33 【アーカイブ 12】教育学文献学習ノート(20)佐貫浩『「知識基盤社会」論批判 学力・教育の未来像』(花伝社 2020.3.5刊行)

(2023.8.25記)
 本ブログ前項(32)に続いて、過去にfacebookに発表した佐貫浩氏の著作に関する学習ノートを再録します。 
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 (2021.5.27-6.1通読 2021.6.1-8ノ-ト作成)

 佐貫浩『学力・人格と教育実践 変革的な主体性をはぐくむ』(2019)を読み終えて「教育学文献学習ノート(19)」(2021.5.19-24投稿)を書いたばかりですが、佐貫「教育における民主主義を考える(下)--新自由主義の支配を打ち破る教育の役割」(『教育』No.904 2021.5)で上出の著作とともに言及されている本書についても続けて読んでみようと考えました。
 私は、「ノート(14)」で最近約3年間に発表された以下の教育関連政策文書を取り上げました。


A.2018.3.8「第3期教育振興基本計画について(答申)」(中央教育審議会)
B.2018.6.5「Society 5.0に向けた人材養成 ~社会が変わる、学びが変わる~」(Society 5.0に向けた人材育成に係る大臣懇談会・新たな時代を豊かに生きる力の育成に関する省内タスクフォース)
C-1.2018.6 「経済産業省『未来の教室』とEdTech研究会第1次提言 『50センチ革命×越境×試行錯誤』『STEAM(S)×個別最適化』『学びの生産性』」
C-2.2019.6 「『未来の教室』ビジョン 経済産業省『未来の教室』とEdTech研究会 第2次提言 EdTechの力で、一人ひとりに最適な学びを STEAMの学びで、一人ひとりが未来を創る当事者(チェンジ・メーカー)に」
D-1.2021.1.25「教育課程部会における審議のまとめ」(中央教育審議会初等中等教育分科会教育課程部会)
D-2.2021.1.26「『令和の日本型学校教育』の構築を目指して ~全ての子供たちの可能性を引き出す、個別最適な学びと、協働的な学びの実現~ (答申)」
E.2015.9.25 Transforming our world: the 2030 Agenda for Sustainable Devolopment  (United Nations)/仮訳「我々の世界を変革する:持続可能な開発のためのアジェンダ」
F.2018 THE FUTURE OF  EDUCATION AND SKILLS  Education 2030 (OECD)/「教育とスキルの未来:Education 2030【仮訳(案)】」
G.2016.1.22「科学技術基本計画」 (閣議決定)
H.2019.4.17「新しい時代の初等中等教育の在り方について(諮問)」(柴山昌彦文部科学大臣⇒中央教育審議会)
I.(発行時期記載なし)文部科学省「GIGAスクール構想の実現へ 1人1台端末は令和の学びの『スタンダード』 多様な子供たちを誰一人取り残すことなく、子供たち一人ひとりに公正に個別最適化され、資質・能力を一層確実に育成できる教育ICT環境の実現へ」


 しかし、取り上げたとは言うもののあまりにも幅広くまた膨大な量の文書群なので、これらが描く近未来社会像をざっと通観する程度にとどまっています。戦後教育の区切り区切りの時期にはそれぞれ重要な政策文書が出されてきましたが、この2010年代のようにこちらがcatch upするのが大変なほど次々と畳みかけるように文書が出された時代はなかったのではないかと思います。それでも京都女子大学の授業で教育課程変遷史を語る以上、その背景情報として主要な政策文書を押さえることは必須です。もちろん読むだけでなく批判的検討が必要だし、批判的検討のためにはinput=学びの作業が必要です。そこで学習指導要領変遷史上では第8(高校9)期(2008年版)学習指導要領から登場した「知識基盤社会」を批判的にとらえるために本書から学ぼうと考えました。

 本書の構成は、以下の通りです。

序章 「知識基盤社会」論への教育学からの問い
 (一)「知識基盤社会」言説の広がり
 (二)「知識基盤社会」論の労働と価値についての論理
 (三)権利としての労働という視点の喪失
 (四)グローバル資本の戦略と地域に経済的価値が循環する社会構想との対抗
 (五)「知識基盤社会」論と学力問題
第1章 「知識基盤社会」とはなにか--「知識資本主義」論の検討
 (一)「知識資本主義」論の検討
 (二)「知識資本主義」論の批判
 (三)「知識基盤社会」論の批判的検討の課題
 (四)本書の課題意識
第2章 グローバルな経済競争と「知識基盤社会」--グローバル資本の戦略と労働力要求の変化
 (一)グローバル資本の利潤獲得のための戦略と「知識基盤社会」概念
 (二)グローバル資本主義の下での「地域」の位置
 (三)補--ハーグリーブスの「知識社会」概念について
第3章 知識は価値を生み出すか--人間の労働とグローバル資本主義の論理
 (一)「知・技術」は「価値」を生み出すのか?
 (二)「労働価値説」と「剰余価値」概念はどこまで有効性を持つか--労働の未来に関わって
第4章 労働の権利と生存権保障--新自由主義と雇用の変貌、破壊
 (一)日経連「新時代の『日本的経営』」による雇用構造の激変
 (二)労働価値説と生存権保障の体系
第5章 AI・ロボットと労働の未来
 (一)高度な技術と機械やロボットは失業をもたらすのか?--井上智洋の論理の批判的検討
 (二)機械の発展と人間労働の変容--労働の変容とロボットによるその代替という論理の検討
 (三)基本問題は富の配分という課題の側にある
第6章 社会を作る知と政治的公共性の世界--「人材」形成と「主権者」形成の二つの教育目的をめぐって
 (一)課題、問題関心--知が作用する二つの回路について
 (二)グローバル資本と国民国家の力学--新自由主義の政治的本質
 (三)新自由主義の政治的知のありようについて--「ホモ・エコノミクス」と「ホモ・ポリティクス」という分析視点
 (四)知が働く「政治」の回路の回復--学校教育は、「方法としての政治」を起動させうるか
第7章 「知識基盤社会」と学力--知識基盤社会、「society 5.0社会」、ロボット、AIと教育の未来
 (一)問題関心
 (二)公教育システムをめぐる価値管理の仕組み
 (三)「Society 5.0」の未来像と教育像
 (四)労働能力と学力の個にとってのかけがえのなさ
 (五)人間の存在(to be)を支える学力の探究へ--「個の尊厳」をこそ全ての基盤に据える
あとがき

 さて、ノート作成にあたり、この「ノート(20)」においても、「ノート(19)」の冒頭部分と同一の、以下の断り書きをします。

「私は教育学文献を読む時、『共感する』『大事なことだなあ』と思う部分には黄色のラインマーカーを塗ります。そして注目した箇所の中でもさらに『ここはすごく大事なことだ』と強く思う部分には青色のラインマーカーを塗ります。本書に関しては、黄色く塗った部分が大変多く、ここを全て書き写していると本書の半分くらいは写し取ることになってしまうため、青く塗った部分だけを書き写すことにします。前後の文脈を無視して抽出することになりますが御容赦下さい。」

 佐貫氏の著書の流れを的確に要約・紹介しながらその中に特に「勘所」と思われるところを引用紹介するようなノートにはなりませんので、御容赦を。


序章 「知識基盤社会」論への教育学からの問い
 (四)グローバル資本の戦略と地域に経済的価値が循環する社会構想との対抗


「もし地域が、人々が生活し、生産し、価値が循環していく場となるならば、また人々が必要とする商品やサービスを作り出すための労働が地域の人々の生活を支え、地域の持続を可能にする経済的価値を生み出すことができれば、世界的競争に勝ち残ることのできる商品を作り出さなくても、そこで生きていくことが可能になる。地域で生産し地域で消費するゆえに、その地域でこそ競争力を発揮する商品群も多く存在する。原発の事故によって、原子力発電の無謀さや経費の高さが問題になる中で、地域が生み出すことができる自然エネルギーが地域経済を支える可能性が大きくなり、新たな地域の再生に希望を与えつつある。本来、知の高度化によって生産性が向上するならば、地域で組織される労働が、その地域経済を支える力が高まるのではないか。生産力の全体的な高度化によって地域に循環する持続的な経済を形成できる可能性が高まりつつあるにもかかわらず、そのことが認識されないままにきているのではないか。」(P.17-18)


 (五)「知識基盤社会」論と学力問題
  1 「知識基盤社会」論は、
[佐藤註・以下5文字に傍点]全ての人間の知や能力の実現に関心を持たない

「しかし冷静に考えてみれば、今日は歴史的に見れば最も高度な生産力が実現されている時代であり、その技術やAIの助けによって、人間の労働能力、労働の生産性は非常に高度なものとなっている。その労働が『実現』できる場が与えられて人間が所有している全ての労働能力―[佐藤註・以下5文字に傍点]全ての人間の労働能力―が生かされるならば、富の創出と蓄積は最大化するのではないか。科学技術の発達が、人間労働の生産力を飛躍的に高めるものであるならば、また、生産力の急速な向上が人間の労働時間を短縮し、自由時間の拡大を可能なものとするならば、現代の労働に不可避のように組み込まれている苦難や危険や人間破壊や失業などの矛盾が克服されていくのではないのか。たとえその労働能力に弱点や障がいを抱えていても、集団的な共同労働の中に位置づけられ、また高度な機械やロボットや科学技術の助けを得るならば、それらの労働の生産力もまた押し上げられ、人はその学力の優劣に関わりなく、自己の労働力や学力に依拠して、誇りを持って創造的に生きていくことが可能になるのではないか。そしてそういう見通しの中においては、今私たちが直面している極度に競争的、差別的な雇用と労働をめぐる困難と矛盾が、克服される展望が見えてくるのではないか。」(P.18-19)


  2 「知識基盤社会」論における知の位置づけの一面化

「そもそも人間が生きる活動の全体性は、それを遂行していくための多様な能力を必要とし、学力はその課題の全体性に対して準備されなければならない。その多様な活動領域は、経済活動や労働に加えて、政治的主権者として生きる力、社会の主体として歴史を切り拓いていく力、文化的芸術的な活動(創造や鑑賞)を豊かに展開して生きる力、科学の探究を含んで真理や正義を探求したり人類が達成してきた科学や文化を摂取・継承していく力、さまざまな共同を実現していくためのコミュニケイションや他者理解の力、等々を含むものとなる。人間を発達させる目標の全体性を、資本の利潤獲得の視点に限定した人材形成目標に置き換えてはならない。」(P.20-21)


  3 知が人間社会に作用する二つの回路

「しかし『知識基盤社会』論は、生産--現実態としては資本主義的生産--に応用される知に焦点を当て、社会の共同のありようの変革にたいする認識(知)の発展という回路を機能させることを拒否しようとする。それは、人類の実践を、資本主義的生産の上での競争的経済活動の中に閉じ込めようとするものである。
 そのことの意味を明確に捉えるためには、知が人間社会に働きかける二つの回路があるということをあらためて意識することが必要となる。第一の回路は、経済的生産力の増大に働き作用する回路、直接的生産過程に知が組み込まれる回路である。(中略)
 しかし知が人間社会に働くもう一つの回路がある。それは、人間社会の共同性をいかに実現していくかに直接関わる知に関するものである。社会の仕組み、社会制度のあり方、法や規範のあり方、人と人との関係のありよう、自治や政治のありよう、国家と国家の関係、等々に関わる知である。これらの知はどのような回路を経て、社会のありようを作り出していくのだろうか。それは公共的な議論の場を介して検討され、吟味され、合意され、社会のありようへと具体化されていく。そのプロセスの中心には表現とコミュニケイション、自治と政治という活動があり、それらの全体の過程を民主主義と公共性という方法的な価値が貫いている。もちろん、そういうふうに言うことができるのは、人類が市民革命を経て民主主義的な国民主権の政治を確立したからである。この回路においては、どの知が、どういう判断が正しいのか、望ましいのかは、人間の個々人の価値的判断からは独立した科学的な手続き(実験や実証)に依拠して決定するということは困難であり、まさに民主主義と公共性という方法と場が形成されることが不可欠となる。この場で働く知の回路の最も本質的な特質は、一人ひとりが対等な判断主体として討議と合意の場に登場しなければならないということにある。それは人間存在の根源的な平等性、対等性が提出する正義である。AIなどによって先端的に開発された知にその思考や判断を委譲するというようなことは不可能であり、個々人の知や価値判断の対等性が前提となって、合意が形成されていくのである。そしてそこでは[佐藤註・以下5文字に傍点]全ての人間の学力―それに基づく判断―が、その能力の高い低いというような評価基準など全く成立し得ない中で、個々人の存在の意味を担い、固有の意味と価値を担って、まさにその固有の存在を実現していく力として機能するのである。そしてこの回路で働く知が、人間にとっての教養の中核となっていくのである。」(P.23-25)


第1章 「知識基盤社会」とはなにか--「知識資本主義」論の検討
 (二)「知識資本主義」論の批判
  1 知識が価値を生み出すのか


「しかし、本質的に見れば、『知識労働は、最終的には肉体労働の成果と結合されて初めて価値を形成する。変化したのは、知識労働と肉体労働との間の成果の分配率』(佐藤註・佐藤洋一『情報資本主義と労働―生産と分配の構図』2010 からの引用)なのである。そして『知的財』こそが多くの利潤を生み出すかに見えるのは、後で検討するように、それが『特別剰余価値』をもたらし、また知と情報技術による価値の付加と増殖―独占的新商品の開発による市場独占、情報ネットシステムのプラットフォームの独占、情報商品の無限のコピー、ビッグデータの独占的蓄積など--が莫大な利潤をグローバル企業にもたらし、そのことが知識があたかも利潤をもたらすように現象するからにほかならない。そして先進諸国と先進グローバル企業が、『知識』『技術』においてほとんど独占に近い圧倒的優位にあることがますます、グローバル資本に富を集中・蓄積させているのである。」(P.45)


  2 知識と資本の関係について

「しかし知や技術は、直接的生産過程に組み込まれるとき、すなわち資本(生産手段)と結合されるとき、生産力を高めるものとして初めて直接に生産に関わるものとなる。すなわち、知そのものは資本ではなく、資本と結合されることで、あるいは労働能力を高めることで、生産性を高めるのである。たまたま技術開発者が優れた技術を開発して、それを応用した起業家として資本を調達して資本家になるとしても、彼は、資本を獲得した段階で初めて資本家となるのである。そして彼が資本家となることで、彼の開発した知もまた、資本の下に包摂され、資本の力となって、はじめて生産力を高め、利潤をもたらす力として働くことができる。知識労働者(知識の所有者)は、その知識を労働力の一部分に含んで資本家に売る―高く売る―こと、あるいは自らが開発した子ども技術を『商品』として資本に売ることができるとしても、価値を増殖する資本としての機能をその知の所有者や、知それ自体が保持しているわけではない。もちろん、労働力は可変資本に買われることによって、資本の価値増殖過程を機能させ、その限りでは、資本の現実的な姿(可変資本という姿)として現れる。
 しかし当然のことながら労働者は自己の所有する労働力や知を資本として、そこから利潤を引き出す資本家になるわけではない。資本は労働者から価値(剰余価値)を奪い取り、労働者は剰余労働分の価値(実際に支出した労働の価値から労働力の価値を差し引いたもの)を奪われるのである。労働力は価値を生み出すことができる唯一の商品であるとしても、それは資本に買われて機能させられる条件の下でのみ、資本を[佐藤註・以下9文字に傍点]利潤を生み出す資本としてとして機能させることができるのである。労働力は、労働者の所有物にとどまる限りでは資本としての機能は持たないのである。」(P.46-47)

「また、知識・情報は商品となることはできる。しかし本来、知識は、社会的な共有物であり、かつ多くの人々に分かち合うことが可能で、そのことによって個人の分け前が縮小したり減少したりするものではない(社会的共有財)。むしろ本来知識は、より多くの人々に所有され、より多くの生産過程に応用されればされるほど、その力を発揮し、より多くの富を生産することに寄与するものである。」(P.48)


 (三)「知識基盤社会」論の批判的検討の課題

「『知識基盤社会』においては、『知』、『知財』は、あくまでグローバル資本の『ウェブ』に包摂されることで、その価値を発揮し、その利潤はグローバル資本によって『私的』、『独占的』に取得される。そこでは、『知識』『知財』の本来的な社会的共有資源、非競合財としての性格が否定され、そのことによって知の格差を理由とした人間の格差化と差別が進行するのである。」(P.51)

「以上のような性格を踏まえるならば、『知識基盤社会』論に次のような陥穽が存在することを指摘しなければならない。
 第一に、その知は資本が莫大な利潤を確保するための、すなわち個別企業の独占利潤を確保するための戦略の一環としての知識開発において捉えられているものである。(中略)
 第二に、そのような人材の内容として把握された能力や学力は、社会が必要とする全体的な労働や生活の課題に向けられたものではなくなっていく。具体的には、地域社会、あるいは国家単位の社会の存続と維持にとって欠かせない第一次産業、第二次産業、そして各種のサービス労働(公務労働を含む)を担う大量の労働に対する積極的な位置づけや関心を欠いた規定とならざるを得ない。それはそもそも、利潤確保のためのグローバルな経済的価値の循環にのみ関心をもつために、その戦略からはずされた地域においては、そこで生活する人々全てに、生存権を保障するための価値の循環と配分を保障する生産の場、労働の場を維持することに関心をもたなくなっている。
 第三に、それらの結果として、『知識基盤社会』が求める学力は、まさにグローバル資本の世界戦略と直接結びついた能力規定を受けることとなる。それは『ハイパー・メリトクラシー』型(佐藤註・典拠は本田由紀『多元化する「能力」と日本社会―ハイパー・メリトクラシー化のなかで』2005)の学力と規定されるような性格をもつものであろう。それはグローバル資本に不可欠な技術開発、企業経営、知的資産の創造に従事する知的上層階層の労働者に焦点化した人材規定であり、そしてそのような学力探究が、今日の教育改革を貫く中心的な目的と化している。(中略)
 第四に、学力格差を生み出しつつ、同時にその規定が先進国での『正規労働』基準として設定されることで、その基準から脱落するものは、教育投資効果が低い労働力として評価されることになる。(中略)
 第五にそれは、グローバル資本の世界戦略に基づく労働能力要求であり、持続可能な地域をいかに作り出すかという今こそ求められる地域循環型社会、全ての住民の労働参加と生存権保障を可能とする地域社会を創造する構想への関心をもたない。それは、第一次産業や、ますます拡大する福祉労働やケアサービス、環境保持のための労働、地域循環型経済、伝統的地場産業の維持、地域生活を維持していくための各種の公務労働などをどう持続可能な社会の創造に向けて豊かに作り出していくか、その担い手に求められる専門性や地域理解、人間理解をどう高めるのか、そういう連帯型、協同型社会を担える共感力や表現力、道徳性をいかに育てるかという課題意識を欠落させている。
 第六に、このようなグローバル資本とそれを推進する新自由主義国家の人材要求を反映して、全ての人間の労働、政治、生活への社会参加を推進する社会像がオミットされており、現代社会の主体、社会を創造し変革していく主体としての知的能力、人格形成の全体性に対応した教育が失なわれていく。(中略)
 第七に、したがって『知識基盤社会』理念は、特別優れたマンパワーによってこそ強い社会が到来すると思わせ、衰退する地域を『離脱する』学力―かつての『村を捨てる学力』の現代版―こそ必要だと強調する。学力競争に勝利しないと豊かさは獲得できないというまさにグローバル資本の競争戦略に即して未来像を描く。[佐藤註・以下5文字に傍点]普通の能力をもった人々が新しい協同を作り出すことで豊かさと安心の下に生きていける地域社会が作り出せるという展望を隠す。それは今、『限界集落』として切り捨てられようとしている地域に、それとは異なった生存権を保障する新しい生活と労働の場としての可能性があること、一人ひとりがそこで生きる希望を自分のものにしていくことができるという見通しを押し隠す。知的競争で他者を打ち負かさなくても、普通の能力で人間的な労働生活を送り、社会の建設に共に参加できることを子どもや若者に示すことができず、文字どおり[佐藤註・以下9文字に傍点]全ての子どもや若者がもっている知的力や社会への貢献の可能性に対して、社会の側からの熱い期待を向けることができない。格差・貧困社会を招いた大人の失敗と無責任を放置して、競争に勝てる能力のないものは社会の厄介者だというメッセージを送り、子どもの希望を奪う。
 本来、生存権保障と労働力の再生産という論理―そのための労働者に対する富の配分の社会的正義―から労働者の給与や社会的富の配分は決定されるべきものである。にもかかわらず、『知識基盤社会』とは、『知財』の独占がもたらす独占的利潤の獲得戦略から、『シンボリック・アナリスト』にのみ『豊かな』配分を行ない、知的競争力がないとする労働者に対しては徹底的に搾取する資本のグローバルなサバイバル戦略の視点から組み立てられた社会認識というべきものであろう。そして、個々人を不安定な格差社会に放り込み、その帰結は個人の所有する知の格差による自己責任として甘受すべきだという論理を伴うものである。」(P.51-55)


 (四)本書の課題意識

「(3)(前略)しかし、知が価値を生み出し、知的レベルの低い労働はもはや十分な価値を生み出す力を持たないし、技術の発達、ロボットの急速な開発は、多くの人間労働を役に立たないものにするとの言説も飛び交っている。そういう点から見れば、人間労働そのものと価値と意味とはなんであるのかということに立ち返って考えることが不可欠になっている。そして人間労働の質、労働力の生産性を規定している能力や学力そのものの価値を今日どう捉えるべきかについて、あらためて検討しなければならないだろう。(第3、4、5章の課題)」(P.56)

「(4)知識基盤社会論は、現実の日本社会で起こっている労働・雇用の格差化、破壊と一体となった論理を組み込んでいる。その変化が一体どのようにして生まれているのかは、単なる技術的変化によっては説明し得ないものとなっている。その点では新自由主義的な雇用政策、労働の位置づけが、グローバル資本のどのような戦略によって生まれているのかを明らかにしなければならない。そしてそのためには、新自由主義の下で、日本社会の労働力の配置がどのように変化しつつあるのかについても一定の傾向を把握しなければならないだろう。さらにはそれらに対抗する戦略と見通し、学力形成、労働能力獲得への意欲と希望を再組織するための地域的な経済的価値循環社会を構築していく可能性の検討が必要となる。(第2、6章の課題)


第2章 グローバルな経済競争と「知識基盤社会」--グローバル資本の戦略と労働力要求の変化
 (一)グローバル資本の利潤獲得のための戦略と「知識基盤社会」概念
  1 新自由主義の展開とグローバル経済戦略の展開


「しかし1990年を境目として、社会主義国家体制が崩壊し、世界は一挙にグルーバルな資本主義が展開する単一の世界市場へと再編されていった。そしてグローバル資本は、その巨大化した資本の力を背景に、国民国家の枠組み、国家的規制を超えて、巨大化した世界市場において新たな経済競争戦略を遂行するようになった。先進国においても、国民の人権や労働権を支えてきた各種の規制が『緩和』され、福祉の水準が切り下げられ--福祉国家の解体--、世界市場において展開する資本の競争の戦略に、これらの先進国家の国民も直接曝されるようになり、雇用の構造も大きく変化していった。
 第一に、グローバル資本の人材戦略は二つの性格を併せもつものとなる。一つには、世界的に調達できる低賃金に依拠できる労働部分を発展途上国の低賃金労働に求める戦略である。(中略)
 第二に、もう一つは、世界市場における競争にとっては、その技術水準、商品の質をめぐって、激烈な競争が展開する。特に情報技術の発達、AIの急速な進歩、インターネットを通した情報社会化が急速に進み、その技術開発に対応しない限り、世界市場での勝利は見通せないような状況が生まれている。(中略)
 第三に、加えて、現代のグローバル経済段階において展開する急速な技術開発、AIの進歩によって、多くの労働が、機械やロボットによって置き換え可能になっていく。商品生産工場の機械的労働に止まらず、汎用型コンピュータの開発・発展によって、一定のレベルの人間の操作や判断もAIによる代替が可能になり、そういう労働内容をもつ多くの事務・管理労働、一定の熟練技能労働もまたロボットやAIの作業に置き換え可能になっていく。それらの高度な技術の開発は、基本的には生産技術の高度化であり、生産手段の発展であり、人間労働の生産性を高度化して、労働時間の短縮の条件をも生み出す可能性をもつが、その技術の高度化が、労働力の削減(可変資本の縮小)による利潤の急速な増大の手段として導入されるならば(第5章参照)、労働者の雇用を奪う可能性がある。そのこともまた、ロボットなどが担うことができない高度に知的で創造的な労働能力でなければ価値がないというような言説を生み出しつつ、雇用の構造を変化させていく。
 第四に、世界的な競争市場での勝利にとって、他の企業を超える新しい知の開発、私的所有(独占)、そのことによる膨大な特別剰余価値や独占価格の実現が不可欠となる。そのため、個別企業による知の開発が膨大な資本を投入して展開されるようになり、歴史的に見て最も高度な、そして急速な知の開発が、巨大な企業戦略に主導されて展開し、巨大企業は同時に巨大な知の開発主体へと変貌する。(中略)
 第五に、しかし、グローバルなレベルで展開される知や技術開発は、国家的なバックアップなしに展開し得ないものとなる。『知識基盤社会』の仕組みは、個別企業の戦略から、国家間の技術開発競争レベルへとバージョンアップされていく。したがって、今までの学問研究の自由が、権力からの知の独立、国民の真理探究の自由という視角から把握されていた土台が揺らぎ、いかに経済競争に勝ち抜くかという視点から、知の開発計画と教育を、国家と資本が強力な計画をもって管理する仕組みが展開することとなる。(中略)
 第六に、グローバル資本の産業配置戦略からして、国内における労働と産業部門の一面的な再編が進行する。世界市場を相手とする生産は、一挙に経済の国内循環の制限--国家単位で循環可能な生産分野の全体性の保持という制約―を超えていく。そして高額な利潤が獲得可能な領域に大量の投資が行なわれ、そうでない部門は可能な限り縮小され、その部門の商品の不足は輸入などによって補填されていくこととなる。(中略)
 第七に、その結果として、先進国家においては、世界的な経済競争を支える技術開発労働、グローバル経済戦略を担う高度なリーダーシップをもつような知的労働に対する需要が増加し、それ以外の労働は低賃金化される。このような構造をもった人材要求は、その労働力形成、そのための公教育体制の改変へと繋がっていく。そのような公教育の場には、人材形成=学力獲得をめぐる激しい競争が組織される。そしてそこからは、[佐藤註・以下5文字に傍点]全ての人間の労働が生かされる経済や社会像が喪失されていく。現代社会の主体、社会を創造し変革していく主体としての知的能力、人格形成の全体性に対応した教育課題も取り除かれていく。このような財界の労働力要求を組み込んだ『知識基盤社会』の具体的な『能力』ハードルが、国際的基準―たとえばOECDのPISA学力基準―として教育政策を支配しつつあり、その基準に基づく激しい学力競争や就職競争が労働参入する若者に課せられていく。
 以上のような特徴を踏まえるならば、『知識基盤社会』とは、知の開発が資本の利潤の獲得にとって決定的な重要性をもつに至った段階における、グローバル資本の世界戦略によって生み出された労働と知の構造的変容を組み込んだ社会像と言うことができる。」(P.62-67)


 (二)グローバル資本主義の下での「地域」の位置
  1 人間労働と地域の性格はどう把握されるか


「これらの全体を見るとき、まさに新自由主義戦略の中核として、日本の人口と国土のかつてない再編成が、未来への取り返しのつかない生活破壊を伴って強引に推進されているといわなければならないだろう。そしてその動向は、理念としては、『知識基盤社会』に不可欠な労働力構成、労働力配置の必然的結果とされてしまうのである。その意味で、地域を、人間が安心して生き、働き、住民の共同が支えられ、経済が巡回し、希望が生み出される場にするという方向と、新自由主義の地域破壊、人口再配置戦略、グローバル経済戦略、労働力戦略、『知識基盤社会』論の社会像とが真っ向から対立し、日本の未来を分ける重要な争点となっていることが見えてくるのではないか。
 その問題を考えるとき、実は人間の労働や、地域の未来を豊かに維持していくための方策は、知の開発競争の論理--知の高度化による生産力の高度化がグローバル資本の世界競争を有利にし、企業により多くの剰余価値を蓄積させるという競争の論理--に委ねることはできないものであることが明確になる。私たちの未来探究においてなによりも基盤に置かれるべきことは、人間労働の権利としての保障であり、生活の場としての地域の持続性の維持である。そして知の高度化による生産力の向上は、そういう未来構想を可能にする富の豊かな形成、蓄積をもたらす条件として把握されるべきものとなる。そもそも知の発展による生産手段--機械やコンピュータやAI等を含んで--の生産力の高度化は、人間労働の生産力そのものを大きく高めるものとして作用する。そのことは一方で人間の労働時間の短縮を可能にすると共に、もう一方で、より豊かな使用価値を生み出し、地域により豊かな経済循環が可能になる条件をも提供するものとなるはずである。知の高度化が、グローバル資本の競争勝利の戦略とは異なった文脈で生かされるならば、まったく異なった未来像、全ての人間労働がより豊かなものとなり、高度な生産力を持ったものへと高まり、人間労働が作り出す富が、地域と人間自体のより豊かな生き方を可能にする条件として直接的に働くような回路が、見えてくるのではないか。」(P.75-76)



第3章 知識は価値を生み出すか--人間の労働とグローバル資本主義の論理
 (二)「労働価値説」と「剰余価値」概念はどこまで有効性を持つか--労働の未来に関わって
  2 労働の集団性と共同性


「個々人が持つ身体的な能力(頭脳の力を含む)は、それ自体として今日の一定の生産力に対応するレベルまで遺伝的力によって『成長』していくというものではなく、遺伝的素質自体は、社会的、文化的環境、その環境との相互作用(関係性)を媒介にして今日の社会的、文化的に規定された『有用な能力』に向かって形成(『発達』)されていく。そして今日の生産力水準に対応する『有用な能力』の形成は、公教育という環境との間の関係性によって大きく規定される。だからこそ現代において到達されている水準に相応しい労働力の再生産を担うために、公教育は、全ての個人に保障されるべき社会的制度であり、権利として捉えられるのである。」(P.164-165)


第5章 AI・ロボットと労働の未来
 (一)高度な技術と機械やロボットは失業をもたらすのか?
井上智洋の論理の批判的検討
  2 井上智洋の論理への疑問、批判

「(3)井上の労働イメージからは、大規模な機械化生産にかかわる以外の労働のおそらく長期にわたる必要性の継続という論点が省略、あるいは忘却されている。多くの対人サービス労働、地球的自然に働きかける農業他の多様な労働、さらには危機に陥っている自然の修復労働等が、高度の知と技術の時代においても、かなりの幅において継続されるだろう。また今日、子育てや教育や福祉的ケア労働、対人支援労働などへの要求が拡大しているにもかかわらず、それらの多くが低賃金、非正規化され、人々が安心して生きていく条件が奪われつつあるのが現実である。直接的な人格的働きかけを必要とする労働、人格的関係性自体が大きな意味をもった労働が、大幅に機械やロボットによって代替されるのだろうか。むしろそういう労働は人間の共同性を直接実現する仕事として、人格と人格の交渉として、働きかける人間と働きかけられる人間の両方にとって不可欠な意味をもったものとして、豊かに展開されていくのではないか。そして高度の生産力を獲得した機械化生産がもたらす豊かな富、必要労働時間の総体が生み出す豊かな富は、そういう労働の豊かな展開を可能にする条件となるのではないか。そしてそういう質を持った労働が、社会を維持し、人間の存在を実現するための労働のより大きな部分を占めるようになっていくのではないか。」(P.175-176)


第6章 社会を作る知と政治的公共性の世界--「人材」形成と「主権者」形成の二つの教育目的をめぐって
 (四)知が働く「政治」の回路の回復--学校教育は、「方法としての政治」を起動させうるか
  1 「方法としての政治」と公共性空間


「知が人間社会の形成力として働くもうっひとつの回路―『政治』という社会的合意の回路―にとって不可欠なものは公共性空間である。
 政治の方法―民主主義的な政治の方法―の基本は、表現とコミュニケイションにある。だから政治への参加とは、表現によって政治的価値の選択をめぐる論争に参加し、生きている場の課題を共有し、その解決のために新たな価値規範や関係性についての合意をその場に作り上げていくことである。だから政治は自己の表現が他者を動かし、社会の公共的な合意を形成し組み替える力をもっていることへの実感に依拠して、はじめて立ち上がってくる方法の世界なのである。そして歴史的に見るならば、この民主主義に依拠した『方法としての政治』の発見は、幾多の武力闘争や武力的弾圧に対するたたかいを経て、また人権概念の発見を通して、コミュニケイションの規範を相互に承認し合うことによって、平和的方法で合意を作り上げる人間的理性の発見、その方法への多くの人びとの深い同意と信頼の形成によって可能となってきたのである。そこに民主主義的なコミュニケイション規範によって規律された議論と合意の公共的空間が、生み出されてきたのである。」(P.212)

「人類は、確かに、その歴史過程で、長期にわたって、暴力を行使して他者を支配することで共同性を成り立たせる秩序--差別的な秩序--に依拠した政治を続けてきた。しかし市民革命は、個の尊厳や基本的人権という価値を社会的に承認させ、その価値を土台にして関係性を形成していくという新たな平和的な方法に依拠した政治、新たな共同性を実現する段階を切り拓いた。そこには、基本的人権や人間の尊厳や平等などの価値が承認され、組み込まれている。そのことが民主主義的な公共性空間の第一の前提となる。それは当然、人権や人間の尊厳をこそ共通の価値として実現していきたいとする願いを共有する空間でもある。そしてその願いは、その空間の規律として働くとともに、その公共的な空間を維持していこうとする力ともなる。
 第二に、そのような空間において、共同性のあり方--社会の秩序や制度のあり方、課題に対する対処の方法、選択や合意の形成--が議論され決定されていく。それは民主主義という方法によって行なわれる。その過程にはコミュニケイションそれ自体に組み込まれた規範が働く。確かにコミュニケイションに内在化された規範をどう把握するか、それに関わる人間の真理認識の可能性などについては論争があるとしても、重要なことは、人類は、コミュニケイションを介して合意を形成するという方法を高めてきたのであり、この合意形成のための規範は、コミュニケイションの発達と共により普遍的なものへと発展していくと捉えることができるだろう。
 第三に、共同性の人間的あり方の探求という課題の共有とコミュニケイション規範の主体的獲得を踏まえて、人々は、自らが、共同性を担う主体として、この公共性空間に、新たな関係や秩序や規範、正義等々を形成する主体として登場し、議論と合意形成に参加する。それは自らが生きる場の主体、生きる場の主権者として政治参加する過程となる。
 重要なことは、このような『方法としての政治』が起動することで、知は、社会の共同性を作り出し組み変えていく力として働くこととなる。この共同性空間の中で合意へと高められることで、知は、社会的な力、人間社会を作り出す力として働くのである。そしてまたそのような知を議論し、合意していく主体となることにおいて、人は自らを社会の主体として実現していくのである。」(P.214-215)


  2 「政治という方法」の剥奪・喪失状態

「この『方法としての政治』が成立するためにに不可欠なものは、この空間(公共性空間)が、人間の尊厳を実現することを目的として存在しているという安心や信頼感であろう。人はそれを土台として、表現に応答してくれる他者との関係を作り出す。
 表現は、応答してくれる他者を立ち上げる力をもつことによって、他者へ働きかける方法として機能することができる。応答してくれる他者と出会い、その応答し合う繋がりの中に規範や価値や一定の認識を共有することで共同的な意志を作り、それを社会的意志として組織化し機能させるときに、『方法としての政治』は社会を作り出す力として展開する。しかし今、そういう応答的関係が極度に奪われつつある。
 子どもたちは、極度に自己の真実についての表現を避ける。おかしいと思っても、その場に期待されている、あるいは排除されないための、居場所を確保するための表現(戦略的表現)を注意深く選択する。過剰に気遣いし、他者の求める自分を演出する。そこでは自分の真実に応答してくれる他者を見出すという表現の機能はほぼ断念されている。だから表現は、自分たちの真実に依拠したい思いや認識や意思の共同的形成(合意形成)の力を奪われていく。むしろ、その空間の支配と被支配の論理に同調し、その支配を強化する同調者、人間の尊厳を奪う共犯者へと自己を貶める性格をすら帯びる。たとえばいじめに同調する表現を強いられる中では、いじめへの加担者になることを強制されてしまう。これらの中では、『方法としての政治』を立ち上げる表現の機能が奪われているのである。この状態のままでは、自己の表現を通して、その場の主体として登場することは困難である。
 同じことの別の側面でもあるが、公共性空間それ自体が、個の尊厳を守り、励まし、意識化し、支える共同の場としての性格をもつかどうかが問われている。確かに現実的な政治論争の場という意味での政治の過程は、対立的でもあり、権力的な支配や抑圧が展開する場でもあり、決して政治の場は個の尊厳を励まし受け入れる空間としては機能できないかもしれない。だからこのような支配的政治権力と『たたかう』という決意をもった強固で意識的な主権者であることにおいてこそはじめて、政治参加は激しく意欲されるものとなるだろう。しかしそれでも、そういう『政治』の現実--ある意味で敵対的利害の衝突としての政治--の土台に、個の尊厳や人権を実現する共同を高めたいとする意思が人々に感じ取られること、そしてそこへの参加が励まされることが、不可欠であろう。だからこそ『方法としての政治』を起動させるためには、公共性空間は、同時に個の尊厳にたいする深い共感と支えを組み込んでいかなければならない。」(P.215-217)


  3 学校の中に「方法としての政治」を立ち上げる―憲法規範、子どもの権利条約を学校の中に生かす

「日本の学力競争は、『方法としての政治』を否定し『市民的自立』を妨げる性格をもつ。(中略)
 第三に政治に関わる課題が、学びにおける批判的分析の対象領域から大きく排除され、教育内容とカリキュラムの『非政治化』が強力な圧力の下で進行している。本来、教育における政治的中立性とは、なによりも、権力が教育価値に介入しないという意味、政治権力は教育価値内容に対して『中立』の立ち位置を求められるという意味で使用されるものであるが、ここで言う『非政治化』は、政治問題は扱うなという圧力によって、社会や政治そのものを批判的分析の対象に据えて自分たちの生き方や『方法としての政治』を立ち上げていく学びを、教育の場から排除するということを意味する。単にある特定の政治的主張や考えを抑圧するということではなく、一人ひとりが生きている関係性、生活、生き方を批判的に考え、主体的に作り、変革していく方法を奪い、また自分の中にそういう力があることを意識させないようにすることである。今自分が生きている関係性、制度、等々は自分の力で変えようがないものとして、それを受容して生きるほかに道はないと思わせるということである。」(P.219)

「今、子どもたちは表現することが非常に難しくなっている。自分の抱えている苦しみや困難やおかしいという感覚をそのまま表現することは、大変に困難になっている。『おまえには価値がない』、『おまえの困難はおまえ自身の自己責任によるものだろう』、『自分の努力の足りなさを棚に上げて批判などできるはずがないだろう』……。それは関係への働きかけとしての政治の最も根源に据えられるべき能動性を封殺する。いじめの暴力的空間でサバイバルするための戦略的な同調の表現は、自己の誠実な表現、他者に働きかける表現としての質を奪われ、むしろ関係の奴隷としての自己を演じさせもする。表現に対する徹底的な抑圧と否定、恐れという状態から、いかにして主体的な表現を取り戻すのかが問われているのである。そのためには、自己の思いに共感してくれる他者が不可欠となる。自己を否定する関係を打ち破る大きな力となるのが、他者による共感と承認とケアであろう。ジュディス・ハーマンは、心的外傷から回復するためには、自己の表現を遮断された孤立状態を脱すること、そして自己の思いや表現に共感してくれる他者の支えとケアによる『人間の共世界(human commonality)』--共に生きる世界--の回復が不可欠であることを指摘している。」(P.221-222)

「公共性を成立させうる規範は、外から持ち込まれるのではなく、応答的関係、表現とコミュニケイションを重ねる中で、コミュニケイションに参加する者たちの力によって生み出されるのである。共に生きるほかない関係性の中で、他者と自分の尊厳を守りあう共同を探求し(『本源的公共性』)、生きる共同的空間の課題をともに担い(『社会的公共性』)、対等な他者との合意形成の規範を共有して(『市民的公共性』)、応答的コミュニケイションで新しい関係性を自分たちの生きる場に生み出していくことが必要である。」(P.223)


第7章 「知識基盤社会」と学力--知識基盤社会、「society 5.0社会」、ロボット、AIと教育の未来
 (二)公教育システムをめぐる価値管理の仕組み


「そういう歪みをもった知が、教育価値の管理システムによって、学校教育に強力に推進されている。特に2000年代に入って、新自由主義教育政策の下で、教育内容と教育価値を管理する仕組みが緻密なものとして作り出されてきた。
(中略)
 しかもそれらによって管理される価値指標は、数値化された形で作用していく。教育をめぐる達成度が数値化されることによって、教育価値にたいする管理は新たな様相を帯びていくこととなる。
(中略)
 第四に、教育行政は、公教育管理の説明責任をこの数値指標を用いて果たすことができるようになる。その結果、この数値による管理が、学校評価、学校管理、学校改革を主導する力を持ち始める。権力が学力を目標化しそれにそって成果(数値的なエビデンス)を示すことが、人々の学力向上の願いを支える働きとして受けとられ、権力が教育の内的価値を方向づけ管理することが正当化されていく。むしろそのような統制的管理が、国民の教育要求に応答する権力の責務として支持されるという意識上の転倒すらも引き起こされる。すでにOECDの提起する指標に沿った国際競争力としての学力の向上を掲げることで権力が支持され、ナショナリズムと学力政策が一体化する事態が生まれている。権力の教育への内容的介入が教育の公共性や国民の教育の自由を破壊するという見方ではなく、その介入こそが教育の公共性に対する権力の責務を実現すると捉えるような認識が生み出されていく。」(P.229-232)


 (三)「Society 5.0」の未来像と教育像
  3 「公正に個別最適化された学び」の問題点--教師の働きかけは不要になるのか


「その際に検討しておく必要があるのが、『個別最適化された学び』という理念の問題性である。その『最適化』は、今日のAI技術においては、大きな限界をもっている。その『最適化』された学習課題、学習プログラムは、定型化されたアルゴリズムや確かめられた認識の発達過程、その順序化された段階に即して、あるいは間違いの類型に対応してその誤りを修正するような課題を提供する方法で作り出されるものとなる。到達目標に沿って、そこに至るためのプロセスが段階化、課題化され、『最適課題』が順番に、しかも認知科学や時には心理学的ケア視点からの配慮まで含んで―最近のパソコンは、長時間の作業で、入力ミスが多くなると休憩を推奨してくれるように―提示されるだろう。そのようにして到達目標へ至る細かく区分された階段を一つひとつ登っていくような『個別最適化された学び』が提供されるのである。
 しかし学習は、本質的な意味において、価値探究の過程である。それは単に獲得対象となる科学的な知識それ自体が価値をもつということを超えて、実は子どもが、どう生きるかを探究し、その学習によってよりよく自分の生き方を切り拓いていこうとするような価値の探求の過程である。その意味で、学習自体が価値的、価値探求的なのである。個々人の学習ログとビッグデータに基づくAIによる『個別最適化された学び』は、その個々の子どもの生き方の土台にある価値葛藤や、さらには学習を通して子ども自身が意識化し自らの生き方に実現しようとしている課題や価値の探究に寄り沿い、その意味での一人ひとりの学習の固有の主体的な回路を見い出し、それを支援できるのであろうか。学習に向かうとき―学習に向き合うことが困難な状態を含んで―、そこにある葛藤や拒否の感情や意欲喪失やあるいは興味や頑張ろうとしている構えなどの子どもの固有の価値的な構えに応答するような『個別最適化された』支援や課題の提示を、AIができるのであろうか。生活綴方を書く子どもに寄り添い、その世界を子どもと共有し、子どもの意識的な生き方を引き出そうとするような『個別最適化された学び』への支援をAIが代替できるとは考えられないのである。その子どもの葛藤に共感し、子どもの命を共に生きようとする他者としての教師をAIが代替できるとは考えられないのである。
 もちろん、AIが推奨する『個別最適化された学び』のプログラムは、子どもに寄り添う教師を支えることはできよう。しかしそれは教師の指導を決して不要にはしないのである。」(P.241-242)


  4 「スキル化」される学び--学びにおける公共性空間の重要性

「『Society 5.0』という未来構想から見い出される人材養成、人間能力への要請は、はたして、どのような意味で子ども自身の生きることと結びついているのだろうか。STEAM教育は、一体どのような子ども自身の内在的な要求として組織されようとしているのだろうか。政策化された『Society 5.0』対応の教育改革構想において提示される人材育成は、あまりにも性急に、そしてストレートに企業のグローバルな経済競争の必要と戦略から、粗野な形のままで教育の場へ持ち込まれている。そしてそのような人材育成の課題が、さまざまな『〇〇力』としてカタログ化され、その能力の獲得に必要な学習方法やプロセスが、認知心理学や学習心理学で加工され、さらにはビッグデータ解析による『個別最適化された学習』として個々人に提供される学習システムが提唱されているのである。ネット上に組織されたバーチャルな学校は、『Society 5.0』の未来が求めるスキル課題を提示し、子どもたちはこのバーチャルな空間の学習競争に参加するのである。
 そのような学びからは、子どもたち自身による未来探究がほとんど奪われている。『Society 5.0』社会の求める能力はすでに確定していて、それがあれば『予測困難な社会』、『予測不可能な社会』―これらのフレーズは『Society 5.0』とはなにかの説明に常に繰り返されている―に完全に対処可能であるとされているのである。考えてみれば、『予測不可能』だとすることは全く無責任というほかない。それは子どもに、未来社会は予測不可能なリスク社会で、君たちが未来をどうするかなどどいうことを考えるのは無駄だといっているのと同じであろう。現代の矛盾や困難を読み解くことによってこそ、未来を構想し、その未来を形成する主体として成長していくことができる。その手がかりはたくさん提示されている。格差貧困の拡大、テロや戦争の展開、地球環境の破壊、あるいは新たに課題化されていく人権問題の展開、いじめ、過労死、パワハラ、ジェンダー問題、等々。あるいはより高度な生産の可能性、AIやビッグデータのもたらす可能性、等々。それらの課題や新しい可能性に向かい合うとき、新しい希望としての未来像が切り拓かれる。そういう知を切り拓くことが、学校教育の使命ではないのか。それらの課題との向かい合いを全て取り払って、『Society 5.0』社会でグローバル経済競争に勝ち抜くための『〇〇力』獲得に学習を一面化して良いのだろうか。」(P.244-245)


あとがき

「(4)これらの検討を経て、私自身において明確になった一つのの視点は、知が人間社会に変化を及ぼす作用の回路には、2種類があるのではないかという考えである。一つは知が、直接的な生産過程に組み込まれることで、経済的生産力が大きく高まるという回路である。この回路で働く知の力は、今日の生産様式の下では、グローバル資本の力として具体化される。いかなる知―AIや科学技術の開発―を獲得するかが、グローバルな経済競争の最も中心的なテーマになっている。企業から提示される人材としての能力への要求も、この点に焦点化されている。学校教育に持ち込まれようとしている学力要求、コンピテンシー要求も、この点に焦点化されている。しかしどんな社会を創るのか、今社会に生まれている矛盾や困難をどう分析し、どう改変していくのかに関わる知が高められ、社会の合意となり、一人ひとりが生きる場の権利主体となっていくような知の回路、社会の新しいありようを切り拓くように知が働くもうひとつの回路が、それとは別にあるのではないかということである。
 そしてその回路においては、一人ひとりの知と判断が、まさに共同的に生きる場の権利主体としての平等性において働き、そこで作り出される合意が、あらたな社会関係、社会制度、社会規範、共同のあり方を作り出す力として働いていくということである。それは、人権や平等、格差や貧困問題、戦争や平和、いじめや暴力、環境問題や地球の持続、各種の差別やマイノリティーへの抑圧、ジェンダー差別、激しい競争や孤立化の危機、等々の、一人ひとりの生き方、共同のあり方などについての合意を形成する努力、民主主義が必要な領域において作用すべき知である。それは人々の判断を介さない客観的『正解』を確定することができない領域である。
 しかしそういう知の働く回路が、残念なことに、学校教育の中から、子どもたちの学びの場から、ほとんど失われてしまっているということである。そのことの結果として、結局子どもたちに、資本主義的な生産過程で資本の剰余価値生産を高める知だけが、本当の知であると考えさせてしまうような事態が、深く学校教育の中に組み込まれてしまっているということである。この第二の回路を学校教育の中に、学びの中に意識的に取り戻すことが、今不可欠になっているのはないかということを強く考えている。」(P.265-267)




 以上、本ノートでは、途中に一度も私のコメントを挟むことなく、抜粋引用だけを続けてきました。私としては、個々の文章についてどうこうと言うより、本書『「知識基盤社会」論批判』全体から学んだという思いです。

 本ノートの冒頭で私は、約3か月前に書いた「教育学文献学習ノート(14)2018-2021教育政策(関連)文書群」(2021.3.11-13)で取り上げた過去3年間に発表された11編の教育政策(関連)文書をリストアップしています(「(関連)」と挿入したのは発表主体が中教審・文科省だけでなく、内閣や経産省も含むため)。佐貫の本書は2020.3.5の発刊であり、本書で佐貫が下敷きにした初出文献の発表時期は2014年3月~2017年7月となっているので、私がリストアップした文献のうちD-1、D-2以外は佐貫の本書執筆期間中に既に公表されていたと思われます。
 このことから私自身は、本書の中心テーマである「知識基盤社会」論の批判的検討作業以外にも、それと関連しながら、「Society 5.0」(G・B・C など)、「未来の教室」・「個別最適化された学び」(C-1)などについての批判的検討の手がかりを得ることができました。


 実は、今年2年度目になる京都女子大学での「教育課程論」講義では、今週からの数回を以下のような内容ですすめることを計画しています。

第9回(6月11日)
 9.「資質・能力」「主体的対話的で深い学び」「カリキュラム・マネジメント」~2017-2018年版学習指導要領~
第10回(6月18日)
 10.2020年代の教育課程の方向
      ~コロナウィルス感染下での教育課程のありかたを考える
  10-1.コロナ感染拡大により、子どもたちの学校生活はどう変わったのか?
第11回(6月25日)
 10(続き)
  10-2.コロナ感染の先行きが不透明な中で、教師に求められることは何か?
第12回(7月 2日)
 10(続き)
  10-3.2020年代の教育課程の行方は?
    ~2021.1.26中教審答申を批判的に検討する~
  10-4.子どもの学校生活・家庭生活と教育実践の現実に即した教育課程編成のあ       り方を考える

 このうち第9回の現行(最新)学習指導要領についてはこれまでも取り上げてきました。また第10-11回のコロナ禍の学校・教育課程問題は初年度であった昨年度にコロナ感染拡大下において急遽取り上げたもので、昨年は1回で終わったのを今年は2回使ってじっくり取り組もうと思っています。そしてその後の第12回の近未来教育課程問題は、今年初めて取り組むものです。果たしてそこに、「本ノート(11)」で取り組んだ教育政策検討や今回の佐貫の著書の学習の成果をどれだけ織り込めるかはわかりません。講義のポリシーとして私が文科省批判をしゃべるまくって終わり、ということにだけはしたくないので、必ず受講生の討論課題を設定し、政策とそれへの私の批判に対する「忖度しない意見」を聞きたいと考えています。




 さて最後に、「教育学文献学習ノート(19)佐貫浩『学力・人格と教育実践 変革的な主体性をはぐくむ』」の末尾でも行なった作業、すなわち、拙著『「生きる力」論批判』(2019)での関心事との関わりで、本書の中で佐貫が「生きる力」に言及した箇所をピックアップしてみたいと思います。
 今回は、私が気づいた限りでは、以下の一箇所だけでした。
「第4章 労働の権利と生存権保障―新自由主義と雇用の変貌、破壊」 の、まだ(一)節に入る前のまえがき部分に、以下のような記述があります。

「一般に教育学の側からすれば、本来、発達や人格の価値に深く結びついている学力概念を、経済的価値、ましてや資本にとっての剰余価値の獲得という視点から意味づけ評価するということは、一面的という以上に邪道とも言える方法として、批判の対象とされることもあろう。しかし、逆に考えてみれば、『知識基盤社会』の進展のなかで、グローバル資本の剰余価値の獲得という視点から人間の労働能力が、その知的な質の高低を理由に大きく格差化され、大きな賃金格差が正当化されつつあるなかで、経済学的に見ても、それが決して科学的な根拠をもつものではないことを明らかにしうるならば、それは人間の労働の尊厳を守るための一つの重要な分析方法となりうるだろう。
 あわせて、『生きる力』という学力の把握についても検討しておきたい。生きることは日本国憲法の人権の中核にある権利―第13条・幸福追求の権利、第25条・生存権保障、--である。その前提にたてば、[佐藤註・以下30文字に傍点]それを獲得しなければ生きられないことになる学力や能力、『生きる力』とはいったいなにを意味するのだろうか。そもそも生きることは、社会的な共同の営みとしてこそ実現可能であり、一人ではどんな人間も生きていくことはできない。人間が生きられるかどうかは、孤立した個人の自己責任であるはずがなく、困難を抱えた個人が存在するとするならば―いや全ての人間は、なんらかの意味で弱さを抱えており、他者のケアなしには生きていけない―、『生きる力』は個人のなかで完結するものではあり得ないだろう。だからこそ憲法は、生きることを権利として把握するとともに、それを社会の側が保障することを求める構造になっているのである。
 このことを踏まえるならば、おそらく、教育政策のなかで主張されている学力概念としての『生きる力』の理論は、知の習得の仕方、知識や技術と人格との結合のあり方、その人格が生きていく上で、知識を自分の主体性や創造性を構成する要素として使いこなすことができるのかどうかという学力の『質』を問題にしているのだという返事が返ってくるかもしれない。しかし一方で、今、学校教育に浸透しつつある『生きる力』というメッセージは、間違いなく競争でサバイバルできる力、『自己責任』で生きる力として多くの子どもに受け止められている。この問題を解きほぐすためにも、個人の学力に現代の競争--労働力市場での競争と学力競争の両方の競争--を勝ち抜ぬ(ママ)く自己責任を背負わせる論理の誤りと非人間性を批判する必要がある。」(P.144-146)

佐貫は「『生きる力』という学力の把握」と書いています。つまり、「生きる力」を学力概念と把握して批判しています。この点に私はまず違和感を持ちました。「生きる力」とは学力概念なのか?
 拙著『「生きる力」論批判』(三重大学出版会 2019)では、冒頭の「はじめに」で以下のように書きました。


「本書で批判的に検討する『生きる力』は、1990年代に登場し日本の学校教育に大きな影響を与え続けてきた教育目標理念である」(P.1)

 それ以下の叙述においても、思い出せる限りでピックアップしてみると以下のように書いています。

「『生きる力』は望ましい教育目標理念ではないので、見直すべきである。」(Ⅱ.「生きる力」という教育目標ラベルへの根本的疑問 Ⅱ-6.まとめ P.91)

「Ⅱでは1996年中教審答申における教育目標の『ラベル』としての『生きる力』の不当性を批判した。ここでは本章における戦後教育目標(人間像)論の概括を踏まえて、『生きる力』の下位要素について検討したい。」(Ⅲ.戦後日本教育政策史における『人間像的教育目標』の系譜 Ⅲ-5.1996年中教審答申の「生きる力」論における教育目標の下位要素 P.110)

「1996年中教審答申では、『生きる力』は下位の教育目標群を束ねるラベルであるが、学校現場をはじめとする現実の教育界への普及・浸透の過程で『生きる力』を頂点のラベルとする教育目標群がその構造を維持したままで広く普及していったかどうかは疑問である。」(Ⅳ.中教審「生きる力」の伝播・浸透―「生きる力」を書名に含む著作の集成と検討― P.118)


 このように私は拙著の中で「生きる力」を一貫して1996中教審答申が提案した教育目標であると捉えてきました。もう少し詳しく言うと、「生きる力」とは学校教育の教育目標を人間像の形で表した理念であり、人間像的教育目標全体を指すラベルであって、このラベルの下位にさらに具体的な下位目標群がある、という把握をしていました。

 
1996中教審答申の「生きる力」概念規定は以下の通りです。
「我々はこれからの子供たちに必要となるのは,いかに社会が変化しようと,自分で課題を見つけ,自ら学び,自ら考え,主体的に判断し,行動し,よりよく問題を解決する資質や能力であり,また,自らを律しつつ,他人とともに協調し,他人を思いやる心や感動する心など,豊かな人間性であると考えた。たくましく生きるための健康や体力が不可欠であることは言うまでもない。我々は,こうした資質や能力を,変化の激しいこれからの社会を[生きる力]と称することとし,これらをバランスよくはぐくんでいくことが重要であると考えた。」

 これに対して、2003年中教審答申「初等中等教育における当面の教育課程及び指導の充実・改善方策について」では、「生きる力」の定義をこう述べています。
「いまだかつてなかったような急速かつ激しい変化が進行する社会を一人一人の人間が主体的・創造的に生き抜いていくために,教育に求められているのは,子どもたちに,基礎的・基本的な内容を確実に身に付けさせ,自ら学び,自ら考え,主体的に判断し,行動し,よりよく問題を解決する資質や能力,自らを律しつつ,他人とともに協調し,他人を思いやる心や感動する心などの豊かな人間性,たくましく生きるための健康や体力などの[生きる力]をはぐくむことである。」
 2003答申は何の説明もしていないのですが、定義の文章の冒頭に「子どもたちに,基礎的・基本的な内容を確実に身に付けさせ,」という一節が新たに加えられています。そして2003答申の冒頭の「答申の概要」というところに、1996答申にはなかった以下のような以下のような概念図が掲載されています。


 これは実は中教審の「生きる力」の説明における大きな変化です。1996答申の「生きる力」概念規定には、「学力」という用語は使われていません。また、同答申が多くの紙幅を費やしている「生きる力」についての説明の全体をくまなく見渡しても、「学力」という用語はわずか数箇所しか出てこないのです。1996答申を見る限り、中教審は子どもの学びについて言及するときにあたかも「学力」という用語を捨ててもっぱら「生きる力」という理念によって説明しようとしているかのようです。
 ところが、2003答申でこの点は大きく変化します。「生きる力」の概念規定にこっそり追加された「基礎的・基本的な内容」とは、1950年代頃から文教政策が「学力」について語るとき頻繁に登場してきた用語です。さらに概念図を見ると、「生きる力」概念は3つの下位概念=「確かな学力」「豊かな人間」「健康・体力」の上に成り立つものとして図示されており、ご丁寧に3要素の一つである「確かな学力」について吹き出しを作って、「確かな学力」がさらに8つの下位項目からなることを説明しています。他の2つの要素も、また「確かな学力」の説明文章「知識・技能に加え、自分で課題を見付け、自ら学び、主体的に判断し、行動し、よりよく問題を解決する資質や能力」の内容も、大筋においては1996答申を継承したものではありますが、新たに用語として「学力」が登場したことは極めて明確な変化です。この変化について、私の京都教科研での報告
「拙著『「生きる力」論批判』を語る--研究生活40数年と出版後約2年の視点から」(2020.12.19)では以下のように論評しています。

「2003答申における『生きる力』概念の変化(変質)の背景には間違いなく1990年代末以来のすさまじい「学力低下」批判・攻撃(これについては多くの研究者が事実に基づくコメントや反論をしています。約20年経った現時点から振り返っての冷静な「論争」総括が必要と思われますが、自分自身の研究作業としては着手できていません)を『躱す』という中教審・文科省の課題意識があったと思われます。《1996中教審答申で一旦は時代に応じた柔軟で幅広い『生きる力』規定をしたけれども、『学力低下』批判勢力の皆様(西村和雄、和田秀樹ら)がおっしゃるように、そこでは伝統的に重視されてきた基礎学力を含めて学力を重視するという既述が足りませんでしたので、学力面を補強する形で『生きる力』の概念規定を補強致します》と『学力低下批判』で圧力をかける勢力(その背後には財界の意向もあったでしょう)に対して白旗を掲げる、というような対応は文科省のプライド?かなんかわかりませんが、できなかったんでしょうね。
 見てきたように、どう見ても事実として『生きる力』の規定内容が変化しているのに、その変化を2003答申は頑なに認めようとしません。1996答申では『学力』の語は『生きる力』概念規定に含まれていなかったのに、あくまで『子どもたちに[確かな学力],豊かな人間性やたくましく生きるための健康や体力などからなる[生きる力]をはぐくもうとする考え方は,平成8年の中央教育審議会答申(第一次答申)以来,本審議会としての一貫した考え方である。』(P32/.33の答申文引用)だと言い張るのです。」(P.22)


 拙著関連の説明が長くなってしまい、佐貫の著書との関係がわかりにくくなってすみません。論旨を戻します。
 私の異論の第一点目は、「生きる力」概念は、少なくとも1996答申における初出の段階では教育目標理念ではないかということ。答申の概念規定からその教育目標理念の内容は佐貫の言う「学力」という範囲にはおさまらないのではないか、ということです。
 異論の第二点目は、2003答申で「生きる力」の構成要素・下位項目として「確かな学力」が登場し、そこで「学力」は「生きる力」の中に公式に位置付いたけれども、だからこそ「生きる力」の「学力」以外の構成部分もあるわけで、佐貫のように学力論としてだけ「生きる力」を批判するのはあたらないのではないか、ということです(もちろんこれについては、私が取り上げてきた佐貫の『学力と新自由主義』『学力・人格と教育実践』及びその他の佐貫の著作から、彼の学力把握・学力論について改めて総括的に学び直す作業を抜きにしては断定してしまえないのですが)。


 ところで私は拙著『「生きる力」論批判』「Ⅴ.『生きる力』に関する先行研究 Ⅴ-10.(2009.2.20)佐貫浩による『生きる力』理念への徹底批判」の中で佐貫の著書『学力と新自由主義 「自己責任」から「共に生きる」学力へ』を紹介し、以下のようにコメントしています。

「このように佐貫は,2008年中教審答申が『生きる力』を教育目標として措定すること自体の欺瞞性を厳しく批判している。要するに2008年中教審答申の教育目標設定は,子どもたちのありのままの生き様に共感しそれを励ますようなものでは毛頭なく,グローバル資本が競争に勝ち抜くためにその構成員予備軍である子どもたちに『このような能力を発揮せよ(さもなくば切り捨てられるであろう)』と恫喝しているに過ぎないと。2008年中教審答申が子どもたちが『主体的に生きる』こと,『力があるなしにかかわらず,自分の目的を追求し,その目的を実現していく過程として日々の生活や学習を意欲的に生きる』ことを励まそうとしていない,そこに関心がないという佐貫の批判に私は強く共感する。」(P.192)

 上記コメントで私は、佐貫が「2008年中教審答申が『生きる力』を教育目標として措定すること自体の欺瞞性を厳しく批判している」と述べています。しかしいま改めて私が紹介した佐貫『学力と新自由主義』の該当引用箇所を見返してみると、佐貫が「生きる力」に批判的に言及する文脈は、以下のように叙述されていました。

「新学習指導要領(=2008-09 年版-引用者註)は,『生きる力』の理念で全体が統合されている。しかし実は,この理念は,[佐藤註・以下16文字に傍点]子どもを人間として生きさせる理念としてではなく,グローバルに展開する資本が勝ち残るために必要な人間の能力を『生きる力』として把握し,そういう能力を獲得させる効率的な教育訓練プログラムを,『人間力』形成という名で求めている。」(P.49-50)

 ⇒上記引用では、「生きる力」は新学習指導要領全体を統合する「理念」とされ、また人間の能力を把握する枠組みと捉えられています。

「だから,この『生きる力』は,子どもの生き抜く力ではなく,グローバル競争に参加している資本の目標・戦略を担う力があるかどうか,さらにはこの競争社会で格差化,差別化された待遇を受けても,なおかつそういう新自由主義社会日本を受け入れ,支える態度を持てるかどうかという視点から求められていることがわかる。」(P.51-52)

 ⇒上記引用では、「生きる力」は「子どもの生き抜く力」ではなく、「資本の目標・戦略を担う力があるかどうか」、「新自由主義社会日本を受け入れ、支える態度を持てるかどうか」という視点から「求められている」と書かれています。「~担う力」とか「~支える態度」が「生きる力」の構成要素であると把握しているのか、それともそれらは「生きる力」に影響を与える別の能力要素であると見なしているのかはわかりませんが、例えば「新自由主義社会日本を受け入れ,支える態度」というかなり包括的な、「態度」カテゴリーに属する人間の特徴を、佐貫は全て「学力」カテゴリーの下に包摂していたのでしょうか。
 確かに上記2箇所の引用は、佐貫
『学力と新自由主義』「第二章新学習指導要領の学力観 二 ハイパーメリトクラシーと『生きる力』という理念」の中にあり、「学力」をタイトルとする本の中の「学力観」を取り上げた章で論じられてはいるのですが。


 以上の検討から、佐貫は確かにその著書『学力と新自由主義』における行論の枠組みとしては「学力論」として「生きる力」を論じているが、その内容を検討すると必ずしも「学力」には包摂されない人格の側面・要素とも関わらせながら「生きる力」概念を批判しているのではないかと私は思いました。ただ、拙著では《「生きる力」=教育目標理念として論じる》という自分の土俵に引っ張り込んで佐貫を援用しているけれども、佐貫自身は私の言う「教育目標理念」というような、「学力」も含むがそこには止まらない広範囲の内容を持つ理念として「生きる力」を論じるという立場を表明しているわけではない、ということがわかりました。


 ところで、教育学研究において、 生きる力 (註・いわゆる中教審答申の、という意味ではないことを示すために、括弧を外して記載しています)は、概念として定立し、意見交流し、内容を豊かに発展させていくべきことなのでしょうか? それとも彼岸の主張として徹底的に批判すればよく、学問的には顧みる必要がない言辞なのでしょうか?

 私自身は拙著で、「『生きる力』は教育目標たり得ない!」と断じました。「生きる」+「力」という複合語の意味について辞書的説明に依拠して
「生理的に生命体を維持させている諸力」(P.85)と解釈し、さらに「そのような『力』は、教育が干渉してあれこれできるものではない。」(同)と断じました。つまり、仮に「生きる力」と呼べるものがあるとしてもそれは教育の世界と無関係な人間の営みであり、従って教育学で積極的に検討する意味はない(教育学で人が生きることに関わって議論すべきことは多々あるが、「生きる力」はそこには含まれない)という立場です。

 そして、同様の意味で佐貫が教育学研究者として 生きる力 に対してどのような態度を取るのかが、私の強い関心事なのです。そのことを、さきほど、「さて最後に~」として紹介した本書第4章の佐貫の記述で確認してみましょう。
 引用の二段落目は
「『生きる力』という学力の把握」への批判から始まっています。そして、
  「『生きる力』は個人のなかで完結するものではあり得ないだろう。」
と佐貫は語ります。これは「生きる力」自体を批判・否定しているのではなくて、その本来的あり方について語った文章です。しかし、これ以外の部分で佐貫は肯定的メッセージの文脈の中で「生きる力」の語を使っていません。このことから勝手に推測すると、《生きる力 を論じるならば、個人の中に矮小化することなく、他者との関わりにおいて、集団の中で、社会の中でこれを捉えなければならない》という佐貫のメッセージが読み取れるように思いますが、そのような考え方を佐貫がさらに展開しようとしていたのか、それとも《人が生きることと教育の多様な豊かな関わり、つながり》をこそ論じていくべきであって 生きる力 という言辞に注目しての検討にはあまり大きな意味はないと考えていたのか、それは現時点ではわかりません。さらに佐貫の他の著書を含めて学び続けていきたいと思います。

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