37 読書ノート  原田真知子『「いろんな人がいる」が当たり前の教室に』(2021)

原田真知子『「いろんな人がいる」が当たり前の教室に』(高文研)
   【2021.3.21刊行 2024.2.16-22通読 2.24-26ノート作成】
(参考)
片岡洋子「『自己の育ち』と子ども理解」
   教育科学研究会編『教育』No.906【2021.7.1刊行 2021.?.?通読 2.24.2.24再読】
原田真知子・片岡洋子「インタビュー 小学校教育実践をめぐる対話」
   教育科学研究会編『教育』No.937【2024.2.1刊行 2024.2.16通読】
原田真知子「子どもが子どもとして生きられる教室へ 4年生とともに学んできたこと」    教育科学研究会編『講座 教育実践と教育学の再生 2教育実践と教師 その困難と希望』(かもがわ出版)』【2013.6.30刊行 2024.2.24通読】
原田真知子「子どもたちが教えてくれていること」
   教育科学研究会編『教育』No.918【2022.7.1刊行 2024.2.24通読】

 京都教科研第351回例会(2024.2.17)に向けて、『教育』No.937(2024.2)の「特集1 現場目線の大学論」を通読しました。その中の原田真知子さんと片岡洋子さんの対談()を読み、すぐにを以前に入手していたことを思い出しました。は2021年3月の刊行で、おそらく私は刊行から間もなくの片岡洋子論文()でを知り、入手したのではないかと思います。もしくは、の解説を書いておられる上間陽子さんによる紹介をどこかで読んだのかもしれません。いずれにせよ、せっかく入手したのにすぐに読んでおらず、書架にしまっていました。しかし、の原田・片岡対談を読むよりもしばらく前に、書斎の《近々読みたい本》を集めたコーナー(書架が足りず、床の上^^;)に本書を置いていました。
 『教育』No.637の大学教育特集の中に原田・片岡対談があるのは、小学校教師を退職された原田さんが大学の授業を担当されているからで、それについては後で触れたいと思います。

 原田真知子さんは1982年度小学校教師入職で2017年度退職、最後1年間の再任用を含めて「36年間、学級担任をつとめて」(本書著者紹介)こられました。本書には12編の年間実践記録と6編の短いエピソードが収められています。そのほとんど全てが前年度まで荒れていた学級、荒れていた子どもたちを引き受けて、子どもたちや同僚や親たちと粘り強く対話しながら人間的な信頼関係を築いていった記録と言えると思います。本書の構成は以下の通りです(【 】は、佐藤による補足説明)。

Ⅰ 「いろんな人がいる」が当たり前の教室に  【6年】
Ⅱ 果てない波は止まらなくとも        【3年 異動初年度】
Ⅲ 「悪ガキ」たちとともに          【5年1組(前年度は4年3組担任)】
Ⅳ ポケモンたんけんたい!          【3年】
Ⅴ 英志と5年生の子どもたちとともに学び続けた1年間
               【5年(3年・4年3組とこの学年を受け持つ) 学年主任】
Ⅵ 子どもが子どもとして生きられる教室へ―4年生の子どもたちとともに学んできたこと
             【4年 (3年時担任が一人もいない中で学年主任) 2011年度(異動後初年度)】
Ⅶ 分断と不信を越えて―6年2組の1年間
Ⅷ いつか「思い出話」をしよう―保護者たちとつながりながら

               【4年(3年から編制替えなし) (異動後初年度)】
Ⅸ ゆっくり大きくなっていこう                  【3年2組】
Ⅹ 暴れて泣いていじけてスネて―大騒ぎの男の子たちと
             【6年(40人学級 前年度も6年担任)】
Ⅺ 「セックスしよう」っていうと、なんで恥ずかしい?―子ども向け性情報の氾濫のなかで
                         【6年1組】
Ⅻ 届かないことば 届きあうことば          【6年】
コラム 私が出会った大人たち・子どもたち
 しょげないでよBaby!~かっちゃんとの4年間~

                                    【3年担任&かっちゃんの交流級(4~6年も)】
 胸いっぱいの『いとおしい』         【1991年度・教師10年目 2年】 
 見当はずれの子守唄~ハルちゃん         【3年  ~6年まで担任】
 20歳の再会~シンゴの10年~         【Ⅷに登場する蓮田進吾とのその後の交流】
 ふみちゃんの「ごめんね…」             【→出会った教頭のエピソード】
 校長先生、泣いてください!             【→出会った校長のエピソード】

 私は教育実践について語る際にどうしてもあちこと脱線したり微に入り細に入りの叙述になってしまうので、それを避け、端的に原田実践について私が感銘を受けた箇所を最初に2つ取り上げておきたいと思います。
 一つ目。「Ⅻ 届かないことば 届きあうことば」(6年)から
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3.哲也のことばを聴き取る
 6年になり、哲也の担任になった。3・4年時に哲也と同じクラスでいっしょに「悪さ」をくり返していた英志もまた同じだ。英志は、5年時には私のクラスだった。そのクラスでは、英志の批判的なまなざしを契機に多くの学びを生み出すことができた。5年の終わり頃、英志は、「オレ、6年になったら哲也といっしょのクラスになって、担任は原田先生になるような気がする」と言っていた。当時、哲也が暴れ始めるとその教室に駆けつける私の姿を見ながら、「自分にも関わらせてくれ」というい思いが英志の中に生じつつある、と私は受け止めていた。
 英志とともに、私は哲也のことばを聴き取り始めた。はじめは、かつての英志との対話がそうであったように、理解と感想(否定的な評価を含まない)、ときに肯定、質問、彼の質問への回答……そのくり返しであった。傍らに英志がいるから、哲也は少しだけ気を緩めたようにいろいろなことばを発した。女の子を品定めするようなことを頻繁に口にした。偏差値の高低で「頭いい」「ばか」と友だちを評することも多かった。授業の内容を「これは受験に役立つのか」と問うてくることもあった。
 哲也のことばを受け止めながら、私は内心「何てわかりやすい子だろう」と感じていた。女性の品定めは、多くのメディアがのべつまくなしに垂れ流している。差別にもとづく嘲笑の文化を反映するものだし、「偏差値云々」「受験に役立つ云々」も彼を取り巻く現実のひとつの象徴である。彼がそれを語るのは、語った内容を頭から否定しない相手に対して、である。だから私は、そういう者であろうとした。そうやって聴き取りながら、一方で英志をはじめ何人かの子と「哲也のことば」について語り合い、分析した。
 同級生を愚弄する哲也のことばについて、「本心じゃねえよな」という英志のことばをきっかけに、子どもたちは様々な仮説を立てながら「なぜ哲也はあんなことを言うのか」をさぐった。その中で次第に見えてきたのは、常に誰かに承認されていたい、自分の居場所を確かめたい、安心したい、という彼の切実な願いだった。
 英志たちは、いっしょに語りあってきた女の子たちの提案で、ある日哲也を「てっちゃん」と呼び始めた。「やめろよ、その呼び方」と言いながらもどこかくすぐったそうな、そしてうれしそうな哲也の様子を子どもたちは見逃さなかった。痩せた体で腕力はなかったが、前のクラスのもっとも弱い子をつかまえてからかったり蹴ったりもしている哲也の暴力性は、実は「弱さ」を受け入れることの恐怖から来ているのではないか、と彼らは読み解いたのだ。
 「どうした? てっちゃん。ふくれてないで言ってごらん」
 そんなことばに、「お前らー!」と軽く怒って見せる哲也の顔は安らかだった。「よく吠える弱い仔犬みたいだね」と私が言うと、「仔犬かよぉ。情けねぇ~」と笑ってみせた。それ以降、哲也は急速にとんがりを失くし、そして語り始めた。彼の生活現実やそれにまつわる悲痛な思いを。
 哲也の額の上に直径3センチほどの円形脱毛を見つけたのは、5月半ばのことだった。それは、哲也が「兄の暴力」を語りだして間もない頃だった。中二の兄は部活をやめ、学校から帰るとパソコンの前を離れない。ネットでいろいろとまずい書き込みもしてるようだ、と哲也は言う。
 いつ暴力をふるわれるかわからない。だから家にいないようにしている。塾が休みの日も、自習室に行く。部屋の壁を隣からいきなり蹴られるのも恐怖だ。
 いつものように英志を傍らに、堰を切ったように哲也は語った。
 「ひでえよ、あいつ。いなくなってほしい。あいつがどこかに留学でもしてくれればいいんだけど、それはないだろうから、オレが全寮制の中学に行くんだ」
 このことばを哲也の母親に伝えたとき、「私も……実は留学でもしてくれればと思っているんです」と涙ぐんだ。家族は「私領域」だとみなされ、しかもそのありようは母親の采配次第と多くの者が考える傾向が強い地域の中で、苦しんでいる母親、そして救いを求める哲也の姿が見えてきた。哲也が奪われてきたものの大きさは、私が思っていた以上だった。
 英志たちの存在なしに、私はおそらくこれらのことばを聴き取ることはできなかっただろう。人は関係性の中で生きている。哲也が想定する「教師との関係性」(彼の中で私をふくめて「教師」とは「語るに足る相手」ではなかった)は、何としてもいったんリセットしなければならなかった。英志の存在が、それを後押ししてくれた。
 私ひとりで哲也のことばを聴き取ることは困難だったと思われる理由は他にもある。子どもは子どもの世界の中で漏れ出す相手の姿を、あるとき大人より正確に見出す。子どもと大人の間にある断層は、多様である。もちろんそれは、「子どもと大人」に限らず、個人と個人のすべての間にある。「ある」という事実を見失ってはならないだろう。だから相手のことばを簡単に聴き取ることなどできない。多様にある断層を前提として、私たちは相手に向き合わなければならない。
 子どものことばを聴き取ろうとするとき、そこにある断層をどう越えていくのか、これをひとりで探っていくことは困難である。だから私は、子どもとともに子どものことばに耳を傾けてきた。おそらくは子どもの世界にいる誰かが、内なる声と重ね合わせながら、彼のことばを最初に聴き取るのだから。
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 長い引用になるので一部(中略)としようかと思いながらも、結局途中省略できずにの3の全文を紹介しました。の記録の中心にいるのは哲也であり、上記引用からだけでは哲也が抱えていた困難や彼の成長の過程が十分に読み取れません。また、彼に伴走し支える位置にあった英志についても、十分に読み取れないと思います。実はで記録されている5年生の翌年の記録であり、の中心的な登場人物(原田先生はひとりの「主役」ではなくて広く学級全体を描こうとしておられ、記録にも15人の名前が登場するので「中心的な登場人物」という形容は自分で使っていて気が引けるのですが)は英志でした。5年当時の葛藤と成長があって6年で哲也をフォローする英志がいるわけですが、これらを描き出そうとしたらの全文を抜粋しなければなりません。
 上記の哲也と原田先生と6年生の子どもたちのかかわりの記録で私が注目したいのは、もちろん大前提としては、《哲也にとって語るに足る相手》の位置に自らを置こうとし続ける原田先生の人間としてのスタンスへの敬意なのですが、その上に立って強調したいのは、原田先生が困難を抱えたクラスの子どもと向き合おうとするときに、この6年生当時だけではなくて常に、クラスの子どもたちに意見を求め、子どもたちが先生が関わりたい子ども(ここでは哲也)をどのように見ているか、またどう働きかけたらよいと思うかなどについて、大変謙虚に考えを聞き、そこから学んで子どもたちとともに困難を抱えた子どもへの働きかけを模索していることです。私の少ない読書経験の範囲ですが、このようにしてクラスの問題に取り組んでいる小学校教師の記録を読んだ記憶はほとんどありません。問題や困難を抱えた子どもと担任教師の関わりを描いた実践記録や、特定の子どもだけではなくてクラス全体と教師の関わりを描いた実践記録は読んだことがありますが、教師がクラスの問題に取り組むときに子どもたちに率直に相談し、彼らの力を実際に借りながら取り組んで行った経緯を描いた実践記録を、私はほとんど知りません。
 ここにあるのは、《教師の子どもにたいする敬意》ではないかな、と思いました。

 二つ目は、東日本大震災の年=2011年度の「Ⅵ 子どもが子どもとして生きられる教室へ―4年生の子どもたちとともに学んできたこと」(の再録)です。ここで中心的に描かれているのはヒロくんとフミヤです。

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3.フミヤが伝えたかったこと
(前略)
 5月11日、算数の授業を始めようとしていたときのこと。ノートに日付を入れながら、リョウタが「あっ、二ヶ月だ」とつぶやいた。震災から二ヶ月目の日だった。子どもたちは、震災の日のことを語り始めた。学区はほぼ全域で停電になっていた。帰宅できない親たちを待って、不安に怯えていた子たちがいた。臨時待機所となった学校の体育館で、夜を明かした子もいた。
 私も自分の話をした。東北の知人たちの安否が確認できるまでの大きな不安。担任していた6年生たちと過ごした卒業までの1週間。そして卒業式……。
 また、震災から2週間ほど経った頃に、新学期を控えて教科書も教材もない、という被災地の方からの声を受け、どうしたいいのかと悩んだ末に、毎年市内の小学校に学習用のドリルを無償で配っていたJリーグのクラブに、今年はそのドリルを被災地に送ってはどうかと持ちかけたことも、話した。クラブはその提案を受け入れ、主力選手のサイン入りのドリルとサッカーボールを、自分たちのクラブの車で被災地の小学校に届けた(その後クラブはチームの選手が被災地に行ったり、被災地の子どもたちをこちらに招いたりと、支援を続けている)。
 話を聴いて、「わたしたちも何かしたい」「手紙書いたりとか、物を送ったりとか、したい」という声があがった。混乱が続く被災地では、必ずしも「送られてくる物」を歓迎している訳ではなく、場合によってはそれらへの対応でさらに疲弊を深めてしまう場合もあることを当事者から聴いていた私は、子どもたちに分かるようにそのことを伝えた。そして、「しっかり学ぶことが、あなたたちにできるとても大切なこと」と。
 「先生、さっきの話、自慢?」と後から言いに来たのは、フミヤだった。
 「そうだね、何かできることはないかなぁって考えていたから、他の人にやってもらったことだけど、そのきっかけを作ることができたってことは、自慢だね。でもまだまだ足りないと思うけどね」
 そう言うと、フミヤはちょっといらついた声を出した。
 「なにそれ。自分だけ何かしておいて、『まだ足りない』ってさ、それじゃオレたちはどうなるわけ。子どもはねぇ、なにかしようと思ってもできないよ。先生よりもっとできないんだよ。」
 胸を衝かれた。陽気なばかりではないフミヤの姿が少し見えてきたようにも思えた。まず、「自慢?」という問い。これまで、フミヤが交わそうとしていた会話は、もしかしたらここで途絶えてしまっていたのかもしれない。「自慢?」と問われて、愉快になることはあまりないだろう。特に子どもからそう問われたおとなは。私も一瞬動揺した。ここで終わらせなくて本当によかった、と気づいたのは、私を責めながら、フミヤが本当に伝えたかったことは、「何かしたい」という思いなのだということに思い至ったときだった。
 フミヤの語り口というものがある。それは「学校的」ではない。だから、伝えられずにきたことがたくさんあったのだろう。「暴力」は、ことばを奪われたフミヤのいらだちと痛みが漏れ出したものだったのでは内面だろうか。
 その日に作った学級通信は、震災特集号とした。それから毎月、11日前後は震災関連の内容にした。子どもたちは、「11日」を忘れなかった。「被災地の子どもたちのことを知りたい」という思いも高まり、ドキュメンタリーなどを見て語り合う機会を増やしていった。

(後略)
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 4年生たちが2ヵ月前の震災について語り合うきっかけを作ったリョウタのことや、それをすぐさま取り上げた原田先生の見事さのこともあるのですが、やはりここではフミヤの《刃》を受け止めた原田先生の対応が心に残ります。子どもたちも先生にも被災地を思う気持ちがある。そこは同じ土俵なのに、自分自身の支援のことを語りながら、子どもたちの気持ちは受け止めつつも「学ぶことが大切」と返した原田先生に対して、フミヤは「それじゃオレたちの気持ちはどうなるんだ」と言いたかったんでしょうか。それを挑発的に自慢?と問いかけたところにフミヤの犯行があり、またこれを原田先生はどう受け止める?怒るか?という《試し》の気持ちもあったでしょう。「オレたちはどうなるわけ」という問いかけ自体への原田先生の直接の答えはわかりませんが、原田先生がその日にすぐ震災特集の学級通信を作ったその思いは、子どもたちに何らかの形で届いたんじゃないかと思います。
 私がここで驚いたのは、フミヤの挑発に「一瞬動揺」しながらも、本当の思いを読み取った原田先生の直感です。直感ではあるでしょうが、これも一つ目と同じ、《子どもにたいする敬意》のあらわれではないかと思うのです。

 これ以上語ることはせず、二つのエピソードとコメントにとどめます。
 実はを読み終えてから、収録されている実践記録はどういう編年経過にあるんだろうということが気になりました。の全12章と挿入されているコラムでの言及を併せて、15の年度・学年の実践記録が掲載されています。学年は2年1つ、3年5つ、4年2つ、5年2つ、6年5つです。各学級の記録に登場する子どもの名前(仮名であろうとは思いますが)も全部ピックアップして参考にし、実践実施年度の順序を探ろうとしましたが、わかったのはコラム「胸いっぱいの『いとおしい』」(2年)が1991年度、(4年)が2011年度の実践であることと、(5年)と(6年)が連続した年度・学年であったことだけでした。考えてみたら、登場する子どもたちやその家庭の赤裸々な事実が書かれている以上、学校・地域・年度などから登場人物が特定or推定されないようにと徹底して配慮されていたのかもしれません。12の章はいずれも実践年度の始まりから終わりまでについて記述されており、そこでの原田先生と子どもたち、子どもたち相互の関係を読み取りそこから学ぶことができれば、読者としては十分満足すべきなのでしょう。

 最後に、の冒頭に(たぶん聞き手の片岡さんによって)次のような紹介文が掲載されています。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 原田真知子さんは教員養成学部の選択必修科目「発達障害のある児童生徒と学級づくり」を担当している。自著(佐藤註:➀)をテキストに、指定した章の実践記録を予め読ませ、質問や感想を大学のLMS(学習管理システム)に提出させる。そこから原田さんが共有したいと選んだ学生の質問や感想を匿名で紹介し、毎回それらに応答しながら授業を進めていく。また当時の子どもたちや教室の写真を見せながら、実践記録には書かれていなかったエピソードも伝えていく。今年度履修登録は95名。履修年次は2年生以上である。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 そしての対談では原田先生が担当する「発達障害のある児童生徒と学級づくり」について紹介されており、これもまた小学校教師退職後の原田先生の教育実践なのですが、その内容に触れることはやめ、京都教科研1月例会に向けてこの対談を読んだときの佐藤のメモを掲載します。
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 佐藤の2023新潟大『教育課程及び総合的な学習の時間の指導法A』とほぼ同規模の受講生数であり、運営のしかたも似ているが、佐藤実践は以下の点で違う。
・岸本清明『希望の教育実践』抜粋を初回に資料配付し、第10回授業直前締切で質問レポートを提出。
・ほぼ毎回のグループ討論(ブレイクアウトセッション)と、毎回の小レポート(学務情報システム「フォーラム」に提出。佐藤と受講生全員が閲覧できる=匿名の交流ではない。
・実践者の岸本清明氏に、受講生の質問を踏まえて講義をしていただいた。また講義後、受講生に「新人教師として学び取れること」をレポートさせ、それについて次回に意見交流し、岸本先生にもコメントしていただいた。
・大きく違うのは佐藤自身が当該教育実践の実践者ではなく、実践者の岸本先生をゲストに招いての学習であったこと。三重大学時代には多くの現職教員を教室に招き、学生に直接話してもらい、質疑応答もした。2023新潟大実践では、事前に受講生が実践資料をじっくり読んで質問を出し、岸本先生に多数の質問群の中から選んで答える形で講義をしていただいたので、受講生と実践者の間の交流はできたと思うが、zoom授業でもあり、授業場面で受講生と岸本先生が直接交流するという点では弱かった。
・なお、受講生の質問や感想レポートを岸本先生に送付する際には、匿名化しなかった。ゲストとは言え岸本先生も授業運営スタッフの一員であり、誰から来たのかわからない質問に答えていただくのは失礼であると考えた。「○○さんからの質問について…」というように話していただくためにも受講生の氏名は必要であると考えた。
・100名前後の受講生であり、他に京女大授業も並行して担当していることから、毎回受講生全員の小レポートにコメントを付けることは断念し、何人かのレポート抜粋を翌週の授業通信に掲載してコメントすることにした。その方針について授業通信「教育課程&総合的な学習を学ぶ」第3号(2023.4.24)に以下のように書いた。
「前回授業以降提出された小レポートNo.2を読み、さらに今回は小レポートの一部を抜粋紹介しながら、この授業通信上でコメントを書く作業を行ないました。(中略)今回コメントを書き始めてみて、どのレポートにも関心を持てる論点があるし、このレポートは抜粋してコメントを付けるがこのレポートには付けないという選別にはためらいがありました。しかし読み進めていくと、ルームごとの討論で意見交換を行なって他者の意見を聞いた成果もあって、共通する論点も出されていました。昨年度授業ではフォーラムに提出された小レポートに直接コメントを付けたこともありますし、今年度も必要を感じたときにはそうしたいと思います。しかし、私のコメント投稿もみなさんの小レポート投稿と同様にこの授業内で自由に閲覧できるようになっているものの、自分のルームはともかく他のルームも毎回くまなく閲覧する人は多くないと思われます。私がコメントを付ける際、コメントの内容はそのレポートを投稿したご本人だけでなく他の全ての受講生にも読んでほしい場合が多いと思います。そこで、原則として小レポートへのコメントはこの授業通信上でレポート記述の一部分を抜粋した上で行ないたいと思います。
 私のコメントでは、小レポート投稿者の立場を全面的に否定したり非難したりはしません。小レポートの内容に共感したとか、こういう別の角度からも考えられるんじゃないかというアドバイスとかを中心にしたいと思っています。それでも小レポート投稿者とは異なる自分の意見を述べる場合はあると思います。そういう時に、小レポートを引用されコメントされた人が「万座(=受講生全員)の前で否定された」という印象を持たれることがないように配慮します。具体的には、フォーラムに投稿された小レポートは受講生全員が閲覧でき、投稿には投稿者の氏名が書かれているわけですが、私が授業通信上である受講生の小レポートを抜粋引用する場合、投稿者氏名を記載せずルーム番号・在籍番号のみを付記しようと思います。ルーム番号・在籍番号を書くのは、私が授業通信上である人の小レポートを抜粋紹介しても、書いた本人が自分のレポートであることを確認できない場合もあるのではないかと思うからです。紹介した以上そのことをご本人には伝えたいので。フォーラム投稿には氏名が記載されるとともに在籍番号も記載していただくよう要求していますから、ルーム番号・在籍番号から誰の投稿かを他の人が確認しようと思えば確認できます。それなら氏名を記載しても同じことではないかと思われるかもしれませんが、百を超える受講生の中で私から授業通信上で「〇〇さんの✕✕✕✕というい意見に対して…」と言及された場合、私のコメントがご本人にも納得、共感していただけるものであればいいのですが、万が一不本意なものであった場合には、そういう形で授業通信上に自分の名前が残ることを快く思えないのではないかと危惧します。というわけで、授業通信上で私がどなたかの小レポートを取り上げてコメントする場合は、レポート記述の抜粋の後にルーム番号・在籍番号だけを付記する、ということを当面の運営ルールとしたいと思います。今後授業を進めていく中でみなさんから御意見をいただいたり何か運営上の不都合が生じた場合には、改めて方針変更を検討します。
 自分のレポートへの私のコメント(原則として授業通信上。場合によってはフォーラムへの投稿。)を読まれて、わからないことや意見、反論などありましたら、ぜひメールで返信して下さい。私がフォーラムへの投稿として書いた場合は、フォーラム上での返信でもかまいません。」

 このように、学務情報システム「フォーラム」に氏名入りで小レポートを投稿させるので、授業内では誰がどのような内容の小レポートを書いたかは相互にオープンになっているけれども、100名近い提出レポートの中から私は数名をピックアップして授業通信に掲載してコメントするので、授業通信上では氏名を削除してルーム(=討論グループ)番号と在籍番号のみの表示にするという「配慮」をした。通信に掲載された学生が掲載したこと自体や私の「配慮」を肯定的に受けとめたかどうかは、わからない。
 原田氏の実践でも、レポートの紹介は学生間では匿名であるが、原田氏自身はどの学生が書いたレポートか知っている。もちろん教師としては知っておく必要があり、知っておきたいであろう。一方privacyに関する記述内容を保護する必要があること、授業で議論された情報を他の受講生が授業外にどのように持ち出すかについて不安を感じる受講生もいるだろうから、学生間の匿名はしかたがあるまい。
 私自身も京女大「ジェンダーと教育」の初回に行なう「女らしく」「女のくせに」経験アンケートは、それ以降の小レポートと区別して匿名化して実施している。それ以降については、privacyに触れるようなことを書かせないよう注意しながら、全て実名でのレポートとしている。グループ討論とそれを踏まえての小レポートをセットにしているので、数人でのグループ討論では当然名前を名乗りあって議論するのに、小レポートを全体にフィードバックする際に匿名にするというのは不自然だと考える。

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 原田先生の小学校教育実践記録()では、子どもが書いた文章を原田先生が匿名で紹介する場面もあります。そこでは率直な声を交流するということ自体を重視して、声を出しやすくするために匿名にされたんだと思います。しかしそれぞれの学級の成長の中でもちろん子どもたちが自分自身の思いを互いに率直に語り合う場面がたくさん描かれています。大学の授業は90分×15回に限定される出会いであり、担当講師はクラス担任ではないので授業外での学生相互の関係とか生活背景についてはほとんど知り得ません。ですから原田先生が匿名で意見交流をされたのは当然だと思います。
 私自身は、数十名~百名規模の授業を複数担当していて、レポート提出は授業出席の確認を兼ねるものでもあるので、LMSとかフォーラムとかTeamsなどのネット上のシステムを利用して実名が表記される形でレポートを受け取ります。それを受講生にフィードバックするときに匿名化するという判断もあり得ますが、ものすごく手間が掛かるという実務上の理由と、受講生が名前を出して意見表明することに不安や抵抗を感じることがないようなテーマに限定するという前提で全員のレポートを全員にフィードバックしています。これまでの数十年の経験の中で、例えばある受講生のレポート内容を他の受講生が授業外で口外したことによるトラブルなどは、少なくとも私の耳には入ってきたことがありません。毎回の授業で小グループ討論を行なっていて、そこでは当然名乗りあって意見交換していると思うので、それ(実名での意見交流)を授業全体にも広げて行ないたいと考えてきました。
 ただ、上記授業通信にあるように、100名規模の2023年度新潟大授業では、フォーラムへの投稿は実名で行なうわけですが、投稿されたレポートから数名を選んで授業通信で紹介する際にルーム(=グループ)番号と在籍番号だけを付記し、氏名を書かないことにしました。上記メモには書いていないものの京都教科研例会で発言したときには紹介したのですが、三重大学に赴任して初期の1990年前後の数十名規模の教職科目授業で、あるテーマについて受講生に問いかけ、手は挙がらないのである学生を指名して意見を言わせ、その後にその学生の意見とは異なる私のコメントを述べたのですが、後でその学生の感想文を読むと「言いたくないのに発言させられ、おまけに先生から自分の意見を否定された」と書かれていてショックを受けたことがあります。その時から大規模授業で学生個人の意見を言わせて私からコメントするということを避けるようになり、授業での討論は小グループによるものを中心にするようになりました。もう30数年前のことなのですが、その時の私の授業運営上の戸惑いが、新潟大授業で個別の学生のレポートに授業通信上でコメントするときに氏名だけを書かないという対応にも繋がっているように思います。個人の意見を授業全体の場で紹介するだけでも、それぞれの受講生がそれぞれに受け止めてくれれば意味があるとは思うのですが、私が多くの学生のレポートの中で何か思うところがあって取り上げているわけですから、その「思うところ」をレポート執筆者本人にも他の受講生にも伝えたい思いがあります。新潟大のフォーラムでは受講生のレポート提出場所に担当教員の私がコメントを付けることもできますが、それではなかなか多くの受講生は読んでくれないし、コメントしても通知がいくわけじゃないのでもしかしたらその受講生本人も読まないかもしれない、それではおもしろくない、と考えて、全員に配付する授業通信上に持ち出しているわけですが、また、学生の意見に対して決して攻撃的な反論をしたりはしないように心がけているのですが、そこで30数年前の《万座の前で私見を否定されて傷ついた》という一学生の叫びが蘇ってしまい、名前だけを隠すという中途半端な対応をしています。

 大学の授業(特に多人数講義)での一人ひとりの学生との交流は、本当に限られたものです。私としては、彼らが書いて提出した文章を読み、それに対してコメントすること以外に有効な交流手段は考えられません。原田先生の実践記録にあるような、《彼はこう発言し、こう行動し、こう友だちと関わっているけれど、目の前に見えているその姿だけが彼の全てではない》というような、なんというか、重層的なというか、多面的なというか、人としてゆとりがあるというか、そういう関わり方を大学教師の私は学生との間につくることができません(学生もそんなことは望んでいないでしょう)。だけど、限られた交流の中で、せめて学生を傷つけることはしたくないとか、もしできるなら「先生からこういう意見をもらった」ということが肯定的な意味合いでその人の心に残るような、そういう交流はしたいなと思うわけです。学生が私を片時も忘れず《単位発行人》として認識するという、逃れられない制約の中で、ではありますが。

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