表現の自由」を学習しその意味・意義を習得していながらそれを学校生活空間における自らの意識・行動と結びつけられない子どもたちもいるかもしれない。
 「顕在的カリキュラム」において客観的には「表現の自由」の学習を経験しているのだが、理解できない、興味を持てないなどの理由で学習結果を自らの意識に定着できなかった、もっと端的には「忘れてしまった」子どももいるかもしれない。
 小学校低・中学年くらいまでなら生活指導における教師の指導はともかく、教科学習においては「表現の自由」を学習する機会にまだ遭遇していない子どももいるでしょう。
 これら様々な状況にいるそれぞれの子どもたちについて、「表現の自由を行使するな」という「メッセージ」が送られているというのは、客観的分析としてはそうであるとしても、メッセージの「受け手」と位置づけられている子どもたちの方の焦点を当てると、うまく言えないんですが、ちょっと違うんじゃないかなあと私は思います。
 
2.2  ヒドゥン・カリキュラムの性格について
 佐貫氏は「ヒドゥン・カリキュラム」がどこから生まれてくるのかという問いを立て、以下の4点の仮説を導き出しています。それぞれに事例の検討も行なわれているのですが、ここでは仮説の本題だけを抜粋します。
➀<意図されたカリキュラムであることが忘れ去られていって、無意識に継続されているケース>。それが意図的に取り入れられたカリキュラムであったものが、次第にそのことが忘れられていくというケースがある。(中略)
②<文化や習慣に組み込まれたメッセージが、時代の推移のなかで、古い価値意識を教育する教育力として働くケース>。歴史的な性格を持った文化それ自体に組み込まれたメッセージが、ヒドゥン・カリキュラムとして働くことがある。(中略)
③<人の行動様式や関係のあり方が、正規の教育目的と対立的な教育力(作用力)として機能するケース>。人は、その行動様式を通して、多様なメッセージを他者に送っている。そういう行動様式や関係の結び方が、学校や教育の場で、正規の教育目的を破壊し、敵対するように働く場合、それはヒドゥン・カリキュラムと認識される。典型的な例は、体罰である。(中略)
④<制度やシステムが持っている教育作用(教育力)の方向と、意図されたカリキュラムとが対立しあうケース>。(中略)
 およそ以上のケースを挙げることができるだろう。多くの場合、一つひとつのヒドゥン・カリキュラムは、そのいくつかの性格を併せ持っている。
(P.101-102)

 こうしてみると、国家あるいは世界のような《大きな社会》の《人間形成力》から学校などの《小さな社会》における《人間形成力》まで、さまざまな空間的範囲や社会のレベルにおいて子どもたちの人間形成に影響を与える諸力の重層構造のようなものが想定されているように思われます。
 次章で述べますが、私自身がこれまでの自らの教育実践で大学生とともに検討してきた「ヒドゥン・カリキュラム」は、上記の佐貫氏の「ヒドゥン・カリキュラム」構想と重なる部分、接点はもちろんあると思うのですが、結局「ヒドゥン・カリキュラム」の概念規定の違いであって見ている世界というか《見方》の違いなのかなという気もします。
 ともあれ、私自身の実践とそこで参照してきた「ヒドゥン・カリキュラム」理論について、次に述べたいと思います。



Ⅱ.佐藤の大学教育実践における「隠れたカリキュラム」の収集・検討から

 私の三重大学時代(1989-2018年度)の授業関係ファイルをチェックしてみると、「教育課程論」授業では2001年度から「隠れたカリキュラム」を取りあげています。教育課程論は「Ⅰ」と「Ⅱ」を別々の授業科目として開講し、その区分の仕方は時期によって試行錯誤してきましたが、多くの年度には「Ⅰ」を教育課程の総論、「Ⅱ」を教育課程の各論として開講しており、「隠れたカリキュラム」については「Ⅰ」で取り上げました。
 2018年度末で三重大学を退職し、2019年度1年間だけ勤務した京都橘大学・京教大連合教職大学院では、教育課程分野の教職科目は担当しませんでした。2020年度から京都女子大学で「教育課程論」、また2022年度から新潟大学(リモート)で「教育課程及び総合的な学習の時間の指導法A」を担当しており、そのいずれでも授業期間の末期に「隠れたカリキュラム」を取り上げます。
 ここでは、私が三重大学時代の授業の内容・運営方法をほぼ踏襲して実施した2023年度前期京女大・新潟大授業の「隠れたカリキュラム」該当部分を紹介した上で、前章での佐貫氏の「ヒドゥン・カリキュラム」把握への私の個人的なひっかかりの部分をもう少し解きほぐし、また深めてみたいと思います。

 まず、京女大のシラバスの該当部分を提示します(新潟大では京女大と違い「総合的な学習の時間」についても取り上げる必要があるんですが、「隠れたカリキュラム」に関する学習の構成は同じです)。

11.hidden curriculum(隠れたカリキュラム)を意識化する
 11-1.hidden curriculum (隠れたカリキュラム)とは何か?
 11-2.学校生活体験の中で学びとったhidden curriculum(隠れたカリキュラム)の具体的事例の収集
 11-3.教師=overt curriculumの実行主体の立場から、hidden curriculumとどのように関わるか ~隠れたカリキュラムを顕在的カリキュラムに活かすことは可能か?~


 2023年度前期京女大「教育課程論」の授業通信「Curriculum Management」(佐藤註・皮肉を込めて付けているつもりのタイトルです^^;)第13号(2023.7.14)では、「隠れたカリキュラム」について以下のような説明を行ないました
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必読資料⑨-1 田中統治の説明(佐藤註・田中統治「第五章 カリキュラムの社会学的研究」安彦忠彦編『カリキュラム研究入門』勁草書房 1985
「潜在的カリキュラムとは、一般的に、生徒が学校生活にうまく適応していくために学びとっていく黙示的な規範・価値・態度など実際行動面での知識内容をいう。」(P.139-140)
  (参考)Jackson,P.W.は、「生徒たちが生き抜いていくためのスリー・アールズ」として
                規則(Rules) ・ 規制(Regulations) ・ 慣例(Routines)
          を揚げています。
     ちなみに、伝統的に言われてきた「3R's」とは、以下のものです。
                reading(読み)・writing(書き)・arithmetic(算術)
 ◎Jacksonが挙げている潜在的(隠れた)カリキュラムの事例:
  ・変化に乏しい集団生活を反復しながら群衆の中の一人として落ち着いた学業態度を示すこと
      ・驚くほど多くの時間を待つことに費やすこと
  ・退屈さとそれに耐えること
  ・教師からの否認や制裁を極力避けるべく、あたかもその役割期待に応えているかのように装うことで折り合いをつけながら積極的に対処していく戦略(strategies)
必読資料⑨-2 田中統治の説明(=必読資料⑨-1の改訂版)(佐藤註田中統治「第三章 カリキュラムの社会学的研究」安彦忠彦編『新版 カリキュラム研究入門』勁草書房 1999
「『学級崩壊』はHCの未習得あるいは不成立によって生じる現象」
   ←→ 【佐藤の異論】独特のHCが成立しているからこそ「学級崩壊」が「成り立っている」とも言える。
        ex.「この担任教師は教室から脱走しても追いかけてこない。」
         「教室で机の上に乗ったりものを投げたりしても、担任は注意はするけど罰を与えることはない(諦めている)。」
「学級の学習環境が日常知の習得場面と比べて種々の隠された約束ごとをもっていて、これが生徒の学習様式を閉鎖化し、学ぶ意味を脱文脈化している」
 ⇒(佐藤)「脱文脈化」というわかりにくい用語が出てきますが、ここでは学習した内容をその学習内容が含まれる学問や文化の体系とか、その学習内容を学校において習得することが子どもたちの人間形成において持つ意味など(=総じて、教師が「このことを学ぶ意義」として想定していること)の「文脈」から、切り離してしまうこと、たとえばその学習内容がテレビやネットで流行している何かを思い起こさせるとして笑い飛ばすなど、子どもたちの世界の常識や価値観によって意味づけたり、逆に無意味と判断したりしてしまうことを意味する、と佐藤は解釈しています。
「HCの研究は教師の意図どおりに達成されない顕在的カリキュラムの問題点を考えるために有益である。HCの研究に必要な視点は、この隠された暗黙のルールを可視化することによって、学級の学習環境を改善することである。」(P.76)    →これに関連する学習活動は次回に!
必読資料⑩ 天野正輝の説明 (佐藤註・天野正輝編『現代教育実践の探究』晃洋書房 1998
「『かくれたカリキュラム』とか『潜在的カリキュラム』とは、児童生徒が指導計画や教科書にそった教師の意図的明示的な指導によって獲得していく知識や価値観や情操能力のほかに、教師が意図しないのに、暗黙裡に人間形成的影響を及ぼしたとき、影響を及ぼした当のものを概念化したものである。そして、それが意図的・計画的学習指導の遂行に対しても無視できない影響を及ぼしているという認識にもとづいている。たとえば、教師のことばづかい、使用語、仲間や教師との人間関係、教室の雰囲気、学校風土、伝統、教師集団のもつ雰囲気、学校の物理的環境などを通して知らず知らず知識や価値観が形成されており、かえってそれが、人格形成に大きな影響力を与えるものになっていることへの注目である。」
「今後のカリキュラム研究においては潜在的カリキュラムの分析によって明らかにされたものをいかにして顕在的カリキュラムの中に適切な形で組み込むかという点に課題があるといえよう。」      →これに関連する学習活動も次回に!

*一対の対照的なカリキュラムを形容する語として、以下のようなものが用いられます。
       overt(明白な、公然の)    ←→ covert(ひそかな、隠れた、暗に示した)
        official                           hidden
        manifest(明白な、判然とした)    latent(隠れている、見えない、潜伏性の)
 これらのうち左側のovert, official, manifest (他にもvisible, apparentなど)curriculumがこの授業の第1回から第12回まで検討してきた教育課程=顕在的カリキュラムです。
 第1回で提示した教育課程の定義例の中では、「教育課程」の語義と「カリキュラム」の語義は同一ではないという指摘(=必読資料①「教育課程」の定義の㊄・㊆)もありますが、通常我々が学校教育について語る時には、「カリキュラム」も「教育課程」とほぼ同義の意味で使っています。そして通常、学校の「カリキュラム」と言う時は、上述の2項のうち左側の顕在的(overt/official/manifest/visible/apparent)カリキュラムを指しています。
 顕在的カリキュラムとは、必読資料⑩の天野正輝の説明の中で隠れたカリキュラム
(佐藤註・以下の6文字に傍点)ではないものとして最初に挙げられている、「指導計画や教科書にそった教師の意図的明示的な指導」の全部を含んでいます。より具体的には、学習指導要領、検定教科書、その他の教材、テスト、校則、生徒手帳の記載事項、教師の口頭指示をはじめ、学校で教師が児童生徒を指導する全ての行為とそれに用いられるモノの全てを含みます。前回第12回までの授業では、教育課程をこの「顕在的カリキュラム」を意味するものに限定して学習を進めてきました。
 しかし学校には、実は「顕在的カリキュラム」以外に「隠れたカリキュラム」が存在します。それはみなさんが自分のこれまでの学校生活を振り返ってみると、きっと思い当たるはずです。
 「隠れたカリキュラム」は、教師が教えていないのに子どもたちが身につける学校生活の「処世術」みたいなものです。子どもたちは学校生活を通じて、教師から「正しい、望ましい生き方、生活の仕方」をもちろん学んでいきますが、同時に、教師との関係や子どもたち同士の関係における様々な成功や失敗の経験から学んで、「本音とタテマエの使い分け」をするようにもなります(もちろん個人差はありますが)。そうしたことを「本来あってはならないことだから」として目を背けていては、教師としてリアルな子どもの実態を踏まえた指導ができないと思うのです。ですからこの授業の最後に、「本音とタテマエを使い分けるような子どもであってはいけないから教師としてそういうことには関心をもたない」という態度ではなくて、とにかくまず子どもの世界にはどのような本音とタテマエの使い分け行動が存在するのか、どんな「隠れたカリキュラム」が存在しているのかを、自分たちの生育史を振り返ってピックアップしてみましょう。その行動がよかったのか悪かったのかの価値判断は取り敢えず保留して。

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 上記の通り私は、教育社会学研究者である田中統治、教育課程研究者である天野正輝(私の恩師の一人です)の先行研究に依拠して「hidden curriculum(隠れたカリキュラム)」の概念を説明しています。
 本来であれば、hidden curriculumの概念あるいは学説について教育社会学、あるいは教育方法学・教育課程論も含めての学問研究史の中に位置づけて学び、紹介されているジャクソン(P.S.Jacson)らの研究の原点にもあたって自分の認識をきちんとしたものにすべきところですが、授業で毎年取り上げる内容ではありながら自分自身の研究と直接関わるテーマでなかったために、今日までにその作業ができないままに来ています。また私自身にとっても「隠れたカリキュラム」は簡単に理解できるものではないのですが、「顕在的カリキュラム」のウラに存在するこの《行動ルール》にぜひとも教師をめざす学生たちの目を向けたいという思いはあるため、上記のそれほどわかりやすくない概念解説の最後に、<学校生活の「処世術」>、<「本音とタテマエの使い分け」>というような、おそらく受講生の日常意識と十分接点を持つだろうと私が考えた《俗語》への言い換えを行なっています。この言い換えが妥当であるかどうかをきちんと自己検証することが必要ですが、本稿の課題は、こうした佐藤の「隠れたカリキュラム」把握が、前章で紹介した佐貫氏の「ヒドゥン・カリキュラム」把握とどう重なるのか、重ならないのかというです。これについては本稿の最後で改めて考察します。

 さて京女大第13回授業では、上記の説明に続いて以下のような授業通信での指示にもとづいて、小グループに分かれて「学校生活体験の中で学びとったhidden curriculum(隠れたカリキュラム)の具体的事例の収集」活動を行ないました。
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(1)まず比較対照のために、学校におけるovert curriculum(顕在的カリキュラム)の例と思われるものを出し合う(ウォーミングアップ。無数にあるから、ある程度出されたところで切り上げてよい。
(2)次に、「こういうものがhidden curriculum(隠れたカリキュラム)じゃないか」と思いつくものをできる限り多く出し合う。(小中高全体を対象とし、どの学校段階で経験したことかを付記する。)
  *【注意】hidden curriculum(隠れたカリキュラム)は学校・学級により違いがあるので、特定のメンバーしか経験していないことも、もちろんリストに入れてよい。
  *当時もしも教師に知られたら「ヤバかった」内容も含まれると思われるし、そういうものも出し合った方がおもしろいので、討論記録には事例を出した人の氏名は書かなくてよい。
  *後で経験を集約し整理する時にわかりやすいように、発言者は下記のどのカテゴリに属する事例かを述べてから発言し(あるいは司会者がカテゴリごとに区分して発言を求めてもよい)、記録者は4つにカテゴリに区分して記録して下さい。
     A.授業中  A-1.対教師  A-2.児童生徒間
     B.授業以外の学校生活(主として対教師)
     C.児童生徒間の相互関係(クラブ活動等も含む)
     D.その他
(3)事例が出尽くしたら、出た事例の中に「顕在的カリキュラム」が混じっていないかを全員で検討する。
 ※註:文書であれ、話し言葉であれ、様々な教材教具であれ、「無言」も含めて教師が意図して指導しようとしたことは全て顕在的カリキュラムであって、隠れたカリキュラムではありません。例えば、年度初めのホームルームとか第1回授業で、教師が「チャイムが鳴ったら着席して先生が来るまで待つように」と指示し(=顕在的カリキュラム)、その後の授業でこのルールが守られていなかった場合に教師が口頭での注意はせず無言で前に立っている場合、確かに教師はその場で口頭で指示をしていませんが、それは「前に言ったよね」「もう一度言わなくても従えるよね」という含意のある沈黙であるから、やはり顕在的カリキュラムと見なします。
     議論の結果「これはhidden curriculum(隠れたカリキュラム)ではなく顕在的カリキュラムであった」という判断でメンバー全員が一致した場合、記録者はその項目を削除してしまうのではなく、記録の各カテゴリ(A~D)のそれぞれの末尾に移動して、行の冒頭に「×」をつけておく(それによりグループでの検討の最終的な結論だけではなく議論の過程がわかります。実際、hidden curriculum(隠れたカリキュラム)に分類するかどうか 微妙な事柄も多いでしょうから、事例を提案した人は、たとえ自分の判断がグループでの結論と違っていたとしても恥ずかしく思う必要は全くありません。
◎【参考】過去の「教育課程論」授業(三重大学)で挙げられた「隠れたカリキュラム」事例抜粋
 皆さんが思い出すきっかけになるように、過去の授業で挙がった事例をいくつか紹介します。
[A.授業中(対教師、児童生徒間の両方を含む)]
 内職が許される授業とそうでない授業の区別がおこる。
 教師の言葉遣いや態度により児童生徒の態度が変わる。
[B.授業以外の学校生活(主として対教師)]
 先生によって口調や態度を変える。
[C.児童生徒間の相互関係(クラブ活動等も含む)]
 かしこい(成績優秀な)生徒がクラスで優位になる。
 児童会、生徒会に所属している子は優位に立てる。
 部長が男で副部長は女という雰囲気がある。
[D.その他]
 内申のために授業で挙手したり手伝いを積極的にする。
 試験前だけ児童生徒が集中する。

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 第13回授業終了後に佐藤が各グループの報告を集計して、授業通信第14号に下記のような一覧を掲載しました。
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前回授業でのhidden curriculum収集活動の集計結果
* → A-1/A-2の区分がされていなかったので、佐藤の判断で分類した。
**→A~Dのカテゴリ分けがされていなかったので、佐藤の判断で分類した。
その他にも佐藤の判断でカテゴリを変更した項目がある。

【A.授業中】
A1.対教師

A1-1-1 <G02>教師によって態度が変わる
A1-1-2 <G02>質問できる先生が決まってきている(あまり怒らない先生に対してなど)
A1-1-3 <G04>特定の教師の時全然授業中発表しない
A1-1-4 <G04>内職
A1-1-5-1 <G05>先生によって寝てもいい授業がある。
A1-1-5-2 <G11>寝てもいい授業と、寝てはだめな授業がある。
A1-1-6 <G09>教師が授業を忘れていて来ない場合、呼びに行く授業とある程度放置する授業がある(中、高)

A1-2-1 <G03>教師の問いかけの一問目は挙手が少ない。
A1-2-2 <G04>発言者が決まってくる
A1-2-3 <G09>部活の顧問をしている教師が授業を持つ場合、その部員の生徒は頻繁に指名される(中、高)

A1-3-1 <G09>職員室に呼び戻しに行かなければならない(小、中)
A1-3-2 <G09>教師が授業中に怒って出ていった場合(反省したら呼びに来なさい、と言われていないが)

A1-4-1 <G03>教育実習生の授業はしっかり聞く。
A1-4-2 <G05>いつもの授業よりも先生の人数が多かったら、いい子ちゃんで授業を受ける。

A1-5-1 <G05>体育の男の先生は女子生徒のプールの休みに寛容だった。
A1-5-2 <G09>教室が遠い移動教室の授業や、体育や水泳の後の授業は遅刻しても許される雰囲気がある(小、中、高)

A1-6-1 <G07>綺麗なノートのほうがいい
A1-6-2 <G08>授業中に寝ない(小・中・高)
A1-6-3 <G06>女の子場合はさん、男の子場合は君をつけて名前を呼ぶこと。
A1-6-4 <G06>教師への尊敬の気持ち
   ⇒T.Satou:内容の異なる4項目を同じく「A-6」で括ったのは、これらの内容はOCとしても指導されていると考えるからです。しかし一方、これらの項目を挙げた人は、小学校入学まではこれらの価値観を全く持っていなくて、白紙で入学してこれらをOCとして学んだと断定してしまうのはあまりに子ども時代のみなさんに対して失礼かもしれないとも思うからです。客観的にはOCとして指導されてた事実があったとしても、子どもたちが充実した学校生活を送ろうと考えて自らこれらの価値を内面化し、わがものとすることはもちろんあると思います。一方でみなさんが提案された項目を私の判断で最後尾のOCの項目に移動したケースもあり、「矛盾するじゃないか」と言われそうですが、私も揺れています。


A2.児童生徒間
A2-1 <G01>授業中に間違えても笑ったりしない(小・中・高)
A2-2 <G06>異なる意見でも尊重すること
A2-3 <G09>寝ている子が当てられたり、当てられた子が分からなかったりしたら席の近い子が教えてあげる(中、高)
A2-4 <G03>講演会などで質問あるか聞かれたときにだれも手を上げなかったら、野球部が手を挙げていた。
A2-5 <G09>体育の授業で自発的にグループを組むとき互いに迷惑をかけないように運動神経のいい子同士、悪い子同士で班を組んでいた(中)
A2-6 <G02>難しい問題はできそうな子に頼る
A2-7 <G03>特別支援教室の子が何かをしてもスルーする。

【B.授業以外の学校生活(主として対教師)】
B-1 <G01>会っても無視しない、挨拶をする(小・中・高)
B-2 <G06>生徒指導の先生大体怖い
B-3-1 <G05>先生によって口調や態度を変える。
B-3-2 <G09>一部の生徒にため口で話される先生と全ての生徒から敬語で話される先生がいた(高)
B-3-3 <G11>先生の服装をほめて機嫌を取る。
B-4-1 <G07>怖い先生に敬語を使うべき
B-4-2 <G08>先生に怒られないようにする(小・中・高)
B-5 <G07>この先生だったらいじってもいい
B-6 <G05>先生がかしこまっていたら、今日何かがあることを察する。
B-7-1 <G02>先生がいる時だけ掃除を頑張る
B-7-2 <G04>掃除をさぼる
B-8 <G04>制服着崩す
B-9-1 <G02>試験前に先生に媚びる
B-9-2 <G04>内申のために教師とコミュニケーションをとった
B-9-3 <G05>先生に気に入られている生徒は内申点が高かった。
B-9-4 <G04>部活動の成績によって学校からの優遇が変わる
B-9-4 <G03>ダンス部とかバトン部が創作ダンスの授業のリーダーになりがち。
B-10 <G09>特技のある子どもはその特技を全体のために行使しなければならず、またその全体のために行使された特技は評価されない(成績が上がったり恩賞をもらえたりすることはない)ものである(小、中、高) 例)音楽会の伴奏、文化祭のチラシやポスター、運動会のリレー
B-11 <G02>児童生徒から見た教師の良し悪し評価
B-12 <G09>教師が名字を呼び捨てる生徒とさん付けをする生徒がいた(高)
B-13 <G07>体育祭の団長は男
B-14 <G08>校則を守る(中・高)
     ⇒T.Satou:これは微妙です。校則のルールを正しいと確信して守るというのであればそれはOCに同化・馴化しているということでしょう。校則は気に入らないけど破って怒られるよりましだから守る、というのであれば、学校生活を不快でなく過ごすためのHCと言えるでしょう。

【C.児童生徒間の相互関係(クラブ活動等も含む)】
C-1-1 <G05>クラスの中心的存在が自動的に決まる。
C-1-2 <G11>リーダー的女子がいる。

C-2-1 <G02>固定されたグループで行動
C-2-2 <G05>似ている性格の人たちでグループが分かれる。
C-2-3 <G06>仲良いメンツでいつも行動しがち

C-3-1 <G03>内部生の方が序列高い。
C-3-2 <G04>優秀クラスの教室の場所が優先

C-4-1 <G01>足早い子がもてる(小)
C-4-2 <G11>かわいい子はなんでも許される。

C-5 <G09>生徒会は成績の良い生徒の集まり(中、高)
C-6-1 <G02>選挙する前から児童会、生徒会の当選はだいたい決まっていた
C-6-2 <G03>生徒会長は3年生だけ
C-6-3 <G06>女子が書記になりがち

C-7 <G07>みつあみしている子やツインテールしている子はぶりっ子

C-8 <G03>親がやんちゃな子供は校則破りがち
C-9 <G03>モンスターペアレンツの親を持つ子供の言うことはとりあえず聞いておく。

C-10-1 <G05>部活動の年功序列 (挨拶をしないと呼び出される、先輩よりも雑用をする)
C-10-2 <G09>部長は優秀さや懸命さではなく、学年や歴によって選ばれる(中、高)
C-10-3 <G03>低学年が部活に先に来て準備をしていた。
C-10-4 <G11>後輩があと片付けを率先してしなければいけない。
C-10-5 <G08>先輩に挨拶をする(中・高)
C-10-6 <G11>先輩には敬語を使う。
C-10-7 <G02>△先輩後輩の関係(敬語)
C-11 <G04>苦手な先輩には挨拶しにいかない

C-12-1 <G05>運動部が陽キャラで文化部が陰キャラ。
C-12-2 <G07>運動部は陽キャで、文化部は陰キャ
C-13 <G11>野球部はいじられがち。

C-14-1 <G02>個人的なことは追及しない(成績、進路など)
C-14-2<G02>合格発表は一人で見に行く

C-15-1 <G03>体調不良ではないが、体調不良と伝えて休んだ。
C-15-2 <G05>受験前にしんどいって言ったら帰ることができた。
C-15-3 <G05>体温が高かったら仮病が使えた。

C-16-1 <G02>小テストの情報共有
C-16-2 <G02>試験前のワーク、一体感

C-17 <G02>服装検査前だけ整える
C-18 <G05>行事だけ一致団結し始める。
C-19 <G11>先生が来ないときに呼びに行く人がいる。

C-20 <G07>○○さんという人は、仲良くなく、呼び捨てで呼ぶ人は仲がいい
     ⇒T.Satou:もしもこのHCが成立していた学校でOCとして「女の子も男の子もさん付けで呼びましょう」というルールがあったとしたら、このHCは強烈な皮肉ですね。だって、「○○さん」と呼ぶことは、《私は学校が決めたルールに従ってあなたを呼んでるだけで、決して親しみを込めて読んではいませんよ》という暗黙の含意を含ませてることになりますから。

【D.その他】
D-1 <G05>健康診断の前に急に運動し始める人がいる。
D-2 <G11>授業に走って急いで行って頑張ってますアピール。
D-3 <G11>静かにしようと言い出す人がいる。
D-4 <G07>男子は青や黒、女子は赤やピンクのランドセル
   ⇒T.Satou:みなさんが小学校に入学する頃はまだそうだったでしょうか。学校が「女児は赤、男児は黒」と指定する場合もあったのでしょうが、そうでなくてもかつては赤黒2色くらいしかなく性別によってあたりまえに赤か黒かで選んでいたんでしょうね。現在では随分カラフルになり、性別間のカラーのクロスオーバーもあると思います。後期に担当する「ジェンダーと教育」ではそのあたりも扱いたいです。

【児童生徒ではなく教師側のHCだと佐藤が判断したもの】
✖<G05>バスケ部が強かったから、授業中寝ていてもバスケ部だからと許されていた。
   ⇒T.Satou:これは学校「公認」と見なしてOCに移動されたのでしょうか?しかし、学校のOCに「授業中寝てはいけない生徒と寝てもいい生徒がいる」とはいくら何でもめいきできないと思うので、これは教師側に発生していたHCでしょうね。
<G04>生徒の呼び名

【顕在的カリキュラムであるとグループ討論でor佐藤が判断したもの】
(※✖印のものはグループでの判断、印のないものは佐藤の判断です。)
✖<G01>授業中は踊らない、寝ない(小・中・高)
✖<G03>先生の前だけ歩きスマホをやめる。
✖<G01>先輩には挨拶する(中・高)
<G06>グループ活動など、他の人の意見を尊重する
<G06>ルールを守ること
    ⇒T.Satou:これが子どもたちにおいて内面化されていたとしたら一般論として望ましいことですが、発信源は間違いなく学校でのOC(あるいは家庭のしつけ)ですね。
<G07>男女で着替えを別にする
<G08>時間割通りに生活する(小・中・高)
<G08>チャイムが鳴ったら指定されている座席につく(小・中・高)
<G10>教師への尊敬や権威の学習
<G10>コミュニケーションスキルの習得
<G10>自己表現や意見の主張の仕方の学習
<G10>協力やチームワークの促進
<G10>共感や思いやりの育成
<G10>異なる意見や文化の尊重
<G10>学校規則の遵守や責任の育成
<G10>学校のルールや秩序への適応
<G10>学校の価値観や伝統への理解
<G10>友情や協力関係の構築
<G10>コミュニケーションやリーダーシップの発展
<G10>文化や人種の違いに対する理解と尊重
<G10>学校イベントや行事への参加
<G10>学校環境への貢献や美化活動
<G10>学校での時間管理や自己管理の学習
    ⇒T.Satou:私の単なる推測なので違っていたら申しわけないのですが、グループ10ではOCを「教科書など明文化されたものの習得ではなく行動を通じて体得されるルール」というように解釈され、それ以外がHCだと見なされたのではないでしょうか。しかし、全回グループ討論の前に説明したように、例え教師がその場で沈黙していたり、文書や口頭で明確な指示を出していなくても、学校生活サイクルの初期段階で一度は明示的に示されたルールを背景にした教師の(威圧的)行動の多くはHCです(「従わなかったらどうなるかわかってるんだろうな」という無言の圧力の部分はOCですが)。
 また上記の点での誤解があったかどうかは別にしても、グループ10で列挙された項目はいずれも学校文化・学校的規範として学校側が明確な指導方針を持って児童生徒に対応している内容であって、OCです。
<G11>私語をしない。
    ⇒T.Satou:「勝手に話をしたら先生の声や発言している友だちの声が聞こえないから、先生の説明や友だちの発言の時は黙って聞こうよ。」と、どの教師にも他の大人にも言われずに子どもたちが自主的に相談して決めたならば、それはすばらしいHCですけど、普通はそうじゃないですね。どこかで大人(教師・親など)から最初に指示されている(OC)はずです。
<G11>お菓子を持ってきてはいけない。
    ⇒T.Satou:「学校生活ではあたりまえの常識だ」として敢えてこの件で指導していない学校もあるのかもしれませんが、もし事例が発生したら指導・禁止しないで見逃す学校はないんじゃないでしょうか。もしそうならOCです。(ちなみにニュージーランドやアメリカの学校ではsweets timeがあるところもありますが。)

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 また2023年度前期新潟大「教育課程及び総合的な学習の時間の指導法A」授業でも同様のグループ作業を行ない、その集計結果を下記の通り授業通信「教育課程&総合的な学習を学ぶ」第15号(2023.7.31)に掲載しました。
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前回授業でのhidden curriculum収集活動の集計

【A.授業中】
A1.対教師

A1-1:<R07>教師が絶対的存在(小中高)
A1-2-1:<R07>先生の特徴を判断して接し方、授業の受け方をそれぞれ変える
A1-2-2:<R02>先生によって授業の集中度合いが変わる(高)
A1-2-3:<R09>先生ごとに生徒の態度が変わる(高校、A―1に該当…?)
A1-2-4:<R07>授業によって児童生徒の態度が変わる(居眠りが多くなる、発言などが多くなる)(小中高共通)
A1-2-5:<R06>怖いと有名な先生の授業では何も言われなくても静かに授業を受ける
A1-2-6:<R09>先生によって怒るレベル・ラインが違ったため、大丈夫な先生が体育後の授業だったときはわざとクラス全体で着替えを遅くして次の授業の時間を削る

A1-3:<R03>特定の先生の授業前に黒板をきれいにしておく

A1-4-1:<R03>特定の授業で内職する
A1-4-2:<R07>授業中の内職、優先順位を決める(高)
A1-4-3:<R08>主に中高 先生の差による内職の判断 座席の位置による内職の判断
A1-4-4:<R04>授業中の内職・スマホ
A1-4-5:<R04>中学校 内職・居眠り
A1-4-6:<R01>高校で怒らない教師の授業中に内職、何か食べる
A1-4-7:<R10>寝てもいい授業とそうではない授業の区別(先生がそれを見て対応するかどうか)が起こる。(高校)
A1-4-8:<R04>同じ先生を選んで寝る
A1-4-9:<R09>めちゃめちゃ退屈な授業で、寝てても怒られない先生の授業は睡眠時間にしていた。

A1-5-1:<R01>部活の顧問の授業は他の教師に比べ真面目に受ける
A1-5-2:<R02>部活の顧問が担当の授業のときは集中する(中高)

A1-6:生活指導=好かれることで指導緩くなる

A1-7-1:<R01>高校で課題提出が楽な教師が好まれる
A1-7-2:<R01>高校で受験に関わらない教科の授業を真面目に受けない風潮
A1-7-3:<R10>席の後ろの方は先生からよく見えないだろうから、何をしてもいいという雰囲気があった。(高校)
A1-7-4:<R10>体育の長距離では、先生の目が届かないところは歩き、そうでないところは走るという雰囲気があった。ショートカットする人もいた。(中学校と高校)

A1-8-1:<R04>正解が分かっても指名されたくないから挙手をしない
A1-8-2:<<R04>発言したくないときは目を合わせない
A1-9:<<R07>順番であてられるとき、自分の番が来ないと勉強しなくなる

A1-10-1:<R08>課題を人から見せてもらう
A1-10-2:<R10>課題をやっていない時は、近くの人に答えを教えてもらう(高校)
A1-10-3:<R02>宿題の提出の際に忘れたら、子どもたちは怒られるから、友達に借りたり、何とかしてもらう理由を考えたりして回避しようとする(小中)

A1-11:<R02>先生が授業の開始時間に遅れてくる場合、授業の準備が遅れる(高)

A1-12:<R07>教科書を忘れたら早めに申告(中高)

A1-13-1:<R06>道徳などで教科書の今やっていない単元を見て学びを得る
A1-13-2:<R06>勝手に話し合いをして学びを深める

A2.児童生徒間
A2-1:<R07>寝た友達を起こし合うか、寝てても平気か(高)
A2-2:<R06>発言するときにクラス内の一部の人に発言するように言って(雰囲気を作って)発言させる
A2-3:<R07>課題をやらなかったとき、友達と助け合う。ゆるい先生だと「やらなくても大丈夫」になる(高)
A2-4:<R07>集合時間、一年生はそれより早く来る(中)
A2-5:<R09>小学生の時授業中に手紙回していた

【B.授業以外の学校生活(主として対教師)】
B-1-1:<R07>先生によって課題提出のタイミングを変える(高)
B-1-2:<R07>教師によって課題の手抜き具合を変える(主に中高?)
B-1-3:<R03>掃除の担当の先生や場所によって態度を変える
B-1-4:<R06>注意されても若い先生の言うことは聞かないけど、年配の先生の言うことは聞く
B-2-1:<R03>生徒指導担当や顧問の先生の前では挨拶する
B-2-2:<R08>生徒指導の先生の前では校則を守る
B-3-1:<R04>中学校の時、先生によって口調や態度を変える
B-3-2:<R03>先生によって話し方や授業態度を変える
B-3-3:<R07>先生によって話しかけやすさが違う、口調

B-4-1:<R10>怖い体育教師にはしっかり挨拶し、良い印象を与えられるように(高校)
B-4-2:<R02>顧問の先生に廊下であった時だけ挨拶をする(中高)
B-4-3:<R03>部活動の時に先生によって態度を変える
B-4-4:<R10>自分が所属している部活の顧問の先生にだけ、特に大きな声で挨拶する(高校)
B-5:<R04>中学校で校則に緩い教師の前だと服装が乱れる
B-6:<R06>先生がいなければ、他の人にバレなければ「いけないこと」をやってもいい

B-7:<<R08>体操着を着て学校に来てもばれない時間をねらう
B-8:<<R08>喧嘩や言い合いがあった時に、都合のいいように話を捻じ曲げて伝える

B-9:<R09>時間を守る先生と時間を守らない先生=発言力に差がある

B-10-1:<<R06>先生に黒板をきれいにしたことをほめられてから意識して黒板をきれいにするようになった
B-10-2:<R09>単純に、先生には敬語を使うとか先生には反抗しないといった先生を敬う態度が、意識せずとも行われている
B-10-3:<R09>周りのみんながあいさつしていたら、あいさつは大事なものと認識し、自分もしないといけないと思い自発的にあいさつするようになる

【C.児童生徒間の相互関係(クラブ活動等も含む)】
C-1-1:<R10>運動ができる子が優位に立つ(小中学校)
C-1-2:<R01>小学校では足の速い児童が優位に立つ傾向
C-1-3:<R02>小学校のときは運動ができる生徒が強い、頭がいい子の方が強いというように立場の変化が起きた
C-1-4:<R04>小学生だったら、足の速さ等の能力で立場が決まる
C-1-5:<R04>賢い生徒はなく、目立つ生徒に発言権がある
C-1-6:<R01>野球部やサッカー部などの花形、その他運動部のエースは生徒間の話し合いで優位に立ちがち
C-1-7:<R07>小・中学では、ムードメーカ的な目立つ子がクラスの中心になり、高校などでは頭の良い児童生徒がクラスで中心的な立場になる

C-2-1:<R02>1年で学級委員長をやったら、2年も3年も推薦で学級委員長になってしまった。みんなで言えば引き受けてくれるだろうという同調圧力みたいなものを感じた (中)
C-2-2:<R07>委員決めは、頭いい子が押し付けられる
C-2-3:<R07>小学校でリーダーをやっていると、中学校でもやらされる

C-3-1:<R03>生徒会長は男子、副会長は女子という雰囲気(中)
C-3-2:<R10>代議員(学級委員長)は男子、副代議員(副学級委員長)は女子という雰囲気があった。(中学校)
C-3-3:<R02>役割決めのときに、スポーツ系の団長が男性、副団長が女性になり、文化系の役員が女性中心になる(中高)
C-3-4:<R10>役員決めでスポーツの部活だと優位、文科系だと発言しにくい雰囲気(中学校)
C-3-5:<R04>高校の際の応援団は男子がやる
C-3-6:<R04>応援団の団長を決めるときに男子がやる
C-3-7:<R10>保健委員会は女子という雰囲気(中学校)
C-4-1:<R10>運動会の幹部・リレーの走順→運動部優先の雰囲気(中学校)
C-4-2:<R04>高校の部活で強かったらクラスで発言権がある

C-5-1:<R02>1年生は制服のタイツは白でなければいけないという決まりが勝手にできてしまった(中)
C-5-2:<R03>高学年は制服のスカートを短くしたり、体操着の襟を折ったりすることができる(中)

C-6-1:<R01>部活内で部活成績上位者が優位に立つ傾向がある
C-6-2:<R01>部活の上下関係(先輩の言うことを聞くなど)
C-6-3:<R07>先輩に気を遣う(中高)
C-6-4:<R07>部活、後輩中心に荷物運び
C-6-5:<R07>部活で、一年生が荷物を運ぶ
C-6-6:<R07>部活動の上下関係、敬語を使うかどうか(中高)
C-6-7:<R02>クラブ活動では下の学年が準備をしなければならないというのが暗黙のルールで、責任も下に押し付けられていた(中)
C-6-8:<R07>校則に加えて、部活動の暗黙の規則(先輩が独自に作った規則など)(中高)
C-6-9:<R09>暗黙の了解的な立場で考えると、部活動で上級生と同じシューズや練習着は買わないようにしていました(生徒間?)
C-7:<R10>部活の時間に外周→先生の目が届かないところは歩き、そうでないところは走るという部全体の雰囲気(中学校)

C-8-1:<R01>クラスで多数決をとる際に大多数の方に手を挙げてしまう傾向
C-8-2:<R03>みんながやるからやるという集団心理
C-8-3:<R03>周りに合わせて動く

C-9:<R01>同姓同士で友好関係を築くべき
C-10-1:<R02>重いものを運ぶときは男の子が運ぶ(小中高)
C-10-2:<<R07>男の子が重いものをもつべき、女の子はやらなくていい
C-10-3:<<R07>男子がぞうきん、女子がほうき(中)

C-11-1:<<R04>スクールカーストの形成
C-11-2:<R10>ティア1には逆らえない(大学)

C-12:<R10>体系や見た目での差別(小中学校)
C-13:<R06>いじめられている人を庇うと自分もいじめられてしまうかもしれないから関わらないようにする

C-14:<R10>学校生活における交友関係の作り方やコミュニケーションの取り方を身に付ける。(小中学校・高校全体を通して)
C-15:<R07>苦手な人との距離感をもつ(高)

【D.その他】
D-1:<R03>試験前になると多くの児童生徒が先生の所へ質問しに行く
D-2:<R10>昼休みに先生からの個別添削を受けるために、休み時間に早弁する(高校)
D-3:<R06>破って良い校則と破ってはいけない校則
D-4:<R07>講演会などの感想、興味がなかったとしても量はたくさん書くようにする
D-5:<R08>先生間のパワーバランス認識による、従う従わないの線引き
D-6:<R01>文系と比べ理系の方が男子が多い傾向

【顕在的カリキュラムであるとグループ討論でor佐藤が判断したもの】
(※✖印のものはグループでの判断、印のないものは佐藤の判断です。)
✖<R08>内容の同じドリルを何度もやる
✖<R10>【A】発言をよくする生徒は先生から褒められ、好かれる(中学校)
 → 発言をすることが生徒のあるべき姿であり、特定の生徒を誉めることは他の生徒の発   言を促すための働きかけの一種ではないか
<R03>教科横断型の授業 ( ⇒説明不足で意図がよくわかりませんが、一般論として言うと教科横断型授業はOCとして設定されるものです。)
<R09>プリント 板書穴埋め形式 
<R04>チャイムが鳴る前に座っておく
<R07>教員には丁寧な言葉遣い、方言気を付ける(中高)
<R07>ノートを書く授業、発言をたくさんする授業
<R04>授業中にしゃべらない
<R07>教師が話している時は静かにする
<R07>先生が話す最中に話すのが許されるかどうか(小中高)
<R03>授業中に教室を出ないこと
<R09>英語 音読、発音  文法、話す=先生の指導の違い
<R09>男女別の名簿 男子が1番〜、女子が31番〜と分けていた
<R06>係決めのときに男女が一人ずつになるようにする
<R04>先生に対して敬語を使う。先輩に対して敬語を使う
<R06>男の子には「くん」、女の子には「さん」
<R08>体育による使用場所の男女差

【児童生徒ではなく教師側のルールだと佐藤が判断したもの】
<R09>テストで直前の勉強だけでいい授業 先生の発言までテストに組み込んでくる先生
<R09>見やすい板書 字を綺麗に書いたり、色を使って分かりやすく、見やすくしている
<R07>無駄話厳禁か、多少許されるか(小中高)
<R01>高校の校則で化粧は禁止されているが、文化祭などの行事の際は化粧をしていても生徒、教師ともに見逃す傾向(治安が悪い学校ではない)
(女子にはあまり怒鳴らないが、男子にはよく怒鳴る)(小中高共通)
<R07>タメ語、あだな有りの先生がいた
<R07>(対児童生徒になってしまうかもしれませんが、)男子と女子で教師の態度が変わる。
<R04>宿題の提出率で先生の態度が決まる

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 以上が京女大54名、新潟大95名の受講生達から集約された「隠れたカリキュラム」です。読者のみなさんはこれをどう読まれるでしょうか。
 授業期間終了後に提出させた最終レポートでは、「隠れたカリキュラム」などと言われてもそんなものがあるのかどうか疑問に思っていたが、グループで出し合う中で自分も「隠れたカリキュラム」を経験したことを思いだした、というような趣旨の感想がありました。
 私の偏見めいた感想ですが、現在教師を目指して(あるいは教員免許を取るために)学んでいる学生たちの中には、小学校中学校などで学業成績もそこそこ優秀で教師にもかわいがられる子どもだった人も多いのではないか、だから「顕在的カリキュラム」に含まれる学校生活の諸ルールについても自分から進んで内面化しており、「顕在的カリキュラム」のウラにある「隠れたカリキュラム」などあまり意識していなかった《優等生》もそこそこいるのではないかと予想しています。もちろんそのようなことを受講生個人に対して根掘り葉掘り聞いたりはしませんが。
 グループ活動の最初に「顕在的カリキュラム」の方の事例を列挙するという《ウォーミングアップ》をまず行ない、続いて「隠れたカリキュラム」事例を出し合った後にも、その中に「顕在的カリキュラム」が混じっていないかの相互チェックをするよう指示したのですが、出てきた事例一覧表を見るとグループでの事後チェックにも漏れたニセ「隠れたカリキュラム」(=「顕在的カリキュラム」)項目が、京女大で22項目、新潟大で15項目ありました。もちろん学校が設定したルール(顕在的カリキュラム)をある子どもが自分自身のルール・価値規範として主体的に内面化するということはありうる事態なので、そうなった場合の行動様式を他の「顕在的カリキュラム」と同列に論じてよいかどうかは検討が必要です。また、個々の受講生の学校生活について知らない佐藤が、「これは『隠れたカリキュラム』として出されているけれどもそうではなく『顕在的カリキュラム』だ」と断定してしまってよいかは、問題が残ります。しかしともかくも、受講生が自分の学校生活を振り返って、特定の意識動向とか行動様式が学校によって設定された「顕在的カリキュラム」なのか、それともそれとは別に自分あるいは自分たちが生み出した行動様式=「隠れたカリキュラム」なのかを考えてみること、あるいはその両方のルールがあったのではないかということを意識することには意味があると私は思います。
 特に教師をめざしている学生たちは、《子ども》の立場から《教師》の立場への移行期にいるわけですから、《子どもの時の自分(たち)はこうだった》という経験と、《教師として子どもにどのように関わるか》という課題とを《意識的に繋ぐ》という思考作業を現在の学生時代にこそしっかりやってほしいと思うのです。
 具体的に詳しく書けませんが、これまで多くの学生たちのレポートを読んできて、教師の仕事について考えるときに《タテマエ志向》を感じてしまうことがよくありました。「このように考えることが正解/教師としてあるべき姿だ」という、正解志向と言ってもいいかもしれません。教師のあり方をまじめに考察することは大切なことなのですが、その時に《子どもの時の君はどうだったの? 子どもの時の君ならそのような先生の行動を望むの?》と聞きたくなります。《子ども》から《教師》への立場転換、変わり身が早すぎる。そんな教師が多くなってほしくないのです。

 そこで、「隠れたカリキュラム」事例を出し合った次の授業で、受講生に次のように問いかけています。以下は京女大授業通信第14号(2023.7.21)です。
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11-3.教師=overt curriculumの実行主体の立場から、hidden curriculumとどのように関わるか~隠れたカリキュラムを顕在的カリキュラムに活かすことは可能か?~
 本授業通信「59」(P.1~6)に掲載されたhidden curriculum全体をまずよく眺めて下さい。
 必読資料⑩で天野正輝氏が言うように、「今後のカリキュラム研究においては潜在的カリキュラムの分析によって明らかにされたものを、いかにして顕在的カリキュラムの中に適切な形で組み込むかという点に課題がある」のです。しかし、この作業は容易ではありません。私がこれまで目にした教育方法学・教育課程論関係の文献でも、下線部の課題について明確な考え方を述べたものはまだありません。これは未解決、未踏の課題なのです。ということは、これから皆さんが教師として学校現場に出て行く中で、新たに答えを見つけ出せる可能性も秘めた課題なんです。
 従って今日の議論は、性急に結論を見いだそうとせず、グループの全員で経験と知恵を出し合って、慎重に慎重に議論して下さい。
[1]受講登録数は73名中これまでほとんど出席実績がない10名を除外して、63名を9つのグループに機械的に分割し、グループ01~09(@7名)を作成しました。私の手元にある苗字アルファベット順名簿を使用し、前から順番に7名ずつに分けました。みなさんの意向は反映していませんがご了承下さい。
(中略)
[7]10分程度時間を取って、各自で本授業通信「59」のHC一覧(A1・A2・B・C・D)の一覧表の中から、自分が興味を持ったもの(下記の[9]・[10]の視点からグループで議論してみたいもの)を1項目選びます。
   *選択できる範囲は上記A~Dまでであり、その後に掲載されている【児童生徒ではなく教師側のルールだと佐藤が判断したもの】・【顕在的カリキュラムであるとグループ討論でor佐藤が判断したもの】及びの各項目は含みません。
   *前回と今回はグループメンバーが異なるので、選択するHCの項目は前回の自分のグループが提案したものかどうかにこだわる必要はありません。前回のどのグループから提案された項目でも、「自分にもそういうことがあった」と思い当たるものは取り上げてかまいません。
[8]グループでTeams経由で意見交換して各メンバーが興味を持った項目を出し合い、その中から調整して2~3項目を選ぶ(何項目について検討するかは各グループに任せますが、せっかく多様なHCが出されているので、できれば複数の項目を)。それについて順次取り上げて討論を行なう。
[9]まず、取り上げたHCについて、「教師が敢えて関わりを持つべきことなのか(静観してはいけないことなのか)」について意見を出し合う。もしも「静観してよい(教師は関わらなくてよい)」という結論で一致したら、記録者が「静観してよい」ことになった項目と、及びその理由を記録し、次のhidden  curriculumの検討に移る。
※記録者は、取り上げたHC項目の記号番号名(例:A-1-1<G02>)及びそのHCの全文を明記すること。
[10]グループ内で「教師が関わりを持つべきだ」という意見が多いHC項目について、
 ・教師はそのhidden curriculumを根絶するのか/修正するのか/全面的に受け入れるのか?
 ・受け入れる場合、非公式なルールだったHCを改めてOC(顕在的カリキュラム)の中にどのように位置づけるのか?
 ・OCの側が動き出すことで従来と異なるHCが新たに発生することは考えられないか
 等々、OCとHCが絡み合うことによって生じうる事態をできる限り予想してみよう。
 →記録者はHCの項目毎に上記諸点についての議論の内容を記録する(詳細はメンバーの小レポートでも言及されるので、概略でよい)。
※記録者は、取り上げたHC項目の記号番号名及びそのHCの全文を明記すること。
[11]本日の授業を通常通り対面で実施できていたら、授業後半で各グループからの討論結果発表を行なっていただく予定だったのですが、残念ながら省略します。
[12]小レポートNo.14では、グループで検討したHC項目から各自が一つに絞ってそれについて書く。グループ討論の最後に各自がどのHCを小レポートで取り上げたいかをグループ内で確認する(但し、どの項目を取り上げるのかについて各自の希望に反した調整をする必要はない)。

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 上記の京女大「教育課程論」第14回授業(2023.7.21)については少し補足説明が必要です。
 実はこの授業の4日前に私はコロナウィルスに感染しました。発熱は2日ほどで収まったのですが咳が出て体が重く、またPCR陽性と判明した後の「安静推奨」期間中だったので、7/21の授業は休講とすると大学に連絡しました。ところが大学側はオンデマンドでの代替講義実施を要求してきました。私の授業は毎回グループ討論とそれにもとづくレポート提出を課しているので、オンデマンドではできないのです。しかも次週の最終回授業(7/28)後、大学は補講期間も試験期間も置いていません。仮にオンデマンドにしても、受講生にいつ受講せよというのでしょうか。そこで、頭の固い大学側と交渉するのはもうやめにして、受講生達に7/21はzoomによるリモート授業に切り替えて実施すると連絡しました。ところが今度は受講生から、zoomだと正常に受講できるか不安だというメールを受け取りました。受講生の大半は2回生で昨年度入学。つまりその前の世代と違ってリモート授業の経験が少ないんですね。他の授業が対面実施されている中で空き教室を探してzoomにアクセスしようとしても、一定人数以上が集まるとwi-fiがダウンするということもあったようです。zoomも使えないとなるとどうするか?そこで思いついたのが、日頃レポートや討論記録の提出に使っているTeamsを利用して、グループLINEみたいなやり方で文字コミュニケーションで討論を行なうというやり方です。Teamsの会議機能を使って討論したグループもあったようですが、私は使用法がよくわからず指示できないので、文字コミュニケーションを基本としました。
 ということでややこしい手続きをとらざるを得なかったのですが、要するにこのグループ作業でやろうとしたことは、
 ●前回収集した「隠れたカリキュラム」一覧表からグループの各自が興味ある項目を選び出し、それを摺り合わせてグループとして検討する「隠れたカリキュラム」項目を選び出す。
 ●選んだ「隠れたカリキュラム」項目について、まずそれに対して教師は関わるべきか/静観してよいのか(その理由)を検討する。
 ●関わるべきだとグループで判断した「隠れたカリキュラム」項目について、根絶するのか/修正するのか/受け入れるのか(註・《静観する》というのと、《(教師が関わって)承認する》というのは違うと考えます。)、受け入れる場合既存の「顕在的カリキュラム」の中にどう位置づけるか、《もぐらたたき現象(=一つの「隠れたカリキュラム」をつぶすと、また別の「隠れたカリキュラム」が発生する)》が起こることはないか?
…ということです。
 この討論結果は、翌週最終回の授業通信第15号(2023.7.28)に以下の通り掲載しました。但しこの最終回も、まだ出勤して対面授業を行なう自信がなかったので、前週と同じくTeamsを使ってのグループ別の全体総括討論を実施しました。私から音声による講義を行なうことはできないため、下記の一覧表についてコメントはしていません。
 新潟大では上記の「隠れたカリキュラム」への教師の関与について議論したのが最終回授業であったため、グループ討論記録は提出させましたが、もう次の授業がないので集計結果を受講生に提示することはできませんでした。
 下記の記録は、京女大第13回授業で収集した「隠れたカリキュラム」一覧の中から第14回授業でいずれかのグループが検討対象とした項目だけを選んで、討論結果を記載したものです。

【A.授業中】
A1.対教師

A1-1-5-1 <G05>先生によって寝てもいい授業がある。
【G03】
結論:静観すべきではない   【根絶:0、修正:7、受け入れ:0】
〈修正するべき理由〉
・眠っていい授業はないという認識にしていくことが大切
・注意や意識の変化を促すことで修正していくべき

A1-2-2 <G04>発言者が決まってくる
【G05】
*「教師によって態度が変わる」「発言者が決まってくる」について先生がかかわりを持つべきかどうか
態度について
・人によって態度を変えるのは社会に出たときに困るので、ある程度先生が関わるべき
・多少の介入は必要だが、学年が上がるごとにつれて解決していくものでもある。
・実際に中の良い先生とため口で話していたら他の先生から注意されたので、先生が介入すべき
・学校での経験が社会でも生きる
・先生によって話しやすいかどうかがあるので、人によって態度を変えるのは一概に悪いこととは言えない
・先生が生徒に関わることで内職や寝る行為の改善になる
発言者について
・発言者が多い方が色んな意見が出て、より良い授業なる
・意見を持っていても言えない子に対して、発言の機会や促しを与えるべき
・意見の偏りが起こる
*顕在的カリキュラムが動き出すことで従来とは異なる潜在的カリキュラムが発生するかどうか
・顕在的カリキュラムが働くことによって従来の潜在的カリキュラムは制限されるが、新たな潜在的カリキュラムが生まれる場合がある
【G07】
静観しても良い:6人  関わるべき:0人
理由:発言者が決まってくるとそれにつれて他の人も発言しにくい雰囲気ができてしまう、発言者が決まるということはその人たち以外の生徒は授業に参加していない可能性もある

A1-3-2 <G09>教師が授業中に怒って出ていった場合(反省したら呼びに来なさい、と言われていないが)
【G01】*A-1-3-1/A1-3-2を併せて
→静観すべき ・投票数…1
 ・意見…教師が勝手に怒って出ていく時点で教師は生徒に教えるという責任を自ら放棄しているのでそ     の後の生徒達の行動に意見せず静観するべき(東堤瑞花)  
 静観すべきではない
 ・投票数…2
 ・意見…休み時間のように残りの授業時間を無駄に過ごしてしまう可能性があるため、少しでも教師側     から何かしらのアクションを起こすべきなのではないか(稲葉涼佳)
 静観すべき & 静観すべきではないこと
   ・投票数…1
   ・意見…生徒に考えさせるための時間も必要だが、休憩時間のように遊んでしまう生徒もいるため教師     は様子を見ながら生徒に何らかのアクションを起こす必要があるだろう(藤原実和) 
【G09】
静観しても良い。
理由:先生から呼びに行った方が良いと言うのではなく、生徒にその状況を任せるべきだから。
  
⇒T.Satou:グループ討論の課題は《教師がHCにどう関わるべきか?》でした。上記A-1-3-1/A1-3-2の場合、教師が子どもたちに何ごとかを指示するとか注意・叱責する(これらはHC)のではなくて、教師が突発的に(と見える形で?)教室を飛び出して職員室に戻るという行動をとっています。教師の側の予想外の行動であり、生徒側に「何らかの行動を起こさないといけないのか?」という不安や迷いを引き起こす行動です。そうすると少なくとも、「教師がこの事態にどう介入すべきか」という討論課題には相応しくないですね。まあ、事態を見ていた他の教師が何らかの介入・仲介をすることも考えられないわけではないですが。

A1-6-1 <G07>綺麗なノートのほうがいい
【G06】
「多少は関りを持つべき(修正)」
 ・みんなきれいに書いていた
 ・小中学生時代はきれいなノート文化があった☞見返すことは少ない
 ・自分の勉強効率のため
 ・年齢によってノートのまとめかた変わってくる
 ・「ノートをきれいにとる」☞板書そのままじゃなく、自分なりにまとめる力が大事
 ・はじめは書き方わからないから基礎的な指導は必要
 ☞まとめ方や書き方を学び、自分に大切なところをおさえてノートを作ることができる(HC)
 ☆自分の言葉でしっかりまとめられたノートを評価していく(修正)

   ⇒T.Satou:ノートをきれいに書くことは、特に学校生活の初期には教師からもOCとして指導されると思いますが、それが次第に子どもたち(の一部?)の文化となって、教師が要求する程度を越えて熱心にきれいなノートづくりをする子ども、そこにうんとこだわる子どもも出てくるのでしょうね。それは習字を上手に書くとか絵を美しく描くとか、机の中をきちんと整頓しておきたいなどの傾向とも共通するのかもしれません。OCから派生したHCと言えるかもしれません。

A2.児童生徒間
A2-1 <G01>授業中に間違えても笑ったりしない(小・中・高)
【G01】
→静観すべき  ・投票数…0  ・意見…なし
 静観すべきではない   ・投票数…4
    ・意見…教師が間違えを恐れずに思いついたことがあればどんどん発言できる雰囲気していくべ     きなのではないか(稲葉涼佳)
     教師が静観していると生徒はしてもいいことだと考えてしまうだろう(東堤瑞花)
          相手を尊重することができない人が集まったクラスになってしまい、その結果周囲の人に合わ     せる人ばかりになるだろう(藤原実和)
→随時修正するべき 
【G09】
関わりを持つべき
・教師はそのhidden curriculumを修正するべき
・間違えることは悪いことだというイメージを持たないようにしたい
・場が和むような雰囲気の時は笑っても良いことを知る
・このことをOCだと結論付けるのは誤解が生まれてしまう

   ⇒T.Satou:う~ん、これは提案した第13回<G01>グループに聞かないとわからないのですが、「笑ったりしない」というのが子どもたちの間に暗黙に成立しているHCだということなのでしょうか? 第14回のG01グループはそうは解釈せずに、子どもの間違いを他の子どもが笑った場合に教師はどう対処すべきかを検討されています。そうだとすると、「他の子が間違えたら笑う(笑っていい)」というのがHCだということになってしまいます。でも原文は「笑ったりしない」ということなので、友だちの失敗を嘲笑したりしてはいけないんだというルールを教師に教えられることなしに子どもたちが持っているということになります。そうだとするとこれは教師から見て誉めるべき、推奨すべきHCということになります。

A2-3 <G09>寝ている子が当てられたり、当てられた子が分からなかったりしたら席の近い子が教えてあげる(中、高)
【G04】
静観してよい
・生徒同士が協力し合っているという良い傾向であると思う
・自発的に教えるという行動から助け合いの精神が身につく
・あくまでも自発的であることが大切で、教えることを周りが強要するのは違うと思う
・分からない子を放っておくのではなく自発的に行動し一緒に考えてあげようとする行動が教えてもらう側も教える側にも得となる
・自分たちで、気付き合うことが、言われて行うよりも大事

   ⇒T.Satou:当てられた子がわからなかった場合は少し違うと思いますが、寝ている子を当てるというのは教師は答えられないであろうという前提で当てている、もう少し言えば当てられてわからないことでその子に恥をかかせる、そういう懲罰を与えるという意味を含んでいると思います。授業で寝ていたらそういう《報復》を与えて当然というやや嗜虐的な意識もあるでしょう。その時に、わからなくて困っている子に教えるという行為は、その子に懲罰を与えている教師へのある意味反逆でですから、おもいきり怖い教師の授業であれば敢えてその行為に出る子どもがいないかもしれませんが、教えてあげる子どもがいたとしたら、教師の懲罰的行動に敢えて反逆してでも困っている子を助けてあげることが友情だというHCが成立しているかもしれませんね。

【B.授業以外の学校生活(主として対教師)】
B-5 <G07>この先生だったらいじってもいい
【G09】
関わりを持つべき


B-10 <G09>特技のある子どもはその特技を全体のために行使しなければならず、またその全体のために行使された特技は評価されない(成績が上がったり恩賞をもらえたりすることはない)ものである(小、中、高) 例)音楽会の伴奏、文化祭のチラシやポスター、運動会のリレー
【G03】
結論:関与すべき
【静観してよい:1、静観してはいけない:6】
〈静観してよい理由〉
・成績は授業内での活動で決められるべきではないかと思うからです。授業外での活動が、成績に反映されてしまうと、ジャンケンで指揮者が決められたり、リレー順が決められたりした場合に不公平になるのでは無いかと思ったからです。
〈静観してはいけない理由〉
・成績には反映されないにしても何かしらの恩賞は得るべき。不公平だという考えもあるかと思いますが、ピアノが弾ける子は伴奏のために練習のために、絵が描ける子はポスターなどを完成させるために時間を費やします。その時間は伴奏をしない子どもたちは遊んだり、テスト勉強をしたりに費やせる時間です。その意味では、学習面においても不利になることがあるとも考えられます。できない子が損をすることは望ましくないですが、現状ではできる子ができることによって損をしているケースが多いように思います。「できるからやって当たり前」ではなく「できる」と「やる」は別物であり、能力の有無に関わらず「全体のために自分の時間を費やして行った」ことは評価されるべきだと考えます。
→必ずしも既存の評価方法で評価する必要はないと思います。評価する場合は、古賀さんがあげてくださった意見の中のじゃんけんなどで決まった時に不公平にならないように、という観点も確かに大切にしていった方が良い
→「評価する」ということは「評価されない(成績が上がったり恩賞をもらえたりすることはない)ものである」という隠れたカリキュラムに対する根絶であるとも考えられ
→結論としては関与すべき
・合唱コンで優勝した際に賞状をもらうのはピアノを弾いた子だったので直接的な恩賞がなくてもいいのかなと思いました。
【G04】
静観してよい
・生徒間で行われるやり取りであって、特技を活かせる場はその子にとっても貴重であるため教師がわざわざ介入する必要もない
・教師の介入により贔屓も生まれてしまうかもしれない
・特技を用いて活躍できる場であるため生徒の自己肯定感や自信につながると思うから
・静観することで生徒たちで進めて行けるため成長に繋がるから

   ⇒T.Satou:【G03】・【G04】グループのみなさんの議論を読んでいて、第13回<G09>が提案されたこの項目は、果たしてHCなのだろうかという疑問が生じました。ピアノ伴奏やポスター制作など、学校行事において《特技を活かした役割》をいずれかの生徒が果たすように決めるのは、教師ですよね?(生徒の投票で決めるということもあるんでしょうか?)行事は特別活動であり、その方針として教師が決めたことはOCです。ただ、例えば教師が理由をあきらかにせずに特定の生徒を指名するならば、教師は明示していなくとも《こういう時には特技を持っていると教師に評価される生徒が選ばれるものだ》というHCは成立しているかもしれません。ただ、日本の学校では、特定の子どもだけを過大に評価したり特別扱いすることは、《先生はひいきしている》というHCを生み出しますし、親からのクレームも考えられます。そのことへの《対策》として、《特定の子どもを評価して特別の役割を与えることもあるが、その見返りとして報償を与えたりはしない》といういOCとHCの境目みたいな教師側のルールが成立しているかもしれません。《あの子は選ばれたんだけど、それに見合う努力をしたし、しかも成績等への見返りもない。これでどうして贔屓なんだ》みたいなね。

【C.児童生徒間の相互関係(クラブ活動等も含む)】
C-1-1 <G05>クラスの中心的存在が自動的に決まる。
【G02】
静観しても良い
理由
・子供同士の関わりでそれぞれの得意不得意があり、敢えて教師が関わる必要は無いため。
・中心人物になる人ならない人にはそれぞれの特徴があるからこその結果であるため、そこに教師という第三者が介入する必要性を感じないから。
・学校行事や係決めなどをする際に中心的存在になった子がクラスを引っ張ってくれると考えられるから。
【G03】
結論:静観してよい
〈静観してよい理由〉
・委員会などの組織となると別かもしれませんが、クラスのムードメーカーを押し付けるようなことは、生徒の特性を抑えつけることに繋がるのではないかと思ったからです。
・人前に立つことやみんなをまとめるのが苦手な子に無理強いをするのは良くないと思いました。適材適所という言葉通り、得意な事を得意な人がする事でみんなが無理せず過ごすことができると思います。
・性格によってクラスでの立ち位置が変わるのは自然なことですし、それがいじめや対立に発展しない限りは教師は関与しなくていいのかなと感じます。子どもたちには子どもたちの人間関係もありますし。


C-2-1 <G02>固定されたグループで行動
【G02】
教師が関わりを持つべき
・特定の人とだけ仲良くするのではなく、色んな人と人間関係を築くことは必ず必要になってくると思うので、様々な子と関わる機会を教師は作る必要があるため。
・固定されたグループの場合不適切な行動や、いじめなどの問題が起こった時それらが放置されてしまう恐れがあるため、教師は敏感に対応する必要性があるから。
・メンバーが固定されてしまうと、例えば1人になってしまう子が出てきたり、違うグループに入りずらい、という状況に陥ってしまう可能性があるため。
・同じ人ばかりではなく、いろんな性格を持つ人とのかかわりを持つこと社会に出た際に良い関係性を築けると考えたから。


C-6-2 <G03>生徒会長は3年生だけ
【G07】
静観しても良い:4人
関わるべき:2人
理由:1年生より2年生のほうが、2年生より3年生のほうが学校生活に慣れており、また年上という立場であるため、注意だったり指示がしやすいあると考えるから、生徒会長は基本的に全校生徒の投票によって決まるので教師はあまり関係ない


C-6-3 <G06>女子が書記になりがち
【G08】
・教師が介入できる問題ではないと考えた。
・やりたいと考えている人がいるのなら男女関係なくやればいいと考えた。


C-10-1 <G05>部活動の年功序列 (挨拶をしないと呼び出される、先輩よりも雑用をする)
【G07】
静観しても良い:5人
関わるべき:1人
理由:部活の年功序列は学生のうちから上下関係を学べる良い機会、社会に出たら誰かから言われなくてもその環境に合わせて年功序列の仕組みに適応しなければいけない、実際に年功序列のある運動部に所属していた時に学校の下刻時刻を大幅に上回る作業を足付けられていて先生も見ない振りしちゃダメな領域まで問題が発展してしまったから

 

 今この討論記録を読み返してみて一つ新たに思いついたのは、最初に「隠れたカリキュラム」事例を出し合ったときに、単に事例を出すだけではなくて、「どうしてそういうルールが発生し、生きていたのだと思うか?」「そういうルールの中で学校生活を送っていて、どう思ったのか。そのルールはなくなってほしい、できるなら打破したいと思ったのか? それとも自分にも都合が良いから存続してほしいと思ったのか?」というような「隠れたカリキュラム」の《受けとめ》まで立ち入って検討することが必要であった、ということです。なぜならそこまで子どもたちの世界のホンネに迫っていないと、教師による「隠れたカリキュラム」への関わり方を検討しても上滑りになってしまう可能性があります。《子ども時代の終末期》にいる学生たちに、「これぞ子ども!」と言える姿をしっかり覚えておいてほしいのです。
 そこまでは踏み込めなかったんですが、これまで行なってきた「隠れたカリキュラム」事例の出し合いについても、それを「顕在的カリキュラム」の世界での大学の授業、教職科目授業の中で行なう上で、私なりの気の使い方はしています。
 つまり、先に書いたように、教職を視野において学んでいる学生は、かつて学校の世界の《あるべき論》に自分を近づけようとした経験(=いい子ちゃんぶること)を持っているかもしれず、今また教師の仕事について考えるときに《タテマエ論》に傾斜する可能性がある。しかし、かつて《いい子》であろうとした子どもでも、そうなりきれなかったり、《ワル》になったり、あるいは《ワル》の風潮に抵抗できず同調してふるまったりということはあったかもしれない。そうしたことを含めたprivacyを授業の中で吐露するよう要求することはふさわしくないし、実際にも出てこないと思うが、せめてこのリサーチ活動では「その行動がよかったのか悪かったのかの価値判断は取り敢えず保留して」(京女大授業通信第13号)出し合おうじゃないかと呼びかけています。そして同時に、振り返ってみて「悪いことをしていた」と思う経験を授業中の討論で出すことにはためらいがあるんじゃないかと考えて、(日頃のグループ討論ではメンバーの了解が得られれば発言者名を記載するように討論記録者に指示しているけれども)この回の討論については「当時もしも教師に知られたら『ヤバかった』内容も含まれると思われるし、そういうものも出し合った方がおもしろいので、討論記録には事例を出した人の氏名は書かなくてよい。」と指示しています。
 さらに、教師の関わりについての討論記録のいくつかの部分には私のコメントを付していますけれども、《顕在的カリキュラムの世界の住人である教師(註・教師の世界にも「隠れたカリキュラム」はあるとは思いますが)が隠れたカリキュラムの世界にどう関与すべきか》ということについて、私の見解を授業で示すことはしていません。その理由は、
 第一に、(私自身の不勉強を露呈してしまっているわけでもあるのですが)授業通信第14号から再度引用すると、以下のように述べています。
「 必読資料⑩で天野正輝氏が言うように、『今後のカリキュラム研究においては潜在的カリキュラムの分析によって明らかにされたものを、いかにして顕在的カリキュラムの中に適切な形で組み込むかという点に課題がある』のです。しかし、この作業は容易ではありません。私がこれまで目にした教育方法学・教育課程論関係の文献でも、下線部の課題について明確な考え方を述べたものはまだありません。これは未解決、未踏の課題なのです。ということは、これから皆さんが教師として学校現場に出て行く中で、新たに答えを見つけ出せる可能性も秘めた課題なんです。
 従って今日の議論は、性急に結論を見いだそうとせず、グループの全員で経験と知恵を出し合って、慎重に慎重に議論して下さい。」
 つまり、「隠れたカリキュラム」への「顕在的カリキュラム」の関与のあり方については、学問的にも未解決であると思われ、従って受講生諸君自身が既に定まった結論を受け入れるのでなく、今後新たに答えを見つけ出せるかもしれないchallengingな課題であるから。
 第二に、収集した「隠れたカリキュラム」の一覧表からもわかるようにその内容は複雑で多岐にわたり、基本「顕在的カリキュラム」の世界で行動している教師がそこにどう関わるべきか、というよりも関われるのか、というのは個々の「隠れたカリキュラム」項目によって異なるから。
 第三に、だからこそ教師の《あるべき論》に安易に逃げ込んでしまわず、子どもだった頃の《言い分》《リクツ》《言い訳》等々をよく覚えておいて、大人(教師)のメガネで最初から見てしまわずに子どもの考えていることや行動を丁寧に把握する教師になってほしいから。
 第四に、教師の立場で、人間として大事にしたいこと、譲れないことがあり、行動面では体を張って子どもを守ったり、間違った行動を制止すべき局面もある。これらの教師の意識と行動は「顕在的カリキュラム」の世界に根ざしたものであるが、そうした教師の(正義の)意識と行動を拒否したり、受け流したり、冷笑したり、逃避したり、あるいはひそかに共感しながらもそれを言動に表すことをためらったりする子どもの実態もまたある。「顕在的カリキュラム」の世界の「正しいこと」は、「正しいから正しい」では子どもの胸に落ちない。しかし「顕在的カリキュラム」を体現している教師の意識は、「正しいから正しい。誰が何といおうと正しいことは正しい。」となってしまうことはないか。正しくないにしても別の受けとめ方をする子どもがいる。その事実は少なくとも認めなければならない。認めがたい事実を事実と認めるところから子どもの胸に落ちる教師の子ども把握への努力が始まるのではないか、と考えるから。

 自分の大学教育実践について別の自己分析も進めていまして、そこで改めて書こうと思っているんですが、新潟大「教育課程及び総合的な学習の時間の指導法A」の中で15回中3回を充てて「総合的な学習の時間」について学習しました。この中で出てきた受講生のレポートでは、総合的な学習において子どもたちが自由に活動することについて、その意義は認めながらも「あまりに自由ではいけない」「それでは学習でなく遊びになってしまう危険がある」「活動を教師がどう導くかきちんと見通しを持っていなければならない」などの意見が多く出されていました。これらは個々にはもっともな意見です。また、何人もの受講生がそれぞれに意見を出した結果ですから、それらを一つの集合的人格の所業のように捉えて批判することは間違いだとは思います。
 でも私は思うのです。かなりの部分が教師を目指している学生たちです。《子どもの自由な活動というのは、あくまで教師がコントロールできる範囲に収めねばならない》と考えている人たちがたくさんいて、その人たちが教師を目指しているとしたら、近い将来に学校で学ぶ子どもたちは幸せじゃないな、と。
 数年で教師になるであろう若者たちはいま何を考えているのか? 駆け出しの未熟な教師である自分が子どもたちをコントロールしきれなくて管理職や親からクレームをつけられることを恐れているのか?
 君たちの子ども時代はどうだったのか?と問いたいのです。自由はかけがえのないものじゃなかったのか? 学校生活の中でも自由な時間や空間を求めていなかったのか? 授業を遊び時間に切り替えてもらった時はうれしくなかったのか? 総合の時間に自分たちで決めた自由な活動ができたら楽しくおもしろかったんじゃないのか? そういう子どもの自由な世界を「ほどほどにしとけ」と制限するのが、教師の本質的役割なのか?
 子どもの「自由」への教師の関わり方と、これまで論じてきた教師の「隠れたカリキュラム」への関与とは、繋がっていると思うのです。
 「隠れたカリキュラム」一覧表を見ると、京女大生だって新潟大生だって、学校生活ではけっこうワルいこともやってきています。私の授業でそれを(ある程度は)正直に振り返ってくれたことは良しとして、いったん教師目線に戻ったら一転して子どもたちのワルの世界を封じ込める立場に立ちきってしまってはほしくないなと思います。

 そういう意味では、「隠れたカリキュラム」への教師の関与の仕方について議論した際に、さらに《仮にあなたたちの小中高時代に、いま検討した「隠れたカリキュラム」について教師があなたたちが想定したような関わり方をしてきた場合、子どもだったあなたたちはどう反応しただろう? 喜んで受け入れただろうか? それとも反発しただろうか?》と問うことも必要であったように思うのです。想定に想定を重ねるような問いなので考えにくいかもしれませんが、とにかくそういう思考実験を通じて、《近い将来教師の立場に立つ自分》と《かつて子どもだった自分》の間の思考の往復運動を何度も体験してほしいと思うのです。そうすることで、教師になった時に仮に特定の「隠れたカリキュラム」の存在に気づいたけれどもそれに対して適切に対処することはできなかったとしても、子どもたちとの接点、お互いに許容できるエリアは広がりそうな気がします。

 「隠れたカリキュラム」の事例に則して考えてみます。
   京女大 A1-1-1 <G02>教師によって態度が変わる
                     A1-1-2 <G02>質問できる先生が決まってきている(あまり怒らない先生に対してなど)
                     A1-1-3 <G04>特定の教師の時全然授業中発表しない
                     A1-1-4 <G04>内職
                     A1-1-5-1 <G05>先生によって寝てもいい授業がある。
                     A1-1-5-2 <G11>寝てもいい授業と、寝てはだめな授業がある。
        新潟大  A1-2-1:<R07>先生の特徴を判断して接し方、授業の受け方をそれぞれ変える
                     A1-2-3:<R09>先生ごとに生徒の態度が変わる(高校、A―1に該当…?)

                     A1-2-4:<R07>授業によって児童生徒の態度が変わる(居眠りが多くなる、発言などが多くなる)(小中高共通)
                     A1-2-5:<R06>怖いと有名な先生の授業では何も言われなくても静かに授業を受ける
                     A1-2-6:<R09>先生によって怒るレベル・ラインが違ったため、大丈夫な先生が体育後の授業だったときはわざとクラス全体で着替えを遅くして次の授業の時間を削る
                     A1-3:<R03>特定の先生の授業前に黒板をきれいにしておく
                     A1-4-1:<R03>特定の授業で内職する
                     A1-4-2:<R07>授業中の内職、優先順位を決める(高)
                     A1-4-3:<R08>主に中高 先生の差による内職の判断 座席の位置による内職の判断
                     A1-4-4:<R04>授業中の内職・スマホ
                     A1-4-5:<R04>中学校 内職・居眠り
                     A1-4-6:<R01>高校で怒らない教師の授業中に内職、何か食べる
                     A1-4-7:<R10>寝てもいい授業とそうではない授業の区別(先生がそれを見て対応するかどうか)が起こる。(高校)
                     A1-4-8:<R04>同じ先生を選んで寝る
                     A1-4-9:<R09>めちゃめちゃ退屈な授業で、寝てても怒られない先生の授業は睡眠時間にしていた。
                     A1-5-1:<R01>部活の顧問の授業は他の教師に比べ真面目に受ける
                     A1-5-2:<R02>部活の顧問が担当の授業のときは集中する(中高)
                     A1-6:生活指導=好かれることで指導緩くなる

 上記は毎年の私の授業で必ず出てくる「隠れたカリキュラム」群で、要するに《授業担当の教師に対応して学習態度を変える》ということです。このように両大学とも多数出されているのですが、京女大第14回授業では、上記項目を取り上げて教師の関与の仕方を議論したグループは以下の1つだけでした。

【G03】 A1-1-5-1 <G05>先生によって寝てもいい授業がある。
結論:静観すべきではない   【根絶:0、修正:7、受け入れ:0】
〈修正するべき理由〉
・眠っていい授業はないという認識にしていくことが大切
・注意や意識の変化を促すことで修正していくべき


 また、新潟大授業では《教師の関与》について議論したのが最終回授業だったため、受講生に議論の結果を一覧表にしてフィードバックすることはできなかったのですが(受講生が各グループの討論結果を学務情報システム「フォーラム」にアクセスして読むことはできます)、討論記録を見ると以下の3つのグループが取り上げています。

R02  A1-2-1(R07):寝ている友達を起こしあう。(高)
・起こさないでそのままにしないほうがいい,教師が何かすることはない
・教師に言われるよりも生徒同士で気づきあって指摘したほうが良い,教師が言う必要はない
・生徒同士で危険を察知するということで教師が介入することはしなくていい
・起こし合う→静観して良い,生徒間の助け合いは授業に参加しようとする姿勢が見られるので良い
・私は生徒が居眠りをしている時に教師は介入すべきではないと考えた。理由として教師が起こしてしまったときに生徒に罪悪感を抱かせてしまうから 

R09  A1-2-3:(R09)先生ごとに生徒の態度が変わる
静観すべき
理由①寝る人の中には自分のために考えてやっているためわざわざ介入しなくていい
②教師の立場がはっきりしているのであれば従わなければいけない人に従えばいい

R01  A1-2 先生によって生徒の態度や授業での集中度合いが違うことについて
<静観してよい>
・教師が言いづらい
・生徒に対しては静観→教師陣が自分たちを直す
・「態度」に関してはあえて介入しなくてもいいのでは
<関わるべき>
・ちょっとした注意、声掛け程度はすべきなのではないか
・「集中」の面に関してはある程度は介入すべき
【結論】
部分的には静観しても良いが、ある程度は介入すべき
●理由…同じ教師という関係上、口出ししづらい
介入する際は
〇教師はどのように関わることができるか
→教師が認識できた場合のみに、なぜそのような態度で接するようになったのかという原因を突き止める程度の関わり(露骨に注意するということはしない)
〇教師はそのHCを拒絶するのか・修正するのか・そのままOCに取り入れるのか
・先生への態度は個人の思いによるため、一人一人で違う
→完全拒絶はできないので、修正する必要がある
〇受け入れるという場合、OCにどのように位置づけるか
→OCには組み込みづらい
〇介入から新たなHCが発生することは考えられないか
→関係を持った先生への態度が変わること


 この件、「顕在的カリキュラム」は言うまでもなく、《授業には真面目に参加し、学習以外のことをしない》というようなことであろうと思います。「言うまでもなく」と書いてしまいましたけど、良心的な教師なら授業を進行しながら一人一人の子どもの参加状態に気をくばることはするでしょうし、参加していない子どもに対しても一律に叱責するというような対応はしないかもしれません。ただ、システムとしての授業(一斉学習形態の)は、教師は指導するが子どもは教師の指導に応じても応じなくてもよい、というようなルールで成り立っているわけではありません。従って正当な理由なく授業に参加していない(内職する、寝るなど)子どもに対しては教師は《注意し態度を改めさせる》というのが「顕在的カリキュラム」としてのルールだと思います。
 ただ、何十人もの子どもたちがいる中で、教師はその中で《参加していない》子どもをチェックしきれないという現実もあります。《見逃さず注意する》という「顕在的カリキュラム」を堅持している教師はそうするでしょうが、一方《ある子どもは注意し、他の子どもは注意しない、というような不公平は許されない》というルールを意識する教師もいるでしょう。そうすると、授業を進行しながら不参加を監視することになり、教師は神経を使います。また順調に流れていた授業が一人の子どもを注意することで腰を折られる、ということもあるでしょう。それは教師にとって心折れる事態でもあります。監視的な雰囲気の授業にしたくないと思う教師は、例えば少々の私語などは聞き流すとか、ちょっと授業を止めて静かになるのを待つとか、つまり子どもたちとの《対決》事態にならず、子どもたちの側が《忖度》してくれるのを待つ、という対応をする場合もあるでしょう(私の高校非常勤講師や大学教師としての授業経験を思い出しながら書いています)。
 そして、このような授業不参加に対する対応は、教師によって様々だと思います。子どもたちの授業への積極的参加を学級研修のテーマに掲げて意識的な情報交換や対策樹立を心がけている学校がもしあるならば、各教師が自分の授業における子どもたちの対応について情報交換しているかもしれませんが、そうしたところは少ないんじゃないでしょうか。子どもたちが授業に集中していない、騒がしいなどの実態は、自らの教師としての指導力量の不足とみなされる場合もあるので、よほど教師相互の信頼関係がないと、率直に語り合うことは難しいでしょう。
 まあ、そういう中で、子どもたちは各時間の授業を担当する教師の《たち》《クセ》を見きわめて、厳しい教師の授業では叱られないように《おとなしく》ふるまい、口うるさく注意しない教師の授業では居眠りしたり内職したりするということもあるわけですね。さらに突っ込んで言えば、クラスの全員とか圧倒的多数が寝たり私語をしたりほかごとをするわけではないでしょう。それでは授業が成立しなくなり、それを放置する教師は指導責任を問われかねません。そうではなくて、私語や居眠りをする子どもがいても、《まあ、この先生の授業ではね》という暗黙の了解が子どもたちの中にあって、隣の子を起こすとかおしゃべりを注意することは少ないのではないか。仮にまじめで正義感が強い子どもがそういう行動に出たとすると、その子は《クラスの空気を読めない子》としてクラスから浮いてしまうのではないか。
 そこまで考えると、《教師によって態度が変わる》という「隠れたカリキュラム」は、子どもたち一人一人がそれぞれに対応しているというより、《自分もそのように対応するけれど、同時にそれがクラス集団の中では通用する(容認される)と見越して行動している》という二重構造を持っているのではないでしょうか。

 さてそういうことで教師から見て望ましくない行動を子どもがとっているときに教師はどうすべきかについての、現役教師ではなく教師を目指すものを含んだ学生グループの議論はどうなったか。
 京女大G03グループの「先生によって寝てもいい授業がある」についての議論では、それは授業中にしてはいけないことだということを注意して是正させるという《正論》だけだったようです。
 新潟大R02グループの「寝ている友だちを起こしあう。」というのは、子どもたち同士の相互扶助?のルールですね。これについては、「起こしあい」は正しい授業参加に向けての子どもたちの相互規制だから、教師から見ても望ましいことだ、それを生徒ができるなら教師が敢えて直接起こす必要はない、というような、授業運営ルールにおける生徒の自助努力に期待して教師自身は手を下さないということです。友だちが寝ていてもほっとく、というのが子どもたちの対応であるならば、教師の出方もまた変わってくるでしょうね。
 新潟大R01グループの「先生によって生徒の態度や授業での集中度合いが違うことについて」の討論ですが、この「隠れたカリキュラム」についての教師の対応を議論してもらうためにはもう少し事前の問題整理が必要だったなと討論記録を見て思いました。つまり、あるクラスの子どもたちが授業科目が替わって担当教師が替わるたびに異なる学習態度で授業に臨んでいるという事実があるとして、教科担任制の学校では個々の教科担当の教師はすぐにはその事実を知り得ないわけです。授業崩壊、学級崩壊のような深刻な事態が生じていて担当教師集団が緊密に情報交換を行なって対策を検討しているような場合は別として、例えば厳しい授業規律への服従を生徒に要求しているある教師が、次の時間の授業を担当する若くて気の弱い教師の授業が私語や内職だらけになっているというような事態を知るためには、各教師間で授業の状況についての緊密で率直な情報交換が行なえる関係が成立している必要があります。そして、自分自身は厳格な授業規律を維持している教師が自分の授業のようには進行せず担当教師が困難を抱えている授業があると知ったとして、他の教師の授業運営にどう関わるのか? 自分の授業で生徒にお説教をするのか? 事態が改善しなかったら授業担当時間を調整して困っている教師の授業に乗り込んでいくのか? それとも関係する全教師集団が強力な意思統一をして、どの授業も同じルールで運営するという大改革を行なうのか? いずれにしても、簡単なことではありません。
 《俺の授業では俺のルールに従え!》と命ずるA教師には多くの生徒は従うだろうし、A教師が《次の時間のB先生の授業でも俺の授業と同じく正しく振る舞え!》と命じたら、その場では生徒たちはその日常的に対して《恭順》の姿勢を示すでしょう。しかし実際の次の時間はどうなるか? A教師が《ちゃんとやってるかどうか見に来るからな!》と威嚇しておけば、生徒たちはA教師からの叱責を避けるために取り敢えずおとなしく授業を受けるかもしれません。しかし生徒は一方で、《B先生はA先生の力を借りないと授業をコントロールできない頼りない教師》という値踏みをして、仮にA教師による監視・支援などがなければますます授業が荒れるかもしれません。
 「隠れたカリキュラム」の事例については、過去の三重大での授業では受講生から提出された文言を私がもっと趣旨の明確な文章に書き直して再提示したこともあるのですが、最近の授業では受講生グループから提出された文章をそのまま掲載しています。また、提出された「隠れたカリキュラム」事例の中でどれを選んで教師の関わりを検討するかについては各グループに任せています。毎年のように出てくる《教師によって授業参加態度を変える》という「隠れたカリキュラム」は、「隠れたカリキュラム」の典型のように思えておもしろい検討材料だと思うのですが、上記の考察からわかるように《教師の関与の仕方》という視点から議論することは簡単ではないかもしれません。両大学ともこのことに関連する「隠れたカリキュラム」が少しずつニュアンスを変えつつ多数挙げられているのに、《教師の関与》を検討する材料として選んだグループが両大学ともわずかしかないのも、検討しにくさが理由だったのかもしれません。
 記録の文章量が最も多い新潟大R01グループ「先生によって生徒の態度や授業での集中度合いが違うことについて」の討論記録を見ると、《教師の関与》ということについて、教師から見て自分の授業への子どもたちの参加態度が好ましくない場合にそれにどう対応するかという問題と、他の教師の授業についてそうした問題があるとわかったときにどう関わるかという問題が、入り交じって議論されているようです。

 いずれにせよ、「隠れたカリキュラム」問題についてこれまで、事例収集1回、教師の関与についての討論1回、合計2回で扱ってきましたが、もう一段議論を深めること、《子どもの立場》と《教師の立場》の往復、切り換えを明確に意識しながら議論を深めることが必要だと思えてきました。
 「隠れたカリキュラム」がどういう経過で、誰を発信源として成立し、どのように維持されるのか、あるいは変更されたり消滅したりするのか? それは事例によって様々だと思います。多くの事例の分析に立ってこういう結論を出したというわけではないのですが、自らの授業実践の経験を通じて、私にはどうも「隠れたカリキュラム」として教室空間・学校空間に生きているルールは、《新自由主義的競争的価値観が秘かに個人の意識にまで内面化したもの》として説明できるものだけではないように思えるのです。そしてまた、《人間としての健全な成長発達を妨げる、悪》のみであるとも言えないような気がします。
 例えば先にあげた《教師によって授業態度を変える》というルールですが、《正しい態度で全ての授業に臨むべし》という「顕在的カリキュラム」世界のルールから見ればけしからん!ということになるでしょう。しかし、厳しい教師(授業規律の厳守を強く要求し、違反に対しては怒声等も含めて威圧的に取り締まる)の授業で叱られないようにピリピリしながら受講している子どもが、いちいちうるさいことを言わない別の教師の授業でほっとして、羽を伸ばそうとする。これは子どもの気持ちとしては理解できることじゃないでしょうか。「顕在的カリキュラム」の世界において、授業の規律についてはなぜそれが必要かの説明と納得など、一つ一つ子どもたちの納得を得ながら形成していき、またそれを維持することも子どもの自治の力を高めることを基本にする、そして教師集団の側でもそうした形での授業規律形成を全校的な合意にする、というような授業規律確立ストラテジーがあるのであれば、子どもの側の「人を見て対応を変える」というような行動ルールは発生しないのかもしれませんが、教科担任制の中学校高等学校でそのような授業規律確立ストラテジーが実働するというのは、現実にはほとんど期待できないことだろうと思います。
 子どもたちが強い教師に従い(従ったふりをし)、そのことによるストレスを弱い/優しい教師の授業をはけ口として発散するというのは、確かに《良いこと》ではありません。しかし、そういう身の処し方でもしないと息苦しい学校生活を耐えていけないというのが子どもたちの気分であるとしたら、それを《悪い》と決めつける者が子どもたちの共感を得るのは難しいんじゃないでしょうか。 


 この項の最後に、佐貫氏が著書『学校と人間形成 学力・カリキュラム・市民形成』の中で紹介している学生の「私の出会ったヒドゥン・カリキュラム」レポートを紹介します。3例挙げられていますが、いずれも長文なので、1例だけを取り上げます。途中に出てくる「注」は佐貫氏のコメントです。

私の出会ったヒドゥン・カリキュラム➀ N.S.
 小学校では、授業中に何か分からないことがでてきたら、手を挙げて「分かりません」とはっきり言えた。また、間違った答えを言ったとしても、恥ずかしいとは思わなかった。教師も、間違った答えを言った生徒に対し、怒ったり困った顔をしたりはほとんどなかった。……しかし、中学校に入学すると、分からないことを積極的に聞くことや、間違った答えを言うことが次第に恥ずかしくなり、授業も消極的に受けるといった形になっていった。それはやはり、簡単なことかもしれないのに質問したり、間違った答えを言ったりしたらみんなから馬鹿にされるのではないか、という不安があったからだと思う。またこの頃から、自分の成績が気になりはじめ、私は友達と表面上では競争しなかったが、心の中ではいつも友達の成績を意識し、自分が友達よりすこしでも成績が劣ると、自分自身が嫌になったり落ちこんだりしたことがある。なぜここまで成績が気になるようになったのかを考えてみると、やはり成績の良い生徒が先生に気に入られるという事実が存在したからだと思われる。
 高校に入っても、……とてもひどく、発言の自由などはまったくなかったと言える。たとえば、教師にあてられ、答えられなかったり間違った答えを言ったりするとこたえられるまで座ることができず、なかには立ったまま20分くらい授業を受けていた生徒もいた。なかには、「どうしてこんな問題が解けないのか」と激怒する教師もいて、ただひたすら大学に合格することだけを目標とした競争社会であった。ここでも、授業中に手を挙げて質問することは恥ずかしくてできず、授業が終わって職員室に聞きにいくという人が少なくなかった。そして中学校よりもさらに、成績によって生徒の値打ちが評価されていたように思われる。
  注:教師は、生徒に対して発言してほしいと生徒に伝えているのかもしれない。しかし生徒は、そのメッセージを「正解のわかる人は答えなさい」というメッセージとして受け取っている。勇気を出して発言したいと思っても、<もし間違いだったらみんなに馬鹿にされないだろうか、教師にもわざわざ私は間違っていましたということを印象づけるようなマイナスのイメージを持たれるのではないか>と不安になってだんだん消極的になる。教室空間には、間違ったことを言ってはならない、間違ったことを言うやつは馬鹿を見る、わざわざ手を挙げてこの危険な賭けに出る愚かな行為をするな、というメッセージが満ち満ちている。日本の教室は、子どもに発言を励ますのではなく、発言をシュリンクさせるヒドゥン・カリキュラムに制圧されている。そして多くの場合、教師も、間違うやつは馬鹿だというメッセージをばらまいていることも多い。間違うことなくして考えることはできないのであり、間違わないのは考えないことを意味している。だから間違わなければ正解も発見できない。間違いがいっぱい出る教室空間を作ろうというメッセージを子どもに伝えることが必要ではないか。
 この学習面においてのヒドゥン・カリキュラムは、生活面やその他の面にも影響されると私は考える。その理由は、先にも述べたように、成績の良い生徒は生活面においても真面目で良い生徒と見られる傾向があるからだ。実際に、私の高校では、成績でクラスが分けられ、特進クラスの生徒は、すこし校則違反をしていても見逃されたり、注意されるとしても厳しくは言われなかった。しかし普通のクラスの生徒の場合は、スカートの丈がすこし短いだけで怒鳴られ、同時に髪の毛の色や眉毛をいじってないかをチェックされ、厳しく指導されていら。これは、本当におかしな話である。学校では、宗教や社会科の授業で「人間はみな平等である」と教えてきているのに、実生活ではまったく平等ではない。だが、私たち生徒は、それを指摘することなく、良い生徒でいたいから勉強をひたすらがんばってきた。それが学校生活で当たり前とされてきた。また、ボランティア活動をするに至っても、自分の内申点を上げるために、推薦で学校に行けるようにするためにしようと考えていて、今思うととても恥ずかしい。……
 
注:この種のヒドゥン・カリキュラムを、生徒は敏感にかぎつける。そして教師が人間を差別しえこひいきしていることを知ってしまう。そしてそういう教師が人間は平等だ、人を差別してはいけないなどどお説教をたれても、白々しい限りとなる。あの教師は言うこととすることが違うと見抜かれてしまう。そしてそういう教師が、授業や生活指導(すなわち明示的なカリキュラムを伝える行為)で人間の尊厳や人権の尊重、人格の平等というようなテーマの指導をすることができなくなってしまう。明示的なカリキュラムをその教師みずからの言動が作り出すヒドゥン・カリキュラムによって否定しているからである。】(P.111-112)

 上記のレポートの前半の高校当時の状況ですが、「顕在的カリキュラム」として《生徒は授業において発言しなければならない》とルールはあるとして、さらにここに登場する教師は《生徒は正解を解答することが当然である》《正解できなければ長時間起立したままでいるという懲罰を受けることになる》というルールを(言葉でそう明示はしなくても)設定していたことになります。学校全体としてはまさか《教師は正解できない生徒に体罰を与えてよい》という「顕在的カリキュラム」は(それは学校教育法違反になりますから)設定できないはずですが、生徒が《あの先生の授業ではそうなる》と受けとめていたとしたら、それはその教師の授業では実質的に「顕在的カリキュラム」であったということもできます。
 またレポート後半の成績の良い生徒とそうでない生徒への生徒指導上の対応、校則違反への対応の格差についても、たしかに学校の校則や学校教育方針等に《生徒の成績によって校則適応の対応を変更する》とまさか書くわけにはいかないので、そうした差別・ひいきは学校全体としては「顕在的カリキュラム」ではなかったとしても、生徒にとってそういう差別的待遇を日常的に嫌と言うほど経験しているとしたら、学校側として《明示》はしていなくても、生徒たちにとっては現実的に「顕在的カリキュラム」に近いとも言えます。
 このように考えてくると、私が授業における学習資料として受講生に提示した「隠れた(潜在的)カリキュラム」の定義=「生徒が学校生活にうまく適応していくために学びとっていく黙示的な規範・価値・態度など実際行動面での知識内容
(田中統治 1984)を再検討してみる必要があるかもしれません。
 まずは、「黙示的な」について、つまり《明示的でない》ということなのですが、上記の例のようにある教師が生徒が正解を答えられないからと20分も起立したままにさせる体罰的行為も、学校としての正規の教育方針や校則に記載されていなかったら《黙示的》なのか。生徒がその教師の指導の特徴を熟知していて、何とかあてられることを避けようとか、あるいはその教師の授業だけはきちんと予習して正解を答えられるようにしようとか、なんだかんだ対応する、その対応は「隠れたカリキュラム」と言えるとも思いますが、教師側の対応は《学校側のタテマエの教育方針とは合致しない歪んだ「顕在的カリキュラム」》であるとも言えます。その授業の中では教師にとっても生徒にとっても明々白々なルールです(もっとも、その日の教師の気分によって《懲罰》が発動されたりされなかったりするという、《生徒にとっての偶然性》は存在するかもしれませんが)。
 それから「隠れたカリキュラム」は生徒が「うまく適応していく」ためのものと言っていいのか?という問題があります。教師の懲罰を恐れて戦々恐々とする生徒たちは、その日の授業で教師に叱責されなかったとすると授業が終わって確かにホッとするかもしれません。だけどそれは生徒側から見て《うまく適応した》と形容できる心境なのでしょうか?
 結局は教師と子ども、子ども相互がどのような人間関係にある学校生活なのかによって、「隠れた」の子どもにとっての意味合いも変わってくると思います。





Ⅲ.佐藤学氏による「ヒドゥン・カリキュラム」の概念整理

 長くなりましたが、最後に佐藤学『教育方法学』(岩波書店 1996)の「Ⅶ カリキュラム研究の課題 4 ヒドゥン・カリキュラム」の全文を紹介して、その説明を学ぶことでもう一度自分の頭を整理したいと思います。

学校の潜在的機能
 学校教育は、意図的・明示的に組織されたカリキュラムを通して達成されているだけではない。無意識のうちに人間形成の暗黙の機能をはたしている。1970年代以降、この「ヒドゥン・カリキュラム(=潜在的カリキュラム)」に関する問題が、多くのカリキュラム研究者の関心を呼んできた。「顕在的カリキュラム」が、「目標」「構造」「基礎」「建設」「構成」など、行動科学とシステム工学を基礎とする技術学と建築学のメタファで語られてきたのに対して、「ヒドゥン・カリキュラム」を主題化する人々は「政治的社会化」「イデオロギー」「権力関係」「儀礼」「疎外」など、政治学、社会学、現象学、文化人類学、エスノメソドロジーなどの言語でカリキュラムを検討し、学校の潜在的機能を可視化して批判的に検討する視点を提示してきた。
 「ヒドゥン・カリキュラム」に関する概念を最初に提示したのは、シカゴ大学の教育学者であるフィリップ・ジャクソンであった。ジャクソンは、教室の集約的な参与観察を基礎として『教室の生活』(1968年)を著し、学校の日常生活における体験の潜在的な教育機能を解釈的アプローチによって構造的に描出することに成功している。ジャクソンが教室の日常生活の潜在的機能を主題化するにあたって、檻という人為的な装置の中の類人猿の行動を研究する文化人類学者との討議が契機となったことは興味深い。教室という人為的で閉鎖的な装置の中で何が学ばれているのかという問いが、教室とそこでの経験に対する新しい見方を準備したのである。
 ジャクソンは、子どもは小学校の6年間だけで毎週教会で50年間も礼拝するのと同じ時間を教室で費やしている点に注目するとともに、教室は教会と同様、他の日常生活では経験しえない特異な機能を備えた場所であると言う。教室という場所は、物理的環境においても、社会的関係においても、日々の活動においても、毎日がほとんど同じ事柄のくり返しとして体験される永続性を特徴としている。閉じ込められ同じことがくり返される点において、教室は、刑務所や精神病院と類似した機能を示している。そして、教会、刑務所、精神病院になぞらえられる教室の経験の特徴を、ジャクソンは「群れ」「賞賛」「権力」という3つのキーワードを設定して読み解いている。その概要を略述しておこう。
 たえず「群れ」として存在して、限られた資源と一方向的時間の中で学習を遂行しなければならない教室において、教師は、秩序を統制する交通巡査や審判や物資供給の軍曹やタイム・キーパーの役割をはたし、生徒の方は、発言を求めて挙手する場合も、教師の援助を求める場合も、飲み水を呑む場合も、鉛筆削りを利用する場合も、たえず「列をつくって順番を待つ」ことを強いられることとなる。こうして、教室は、忍耐強く待つことを学び、自分の行動を遅らせることを学び、自分の欲求をあきらめることを学び、たとえ妨害が加わろうと自分の興味が移ろうと、課された仕事に専念して従事することを学ぶ場所である。
 教室はたえず「賞賛」という評価がともなう場所でもある。教師が評価するだけでなく、生徒同士も互いの行動や態度を評価し合っているし、生徒一人ひとりは自分自身で自分の評価も行っている。評価の対象としては、学習の達成、制度への適応とパーソナリティの3つの要素があり、学習の評価は一部にすぎない。子どもは綴りを間違えても教師に叱られることはないが、はしゃぎすぎたり指示に従わないと厳しく叱られることとなる。一般に教師たちは肯定的な評価を多くする傾向があるが、生徒は、別の方略で教師や仲間の評価に対処している。否定的評価を隠そうとしたり、教師の評価に反発して仲間からの逆の評価を渇望したり、評価をごまかし無視する方略をとったり、傷つくことを恐れて、どんな評価に対してもクールに振る舞う姿勢を身につけたりしている。このように、生徒は、教室における評価を通して、涙と消耗から自分自身を守る心理的な緩衝法を学んでいるのである。
 そして、教室は大人の「権力」が作動している場所である。親の権力が「~してはいけません」という禁止する権力であるのに対して、教師の権力は「~しなさい」という命令する権力である。教室で生徒は、自分自身の欲求よりも教師の欲求に対する奉仕に力を注ぐことを学ぶのである。教師は、生徒にとって仕事を権力的に統制する最初のボス(上司)である。しかも、生徒は労働者以上に権力的に統制されている。労働者は、ボスの命令に逆らって会社を辞めることができるが、生徒は学校を辞めることはできない。教師の権力は、どんな進歩的な教室においても不可避である。小学校の新入生でも、教師の不在には代わりの教師が必要なのに生徒の不在には何も必要でないことを熟知している。教室は、権力への適応と対処の方略を学ぶ場所なのである。
 この「群れ」「賞賛」「権力」への適応と対処によって生徒が教室で体験している学びを、ジャクソンは「ヒドゥン・カリキュラム」と名づけている。「ヒドゥン・カリキュラム」を通して、生徒は、わからない問題にも正解で答える「テスト・ワイズ」な生徒、学校生活の苦しみを回避して過ごす「スクール・ワイズ」な生徒、教師の権力をかわして生きる「ティーチャー・ワイズ」な生徒に育っていくのである。(Jackson, 1968)。
政治的・イデオロギー的社会化
 ジャクソンの「ヒドゥン・カリキュラム」の提起について、次の3点を確認しておこう。その第一は、「ヒドゥン・カリキュラム」の機能が「Company(企業社会)」への適応過程として提起されたように、ジャクソンは、教室を「company(企業社会の雛型)」として描出しており、「ヒドゥン・カリキュラム」の機能を企業社会の労働者への社会化として認識していた。
 第二は、「ヒドゥン・カリキュラム」に対して、ジャクソンが、その機能を除去すべきとか克服すべきという主張を掲げているわけではないことである。ジャクソンは、むしろ、どんな革新的な教室においても「ヒドゥン・カリキュラム」が潜在的に機能している事実に気づくことの重要性を強調している。実践的な問題の直接的な解決よりもむしろ、教室の日常生活の自明性を解剖し隠れた機能に対する意識の覚醒をはかることによって、何かの始まりが準備されることを期待しているのである。
 第三は、ジャクソンが、「ヒドゥン・カリキュラム」と「公的(official)なカリキュラム」とは「相互に関係し合うもの」と認識していたことである。その後、この概念は、多くの人々によって学校教育の深層で自律的に作動する政治的社会化の機能として認識されてきたが、ジャクソンにおいては「顕在的(公的)カリキュラム」と「ヒドゥン・カリキュラム」とは相互媒介的な概念として提起されていた。
 『教室の生活』において、わずか一か所で控え目に記述された「ヒドゥン・カリキュラム」という言葉は、以後、カリキュラム研究の中心的な概念の一つとして普及し、学校教育の潜在的な政治的イデオロギー的社会化の機能に対する関係を呼び起こすものとなった。それと同時に、この概念それ自体も多義的に用いられるようになっている。「顕在的カリキュラム」が意図的・計画的なカリキュラムであるのに対して、「ヒドゥン・カリキュラム」を無意図的な機能として認識する立場(Dreeben, 1976)や、「ヒドゥン・カリキュラム」を「深層」として認識する見解を批判して、教室の知識と行動を官僚的・経営的に抑圧して構成される支配的イデオロギーの所産として認識する立場(McLaren, 1989)など、今日では、この概念は、学校教育の過程で不可視に機能している政治的イデオロギー的社会化のすべてを示す用語として使用されている。
】(P.121-125 下線は佐藤)

 佐藤学氏の解説により、「ヒドゥン・カリキュラム」概念の産みの親と言えるジャクソンの主張の概要を知ることができました。研究者である私は、原著Life in Classrooms (1968)に遡ってその主張を確認すべきですが、ジャクソンから始めて佐藤学氏の解説の末尾にあるように「ヒドゥン・カリキュラム」がその後多数の研究者によって受けつがれ多様に展開しているという研究状況の全容を自力でトレースすることはとても私にはできません。佐藤学氏の解説に示唆を受けて考察することしかできません。
 佐藤学氏によれば、発案者のジャクソンは、学校の教室を「company(企業社会の雛型)」と捉えて推し、「ヒドゥン・カリキュラム」を「企業社会の労働者への社会化」のアナロジーとして捉えていたようです。その意味では、時代背景は違いますが、「ヒドゥン・カリキュラム」を「学校・教室の空間の新自由主義的性格―競争と自己責任規範―による形成作用」(佐貫2023 P.136)と捉える佐貫氏と状況把握にある一定の共通基盤がありそうです。
 しかし、佐藤学氏によれば、ジャクソンは「ヒドゥン・カリキュラム」の機能を「除去すべきとか克服すべきという主張を掲げているわけではない」ということです。なぜそうであったのかは佐藤学氏の解説からは必ずしも明らかでないのですが、例えば本稿Ⅱの冒頭で私の授業での受講生の学習資料として使わせていただいた田中統治「第五章 カリキュラムの社会学的研究」(安彦忠彦編『カリキュラム研究入門』勁草書房 1985)では、ジャクソンについて「学級の中で生起する日常的事象を『ありのままの姿で』丹念に観察し、解釈を加えるという微視的社会学の方法」(P.140)で研究を進めたと紹介されています。教育社会学について素人である私が、上記田中論文の文中では使われていない言葉で解釈するのはいささか冒険なのですが、上記で「ありのままの姿」での観察・解釈と書かれているのは、教室での子どもたちの姿を《価値中立的》に把握する、ということかなと思いました。だからジャクソンは「ヒドゥン・カリキュラム」を変更とか改革すべきであるという提案を意図的に回避しているのかな、と。
 一方佐貫氏は、「このような強力なヒドゥン・カリキュラムが存在する故に、そのカリキュラムに対抗し、それを組み替える意識的実践なしには、子ども世界、教室空間に、人間が大人へと成長していく学びの場に、民主主義的な『方法としての政治』は立ち上がらないのである。」(佐貫2023 P.208)として「ヒドゥン・カリキュラム」への「対抗」「組み替え」を主張しています。またⅡの末尾で紹介した佐貫氏が指導した学生の「ヒドゥン・カリキュラム」レポートへの佐貫氏のコメントの中で、「だから間違わなければ正解も発見できない。間違いがいっぱい出る教室空間を作ろうというメッセージを子どもに伝えることが必要ではないか。」(佐貫2005 P.111)と述べているように、教師がイニシアチブを取って子どもたちとともに「ヒドゥン・カリキュラム」を打破し、教室空間のルールやモラルを作り変える必要性を説いています。

 私としては、教師が人間的な理性や感性に依拠して子どもたちに学校空間・日常世界をつくりかえようと提起することや子どもたちのそうした試みを支援することは賛成なのですが、一方で途中にも書いたように、子どもたちが学校空間に《適応》してそこでうまく過ごすために従っているルールというのは全て《悪》であり、《打破》すべきものなのか、というところに引っかかるわけです。

 例えば、でも考察したことですが(重複をご了承下さい)、教科担任制の中学校や高等学校で《授業担当教師によって、静かにおとなしく聴いたり、居眠りや内職をするなど、授業態度を変える》という「ヒドゥン・カリキュラム」。《どの教科のどの教師の授業でもまじめに学習すべし》というのが「顕在的カリキュラム」なんでしょうが、例えば以上に厳しい、こわいA教師の授業では、おそらくほとんどの生徒が静かに授業を聴く(あるいはそのふりをする)でしょう。叱られたり学習態度で成績を下げられたりするリスクは、どの生徒も避けたいでしょう。そういうふるまいは、A教師の授業をすごす上では必要でしょうが、緊張し、終わったらどっと疲れることでしょう。そして次の時間、一方で若い、やさしいor頼りないと生徒からみえるようなB教師の授業になると、生徒ももちろん《どの教科のどの教師の授業でもまじめに学習すべし》という「顕在的カリキュラム」は知っているわけですが、B教師には(私語や内職や居眠りや…要するに授業からの離脱を)強く叱責されたりしない(だろう)と値踏みしていると、《やってしまう》生徒も出てくるでしょう。もちろんクラスにはB教師の授業もまじめに受講しようとする生徒もいるでしょうが、叱られないと予想できる場合はさぼってしまう、《教師の出方》によって《自分の出方》を決める生徒もいると思います。
 学校の指導の一般的理念としては、前述のように《どの教科のどの教師の授業でもまじめに学習すべし》というルール/モラルなのでしょうが、一方で生徒の学習態度を厳しく監視して逸脱は強く叱責する教師がおり、他方でそうでなく大目に見たり、注意したくてもできなかったり、放置したりしてしまう教師がいたりすると、生徒たちのある部分は《A教師の授業ルールに全ての授業で従う必要はない》と判断するでしょう。学校全体の教師集団として、管理的でない楽しい授業づくりとか、生徒の学習態度改善のための全校的指導とか、そういった研修や指導の課題が設定されて大いに議論され、それにもとづく授業改善の雰囲気が生徒側にも伝わってくるようであれば、《怖い先生の居ぬ間に優しい先生の授業でわるさをする》みたいな行動パターンも次第に変わっていくかもしれません。しかしそれは現実的に難しいですね。生徒も各授業担当の各教師を《一国一城の主》みたいにとらえているんじゃないでしょうか。だから、ある教師が授業で厳格に適用するルールを他の教師の授業では守らなくてもやっていける、となるわけです。
 タテマエ的に善悪を判定しがちな学校教育の世界では、こうした生徒の《したたかな世渡り》的な行動は、《悪》ですよね。まじめに授業を受けるのが《善》です。しかし、学校(教師)の厳しい、融通の利かない、生徒から見て納得いかないルール適用に対して、《抜け穴》(例えばB教師の授業では私語、内職、居眠りしても怒られない)を見つけて息抜きしたり、ひとときの緊張逃れをするような子どもたちの行動について、全面的に《悪》だと断罪することは、正直私にはできません。
 粗っぽくいえば、子どもの行動(もちろん意識も)を大人が《望ましい》と思う枠に完全に押し込めることなんて絶対できない、ということ。大人が《善》とするルールに従うふりをしながら陰でさぼったりすり抜けたりしている子どもの行動を、《それも善だ》と考えてしまっていいかどうかは迷いがあるのですが、それもまた子どもの姿だし、敢えて言えば(子どもの行動の全部でなくても一部であっても)《子どもの健全な姿》とも言えるのではないか、と思うのです。
 そうした日常の子どもの意識や行動に、確かに佐貫氏が言われるように新自由主義的な価値観が深く浸透してきていることは間違いないと思います。だけど一方で昔ながらの子どもらしい、子どもっぽい姿が全く消失してしまったわけではないと思います。先にあげたような《授業によって態度を変える》みたいな行動様式が「健全なのか?」と言われると判断に困るのですが、でも、押し込まれて型に嵌められつつあっても、そこから身を躱すしたたかさみたいなものは、今の子どもたちにもまだあるのではないかと思うのです。私がそう思いたい、という願望なのかもしれません。でもそう思わないと《子どもをつかむこと》《子どもと関わること》なんてできなくなってしまうんじゃないでしょうか。
 教師は、新自由主義の地獄に囚われてしまった子どもたちを救出する戦士、ではないと思うのです。不自由な世の中にお互い生きながら、それでもその状況を時にはジョークにして笑い飛ばしたりしながら、《大変やけど、まあぼちぼちがんばろや》みたいなノリで大人同士も関わりたいと思うし、大人(教師・親)と子どものかかわりにも、そういうノリの部分もあっていいと思います。救世の戦士としての大人を歓迎する子どももいるかもしれませんが、引いてしまう子どもだっているんじゃないでしょうか。子ども世界の「隠れたカリキュラム」には、そういう学校生活を泳いでいく子どもなりのノリみたいなものも含まれているのではないかと思います。学校で子どもたちと直に対面している教師にとっては、そういう子どものノリを一旦は認める、みたいなスタンスは、「顕在的カリキュラム」との兼ね合いでそう簡単ではないでしょう。だけど、養護教員とか校務員さんとかの学校で働くスタッフとか、あるいは親とか、あるいは地域で子どもと出会う大人の人たちとかが、子どもたちに対して常に説教くさく接するのではなくて、子どもたちのそういうノリを一旦は受けとめてあげるということも必要なんじゃないかと思います。

コメント

  1. 上記の拙稿について、佐貫浩先生から2023.9.24付で丁寧なコメントをご送付いただきました。佐貫先生のお許しを得て、以下に転載させていただきます。佐貫先生まことにありがとうございました。いただいたコメントを私がどう受けとめるかにつきましては、上記拙稿の続編として後日投稿致します。

    ==============================
    佐藤年明先生へ

     佐藤先生、ヒドゥン・カリキュラムについて、詳細で、かつ先生の教育実践を踏まえた問題提起と批判をいただきありがとうございます。いくつかの点について、私の考えを述べさせていただきます。

    (1)宮原誠一は、教育とは社会や制度の人間形成作用に対して、教育とはそこに働きかけて、その発達を意図的に方向付けていく働きかけであるという趣旨を述べています。(宮原誠一教育論集第1巻論文「教育の本質」)
    ◆「形成が自然生長的な過程であるのにたいして、教育は目的意識的な過程であろう。人間が人間の形成のために目的的に努力するということが、教育の本質である。」(14頁)
    ◆「ある立場からみて、人間形成の望ましい要因を - それが環境の力であれ、素質の力であれ、望ましい要因を選択し、助長しようとする。同様に、望ましくない要因を排除し、抑止しようとする。人間の形成にたいするこの積極的な決定と行動、これが教育の教育たるゆえんにほかならない。」(16頁)
    ◆「人間の形成にかんして選択を行う社会的行為が教育というものなのであって、選択がおこなわれていないのならば、その行為は他のなのかであっても教育ではない。」(16頁)
    ◆「教育は形成の過程を統制しようとするいとなみにすぎないのだ。形成の過程と並行的に教育の過程が進行するのではなく、教育とは形成の過程と取り組む努力にすぎないのだ。」(22頁)

     ここにあるように形成に含まれている人間形成作用は意図的な教育の作用ではないという意味で、ヒドゥンカリキュラムの形を取ると私は考えています。そしてその形成に働きかける作用はそのヒドゥンカリキュラムに対して、意図的なカリキュラムを対置して、形成作用に働きかけるものという意味で、明示的なカリキュラムとヒドゥンカリキュラムのダイナミズムを考えようとしています。

    (2)したがって、佐藤さんが佐藤学氏の理論をあげておられることとはおそらく異なった方法意識で、私は議論を組み立てています。
     その際、学校制度は、そのシステムにおいて、形成作用を持ちます。学校の進学選別制度、評価システム、学級編成方法、等々。さらには授業のスタイル等。ここはいわば子どもに対しては、形成作用を及ぼす面と、逆に意図的な教育作用として計画されている面とが「混合」状態にあると思います。いかし制度が当たり前になっていくとき、教師の意識からはその教育として働きかけるという意識が欠落し、忘れられて、無意識となり、それはいわば教師も意識しない制度的形成作用として、子どもに働き続け、強力な規範を子どもに植え付ける働きかけとして機能することになると思います。授業形態にしても、教師が意識的に選んだのではなく、今のシステムに合わせるためにそうなってしまっているいわば無意識化された形での選択になっている面が強くあると思います。それはヒドゥンカリキュラムとなって形成として働いている状態といって良い状態だと思います。そしてそういう今日の学校が制度として、生活様式として持つ形成作用が、実は否定的な人間形成作用を及ぼしているという点の多いことに特に注目したいというのが私の中心的な意図となります。

    (3)したがって、教育実践の視点からこのヒドゥンカリキュラムをどう扱うかが私の中心的な関心であり、またいわば教育実践の方法となります。宮原の言うように、「ある立場からみて、人間形成の望ましい要因を - それが環境の力であれ、素質の力であれ、望ましい要因を選択し、助長しようとする。同様に、望ましくない要因を排除し、抑止しようとする。人間の形成にたいするこの積極的な決定と行動、これが教育の教育たるゆえんにほかならない。」という視点と方法を意識化すると言うことです。

    (4)もちろん、すべての形成作用が、このような変革の対象になるわけではありません。意識的な教育実践の意図・目的から見て批判の対象になる「形成作用」を否定的なヒドゥンカリキュラムとして意識化し対象化し、それをヒドゥンカリキュラムが働いている形成作用の場に対抗的に組み込み、形成作用を転換するという深さにおいて、対抗的なヒドゥンカリキュラムを働かせるようにするというのが私の考える方法です。そのとき、単に対抗的な知識を教えるということではダメで、形成として働く諸関係そのものを組み変える深さにおいて、対抗的なカリキュラムを働かせると言うことが不可欠になります。ですので、単に明示的なカリキュラムを対抗的に教えるということでは不十分だと考えています。その趣旨を明確にするために、対抗的ヒドゥンカリキュラムを授業実践として組み込むという言い方をしています。

    (5)新自由主義に対抗するためには、学校に深く組み込まれた競争や自己責任、学力が人間の価値を表す、政治などは価値がない、等々のメッセージ(ヒドゥンカリキュラム)を、どう組み替えるかが非常に重要になっています。それらは意図的な、すなわちアパレルなカリキュラムではないかとも言えると思いますが、多くの教師にとってはその形成作用は意識されていないと思います。だから私はそこにヒドゥンカリキュラムが潜んでいるのだとあえて強調する必要があるように思います。そしてそれに対抗するメッセージを教師が自己の実践にどれほど意識的に組み込めるかが、まさに教育実践の質を決定する重さを持って問われているのだと考えています。


     とりあえず私のコメントを送らせていただきます。先生の問いへのちゃんとした応答になっているかどうかわかりませんが、とりあえずお送りさせていただきます。ご批判下さい。
    ==============================

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    1. 上記の佐貫浩先生のコメントの(5)の中に誤記がありましたので、訂正します。
       (誤)アパレルなカリキュラム
       (正)アパレントなカリキュラム

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