32 【アーカイブ 11】教育学文献学習ノート(19)佐貫浩『学力・人格と教育実践 変革的な主体性をはぐくむ』(大月書店 2019.7.12刊行)

(2023.8.25記)
 今年度前期授業が終わって採点期間に入る頃に、出版予告を見て予約注文していた佐貫浩『危機の時代に立ち向かう「共同」の教育 「表現」と「方法としての政治」で生きる場を切り拓く』(旬報社)を入手しました。時節柄(^^;)すぐ読み始めるわけにいかず今に到っているのですが、採点トンネルからやっと脱出しましたので、9月下旬の後期授業開始までにぜひ読み始めたいと考えています。
 佐貫浩先生は私より8歳年上で、私が学部3年生の夏に教育科学研究会に入会して以来ずっと、その存在を意識してきました。1980年代後半頃に私が教科研社会認識と教育部会とともに藤岡信勝氏のお誘いで授業づくり部会にも関わり始めた頃の、たしか高野山の全国大会で佐貫氏にお会いしたときに、もう内容は全く覚えていないのですが、佐貫氏からお叱りを受けた記憶があります。それ以降しばらくは私の方からは少し距離を置いていたかもしれませんが、それでも佐貫氏が時々に発表される著作の魅力、分析の鋭さに傾倒して、いくつも読ませていただき、学ばせていただきました。
 今年中の遅くない時期に佐貫氏の最新著を読了した上、「教育学文献学習ノート」に書かせていただきたいと思っています。それに先立って、2021年8月にこのブログを開設する以前にfacebookで発表していた佐貫氏の2つの著作についての学習ノートをアーカイブとして再録させていただきます。


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(2021.5.7-18通読 2021.5.19-24ノ-ト作成)

 私は佐貫浩氏の著作を4冊所蔵していますが、本書は唯一著者ご本人からご恵贈いただいたものです。私は2019年1月に初めての単著である『「生きる力」論批判』(三重大学出版会)を公刊し、その年の夏に佐貫氏に拙著をお届けしたところ、佐貫氏から折り返し、礼状とともに本書が送られてきました。大変興味深いテーマで、今となってはもっと早く読み始めるべきだったと悔やんでいますが、その後2年近くも書架に収めたままになっていました。今回読みはじめたきっかけは、京都教科研第321回例会(2021.5.15)で『教育』No.901/904掲載の特集「教科研の教育学入門Ⅰ/Ⅱ」を取り上げることになったことです。同特集では以下の3論文がそれぞれ上・下に分割して掲載されていました。

 田中孝彦「子ども理解入門」
   (上) 子どもは、生活を綴りながら、「自己」を形づくる
   (下) 「子ども理解」を深めようとする教師たちの模索とともに
 佐貫 浩「教育における民主主義の探究」
   (上) 個を切り拓く方法として民主主義をとらえる
   (下) 新自由主義の支配を打ち破る教育の役割
 佐藤広美「災禍に向きあう教育--私の教育学入門」

 私はたまたま、「教育学文献学習ノート」の(3)で佐藤広美『災禍に向きあう教育  悲しみのなかで人は成熟する』(新日本出版社 2019)を、同(10)で田中孝彦『子ども理解と自己理解』(かもがわ出版 2012)を取り上げていました。もちろん上記の田中論文、佐藤論文は、教育科学研究会の研究・実践運動の中で自らの研究史を振り返るという趣旨で書かれているので、私が「学習ノート」で取り上げた文献の内容と一部は重なるものの同一ではありません。それでも取り敢えず2人の研究者の単著を過去半年あまりの間にそれぞれ時間をかけて学習し、ノートを作成したので、今回の京都教科研例会に向けては佐貫論文と本書を中心に学習することにしました。ちょっと消去法的な意味に誤解されそうな書き方になってしまっていますが、他意はありません。
 佐貫論文と本書、と書いたのは、上記佐貫論文の中で本書に言及されていることがわかったからです。まずは上記佐貫論文の構成を紹介します。

佐貫浩「教育における民主主義の探究(上)―個を切り拓く方法として民主主義をとらえる」(『教育』No.901  旬報社 2021.2)
 私自身における民主主義把握の軌跡
  (1)「闘争」の方法としての多数決民主主義
  (2)「国民の教育権論」と民主主義理解の発展
  (3)民主主義を平和の方法論として捉える視点
  (4)コミュニケイション論との出会い
  (5)「主権者教育」と「方法としての政治」
  (6)表現論とケア論との出会い
  (7)コロナ災禍と民主主義

佐貫浩「教育における民主主義の探究(下)--新自由主義の支配を打ち破る教育の役割」(『教育』No.904  旬報社 2021.5)
 新自由主義の民主主義剥奪の方法
  あらためて「国民の教育権論」に光を当てる
 対抗する民主主義を創る
  個の中に民主主義を立ち上げる
  知と学びのなかに民主主義を立ち上げる
  コロナ災禍、Society5.0と民主主義
 

 上記のうち(上)「(5)『主権者教育』と『方法としての政治』」において、本書「第7章 学力と道徳性、主権者性--新自由主義と政治教育の関係を考える」への言及があり、従って京都教科研例会に向けてはまず本書第7章から読み始めました。その後冒頭に戻って読んでいったのですが、その中で自分としては佐貫氏の大変守備範囲の広い教育上の主張の中で、『教育』論文に通底する民主主義論や、本書第7章の道徳教育論という入口ではなくて、本書のタイトルである「学力・人格と教育実践」という入口から入って佐貫教育学から学んでみたいと考えるようになりました。3つの入口は全て佐貫氏の教育学構想に繋がっているのはわかっているのですが、自分にとっては間口が広すぎるため、敢えて狭めて考えてみようと思います。

 本書の構成は以下の通りです。

 はじめに―新自由主義に対抗する教育を考える
 序章 学力・人格と教育実践―子どもの変革的自己形成を起動させる
  一 子どもの人格における葛藤の性格
  二 子どもの意識を閉じ込める目標管理とPDCAシステム
  三 新自由主義の人格形成力の基本戦略―「資質・能力」規定の組み込みの意図
  四 自分を価値の基盤に据え直す
  五 教育実践の自由をつなげる
  六 すべての子どもの学力の価値を実現する社会構想を
Ⅰ 新自由主義と学力・人格
 第1章 安倍内閣の教育改革の全体像と特質―現代把握と新自由主義教育政策の本質
  一 新自由主義社会の出現、展開とその帰結
  二 新自由主義とその権力性、その基本的性格
  三 教育的価値に対する新自由主義の管理統制の仕組み
  四 今日の教育政策分析に求められる視点
 第2章 学力と人格の関係を考える―新自由主義教育政策の本質と「資質・能力」規定
  一 教育の価値を管理する新しいシステムの展開―「資質・能力」規定による人格の方向づけ
  二 坂元忠芳の「人格と学力」の理論の検討
  三 戦後教育学における人格と学力の関係
  四 学力と人格の結合の方法について―価値をめぐる争奪戦の展開のなかで
 第3章 「学力」をどうとらえるか―学力論と学習論との交錯
  一 競争への囚われによる学力の意味の空洞化
  二 学力の教育学の側からの規定の試み
  三 学力の発達論的な視点からの規定と社会的規定について
  四 学力の意味のリアリティの回復
Ⅱ アクティブな学びと評価
 第4章 「アクティブ・ラーニング」を考える
  一 学びにおけるアクティブさとはなにか
  二 アクティブ・ラーニングの定義をめぐって
  三 アクティブ・ラーニングの独特の危うさ
 第5章 評価の「権力化」「肥大化」のメカニズムと人格への評価―「関心・意欲・態度」評価の問題性
  一 評価の二重性
  二 もう一つの評価の二重性
  三 教育実践における「態度」評価の位置―子どもに寄り添う評価との関係について
  四 中内敏夫の評価論について
  五 評価の肥大化ではなく子どもに寄り添う指導を
Ⅲ 生きることと学力
 第6章 「知識基盤社会論」批判―労働の未来像と能力・学力の価値について
  一 「知識基盤社会論」のねらい
  二 「知識社会」、「知識基盤社会」とはなにか―資本主義的生産の仕組みと知(技術)の関係から
  三 人間労働の未来と学力の意味
  四 学力論と「知識基盤社会論」―まとめとして
 第7章 学力と道徳性、主権者性―新自由主義と政治教育の関係を考える
  一 議会制民主主義による主権政治と経済世界の関係の展開構図
  二 「人的資本論」とホモ・エコノミクス
  三 ホモ・ポリティクスの奪回に向けて
  四 ホモ・エコノミクスの視野から消失する人類的課題
  五 主権者教育の方法―ホモ・ポリティクスの方法と力の回復
 第8章 「憲法改正論争事態」における学校教育の責務を考える―公教育の本質に立ち返って
  一 「憲法改正論争事態」の到来
  二 「憲法改正論争事態」における教育のあり方
  三 教師の二つの立ち位置の統一という課題
  四 価値を継承する学習空間の性格
  五 補足
 第9章 学力の意味の喪失とその回復のすじ道―「あること」<to be>と「もつこと」<to have>の様式と学力
  一 学力と知の意味の剥奪
  二 人格が労働力商品として扱われる
  三 haveとbeの対抗
  四 「個性」概念の歪みと転換
  五 学校の学びの構造と「学力」の意味づけ
 あとがき


 私は教育学文献を読む時、「共感する」「大事なことだなあ」と思う部分には黄色のラインマーカーを塗ります。そして注目した箇所の中でもさらに「ここはすごく大事なことだ」と強く思う部分には青色のラインマーカーを塗ります。本書に関しては、黄色く塗った部分が大変多く、ここを全て書き写していると本書の半分くらいは写し取ることになってしまうため、青く塗った部分だけを書き写すことにします。前後の文脈を無視して抽出することになりますが御容赦下さい。


はじめに―新自由主義に対抗する教育を考える

「教育=学習のプロセスを、子どもや若者自身が、自分の人間としての尊厳の回復、権利の実現の過程であるととらえられるような性格をもつものに、組み変えていかなければならない。」(P.6)

「子どもが人間として主体的能動的に―アクティブに―生きられるようにすること、子どもの主体性を引き出すことこそがアクティブな学びの根本前提となる。アクティブな教育実践へ挑戦する教師の自由が、不可欠だろう。生きる目標を上から押しつける現代社会のメカニズム、その教育政策が、人間のアクティブさを奪っている。それらへの抵抗の構えなしにアクティブな生き方は成立しない。学びのアクティブさの土台には、子どもたちのよりよく生きたいという願いが組み込まれていなければならない。人格的な自由と意欲が剥奪された状態では、そもそも、学習に向かう主体性の土台が掘り崩されてしまう。その土台の崩壊を、ただ競争と自己責任意識の喚起によって修復することなど不可能である。アクティブな学びの実現のためには、学習の土台に、子どもたちの尊厳と未来への希望を回復する社会改革への見通しと熱意、その息吹のなかで子どもが未来への見通しをもてるようにすることが不可欠である。さらに、教育が、子どもの人格へのケアの性格をもち、人間的な願いを意識化し、主体性を回復していく筋道を支え、表現への能動性を高めることが必要となる。表現とは、本質的にはその個の主体性を再構築していく営みであり、他者との共同への参加の方法である。」(P.6-7)

「道徳も政治も、人間が共同していくための方法と価値の探求の営みであり、その方法と価値を継承し、批判的に発展させていく認識と方法の獲得は、人間の学力の全体性にとって不可欠な構成部分となる。」(P.8)

「『知識基盤社会論』批判をふまえるならば、人間の労働能力(=学力)は、その『高さ』や『低さ』にかかわらず価値あるものとして生かされる社会、すべての人間の労働能力が生かされるシステムこそが最も豊かな社会的富を生み出すという未来像が提示されるだろう。その地平においてこそ、学力についての新しい把握が可能になる。そこでは、すべての人間が、自らの獲得した学力=能力を最大限に生かしつつ、労働を通して社会的共同のなかに生きる自己を実現し、社会の富の形成に参加し、それゆえに、自己の能力をかけがえのないものとして愛しく感じることができる新しい社会の構想が可能となるだろう。」(P.9)


序章 学力・人格と教育実践―子どもの変革的自己形成を起動させる

「『現代社会は完全である』という観念は、今回の教科『道徳』に深く埋め込まれている。」(P.17)

 一 子どもの人格における葛藤の性格

「今、子どもたちの意識は二つの層に分断され、激しい葛藤のなかに置かれている。第一の層は、新自由主義の規範に徹底的に絡め取られ、その規範に沿って自分の存在の意味や居場所を確保し、サバイバルを強いられている意識の層である。取り囲む評価基準に絶えず自分を合わせる緊張感に疲れ、どんな困難を背負わされていても、結果として到達した学力の順位で、自己責任として自分の人間としての価値が計られる。一方、子どもたちの生活世界は、暴力をも含むミクロ・ポリティクスの世界と化し、人権を無視した攻撃、あざけりや差別やいじめや排除など、およそ憲法的正義と正反対の不条理が飛び交っている。そして彼らが生きるその世界の恐ろしさは、ほとんど世界や社会とは何かを理解しようもない人生の入り口に到達したばかりの子どもたちに、自死をも選ばせるほどに過酷で絶対的なものとして迫ってくる。いじめ自殺事件が全国各地に出現している事態はその深刻さを現しているように思われる。
 しかし、だからこそ、その第一の意識の層と表裏一体となって、人間としての誇りをもちたい、今の不安や困難から逃れたい、暴力から逃れたい、勉強がわかりたい、安心できる友達との支え合いを生きたい、みんなに認められたい、未来への希望をつかみたいなどの人間としての安心と尊厳を求める意識の第二の層が、子どもの心の奥底に渦巻いているのではないか」(P.18-19)

「子どもの人格の変革的能動性を引き出し、生きさせられている現実=新自由主義の規範を打ち破る力を子どもの中に生み出せるか、そのような変革可能性を希望として子どもに提示できるのかが教育実践に問われている。」(P.19)


 三 新自由主義の人格形成力の基本戦略--「資質・能力」規定の組み込みの意図

「現実社会の支配的規範が、今日、非常に強力に人格に働きかけ、生きる意味や目的の意識、生きるための戦略を方向づけている。人間がもつ変革的主体形成の力を展開させるには、このような人格に作用している新自由主義の規範の形成力と意識的に対抗する教育実践が不可欠となる。」(P.25-26)

「もちろん『学力』獲得は、私たちの教育実践の重要な課題である。しかし、語弊を恐れずに言えば、『学力を高めなければ、おまえは生きる価値をもたないのだ』というメッセージを送るのをやめ、現にいま目の前に生きている子どもの存在の価値と尊厳を承認する関係を作り出すことが、不可欠なのではないのか。『一人ひとりがかけがえのない命をもつ人間として生きていける関係を作り出そう』、『教室をこそ、そういう空間に作り替えよう』というメッセージを送り届けることが、まずもって教育実践の第一の目標になる必要があるのではないか。[佐藤註・以下11文字に傍点]学力向上を条件としない人間の尊厳を承認し合う関係が作り出されなければならない。学力に働きかける[佐藤註・以下4文字に傍点]その前に、あるいは[佐藤註・以下4文字に傍点]と同時に、子どもが自己の尊厳を[佐藤註・以下9文字に傍点]自己の意識において回復していくことに、子どもとともに挑戦していくことが必要なのではないか。その土台においてこそ、子どもは学力獲得の意味を自分で発見し、ほんものの「生きる力」を回復していくのではないか。」(P.26-27)


 四 自分を価値の基盤に据え直す

「新自由主義は、価値は自己の内からではなく、市場から提示されるとする。生きる過程のすべてに望ましい規範と行動目標を組み込み、評価で人間を管理し方向づける新自由主義の統治技術は、人間が自らの人格のなかに感じ抱く目的や価値の意識を無意味化し、個の主体性を掘り崩していく。その規範と論理が、社会への批判の認識を強固に閉ざすバリアとして機能するなかでは、それに対抗する教育実践は、そういう力学を打ち破り、子ども自身のなかから、目的と価値を紡ぎ出していかなければならない。
 人間は、自らの身体的感覚を伴って世界や他者とも交渉し、その存在を感じ、味わい、実現していく主体であり、個性的存在である。子どももまた、さまざまな情動や感情をもちつつよりよい生き方、自己の存在の実現を求めて模索しているまぶしいほどのかけがえのない命を生きている。主体化を支える価値の土台は、まさに自分という存在のなか、その人格が味わっている感情、矛盾の意識、苦悩、願い―最初に述べた第二の意識の層―を意識的に生きようとする構えのなかにある。新自由主義の下での価値の争奪戦においては、自分を基盤にして思考することが、根本的な対抗方法となる。」(P.27-28)

「ジュディス・ハーマンは、人格がいかなる人間関係のなかに再配置されるかという問題として心的外傷(トラウマ)からの『回復』過程をとらえ、世界に対して表現する能動性を取り戻すことをその『回復』の核心に位置づけた。『表現の回復』の過程は、共に生きる他者との関係の回復、人格的結合の回復過程である。孤立、孤独、競争的敵対、支配と被支配、暴力への拝跪と屈服、それらの病理による世界との断絶、社会への主体的姿勢の剥奪--これらの病理を克服する方法と結合されなければ、能動的な学習は始動しない。その困難に挑むためには、ケアが、学習の土台に深く組み込まれなければならない。さらに、ケアが学習主体としての個を回復し励ますに止まらず、[佐藤註・以下9文字に傍点]学習過程そのものが、人格の核心にある尊厳の感覚、生きる目的の意識、生き方を導く価値意識を高める質をもつことで、人格そのものを支え(ケアし)、その尊厳を回復する支えとならなければならない。人格に働きかける教育は、このような意味において、学習とケアを統一するものにならなければならない。」(P.28-29)

「子どもたちが安心でき、人間的な願いや思いを互いに表現し受け止め合うことができ、そのなかで自分のさまざまな力の獲得への挑戦ができる『共世界』の創造は、教育実践の土台として、また子どもたちが生きる場において、ますます切実な課題となっている。」(P.30)


 五 教育実践の自由をつなげる

「確かに、孤立した子どものなかでは、外から押し当てられる価値規範がほとんど一方的に勝利し、個の思いや願いに含まれた主体的な価値の意識化、生きることを意味化する価値を紡ぎ出す契機がその芽を摘み取られてしまう非常に不利な力学が働いている。しかし、教師が子どもの人格の葛藤に寄り添い、共感し、その争奪戦を共に生きようとするならば、今日の子どもの変革的主体形成を起動させることができるのではないか。それは、子どもの困難や苦悩を自らの専門性をかけて発見しつつ働きかけ、新しい生き方の切り拓きに向けて、子どもを孤立から救い出し、教師との共同、さらには仲間との共同のなかに子どもを取り戻すことである。それは新自由主義の場の力学に抗し、人間的価値を探求するミクロな抵抗と共同の拠点を、教育の場に構築していくことを意味する。」(P.31)


 六 すべての子どもの学力の価値を実現する社会構想を

「このような教育の構想は、すべての人間、すべての子どもにとって自らの学力が愛しいもの、自分を支えるもの、他者とともに生きていく上でかけがえない役割を担うものであることが確信できるような学力の位置づけと結合されなければならない。学力が個人的なサバイバル競争の手段として追求されること自体が現代の根本的な歪みではないか。」(P.32)


Ⅰ 新自由主義と学力・人格
第1章 安倍内閣の教育改革の全体像と特質―現代把握と新自由主義教育政策の本質
 一 新自由主義社会の出現、展開とその帰結


「新自由主義は、単なる市場万能の方法論や公共的事業の民営化等の個別政策に還元できるものではなく、その背後にある権力構造の転換によってもたらされた、全体性と一貫性をもった政治権力の基本的特質であり、その意図と戦略によって統合された諸政策の全体を貫く基本的性格と把握すべきものである。したがって、現代の教育政策分析がいかなる国家認識、権力認識に基づくのかは、その分析の科学性とリアリティを大きく左右する。従来の新自由主義教育政策把握では、むしろ国家が後退し、市場の論理が前面に出る教育政策が中心となるとの把握があった。しかし、新自由主義が新たな強力な国家権力のありようを探求するものであるならば、国家と教育の関係の組み替えを含んだ教育改革の方法論それ自体の改変にも、新自由主義的性格が深く刻み込まれているものとして分析する必要がある。」(P.35)

「第三に、この権力は、グローバル資本の世界競争戦略に沿って人材形成を進めることを、公教育の中心的な目的とする。それが学力政策、高等教育再編政策、さらには科学技術政策等に貫かれていく。それは、一方での雇用の格差化、低賃金不安定雇用の拡大という新自由主義の下での雇用戦略の展開と相まって、労働者側の激しい雇用獲得競争と結びつき、学校教育は、安定した雇用を確保するための激しいサバイバル競争の場へと変貌していく。若者の多くがこの不安定雇用や貧困へのリスクに曝されて、将来への見通しと希望をつかめない不安社会が、90年代後半から到来した。それは幼児段階からの子育ての過程をも、このサバイバル競争過程へと変貌させ、そこに高額の私費を投入した自己責任、個別家庭責任としての子育て競争を引き起こし、所得格差を反映した格差貧困の再生産メカニズムを起動させつつある。」(P.37)

「新指導要領の『資質・能力』規定は、学校教育を、新自由主義の規範とナショナリズムの心性を獲得させるための道具へと改変しようとしている。」(P.38)


 二 新自由主義とその権力性、その基本的性格
  (1)フーコーの新自由主義把握と「生政治」


「補足するならば、このような環境介入権力としての新自由主義国家がめざす人材形成は、グローバル経済競争の論理に貫かれたものとなる。その特徴は、『人的資本論』の新自由主義バージョンとして展開される。またこのような人材要求に応答することができる人間が、自己の労働力を彼自身がそこから利潤を得るところの資本と認識し、その価値を高めるために自分自身に私財を投資し、労働力市場で競争に勝ち抜こうと努力する競争主体(ホモ・エコノミクス=「経済人」)として育成される。またそれらを合理化する近未来社会論が、『知識基盤社会』と把握される(後略)。」(P.44)


 三 教育的価値に対する新自由主義の管理統制の仕組み
  (1)公教育管理方法の変化―「目標管理」による価値と人格統制へ


「2000年代に入って、教育と国家の関係が急速に改変されていった。そして教育の内面的な価値が、以下のような仕組みによって緻密に管理・統制され、方向づけられるようになった。象徴的な事態としては、(中略)
 その事態は、『違反者』への処罰を、権力をもつ教育行政が直接下すという点では、政治的弾圧という性格をも帯びるものであった。(中略)しかし今日からみるならば、実は、権力や教育行政が設定した教育の価値的目標を、教師の教育活動の一挙手一投足にまで及んで規範として提示し、法的根拠にもとづいて忠実に実施させるという、緻密で、効率的な目標管理という手法を教育支配のシステムとして構築していくための、一つの試行錯誤の過程であったとみることができる。その先に、以下のような緻密な目標管理とPDCAシステムが出現した。(後略)」(P.47)

「これは、①NPM(ニュー・パブリック・マネジメント)という教育行政による価値統制システム、②PDCAによる学校教育の教育内容・価値の管理システム、③人事考課という労働者(教師)管理システム、④子ども自身の学力の質と達成度を国家が計測し、管理するシステム--学力テスト体制--の四つの教育の内的価値を管理するシステムを、一段と権力性を強めた国家および地方自治体、学校管理を担う権力の下で統合した支配のメカニズムである。
 その特質は、教育=学習活動、教師の教育活動の隅々、すべての過程(プロセス)に、上からの目標を実現する忠誠と自発的創意をどれだけ注ぎ込むかを計測し、競わせる仕組みを埋め込んだことにある。この目標管理手法による統制は、新自由主義社会の人間統制の一つの基本パターンと見てよい。そのため、教師は上から提示される目標の実現のために、その全エネルギーと注意力を注ぎ込まざるをえなくさせられる。いやそれに止まらず、本質的に共同的、集団的である学校教育において、拒否しようのないその共同性と一体化されたPDCAシステムによって、それに対する抵抗者を、横の関係--同僚との共同--を拒否する異端者として非難し、その動きを封じる効率的なシステムとしても機能するのである。」(P.49)

「PDCAサイクルは、最初は、生産過程の品質管理方法として提起された。Plan(計画)→Do(実行)→Check(評価)→Act(改善)のサイクルを繰り返し、業務を継続的に改善する手法である。企業の生産計画下で、その目標を合理的に達成していくという限定されたプロセスにおいて、それは一定の科学的な手続きとして機能する。しかしそれは、生産目標、生産の品質については、資本からの絶対的目標として提示されており、そこには資本の権力が前提とされている。その権力的統制はPDCAの全過程を貫き、人間とその労働力は、経営的合理性によって--例えばチャップリンの映画『モダンタイムス』で描かれたような機械部品としての合理性に基づいて--統制される。同時にPDCAは、労働者の自主性、主体性、創造性を最大限に引き出し、また労働者相互の競争をも組織し、さらに労働における協業の効率を最大化し、怠ける人間に対する相互監視システムとしても機能する。その意味では労働者の共同性を搾取する方法でもある。」(P.50)

「ここでは、[佐藤註・以下94文字に傍点]PDCAのPはあくまで目標に従属した計画であって、目標そのものはPDCAサイクルの外にあることが明確に指摘されている目標を決定する権力がその目標を実現するためにPDCAサイクルを廻すのである。経営的手法では、生産目標は、経営層(資本)によって決定される。しかし行政過程では、住民の利益や福祉、人権保障等々の、そのサービスを受ける主体の側に即してその価値や目標を検討するという民主主義的な手続き、住民や当事者参加が必要である。しかし新自由主義の強権的統治は、政府の決定をいかに効率よく実施するかに狙いがおかれる。特に福祉削減、権利保障の切り下げ、住民サービスの切り下げを目標とした政治を、行政の窓口(自治体職員)に推進させるには、この経営的手法(PDCA)が不可欠となった。上からの絶対的目標を冷徹に実施し、住民参加を切り捨てていく手法としてPDCAが機能する。そこで実現されるべき価値内容(目標)は、議会制民主主義によって選ばれた首長や行政の意思こそが民意であるとして絶対化される。行政過程で働く公務員には、行政への絶対服従、提起された目標実現のための技術的専門性のみが求められ、忠誠を示せば、人事考課で報償される。経営においてはある意味で経済的合理性の背後に隠されていた権力的な性格が、政治過程に導入されることで、剝き出しの政治権力の統制として顕現化した。」(P.51-52)

「このような性格的改造を経たPDCAサイクルが、学校教育を含む公共的な事業にも広く導入されてきた。公教育においては第一に、教育行政や学校管理層が決めた目標が絶対化され、それを忠実に実現させる管理と統制の方法となっている。第二に、この目標実現のために教師集団を機能させることによって、上からの統制としてではなく、教師の共同性そのものが、上からの目標に対する忠誠を強要する機能を帯びさせられる。(中略)
 その結果、PDCAは、新自由主義教育政策の権力的統制、管理の最も緻密で、強力な方法となり、国民の教育権を圧殺する。PDCAで教育が改善していくかのような素朴な受け止めも多いが、このような本質が理解される必要がある。」(P.52-53)

「この目標管理システムのなかの中心的価値内容として『学力』がすえられ、権力の求める学力を数値化して管理する手法が編み出され、この数値を管理することを通して教育価値のありようを統制し、方向づけ、政策的意図を実現するための教育を作り出す仕組み、メカニズムが形成されたのである。」(P.53)

「さらに、このような統制と目標管理の基盤の上で、本来教育的価値の中核に位置している『学力』という概念が、国家によって規定され、暴力的なまでに専制的な力をもち、その操作で教育行政や国家権力が、学校教育の内的価値を大きく変質させつつある。その学力概念は、教師の教育実践による教育学的検証から切り離され、驚くほどに権力的であり、新自由主義の要請に沿うものとして規定されつつある。」(P.54)


  (2)「学力」の位置の変化--「学力の政策概念化」

「第三に、狭義の『学力』だけを取り出して学校教育目標を数値指標化してその達成を競わせ、教師の人事考課やときには給与査定にまで及ぶ評価を組み込む『学力テスト体制』によって、学校は、この数値目標を競う競争システムのなかに組み込まれた。その結果、学校はこの学力追求に機能を焦点化し、学校や教師と子どもの関係を成り立たせる人格的な配慮や支援の機能を縮小されつつある。また学校の機能がそういう計測可能な学力に一面化していくなかで、それを『効率的』に補完し、教育競争を促進する教育商品を市場で販売する仕組みが分厚く形成され、いわば学校と塾教育の等質化が進み、『学力の政策概念化』と『学力競争の市場化』とが相補的に進む事態が促進されていく。市場での学力競争も、結果的には学力テストを通した方向づけによって国家的に管理され、その土俵の上で、学力獲得は子ども個人と家庭の競争的自己責任に任され、教育の過程が格差・貧困を再生産していくスパイラル機能を背負わされつつある。」(P.57)


  (3)教育目標の数値化と学校教育の変質

「加えてその下で、教育目標の達成が数値化されることで、以下のようなさらなる教育の変質と権力的統制が進行する。
(中略)
⑦そのような数値目標を達成するために求められる必要な学習規律と学習方法が、『スタンダード』などという形であらかじめ規格化され、教育実践に押しつけられる。それは、子どもの個々の思いや内面の葛藤や課題、あるいは子どものつまずきなどに即して、学びの過程を改変する専門的な工夫を排除し、指導をマニュアル化し、機械化し、個に即した生き方を生み出す教室空間を消滅させる。」(P.58-59)


第2章 学力と人格の関係を考える―新自由主義教育政策の本質と「資質・能力」規定
 一 教育の価値を管理する新しいシステムの展開―「資質・能力」規定による人格の方向づけ
  (1)PISAコンピテンシー論とその日本への導入の特質


「ところが、日本の学力テストは、このPISA型学力を一面では参照しつつ、日本型受験学力の枠組みの土台の上にそれを移入しようとした。第一に、PISA型学力では学力を獲得する主体の側の能動性がコンピテンシーの②と③に深く依拠しているという構造は切り捨てて、リテラシー型の悉皆学力テストの実施により子どもを学力競争に追い込むことで―すなわち競争的意欲を促進する土台の上に―人格的エネルギーを引き出すという戦略を取った。そのことによって、自律的な人格的主体性の形成は取り払われてしまった。第二に、PISA型コンピテンシーがその一つの前提にしていた市民的能動性(PISA型コンピテンシーの②、③)を、新自由主義的な自己責任型の競争サバイバルへの挑戦と、ナショナリズム型の世界観、歴史観、道徳観、安倍内閣の進める軍事大国化へ心情的に一本化する『愛国心』などで喚起される『生きる意欲』を獲得させることで代替しようとした。新学習指導要領は、『資質・能力』規定でそういう価値観の獲得、行動様式の獲得を『学力』に組み込み、それを評価の対象とし、人格形成を管理する方向へ踏み出しつつある。」(P.76)


  (2)「資質・能力」規定の意味と危うさ

「教育目標にコンピテンシー目標が加えられるとしても、子どもにとって諸能力の獲得は、自分が生きることそのものの実現に関わる意味が明確になることで意欲されるという面を忘れてはならない。」(P.79)


  (4)OECDのPISA型リテラシーの性格--松下佳代の把握に即して

「スキルは、提示された能力を獲得するための定められたプロセスに沿った技術的な訓練過程と言えるが、実践は、現実に対して目的をもって作用を及ばす価値の吟味と探求を含んだ過程である。そしてその実践の過程においては、社会や対象に対する価値的、目的的主体性が問われる。学ぶという過程、あるいは教育の過程が、そういう実践としての質をもって遂行されることによって、能力の『垂直軸』と『水平軸』が深く交差し、子どもの学習は単なるスキルの獲得過程から、関係や自然に能動的に働きかける『生きる』過程へと展開していく。そしてその過程において、学力と人格との深い結合―『統合的アプローチ』が実現されるだろう。」(P.83-84)

「ここで確認できることは、PISA型コンピテンシー理論の全体構造は、人格軸(『垂直軸』)と、能力の領域(『水平軸』)との統合的把握への契機を含んでいたということである。もちろん、その統合アプローチはグローバル資本の人材養成へと能力を焦点化させる気とを強くもつものでもあり、そのことがグローバル経済競争の一環として世界的学力競争を引き出し、このコンピテンシー理念自体を歪めてもいるのである。
 松下の指摘するように、文科省方針においては、PISA型リテラシーは他のキー・コンピテンシーと切り離されて要素主義的な仕方で導入されている。その結果、人格との結合を、『統合的アプローチ』ではなく、『外』から意欲や『態度』を付加する方法―学テなどで学力競争を組織することや、権力やグローバル資本が望ましいと考える規範や価値によって子どもを『主体化』させる方法、そのために『態度』を評価するなどの人格そのものを操作する仕組み―によって進めようとしている。そのため、道徳教育やキャリア教育、『愛国心の教育』などが、推進されつつある。それは、現代の新自由主義社会への同調と一体化を強制し、人格的自由、社会の諸矛盾に対する抵抗的で創造的な、したがって歴史的な変革主体形成へのエネルギーをむしろ抑圧するものとなるだろう。
 こう見てくると、実は『資質・能力』問題の焦点は、人格と学力との関係、その結合と統一をめぐる教育学認識と方法をめぐる対立的論争のなかにあるととらえることができるだろう。」(P.84)


 二 坂元忠芳の「人格と学力」の理論の検討

「坂元は、学習意欲は、『当面する学習の対象そのものに直接かかわる層(それをかりに学習意欲にかかわる認識的側面といっておく)と、時には学習行為の背後にかくされている人格的な意味に関わる層(今かりに、学習意欲にかかわる人格的側面といっておく)の二重の内容をもっている』(115頁)と把握する。(中略)第三段階では、『学習意欲の認識的側面』と『人格的側面』(『子どもの目的意識的な、さまざまな活動を、実生活の中で組織しながら、そうした活動をはばむ現実の矛盾と子どもにとってのその意味をしだいに自覚させ、現実の問題にねばり強くとりくんでいく生活意識、生活意志を育てていく側面』〔130頁〕)が分離しつつ、『学習意欲にかかわる人格的側面』が、『学習意欲にかかわる認識的側面を』とらえ、『学習と子どもの実生活との結合の発展のすじみち』(137頁)が切り拓かれ、『生活にたいする学習の「役立て」の思想が子どものなかにしだいに芽生え』(137頁)、『学習意欲における二側面の統一』(136頁)が展開していくとして次のように述べる。(後略)」(P.85-86)

「ここに引用した坂元の論理の骨格を整理しておこう。
(中略)
  ⑤だから、学力と人格の結合のためには、認識的側面の発達を『学習のもつ根源的性格--その人間的解放における役立てと予見の思想』(139頁)へと展開させ、それを、この『人格の核心である目的-動機や価値意識の体系』(234頁)へと結合することが必要である。」(P.86-87)

「第三に、[<人格+学力>統一体]への働きかけは、子どもの人格の核心にある価値や目的の意識を子ども自身が自主的に高めることを支えるという方法に拠らねばならない。教師の価値観に照らし合わせた評価をてこに子どもを方向づけたり、評価を[佐藤註・以下8文字に傍点]指導の過程の内側を超え出て、客観的な人格『評定』として記録してはならない。人格への働きかけは、人格そのものを支配し方向づけるものとなってはならない。したがって教育実践における評価は、常に子どもの自由をどう保障するかという厳しい自覚と方法を伴わなければならない。この点も、恵那の生活綴方教育実践の自覚とつながった坂元の視点であった。」(P.90)


 三 戦後教育学における人格と学力の関係

「また子ども自身が社会や地域に能動的に参加する学習、あるいは現実政治へ主権者として参加していく学習、さらには中学や高校、大学での自主的運動、自治会活動、さまざまな社会参加活動が、1980年代以降極度に衰退するという状況が生まれた。子どもや若者が、ひとりの自治主体、生活主体、社会主体、主権者として、現実社会のなかで自己を成長させつつ、価値や目的を確かなものとしていくという成長の環境自体が大きく変貌し、社会的形成機能との挌闘による自己形成機能が衰退していった。


 四 学力と人格の結合の方法について--価値をめぐる争奪戦の展開のなかで

「だからこそ、認識と思考の基盤としての自分を奪い返すことが、新自由主義の人間観への根本的な対抗方法へとつながっていくだろう。その価値の争奪戦場で苦悩する子どもたちの思いや葛藤に、教師や仲間が共感し、それを共に背負って生きてくれる視線と言葉を向けてくれるならば、変革的主体形成を促し、現代に抵抗し、組み替え、新しい命を生きる空間が切り拓かれるのではないか。学校や子どもの世界における変革的主体の形成は、このような価値争奪戦のただなかで進められるほかないものとなっている。」(P.96)

「本来の学習は、その意味で、絶えず学習過程において人格的要求を意識化し、その要求に応答可能なように再構成された知との出会いとして組織されなければならない。学習とケアが結合されなければならない理由は、その人間としての存在の意味自体が否定され、自己のなかにあるものの人間的感覚が負の意味をもつものとして否定されているような空間のなかで生きさせられている子どもたちに対して、子どもの今の存在そのもの、感覚、思い、願い、怒りや悲しみのすべてを含んで、そこにこそ主体的に生きる価値の土台があり、その自分を基盤にして生きていくことを励まし、その自分を意識化し豊かにする営みとして教室の生活と学習があるという関係を取り戻すためである。その条件が満たされるとき、学習は人格のなかにうずき、社会や生活のありようを問わずにはいられない個の思いを意識化し、意味化し、『生きる力』を形成する力として作用するだろう。」(P.96-97)


第3章 「学力」をどうとらえるか--学力論と学習論との交錯
 一 競争への囚われによる学力の意味の空洞化

「資本にとって必要なものは、労働力であり、人間はその労働力の所有者ととらえられる。その結果、学力は、その価値を他者に評価されてはじめてその値打ちがわかる所有物となり、人格は学力という所有物の単なる所有主体として位置づけられていく。いや、それに止まらず、対人関係力として、笑顔(力)すらもが労働力商品に不可欠な能力の一環とされ、一般の労働者がまるで俳優のようにキャラを演じることを求められるなど、資本の求めに応じて人格、感情を演じる能力までもが、人格から切り離された所有物としての労働能力のカタログに加えられる。」(P.100)


 三 学力の発達論的な視点からの規定と社会的規定について
  (1)学力と学習論の構造的関連--学力把握の方法に関わって


「今、文科省が学習論と結びつけて―アクティブ・ラーニング論や学習評価論と結びつけて―学力の質を(統制的に)方向づけようとしている状況があるが、すでに90年代において、民主主義的な教育改革の視点から学習論が彫琢されようとしていたと見ることができる。そしてそこに組み込まれた人格を対象化し学力と人格との結合を進めようと働きかける教育学の方法意識は、価値の教化や行動統制という方法によってではなく、子どもの主体化の方法―子どもが生きる文脈を意識化し、権利化し、関係の主体へ位置づけ、自治を保障し、参加を促し、主体としての表現に挑戦させ、創造の自由を展開させる方法―に注目し、それを促し支える学習の転換を介してこそ、遂行されるべきものであるとの共通の教育学意識を共有していたとみることができる。人格に働きかける教育実践の展開は、必ず、その人格の主体性と自律性、価値形成における自由を保障する方法論=学習論を伴わなければならないということが重要な教訓となる。しかしその頃から本格的に持ち込まれてきた新自由主義的な教育目標管理政策の展開、PDCAシステムの持ち込みによる公教育における価値統制の展開は、そのような教育実践を困難なものにし、学力テスト体制による学力管理が急展開した。そして今日においては、『資質・能力』規定によって、人格の核心にある価値と目的意識の統制的な方向づけへと踏み込みつつあると見ることができる。あるべきアクティブ・ラーニング論は、この90年代の挑戦の視点と成果を継承するものでなければならない。」(P.107-108)


  (2)社会的規定の側からする学力の改変

「あらためて考えれば、教育学における目的としての学力規定は、人間発達の社会的規定性を視野におきつつ、歴史的に規定された発達の可能性を最大限に追求するもの、そのような意味における発達論的規定の統一として探究されるべきものだろう。その意味で、ここでは、発達論的規定と社会的規定の統一されたもの、そしてそれが教育実践において具体的な人間の発達として検証されていく学力規定を、学力の教育学的規定として把握しておきたい。」(P.109-110)


  (3)学力の社会的規定のオルターナティブの検討

「学力獲得の失敗が雇用の格差や未来展望の喪失に繋がるのは、学力の弱さを理由に押しつけられた劣悪な労働条件が、学習と成長の新たな可能性を奪ってしまうメカニズムに拠っているというべきであろう。」(P.111)


 四 学力の意味のリアリティの回復
  (1)学力獲得の意味の抽象化、空洞化

 「学力が低ければワーキング・プアになるぞという脅しを用いるべきでなく、学力が低くても生存権が保障されねばならないというのが今日の幸福追求権の正義、憲法的正義であり、その正義を学校と教師は断固として貫かなければならない。」(P.114)

「だから学力を評価するという行為は、数値だけで評価するのではなく、子どもの人格の全体、その矛盾、要求や意欲、目的意識をとらえ、子どもが生きようとしているその挌闘をどう支えられるのか、学力を獲得することがその挌闘にどういう力を与えるのかを深く読み込んで、働きかけの方法を再構成することの一環でなければならない。」(P.115-116)


  (3)学力は子どもの側からその意味が主体的に把握されなければならない

「学力への社会的規定性は、リアルな社会参加のイメージ、自己の創造的労働生活を意欲させるものとして子どもを学習へと向かわせる力をもたなければならないのである。学力の社会的規定性--社会の側からの学力への期待--は、学力獲得の意味を、子ども自身が自覚的にとらえられるようにし、子どもの学習意欲を高めるように働く構造をもたなければならないのである。さらにいえば、『外』からの学力への規定性(期待)は、学力の獲得の意味を人間の内部から、人間存在の土台から、その発達の必要から明らかにするという発達論的規定を介して--あるいは発達論的規定に内在化されて、あるいは子どもの内部からの要求として把握される発達論的要求を結合されて--子どもを学習に向かわせるものへと再構成されなければならないのである。」(P.116)


Ⅱ アクティブな学びと評価
第4章 「アクティブ・ラーニング」を考える


「⑦アクティブな思考とは、思想の自由、真理探究の自由、表現の自由、批判の自由があって初めて可能になる。職員会議での議論が禁止されるような思考禁止体制のなかで、アクティブ・ラーニングを議論するという根本的矛盾。アクティブ・ラーニングを展開させるためには、まず教師に批判の自由の下でのアクティブな議論が不可欠である。」(P.121)

「一つ付け加えておこう。今回の新指導要領では、「アクティブ・ラーニング」という言葉は外され、『主体的・対話的で深い学び』という表現が使われている。それとともに、教育委員会の『指導』では、急速に『アクティブ・ラーニング』という言葉が後退しつつあるように思われる。『アクティブ・ラーニング』を推奨する限り、アクティブな学びとは何かという探究が誘発されざるをえないことを警戒したのか、あるいはアクティブな学びは当然ながら教材の自主的開発や授業の自主的工夫を引き出さざるをえないことを警戒したのだろうか。その結果、学んだことを主体的に演じるという態度主義的なアクティブさを実現する方向へと、指導が一挙に傾斜する可能性がある。その危うさも含んで、『アクティブ・ラーニング騒ぎ』を批判的に分析しなければならない。」(P.122)


 一 学びにおけるアクティブさとはなにか

「第二に、学びのアクティブさと人格的な主体性の確立という実践の関係の仕方である。人間の主体性を土台としてこそ学習もまた主体化する。とすると、そもそも人間としての主体性を高める方法論がアクティブ・ラーニングの土台に組み込まれなければならない。」(P.123)


  (1)学びのアクティブさの二つの層

「アクティブな学びは、思考のメカニズムに直接結びついたアクティブさと、人格そのもののアクティブさに支えられた思考のアクティブさという二つの層において把握される必要があることを、ここではとりあえず指摘しておこう。」(P.125)


  (2)アクティブさを奪っている原因--受験学力の構造と政策の根本的矛盾

「競争の磁場を操作することで子どもを学習に追い込んでいる仕組み--学力テスト体制はその最たる仕組み--を組み替えることなしには、真のアクティブな学習は立ち現れてこない。アクティブ・ラーニングを推奨する政策は、このことを忘れている。」(P.126)

「大人になるまでの長い学校教育と子ども関係の苦しい体験を通して、子どもや若者は、自分の真実を表現することに恐れを抱き、表現しない戦略を注意深くとり続けてきた。自分の固有の思考に独自の価値があるという感覚はもちえないままに、正解を記憶と技のスキルによって『正しく』身につけることが学習だと考えてきた。その視点からすれば、手を挙げて発言することはそういう『正解』と『正しい』思考のスキルに照らして、自分のそれが正しいかどうかが点検される危うい立場に自分をさらす行為となる。また『正解』を積極的に発言することは、自分の優越性を誇示したり、教師にこびる行為であるという他者からの眼差しを受けるのではないかとも考え、沈黙こそがそういう教室空間における安全のための戦略として選び取られてきた。自らの固有の思考回路を他者の吟味にさらすことを危ういこととして封印し、その結果として授業への主体的関わりをもシュリンクしてきたのである。そしていじめ空間の力学は、この発言封じをさらに危機的なまでに昂進させている。その恐れから子どもたちを解放し、表現の価値や豊かさを実感させることができるかどうか、教室における表現の自由の回復は、非常に重いが、避けては通れない学-習の主体化、アクティブ化へのハードルである。」(P.127-128)

 ⇒T.Satou:ずっと自分は沈黙したままで引用ばかり続けてきましたが、上記の部分にはとりわけいたく共感したので一言。もう30年近く前の三重大学教育学部に赴任して間もない頃、講義への意見・感想を毎回のようにレポートとして提出してもらっていたのですが、講義中の私語がずっと気になっていたものの強く叱責して授業の雰囲気を壊すことを懸念して途中の回では特にコメントせず、最終回授業で私語が他者の学習権を侵すという趣旨の説明を行ない、それへの無記名の感想を提出させたところ、そうした私の私語へのコメントの仕方について罵詈雑言の感想を一通受け取りました(拙稿「学習者の批判から何を学ぶか」『授業づくりネットワーク』No.18 学事出版 1990.1)。その罵詈雑言の批判に対しては私もいろいろ言いたいことはあるものの、一方で、授業では私が喋り受講生とのコミュニケーションは感想文で、というのでは相互理解に限界があると考えるようになり、授業感想文は続けながら授業中に私と受講生の直接のコミュニケーションの機会をつくろうと考えました。そういう授業改善を始めてしばらく経った時、授業中に何のテーマか忘れたのですが受講生の意見を聞くことにして、手が上がらないので指名して発言させました。どういう発言だったかこれまた覚えていないのですが、発言を聞いた上で、その受講生の意見とは違う立場から私の意見を述べました。発言した受講生の感想文を授業後に読んで驚いたのですが、その受講生は、言いたいわけじゃないのに指名されてしかたなく意見を述べたら、万座の場でそれを私に否定されたと受け止めて、いたく傷ついたようです。私としては、意見を言わせて「はい、わかりました」だけではせっかく発言してくれたのに失礼と考えてコメントしたのですが、それをその受講生は万座の前で恥をかかされたと捉えたようです。これ以降私は、数十人の教室で誰か個人に発言させることにやや臆病になり、グループ討論やディベートのような型のあるディスカッションを導入する方向で授業改善を続けていきました。
 私は「正解」を用意しておいて討論させたわけではなく、その点は上記の佐貫の状況設定とは違いますが、件の受講生から見れば、自分は「手を挙げて発言」したわけじゃないのに、教師が求めているであろう答え「に照らして」、「自分のそれが正しいかどうかが点検される危うい立場に自分をさらす行為」を強制されたということになるわけです。
 これ以降の三重大学での授業で、私は指名して発言させることはほとんど行なわず、挙手による自発的発言を求めましたが、発言が出ることは少なかったです。これは、(私が「正解」を要求していたわけではないことが佐貫の設定とは違いますが)「積極的に発言することは、自分の優越性を誇示したり、教師にこびる行為であるという他者からの眼差しを受けるのではないかとも考え、沈黙こそがそういう教室空間における安全のための戦略として選び取られてきた」ということなのでしょう。
 ただ、2つの例外がありました。
 ひとつは、挙手による自発的発言に対して何ポイントかの日常点を付与すると予め宣言した時です(もちろんそれでも発言が出ないこともありましたが)。これはおもしろい現象です。発言した受講生には、決して口に出しては言わないけれども、周りの学生に対して「そうなんさ、俺はポイントがほしいから発言したんやに」と言わんばかりの偽悪的なポーズがあったんじゃないかと推測します。もちろん発言内容は点取り目当ての軽薄なものではなかったと思うのですが、そういう「なんちゃって」みたいなポーズを取ることで発言しやすくなる、ということがあるんじゃないでしょうか。
 もうひとつは、ディベートの時です。フォーマットという明確な発言プログラムと制限時間がありながら、自分(たち)の番になってもなかなか発言が始まらないこともあります。ところが、最後に勝敗の判定が行なわれるゲームであるためか、だんだん熱が入ってきて、自由討論では考えられないくらいに相手を強く批判したり自分の正しさを主張する学生も出てきたのです。「自分の意見は間違ってないか?」とか「いいかっこしてると見られないか?」というためらいよりも、ディベートというゲームに勝ちたいという意欲が勝つ場合もあるんだと思います。
 上記二つの「例外」は、集団の中で自己の主張を積極的に行なうようになる道筋としては、あるいは邪道かもしれません。ただ、発言した学生にインタビューしたわけではありませんが、数十人の授業の場で自発的に発言したという経験自体は、その学生の自己表現と他者との交流の歴史において、次へのささやかな一歩にはなるのではないかと思います。 大学の授業での集団は小中高の学級とは違い、「そこで生活している」という意識を持つ構成員はいないだろうし、そういう場をこだわりなく自由な意見表明、意見交流の場にするというのは、絵空事に過ぎないかもしれません。ただそれでも、「この授業では自分がまじめに意見表明したらまじめに受け止めてもらえる」と感じる受講生が一人でも増えるように、大学教員としての残りわずかな期間も努力を続けたいと思っています。



 二 アクティブ・ラーニングの定義をめぐって
  (2)「表現」と「認知プロセスの外化」との違い


「とりあえず、学習に関わって『表現』は4つの意味をもつことを指摘しておこう。
 第一に、表現は、自分の認識を意識化し、学習空間に参加していくためのに不可欠である。(中略)
 第二に、表現は学習空間において、他者と交流する方法であり、表現を介することによって共同的学びが成立する。そのためには、表現の自由が保障されていなければならない。(中略)
 第三に、表現は、知識や科学の成果を自分のなかで使いこなし応用し、新しい価値を生み出していく過程である。すなわち創造の方法であり過程でもある。(中略)
 第四に、表現は新しい自分の創造であり、新しい自分と自分の創造物を他者との関係のなかに投げ入れることによる関係の作り直しであり、参加の過程でもある。(中略)
 だからこそ、アクティブな学習は、『表現』を不可欠とする。表現は、①自分自身の思考の意識的対象化、②集団的な思考の方法、③新たな思考の形成と創造の方法、④参加の方法、自己と世界との関係の組み替え(自己の主体性の再構築)の方法と過程である。ところが、『認知プロセスの外化』にいう『外化』概念は、この表現の性格をもつものとは把握されておらず、表現とは性格を異にするものとなっている。
 第一に、主体的表現は、全体的構造をもつ(ホリスティックな)ものである。それは内的に意欲され、自分を再構成し、世界に働きかけていく過程の不可分の一環としての行為であり、その結果としての表現物は作品としての性格をもつ。しかしその表現にいたるアクティブな認識活動の内的過程の途中の要素的動き、変化が、すべて意識的な表現として『外化』されるのかどうか。(中略)
 第二に、そうだとするならば、真に表現されるものと、評価されるゆえに意識的に『外化』(表出)しなければならないものとの間に、矛盾と分断が起こるということはないか。(中略)
 第三に、果たして個性的な(すべての思考過程は本格的であればあるほど個性的となる)思考過程の構造的変容のプロセスを、一般的な思考過程に対応して求められるべき『外化』の基準にしたがってとらえることは可能なのか。(中略)子どもの内面に存在する能動性の源泉--すなわち固有の困難や矛盾の意識、認識の歪み、課題意識、生活意識の矛盾、さらには子どもの心の閉塞や自信喪失、混乱、等々を教師が読み取り、その課題に共に取り組む学習を創り出していくような子ども把握、学習の課題把握が必要ではないか。(中略)
 第四に、アクティブな学びは、その物事の本質に迫るという性格をもたなければならない。本質に迫りえない表面的、外形的なアクティブさは、真にディープな思考につながらない。(中略)コンピテンシー・ベースとは、汎用的能力の形成を中心目標に置くということである。応用力、表現力、概念形成力、等々。しかしコンピテンシーは、具体的な目標に向けての学習に主導されて―すなわち、意欲や目的をもち、その目的追求の情熱や喜びや意味に主導され、現実の課題と挌闘する生きる力という人格に統合された全体性のなかで―意欲的に獲得されるものだろう。その全体性、人格的主体性から個々のコンピテンシー形成を切り離さないことが肝要である。
 第五に、『外化』の性格の理解は、アクティブ・ラーニングとパフォーマンス評価との結びつきをどう考えるのかについての課題に繋がる。今までの検討結果からすれば、学びのアクティブさは、そもそも最終的には、結果として到達した認識や作品、表現物等々に照らして評価すべきものである。そのことは、学習のプロセスにおけるパフォーマンス評価が、最も本質的な意味で『形成的評価』であることを求める。『形成的評価』とは、子どもの学習活動を支え、励まし、組み替え、より質の高い思考活動に変えていく援助であり、それ自体を『評定』として生徒の学力としてラベル化するような性質のものではない。(中略)表現とは、常に人格的な諸要素の統合された全体性を保っている。そこには意思があり、意欲があり、目的が意識されており、表現が他者への人格的な働きかけであることが自覚されており、その人格的主体性のなかに思考活動が組み込まれていくという性格をもつ。そのどれが欠けても深い表現は成り立たない。(中略)
 アクティブな学習は、目の前の固有名詞をもつ個々の子どもがアクティブに生きるためには何が必要かという課題の把握をセットにして構想されなければならない。(中略)
 以上に指摘したことを最初に述べた学習のアクティブさの二つの層の関係に即してとらえ直してみるならば、『外化』が第一の層における概念形成等に限定された学習モデルとの対応関係で把握されているために、現実の人間の思考が含んでいる知識獲得や概念形成における人格的要素の個性的な展開がそこから取り除かれたモデルになっているのではないかと思われる。そのことが『外化』形態をモデル化して学習を『整形』するアクティブラーニング論と、『表現』の多様性を視野においたアクティブな学習論との違いを生み出しているのではないだろうか。」(P.131-138)


  (3)アクティブな学習と「メタ認知」の性格について 

「自己の思考や態度の社会による規定性を批判的に対象化することにおいて、はじめて、自己の認知を批判的に認知(メタ認知)することができる。生きている社会を対象化し、歴史的課題を自己発見する社会認識の形成が、自己の思考や価値意識を批判的に吟味し、自己の学習意欲を主体的に形成し、自己の到達点や態度を、そのような社会的、歴史的、人類的な課題や実践に照らして評価する『メタ認知』の視点(自己形成的視点)を生み出す。例示的に言えば、キャリア教育が、グローバル競争をになう『人材育成』に適応する自己のプログラム化へと閉塞させられるか、職業参加を通して自己実現していく全体戦略--非人間化された雇用の人間化の課題を含んで--を構想する主体形成へと向かう批判的『メタ認知』へと進むのかが分岐する。」(P.140)


 三 アクティブ・ラーニングの独特の危うさ

「今回の『資質・能力』規定を盛り込んだ新学習指導要領は、2006年の教基法改定によって新たに書き込まれた『資質』規定(教基法第1条)と教育の目標規定(第2条)に基づいて、単に教える知識内容へのコントロールを超えて、人格のありようをも教育の目標規定に読み込み、授業過程をもその視点から管理する公教育統制へと進もうとしている。そしてそういう人格と価値意識に基づく人格形成を、2000年代に入って構築されてきたPDCAと目標管理システム、教育内容と方法に及ぶ評価システムの土俵の上で展開するための理論の再構築が目指されている。」(P.141-142)

「最後に付け加えておこう。日本には多くのアクティブな思考や学習を生み出す授業方法や理論がすでに開発されてきた。(中略)そして何よりも重要なことは、これらの遺産や成果を受け継ぎつつ自由な教育実践の試行錯誤を展開する自由の不可欠性である。それなくして、今日の子どもの現実に即したアクティブな学びの開発は展開しない。その自由を剥奪する教育行政が、アクティブな学習を形式として強制しようとするところに根本的な矛盾がある。」(P.142-143)


第5章 評価の「権力化」「肥大化」のメカニズムと人格への評価--「関心・意欲・態度」評価の問題性
 一 評価の二重性


「教師が行う評価とは、子どもに向かう評価行為だけでなく、上から下ろされる教育目標や教育内容に対して、それが本来の子どもの発達にとって望ましいかどうかをも検証し、子どもが突き出す発達課題に応じて教育目標や方法自体を組み替えるという、[佐藤註・以下17文字に傍点]教師の教育実践に再帰的に向かう評価をも含む。 」(P.146)


 三 教育実践における「態度」評価の位置―子どもに寄り添う評価との関係について

「教師による評価は、単に教育内容の獲得の知的認識のプロセスに止まらず、学習者の側に獲得されている認識の構造、思考の方法、判断様式、価値意識、さらに問題関心や意欲、生活意識や生活経験などが新しい教育内容の習得、それによる新しい認識や思考の獲得にとってどう作用するか―助けているのか障害となっているのか、学習にどんな効果を及ぼしているのかなど―をも評価する。そういう意味で新しい認識や思考能力の獲得にとって、『関心・意欲・態度』がどう働いているかを評価する。さらに、学習によって獲得された知識や認識、方法の獲得が、『関心・意欲・態度』を発展され、生活自体の組み替えにつながっていくように指導を工夫する。」(P.149-150)

「人が人を支えるとき、支えようとする人間は、援助・指導の対象となるその人の人格がどういう状況にあるにか、支えるためにはどうすればよいのかという視点で、その人格のなかにある困難や矛盾の質をとらえようとする。そしてどう働きかければよいのかを分析し、働きかけの実践をプログラムする。そして実践を試み、再度その実践の結果を評価する。その際人格を教師の判断や意図にしたがって方向づけるような仕方ではなく、子ども自身が自分の人格に向かい合い、意識化し、主体性を回復するような仕方によって、働きかける。そしてそのような評価が許容され、子どもに受け入れられるのは、教師が、自分の成長を望み、自分の人間としての尊厳を守る構えをもっているという信頼のなかにおいてであろう。それは、その[佐藤註・以下22文字に傍点]子どもの生活現実や内面の思いに寄り添うために―そのための教師の支援のあり方を構想するために--こそ行なわれる評価である。その意味でそれは、[佐藤註・以下7文字に傍点]ほとんど純粋に形成的評価であることによって、受け入れられ、許容されるものである。
 だからその評価は、子どもへの働きかけと分離され、そこから独立して、一定の外的基準に照らした人間に対する価値的な評定として機能させられてはならないものなのである。教育実践過程は不可避的に『関心・意欲・態度』評価を含んでいるとしても、それを『評定』化してはならないというべきであろう。この評価が『評定』化され、ましてや数値化され、さらにその観点別評価を合算または平均して、総合の『評定』が出され、さらにそれが入試の内申点、配分的評価として機能させられるようなことは許されないのである。」(P.150-151)


 四 中内敏夫の評価論について

「ここで考えておく必要があることは、中内の『一元論』に立つならば、教育実践において、人格と学力の関係を問うことが退けられるという点である。氏のいう『一元論』に立って態度を知識の習得の発展段階としての『習熟』段階において子どもが獲得する質と規定すれば、論理的には矛盾がないように処理できるとしても、また『学力は、その最大限に共通する部分を探し、その共通部分のひとつひとつを足場にして、構築される能力の体系』(『中内敏夫著作集Ⅰ』116頁)であり、その『習熟』段階の質が『態度』に組み込まれるとしても、その『習熟』が知の個性化をもたらし、個に即した固有の『態度』を与えるには、子どもの側の何らかの『個性』を前提とせざるをえないのではないか。そしてそれは、一人ひとりの関心であり、課題への態度であり、その生活史的な蓄積を通して形成されてきた既習得の概念に結晶した価値と認識の結合体の個性的差異であり、固有の生活意識なのではないか。そもそも学習の場に全く『目的』や『態度』をもたない―その意味で『空白』な―学習者を前提とし、『目的』や『態度』は教育内容を学習することで初めて生まれる<taught outcome>であるとすることは、子どもの実態にそぐわない。同じ教育内容や到達目標の『習熟』が、個々の学習者のなかでそれぞれ異なった『個性化』へと展開していくメカニズムが、そういう把握では解明できないのではないか。」(P.156)


 五 評価の肥大化ではなく子どもに寄り添う指導を

「なぜ子どもの学習が進まないかと考えるとき、その教科学習に直接結びついた(「教科内在的な」)子どもの生活的認識や『関心・意欲・態度』のありように教師の目(評価の目)が向かわざるをえない。さらにそこに止まらず、(『教科外在的』な)日常の生活実態や家庭の貧困の実態や、そこでの生活態度のあり方にも教師の関心が向かい、その改善をも教育実践の課題として位置づける。その意味で教師の教育実践と評価行為は、単に教育内容編成や教育方法の改善に向かうだけではなく、子どもの態度にも向かう。しかし、教師が子どもに働きかける教育実践を構成するためにそのような『評価』(子どもをつかむこと)が求められているとしても、子どもにとって何よりも重要なことは、それ自体が目的と価値をもった自分の生活や学習の過程を生きることであり、そこでの子どもの活動を主導する目的や関心・意欲は、決して、教師の側が自分の実践を組み立てるための目標や到達目標によって、さらには教師が子どもの発達方向を予定しそれへの到達度を測る評価基準によって、すなわちあらかじめ設定された『目標』に沿って、『目標に準拠した評価』に主導されて、呼び起こされるものではない。」(P.159)


Ⅲ 生きることと学力
 第6章 「知識基盤社会論」批判--労働の未来像と能力・学力の価値について


 ⇒T.Satou:「知識基盤社会論」については、最近入手した佐貫浩『「知識基盤社会」論批判 学力・教育の未来像』(花伝社 2020)をいずれ読む際に、改めて学びを深めたいと考えており、ここでの引用は以下の一箇所にとどめます。


 四 学力論と「知識基盤社会論」―まとめとして

「実は、人間の労働能力が―すべての子どものもつ能力・学力が―、その学力到達度にかかわらず、すべて重要で、貴重な働き―社会的な貢献、社会の共同を支える作用―を担うことができ、かけがえのないものであるということを、子どもたちに伝えることはできないのだろうか。いやそこに止まらず、経済においてもそういう労働の価値―[佐藤註・以下6文字に傍点]すべての人間の労働の価値―が実現されるような仕組みを生み出すことはできないのだろうか。教師が、[佐藤註・以下7文字に傍点]すべての子どもの 人間としての尊厳の実現を願うならば、労働の場においてもすべての子どもの労働が、労働を遂行していく力としての能力・学力が、かけがえのないものであり、人間の尊厳を指させるものとして機能することを求めるのではないだろうか。学力論をそこのところまでつなげることが必要ではないか。」(P.188)


第7章 学力と道徳性、主権者性―新自由主義と政治教育の関係を考える

 ⇒T.Satou:この章は、『教育』佐貫論文で言及されていたため本書で最初に読んだのですが、自分の関心との接点が意識できたのは章末の以下の部分まで来てからでした。


 五 主権者教育の方法--ホモ・ポリティクスの方法と力の回復
  (1)「表現」の転換

「競争と自己責任の土俵では、力とは個人としてサバイバルする『個人力』であり、社会的エンパワーメントをもたらすはずの学習過程が、競争過程となることで、多くの子どもに無力感、自信喪失を押しつけるものとなっている。いじめ空間は、正義の力(人間の平和的な力、人権によって創り出される力)への無力感を押しつけ、支配的な権力への屈服や自己の正義を主張することへの断念、『表現の自由』の断念を強制している。また一緒に生きられる他者の発見、『共同の力』の発見という経験が競争と孤立のなかで奪われ、多くの子どもに不安と無力感を押しつけている。
 新自由主義の空間におけるホモ・エコノミクス化は、その空間の支配と競争の論理の『主体的』な受容を意味し、空間(社会)の論理や矛盾の批判主体になることを断念させる。自己責任意識の押しつけは、社会批判への思考のベクトルを閉ざし、格差・貧困を受容させ、弱者としての立場に置かれたものの自己表現を閉じさせる。自己の感覚を『恥ずかしいこと』、『弱者性』の表れととらえさせる圧力によって、自らの真実を表現することを封殺され、、『平気』を装おうとする。それがさらに孤立と孤独を増幅させる。そして『表現』は、他者からの排除を恐れ、自己の居場所を確保するための『戦略的表現』(ユルゲン・ハーバーマス)へと歪められる。その意味では、表現から、ホモ・ポリティクスの方法(力)が奪われている。」(P.209-210)

「『戦略的表現』とは、ここでいわれる『妥当要求』をその表現から削り落とし、表現によって争われる権力ゲームのなかで、自分の位置を確保するために有利なメッセージ(考え、態度、位置取り、主張、他者への評価、等々)を組み込み、それを他者、論争相手、自分を取り囲む空間に投げこむ行為を意味する。だからそれは、自らがもち、主張し、他者に働きかけたいと思う価値内容を、『正当性』『真理性』『誠実性』を背負い、他者の『批判可能な妥当要求』に応答できる形で提示するという、いわば自分自身の真実に価値的根拠をおいた表現--まさにその意味において『誠実性』がそこに込められるのであるが--を断念したものとなる。そこで選ばれる戦略的な価値内容は、自分を取り囲む状況判断から、自分にとって有利なものを選び取って、それを仮装した自分を関係のなかに投入し、サバイバル可能な位置を確保する方法となる。それはいわば支配と被支配の暴力的力学のなかに自分を位置づけ、有利にサバイバルするための位置を状況の巻数として選び取るものとなる。それは確かに政治の一つの方法ではあるが、真性の表現を断念し、剝き出しの暴力的力学空間におけるサバイバルのための方法へ後退したものとなる。
 表現がそのように歪められているとするならば、私たちは表現を人権と民主主義の規範に依拠して、自己の要求を主張するものへと組み替えていく必要がある。同時に、公共性を作りあげることができるコミュニケイション規範を組み込み、合意を形成していくプロセスを生み出していく必要がある。それは政治の空間における議論の規範そのものとなる。もちろん、今まで述べてきたように、その土台には、一人ひとりから人間的真実としての思いを共感的に引き出すケア的関係性が丁寧に組み込まれる必要がある。」(P.210-211)


  (2)憲法学習に即して

「憲法には、人類が、命と人間の尊厳を守るための長い、幾多の苦闘のなかから見いだしてきた人間的正義、社会的正義が書き込まれ、権利として保障され、すべての人間に―だから当然自分たちにも―その権利が保障されることを宣言したものであることが、今まさに命をかけるほどの苦悩や自分の存在を呪うほどの絶望に置かれた子どもたちに伝えられていない。
 憲法がそういうものであることを子どもたちに知らせることに、大人や教師が失敗している。それは子どもたちが勉強しないから、憲法を理解する力がないからか。全くそうではない。子どもたちの現実とは無関係に、権利や憲法を、ただ知識として教えても、この現状は克服できない。教師が、現実をおかしいと考えなければ、ことは始まらない。いや、教師だけがそう考えても物事は変わらない。現状をおかしいと思い、なぜかと考え、最後には許せないと考える主体的な思考が、子どもたち自身のなかにも立ち上がってこなければならない。ところが、率直に言って、多くの教師のメッセージは、もちろん善意からではあるとしても、目の前の競争に落ちこぼれないように子どもの頑張りを引き出そうとして、結局は個人として競争する力を高め強くなることでこの事態を切り抜けさせようとする。そしてそのために、今、子どもたちをとらえて生きられなくしている状況に対する人間的批判の目を育てることが忘れられていく。憲法で生きる視点、すなわち『ホモ・ポリティクス』としての方法に依拠して、しかもその方法を憲法規範という高みで使いこなして生きるという視点を拓くことなく、自己責任で、自分の能力と学力で困難を切り拓かなければならないのだ、この社会は競争社会であり、強くならなければだめなのだと『ホモ・エコノミクス』として生きることを叱咤激励する。
 そこに、子どもたちは、教師の側の、あるいは大人の側の、憲法的生き方が建前に止まっていること、憲法的規範で生きることへの断念を感じ取る。格差や貧困に対して、高い学力を獲得して競争に勝つことで対処しなければならないという、大人の側の『生き方』の本音が、子どもに見え透いてしまう。だとすると、憲法学習が必要なのは大人や教師の側ではないか。教師が、子どもに押しつけているサバイバルの方法では、子どもたちは人間として生きられないということに気がつかなければならない。大人たちが憲法規範に依拠して人間として誇りをもって、生存権保障を支えにして、堂々とたくましく生きようとしている姿―大人の行動や態度からあふれ出る憲法規範―から、憲法への信頼を感じるということがなくなっているのではないか。本当に憲法的正義によって生きようとする教師や大人の生き方、社会をそのように作り替えようとする教師や大人の構えが子どもに伝わるときに、子どものなかに、憲法の本当の価値が見え、憲法に依拠して、憲法の方法に依拠して生きようとする構えが生み出さされるのではないか。今こそ、困難のなかにある人たち、子どもたちが、自分の権利を主張する認識と力をエンパワーするものとして、憲法をとらえることが必要ではないか。」(P.212-214)

 ⇒T.Satou:目から鱗が落ちるとはこのことです。幼小中高大と京都で生活する中で、府庁舎の垂れ幕や蜷川虎三知事の言葉として何度も見聞きしてきた「憲法を暮らしの中に生かそう」という標語。これを教育の世界から照射するとまさに佐貫氏の言われる通りだと思います。
 これまで教育課程論の授業で取り上げてきたhidden curriculum。どちらかというと児童生徒と教師、あるいは児童生徒間のさぐりあい、生き残りルールのような範囲で捉えていました。また、自分としては素人の分野ながら、日本の学校の道徳教育が成功しないのは、声高に道徳を説く政治家が金にまみれ、不道徳さをさらけ出しているからだ、という認識は持っていました。しかしその政治家をさまざまの思いで眺める一般国民、特に教師や親の行動様式、思考様式を間に置き、子どもの日常とそれに隣接する大人の世界、そして国の政治状況を繋いで、串刺しにしてとらえる発想を持っていませんでした。
 ただ、……難しいですね。知識として形式的に憲法を教えても、教師や大人たちが憲法理念を体現すべく真摯に生活し行動していなければ、子どもたちは大人の建前を見抜くし、憲法で人権を学んでも自分の周りの暗黒のいじめ世界ではそんな理念は通用しないと悟ってしまう。子どもたちをエンパワーする大人の行動が重要なのですが、残念なことに大人たちの中にエンパワーする側に立つ者が少数しかいない。少数であってもその存在は貴重なのですが、いつまでも少数であること、あるいは特に子どもたちの側からはその存在が見えてもいない場合が多いとすれば、自分を取り巻く世界を何らかの意味で変えたい、返られる、変えようという意識を持てる子どもが奇跡的に?表れても少数にとどまり、やがて諦めて現状に埋没してしまうのではないか……。
 佐貫氏は、そうであってはならないのだということを鋭く指摘しているのですが、そうした現状を変えていけるという現実的可能性までは示していないのではないかとも思います。もちろんそれは、佐貫氏一人に課せられた課題ではないのですが。



第8章 「憲法改正論争事態」における学校教育の責務を考える--公教育の本質に立ち返って
 二 「憲法改正論争事態」における教育のあり方


「普段の学習では、子どもは、すでに大人世界で到達され、蓄積された成果を学ぶという感覚が支配的であるが、『憲法改正論争事態』では、大人たちと同じ社会選択の最前線に並び、大人たちとともに憲法改正のあり方を選択、決定する課題に挑戦する。」(P.221)


 三 教師の二つの立ち位置の統一という課題

「それまでに作られてきた授業空間が『正解伝達空間』という性格(ヒドゥン・カリキュラム)を強力に埋め込んだままに放置されているならば、生徒たちはそういう評価、考え方が『正解』なのだと受けとめるという性格がより強まるだろう。しかしまた、だからといって、そういうことを教材とすることを避けるならば、逆に、公教育としての責任を放棄することにもなるのではないか。では一体どうすればよいのか。
 その難問を克服するには、この『憲法改正論争事態』という論争空間を、[佐藤註・以下4文字に傍点]そのまま教室に導入するという構えが不可欠となる。そこでは、教師も生徒と同じひとりの『憲法改正権』を担った市民として、憲法規定の改正問題に向かって思考する対等な学習者という立ち位置を取ることになる。そして教師は、生徒の主体的な判断力を高めるためにこそ、アドバイスし支援するという構えを貫くことが求められる。その学習空間は、『正解』がない空間、個々人の判断力を高めていくために必要な知識や今までの到達点をしっかり批判的に学んでいく空間であるというその教室の性格を、教師だけではなく、生徒自身も明確に自覚した状態を作り出すことが不可欠となる。そのためには、まず、教室の学習空間の性格を作り替えるということ必要となる。」(P.224-225)


 四 価値を継承する学習空間の性格

「もう一つは、この学習空間の基本的性格にそって生徒の学習行為が展開するための『習熟』が必要になるという点である。習熟を言うのは、生徒に身についてしまった『正解伝達空間』に適応的な行動様式--正解をただ覚える学習行動、自分の考えの表現をシュリンクする態度、教師が『正解』を掌握しているという感覚、多様な考えなど存在しないという感覚、等々--を打ち破っていくために、身についた学習習慣を打破する努力、これらの『常識』を転換する日常的で継続的な努力、スキルが必要だということである。習熟とは、具体的には、討論型授業づくり、生徒の表現・発表の常態化、教師の生徒への応答の様式の組み替え--たとえば教師の『質問』とそれに対する生徒からの『正解』の応答というセットではない様式--、学習空間の性格について『決めるのは君たち自身だ』という[佐藤註・以下2文字に傍点]宣言』を機会あるごとに繰り返すこと、などだろう。そしてその習熟により改造された学習空間に、対立的論争の形を保持したままで争点を提供し、あわせて『憲法改正主体』に必要な知識や理解を学問の到達点として、学習課題として--批判可能なものとして、と付け加えておこう--提供することであり、その上で、究極的には生徒の学習力と判断力を信頼して、その力に任せることではないか。」(P.228-229)


 五 補足

「(5)もう一つ指摘しておくべきことがある。18歳選挙権の実現に際して、高校生の政治教育が中心的に議論された。それはそれで必要な事柄ではある。しかし実は、日本の国民の政治参加、主権者性を高める上では、何よりも大学教育と大学生の間における政治についての議論こそが決定的な意味--あえてここでは決定的といいたい--をもっているのではないか。しかも、大学教育の場は、もっと本格的に政治を対象化することができるはずの場である。そのための学問の自由、知的探究の自由、教え込みから解放された主体的な探究が可能であるはずの場であろう。大学教員は、自分の考えを、学問的探究者の責任において学生に語り、学生と自由な議論をすることが、より可能であろう。そう考えるならば、18歳選挙権という条件をも生かして、日本の若者の世界における新たな政治を立ち上げ、『憲法改正論争事態』に対して、主権者の声や態度を引き出す責任を、何よりも大学と大学教員こそが、背負うべきではないか。大学において、主権者意識、政治への主権者的関心がこれほどに立ち上がりにくい事態にこそ、今日の政治の危機の深さが示されている。そのような問題関心を含んで、本論で使用してきた『生徒』という言葉は、大学生や若者を含んだものとして、読み取ってほしい。」(P.232)


第9章 学力の意味の喪失とその回復のすじ道--「あること」<to be>と「もつこと」<to have>の様式と学力
 三 haveとbeの対抗


「本田由紀は、今日の能力主義を『ハイパー・メリトクラシー』と特徴づけた。本田によるとそれは、『個々人の機能的有用性を構成する諸要素の中で、一定の手続きによって切り取られる限定的な一部分だけではなく、人間存在のより全体、ないし深部にまで及ぶ』ところの『業績主義』である。客観化された一定の能力--特定の知識や技能、専門性など--を指標とする能力主義を近代型メリトクラシーであるとすると、このハイパー・メリトクラシーは、『多様性・新奇性』、『意欲、創造性』、『個別性、個性』、『能動性』、『ネットワーク形成力、交渉力』等をその内容的な特徴とし、人格と個性の実現の過程と不可分な形で発揮される『能力』あるいは『性格』に基づくメリトクラシーである。それは人格まるごとを労働力商品の価値という視点から規定する。労働の感情労働的な側面が拡大するなかで、明るさや好感度、さらには笑顔までもが―すなわち直接的な人格的力量や性格までもが、労働力商品としての視点でもって査定されるようになる。
 実はそれは、土井隆義の指摘するいじめと孤立の恐怖を生き抜く『優しい関係』の演出、そのための『優しさの技法』と通じた世界でもある。中西新太郎は、そういう外からの『価値評価をきっちりと個人別に当てられてしまう』空間で表される『明るい』『やさしい』『おとなしい』などという性格の表れは、すでに彼ら自身の『性格特性を正しく反映したもの』とは異なって、他者の評価に合わせて意図的に演じられたものとなっているとして、『自主性』や『積極性』というような本来は人格そのものの有り様の表出と考えられてきたようなものまでもが、『意味を変容』させていると指摘している。べつの言い方をすれば、そういう人格の核心に結びついた情動的な部分までもが、労働力商品の価値として他者からの評価に曝されることで、いわば二重人格的な分裂と乖離状態のまま、その場に合わせて多様な人格を演じ分けなければならない状況に置かれているのである。それは人格それ自体の商品化が引き起こす人格の人格自身からの乖離を意味する。」(P.238-239)


 四 「個性」概念の歪みと転換

「『存在の独自性による個性』と『差異としての個性』との対抗は、フロムの<to be>と<to have>の様式に対応したものとなる。個性の存在論的規定においては、個性の核心は、自分が自分の存在の固有性を実現するために学び、生き、働き、活動しているという自己の存在のかけがえのなさ、固有性そのものにある。この規定においては、人間としての個人の存在そのものが個性を担っているのであり、その存在が所有している個々の特性、能力等々が、その存在に個性を与えているわけではない。それらの諸特性や諸能力は、その個の存在を現実化する力として働くことを通して、はじめて個性を支える力となる。諸能力がその存在の内実を豊かにすることとして働き、その存在の固有性に統合されている限りにおいて、諸能力、諸特性は、個性を担っているということができる。さらにいえば、そのような存在の独自性を担うのは、その個人の固有性の核となる目的意識、関心、意欲、そしてそれらを成り立たせている歴史的、社会的諸関係のなかでのその存在の独自性、代替不可能という意味での固有性である。その意味で、個性とは、個々人が自然や社会に対して関心や態度を発達させつつ生きていく過程の独自性そのもの、その軌跡の独自性の積分されたもののことであると規定することができる。この規定はフロムの『ある様式』に即した個性規定である。それに対して、現代において支配的な個性概念は、差異を個性と規定するものである。しかしこの規定は大きな問題性を抱えている。差異が個性であると認定することは、その差異が他者より優れていること、あるいは少なくとも劣らないことを前提とせざるをえない。したがって、この様式における個性化の教育とは、能力と性格の特徴を競いあう教育と同義とならざるをえない。そのような個性概念は、強者にのみプラスの感覚で実感され得るものだろう。優れた差異的能力の所有が個性であるとするならば、個性は多様化された能力競争のなかで他者に勝つことによって証明されなければならない。それは弱者に個性はないということでもある。さらにまた、この個性の規定は、資本主義的生産様式において、個が所有する学力や能力を労働力商品として労働力市場で競争させる場に適合的な個性概念--個性的な能力をもたないものは役立たない--である。そこでは、個性の内実は、個々人の内部からではなく、ある性格や能力への要求として外部から、資本から提示される。外から提示されたタイプや能力要求へ自己を適合させ、演出する力が欠けている時、個性がないということになる。その結果、個性は自分自身によってではなく、他者の評価によって規定されるものとなる。その論理によって、個性は、個の存在との関連をますます断たれざるをえなくなる。したがって、この規定は、その『差異』を所有している人格と切り離して、あるいはその人格の存在様式と切り離して、個性を規定するという性格をもつ。そこには、個々人をかけがえのない一人の独立した人格とみなし、それぞれの人間としての自己表現を達成させるという課題意識は、組み込まれていない。差異=個性は所有物によって与えられている性格となり、個性化とはその所有物をより価値の高いもの(市場の要求に適合するもの)へと形成することであると見なされる(佐貫浩「個性論ノート②」前出『生涯学習とキャリアデザイン』第3巻、参照)。」(P.248)

 ⇒T.Satou:後半の「差異=個性」論批判に同意できません(但し、すぐ上の引用末尾で紹介されている佐貫「個性論ノート」を私は読むことができていないため、本書中の佐貫の主張を読んだ範囲での理解に基づく意見ですが)。
 前半の《
個性の核心=自己という存在のかけがえのなさ》、《人間としての個人の存在そのものが個性を担っている》という思想には深く共感します。そこにいるというだけでいとおしい、かけがえのないものとして人間を、個性を捉えるという思想。これは「思想」だと思います。もちろんわが子に対する親の感情、意識などにはそれが自然に備わっていて意識的に形成された思想ではないかもしれません。しかし社会一般で見れば、それは深く豊かな人間賛歌の思想ではあっても、残念ながら万人、どころか多数の人に共有されているわけではない一つの思想だと思います。
 一方、「個性=差異」という把握を、佐貫は強者の把握であり能力競争に勝利することでしか証明されず、資本主義社会で売りにできる商品であり、人格と切り離された個性の規定だと厳しく批判します。現実の資本主義社会において人間の個性がそのように利用されていることはよくわかっているつもりですが、しかし私は佐貫が「個性=差異」論批判の行論の最初に書いていること=「差異が個性であると認定することは、その差異が他者より優れていること、あるいは少なくとも劣らないことを前提とせざるをえない」という断定に納得できないのです。
 大好きな金子みすゞの詩の一節を恣意的に引用する俗論にはあまり与したくないのですが、「みんなちがって、みんないい」(「わたしと小鳥とすずと」)というフレーズを、(おそらく、良心的な人間観を持ちたいと願っているであろう人たちが)よく引用するのはなぜか? 人がそれぞれみんな違う、ということを認めない人はおそらくごく少数でしょう。人には差異がある。しかしそこからすぐにすべての人が「AさんとBさんとCさんは違っていて、比較するとAさんが1番、Bさんが2番、Cさんが3番」と順位をつけることで「あの人はこういう人」という個性認識を得て落ち着くでしょうか? おそらくその思考様式を当然と見なす人たちもこの世の中には多数いるでしょう。だけど、「みんなちがって、1・2・3位」じゃなくて、「みんなちがって、みんないい」=違った存在であることにそれぞれの良さがある(=それは相互比較して優劣をつけるものではない)と考える人たちも世の中にいると思うのです。そして、私見ですが、こちらからの《個性へのアプローチ》の方が、実生活の経験をベースにして構想しやすいのではないかと思います。
 互いに違った存在であること自体にその人の良さがあるという考え方と、人はその人であること自体に存在価値があるという考え方は、紙一重であると思います。前者の考え方だけを、それは資本主義競争に巻き込まれた捉え方だとして否定することには私は納得できません。仮にそうである(資本主義競争に毒された考え方である)としても、差異=順位として価値づけるものの見方から順位などないんだという考え方に移っていくとしたら(それはなかなか起こり難いことではあるとは思いますが)、それはそれですごい自己変革じゃないでしょうか。


 さて、冒頭に書いたように、私が本書を読みながら、なるほどと思った箇所(黄色ラインを引いた部分)全体ではなくてその中でも特別に(私自身にとって)重要だと考えたところ(青色ラインを引いた部分)だけでも、A4用紙にして30ページを越える膨大な量になってしまいました。

 最後に、ここまでの本書ページに沿っての引用に加えて、もう一つだけやっておきたいことがあります。それは、佐貫が本書中で「生きる力」について言及している部分を取り上げることです。
 私は、拙著『「生きる力」論批判』(2019)「Ⅴ.「生きる力」に関する先行研究 Ⅴ-10.(2009.2.20)佐貫浩による「生きる力」理念への徹底批判」で、節のタイトルが示すように「生きる力」理念へのもっとも徹底した批判的研究として佐貫の論文を取り上げています。すごく長くなって恐縮ですが、全文を引用します。
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佐貫浩(2010年から教育科学研究会委員長)は,1996/2008年中教審答申の「生きる力」という目標設定自体に対する根底的批判を,著書『学力と新自由主義 「自己責任」から「共に生きる」学力へ』(大月書店 2009.2.20)の中で以下のように展開している。

 新学習指導要領(=2008-09 年版-引用者註)は,「生きる力」の理念で全体が統合されている。しかし実は,この理念は,[佐藤註・以下16文字に傍点]子どもを人間として生きさせる理念としてではなく,グローバルに展開する資本が勝ち残るために必要な人間の能力を「生きる力」として把握し,そういう能力を獲得させる効率的な教育訓練プログラムを,「人間力」形成という名で求めている。決して[佐藤註・以下12文字に傍点]個々の子どもが生きることではなく,その子どもがいかなる「能力」を所有しているかということに関心が集中され,そしてそこに関心は[佐藤註・以下7文字に傍点]限定されている。このような教育課程理念に沿って出現する学校空間は,要素化された「生きる力」を競いあう激しい競争的学力訓練場であり,多くの子どもがますます生きられない空間となり,「生きる力」の足りない子どもが切り捨てられることになる。これほどに「生きる力」という言葉がちりばめられているのに,子どもが生きられない現実,まさに子どもの人間的危機と呼ぶべき現実を前にして,どうすれば子どもが希望と自信を持って生きられるようになるのかという問いが欠落しているのである。子ども把握から「生きる力」の論理が導き出されたのではないのである*76。(中略)
 同時に「生きる力」という理念には,新自由主義社会が引き起こす社会分裂と底辺階層の生活困難に対して,その困難を「自己責任」として個々人が引き受けて生き抜く力を求める側面をも読み取ることができる。さらに,日本という共同体を担うことに生きがいを見いだす「生きる力」,生きることへのパトスをナショナリズムに依拠して引き出させるという意図も組み込まれている。その結果,生きる力を補完するものとしての「自己責任意識」と「ナショナリズム」の形成が意図されている。だから,この「生きる力」は,子どもの生き抜く力ではなく,グローバル競争に参加している資本の目標・戦略を担う力があるかどうか,さらにはこの競争社会で格差化,差別化された待遇を受けても,なおかつそういう新自由主義社会日本を受け入れ,支える態度を持てるかどうかという視点から求められていることがわかる。
 この「答申」をよく読んでみると,<なぜ子どもは生きる力を喪失しているのか→それは「生きる力」となる学力が身についていないからだ,これではグローバル化する世界の中での日本を担えない→だから「生きる力」という学力を獲得させる教育が必要だ>という,問いと答えが循環する構造になっている。生きる力が奪われている社会構造や,そういう構造に囚われた生き方の組み替えはいっさい課題化されることなく,まさに自己責任の論理で,ハイパーメリトクラシーの世界への挑戦が課題化されるのである。「生きる力」は,能力要素(理解力,応用・活用力,コミュニケーション能力,表現力,等々)に分解されて,その要素に対応する学力獲得訓練を施してそれを獲得させれば形成できるという論理が貫かれているのである。人間としての誇りと生きることの意味,自己への信頼感が喪失されているために生きる意欲が萎え,学習への意欲が衰退している状況に対し,「生きる力」としての学力が足りないことが「生きる力」の不足の原因であるというトートロジーにも似た因果関係が強調され,競争力を身につければ生きる力が回復できるという解決策を呈示し,それができない者に自分の無力性を思い知らせる*77。(中略)
 「知識基盤社会」におけるグローバル競争に勝ち抜く企業や国家の人材戦略において必要とされるのは,決して
[佐藤註・以下12文字に傍点]個々の子どもが生きることではなく,その子どもがいかなる「能力」を所有しているかである。だから子どもを生きさせないシステムは不問のままにおかれる。今回の教育課程についての理念に沿って出現する学校空間は,要素化された「生きる力」を競いあう激しい競争的学力訓練場であり,多くの子どもがますます生きられない空間,あるいは生きる力を持たないと認定される切り捨て空間になるだろう。生きる力を獲得するまでは主体的に生きることはできないというこの学力観は,[佐藤註・以下7文字に傍点]すべての子どもがいま現在をより力強く生きるためにこそ学ぶ権利を有しているという学習権の正義とは全く違ったものとして設定されているのである。
 それに対抗するためには,学力がないから「生きる」ことができないという論理を打ち破らなければならない。主体的に生きるということは,力があるなしにかかわらず,自分の目的を追求し,その目的を実現していく過程として日々の生活や学習を意欲的に生きるということである。そのためには,いま生きている生活の中の願いや願望,あるいは怒りや批判,等々の主体性の契機や芽をより意識化し,
[佐藤註・以下33文字に傍点]意識的な目的や願いへの挑戦過程として日々をまた学習生活を生きることが必要となる。「生きる力」の形成は,子どもを「生きさせること」を土台として,[佐藤註・以下22文字に傍点]能動的に生きるという主体のありようを作り出すことを核として実現されるのであって,「生きる力」の要素的能力を競いあう訓練によっては,形成できないのである*78。

 このように佐貫は,2008年中教審答申が「生きる力」を教育目標として措定すること自体の欺瞞性を厳しく批判している。要するに2008年中教審答申の教育目標設定は,子どもたちのありのままの生き様に共感しそれを励ますようなものでは毛頭なく,グローバル資本が競争に勝ち抜くためにその構成員予備軍である子どもたちに「このような能力を発揮せよ(さもなくば切り捨てられるであろう)」と恫喝しているに過ぎないと。2008年中教審答申が子どもたちが「主体的に生きる」こと,「力があるなしにかかわらず,自分の目的を追求し,その目的を実現していく過程として日々の生活や学習を意欲的に生きる」ことを励まそうとしていない,そこに関心がないという佐貫の批判に私は強く共感する。
 ただ,佐貫は,上記引用文の中で5箇所(引用者が二重下線を付した部分),以下のように生きる力を括弧をつけずに用いている。
・「生きる力を補完するものとしての『自己責任意識』と『ナショナリズム』 の形成」(引用文の第2段落)
・「なぜ子どもは生きる力を喪失しているのか」(第3段落)
・「生きる力が奪われている社会構造」(同)
・「生きる力を持たないと認定される切り捨て空間」(第4段落)
・「生きる力を獲得するまでは主体的に生きることはできないというこの学力観」(同)
 1・2・4・5番目の表現は,文脈から中教審答申批判の部分であることがわかるので,他の「生きる力」という表記と同じ意味であると思われるが,3番目の「生きる力が奪われている社会構造」は批判の文脈というより問題指摘の文脈と読める。ここから,佐貫もまた中教審答申が言うのとは別に,肯定的な意味で生きる力という名辞を用いる場合があることが伺われる。

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*76 佐貫浩『学力と新自由主義 「自己責任」から「共に生きる」学力へ』Ⅰ「生きる力」とコミュニケーション 第二章 新学習指導要領の学力観 二 ハイパーメリトクラシーと「生きる力」という理念 2009年 P.49-50
*77 同上,P.51-52
*78 佐貫,前掲書,同章 五子どもがいまを生きられるようになる取り組みをこそ P.62

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 上記の通り私は、佐貫が1996中教審答申の「生きる力」理念を強く批判していることを共感的に紹介しつつ、括弧がつかない 生きる力 についての佐貫の見解については、まだ見定めきれないという立場を表明していました。ここで検討した佐貫論文は2009年のものであり、その後の佐貫のさまざまな著書・論文で生きる力について論じられていたとしても私はフォローできていないのですが、今回通読した本書の中にも何カ所か生きる力に言及したところがあったので、ピックアップしてみたいと思います。すでに引用紹介した部分と重なる場合もありますが、ご了承下さい。


序章 学力・人格と教育実践--子どもの変革的自己形成を起動させる
 四 自分を価値の基盤に据え直す

①「[佐藤註・以下11文字に傍点]学力向上を条件としない人間の尊厳を承認し合う関係が作り出されなければならない。学力に働きかける[佐藤註・以下4文字に傍点]その前に、あるいは[佐藤註・以下4文字に傍点]と同時に、子どもが自己の尊厳を[佐藤註・以下9文字に傍点]自己の意識において回復していくことに、子どもとともに挑戦していくことが必要なのではないか。その土台においてこそ、子どもは学力獲得の意味を自分で発見し、ほんものの「生きる力」を回復していくのではないか。」(P.26-27)

第2章 学力と人格の関係を考える―新自由主義教育政策の本質と「資質・能力」規定
 一 教育の価値を管理する新しいシステムの展開―「資質・能力」規定による人格の方向づけ
  (2)「資質・能力」規定の意味と危うさ


②「ところが、このコンピテンシーと目的意識や価値意識との結合物である主体的な『生きる力』が、今回の指導要領などでは、幼児教育段階から大学までの教育目標として列挙されている。『幼稚園教育要領』では、小学校就学までに育むべき『資質・能力が育まれている幼児の姿』として『自立心』や『協同性』や『道徳性・規範意識の芽生え』など10項目が『幼児期の終わりまでに育ってほしい姿』として列挙された。それぞれの年齢段階の生活を、人間として生きるためではなく、その上の段階に参加するのに必要なコンピテンシーと、社会の規範にしたがうという価値的行動様式とを獲得させる『スキル』で満たすという、まるで『〇〇力』をもったロボット―それ自体の生きる目的をもたないにもかかわらず、目的までインプットされた―を養成するような教育の拡張が危惧される。」(P.80)

 四 学力と人格の結合の方法について--価値をめぐる争奪戦の展開のなかで
③「本来の学習は、その意味で、絶えず学習過程において人格的要求を意識化し、その要求に応答可能なように再構成された知との出会いとして組織されなければならない。学習とケアが結合されなければならない理由は、その人間としての存在の意味自体が否定され、自己のなかにあるものの人間的感覚が負の意味をもつものとして否定されているような空間のなかで生きさせられている子どもたちに対して、子どもの今の存在そのもの、感覚、思い、願い、怒りや悲しみのすべてを含んで、そこにこそ主体的に生きる価値の土台があり、その自分を基盤にして生きていくことを励まし、その自分を意識化し豊かにする営みとして教室の生活と学習があるという関係を取り戻すためである。その条件が満たされるとき、学習は人格のなかにうずき、社会や生活のありようを問わずにはいられない個の思いを意識化し、意味化し、『生きる力』を形成する力として作用するだろう。」(P.96-97)

Ⅱ アクティブな学びと評価
第4章 「アクティブ・ラーニング」を考える
 一 学びにおけるアクティブさとはなにか
  (2)アクティブさを奪っている原因--受験学力の構造と政策の根本的矛盾

④「新自由主義が強者としての『生きる力』を自己責任として求め、弱者を排除し打ち負かす競争の論理を現代の社会空間に深く浸透させつつあるなかで、この競争と自己責任の空間のなかで『アクティブ』に生き抜きザバイバルすることを求めるならば、多くの子どもを孤立させ、自由な表現を奪い、個を閉じさせてしまう可能性が高い。」(P.127)

 二 アクティブ・ラーニングの定義をめぐって
  (2)「表現」と「認知プロセスの外化」との違い

⑤「コンピテンシー・ベースとは、汎用的能力の形成を中心目標に置くということである。応用力、表現力、概念形成力、等々。しかしコンピテンシーは、具体的な目標に向けての学習に主導されて―、すなわち、意欲や目的をもち、その目的追求の情熱や喜びや意味に主導され、現実の課題と挌闘する生きる力という人格に統合された全体性のなかで―意欲的に獲得されるものだろう。その全体性、人格的主体性から個々のコンピテンシー形成を切り離さないことが肝要である。」(P.135)

第9章 学力の意味の喪失とその回復のすじ道―「あること」<to be>と「もつこと」<to have>の様式と学力
 五 学校の学びの構造と「学力」の意味づけ

⑥「しかし新自由主義が求めているところのグローバル競争に勝ち抜く能動性や創造性(「生きる力」)に一面化された学力、人材形成に一面化された教育目的は、この側に立ち、個の願いを実現し、人間存在の固有の目的やその存在の意味の実現を目的とするものではなく、資本にとって価値のある所有物としての能力や人格的特性(感情労働を想起せよ)、資本の戦略を実現するため役に立つ力、それを所有(to have)の形式において保持している人間の育成をめざすものとなっている。いわば所有の形式の上に、その能力の意味づけがなされているのである。」(P.250)


 私が気づいた本書での「生きる力」/生きる力への言及箇所は以上の6箇所でした。
 ⑤を除く5箇所では、すべて括弧付きの
「生きる力」が使われています。このうち、②④⑥は、文脈から1996/2003/2008/2016中教審答申の新自由主義教育改革上の用語としての「生きる力」を指して批判的に使われていると思われ、括弧はいわゆる、例の、というニュアンスであると思われます。
 ところが、①の
「ほんものの『生きる力』を回復していく」、③の「人格のなかにうずき、社会や生活のありようを問わずにはいられない個の思いを意識化し、意味化し、『生きる力』を形成する力」では、批判対象としての、というニュアンスではなく、括弧は付けられているけれども本来あるべきものとしての 生きる力 が論じられているように思われます。そして⑤では、「意欲や目的をもち、その目的追求の情熱や喜びや意味に主導され、現実の課題と挌闘する生きる力という人格に統合された全体性のなかで」と、括弧も外して、本来望ましいものという文脈で 生きる力 が語られています。
 ここまでの文献検討の範囲では、佐貫の言説の中では批判されるべき
「生きる力」と、人間の望ましい姿としての「生きる力」/生きる力 があると思われますが、後者の望ましい「生きる力」/生きる力 についてはあまり積極的な論の展開がないように思われます。さらに佐貫の他の文献を学び進めながら検討を続けたいと思います。

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