41 【アーカイブ13】(京都教育科学研究会第362回例会報告 2024.11.16) 新潟大生と岸本清明氏の総合学習実践「東条川学習」を学ぶ(2年目の実践)―2024年度前期「教育課程及び総合的な学習の時間の指導法A」第6~11回授業(5/20, 5/27,6/3,6/10,6/17,6/24)の総括―

  去る11/6に向日市の乙訓教育会館で開催された京都教育科学研究会月例研究会で、表題のような実践報告を行ないました。報告文中にもありますように、私の授業実践にご協力いただいた岸本清明先生(元兵庫県小学校教諭 兵庫県加東市在住)も、わざわざ共同報告のためにいかけつけて下さいました。会場の参加者は6名、zoomによるリモート参加は2名でそのうちお一人は私の新潟大学授業の窓口になっていただいていた岡野勉新潟大学教育学部教授です。私の新潟大学非常勤授業は今年度で終了であり、区切りの意味で今回の報告も計画しましたので、岡野先生もお誘いしたところ快くリモート参加して下さいました。

 報告の構成は以下の通りです。

Ⅰ.二年目(で、最後)の岸本実践学習
Ⅱ.2023年度新潟大授業とそこで残した課題
Ⅲ.教師として《子どもの興味・関心》をどう捉え、どう関わるのか?
Ⅳ.2023年度授業以降2024年度授業開始までの模索
 (1)膨大な教育実践のどの部分を切り取って学習させるのか?
 (2)<教育課程論+「総合的な学習の時間」論>という複合的授業の中で岸本実践(総合学習の実践)の何をどこまで扱うか?
 (3)「総合的な学習の時間」に関わって受講生に議論してもらうテーマの再検討
Ⅴ.2024年度新潟大授業(「総合的な学習の時間」関係部分)の構成
Ⅵ.総合学習の理論と歴史/受講生自身の「総合的な学習の時間」体験/岸本清明実践の読み方/「総合的な学習の時間」の指導論に関する討論課題の設定について
 【第一次討論】「総合的な学習の時間」の学習経験を交流する
 【第二次討論】「総合的な学習の時間」における子どもたちの《活動の自由》、教師の《指導の自由》をどう捉えるか?
 【第三次討論】日本の教育実践史における「総合学習」の先駆的な実践の歴史、「総合学習」の概念規定、「総合的な学習の時間」の学習テーマ設定について、新たにわかったこと、よく        わからないことなど、考えたこと。
 【第四次討論】「東条川学習」について意見・感想を出し合う
 【第五次討論】新人教師が「総合的な学習の時間」に取り組むためのヒント/手がかりは何だろうか?(グループ討論と全体交流)
  ◎考察1
  ◎考察2
Ⅶ.新潟大受講生たちが授業での学習を踏まえて思い描いた総合学習/総合的な学習
Ⅷ.岸本清明先生のご講義の概要と岸本先生から受講生へのメッセージ
Ⅸ.2024年度受講生の最終レポートに対する岸本清明先生のコメント
Ⅹ.総括
【資料1】2023年度授業後2024年度授業開始まで(2023.10.22-2024.4.10)の佐藤から岸本先生へのメール抜粋
【資料2】2024年度授業開始から終了まで(2024.4.11-9.6)の佐藤から岸本先生へのメール抜粋
【資料3】2024年度受講生からの質問に対する岸本清明先生の回答
【資料4】第11回授業(2024.6.24)でのグループ討論記録と小レポート一覧

 報告文書は全81ページあり、そのうち後半半分が資料1~4です。量が膨大ですので、資料1~4については掲載を省略します。

 

Ⅰ.二年目(で、最後)の岸本実践学習
 昨年10月21日の第351回例会において、「岸本清明氏の総合学習実践「東条川学習」(『希望の教育実践』所収)を新潟大生はどう学んだか? ―2023年度前期「教育課程及び総合的な学習の時間の指導法A」第11~13回授業(6/26, 7/3, 7/10)の総括―(以下、《昨年度報告》と題して報告させていただきましたその際、岸本清明先生もわざわざ兵庫県加東市から例会に駆けつけて下さいました(1年以上前のことですので、本報告で《昨年度報告》のおさらいをしています)。
 岸本先生は以前から京都教科研通信の読者であり、通信351号(2022.5)に「(通信350号を読んで)戦後教育学について」という文章を寄せられ、その中で神代健彦論文「教育的価値論―よい教育ってどんな教育?」についての私のコメントに対する共感を表明され、また私の連載第15回(通信第352号 2022.6)での中村清二論文「民主教育論―身に付けるべき学力として」へのコメントに対してもご意見を寄せて下さいました。岸本先生のご意見の中でご著書『希望の教育実践 子どもが育ち、地域を変える環境学習』(同時代社 2017)のことが紹介されていましたので、私は同書を通読した上で岸本先生にお礼のメールを送り、そこから先生との交流が始まりました。
 私は同書で報告されている1998年度の学校崩壊状態にあった東条東小学校6学年学級の子どもたちとの苦闘から生まれた「東条川学習」に感銘を受けました。ちょうど2022年度から担当していた新潟大学「教育課程及び総合的な学習の時間の指導法A」の授業が終わって2023年度の構想を立て始めていた時でしたので、思い切って岸本先生に2023年度授業で新潟大の学生たちに「東条川学習」を紹介してほしいとお願いし、ありがたいことに先生のご快諾を得ることができました。
  新潟大は遠隔地のため、私は全回リモート授業(科目名「教育課程及び総合的な学習の時間の指導法A」)を行なっています。非常勤講師である私の授業にゲスト講師として岸本先生を迎えるというのは制度上は異例のことだと思います。窓口担当の新潟大教授からは、新潟大学教育学部教授会に新たに講師採用の申請をすることも打診いただいたのですが、私は自分の三重大学在職時の経験から非常勤講師である私の授業に新たに別の非常勤講師を採用することは恐らく難しかろうと判断し、辞退しました。岸本先生には私から個人的にほんのささやかなお礼はしましたが、先生はボランティアに近い仕事を快く引き受けて下さいました。

 そして2024年度授業にも再び岸本先生にご登場いただくことになりました。後述するように2023年度授業において新潟大生に岸本実践のすぐれた特徴については十分伝わったと思うのですが、別の面で悔いが残るところがありました。これについて2023年度授業以降岸本先生と繰り返し意見交換しながら(【資料1・2】=掲載省略)2024年度授業の計画には前年度からかなりの変更を加え、「総合的な学習の時間」について扱う授業回数も2倍に増やしました。
 2024年度授業については、それなりの達成感を得ることができました(ご協力いただいた岸本先生のご意見も同様でした)。岸本先生のご意向も伺いながら可能なら2025年度に3回目を、と考えていたのですが、新潟大学での私の授業担当は今年度までとなり、私の新潟大授業実践は計3年、岸本先生にご協力いただいた授業は2年で終了ということになりました。そこで岸本先生とご相談し、2年にわたる実践の総括作業をすることにし、吉益先生にお願いして京都教科研例会で再度の報告の機会をいただきました。


Ⅱ.2023年度新潟大授業とそこで残した課題
 岸本先生の『希望の教育実践』(2017)の内容構成のうち環境学習の実践記録の部分は以下の通りです(目次の項目の中に私が青字で実践が行なわれた年度を挿入しました)
    【↓ 1998年度】
    第1章 東条川学習の始まり
     1 大変だ。5年生の片方のクラスが崩壊した   2 6年生担任が決まらない
     3 打つ手がことごとく失敗する日々   4 東条川を見て閃いた
     5 ミネラルウォーターはなぜうまい   6 水道水はなぜまずい
   7 東条川は汚れているのか 8 東条川の再調査   9 東条川を汚すもの
   10 川を汚さない生活を     11 自分たちだけで東条川をきれいにできるか
   12 隣のクラスは協力してくれるか     13 保護者の協力は得られるか
   14 とてつもない教育をやりとげた   15 全校生に訴える     おわりに
    第3章 東条川学習の発展

     1 私自身の東条川学習の発展
    【↓ 1999年度】
     2 東条川学習の全校実施                                             
      3 東条川学習のカリキュラムができた
      4 PTAと地域も参加

    【↓ 2000-2001年度】
     5 東条川学習の成果
       6 東条川学習の成果をもたらしたもの

 岸本先生は、同書に記録されている範囲でも延べ6年度(1998/1999/2000/2001/2004/
2005)にわたって(職場も異動されながら)環境をテーマとする総合学習に取り組まれました。このうち2001年度までが東条川をフィールドとするものです。

 岸本先生の最初の総合学習実践「東条川学習」(1998年度)は、5年当時に学級崩壊したクラスの担任を6年生で岸本先生が引き受けられたところから始まっています。荒れる子どもたちに罵声を浴びながら苦しい学級運営を続けた岸本先生は、ある日の放課後に校舎の廊下からふと眺めた東条川を学習対象とすることを思い立ちます。しかし、荒れている子どもたちの現状を考えるとすぐに川に連れていくことはリスクが大きく、どうしようか迷っていたときに、先生はたまたまスーパーでミネラルウォーターを見つけてこれが使えそうだと直感し、3種類のミネラルウォーターを教室に持ち込んで子どもたちに飲ませます。するとある男の子が「順番を変えてもう一度出せ。オレが銘柄を当てたる」と言い出します。学級崩壊の中心にいた子でした。先生はまさか当たるはずがないと思いながら順番を変えて出すと、なんと50%の子どもたちが当てたのです。ここから子どもたちが水をめぐる活動にのめり込み、学習を通じて成長し様々な力を付けていきます。この、学級崩壊から始まって子どもたちがドラスティックに変わっていく実践に私は強く惹きつけられ、新潟大の学生にも実践記録を読んでほしい、その際に教育実践の結果だけを見て善し悪しを判断したりせず子どもたちと教師の関わりのプロセスを丁寧に捉えてほしいと思いました。

 2023年度第1回授業(2023.4.10)に、『希望の教育実践』目次・第1章・第3章をPDFファイル化して新潟大学の学務情報システム(私と受講生だけがアクセスできる)にアップロードしました。東条東小学校のすぐ横を流れる東条川を教材化した1998年度実践(第1章)、それを全校に広げていった1999/2000-2001/2004年度実践(第3章)を読むことで、発端となった6学年学級での実践から丁寧に事実に即して学ぶと同時に、《すぐれた教師がたった一人で行なった実践》という捉え方にならないように、クラスから全校への実践の広がりも捉えさせようとしました。また、今から約20年前の実践について岸本先生が今日的にどう振り返っておられるかを知るために、参考資料として岸本清明「総合学習で授業や学校、地域をも変えよう」(ひょうご教育の集い「生活科・総合学習分科会」報告 2023.1.22)も提示しました。
 以下は2023年度授業の授業通信「教育課程&総合的学習を学ぶ」第1号(2023.4.10)の抜粋です。
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第11回(6/26)~第13回(7/10)授業における「総合的な学習の時間」に関する学習の予告と事前学習の指示
 本授業では教育課程全般だけではなくその一領域である「総合的な学習の時間」についても取り上げなければならないことになっているため、第11~13回をそれに充てます。第11回授業の冒頭で日本の総合学習・「総合的な学習の時間」について概説的な説明を行なった上で、第11回後半から第13回まで約2.5回分の授業時間を使って一つの総合学習実践を取り上げます。「総合的な学習の時間」の新設以来20数年が経過しており、これまでに全国の小中高で実に多様な実践が行なわれていますが、それらを広く浅く取り上げても学びは深まらないと考え、1人の小学校教師の実践に絞って検討することで総合学習についてできるだけ掘り下げて考えてみたいと思います。この実践検討のメリットは、一つには実践記録が本として出版されていることであり、もう一つは私が著者である岸本清明先生(退職小学校教員)と交流があるので、みなさんが岸本実践の記録を読んで考えたこと、質問したいことを岸本先生にお届けして応えていただくことができるということです(既に岸本先生に了承を得ています)。

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 2023年度授業全15回のうち、「総合的な学習の時間」を取り上げたのは3回で、その内容骨子は以下の通りです。  ※灰色の箇所は、岸本実践と直接関係しない部分です。
第11回授業(2023.6.26)
  11.「法的拘束力」に「風穴」? ~「総合的な学習の時間」について考える
   11-1.「総合的な学習の時間」・「総合学習」とは何か?
    
11-1-1.総合学習・「総合的な学習の時間」における「総合」の概念
    11-1-2.「総合的な学習の時間」のテーマ例として
の「現代日本人の『生きる課題』」
    
11-2.自らの「総合的な学習の時間」体験を振り返る
    11-3.すぐれた総合学習の先進事例~岸本清明「東条川学習」に学ぶ
    11-3-1.「東条川学習」の概要紹介
    11-3-2-1.「東条川学習」実践資料(必読資料④)を通読した感想の交流
    11-3-2-2.小レポート(特別)における「東条川学習」実践への質問一覧と次週の学習課題              (予定)について

第12回授業(2023.7.3)
    11-3-3-1.岸本清明先生のご紹介
    11-3-3-2.岸本清明先生のお話~特別小レポートの質問に答えて
    11-3-4.岸本清明先生の講義への感想(+補足質問)~質問に答えていただいた受講生を中心に~
第13回授業(2023.7.10)
      11-4.「総合的な学習の時間」において教師が果たすべき役割を考える

 第11回授業(2023.6.26)後に提出させた小レポートNo.11課題(2)「東条川学習」実践について必読資料④を事前学習し、本日のグループ討論で意見交換したことを踏まえて、岸本清明氏の総合学習実践「東条川学習」についての感想  について、翌週第12回授業(2023.7.3)の授業通信に全101名分のレポートを掲載した上で、以下のようにコメントしました。
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 学級崩壊を起こしていた学級を担当し、教師の人間性も否定するような暴言を浴びたりしながらも、ミネラルウォーターへの着目をきっかけに「東条川学習」に取り組まれた岸本先生。その中で子どもたちが驚くほどに成長して学級を立て直し、隣のクラスとの関係も修復し、親や全校や地域にも東条川の汚れについて訴え、影響力を広げていきました。この驚くべき実践の展開に対して、岸本先生の教師としての実践力量、子どもを信じて関わる粘り強さなどに驚き、敬意を払う声が多かったのですが、しかしそこから「実際の話だと信じられない」「うまく行きすぎている」「本当にできるのか?」「自分が教師になってもこのような実践はとてもできない」と、自分とは切り離して他人事と捉える、あるいはそこまで行かなくても自分自身の教師としての力量形成の現状や課題とどう接点を見つけていったらいいのかわからない戸惑いも感じられました。
 みなさんの小レポートNo.11(2)は全て岸本清明先生にも送り、先生からは「小レポートを読んで」という文章もいただいています。その内容の一部は、本日の岸本先生のお話の中でももしかしたら触れられるかもしれません。
 私の願いは2つありました。
 一つは、いろいろと課題もあり、またみなさん自身の学習経験の中にも残念ながら否定的なものも多々ある中ですので、「こんなにすばらしい総合学習ができるのか!」という驚きを伴う新鮮な学習経験をみなさんにしてほしかったことです。
 もう一つは前述のことなのですが、すぐれた総合学習実践に触れて、「自分にはとてもできない」で終わってしまってほしくないということです。岸本先生の実践は岸本先生しかできず、他の誰もそっくり真似することはできません(それに近いことを岸本先生の在任校の若い先生がされたそうですが^^;)。それなら、『希望の教育実践』から、「東条川学習」から、私たちは何をどう学びとればよいのか? すぐれた実践者との出会いをどのように自分の教師人生の糧としたらいいのか? 本日の岸本先生のお話をじっくり聞いた上で、来週の第13回授業(「総合」の最終回)にかけてこの問いを自分事として考えてほしいです。

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 《昨年度報告》では私の上記コメントが指摘している《自分と切り離す傾向》に該当する24名分のレポート抜粋を【別添資料2】として配付し、それを6つのカテゴリに分類しました。
      1.うまくいきすぎ、できすぎ、実話か?、実際はこんなにうまくいかない
      2-1.自分には無理
      2-2.新人教師には無理
      3.岸本先生の長年の経験があってこそ
      4.偶然の産物
      5.一般化できない

 《昨年度報告》の私の分析では、上記の傾向について「岸本実践からの学びに取り組み始めた時点での受講生の認識であり、担当講師である私がこの捉え方はよいとかこの捉え方は悪いと言うべきものではないのですが(中略)先輩教師の実践との出会いとそこからの学びを建設的なものにしてほしいという強い気持ちがありました。」と書いています。
 そこで第12回授業(2023.7.3)で岸本先生に事前に受講生から提出された240項目にのぼる質問を踏まえて「東条川学習」に関するご講義をいただいた後に、その時点で教師をめざしている受講生に対して、小レポートNo.12課題A:自分が教師になって「総合的な学習の時間」の指導に取り組むとき、取り敢えずどのような指導(内容・方法)であれば新人教師でも努力すればできそうだと考えますか? を出しました。翌週第13(2023.7.10)
の授業通信に全員のレポートを掲載しました。その際、前文として以下のような説明を付けました。
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 提出された全96名の小レポートNo.12のうち、A(現時点で教師をめざしている)という回答者は71名、B(現時点で教師をめざしていない)という回答者は25名でした。(中略)Aグループ71名のレポートを、以下のようにグルーピングしてみました。
      ①子どもの興味・関心に関わる学習                       20名
      ②子どもにとって身近なテーマ・題材についての学習  7名
      ③子どもたちが暮らす地域に関する学習               35名
      ④上記①~③のいずれにも分類されない考え方         9名
(中略)
 そこで、上記のうち①・②・③にグルーピングしたレポートの内容を学習材料にしながら、本日のグループ活動・全体発表を行ないたいと思います。

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 「総合的な学習の時間」における《子どもの興味・関心》と学習活動の内容や教師の指導との関係は大変重要な論点であり、それだけにいろいろな捉え方もあり得ると思います。もちろん子どもの興味・関心のみに従って展開される活動も学校教育の中にあっていいと思うのですが、それを即、総合学習(総合的な学習)と呼ぶことは概念の混乱です。自然・社会の総合性を持つ課題にアプローチしたり、あるいは学習方法において教科等の既存の学習成果を意識的に連携・総合させるような志向をもたない活動までも「総合的な学習」だと言ってしまうことはできないと思うのです(私のこの主張は、第11回授業(2023.6.26)における「11-1-1.総合学習『「総合的な学習の時間』における『総合』の概念」と題する講義でつたえていました。)。もちろん私は「総合的な学習の時間」において子どもの興味・関心を無視してよいなどとは毛頭考えていません。子どもたちの興味・関心と教師の指導との関係を丁寧に検討する必要があるということを主張しているのです。
 私の関心の焦点は、「自分が教師になっ」た時に「新人教師でも努力すればできそう」な「総合的な学習の時間」の指導の内容・方法について、どうして20名の受講生たちが「子どもの興味・関心」を想起したのかということでした。これについて、受講生のレポートの文章は省略し、私のコメントだけを述べます。
 《押し付けられた学習・活動ではなく、自分でやりたいこと、やる気が出る活動に取り組みたい》というのは、受講生たちの被教育体験の中での率直な感想かもしれません。そして子どもたちが意欲的に活動してくれれば、まだ様々な指導方法を獲得していない新人教師でも、子どもの学習活動に関わっていきやすいだろうということですね。《子どもに任せておけばなんとかなる》的な安易な考え方がないとは断定できませんけれども、レポートの中には《子どもの興味・関心を積極的に知ろうという教師の努力の中で子どもたちとの信頼関係も築いていけるのではないか》という、慧眼と言うべき記述も含まれていました。段取りがわかっていたら取り組みやすいというやや安易かなと思う意見もありましたが、新人教師は一から教師としての経験を積んでいくわけですから、まずは手順がわかりやすい活動に取り組みたい気持ちはわかります(さらに経験によって自信をつけながら、困難や課題が発生したときに子どもたちとともに乗り越えていくという気概も持ってほしいですが)。
 さて、レポートの中にやや異質なものがありました。子どもの興味・関心の重要性は指摘しつつも、それだけに任せると学習は失敗する危険があるから、教師の側からの何らかの統制/強制も必要だという意見です。そしてこの考え方は翌週の第13回授業(2023.7.10)の段階では受講生の中にさらに広がっていったようです。


Ⅲ.教師として《子どもの興味・関心》をどう捉え、どう関わるのか?
 2023年度第13回授業(2023.7.10)では、以下のような学習課題を設定しました。前述のように小レポートNo.12の結果をカテゴリー分けした上で、zoomで機械的に編成した20のグループを、以下のように(各カテゴリーのレポートの件数に比例して)それぞれ6グループ・3グループ・11グループに分けて3つのカテゴリーに割り振りました。
①子どもの興味・関心に関わる学習                       ⇒ルーム01~06
②子どもにとって身近なテーマ・題材についての学習  ⇒ルーム07~09
③子どもたちが暮らす地域に関する学習                ⇒ルーム10~20

                               (「ルーム」はzoomのブレイクアウトセッションでのグループを指します。)
 各グループには、割り振られたカテゴリーに属する全部の小レポートを各自が通読した上で、自グループに割り振られたカテゴリー(学習テーマ)について、
 ●そのテーマに関わる自らの「総合的な学習の時間」経験
 ●そのテーマでの「総合的な学習の時間」を行なうことによって、子どもはどのように成長できそうか?/
  教師はどのように指導力量を向上できそうか?
 ●そのテーマで「総合的な学習の時間」を行なう際に、どのような失敗が生じる可能性があるか?/
      失敗を防いだり克服するために、教師はどのような努力をする必要があるか?

を話し合わせました。(100名を越える受講生をルームに分けるにはzoomの機械的処理に頼るしかありません。従って第13回授業の各グループのメンバー構成は、前回の小レポートNo.12で自分がどのカテゴリーのレポートを書いたのかとは無関係に編成されています。そして授業後に、小レポートNo.13:本日のブレイクアウトセッション及び全体発表・討論を経て、前回の小レポートNo.12と比較して「総合的な学習の時間」における教師の指導のあり方について自分の考えはどう深まったか? を提出させました。
 ところで私は第13回授業(2023.7.10)の翌週の祝日休講日にコロナに感染し、その翌週の第14回授業(2023.7.24)はなんとか実施したものの、授業通信第14号には前回の小レポートNo.13へのコメントを書くことができず、コメント掲載はその翌週の第15回授業(2023.7.31)の授業通信最終号に持ち越しました(もう次の授業はないので、以下のコメントを受講生に投げかけた上でさらに学習活動を続けるということができませんでした。コメントの一部を掲載します。
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気になるのは(様々なご意見が述べられている中、特定の傾向だけを取り出すのは申しわけないのですが)、少し意地悪い言い方ですが、《子どもの興味・関心にもとづく行動への不信感》とでも言うべきものです。(中略)もっとも、無理はないとも思います。第13回のテーマは総合学習における「教師の役割」でした。子どもたちの活動の多様で予測できない展開の中で教師はどのように指導性を発揮するのかを考えていただきました。また私自身、第11回授業では子どもの「興味・関心」を一面的に重視する総合学習論を批判してもいました。また岸本先生の実践も、子どもたちが能動的に活動できる場面を重視しつつも、全体として子どもたちを育てる教師としての指導性が貫かれたものでした。
 そういう中で迎えた最終の討論とレポートで、《総合学習の活動は子どもに任せっぱなしではいけない》《教師がきちんと指導しなければ》という意識を多くの受講生のみなさんが持たれるのは当然です。
 当然ではあるのですが、それにしても、私は気になるのです。討論記録や小レポートの中に、次のような言葉を多数発見しました。

      やりたいことだけやらせるのは懸念  積極性あるように見えているだけでは?
      子どもに寄せすぎ  自由すぎないよう  すべて子どもに任せると問題
  テーマから外れてしまう広がりすぎてしまう  ある程度の規制をかける  ある程度の強制
      内容が幼稚  幼稚な結論  的外れ  中味のない授業  何の学びもない授業
  授業とは関係のないことをしてしまう  学習してほしいことからそれる  授業の収拾がつかない
  ただの遊び時間  楽しんで終わってしまう
      教師が明確な目標を提示  メリハリのある指導  学ばせる軸はずらさず  あくまでも教師が中心
 個々の討論記録や小レポートの文脈から切り離して言葉だけをあげつらっているんじゃないかとの誹りを免れ得ないかもしれませんが、私はこれらの言葉から、教師が指導しない状態での子どもたちの自然な行動・活動に対する不信感を読み取ってしまうのです。
 岸本実践を絶対視するつもりはないし、岸本実践の水準で総合学習の指導方法を考えようということでもないのですが、それでも私は「東条川学習」の始まりの部分に再度注目したいのです。ミネラルウォーターを教室に持ち込んだのは岸本先生でした。ところが、飲み比べて銘柄を当てると言い出したのは、学級崩壊の中心にいた男の子でした。岸本先生にはミネラルウォーターから井戸水・水道水へ、そして東条川の水へという学習の流れの設計はあったでしょう。もし、「はいはい、ミネラルウォーターの話はこれでおしまい」とやってたらどうだったでしょう? このあと脱線するかもしれないからと、飲み比べを拒否してたらどうなったでしょう? 東条川に注目したのも、ミネラルウォーターから学習を始めたのも、確かにベテラン岸本先生の長年の勘にもとづくものかもしれません。しかし、「オレが銘柄を当てたる」という先生にとっても思いがけない男の子の食いつきがあってこそ、その後の学習の展開へ道が開かれたんじゃないでしょうか。そして水先案内人を務めた子どもは、この間まで学級を破壊しにかかっていた張本人なんです。
 東条川学習の個別性、特殊性は十分踏まえつつも、私はここに《教師が子どもを信じ、子どもに依拠することで展開していく総合学習》という一般的価値を読み取りたいのです。
 みなさんは、一部教育実習等に参加された方を除いてまだ子どもたちと接する経験を多くはもっておられないと思います。かく言う私も子どもたちとの交流経験から遠ざかっていて、偉そうなことは言えないのですが、みなさんに対する願いとして、学童保育でもボランティアでも家庭教師でもなんでもいいので、子どもと交流する経験を重ねて、その中で《子どもっておもしろい》《子どもと関わるのは楽しい》《子どもはすごい》《子どもには大人よりすごいところもたくさんある》と思えるような経験をたくさんしてほしいです。教師になるのであれば、間違っても、子どもは大人より劣っている、子どもは大人が規制・是正しないと間違った方向へ行く、等々の貧困な子ども観を持ってほしくないです。
  以上ここでは、あくまで私が個人的に気になった一つの傾向についてのみコメントしました。授業期間終了後に、岸本先生とも協議しながら改めて3回にわたる「総合的な学習の時間」に関する授業とそこでのみなさんの学びの成果を読み直し、授業担当者として総括を深めたいと考えています。

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 私が授業最終回の授業通信第15号(2023.7.31)で表明した《子どもの興味・関心にもとづく行動への不信感》という小レポートNo.13の傾向についてのコメントは、確かにそういう傾向自体はあったものの、それだけを強調するのは一面的だったかなという反省も今となってはしていますが、そうしたことを反省した上でも、上記に引用した受講生たちの言葉の断片は、どうしても気になるのです。例えば「ただの遊び」「楽しんで終わ」る、「自由すぎ」てはいけないという言葉。そこには人間の発達における《遊び》の重要性という認識はなく、《遊び》は教育上価値のないものと捉えられていないでしょうか? 《楽しむ》ことは《真面目》な学習とは区別されています。「自由」は《学校生活の中心である学習活動》にあまり持ち込まれることは好ましくないものと捉えられていないでしょうか? 子どもの興味・関心にもとづく学習活動は「幼稚」「中味のない」もの、「学びのない」ものになりかねないと捉えられています。子どもだけに任せておくと子どもたちの活動は低水準のものに終わる危険性もあると捉えられています。子どもの興味・関心に任せると、「授業とは関係のない」方にいく、「それ」てしまう、「収拾がつかな」くなる。子どもの興味・関心がもつエネルギーをわかっていて、しかしそれを肯定的に捉えきれず、教師が翻弄されてしまうことへの不安を感じているのではないでしょうか? だからこそ、教師が「目標を提示」し、「規制」「強制」をかけ、「あくまでも教師が中心」に進めないといけないという考え方。
 私自身繰り返し自戒しないといけないと考えていますが、上記の見解全てを集成した《大人絶対・教師絶対》の指導観・人間観を持っている特定の受講生がいるわけではないのです。これらは、あくまでも一人一人の受講生のささやかなつぶやきを私が勝手に寄せ集めた見解群です。ただ、このように諸見解を《集成・濃縮》してみることでわかることもあると思います。
 教育学部の学生たちの多くは、人間が生まれてから大人になるまでに様々な体験をしつつ成長していくこと、また学校における「総合的な学習の時間」の中で、教科学習だけでななかなかできないような多様な体験をすることの意義をわかっているだろうと思います。しかし一方で、子どもが自由に動き回り、いろいろな試行錯誤をし、その中でいろいろなことを学びとっていく、そうした体験・経験を教科学習など教師の指導下におかれた活動と比べると前者は価値が少なく、結局子どもの経験は後者=教科学習/教師の指導に包摂され収斂されていかないとやがて世の中に出て評価される価値ある成果として結実しないと考える学生もいるんじゃないでしょうか? また、新人教師も含めて教師は大人であり子どもの《鑑》であらねばならず、教師の指導の下で《鋳型に嵌め込む》ことによってしか子どもは社会に通用する方向に成長していかないという思いが、どこかにあるんじゃないでしょうか。
 教師をめざす学生たちには、自分の保幼小中高大の生育過程を繰り返し想い起こしつつ、同時に《いまの》子どもたちと交流し、子どもをつかむ努力、そこから教師をめざす自分は何を学べるかをじっくり考える機会を持ってほしいなと思います。私が学生のころ、「子どもが好きだということは教師になる上で必須要件か?」という議論をサークルなどで何度もした覚えがあります。これについてはいろんな考え方があるでしょうが、私自身は子どもが好きです。「好き」という感情が最重要かどうか、教師にとって必須であるかどうかはさておき、子どもという存在を尊重すること、大人である自分が持っている鋳型に子どもをはめることばかり考えず、どんなときでも子どもから学んで自分も成長しようという姿勢を忘れないことは教師にとって必須であると私は思います。
 半期15回のzoom経由の授業では、私のこのようなメッセージが受講生にどのように受けとめられるのかはほとんどわかりません。私はもはや正規大学教員ではないのでゼミも持たず学生との個別交流の機会はほぼありません。レクチャー+グループ討論といういま実施可能な授業形態の《身の丈》に合わせてできることを考えなければなりません。


Ⅳ.2023年度授業以降2024年度授業開始までの模索
 【資料1】として2023年度新潟大授業が終了してから2024年度授業で「総合的な学習の時間」を取り上げるまでの約半年間に私が岸本先生に送付したメールの抜粋を掲載しました(註・このアーカイブでは割愛しました)
(1)膨大な教育実践のどの部分を切り取って学習させるのか?
 2023年度授業では、Ⅱで述べたように『希望の教育実践』(2017)所収の岸本先生の環境学習実践の中から第1章(1998年度実践)と第3章(1999/2000-2001年度実践)の事前通読を必須とし、さらに岸本清明「総合学習で授業や学校、地域をも変えよう」(全教ひょうご教育の集い「生活科・総合学習分科会」報告 2023.1.22)を参考資料として提示しました。前者については、岸本先生という一人の小学校教師の教育実践を私が独断で要約したり一部を切り取って受講生に紹介するのではなくて、学級崩壊への直面からスタートした1998年度の波乱の教育実践の記録を全体として読み取ってほしい、また《1998年度6年生学級だけの特殊事例》と捉えてしまわないように翌年以降の東条東小学校内での実践の広がりを知ってほしいと考えたので、全54ページという長い資料を敢えて必読としました。後者については、前者についてのピンポイントの教育実践学習から視野を広げて総合学習一般の意義や指導方法について岸本先生が総括的に書いておられることから学んでほしいと考えました。
 ただ、後者はあくまで参考資料とし、授業時間中に積極的に取り上げはしませんでしたし、前者についても2023年度授業受講生からの質問事項が総合学習スタート以前の学級崩壊状態の部分を中心に1998年度6学年学級の実践に集中していたこともあって、《幅広い視野や長いスパンにおいて個別の教育実践を捉える》という私のねらいは必ずしも成功しなかったと言えます。
 この点について2023.11.3メールでは、授業内での資料活用をどう改善するかという点には踏み込まないままで、《微視的に見ることができる資料》と《俯瞰的に見ることができる資料》の両方を提示する必要があるという視点から、後者の資料として当時岸本先生が学会に投稿中であった論文「小学校での環境学習の勧め―9年に及ぶ環境学習の実体験をもとにして―」 (『子どもと自然学会誌26』2024.3.31)  を追加することを思いつき、実際に2024年度授業の第9回(2024.6.10)で以下の解説コメントと共に上記岸本論文をアップロードしました。
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 上記の実践報告は昨年『子どもと自然学会誌』に投稿され、今年3月に掲載されました。岸本先生はこの実践報告を何度も練り直し書き直したとおっしゃっていました。岸本先生は1974年度から2011年度まで37年間教員をつとめられ、1990年代から2000年代にかけて一連の環境総合学習を子どもたちとともに実践されました。退職後の2017年に『希望の教育実践』を公刊され、その後もかつてとりくまれた環境総合学習の総括・自己分析作業を続けられました。参考資料㉒はその現時点での集大成と言えます。この中では13年間にわたる先生の環境学習が編年的に整理され(P.84-86)、さらにそうした実践史を踏まえて「環境学習創造のキーポイント」(P.86-88)、「環境学習の教育的価値」(P.88-92)、「環境学習を入り口にして子どもや教員が個人として尊重される教育の創造を」(P.92-94)という提案が行なわれています。すでに学習していただいた『希望の教育実践』第1・3章や、参照していただいたかもしれない第4章などの内容を思い出しながら参考資料㉒を読んでいただくといいと思いますし、また参考資料㉒を手がかりにして実践記録を改めて読み直すのもいいと思います。岸本先生の2回目(6/17)・3回目(6/24)でも参考資料㉒に言及されるかもしれません。
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 このように岸本実践に関する《俯瞰的資料》と位置づけて紹介してはいるのですが、実際には関心ある受講生だけが読むかもしれない「参考資料」としての位置づけであり、授業時間内に取り上げて学習し検討する資料として位置づけたわけではなく、岸本先生のご講義の中で「言及されるかもしれ」ないと予想を述べるにとどまっています。
 さらに、これは《微視的資料》と《俯瞰的資料》の中間に位置づくものですが、2024年度授業第1回(2024.4.8)の岸本実践に関する事前学習指示において、『希望の教育実践』(2017)の第1・3章を「必読資料」とした(これは2023年度授業と同じ)のに追加して「第4章小規模へき地校での実践」を「参考資料」(必読ではない)としました。このことについては2023.10.26メールで発案し、その趣旨として「今年度(=2023年度)の授業では1998年度6年生の学習活動については取り敢えず押さえられたと思うのですが、学校全体に広がっていくダイナミックな学習の展開の部分には焦点を当てることができませんでした。そのことと、先生がその後も他地域/他校でも試行錯誤しながら実践を展開されたところからもしっかり学ばせたいのです。ますます多くの実践の事実を提示されてとまどう学生も出てくるかもしれませんが、敢えてそれをすることで、部分を見れば《奇跡》としか捉えられない事実も、その前、その後の地道な試行錯誤を含む実践の展開を知ることで、《こういう日々の努力を続けることで、将来の自分の実践においても素晴らしい子どもの事実の発見のような感動的体験に出会えるかもしれない》というような思いを持ってもらえたらと思います。」と岸本先生に説明しています。
 2024年度授業の授業通信第1号(2024.4.8)では、以下のように説明しています。
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昨年度の本授業で『希望の教育実践』第1章・第3章を学習したところ、第1章(1998年度実践)について、《岸本先生がたまたまこういう子どもたちに出会えたからできた実践ではないか?》という趣旨の感想が出てきました。それで、岸本先生の実践はたまたま一つの学級・一つの学校で実践した結果偶然うまくいったというものではないということも知っていただきたくて、今年度授業では岸本先生の他校での実践記録である参考資料②を追加したわけです。全体の量が大変多くなるために第4章については参考資料とし、必読とはしませんでしたが、みなさんにはぜひ読まれることをお勧めします。
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 …ということなんですが、2024年度授業の受講生が後の鴨川小実践まで視野を広げて岸本実践から学べたかどうかを個々の受講生のレポートから検証する作業はできていません。(^^;)
  2023.11.3メールでは《微視的実践把握》と《俯瞰的実践把握》がともに必要という立場に立ちながらも、結局は《微視的把握》からどう広げていくかの方に私の主たる関心があったことが振り返ってみてわかります。つまり私は2024年度授業において、1998年度6学年実践におけるミネラルウォーター「効き水」から始まった子どもたちの劇的変化の追跡(ここは敢えて言わなくても受講生たちが注目するところです)をあくまでも《芯となる視点》として維持しつつ、そこから隣のクラス、全校への実践の広がり、地域との繋がりなどを「丁寧に把握する作業」をしたいと考えてはいました。岸本実践のすごさはいくら強調しても強調しすぎることはないけれども、受講生が《一人のすごい先生がいたから実現できたこと》と片づけてしまって終わることがないように、子どもたちの爆発的エネルギーに後押しされた岸本先生の実践が6年学級の中にとどまるのでなく校内へ、地域へと広がっていく様を受講生に丁寧に捉えてほしいと考えたからです。そうした広がりは岸本先生個人の《すごさ》によってのみ達成されたものではなく、そこに私たち第三者が岸本実践から学ぶ際の一つのカギがあると考えていました。
 ただ、そうした自分の問題意識は背景にありつつも、私が注目したいのはやはり個別具体的な教育実践の事実だったんです。ですから、2023.11.3メールでも「学習の終末近くで俯瞰的というか一般的知見を提示して終わるというやり方でもいいのではないか」とは書いていますが、結局2024年度授業の中で受講生が俯瞰的な見方に近づけるような手立てとしては自主的に学習することを期待しての参考資料の提示ということしかできなかったように思います。
 考えてみれば、私自身も岸本先生の数々の実践記録を読ませていただいてはいるものの、実践の当事者ではないわけで、『希望の教育実践』をはじめとする実践記録やそれに関わる岸本先生とのメールやzoomでのやりとりを通じて《佐藤なりの岸本実践像》を作り上げているわけです。そしてそれは、岸本清明先生の実践の膨大な事実群の中から第三者としてある一部を切り取って自分なりに理解したものにすぎないわけです。言わば部分的な実践像を持つ佐藤が受講生たちに資料を提示しメッセージを送り、受講生はそれらを取捨選択して学習しながら自分なりの(部分的な)岸本実践像を形成していくわけです。そうでしかあり得ないし、それでよいと思うのですが、そういう作業の中で受講生が教師としての教育実践のあり方について何をどうつかんでいくかについて、《どうとらえてもかまいません。好きに解釈して下さい。》とはやはり言ってしまえないわけで、だからこそ授業を通じての教育実践の伝え方についていろいろ悩むことになります。新潟大授業担当は2024年度で終わるため、ここで《悩む》ことを私の次の教育実践に活かすという機会はないのですが、私自身が今後の研究活動の中で、これまでから時折頭に浮かびながもら継続的に追求できていない《教育実践記録論研究》に今後本格的に取り組む機会があれば活きると思います。坂元忠芳『教育実践記録論』(1980)などからきちんと学び直したいです。

(2)<教育課程論+「総合的な学習の時間」論>という複合的授業の中で岸本実践(総合学習の実践)の何をどこまで扱うか?
 で述べたように、2023年度授業では「総合的な学習の時間」を全3回扱いとし、1回目(第11回授業2023.6.26)の前半で《総論》(学習指導要領の批判的検討/「総合」概念についての佐藤の見解/総合学習の学習テーマについての佐藤の提案)を要約的に述べ、1回目の後半で事前学習させた岸本先生の「東条川学習」についての感想交流と、受講生自身が経験した「総合的な学習の時間」の学習についての交流を行ない、2回目(第12回授業2023.7.3)と3回目(第13回授業2023.7.10)で岸本先生のご講義とそれを踏まえての「総合的な学習の時間」における教師の役割についての討論を行ないました。
 私自身三重大学在職時代に20数年にわたって「教育課程論」講義を担当し、また「総合的な学習の時間」に関するリレー講義の一部を担当したり、あるいは「教育課程論」を総論篇と各論編に分けて開講して各論編の授業で「総合的な学習の時間」の個別テーマの指導方法を掘り下げるような試みもしてきました。しかし半期1コマ15回の授業の中に教育課程論と「総合的な学習の時間」の指導論の両方を含める授業というのは2022-24年度の新潟大「教育課程及び総合的な学習の時間の指導法A」が初めてでした。過去に「教育課程論」で全15回かけて伝えてきたことを一部削ってそこに「総合的な学習の時間」の指導方法を入れるとなると、やはり当初の発想としては削るのは最低限にして「総合的な学習の時間」に関する授業は最低限の回数で、と考えざるを得ず、2022・2023年度授業では「総合的な学習の時間」の扱いは15回中3回でした。
 しかし2023年度授業を終えた段階では、「総合的な学習の時間」についての学習としても岸本実践の学習としても3回では決定的に不十分であると認識するに到りました。ではどうするか?
 2023.11.3メールでは5回に増やしてそのうち1回分だけを先行させて岸本実践の検討を行なうというプラン、2024.1.8メールでは教育課程論部分と「総合的な学習の時間」部分を分ける授業スケジュール構成を見直して戦後教育課程史の中で総合学習の意義を位置づけ授業後半の10~11回分を使って総合学習について扱うという、その後実際に実践した2024年度授業よりもさらに大胆なプラン変更も構想しています。具体的には「総合的な学習の時間」の側から教育課程史を照射する、と言いますか、「2000年代に『総合的な学習の時間』が登場したことをしっかり意義づけして(学習指導要領レベルでは「美化」することはできませんが)この時期の教育課程政策をめぐる状況と、学校現場の状況をしっかり描きだすことをやってみたい」と考え、それと関わって岸本先生のご講義でいただきたい受講生へのメッセージについても2023年度授業よりも項目を追加し、「1990年代末のまだ『総合的な学習の時間』が学習指導要領に位置付かない時期に学級崩壊状況の中から『東条川学習』を立ち上げられた岸本先生と子どもの姿を、もっときちんと、つまり、単にすぐれた実践者である岸本先生がすぐれたポテンシャルを持っていた子どもたちに偶然出会ったことで実践が成立したかのような今年度受講生の一部の捉え方をそのままにはしないで、もっと掘り下げた実践検討ができないものかと思います。」と岸本先生に希望を伝えています。単に全15回の授業の中で教育課程史と「総合的な学習の時間」論をもっと深く関連づけたいというだけでなく、そのことを通じて《すぐれた実践過ぎて自分には無理》という岸本実践から自分を遠ざける受講生の傾向に対して一石を投じたいという思いがありました。2024.2.8メールではに示す2024年度シラバスの最終形(全6回扱い)に落ち着き、授業全体の3分の2くらいをかけて「総合的な学習の時間」を扱うというプランは撤回していますが、その間のシラバス作成に向けての自分の判断の転換についてはよく覚えていません(^^;)。恐れらくそこまで「総合的な学習の時間」に時間を割いてしまうと教育課程について自分が伝えたいと思う他の内容項目に費やす時間が足りなくなってしまうと判断したんだろうと思います。

(3)「総合的な学習の時間」に関わって受講生に議論してもらうテーマの再検討
 2023年度授業では岸本先生の実践を受講生にとって「他人事」で終わらせないために、《新人教師でも取り入れることができること》を考えさせ、そこで受講生から出てきたアイデアを私が《子どもの興味・関心》《身近な題材》《地域》の3つにカテゴライズしましたが、その中の《子どもの興味・関心》をめぐってで見たような問題点が出てきました。これを念頭に置きながら、2024.2.13メールでは2024年度授業で子どもの《自由な活動/活動の自由》というテーマに絞って教師の関わり方との関係で意見交流するというアイデアを出しています。そしてこれについて、2024年度授業が始まってからの【資料2】(註・本アーカイブでは割愛しました)2024.5.4メール(第4回授業まで終えた段階)で、こんなことを書いています。
去年気になり、今年も取り上げようとしている《子どもたちの活動の自由や主体性と教師の指導の関係》について、一般論として、またその視点から岸本実践をどう見るかについて、私自身の中に揺れがあったようにも思えてきました。岸本実践に入る前の『総合的な学習の時間』登場の際の教課審答申の検討の中で、私は《総合学習において『子どもの興味・関心こそ最重要』とする考え方は、総合とは何かをあいまいにして何でもありの学習に堕してしまう》というような批判を述べました。一方で、岸本実践検討後の受講生の意見の中の《なんでも子どもの自由にさせると学習の質が落ちる》的な見解に対しては違和感を表明しました。岸本実践への私の捉え方としても、子どもたちの活動の自発性・自由の面と教師の的確な指導の必要の面、それはもちろん両方重要なのですが、授業では十分整理して説明できなかったかもしれません。これは今年度の授業の課題でもあるし、教育実践研究者としての私の課題でもあると思います。」
 2023年度授業以来私の心に引っかかっていたのは、《子どもたちの活動の自由や主体性と教師の指導の関係》の把握において子どもの自由な活動を価値の低いものと見なし、それを教師が規制することが正しい指導だと考える一部受講生の貧困な《指導観》でした。しかしその背景には《活動の自由(あるいは権利)》というものを子どもの側からも教師の側からもきちんと捉えた上で両者の関係という難しい問題を論じる私の力量の足りなさもあったということです(もちろん力量があればきちんと説明できたというよりも、《教育方法学上の永遠の課題》でさえあるのではないかと私は考えますが)。
 この続きはⅥに譲ります。


Ⅴ.2024年度新潟大授業(「総合的な学習の時間」関係部分)の構成
※灰色の箇所は、岸本実践と直接関係しない部分です。

第6回授業(2024.5.20)
  6.「法的拘束力」の例外?―第7(8)期学習指導要領における「総合的な学習の時間」の新設
   6-1.「総合的な学習の時間」新設の経緯とその変質
        ―1996中央教育審議会答申~1998教育課程審議会答申・第7(8)期学習指導要領―
   6-2.【第一次討論】「総合的な学習の時間」の学習経験を交流する

第7回授業(2024.5.27)
     6-3.【第二次討論】「総合的な学習の時間」における子どもたちの《活動の自由》、教師の《指導の自       由》をどう捉えるか?
     6-4.学校現場は「総合的な学習の時間」新設をどう受けとめたのか?
    6-4-1.岸本清明先生のご紹介
            6-4-2.【岸本清明先生第1回ゲスト講義】
第8回授業(2024.6.3)
     6-5.日本における総合学習の源流を辿る
     6-6.「総合的な学習の時間」(総合学習)をめぐる理論問題
      6-6-1.「総合」とは何か?
      6-6-2.総合学習(「総合的な学習の時間」)の学習課題をどう設定するか?

    【第三次討論】日本の教育実践史における「総合学習」の先駆的な実践の歴史、「総合学習」の概念規定、    「総合的な学習の時間」の学習テーマ設定について、新たにわかったこと、よくわからないことなど、考えたこと。
第9回授業(2024.6.10)
       6-7.すぐれた総合学習の事例―岸本清明「東条川学習」に学ぶ
      6-7-1.「東条川学習」の概要紹介
            6-7-2.【第四次討論】「東条川学習」について意見・感想を出し合う
       6-7-2-1.「東条川学習」実践資料(必読資料④)を通読した感想の交流
       6-7-2-2.特別小レポートにおける「東条川学習」実践への質問一覧と次週の学習課題について
第10回授業(2024.6.17)
     6-7-3.【岸本清明先生第2回ゲスト講義】「東条川学習」について~特別小レポートの質問に答えて
      6-7-3-1.岸本清明先生のお話
      6-7-3-2.岸本清明先生の講義への感想(+補足質問)発表・意見交流
第11回授業(2024.6.24)
        6-8.「総合的な学習の時間」において教師が果たすべき役割を考える
        6-8-1.【第五次討論】新人教師が「総合的な学習の時間」に取り組むためのヒント/手がかりは何だろうか?(グループ討論と全体交流)
             6-8-2.【岸本清明先生第3回ゲスト講義】討論を聞いて

 このように、2024年度では…
●「総合的な学習の時間」に2023年度の2倍の6回分を充てました。
●岸本先生に無理をお願いしてゲスト講義を3回に増やしました(昨年度は2回)。ご講義の内容も、Ⅷで紹介するように2023年度授業よりも拡張されています。
●授業初回に提示する岸本実践関係の必読資料として、2023年度授業の『希望の教育実践』第1・3章に加えて、同1・3章に対する「2023年度受講生の質問抜粋&岸本清明先生『質問に答えて』」を通読することを指示しました。また、参考資料として、『希望の教育実践』第4章「小規模へき地校での実践」(東条東小から鴨川小へ移動されての実践)を追加しました。また第5回授業後に岸本清明「開こん園の竹やぶは病気です」(岸本先生の現役教員最終年度となった2010年度東条西小学校3学年の実践記録)を参考資料として追加しました。


Ⅵ.総合学習の理論と歴史/受講生自身の「総合的な学習の時間」体験/岸本清明実践の読み方/「総合的な学習の時間」の指導論に関する討論課題の設定について
 2023年度授業については、でシラバスを掲載し、で受講生に提起した学習課題とそこでの問題点を紹介しました。
 2024年度授業のシラバス(第6~11回)と受講生に提起した討論課題(第一次~第五次討論)は前項に提示した通りです。
 討論課題をカテゴリー分けすると、以下の通りです。
A.総合学習の理論と歴史
【第三次討論】日本の教育実践史における「総合学習」の先駆的な実践の歴史、「総合学習」の概念規定、「総合的 な学習の時間」の学習テーマ設定について、新たにわかったこと、よくわからないことなど、考えたこと。
B.受講生自身の「総合的な学習の時間」体験
【第一次討論】「総合的な学習の時間」の学習経験を交流する
C.岸本清明実践の読み方
【第四次討論】「東条川学習」について意見・感想を出し合う
D.「総合的な学習の時間」の指導論
【第二次討論】「総合的な学習の時間」における子どもたちの《活動の自由》、教師の《指導の自由》をどう捉えるか?
【第五次討論】新人教師が「総合的な学習の時間」に取り組むためのヒント/手がかりは何だろうか?(グループ討論と全体交流)

 は総合学習/「総合的な学習の時間」に関する佐藤の講義に関連する討論テーマ、は受講生自身の被教育体験の交流、は岸本実践からどう学ぶか、は(一般論講義と岸本実践学習の両方を踏まえての)総合学習/「総合的な学習の時間」の指導方法をめぐる討論テーマです。
 上記5項目の討論課題についてそれぞれ受講生が何を議論し、それに基づいてどういう内容の小レポートを書いたかについて、本来ならば分析することが必要です。しかし、毎回100名前後の受講生から提出される小レポートについて、私は毎週その全部を通読し、そこから一部を選んで授業通信に紹介しコメントする作業は行ないましたが、網羅的な分析は今に到るまでできていません。
 ここでは実践総括としての次善の策として、
●各討論課題についての授業通信上の趣旨説明と、
●討論翌週の授業通信での私のコメント(=つまりそれが授業運営の書く時点での私の途中総括ですので)
を紹介しておきます。上でカテゴリー分けしましたが、以下は実践の時系列に沿って紹介します。

【第一次討論】「総合的な学習の時間」の学習経験を交流する
●提案:授業通信第6号(2024.5.20)
 私の過去の授業での体験交流で、中学校・高等学校、特に高等学校では、「総合的な学習の時間」が時間数が足りない教科の授業の穴埋め、受験指導、ホームルームなどに転用され、何のために置かれた時間なのか理解できなかったという意見もかなり聞かれました。今期受講されている3~4年生の皆さん(現役入学の場合)は、第8期(2008年版)学習指導要領に向けての移行措置期に、また2年生のみなさんは第8期(2008年版)学習指導要領が全面実施された2011年度に小学校に入学されており、全員が小学校3学年~高校3学年までの10年間フルに「総合的な学習の時間」を体験されています(但し、名称は「総合的な学習の時間」でなく学校独自のものでもよいことになっていたので、「総合」という領域名について記憶がないという人もいるでしょうが)。今から10数年前のことですが、小学校~高校時代の「総合的な学習の時間」にどんな活動を経験したのかを思い出して、グループ内で交流して下さい。その結果を下記の通り有意義だった点と疑問点に分けて整理・報告して下さい。
 下記の内容でグループ討論【約30分】を行ないます。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
グループ討論課題:
(1)自らの小中高の「総合的な学習の時間」における学習活動を思い出してみて、おもしろかった、有意義だったと思うものを出し合う。
(2)逆に小中高の「総合的な学習の時間」の学習活動で、つまらなかったもの、「こんなことをやって意味があるのか?」と疑問を感じたものがあれば出し合う。
(それぞれのメンバーが異なる学習経験をしているでしょうから、興味ある点や疑問点を互いに質問し会って交流しましょう。)
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
○コメント:授業通信第7号(2024.5.27)
 この授業では「総合的な学習の時間」の意義や問題点についての一般的情報を知っていただくだけではなく、みなさん自身の学習体験を振り返っていただいてそれと一般的情報を突き合わせることが必要と考えました。それで具体的体験自体を思い出して「こんなことを経験した」と交流し合っていただきました。グループ討論の中で体験を報告するだけでなくその体験の自分にとっての意味(あるいは意味がなかったこと)を考察している発言もあったので、おもしろかった・有意義だった活動についてその理由を挙げている発言には赤色下線、またつまらなかった・意味がわからないと思った理由を書いている発言には青色下線を付けました。
 職業体験など進路選択につながる活動について、人によって評価が分かれていますね。今の自分に繋がって有意義だったという人もいれば、学習した当時に現実感がなかったとか、関心のない職業の現場に振り分けられたとか、あるいは大学選択では自分の受験先では予定がない小論文の練習をさせられたとか、希望していない学部について調べさせられたとか。この活動の《大義名分》は、《子どもたちが将来への展望を描くことのきっかけや参考にしてほしい》というようなことであろうと思うのですが、そういう趣旨の活動であっても、進学・進路選択などは一番個人の多様な関心が表れる分野でしょうから、それに合致するような学習活動をどう設定したらよいかについては子どもたち自身の意見も聞きながら慎重に柔軟に計画すべきことだと思います。小学校であれば学年担任団が相談して活動計画を立てることもあるだろうし、中高でもそうする学校もあるかもしれませんが、予想としては中高では特定の教科担当者とか限られた教員に「総合的な学習の時間」の計画・実施自体がまかされてしまう場合もあるんじゃないでしょうか。自分の教科の指導をきちんとやりながら、他方で総合について十分な準備をして生徒たちに活動を提案できるだけの余裕や意欲がある教師がどれだけいるかですね。そうした核となる教師が存在する学年・学校では、子どもたちの意向も把握しながら積極的に参加できそうな活動を毎年試行錯誤する、ということもあるのでしょうが、そういうやる気がある教師がいない学校では・・・?ですね(^^;)。
 肯定的評価は、日常の学校生活とか他教科の学習と比べても異なるおもしろい学習体験ができた場合に多いようです。地域や学校の実情も、一人ひとりの子どもたちの興味・関心も様々な中で(もっとも共同活動を通じてばらばらだった関心が互いに関連付いていくということだってあると思いますが)、《予め学習内容が決められておらず学校内で教師の判断と子どもたちの意向聴取を踏まえて計画され実行するものとしての「総合的な学習の時間」》をどうやったらうまく、有意義に運営できるのか? さらに考えていきましょう。なんせ、学校の教育課程の中で《予め決まったことを実行すればよいというわけではない学習活動》の唯一の領域ですからね。教師としての創造的力量の発揮しどころなわけです。


【第二次討論】「総合的な学習の時間」における子どもたちの《活動の自由》、教師の《指導の自由》をどう捉えるか?
●提案:授業通信第7号(2024.5.27)

 「総合的な学習の時間」では各学校と教師に学習内容の設定が委ねられています。つまり教師には《指導の自由》が与えられています。そこから、(前項⑨での自分のコメントをまだ引きずってますが(^^;)、どう見ても「総合的な学習の時間」とは言えない活動に転用してしまうという《学校現場での逸脱》も起こりました。何年か前に私学の高校などを中心に「公民科」だったか、「未履修問題」が起こりましたね。教科の授業で卒業単位に規定されているだけの授業が確保されていないということで、3年生が卒業式を終えてから学校へ授業を受けに来るなんて事態にもなりました。教科の授業を規定通り実行することについては文科省や教育委員会からの厳しい監視があります。だけど私が知る限りでは「総合的な学習の時間」について未履修が指摘されたなんて話は聞いたことがありません。もちろん言いたいのは《「総合的な学習の時間」についてももっと教育行政の監視を厳しくせよ》なんてことではありません。逸脱した《他用途転用》は学校内の同僚による批判で克服していただくことを期待して、「総合的な学習の時間」における教育実践の自由をもっともっと教育的に見て実りあるものにしていくために、全国の教師たちにはがんばってほしいし、子どもたちには学ぶ意味がはっきりわかって楽しく意欲的に取り組める「総合的な学習の時間」をもっともっと経験してほしいということです。
 そのヒントをみなさんにつかんでほしいので、本日と第10回(6/17)・第11回(6/24)の計3回にわたって岸本清明先生に本授業にご参加いただいて、先輩教師のすぐれた総合学習実践を紹介していただくわけですが(本日も授業開始前からzoomに入っていただいています)、今後岸本先生から「総合的な学習の時間」の教育実践についてお話を伺う前に、教育課程上のこの領域における教師の指導や子どもの活動についてもう少しみなさん自身の考えを深めてもらう機会をつくりたいと考えました。
 ここで、小レポートNo.6のご意見をもう一つ紹介します。
今回の討論で話を聞く限り、だいたいの枠組みを教師が決め、それについて調べて学習するという形式が多かった。それに対して子どもたちが興味を持って進んで取り組んでくれれば良いが枠組みを決められていることでなかなか気が進まないこともあると思う。そのため、いかに教師が子どもたちに興味を持たせて積極的に調べさせることが重要であると感じた。気持ちが乗らないがそのまま調べるのでは総合的な学習の時間の意味がなくなってしまうのではないかと思った。」(R17 No.4)
 先に述べたように、「総合的な学習の時間」に限っては、指導する教師に学習活動の内容や方法を決定する権限が(学習指導要領が特定の内容や指導方法を強制していないという意味で)与えられています。教師には《指導の自由》があります。しかしその《自由》とは、《教師が勝手に内容・方法を決めて一方的に実施してよい》という意味ではありません。「子どもの興味・関心」ということが学習指導要領の文言にも書き込まれていますし、また本来学習とは子どもの興味・関心を無視して実施できるものではありません。それは教科学習でも本来そうなんですが現実的には無視されている場合も多々ありますね。
 それでは、子どもたち自身が自分の興味・関心にもとづいて学習できること、つまり子どもの《活動の自由》とは、具体的にどうやって実現されていくんでしょうか? 「次の時間は『総合的な学習の時間』だからね。先生は職員室に帰ってるから、勝手にやってね。」じゃあないはずですよね。でも、そこまでひどくはなくても、教室に小黒板を用意して子どもたちに《やりたいこと》を書かせて自由にやらせるだけ、みたいな「総合的な学習の時間」もかつて見たことがあります。教師は何も指導せず、子どもたちの活動はすぐに行き詰まっていました。しかしだからと言って、「はい、これから3週間の『総合的な学習の時間』は町のお店屋さん調べをやるからね。まずはじめにこれをやって、次はこれ…」と教師が全部決めてその通り活動させるのでは、どこに子どもの《活動の自由》があるのか、という話ですよね。上の小レポートで書かれている通りです。
 そこでみなさんに議論してほしいのは以下の課題です。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
グループ討論課題:
「総合的な学習の時間」において、子どもたちの《活動の自由》を保障し、子どもたちの興味・関心を尊重するような《教師の指導》とは、具体的にどのようなものかについて、下記2点について自分たちの経験を出し合いながら考えよう。
 第6回授業のグループ討論記録も参考にしながら、《当時の学習者の立場》から見て、
  ➀教師の《指導》がうまくいっていたと思う事例と、なぜうまくいっていたのか?
  ②教師の《指導》が失敗だったと思う事例と、なぜ失敗したのか?
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
○コメント:授業通信第8号(2024.6.3)
《当時の学習者の立場から》=子ども目線で思い出して考えようと提案しました。当時の子どもの身になったら《おもしろいものはおもしろい》《とにかくおもしろかった、それだけ》となるかもしれません。しかしこの授業では、そこをさらに掘り下げたいのです。例えば、《体験する活動だったからおもしろかった》《身近なことだからおもしろかった》《地域に関わることだからおもしろかった》と言われます。しかしみなさん、考えて下さい。小中高の学校生活で、子どもたちは様々なことを《体験》しています。でも、その全部がおもしろかったですか? 身近なこと。日々の生活にあり余るほどあります。全部おもしろかったですか? 地域の事物。子どもたちは日々たくさん目にしていました。全部おもしろかったですか? また、《自分たちで主体的に決めたり、選んだりしたからおもしろかった》と言いますが、放課後や休みの日に自由に遊んでいるときにだって、つまらなくなってやめたり解散したこともありますよね。
 《体験》《身近》《地域》《自分で決める》……いずれも、楽しい有意義な活動を成立させるために重要な要因であることは間違いないんですが、でもそれだけでは十分ではないような気がします。ここでは放課後の遊びや学校行事についてではなく「総合的な学習の時間」について考えています。《学習》です。学習なんだけど、おもしろく充実した活動に将来教師として子どもたちとともに取り組みたいし、だからこそこれまでのみなさんの学習経験の中からもっとヒントを見つけ出してほしいのです。
教師について「担当教員がその分野を極めている」(R9)という指摘がありました。各教師はもちろん自分の専門分野を持っていますが、予め決まった教科の学習の中で自分の専門分野について深く語る機会はなかなかないでしょうからね。「先生の経験談」(R19)を聞けたという経験も、ふだんの授業ではレアなことかもしれません。そういう意外性も「総合的な学習の時間」のおもしろさなんでしょうね。
逆に、子ども目線で思い出してつまらなかった、意味がわからなかった活動のなぜそうなのかの検討結果を見ると、(教師の側からはいろいろリクツを述べたかもしれないし、また述べなかったのかもしれませんが)明らかに《時間つぶし》の活動だった場合があるようです。例えば講演会。外部講師の話を長々聞かされるだけ。学校側、教師側は話を聞く意義を設定していたかもしれないけれど、それは子どもたちの受けとめ方とは違った。まあ、講演が始まって話の中身を聞いてみるまでは意味があるかどうかはわからないわけですが、それにしても教師側は子どもたちが関心を持って聞けそうな話かどうかリサーチする責任はあると思います。それに、聞かせるだけ、あるいは後で感想文を出させたとしても、子どもの側からの多様なリアクション、関連する活動を引き出しようがないような一方的な情報伝達では、「総合的な学習の時間」には本来ふさわしくないですね。これで2時間使える、的な発想だったとしたらもってのほかですね。「総合的な学習の時間」が始まって「ゲストティーチャー」という言葉が流行し、学校外の方のお話を聞くことが多くなりました。高いギャラが必要な《講演のプロ》のような人を学校の予算で呼べるわけはないので、教師の知り合いとか近隣住民の方を呼ぶ場合が多い。そのことには意義があると思いますが、いかんせんゲストティーチャーの人たちは授業やスピーチのプロではない。そういう人の話でも子どもたちが関心を持って聞けるようにするためには、教師とゲストティーチャーの事前の打ち合わせが重要になります。だけどそれなしの《丸投げ》の場合も多々あったんじゃないでしょうか。
「全部丸投げ」「投げやり」「知識が乏しい」「楽しくなさそう」(いずれもR7)など、子どもたちに積極的参加を求めながら教師がその方向とは対照的な態度を示していることへの批判・失望も表明されていました。教師は学校で多くの場合理想やタテマエを語ると思います。その教師が《言行一致してない》という姿は学校生活のあちこちで子どもたちに見られているかも知れませんが、メインの仕事である学習指導で《ほんとはやりたくないんだな》と子どもたちに見られている(おそらく教師自身もそれを自覚しているでしょう)というのはサイテーな姿ですね。
  上記ほどではなくても、活動内容について教師が詳しいことを知らず子どもたちにアドバイスできないことへの不信感も表明されていました。「総合的な学習の時間」で取り上げるテーマは担当教師自身の教科専門とは離れている場合もあるだろうと思います。でも少なくとも素人として子どもたちとともに意欲的に探求する姿を示してほしいですね。


【第三次討論】日本の教育実践史における「総合学習」の先駆的な実践の歴史、「総合学習」の概念規定、「総合的な学習の時間」の学習テーマ設定について、新たにわかったこと、よくわからないことなど、考えたこと。
●提案:授業通信第8号(2024.6.3)

 上記の講義を踏まえて以下のグループ討論【「総合的な学習の時間」/総合学習に関する第三次討論】
<註・テーマは上記タイトルの通り>を行ないます。
○コメント:第9回授業(2024.6.10)
   
*この回は討論記録提出を求めなかったので、以下はグループ討論を終えて「新たにわかったこと、よくわからないことなど、考えたこと」を書くように求めた小レポートNo.8へのコメントです。
 「総合的な学習の時間」についていろいろな角度からじっくり考える機会を持つことで、「総合的な学習の時間」に限らずみなさんの「学習」について、「教師の指導」について、子どもという存在の捉え方についてなどの思索が少しずつ深まっていくように感じ、授業担当講師としてはとてもうれしく思います。
学習指導要領に「総合的な学習の時間」が加わった1990年代より遥かに前、遡れば明治の終わりから大正時代くらいから総合学習的な教育実践が存在したし、戦後においても文部省に20年先立って日教組中央教育課程検討委員会「教育課程改革試案」が提案されていたことはみなさんにとっても新鮮な驚きであったようですね。日本の教育は学校現場の多くの教師たちが支えてきました。もう70年近くにわたって文部省/文科省は学習指導要領の「法的拘束力」に固執し、霞ヶ関から日本全国の学校教育を操っているような気になっているかもしれませんが、実際に子どもたちに向き合って営々と教育実践を積み上げてきたのは教師たちなのです。
「教育課程改革試案」(1976)にも繋がっていく「公害学習」実践について前回授業で少し紹介し、その中で「奇形ガエル」実践についても一言だけ触れたところ、以下のような感想が寄せられました。
 「奇形ガエルが見つかったことから公害学習など、国からの監視が強い公立学校では扱いにくいテーマも積極的に扱っていた私立学校があった。当時は学習指導要領の法的拘束力が強く産業発展を大きく支えていた大企業を敵に回す授業をすることは勇気がいることだったと思う。」(R17 No.3)というご意見がありました。「奇形ガエル」の実践は1973年度のもので、「総合的な学習の時間」はもちろん日教組中央教育課程検討委員会「教育課程改革試案」よりも前の実践で、みなさんが実践記録を目にする機会もおそらくないだろうと思いますので、下記のファイルを「授業連絡通知」にアップロードします。
     参考資料㉑ 和爾貴美子「奇形ガエルの学習」(梅根悟他編『総合学習の探究』 勁草書房 1977)
 この実践記録は、前回学習した参考資料⑱海老原論文と同じ「総合学習」に関する研究文献に収録されていて、著者の和爾(わに)貴美子先生は私立学校ではなくて千葉県市川市立市川小学校の先生でした。5年生の子どもが後ろ足が3本ある食用ガエルを教室に持ち込んだことから実践は始まります。和爾先生は校内の公害対策委員の同僚に相談し、その処置を市川市に問い合わせた結果アルコール漬けにして保管するよう指示が出ます。子どもたちは放課後に江戸川へ行き、その結果奇形のカエルやオタマジャクシをいっぱい教室に持ち込みました。先生はこの奇形ガエル騒ぎについて子どもたちに作文を書かせて交流し、奇形の原因を探るために洗剤を薄めた水と真水でオタマジャクシの実験飼育をします。洗剤水で育てたカエルには明確に異常が出ました。子どもたちの取り組みは新聞テレビでも報道され、市川市議会でも取り上げられ、市は予算を投じて専門家による江戸川汚染の調査を開始します。「東条川学習」に25年先立つ先駆的な総合学習です。私は前回授業で「奇形ガエル」という名前を出すだけで何も説明しませんでしたので、関心ある人には読んでもらえるように実践記録を紹介しました。
 ところで、私は新潟について詳しく知りませんが、かつて阿賀野川水銀中毒(新潟水俣病)が社会問題になったことは社会科で学習した記憶があります。おそらく新潟でも歴史を掘り起こせば「公害学習」の実践があったんじゃないでしょうか。
子どもたちが自ら興味・関心を持って主体的能動的に「総合的な学習の時間」の学習過程に参加することが望ましいのは言うまでもありませんが、それはイコール教師から学習テーマを提示してはならないということではありません。「私自身、興味がなかったものが教えてくれる先生が熱意を持って話してくれるから興味を持って授業に参加できたという経験がある。」(R21 No.5)という報告にあるように、子どもたちの興味・関心は学習過程が始まってから(教師の働きかけの努力等によって)次第に高まっていくことも、また岸本実践のミネラルウォーター持ち込みの事例にあるように、突然高まる、ということだってあるのです。
前項と関連していますが、次のような意見が出されています。
 「教師の関わる塩梅についてはグループ討論でも結論に至らず、今の時点では適切な関わり具合がよく分からないため、今後の課題としたい。」(R22 No.2)
 「総合的な学習の時間を有意義なものにするのに教師と生徒の関係性も大切であると感じた。関係性がないと生徒が悩んでる時に生徒は質問しづらくなり、せっかく興味関心を抱いて取り組んでいても十分な成果が得られないと感じる。また、自由に生徒も行うことができず、生徒にとって成績のための授業となってしまう。そういった意味で関係性は大切であると私は考える。」(R19 No.5)
 「この時間には明確な基準がなく、教員の力量によってその充実度が変化する。そのテーマ設定がいかに大切かを学んだ。そして、教員はそのような責任をもってこの時間と向き合わなければならないということに不安を感じた。実際の活動例を参考にしても、そのテーマに興味を持つかどうかはそのクラス次第であるため、どのようなテーマ設定をすれば児童の主体性を育むことができるのか明確にわからない。この活動を意味あるものにすることが大切であると言われている一方でその明確な解決策がないことが難しい点だと考えた。」(R05 No.3)
  教科学習においてももちろんそうなんですけれども、教師と子どもたちが共同で学習テーマや学習活動の内容を模索しながら進めていく「総合的な学習の時間」では、教師が子どもの活動にどのように、どの程度関わるか、学習過程で教師と子どもたちがどのような関係を結んでいくかということはとても重要です。そのことは、事前に周到に計画してその通りに進めていくというよりも、教師も子どもたちも学習のプロセスで試行錯誤し、模索していくことだと思います。
総合的な学習で単独教科について取り扱ってはならないという規則がある」(R21 No.2)と理解された方がありましたが、そうではありません。むしろ1996中教審答申における「総合的な学習の時間」の最初の提案の時から、教科横断的に、つまり教科学習の成果を活かしてそれとの結びつきを大事にしながら学習を進めることが推奨されていました。私が先週の授業通信第8号P.15で「当時『総合的な学習の時間』の新設が決まってから《総合は教科とは違う》などこれまた1996中教審答申の初発の提案から逸脱した主張も流布され始めており」と書いたのは、中教審や文部省/文科省の考えが変化したということではなくて、「総合的な学習の時間」が学校現場に普及する過程でそのような誤った解釈がある程度広まったという意味です。新しい領域なんだから新しい特色を出さなければならないという地方教育行政関係者や学校現場の一部における《思い込み》が《総合は教科とは違う》と区別する勘違いを生んだのだろうと思います。この件について私は、同じ方のレポートの以下のような考え方に全面的に賛成です!
 「総合的な学習の時間は、どうしても他の単独教科と比べてホームルームの中で確保できる時間が少ない。このため、子どもたちが学ぶべき内容を時間ギリギリで詰め込んで取り組む形になり、学習の効果が減少してしまうように感じる。総合的な学習の本来の目的は、生徒たちが自主的に課題を見つけ、それに取り組む力を養うことである。したがって、限られた時間の中でその目的を達成するためには、他の教科で取り入れられる部分は積極的に取り入れるべきだと考える。例えば、環境問題をテーマにした総合的な学習を行う場合、理科の授業で環境科学を学び、社会の授業で環境政策について学ぶことができる。また、国語の授業で環境問題に関するエッセイを書くことや、数学の授業で環境データの分析を行うことも考えられる。このように、総合的な学習の内容を他の教科と連携させることで、学習の一貫性を保ちながら深い理解を促進することができる。総合的な学習の時間を有効に活用するためには、既存の教科との連携を強化し、総合的な学びを全体の教育課程に統合することが重要であると感じる。」(R21 No.2)
「総合的な学習の時間」について考える中で教科学習のあり方も見直していこうという以下のようなご意見もありました。
 「総合的な学習の時間の歴史や概念規定などに触れて、子どもたちがやりたいと思えたり誰もやった事のないような真新しいものだったりすることで児童生徒の自主性や活動意欲が高まる時間になるという考えが今までは大半を占めていたが、今回の授業とグループワークを通して、教科で扱った内容を発展させたり、他教科と融合させたりする内容であっても良いのだという考えが新たに登場した。総合的な学習の時間の授業で培われるべき力や考え方へのアプローチ方法は教科内容の中にあってもいいと改めて考えられた。また、発展させて課題を設定することで学校の他の授業との一貫性も生まれ、子どもたちの学習に対する意欲も全体的に高まっていくのではないかと考えた。」(R15 No.5)
  これはまさに、私が第1回授業で投げかけた「教育課程編成全体にわたる視野」につながる気づきだと思います。「総合的な学習の時間」をそれまでの教育課程のどの領域とも異なる《特殊なもの》と捉えるのではなく、「総合的な学習の時間」への取り組みを通じて既存の教科における学習のあり方を見直し、新しい内容・方法で行なう学習活動を全て「総合的な学習の時間」の領域に突っ込むのではなくて、既存教科の中でも、あるいは教科相互が連携しながら新しい内容・方法による学習を模索し、それによって教科学習をも活性化させていくこと、それこそが(文科省が言う「法的拘束力」でがんじがらめにした作業ではない)本来の意味のカリキュラム・マネジメントだと私は思います。
前回の授業で「総合的な学習の時間」の学習テーマとしてどのようなものが設定できるかについての私の個人提案(=「現代の日本人の『生きる課題』」)を紹介したところ、例えば次のような感想をいただきました。
 「様々なテーマを扱うという意味もあるため、『総合』と呼ぶいう考え方は、今までの自分の総合の授業を振り返ると感じることが少なかったと思う。地域のことや職業のことなど限定されたテーマを学年が上がるにつれて発展させながら取り組んでいたイメージがあった。そのため、現代社会が抱える様々なテーマも扱うとよいのではないかと考えた。」(R21 No.3)
  私が総合学習の「総合」の二つの意味の一つとして「課題の総合性」ということを述べましたが、学習課題が「総合性」を持つということは言い換えると複雑に絡み合っている現代社会の諸問題を学習していく必要があるということを意味します。但しそれは政治の問題、経済の問題、軍事の問題、国際関係の問題……というように問題を列挙してそれを片っ端から学習するという意味ではなく、日本人として(もちろんさらに広げて「人類の一員として」でもいいんですが)の「生きる課題」、つまり自分自身が生きていくこととの繋がりを意識しながら複雑な現代社会の諸問題の中から何らかの学習テーマを見つけ出そうということです。このテーマを見つける作業自体が難しいと思われるでしょうか? 学習者の年齢が低い段階では、子どもたち自身が関心を持てる身近な事柄を取り上げながら次第に視野を広げていくことでもいいと思います。「東条川学習」はまさにそのような展開になっていたと思います。中高と学年が上がっていけば、関心ある問題を出し合った上でテーマごとにグループや個人に分かれて追求することもありだと思いますが、そこで教師が安易にグループや個人任せにしてしまうと探求が行き詰まることもあると思います。教師のサポートや、グループ・個人相互の交流・情報交換が重要になりますね。
私が参考資料⑳-1で(あくまでも「総合学習という形態をとるかどうかは別にして、既存教科の区分にあまりこだわらずに、現代日本に生きる人間として直面せざるを得ない課題」としてですが)提案した学習テーマの中の「生と死」について、以下のように関心を示された人たちがいました。
 「参考資料20の人間の死ということがあまり学校教育で取り上げられないということに関して、死というのは生きていく上で必ず関わってくるものだと思うので、しっかり学校で生徒に教えるべきだと考えた。」(R18 No.6)
 「生と死というテーマのものが興味をそそられると思うし、小さいといなりの死についての考えに対して深く理解するきっかけになると思うのでとても良いと思う。
」(R16 No.2)
 「『生と死』は、『死』ということを学校で扱うことはあまりないと思うし、そのテーマで授業したときの教師側の目標というか、児童生徒に何を分からせるか、どう評価するかというところが難しいところだと感じました。」(R04 No.3)
 「資料20に書かれた『生きる課題』というテーマは面白いと感じたうえ、子どもだけでなく、教師にとっても大事な事を学べるのではないかと感じた。例えば、『生と死』というテーマの提案があった。学校教育は『死』ということに対して歴史的なことでしか取り上げる機会がない。より身近な場面で考えられたら、より自分が生きていることへのありがたみを感じられると思った。幼いうちから「死」について学ぶことで「いじめ問題」などの抑制に繋がればより良いと感じたが、個人の感じ方には差があるため一筋縄ではいかないのではないかとも考えた。」(所属なし No.6)
  私は三重大学で担当していた「教育課程論」の授業で、一時期「Ⅰ」と「Ⅱ」の2科目を開講し、「Ⅰ」を《総論》(本授業で取り上げているような内容)、「Ⅱ」と《各論》として、「Ⅱ」では15回全体を使って前述の「現代の日本人の『生きる課題』」の特定のテーマに絞ってそのテーマの学習や授業づくりについて学習してもらったことがあります。「生と死」についても何年度かにわたって取り上げました。難病で死に瀕している子どもとその家族の手記を読んだり、子ども向けに「死」について書かれた本(翻訳書が多いですが、たくさん出ています。中味を紹介する時間がないのですが、表紙だけでも何冊かお見せします。)を読んだりしました。「生と死」を学ぶカリキュラム・プランづくりもしました。
  このテーマでは話したいこともたくさんあるのですが、三重大学での実践を通じて私が認識するに到ったことをひとつだけお伝えすると、「死」あるいは「生と死」というのは人間にとって重要なテーマで、にも拘わらず現行学習指導要領ではほとんどとりあげられていないので、積極的に「総合的な学習の時間」を含む学校教育課程で取り上げてほしいと思うんですけれども、その時に留意したいのは、子どもたちだって「死」に関心を持ったり知りたいことも持っているでしょうが、一方で死ということについて不安や怖れや恐怖も感じていると思うんです。死に対する関心や感情は一人一人違います。また身近な人の死を体験した子どもも、そうでない子もいます。ですから様々な学習テーマの中でとりわけ「死」については、《大事なことだから》と学習を強制することがあってはならないと思うんです。私の三重大の授業でも、子ども向けの「死」についての本をグループで読むという授業の時に、「私は本を読むことが苦しくて参加できません」と意思表示した受講生がいたので、その学生を含めて全員に対して《参加を強制しない。参加したくないなら欠席してもよい。》と伝えました。小中高で取り上げるとしても、文字通り「死」について興味・関心がある子どもは参加したらいいし、今は知りたくないと思う子どもは参加しなくていいと思います。こういう形態の学習を学校で具体化するのは現実にはなかなか難しいと思いますが、だからと言って学校教育で「死」をタブーとすることは間違っていると私は思います。
同じく私が提案している学習テーマの中の「性」について、「学びのテーマには学びのプロセスを総合的にすることが難しいテーマがあると思った。例えば、性教育は、正しい知識があり、それを身に付けることが目的と思うので、学びのプロセスを総合にするのが難しいと考える。自ら様々な方法で学ぶよりも、教えてもらった方がよいのではないか。このように、学びのプロセスを総合的にするのが難しいものは教科学習になるのではないかと思った。テーマの中には、学習プロセスを総合的にでき、教えてもらうだけよりも理解が深まるものあると考える。」(R18 No.3)/「私は以前から食と性について教えることに興味を持っていたため、生きる上で直面する課題にそれらが含まれることに心を打たれた。」(R11No.5)/「先生が提示していた性の分野など、この教科からの発展とは一言では言えないようなもののテーマの方が児童生徒の記憶に残りやすいのではないかと考えた。」(R15 No.4)というご意見をいただきました。
  この授業で教育課程における性(sexuality)の学びのあり方について詳しく取り上げる時間はないのですが、このテーマは私の30年来の教育課程研究のメインテーマでもあるので、少しだけコメントします。性について、例えば小学校4年保健で扱う思春期・二次性徴についてや、5年理科で扱うヒトの生命の誕生(学習指導要領が「性交」を取り上げることを禁じていて、受精から始まる学習になっていますが)など、子どもたちに「正しい知識」として知っておいてほしいこともたくさんあります。しかし少し視野を広げて、恋愛、結婚、家族、性的人間関係などについて考えると、世間にはgender biasに影響された謬見も多く存在するし、しかしそれらは学校で「これが正しい考え方だ」と一方的に宣言してそれを教え込むことで解決する問題ではありません。いま人口減少や出生率低下が問題になっていますが、それらは一人一人の人間が人生の課題として選択し決定する事柄です。「結婚して家庭を作り子どもを生んで育てることが人生の正解だ」なんて、今どき誰も(一部保守政治家は別として)言いませんよね。でも、《こういう問題は正解がないから学校で取り上げない》というのでなく、私たちがこれからのよりよい社会を見通していく上で大事なことだし、子どものころから大いに議論すべきだと思うんです。だから「性」をめぐる問題も「総合的な学習の時間」、あるいは教科を含めた「課題の総合性」のある学習テーマに十分なり得ると私は思うんです。
次のような質問をいただいています。「参考資料⑳-3に書かれている学習テーマの中で、例えば「食」に関して、家庭科ではなく「総合学習」の中で取り扱う利点はどのようなものがあるか知りたい」(R21 No.4)
  私は家庭科教育の専門ではなく、家庭科において食の教育がどのように展開されているかを詳しく知りません。参考資料⑳-1には、このテーマについて次のように書きました。
「人間の食生活については、Ⅲで見るように、家庭科教育を中心に蓄積がある。中等教育における男女共習の実現を契機とした家庭科教育の一層の充実に期待しつつも、食に関する学習を家庭科における家庭生活の学習の枠内にとどめずに、より広い視野の中に位置づける必要がある。乳幼児の食習慣の確立の問題から米輸入自由化と食糧自給・食糧安全保障のような国政・外交上の問題まで幅広く視野に入れ、いくつものレベルの問題を『串刺し』にして食をとらえたい。」
  私の「食」の学習についての認識はこれに尽きます。「食」の教育のメインは家庭科でしょうが、社会科における農業学習とか理科や保健体育での身体の学習、栄養の学習などとも関係しますよね。これらを連携させながら合科学習的に「食」の学習を行なうことも、「総合的な学習の時間」の時間に幅広い「食」の学習を行なうことも可能だと思います。私が1997年に上記の提案をしてから27年が経過しており、その間に学校における「食育」の実践はずいぶん進んだだろうと思います。
  以下のご意見はいずれも、総合性を持った現代社会の課題と子どもたちの興味・関心をどう繋いでいくのか、そのことを含めて教師が「総合的な学習の時間」の学習過程をどう組織していくかの難しさを述べています。
 「このような学習の形は、他教科では扱いきれない深い題材について子供達に学ぶ機会をつくることができますが、同時に、扱う分野にまとまりが無く、総合学習全体を通して子供達に何を学ばせたら良いか、教師も生徒も迷ってしまうのではないかとも思いました。」(R06 No.2)
 「課題の総合性で、先生が挙げていた平和が、私は重要視するべきだと感じた。資料20③にあった正しい国際理解が特に共感した。今の日本はメディアが凝り固まった考えで、発信する内容が偏っているため、正しい理解をしていく中で、自分なり価値観を深められると思ったからだ。しかしグループ内の意見として挙がっていた『子どもたち主体の学び』『やる意味を理解した活動』にはもって生きにくいと感じた。まだそこまで意識が向かないと思った。」(R05 No.2)
 「課題を総合的なものにした場合、様々な視点から問題を捉え解決に導かなければいけないため、児童中心の体系的な学習になりにくい。しかし、体験学習ばかりしてしまうと複雑な問題を解決する能力は比較的養われないと予想できる。」(R02 No.2)
  いずれももっともなご意見だと思います。すぐに結論は出ませんが、本授業ではこの後、改めて岸本清明先生の「東条川学習」に注目して、その個別性には留意しながらも私たちがどのようなことを学びうるか考えていきたいと思います。

【第四次討論】「東条川学習」について意見・感想を出し合う
●提案:授業通信第9号(2024.6.10)

 シラバス6に入ってからこれまで三次にわたるグループ討論を行なってきました。討論テーマを振り返ってみましょう。
(中略)要するに、みなさん自身の学校教育の実体験としての「総合的な学習の時間」の振り返りから出発して、「総合的な学習の時間」に先立つ日本の教育実践の遺産や「総合的な学習の時間」をめぐる理論的課題も学びながら、次第に「総合的な学習の時間」についての《学習者としての体験的把握》から《教師の指導のあり方》へと視点を移していっていただこうと考えて討論を重ねてきたつもりです。一方、6/2に締め切った岸本清明『希望の教育実践』第1・3章に関する「特別小レポート」については、質問事項を資料のページ順に整理したものを既に岸本先生に送付し、みなさんにも配付(アップロード)しました。「特別小レポート」で出されている質問内容については、それを踏まえて次週第10回(6/17)授業で岸本先生の2回目のゲスト講義においてお話しいただけることになっています。本日の授業では、次回授業で岸本先生のお話を聞く前段階として、第6~9回授業での「総合的な学習の時間」に関する学習と3回にわたる討論の積み重ねも踏まえながら、「東条川学習」の実践記録を通読してみての率直な感想交流を行ないましょう。(ブレイクアウトセッション  約30分)
 その際注意してほしいことがあります。貴重な教育実践の成果から学ぶ際のマナーとして、これまでに岸本先生の実践記録を読み、1回目のゲスト講義を聴いたことから、そこで知ったことについて曖昧な記憶に基づいて議論をしないこと。このことはみなさんに貴重な学びの機会を提供して下さる先輩実践者岸本先生への礼儀でもあります。グループ討論に際して、すでに通読している以下の資料をパソコン上に出しておき、発言したり他のメンバーの意見を聞くときに実践の該当箇所を呼び出して、教育実践の事実を正確に把握できているかどうかを確認しながら討論に参加しましょう。
 必読資料④ 岸本清明『希望の教育実践』(同時代社 2017)より   第1章東条川学習の始まり 第3章東条川学習の発展
 必読資料⑤2023年度受講生の質問(抜粋)&岸本清明先生「質問に答えて」
   参考資料② 岸本清明『希望の教育実践』第4章小規模へき地校での実践
   参考資料⑧ 岸本清明「私の教員人生(自己紹介に代えて)」&参考資料⑧補足
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【「総合的な学習の時間」に関する第四次討論】第6~9回授業での「総合的な学習の時間」に関する学びを踏まえて、岸
本清明先生の「東条川学習」実践について意見を交流する
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●コメント:授業通信第10号(2024.6.17)
   
*この回も討論記録提出を求めなかったので、小レポートNo.9「第6~9回授業での『総合的な学習の時間』に関する学びと本日の『第四次討論』を踏まえて岸本清明先生の『東条川学習』実践について思うこと」へのコメントを掲載します。
 第6回授業以降の「総合的な学習の時間」に関する学習の深まりを反映して多くの興味深い意見が出されているので、そのいくつかについてコメントしました。
 ただ本日の授業では岸本清明先生のお話とみなさんからの質問・感想発表に十分な時間を取りたいので、小レポートNo.9に対して私が口頭でコメントする時間は取りません。後で読んでおいて下さい。
「もともと子どもたちに興味関心のあるテーマを探して持ちだす、のではなく、教師が取り上げたい、学んでほしいと思うテーマ(子どもたちの興味関心の有無に関係なく)について、子どもの興味関心をどうやって引き出したら活動に前向きにさせるか、興味関心をどう利用して学習することができるか、が重要であると考えた。東条川学習についても、授業自体に興味のない子どもたちがもともと川や環境問題に関心を持っていたとは考えられないし、自分の経験の中でも、有意義であったと思う授業にもともと興味があったわけではなかった。もっとやりたい、楽しいと思うことができるのは、テーマに対してどのようなプロセスを踏んで活動するかを教師が工夫していたからだったのではないか、その中の一つが、子どもたちが主役となって活動するという方法だったのではないか、と経験を振り返った。(中略)また、実践記録の中で、35頁『意外な事実が明かされ、面白かった』をはじめとして、各所に岸本先生の『意外だった』『驚いた』という感想が書かれていた。ここから、子どもたちを統率する、指導する立場でありながらも、子どもたちと一緒になって学習活動に向かい、驚きや疑問を共有するという姿で取り組むことは、子どもたちにとっても一体感が感じられ、『先生も分からないことを自分たちで解決しようとしている』という感覚が、『楽しさ』『有意義さ』に繋がっているのではないかと考えた。」(R04 No.4)
「これまでの講義を通して、『総合的な学習の時間』の成功には、何よりも『子どもたちの興味関心を引く』ことが重要だと考えてきた。今回の『東条川学習』でも、児童が関心を持ち、自ら調査に向かったり環境改善のために活動したりしている様子が見られた。以前の講義のときには、この『子どもたちの興味関心を引く』話題は、普段の授業や生活から発展させていけばいいと考えたのだが、『東条川学習』の事例を通して、教師が『子どもたちの興味関心を引き出す』ことが必要だと考えなおした。しかし、これは教師個人の力量に委ねられている部分である。子どもが興味関心をもつものは、同年代なら必ず同じものになるということはなく、子ども1人1人の興味のあるものに対する反応も異なってくる。さらに、『子どもたちの興味関心を引き出す』には教師自身が日常的にアンテナを張って、『子どもたちの興味関心を引き出す』ことができ、学びにも繋がるような題材・教材をみつけていく必要がある。この点は、他の教科と似ている点でもあり、教師の腕の見せ所だと感じる。このようにして『引き出す』ことができた疑問に応えていくことも必要で、教師の社会経験や知識、学びがここに活かされていくのだろうと思う。どのような調査が可能か、誰に聞いたら良いか、どんな知識が必要か、子どもたちの先回りの思考をして準備しなければならない。」(R6 No.3)
「本日の講義で触れられていたように、子どもたちの主体的に取り組む姿勢は望ましいものの、それは決して教師が学習に介入してはならないということを示しているのではない。むしろ、教師は子どもたちの様子を見ながら、適切なタイミングで声掛けやアドバイス等をすることによって、児童生徒の興味関心を引き出すことに大きな責任があると考える。また、そこにおける介入では、子どもたちの授業に意欲的に取り組む態度を育むことを目的とするだけでなく、子どもたちが学びの本質からずれないように、場合に応じて軌道修正を図ることも重要ではないかと考える。『東条川学習』では、上記のような教師による適切な働きかけが十分であったからこそ、大きな意義のある学習になったのではないだろうか。」(R9 No.5)
◎「活動内容を教科習の発展的な物に設定したり、融合的な物に設定したりと内容を固定することが大事であるというよりかは、子どもたちが自分からその内容に興味を持って課題を見出し、解決に近づいていくという過程を踏んでいけることが大切になってくる」(R8 No.5)
 ⇒この間、みなさん自身の「総合的な学習の時間」学習体験の交流・分析や岸本先生の「東条川学習」についての学びの中でたびたび話題に上っていたのが、《子どもたちが興味・関心を持つテーマ・対象から学習をスタートさせるのか、それとも教師が工夫を凝らして子どもたちが興味を持つような学習素材や学習体験を設定するのか?》ということでした。このことについて、みなさんの中では学べば学ぶほど何が正しいかについて迷いや考え直しも生じているようです。
 私自身はこれについて《どちらでもよい》《学習の過程で試行錯誤するしかない》という意見です。
 岸本先生が教室に持ち込んだミネラルウォーターは、確かに6年生の子どもたちの関心を惹きつけ、探究心に火を付けました。そこでは教師の指導が先行しています。しかし仮に、子どもたちがミネラルウォーターに見向きもしなかったら、その後の学習は展開しませんでした。教師が持ち込んだ学習素材だけれどもそれに子どもたちが飛びついた(関心を持った)からこそそこから学習活動が展開していくわけで、どちら(教師?子ども?)が先でなくてはならないということはないと思うんです。
「2つ目は子どもたちの意識は些細なことで変化するということだ。必読資料④P42の3行目からを読むとよくわかる。平気な顔で他人を傷つけていた子どもたちが東条川に住む生き物がどのような環境で過ごしているかという実験を岸本先生が行った時、『やめてくれ』と叫んでいる。普段の行動もがらりと変わった。私はその部分にとても衝撃を受けた。教師が考えて誘導する指導だけでは子どもたちの行動はここまで変わらないと思う。やはりそれだけ子どもたちにとって東条川が汚れていることが衝撃だったのかもしれないと感じた。このように意識を変えるためには子どもたちの様子を常日頃把握しておくことも重要だろう。」(R6 No.4)
 ⇒隣のクラスまで遠征していじめを繰り返していた子どもたちが、川の小動物を殺しかねない実験をみて「やめたってくれ」と叫び、実験後には「ビーカーの水を替えたってくれ」と叫ぶ。この子たちがもともと生き物に対して、生命に対してやさしさ、いとおしみを持っていたのでなければ出てこない言動だと思います。岸本先生はここで《他者の痛みを知れ。そうすればいじめなどできないはずだ。》というお説教の機会をつくろうとしたわけではなくて、川の汚れが生き物に何をもたらしているか、その現実を子どもたちに直視させようとしたんだと思いますが、その学習の過程ではからずも荒れていた子どもたちの心の底にあったやさしさを引き出すことになったわけですね。。
「総合的な学習の時間を独立教科の授業内容と結びつけて学ぶことが効果的であると、これまでの講義を通じて強く感じた。総合的な学習の時間は、他の教科に比べて授業時間の確保が難しいという現実がある。そのため、他教科と統合することで、まず授業時間を確保できるというメリットが生じる。さらに、自分の興味のある分野について学ぶ選択肢が広がることも大きな利点だ。子どもたちにはそれぞれに好きな分野があるだろう。東条川の学習をする場合、水質汚染については理科の観点から、公害問題については社会科の視点から、統計を取る際には数学の面からアプローチすることができる。こうすることで、子どもたちはより自身が興味を持つ分野で主体的に学ぶことができるようになる。」(R8 No.4)
 ⇒本日の岸本先生のご講義で使用されるQ&A集(必読資料⑨)のP.19には、隣のクラスへの報告会の準備のときの話として、「しかし、道徳と学級会の時間を全て使ってしまいました。理科と国語の時間も 一部使っています。もう授業時間を取ることは厳しくなってきました。そのことを子どもたちに話すと、『発表の日だけを決めてくれたら、後は自分たちでやる』と言ったのです。」と書かれています。ご承知のように1998年度6学年学級の「東条川学習」は、第7期小学校学習指導要領で新設された「総合的な学習の時間」の前倒し実施が全国で始まった2000年度より2年前のものであり、当時は年間授業時数配当の中に「総合的な学習の時間」はありませんでしたが、岸本先生はこの学習活動は道徳にも学級会(特別活動)にも理科にも国語にも関係する学習であると判断して、そこから時間を割かれました。2002年の第7期学習指導要領全面実施以降小学校では週当たり3時間、現在は2時間の「総合的な学習の時間」が《確保》されていますが、それでは足りない場合も往々にしてあるでしょう。その場合中高では教員間の交渉・時間調整が必要になるので簡単ではないですが、全教科または全部に近い教科をクラス担任が担当している小学校の場合は、教科の時間の一部を割いて合科的、融合的に総合学習に取り組むことも可能ですね。
「岸本先生の実践を読んで、総合的な学習の時間のもう1つの役割は、人間性の構築であると感じた。『希望の実践』の50頁では、子どもたちが学んだり、協力したりする面白さを味わうことで、人に対する信頼感を取り戻し、人間性を回復していくことにも気づかされたと述べられていたり、51頁では、楽しんで学び合うことが、子どもたち自身もクラス全体も大きく成長させたと述べられていた。このことから、『総合的な学習の時間』は、地域の課題や問題を考察し、解決方法などを考えていくだけの学習ではなく、子どもたち1人1人の地域に向き合ったり、課題に向き合ったりする姿勢を構築し、そして子どもたちの人間性や人間関係の育成に寄与するものであると感じた。」(R10 No.5)
 ⇒非常に大きな、大事な課題ですね。「総合的な学習の時間」の活動は各教科や教育課程のその他の領域にも様々な関係や影響を持っています。週当たり2時間の「総合的な学習の時間」をどうするかという限定された視野で考えるのでなく、「総合的な学習の時間」を含む教育課程全体の中で子どもたちがどう変容していくかに注目する必要がありますね。
「川遊びや生き物とのふれあいは、ほとんどの子どもが『楽しい』と感じる活動であると思うが、それを学習につなげた時、『楽しい』という気持ちが継続されない子どももいるのではないかと考えていた。しかし、必読資料④-2を読むと、子どもたちは川遊びの楽しさだけでなく、そこから学習へとつなげた後にも学ぶ楽しさを感じている。その理由として、『遊びを導入とした活動と学習には強い関連性があったこと』『生活に強く関係する題材であったこと』『実体験や学びを伝え合ったり、ある程度知識を得た後により専門的に研究する人から話を聞いたりしたこと』などが挙げられると考える。」(R16 No.2)
 ⇒このレポートを読んで私は、「はて、1998年度6年生は、みんなで川で遊んだんだろうか?」という疑問を持ちました。必読資料④第1章の1998年度6学年学級の活動記録の中に、川ガキだった岸本先生が東条川を学習対象にすることを思いついたけれども、その時点では荒れた子どもたちを川に連れていくことは危険すぎてできないと判断したという記述がありますが、その後の学習の中で子どもたちは川を観察調査したことは書かれていますが、《みんなで川に入って遊んだ》という記録は(私の読み落としでなければ)ありません。岸本先生にもまだ確認していないのではっきりしたことは言えないんですが、私の推測では「黄緑色の」(必読資料④P.37)汚れた川はとてもとても中に入って水を掛け合って遊べるような状態じゃなかったのでは?
   しかしその後の子どもたちから始まって地域を挙げての河川清掃や排水対策によって東条川が浄化され、東条川学習が全校的な取り組みに発展した段階では全校カリキュラムの全学年に「川遊び」が位置付いています(必読資料④P.90)。そして上記レポートで書かれているように、「川遊び」からどのように学習活動を発展させるかについても実践計画が深化していますね。
「『東条川学習』のように先生のアイデアと児童が興味ある事が合致することはそうよくある事ではないのではと私は考える。『東条川学習』のような学習が他の学校の児童の心も惹きつけるかといわれるとそうではないと思うし、本当にその地域の児童と相性が良かったためにこの学習は大成功したのだろう。また、児童のやりたいことや意欲があることを新米教師の自分が気づくことが出来るかどうかについてもそうとは言えない。岸本先生の長年の経験と勘もこの学習が成功した要因であると考える。担任の先生が岸本先生だったためにこの学年は回復したのだろう。」(R17 No.4)
「私は今回『東条川学習』について現代でも(自分にも)実践可能かという点に着目した。岸本先生は生徒がミネラルウォーターに興味があるという些細なきっかけを『東条川』に結びつけ、生徒の興味・関心を引く課題設定のもと授業を行うことで、学級崩壊していたクラスの状況を改善なさっていた。私自身同じ状況になった際、そこまで気を回すことができるか、生徒が積極的に参加してくれるような授業を展開できるか不安に思った。また、現在の『総合』にどこまで自由度が存在するのか疑問に思った。岸本先生のアプローチの仕方を知って、自分だったらどのように行動するかを考えるいいきっかけになったと思う。自分なりの対処法について考えを深めていきたい」(R21 No.3)
 ⇒「教育実践の一回性」(ある実践は一回きりのものであって、同じ教師が別の子どもたちに対して行なうにしても、別の教師が真似ようとしても、決してその通り同じように繰り返すことはできないということ)については、私が1970年代前半に教育学を学び始めた頃から繰り返し聴かされていたことであり、別に「一回性」なんていう日常聞きなれない言葉を使わなくても、教師なら誰しも認識していることです。その通り、「東条川学習」は教職歴24年の岸本先生と1998年度東条東小学校6学年学級の子どもたちとの(双方ともに苦しみを抱えた)出会いの中でこそ生まれたのであり、他の教師、他の子どもたち、他の年度、他の学校では生まれ得なかったものでしょう。それは自明のことです。問題はそこから私たちがどういう《学び》を引き出すかです。《自分は岸本先生ではないからこのような実践はできない》と結論づけたら、そこでおしまいです。上記お二人のレポートはともに、自分たちが経験のない新任教師として学校に赴任したときに「総合的な学習の時間」に取り組むとして、岸本実践に学んで何ごとかを行なうことができるかを自問しています。これは重要な論点ですので、本日の岸本先生のお話を聞いて学んだ上で、次回の討論課題としましょう。
「この実践では、学級崩壊寸前だったクラスを素晴らしい総合授業によって立て直し、子どもたちの持つエネルギーを良い方向に向けたが、一歩間違えると危険なのではないかということについて述べたい。総合では、子どもたちが先生に言われたからではなく、主体的に判断できることを重要視されているように思われるが、自分たちの下した判断が正しいかどうかを考える時間も必要だろう。実践の中では、先生が稚魚の入ったビーカーに洗剤を混ぜ、稚魚の死ぬ様子を子どもたちに見せるが、そもそもこの実験自体、川の水量と混ぜた洗剤の量が現実に即しているのか怪しい。子どもたちに衝撃的な場面を見せ、子どもたち自身が洗剤を使わないことを選んだかのように見せているともとらえられる。また、授業参観の場面では、家でも洗剤を使わないように保護者へと子ども自身が呼び掛けているが,『やった方がよいこと』が実際にできること(金銭的な問題や個人の肌事情など)を無視しているように思われる。自分たちで判断したのだという自信が、その判断の適当さを曖昧にして他者への強制となってしまっている側面がある。例えば、今回の実践のようなことを授業でしようと考えた際、プラスチックが題材になるだろう。『自然界でプラスチックが分解されず、生態系を破壊する恐れがあるからプラスチックを使うのはやめよう』という極端な(それでいて実現の難しい)結論になることもあるかもしれない。そこで教師は、理想論と現実を区別しなくてはならない。確かに、環境のことを考えるとプラスチックは使わない方がよいが、実際問題今すぐプラスチックを廃止するのは難しいので、『ポイ捨てしないこと』『環境に優しい製品を選ぶこと』『ごみはきちんと分別して捨てること』という現実的な結論に落ち着くように導く必要があると考える。子どもが判断をしたことに満足してしまうと将来、『少子高齢化だから子供を産まない人は存在価値がない』のような正しさで暴力をふるう、偏った思考になってしまうと考えた。」(R11 No.5)
「子どもたちが東条川の汚れの原因を自分たち以外の責任と考えていたときに、もし子どもたちに自分たちも関係しているんだということを分かってほしいという岸本先生の強い思いがなかったら、東条川実践で子どもたちがここまで成長することはなかっただろう。このときに、岸本先生が信念を曲げずに、しかも先生側から『それは違うよ』と言うわけでもなく、子どもたちが自分で気付けるように工夫していた姿勢を、私も大切にしたいと思った。」(R13 No.5)
「ミネラルウォーターをきっかけとして学習に入っていった部分は、個人的には興味深い導入だったと感じた。子供たちが、自分は自分はと水を飲み、水の大切さを感じるまでの一連の学習において、子どもの学習意欲に対して、岸本先生は大人以上に上手く調べあげると述べている(必読資料36ページ)。さらに、教師もその学習に対して楽しまなければ授業が楽しくならないというのも、ハウス食品に資料を依頼している点(必読資料33ページ)から教師の本気度が伺え、生徒と教師で共に作り上げる授業であると思った。」(R17 No.5)
「『東条川学習』は児童が主体的に動いている実践であるが、この実践において教師は最初にきっかけを与え、それ以降は児童の流れに合わせて発問したり学校外の大人に聞くという手段を与えてみたりと、見守りながらも学習を促すような関わり方をしていると感じた。東条川を教材にしようと思いつき、そこにつなげるためにミネラルウォーターを用いたということからは、教師が意図的にきっかけを与えたことが読み取れる。しかし、必読資料④-1のP.38の10行目には『この発表会で、子どもたちは「川はやはり汚かった」と報告すると思っていましたが、結果は意外でした。「きれいな方」と報告するグループの方が多かったのです。』という記述があるように、その後の学習は教師の意図しない方向へと進んでいる。東条川学習の素晴らしい点としては、ここで児童に任せきりにするのではなく、『おじいさんの話を聞く』という手段を教師が意図的に与え、児童の学びが深まるための関わり方をしているところである。総合学習ならではの題材で、児童の常識を覆し、学びを深める『手助け』の部分を教師が担っていると感じた。【第四次討論】の中で、教師1人で総合学習を行おうとすると教師の主観が入りやすくなってしまうが、東条川学習のように地域の人や専門家なども巻き込んで進めることでより児童が積極的に学習するのではないかという意見があったが、これも私が考える学びを深める『手助け』だと感じた。」(R18 No.3)
 ⇒「東条川学習」において、ミネラルウォーターの「利き水」の段階から全校発表会、マスコミ・役場への訴えなどを経て、後輩たちに学習の継続を訴えて6年生たちが卒業していくまでの過程が、もちろんのことはじめから計画され仕組まれていたわけではなく、子どもたちと岸本先生の試行錯誤の中で展開していきました。その中での子どもたちの動きや発言への岸本先生の対応について、上記4人のレポートの中では異なる意見が出されています。いろいろな捉え方があるんだなと思いました。
 「東条川学習」に取り組んだ子ども一人一人の認識や感情や行動や、そして何よりその後の一人一人の成長にとってこの学習がどのような意味を持ち、どこが成果でどこが不十分な点だったか。私たちにとっても関心あるところですが、結局のところそれを決めるのはこの子どもたちの一人一人の人生においてであろうと思います。



【第五次討論】新人教師が「総合的な学習の時間」に取り組むためのヒント/手がかりは何だろうか?(グループ討論と全体交流)
●提案:授業通信第11号(2024.6.24)

 授業通信第10号「43」のコメントにも書いたのですが、確かに岸本実践は学級崩壊状態から素晴らしくactiveな環境学習活動を展開できるまでに成長した子どもたちの《奇跡のドラマ》とも言えます。みなさんの多くが数年後にその立場になる《新任教師》にとっては、到底真似のできないもののようにも見えます。では、《岸本先生のように教職24年目くらいになればできるかもしれないけど、当面はとても無理》と自分を納得させますか?
 新任教師でも、小学校の中高学年の担任になれば間違いなく「総合的な学習の時間」を担当しなければなりません。これまでみなさんの被教育体験の中での「総合的な学習の時間」の良し悪しや、すぐれた先行実践である「東条川学習」を学んできました(授業で取り上げていませんが和爾貴美子「奇形ガエルの学習」の記録も紹介しました)。それらを踏まえて、新人教師も否応なく直面することになる「総合的な学習の時間」における学習指導に向けて、《夢》の部分も含めて《駈け出し教師の力量形成の見通し》について語り合ってみましょう!
 本日の討論課題を改めて整理します。
 第6回授業以降の「総合的な学習の時間」に関する学びは、まずみなさん自身の「総合的な学習の時間」体験を振り返ることから出発し、子どもの立場に返って、教師の指導の良し悪しについても検討しました。その後、1990年代後半の第7(8)期学習指導要領における「総合的な学習の時間」新設から突如始まったわけではない日本の「総合学習」の歴史について学び、また「総合的な学習の時間」全面実施に先立って始まったすぐれた先行実践である「東条川学習」をはじめ岸本清明先生の環境総合学習について、先生のお話も直接伺いながら学びを深めました。この授業を運営する私の心づもりとしては、子どもの立場から次第に指導する教師の立場に視点を移しながら「総合的な学習の時間」の指導のあり方について考えていただこうと意図していました。
 「総合学習」の定義について佐藤は、「学習プロセスとしての総合」(学習者サイドになんらかの部分・要素(個別教科の学習・知識・技能・能力など)が存在することを前提に、それらを関連づけるような学習とするもの)と、「課題の総合性」(そもそも総合的であるような課題を学習する活動とするもの)の2種類があると述べ、この両者は「相互に排除し合うものではな」く、「両方の性格が融合することもあり得る」としています(必読資料⑧)。
 また岸本先生は、「総合学習」かそうでないかを判定するチェックポイントとして次ページの10項目<註・に掲載>を挙げられました。
 さて、岸本先生からの「総合的な学習の時間をうまく使って、ほんものの総合学習をぜひ実践してほしい」というメッセージに対して積極的に応えたいという意思を持つ人(新人教師)は、まずはどんなことから始めればいいでしょうか。岸本先生の「東条川学習」は教職歴24年目の実践です。いきなりその水準を求めても無理だし、そうする必要はないと思います。さりとて「ベテラン教師のようにはとても実践できないから、新人教師としてはどうやったらいいのかわからない」と思考停止してしまうのもあまりに知恵がないですね。
 そこでみなさんが数年後に新人教師として赴任すること(教職をめざしていない人も、とりあえずそのsimulationに付き合って下さい)を想定して、さらに(新人の時点だけではできることが限られると思われるでしょうから)そこから経験を積んで5年目、10年目と教師として成長していく姿を思い描きながら教師個人が、また同学年担任集団の協力とか先輩教師から学んだり相互に協力しながら、さらに子どもたちや親や地域住民や専門家の協力を得ることを想定しながら「総合的な学習の時間」に取り組んでいくために、これまで本授業で学んできたことからどのような《ヒント》や《手がかり》を見つけることができるか、グループで話し合ってみましょう。
 そして今回はグループだけの意見交流に留めず、各グループで出された意見を全体の場で発表していただきます。
○第11回授業での上記課題でのグループ討論について、翌週の授業通信第12号では全21グループから提出された討論記録を全文掲載しているものの、それについてのコメントは書いていません。また第11回授業後提出させた小レポートNo.11は、第11回授業でのグループ討論やそれを受けての岸本先生の3回目のご講義を踏まえて書くよう指示していますが、レポートの課題自体はグループ討論テーマとは異なるものにしました。この小レポートNo.11についてはで改めて検討します。

◎考察1
 2023年度授業では、新潟大生に岸本清明先生のすぐれた教育実践から学んでほしいという思いと共に、受講生が《すごすぎて近未来に新人教師になる自分からは遠い存在》だとして岸本実践を自分から突き放したままで学習を終わるということがないようにと考えて、「自分が教師になって『総合的な学習の時間』の指導に取り組むとき、取り敢えずどのような指導(内容・方法)であれば新人教師でも努力すればできそうだと考えますか?(小レポートNo.12課題A)」という問いかけをしましたが、そこから私にとっては思いがけないことに、(約100名の受講生の中の1~2割程度からの反応ではありますが)子どもの自由な活動を価値の低いものと見て教師による《枠付け》が必要であるという考え方が出てきました。私はこのことがずっと気になっていて、もちろん受講生の考え方は尊重するとしても、《学習指導要領に基づく教科指導の発想の延長》として「総合的な学習の時間」の活動も結局教師の意図の下にコントロールすることが必要だ、あるいは無難だという考えに落ち着いてしまっていいのか、それに対して何らかの問題提起をしたいと考えていました。それで、受講生の「総合的な学習の時間」の被教育体験交流からその次の学習への進め方について、2023年度授業では体験は体験として「『総合的な学習の時間』における『教師の指導』とはどうあるべきなのか? 簡単に答えは出ませんが、岸本実践からも学びながら考えていきましょう。」(2023年度授業通信第12号2023.7.3)という一般的な方向づけをしていたんですが、2024年度授業では前掲の【第二次討論】「総合的な学習の時間」における子どもたちの《活動の自由》、教師の《指導の自由》をどう捉えるか? に関する提案(授業通信第7号 2024.5.27)にあるように、《子どもの活動の自由》と《教師の指導の自由》との兼ね合いを検討する必要があるという前提を立てた上で、いま一度被教育体験を思い出しながら《当時の子どもの立場に身を置いた上で教師のうまくいった指導と失敗した指導を挙げる》という課題設定をしました。いきなり教師の立場に身を置いて「総合的な学習の時間」のあり方を頭で考えるのではなく、あくまで子どもの立場に軸足を置きながら「総合的な学習の時間」における教師の指導を《批判的に振り返る》ことを受講生たちに要求したわけです。これだと、《子どもの自由な活動を規制し管理しようとする教師の行動》は、子どもの眼から見ての批判対象として出てくる可能性はあっても、肯定的な意味づけはされにくいですよね。今から考えると、私なりの2023年度授業の反省から来る受講生の思考の誘導になっていたと言えるかもしれません。また、第一次討論での「子どもにとっておもしろかった活動/つまらなかった活動」の収集と、第二次討論での「子どもから見た教師の指導の成功事例/失敗事例」というのは、結局ちょっとだけ角度を変えて同じことを議論したとも言えなくないですね(^^;)。

◎考察2
  2023年度授業では、岸本実践からどう学ぶかに関わる私から受講生への問いかけのしかたは、以下の通りでした。
小レポートNo.12課題A:自分が教師になって「総合的な学習の時間」の指導に取り組むとき、取り敢えずどのような指導(内容・方法)であれば新人教師でも努力すればできそうだと考えますか?
(課題「A」としているのは上記課題を提起する対象を受講生中の教職志望者に限定したためであり、教職非志望者には「B」として別の課題を出しました。)
 一方2024年度授業では、以下のような問いかけをしています。
【第五次討論】新人教師が「総合的な学習の時間」に取り組むためのヒント/手がかりは何だろうか?
(2024年度は受講生を教職志望者と非志望者に敢えて分けて課題を出すことをやめ、「教職をめざしていない人も、とりあえずそのsimulationに付き合って下さい」ということにしました。)
 前者(2023年度授業)は岸本先生の「東条川学習」に関するご講義を受けて(時間がなかったのでグループ討論なしでの)小レポートの課題であり、後者(2024年度授業)はグループ討論課題であるという授業運営上の位置づけの違いがありながら、文面からは同じような課題を投げかけているように見えますが、前掲の通り2024年度授業【第五次討論】提案では、「(新人の時点だけではできることが限られると思われるでしょうから)そこから経験を積んで5年目、10年目と教師として成長していく姿を思い描きながら」という説明を追加しました。2023年度授業の《新人教師でも努力すればできそうなこと》というのは岸本実践から学べることを《自分事》としてもらえるようにという私の願いではあったのですが、私の願いとは逆に受講生を《駈け出し教師にできることなんてどうせ限られている》という発想に追い立ててしまっていなかったかという反省がありました。そこで2024年度授業では、教職24年目に「東条川学習」の実践を始められた岸本先生と、数年後の教師になりたての自分とを直線的に結びつけるのではなくて、新採当時にはまだできないことを努力し力を付けてできるようになっていくというタイムスパンの長い教師像を描きながら考えることを期待しました。私のこの呼びかけが受講生たちの岸本実践からの学びにどれほどの影響を与えることができたかは、よくわかりませんが(^^;)。



Ⅶ.新潟大受講生たちが授業での学習を踏まえて思い描いた総合学習/総合的な学習
 2024年度授業での6回にわたる「総合的な学習の時間」に関する学習活動の最終回=第11回授業(2024.6.24)におけるグループ討論(【第五次討論】)後に全21ルームから提出された討論記録と、第11回授業後に受講生から提出された小レポートNo.11全117名分(いずれも授業通信第12号2024.7.1に掲載)を【資料4】に掲載しました(註・本アーカイブでは割愛しました)。このうちグループ討論記録については、私は授業通信第12号(2024.7.1)において特にコメントをしていません。たぶん第11回授業の全討論記録と全小レポートを通読することに精一杯で討論記録についてコメントを書く余裕がなかったんだと思います。また、グループ討論記録よりもそこから少し角度を変えて課題を立てた小レポートNo.11の内容に対する関心の方がより強かったからかもしれません。Ⅵで紹介した通り、第11回授業における【第五次討論】のテーマは、「新人教師が「総合的な学習の時間」に取り組むためのヒント/手がかりは何だろうか?」でした。これに対して小レポートNo.11の課題は、「こんな総合学習(総合的な学習の時間)に取り組んで見たいという夢を語る」でした。その趣旨について私は授業通信第11号(2024.6.24)にこう書きました。
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本日の小レポートは、グループ討論や岸本先生の3回目のゲスト講義の感想、そこから得たことを単に書くのではなくて、「総合的な学習の時間」についてみなさんそれぞれの《夢》を語っていただきたいと思います。私ならこのような「総合的な学習の時間」を子どもたちと取り組んでみたいという《学習活動のデザイン》を書いてみましょう。学習指導案のように詳細に書く必要はありません。新任教師として赴任したときにはまだ技量が未熟で実践できないだろうと思うことでも、5年後10年後に力を付けた上で実践してみたい、ということでもいいのです。《子どもたちのやりたいことをとりあげて》とか《教師が一方的に引っ張らない》とかの一般論だけではなくて、できたらこういうテーマで、こういう素材で、こういう場所で、子どもたちとこういう活動をやってみたいという具体性のある夢にしてほしいのです。先に「グループ討論や岸本先生の3回目のゲスト講義の感想、そこから得たことを単に書くのではなくて」と書きましたけれども、《夢》を語る上で本日のグループ討論やゲスト講義で参考になったと思うことはどんどん書き込んでかまいません。とにかく、不満や批判の表明も含んだ体験交流から始まった「総合的な学習の時間」についての学びを、最後は夢のある話で締め括りたいのです。教職をめざしていない人も、一つのsimulationとして取り組んで下さい。
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 このように総合学習/「総合的な学習の時間」について《夢を語る》という形で学習を締め括らせようと考えた理由について、私はそこに到る自分の思考の経過を岸本先生への2024.6.20メールに次のように書いています。
「もともとの討論テーマである『子どもたちの自由な活動の意味』は、これまでもお話ししてきたように昨年度授業で子どもの活動の自由の価値を低くみる傾向が気になったために設定したものです。しかし今年度は既に第7回(5/27)授業の【第二次討論】で『子どもたちの《活動の自由》を保障し、子どもたちの興味・関心を尊重するような《教師の指導》とは』というテーマで過去に出会った教師の指導の事例を検討しながら議論させています。また、今回お送りする小レポートNo.10では、《子どもの自由な活動は必要。しかし教師の計画的指導も必要。》ということで、けっこう思考が膠着状態に陥っている受講生もいるのではないかと思われます。一方で、岸本実践のミネラルウォーター以降の展開を学んで、活動の自由を得た子どもたちがどれほどのエネルギーを発揮するかということも多くの受講生が掴めたんじゃないかと思います。ですから『子どもたちの自由な活動の意味』を討論テーマとしてもあらたな議論の発展が難しいのではないかと考えました。
 一方、《新人教師にとってのヒント/手がかり》という論点は、へたをすると《近い将来の自分は、教師歴24年目に『東条川学習』を実践された岸本先生のようにはとてもやれないから》という昨年度のような傾向に流れる可能性もあります。ただ、《自分だったら何ができるか》という論点は今年度のこれまでの小レポートの中では散見されますが、授業の中で全体で議論してはきていません。《学習者だった立場から教師の行動を批判的に見る》という論点や《先輩教師である岸本先生の実践から何を学ぶか》という論点では学びを深めてきましたが、《近い将来の自分たちに何ができるか》は論じ合ってきませんでした。

 受講生たちはこれまでの学習の中で「総合的な学習の時間」の被教育体験を出し合い、その中では学習者の立場からみればおもしろくない活動/意味があると思えない活動も含まれていました。一方で受講生たちは岸本清明先生の「東条川学習」実践について独習・グループ討論・岸本先生のご講義を通じて学習を重ねてきました。その中で各受講生の頭の中では望ましい総合学習/総合的な学習像がぼんやりとは形成されつつあるかもしれませんが、一方上記メールで書いているように、《子どもの自由な活動展開と教師の計画的指導との兼ね合い》をめぐる議論を繰り返したりレポートの中で考えた受講生たちは、《どっちも大事ではないか》《しかし具体的場面でどう組み合わせたらいいかわからない》という《思考の膠着状態》に陥っていないかという危惧を私は持っていました。さらにはそこから(杞憂かもしれませんが)《「総合的な学習の時間」は自由に計画し展開できるというけれど、いろいろな考え方があるしリスクが生じる危険もあって実践が難しく、結局は何か雛型を参照して無難に取り組むしかない。》的な諦めの発想に受講生の思考が進んでしまうと、「総合的な学習の時間」に関する全6回の授業に「『法的拘束力』の例外?」というタイトルを付けて学習指導要領体制の下でも自由な創造的実践を展開する可能性があるんだよということを知ってほしいという私の願いとは異なる学習の結末になってしまいます。
 かと言って私は、《このような「総合的な学習の時間」の実践こそ望ましいから、みんなそのように実践すべきだ。》と「総合的な学習の時間」の実践の理想や実践モデルを受講生に押しつけるつもりはないし、岸本先生の環境総合学習実践についても《実践のあるべき姿》として提示するのではなく《実践から私たちが何を学ぶか》についての学習素材として取り上げさせていただいたわけです。
 他の授業科目も含めて私の授業では、討論テーマを提案して自由に意見交換させるが最後には佐藤が《正しい結論》を提示して終わる、というやり方はしてきませんでした。ですから2024年度授業でも第11回授業で「新人教師が「総合的な学習の時間」に取り組むためのヒント/手がかりは何だろうか?」というテーマでグループ討論を行ない、そのグループ討論についての感想を小レポートとして提出させて「総合的な学習の時間」に関する学習を締め括るという形でもよかったんですが、最後に《夢を語る》という視点を入れることで、《「総合的な学習の時間」についてはこう考えなければならない》という枠組の縛りから少しは解放されて近未来の自分の教師像を描いてもらえるのではないかと考えました。

 受講生たちが自由に思い描いてくれた「総合学習(総合的な学習の時間」像に対して、私は翌週の授業通信第12号(2024.7.1)で次のようにコメントしました。
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 「総合的な学習の時間」(特に「総合学習」的な)をどう作るかについて、みなさん教壇経験がほとんどない中で想像し「夢」を描いてくれました。たくさんのおもしろい提案が出されています。いつも思うのですが、
100人前後の大規模授業の唯一と言っていいメリットは、あるテーマについて極めて多数の人の多様な意見を聞くことができることです。そのことをみなさんにも実感していただきたくて、フォーラムでも閲覧できる小レポートを敢えて授業通信上の一か所にまとめて提示しました。みなさんが近い将来教職に就かれたとして、どんな大規模校に赴任したとしてもあることがらについて100人の同僚の意見を聞くという機会はおそらくないと思います。その意味で本授業での意見表明・交流の機会は極めて貴重だと私は思います。
 岸本清明先生の「東条川学習」や食育実践からの学びを活かそうと考えた人、自分自身の被教育体験中の「総合的な学習の時間」でよかったものを活用しようという人、逆に自分自身が経験できなかったような学習活動を子どもたちに経験させてあげたいと考えた人……また、具体的な学習過程を描いて見せてくれた人、具体例はないけれどもこれまでの「総合学習」に関する学びから子どもたちの活動と教師の指導のエッセンスを導きだそうとした人など、さまざまに個性的な形で「総合学習」/「総合的な学習の時間」への《夢》を語ってくれました。私個人の個々のレポートに対する賛否とか「一言言いたい」というような思いを超えて、私としては全員のレポートから多くのことを学べたし、大変満足しています! 私は残念ながら新潟の地を一度も訪れることなく本授業を終わることになりますが、みなさんのレポート記述からほんの少し新潟のことがわかったように思います。

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 以上は第12回授業(2024.7.1)実施時点での私のコメントです。その時点で私はもちろん全受講生の小レポートNo.11を読んだ上でコメントを書きました。授業実践上のリアクションとしてはそれで十分、というのはおこがましいですが、第11回授業後の1週間で次回授業の準備もしながら前回授業のレポートにコメントする作業としては、上記の内容が限界だったと思います。それと、単に時間的限界からここまでのコメントしかできなかったということではなく、私は授業通信第12号で「私個人の個々のレポートに対する賛否とか『一言言いたい』というような思い」を書くつもりはありませんでした。それをやってしまうと、《自由に夢を語ろう》と呼びかけておきながらその結果出てきた受講生の《夢》に対して《教師目線》から《評価》を下していると受けとめられてもしかたないと考えたからです。

 今回の報告に際して、2024年度授業における受講生の学びの最終到達点とも言える小レポートNo.11の全員分を【資料4】として掲載して例会参加者の皆様に見ていただく(註・本アーカイブでは割愛しました)以上、担当講師としてレポートに見られる受講生の学びの到達点を総括的に分析する必要があるかと最初は考え、改めて117名分のレポートを読み返してみました。しかし、2024年度授業終了から3か月以上経った現時点で個々の受講生の「総合的な学習の時間」認識を《評価》するような視点で読むことは(新潟大授業が来年度も続くわけではなく、そこに活かすということもできないので)意味がないと思えてきました。受講生の多くは2年生で、教科教育関係の授業等で学習指導案を書く経験はあるとしても教育実習は未経験の人が多く、授業プランを自力で作成し実践した経験を持つ人は少ないと思われます。私も《夢を語る》に際して指導案形式等の枠組にこだわる必要はないとレポート課題提示の際に説明しました。これを受けて受講生はそれぞれに独自の角度で《夢》を語っています。こういう内容の「総合的な学習の時間」の活動に取り組みたい、教師としてこういう構えで臨みたい、子どもたちにはこのような活動を経験してほしい……その他いろいろな自由な形式で《夢》が語られていて、それを読むこと自体が私にとってとてもおもしろい経験でした。私なりの読み方の《痕跡》を残すという意味でレポートの文章の「『おもしろい!』『なるほど!』と思ったところ」に下線を付けましたがそこから何か一般論を引き出そうとはしませんでした。
 小レポートは新潟大学学務情報システムの「フォーラム」というページに授業回ごとに投稿されており、受講生は他の受講生の全レポートを自由に閲覧することができます。しかし、私以外に毎回の授業の全投稿をくまなく読む受講生はおそらくほとんどいないだろうと考えて、必要な場合は授業通信に全レポートを転載しました。小レポートNo.11も授業通信第12号に全14ページを使って7ポイントの小さな活字で全レポートを掲載しました。こうしたからといって多くの受講生が全レポートを読むということはないでしょうが、授業通信自体は各自でダウンロードすれば保存できるので(「フォーラム」投稿は授業期間が過ぎれば私自身も含めて閲覧できなくなります)、その気があれば今後の教師人生において参照することもできます。授業運営担当者としての私の「総合的な学習の時間」に関する見解を今後において参考にしてほしい思いもありますが、前掲の授業通信第12号コメントにも書いたように、どんな「総合的な学習の時間」を実践したいかについて100人規模の意見を聞く機会というのは教師人生の中でもおそらくないと思われ、《それぞれの夢を聞く、知る》ということ自体が貴重だと思うので、そこから何を得るか、何を参考にし何を捨てるかは、各受講生に任せていいと思います。


Ⅷ.岸本清明先生のご講義の概要と岸本先生から受講生へのメッセージ
 2024年度授業において岸本清明先生には3回の講義をしていただきました。
◎1回目=第7回授業(2024.5.27)
 「総合的な学習の時間」を取り上げるシラバス項目=6.「法的拘束力」の例外?―第7(8)期学習指導要領における「総合的な学習の時間」の新設 のサブ項目6-4.学校現場は「総合的な学習の時間」新設をどう受けとめたのか? において<註・シラバス6全体の構成については、 P.12参照>、「まずは先生の教師生活全体を振り返るお話から入っていただいた後に1990-2000年代の『総合的な学習の時間』登場の時期の先生ご自身の受けとめ方と職場の同僚とか管理職の受けとめ方等について触れていただいてはどうかと思います。」(2024.5.21メール)とお願いしました。岸本先生からは4/22に「私の教員人生(自己紹介に代えて)」と題する文章をいただき、受講生に配付しました。
◎2回目=第10回授業(2024.6.17)
 サブ項目6-7.すぐれた総合学習の事例―岸本清明「東条川学習」に学ぶ の中で岸本先生に「東条川学習」をはじめとする環境総合学習についてお話しいただくメインの機会でした。受講生には『希望の教育実践』第1・3章を通読し、また同資料についての2023年度授業における受講生と岸本先生のQ&A集も通読した上で6/2締切で質問レポートを提出させていました。提出された質問を佐藤が資料のページ数順に整理したものを岸本先生に送付し、それへの岸本先生の回答もすでにいただいていましたので、第10回授業前に「特別小レポートの質問抜粋&岸本清明『質問に答えて』」として配付済でした(同資料の岸本先生の回答の部分を本報告の【資料3】として添付しましたが、本アーカイブでは割愛しました)。また前週第9回授業後に小レポートNo.9課題:第6~9回授業での「総合的な学習の時間」に関する学びと本日の【第四次討論】を踏まえて岸本清明先生の「東条川学習」実践について思うこと を提出させ、そのレポート一覧を岸本先生にお送りしましたので、岸本先生はそれも通読した上で2回目の講義に臨んで下さいました。当日は先生の「質問に答えて」の文章を画面に出してその流れを辿りながらお話しして下さいました。またご講義の中で受講生に対する「総合学習かそうでないかがわかるアンケート」を実施され、佐藤が授業中に集計して結果を提示しました。
◎3回目=第11回授業(2024.6.24)
 授業前半でのサブ項目6-8.「総合的な学習の時間」において教師が果たすべき役割を考える 【第五次討論】新人教師が「総合的な学習の時間」に取り組むためのヒント/手がかりは何だろうか? のグループ討論とその全体への発表を先生にも聞いていただき、その上でお話しをいただきました。なお、前週第10回授業後の小レポートNo.10:岸本清明先生の第2回ゲスト講義を聞いて、私の「総合的な学習の時間」についての認識はどのように深まったか も第11回授業までに先生にお届けしていました。私から岸本先生への事前の依頼は、受講生の討論をお聞きいただいての感想を自由にお話いただきたいということだったのですが、先生はこの日のために新たに「感謝を伝えあい、思い出を作る食と農『鴨川を調理し、鴨川の人と丸ごと食べる」と題する資料と、合わせてこの鴨川小での実践について第11回授業で説明していただくための授業で提示するパワーポイント資料を用意して下さいました。前者の資料は第11回授業後に受講生にアップロードしました。
 岸本先生が最終の3回目のご講義で新たな実践資料(鴨川小学校在職時に取り組まれた全校での食育実践などについて)を追加して下さったのは、ベテラン教師岸本先生の「東条川学習」実践学習と、これから教師になって一から「総合的な学習の時間」に取り組むことになる受講生たちとの間をつないで、気軽に取り組みやすい実践例を示して下さったものと考えています。
 岸本先生は、3回のご講義終了後に新潟大受講生に以下のメッセージを届けて下さいました。
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                                                                            2024/07/02
   新潟大学教育学部「教育課程及び総合的な学習の時間の指導法A」受講生の皆さんへ
                                           兵庫県公立小学校元教諭  岸本 清明
 総合学習について3回実践を報告したり、考えたりする機会をいただき、ありがとうございました。
 佐藤年明先生から第6号の通信が送られてきてから、第7号、第7回討論記録、特別小レポート一覧、第9号、特別小レポートにおける質問抜粋と私の回答、小レポートNo.9一覧、第10号、第10回(6/17)小レポートNo.10、第11号、第12号を受け取り、それぞれしっかり読ませていただきました。
 一方、私は東条川学習と鴨川小での食育の取り組みとを報告させていただきました。それをみなさんがどう受け止めてくれたかを通信で知れて、ありがたかったです。通信の回が進むにつれて、皆さんの総合的な学習の時間に対する考え方が変わっていくのが読み取られ、うれしく思いました。と同時に、佐藤年明先生のご指導のよろしきを得て、皆さんの能力の高さも感じました。
  とりわけ通信第12号には、私にとって興味深い事柄がたくさん記載されていました。一番驚いたのは、総合学習による防災教育の実践でした。小学6年生の提案に教員たちが応え宿泊して避難生活を体験するだけでなく、パッククッキング弁当を開発してお祭りで売ったり、慰霊祭で配ったりする活動を実施したことです。防災教育が多くの学校で単なる避難訓練と講話という形骸化したものとなり、実施する意味の感じられないものとなっている昨今、これはすごい実践だと思いました。 
 また、食育を実践したいとの意見も多かったです。中学校での総合学習、自分たちで栽培した地元の特産物を使って調理をし、地域の人や保護者にふるまう会の取り組みも興味を感じました。
 地域の特産物(米、リンゴなど)を題材にした総合学習、地域の人でおもしろいプロジェクトをしている人とつながる総合学習、地域の祭りを取り上げた総合学習、総じて地域の魅力を再発見して多くの人に知らせる活動に関する意見も多かったです。それらの実践は地域の人に取材するのでコミュニケーション能力が高まるだけでなく、それらの結果を発表する過程で表現力がつきます。一方、取材を受ける住民の側でも、過疎に苦しみ未来に希望を見出せないでいますので、子どもたちと地域の価値を見直し、再評価することになりますから、双方に有益だと思います。そして、子どもたちが地域の人の思いや願いを感じ取り、社会性も育まれると思います。
 それから、子どもがやりたいことを実現していく総合学習を考えてくれた人もいました。
「カーレース大会」や「ゴミアート」はおもしろい提案だと思います。グルーブ対抗にしたら、グループ内でいろいろな知恵を出し合って創意工夫したり、協力しあったりすると思います。
  最後に、「教師が教えてもらう総合学習」と書いてくれた学生さんがいました。私も総合学習を実践する中で、たくさんのことを子どもたちだけでなく地域の人、行政の人や専門家、研究者に教えてもらいました。おかげで、川や川の水質、魚やサワガニ、水生生物や野鳥についても詳しくなりました。魚や野鳥、水生生物など子どもが好きなものは子どもの方が先に詳しくなります。それで、私は子どもに教えてもらうことがたびたびありました。総合学習ならではの光景ですね。
 総合的な学習に関しては、皆さんが体験してきたよう教員によって取り組みに大きな違いがあります。「学活」「総合」「道徳」の違いが分からないと書いてくれた学生さんもいました。それではダメですね。
 子ども主体のおもしろい実践に取り組める総合的な学習の時間ですから、子どもたちと楽しいことをすれば、子どもの良さを発見したり、教育の可能性を感じたり、子どもたちと仲良くなったりと、地域の人に評価されたりと、良いことが次々に起こってくるのにと思います。
  「地元の川にいる魚」を教材に「魚たちとみた鴨川の川」という環境教育を実践した鴨川小学校5・6年生は、実践後に次のような評価をしています。
(1)総合学習の取り組みに対する子どもたちの評価
① 全体的な評価

・「魚の側から見て考える」という一見変わったやり方で、魚が本当にたいへんなことを知った。
・魚たちのことが分かったし、鴨川の川の自然がわかった。
・初めて知ったこともたくさんあった。鴨川の魚が減っていると知れて良かった。
・楽しかったし、何より生き物のつながりがどれほど大切かが分かった。
・魚のことでよく勉強できた。アンケートをとった際に、昔いた魚とかを知れた。
・環境問題について、考えることができた。
・いろいろな先生方に来てもらって学習ができた。
② 一年間を通しての総合学習の評価
 総合学習をして、自然に対する見方が百八十度変わりました。初めは、「鴨川って良い川だな。魚が多く、自然が残っているなあ」と思っていました。でも、先生といっしょに鴨川へ行ってみると、自然がはかいされているところが、よくわかりました。その後に、川の調査をしたり、アンケートをとったりすると、魚の種類がきょくたんに減っていて、ある一定の魚しかいないというひさんな状況になっていることがわかりました。総合学習をしていなかったら、知らないうちに自分が、自然や環境を破壊していたかもしれません。だから、今年この学習をして良かったです。
③ この総合学習をして、考えるようになったこと
 川に魚がいなくて、ゴミがあると、川は死んでいる。自然が創り上げた美しいものを人間はこわそうとしている。川の横を通ると、ゴミくさい川になってほしくないので、地域の人に呼びかけて、少しでも早く、昔のようなきれいな川にもどってもらいたいという気持ちが、この総合学習をして生まれた。
④ 教科教育と総合学習の相違
A 似ている点

・学習することで、どんどん深まっていくこと。
・自分たちで考える力を持つようになること。
・疑問が出てきて、そこから話が広がり、また疑問が出てきて、よく考えること。
・いろいろなことを発見して、おもしろくなっていくこと。
・みんなと楽しく勉強すること。
・みんなで話し合うところこと。
B 総合学習と教科教育のちがう点
・いくらでも答えがあり、一生続き、終わることの無いテーマであること。
・算数には答えがあるけれど、総合は人生みたいにどの道を進めばいいのかが分からないこと。
・このままでは、自然はたいへんなことになるということは、国語や算数では、ぜったいに分からないこと。
・いろいろな人の意見を聞くこと。
 教科教育をしているだけではこのような評価は出てきません。総合学習が学ぶ意味や価値を子どもたちに理解させただけでなくそこで体得した総合学習の良さが教科教育の授業法にも反映されていることが見えてきます。
  98年の東条川学習をやり終えたときのアンケートに、「いろいろな意見が言える。変わっていく。未来が……。」という文言がありました。初めは利き水のような遊びみたいだったものが、たくさんの大人から話を聞き、あちこちに手紙を書き、自分たちで調査し、クリーン活動をし、全校生や保護者、地域の人に東条川の今を知らせる活動などをする中で、結果的に子どもたちはまちの未来を変えようとしていたのだと思います。それはまさに「希望の教育」ではないですか。
 98年当時と違って、今では総合的な学習の時間として週2時間、図工や音楽の時間よりも多くの時間枠が保障されているのです。教員になられたら、今回の学習を生かして、子どもたちと自分自身が共に育っていける、地域も活性化する総合学習を展開してほしいです。

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(同じく2024年度前期に私が担当した京都女子大学「教育課程論」において、岸本先生をお招きすることはしなかったものの「東条川学習」について紹介し、受講生の感想レポートを岸本先生にお送りしたところ、先生から京女大受講生への丁寧なメッセージをいただき、京女大授業の授業通信に掲載させていただきました。)


Ⅸ.2024年度受講生の最終レポートに対する岸本清明先生のコメント
 2024年度前期「教育課程及び総合的な学習の時間の指導法A」の全15回授業を終了した後、受講生に以下の内容の最終レポートを課しました。
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第Ⅰ部:ポートフォリオ(学習過程の記録)  (略)
第Ⅱ部:学習の全体総括
(1)第1回授業で、必読資料②-1(1998教育課程審議会答申)において「教師は教育の専門家として、自らの専門分野の指導力の向上に積極的に努めるとともに、教育課程編成全体にわたる視野をもつことを求めたい」と提言されていることを紹介しました。そこで、15回にわたる教育課程論の学習を振り返って学習した内容(複数。いくつ挙げるかは自由)に具体的に言及しながら、一人の教師として「教育課程編成全体にわたる視野をもつ」とは具体的にどういうことか、そのためにどのような力量形成の努力が必要だと考えるかについて述べなさい。
(2)「総合的な学習の時間」(佐藤や岸本先生が授業で紹介した「総合学習」を含めて)について、あなたが教師になった場合(教職を目指していない人もsimulationして)に役立てることができそうなこととして、この授業で何を学ぶことができましたか。

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 このうち第Ⅱ部(2)のレポート全104名分を岸本先生にお届けしました(Ⅱ部(1)でも岸本実践に言及したものが多かったので、それらをピックアップして後日追加でお届けしました)
 第Ⅱ部(2)のレポートをお読みいただいた岸本先生から、以下のようなコメントをいただきました(授業期間終了後でしたので、このメッセージを受講生に届けることはできていません)
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  新潟大学生に「総合学習」を語った         兵庫県加東市公立小学校元教諭 岸本 清明
はじめに
 私は1998年に総合学習で崩壊学級を立て直したことから、総合学習の絶大な教育効果を体得することができた。それ以来2010年度末に退職するまで毎年1本、環境学習を総合学習の手法で継続して取り組んできた。そのいずれの年の実践も子どもたちが喜んで取り組み、地域の人や研究者も参加してくれて充実した学びになった。そして、その学びの成果を多くの人に知らせることに関しても、そのクラスの子どもたちの個性や特性を生かし、劇や人形劇、紙芝居や地域に配布する新聞などと様々に表現してきた。しかし、このような実践は学校現場にはほとんど広がらなかった。それは全国的な傾向であると言えよう。
  そんな中、昨年度に佐藤年明先生から新潟大学の受講生に総合学習の話をするよう依頼があった。私は何を話せば良いのかよく分からなかった。ただ総合学習は子どもを変えクラスを変え、地域を変える可能性があり、それを実践することで教員自身が大きく成長できることを学級崩壊を立て直した東条川学習をメインにして話した。
 学生さんの反応は悪くはなかったが、「東条川学習はたまたまうまくいった実践である」との感想も出た。それは、私の話の中身が良くなかったのだ。
 それで、私が実践してきた9本の「総合学習の手法で展開する環境学習」を分析した報告を仕上げ、「子どもと自然学会誌」に載せてもらった。それを書き上げることで、総合学習のノウハウやメリットがしっかりつかめた。
 幸いにも今年度も学生さんに話をする機会をいただいた。それで、昨年度よりもう少し焦点を絞り、総合学習の手法をより具体的に話すように努めた。

1 総合的な学習の時間は「もうとっくに終わっている」
 前述のように総合的な学習は取り組みがなかなか進まなかった。それは、2002年に文科省の出した「学びのすすめ」などによって、教員の多くは「総合的な学習はもう終わった」と捉えたからだ。それで、アイマスクや車椅子体験など取り組みやすいものは何とか実施されていたが、各校で本格的な実践はほとんど取り組まれなかった。中には諸行事の準備や教科学習の補充に使われることも多々あった。
  そういう状況だから、2013年に私が総合学習の手法で行った環境学習の報告を「兵民教」の大会ですると、「私たちが大事にしてきた学力形成を無視したとんでもない実践だ」という厳しい批判が「落ち研(現学力研)」の人たちから上がり、それに反論する意見は出なかった。それで、私はそれ以降兵民教の集会に参加することをやめた。
 そのうえ2011年より始まった小学校の英語教育は、総合的な学習の時間数や教員の労力、体力と時間を奪った。さらに道徳教育の強化やプログラム学習といった新たな教育を強いられるようになり、学校現場はますます余裕をなくしていった。
  そして、2020年のコロナ禍による3ヶ月以上にも及ぶ休校は、学校のICT機器を一新しただけでなく、児童生徒一人一人にタブレットを持たせることになった。それに伴って教員研修も急速に進んだ。それは教員の教育観や教育手法にも大きな影響を与えた。つまり「ICTをうまく使って教育の効率化を図れば勤務時間も短縮でき、教育効果も期待できる」というものである。
 そうなると、地域の教材を掘り起こし、子どもといろいろな体験を通して学習課題を作り、地域の人や専門家の力を借りて解決していくなどという総合学習など、面倒くさくてやってられないとの感覚になっていく。私はもはや時代遅れの元教員となり、出番を完全に失ってしまった。

2 総合学習の実践報告
 学校現場は悲惨な状況だったが、退職した私はあちこちで総合学習を伝えた。
 2011年度には埼玉大学教育学部安藤先生、立教大学の金馬先生、駿河台大学の岸本先生、兵庫県立大学環境人間学部宅先生の授業で実践報告をした。
  2012年度には埼玉大学教育学部安藤先生と横浜国立大学教育金馬先生院ゼミに実践報告の機会をいただいた。また、「地域と環境」科学研究会兵庫東条集会の現地実行委員長となり、会員の方々に東条川学習について幅広く論議していただいた。
 2013年度には 東京学芸大学原子研究室が加東市鴨川で行うフィールドスタディの支援をし、鴨川小学校で現地調査と鴨川小の実践報告をした。それと、埼玉大学教育学部安藤先生と横浜国立大学教育金馬先生院ゼミで実践報告をした。また、歴史教育者協議会の全国大会で「開魂園の竹藪は病気です」の実践報告をした。
  2014年度には子どもと自然学会「第1回西日本大会」で報告した。
  それ以降、私は学校現場を離れて久しくなったこと、梶原地区自治会の副区長になり梶原公民館の再建に向けて多忙になったこと、東条川疏水という地元にある農業用水配水システムの調査研究を開始したことなども重なり、総合学習の実践報告から遠ざかった。

3 新潟大学での出前授業 
 2023年に佐藤先生の「教育課程及び総合的な学習の時間の指導法A」の中で、総合的な学習の時間について2時間とって考えあう講義がなされた。それに私も参加した。
  その時に、「東条川学習はたまたまうまくいっただけ」であるというような意見が出た。それは東京学芸大学原子先生の授業でもそのような意見が出たことを思い出した。少なくない学生さんはそう感じているのだろう。それは私の報告の仕方が不味かったのだ。
  また、学生さんたちの多くは、主体的に学習を進める「おもしろい」総合学習を体験していないのだ。「総合的な学習はつまらない」という思いが根底にある。そこを突き崩さないと、私の実践をきちんと受け止めてもらえないと考えた。
 それで、私の9年に及ぶ総合学習の手法で展開する環境学習の価値と実践法について、数年前に書きかけていた報告を仕上げ、子どもと自然学会誌に載せてもらった。その一部の見出しを紹介する。
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4.環境学習創造のキーポイント
(1) 題材選び
   これが一番重要
(2) 展開方法
 ア 導入(起) ← 決して焦らず、ここに多くの時間をかける。
 イ 導入段階での活動の中から疑問を整理し、学習課題を作る(承)
 ウ 学習課題を解決していく中で、より本質的な課題を追究する(転)
 エ 本質的な課題を地域の人や行政、研究者の支援を受けて解決していく(結)
 オ 学んだことを表現していく(発展)
5.環境学習の教育的価値
 (1) 子どもたちの成長
 ア  学ぶことの面白さや醍醐味を知る  (おもしろい世界があるんだ)
 イ 子どもたちが互いの良さに気づく(みんなにこんなにすごい力があったんだ)
 ウ  競争から協力・共同の関係への転換(このクラスでは自分の良さが出せる)
 エ 大人との交流で豊かな学び(すごい大人もいるんだな)
 オ 社会性の涵養(自分たちが協力して社会を変える)
 (2) 教員自身の成長
 カ  教育観の転換  (子どもは自ら学ぶ力を持っている)
 キ  教材観の転換  (子どもが学習意欲を沸かせたら本気の追究になる)
 ク  子どもたちとの関係改善 (先生は私たちの言うことを聞いてくれる)
 ケ  保護者の信頼獲得  (私たちの先生は大丈夫)
 コ 広がる知的世界  (子どもと一緒に学ぶと世界が広がっていく)
 サ  地域と学校の関係修復  (親も地域もがんばりますよ)
6.環境学習を入り口にして子どもや教員が個人として尊重される教育の創造を
 (1) 環境学習を突破口に学校を子どもたちが育ちあう場へと転換
 (2)  子どもと教員の誇りと夢を大切に
 (3) 教員になろうとする人が増えるような教育実践を
 (4) 学校教育の内容と方法の再検討を

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  在職中私は、各学校にある総合的な学習の時間のカリキュラムを消化することはせず、総合学習の手法で行う環境学習を毎回テーマを変え、数十時間かけて毎年実践してきた。それを9年間積み上げてきたので、上述のようにそのノウハウも十分蓄積できていた。
  しかし、授業で学生さんに報告できるのはせいぜい1つの実践である。それで「たまたまうまくいった実践だ」と言われてしまうのだ。それで、佐藤年明先生にお願いして、子どもの自然学会に報告した上記の文章を学生さんに添付してもらった。

4 「総合学習」と「総合的な学習」との違いを明確に
 佐藤先生と相談して、最初に「総合的な学習」と「総合学習」との違いを宣言しておくことにした。つまり総合的な学習は1989年の指導要領に創設された「時間枠」である。それに対して総合学習は大正時代に子ども主体の学習をしようと考え出され、日本各地で連綿と実践され続けてきた学習法であることを伝えた。そのうえで私の実践は「総合学習」で、学生さんの多くが小中高で受けてきたのは「総合的な学習」で、教員主導の教科教育に近いものだったのではないかと問いかけた。
  そして、「総合学習かそうでないか」が分かるアンケートを自作し、各自の受けた授業が総合学習
かどうかもチェックしてもらった。
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       総合学習かどうかのアンケート
 □ 教員が黒板の前での一斉指導をあまりせず、大半を子どもたちに任せたか。
 □ 体験から自分たちで学習課題を作ったか。
 □ 学習課題をもとに自分たちで現地調査をしたか。
 □ 学習課題を自分たちで調べたか。
 □ 調査結果を自分たちで報告し合い、次に何をしようかと意見を出し合ったか。
 □ 地域の人や専門家、行政の人などが講師に来てくれたか。
 □ 学んだことを他の人に聞いてもらったり地域に知らせたりする機会があったか。
 □ 学んだことをもとにクリーン活動のような何かを実践するようなことをしたか。
 □ 子どもたちが意欲的に取り組んでいたか。
 □  その学習をしているときに、学ぶことをおもしろいと感じたか。
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  このアンケートで、学生さんは自分たちの受けてきたのは「総合的な学習」で、私の報告したのが「総合学習」であることを理解した。それで、「たまたまうまくいっただけ」という感想は無くなった。

5 学生さんの感想による私の実践報告の評価
 佐藤先生から、2024年度前期新潟大学「教育課程及び総合的な学習の時間の指導法A」最終レポートが8月20日に届いた。佐藤先生は、最終レポートに2つの課題を学生さんに与えられていた。その2つめが、(2)「総合的な学習の時間」(佐藤や岸本が授業で紹介した「総合学習」を含めて)について、「あなたが教師になった場合(教職を目指していない人もsimulationして)に役立てることができそうなこととして、この授業で何を学ぶことができましたか」。というものだった。
 120人近い学生さんが書いてくれていた。中には1000字を越えるものもあった。しかも、自分の思いをしっかり書いてくれていて、読み応えがあった。
  私の報告した 総合学習の手法で展開する環境学習について、今年の学生さんはどう思ったのだろうか。上記のレポートの中から、学生さんの思いを一部を切り取って転記する。
(小見出しは私がつけた)
(1)  子ども主体の実践をする

○  「子どもたち」を主語にして授業を展開する

 「子どもたち」を主語にして授業を展開することである。教師という立場にあることを念頭に置きながら、一旦は子どもたちの立場になってどのような授業内容で、どのような授業展開をしたら子どもたちは主体的に、また、楽しく、学ぶことができるのかをじっくり考えたい。また、自分自身も総合的な学習で扱うトピックに関して、子どもたちに教えるために学ぶという意識ではなく、そのトピックを一個人として純粋に、主体的に、楽しく学びたい。最終的に学んでほしいことを目標にして、それまでの過程で子どもたちの興味が自然にわく飛び道具のようなものを出し続けられる教師になりたい。
○  子どもの主体性を大切に
 この授業を受けて「総合的な学習の時間」は子どもの意欲を引き出し、興味・関心あることを授業内容として扱って教師が必要以上に干渉せず、子どもが主体的となる授業をするべきだと学んだ。私が経験してきた総合的な学習の時間は自分の進路に関わる内容について扱いグループワークをしたり調べ学習をしたりしていた。これはほかの人の進路や興味あることについて知る機会となったが、教師に与えられた内容に従って進め、ずっと机に座りながら行う学習となりあまり楽しかった記憶がない。この授業で岸本先生の実践的な話を聞いて、多くの子どもが自分の興味あることに関しては主体的に学ぶ意欲をもつということが分かり、そのような内容を教師が提供することが教師の役割だと感じた。日常生活や授業内に子どもを観察して子どもの興味あることを知ることが必要である。そしてこれこそ「今の子どもはこれに興味あるだろう」というような教師の先入観は捨てて、子どもが主体的となることを見つけていくことが大切であると学んだ。
○   子どもが考えていきたい、学んでいきたいと思うような内容にする
 子どもが自分から考えていきたい、学んでいきたいと思えるような内容にすること
振り返った時、私が中学高校の頃、この授業を受けていた時は講演会や教師が先頭に立って授業を進めていく体制のものが多かったためつまらないと思っていたことが思い起こされた。
 そこで、やはり子どもが自分から考えていきたい、学んでいきたいと思えるような内容にすることがまずは大事であるとわかった。また、東条川学習について学んだことによって、最初は荒れていたクラスでも子どもの興味のある内容にしたら、教師が口を出さなくても協力しながら子どもからどんどん学習を勝手に進めていき、学びを深めていけることができることが分かった。こどもたちの意欲がないのを子どもたちのせいにするのではなく、設定している内容が良くないのではないかと教師が自分に問いて試行錯誤していくことが必要だと学んだ。

(2)  テーマをどう設定するか
○   テーマの設定が重要
 子どもの視点と教師の視点の両方からテーマを設定することが重要であると学んだ。教師になり、総合的な学習の時間を行う際、自分が小中学生や高校生の時に受けた授業をそのまま子どもたちに教えるという授業は適切ではないと考える。社会の現状や子どもの実態や興味・関心に合わせたり、総合的な学習の時間を単体で捉えるのではなく、他教科とも関連付けたりしながらテーマを設定することが重要である。また、課題を設定し、その課題について調べたことを発表した後にクリーンアップなど実際に行動に移すことも重要であると学んだ。実際に体験することで調べただけでは見えてこなかった新たな課題に気付くことにもつながると考える。
○   適切な課題設定で児童生徒の主体性を引き出すこと
 私は、児童生徒の主体性を引き出すことの重要性を学んだ。これは総合学習のみならず、多方面で役に立つことである。子供たちのパワーは計り知れないものであり、うまくはまれば自分たちでどんどん学びを深めることができる。だからこそ教師が主体性を引き出すということが重要になってくる。講義の中で、子供たちの主体性を高めるにはまずは教師が適切な課題設定をすること、そして働きかけの工夫をすることが大切であると思った。
○  そこでしかできない経験や学びを
 児童生徒がどのような経験をするのかということが重要となるということについてである。佐藤先生、岸本先生のお話やグループ討論と通じて様々な意見や考えを聞いたが、児童生徒が主体となり「総合的な学習の時間」でしかできない学びというのを重要視するということが多く聞かれたため、この点の重要性を実感した。自身の「総合的な学習の時間」を振り返ってみても受け身になり聞くだけの授業には興味は湧かず、学びたいという意欲も高まらない。なので授業構成や内容の工夫により、児童生徒の興味・関心を引きだし、そこでしかできない経験や学びを提供しようとすることが教師には求められていると考えた。
○   「総合的な学習の時間」でしか学習できない分野の学習をする機会を
「総合的な学習の時間」では各教科の時間では扱えないような「食育」や「生と死」の話を取り扱うことができる。各教科のつながりだけを意識して、「総合的な学習の時間」でしか学習できない分野の学習をする機会を失わないようにした
○  生徒に活動の意味が伝わるような授業編成
 総合学習は無意味な時間だと感じたことのある人が多かった。これは先生が生徒の成長を考えた授業だったとしても、それが生徒に伝わっていないためそう思われてしまうのだろう。生徒に活動の意味が伝わるような授業編成をしつつ、生徒の成長を考えたような活動を行うことが大切

(3) 子どもたちのやりたい活動を展開する
○  子どもたちが自由に決められるような活動でも良いのでは
 総合的な学習の時間は、数字で評価されるものではなく、一定の水準もない。したがって、地域差、学校差、個人差があってよいと考える。だからこそ、子どもたちにとって意義のあるものであるなら、共通されたテーマを用いるのではなく、もっと大きな範囲で子どもたちが自由に決められるような活動でも良いのかもしれないと考えた。
○  子どもたちがやりたいことをやるのが一番
 「総合的な学習の時間」では学習する内容が決められてなく(必須のものすらない)、各学校に委ねられていることだということを学んだ。総合的な学習の時間で取り組むべき話題・ジャンルもあげられていたが、基本的にはこちらが決めていいのである。これから私自身の教訓にしていこうと感じた言葉があり、それは岸本先生の「子どもたちがやりたいことをやるのが1番ですよ」という言葉である。自分自身の中に子供達に学んで欲しいことはもちろん存在すると思うが、それがもし子どもたちのやりたくないことだったらその学習の時間で得られる学びはさほど無いのではないだろうか。それならば子どもたちが「やりたい」と思っていることに全力でサポートするのが1番である。
○   児童に活動のゴールを委ねること
 児童に活動のゴールを委ねることである。同じく岸本先生の教育実践の話で、先生は最初のテーマを提示したが、発表会や現地調査は児童主体の計画であったと知った。第7回講義のグループ討論で、子どもの「活動の自由」を保障した総合学習の経験について話し合ったが、失敗していた活動については、「ただ~するだけ」という共通した感想があった。「やらされる」という意識で児童生徒を動かすのではなく、児童が自由に学ぶことのできる授業計画を大切にしたいと考えた。

(4)  教室を飛び出し地域に出よう
○   教室という狭い空間から解放し、自然環境や周りの大人と関わる機会を
 子どもたちを教室という狭い空間から解放し、自然環境や周りの大人と関わる機会を積極的に取り入れることを意識したいと感じた。そして、教員は命の危険がない限り子どもたちの主体性に任せ、子どもたちを信頼する姿勢をもちたい。インターネットの普及などによって、小学生でさえもスマートフォンを持っている子が多い時代になっており、自然と触れ合ったり、人との関わったりする時間が減っている。よって、岸本先生の実践の時期以上に、子どもたちが自分の目で自然を観察したり、大人に質問、提案するという経験の価値はあると感じているため、教室にとどまらない活動範囲を「総合的な学習の時間」では確保していきたい。
○  地域に愛着を
 現代ではSNSの普及により、地域の方と交流することや、そもそも外で遊んだりすることも少なくなってきていると感じる。そのため、児童は定期的に地域で行われている行事などを知らないことも少なくないだろう。地域に愛着を持つことも学習過程において重要なことであると考える。その、愛着を形成する時間として総合的な学習の時間は有効的に活用できると考える。
○  自分の住んでいる地域のことを題材にする
 また地元をテーマにした活動というものがとても参考になった。自分が住んでいる地域のことを題材にすることで当事者意識がうまれより活動に積極的になることができるのではないかと考えた
○  学校の中だけで完結しない、周りを巻き込んだ総合学習
 地域の人にお話を聞いたり、新聞社の方を読んで質問をさせていただいたりして、学校の中だけで完結しない、周りを巻き込んだ総合学習になっていた。地域の人に協力してもらったからこそ、中途半端では終われないという気持ちで、やる気を出して頑張れたのではないかと思った。
○   自分たちで行動して地域を見つめ、調書や課題を知ること
 受け身の授業よりも何か自分から行動を起こして得た学びのほうが記憶に残るし、自信につながると思う。子どもが十分に考えて意見が言えて行動ができる環境を教師が作っていくことが大切である。自分の住んでいる小さな町のことから県規模の話まで触れて、自分がどのような環境で育ったのか、良いところはどこなのか、課題は何なのか知ってもらいたい。
○  地域の資源を最大限に活用する
 学校や地域の資源を最大限に活用し、実社会との接点を持てるような学習環境を提供
生徒一人ひとりの興味関心に寄り添いながら、総合学習の時間を設計していくことが大切だと感じた。また、学校や地域の資源を最大限に活用し、生徒が実社会との接点を持てるような学習環境を提供することを心掛けたいと思う。「総合的な学習の時間」では他の教科で絶対にできない経験を積め、他の教科では身につけることのできない能力を多く身につけることができる教科であると思うので、このような取り組みを通じて、生徒が主体的に学び、自己の成長を実感できるような教育を実現していきたい

(5)  社会問題にも積極的に取り組もう
○   社会問題や課題に対して積極的に主体的に解決方法を考え行動に移す
 社会で起きている問題や課題に対して子どもたちが積極的に主体的に解決方法を考えて、実際に行動に移して行き、社会の問題や課題に関心を持ってもらうことが目的であるとわかった。しかし、岸本先生の実践やご講義を聞いて、「総合的な学習の時間」とは、子どもたちの人間性や人間関係の育成に寄与するものであるとも感じた。クラスメイトや同学年、学校全体や先生方、保護者の方や地域の方々を巻き込み、一緒になって協同的に問題に取り組んでいくと、子どもたちの中で信頼関係や絆が生まれると実感した。社会の問題や課題を考え解決方法を模索して行くことだけが総合的な学習の時間ではなく、これから社会で生きて行くための力や能力を身につけるためにも総合的な学習の時間が位置付けられていると考えた。

(6)  表現を大事にしよう
 「保護者・地域を動かすことが子どもたちの自信につながる」ということである。そして、その自信が次の活動への原動力になっていたのだと考える。したがって、教師からの一方的な授業ではなく、子どもたちの表現の機会を大切にしていくことが求められると感じた。また、子どもたちは私たちが思っている以上のことができると同時に、自分たちでやりたいという意欲もあるということを知った。

(7)  教師のサポートが重要
○    深い学びにつながるよう教師のサポートが大事
 私は、総合的な学習の時間についての講義を受け、児童生徒主体となって活動するということは、単に本人たちを野放しにして自由にさせるということではなく、深い学びに繋げていけるよう、教師はサポートする姿勢で、道筋を示していくことが効果的であると感じた。「先生も一緒になって問いを追求していく」という姿は子供たちの知的好奇心を高め、互いに手を取り合って活動できるようになるという事例を東条川での学習を始め、様々な総合的な学習の時間に見られた。したがって、私も教員になれたら、教科書には書かれていないが、ちょっと頑張ってみたら解決の糸口がみいだせそうな課題を児童生徒に提示して、探究していくことの面白さを児童生徒に実感させられるように指導していきたい。

(8)  他の先生や地域の人と協力しながら実践を
 地域の方々とのつながりというところから、自分一人で全てを成し遂げようとしなくてもよいのだと学んだ。前回の講義で学んだことから総合的な学習の時間を行うことの難しさを痛感した。同時に教員となった際にどのようにしたらよいのだろうかと不安も生まれた。しかし、実際の授業についてお話を聞く中で一人だけで行おうとせず、地域の方々やほかの先生の協力ももらいながらより良いものにしていくことが大切だと気づいた。

(9)  子どもと共に学ぶ姿勢を
○   「一緒に学ぶ」姿勢が大切
 私は、活動する際にある程度行動の自由があることと複数の教科を横断した学びができること、実際に子どもたちが体験できることの3点が総合的な学習の時間において重要なことだと考えている。教師として「教える」のではなく、子どもたちの主体性に重きを置
き、授業の動向を子どもたちに少し任せて「一緒に学ぶ」姿勢が大切なのではないか
○    教師自身も子どもたちとともに学ぶ
 教師自身も子どもたちとともに学ぶことが必要であるということだ。子どもたちに任せきりで教師はそれを見ているだけでは、子どもは活動に一生懸命になれないと思う。子ども中心に活動することはもちろん必要であるが、子どもたちと一緒になって教師も学ぶという熱意は大切だと思う。そして、時には学習の予定を子どもの「やりたい」に合わせて変えるなど、先を読み切らないで柔軟に対応していくことも重要なのではないか
○    先生自身が楽しんで学習に取り組む
 自分が率先して学ぼうとする姿勢や、先生自身が楽しんで学習に取り組む様子を見せることによって生徒が付いてくると学んだ。生徒と教師では立ち位置が違うと考えがちだが、私たち教師も元々は、生徒という立場であったように学ぶという本質的なものは変わらないということに気が付き、上から目線で生徒に正しさを説くのではなく、目線を合わせて自らが実践することを忘れずに

(10)  柔軟にしかも創造的に
○    教育の柔軟性と創造性の重要
 教育の柔軟性と創造性の重要さを学びました。この時間は特定の教科にとらわれず、児童や生徒の興味や関心に基づいてテーマを選び、学びを深める機会を提供するものであると思います。それが「総合的な学習の時間」の特徴でもあると思います。これにより、教科を横断するような柔軟なアプローチの必要性や固定されたカリキュラムに依存せずに創造的に授業を構築することの大切さを学んだ
○    オリジナルの授業を
 教師は型にはまった教育・授業を提供するのではなく、自ら試行錯誤してオリジナルの授業を展開することが大事だ
○    授業では柔軟に対応すること
 岸本先生の話を聞くと指導案なんて作っても意味ないのではないかと思った。しかし、指導案を作ることに意味がないのではなく、その指導案通りに一言一句同じに行動をすることに意味はないのではないかと考えなおした。指導案は所詮授業の一通りの流れを表記しているだけで予想している反応が必ずしも来るわけではない。その時どのくらい柔軟に対応できるのかが本当に大切なことだと感じた。
○    自分の道にたくさんの選択肢を
 おもしろい人とつながることのできる機会や、行動することにつなげられる機会を設定することを通して、自分の道は一つではなく、まだまだたくさんの選択肢があるかもしれないという気づきをもち、将来につなげていくことができるきっかけにしたいと考える。

(11)  その他
○    子どものやさしさを引き出すことの大事さ
 「荒れた学校やクラスを立て直すには、優しさを引き出すことが重要である。」と話されたことがとても印象的だった。お話の中で、以前も荒れた学級の担任をした経験もあるが、彼らの優しさを引き出すことができなかったから立て直すことができなかったと言われていて、むやみに叱ったり、なめられたりしないように厳しく指導することだけでなく、そのような視点で子どもたちの魅力や本質を引き出しながら、人格形成をしていくという方法があるということを知った。今回は東条川学習において子どもの優しさを引き出すことができたが、それは総合学習だけとは限らず、普段の学校生活の中で引き出すことができるかもしれないし、他の教科の授業中であるかもしれない。そのため、常に子どもの言動に対して敏感になることも重要であると学んだ。

※ 学生さんの長い文章の中から一部を抜粋した。それは学生さんの本意で無い部分であると考える。それはお許しいただきたい。

6 学生さんのリポートを読んで考えたこと
 私は学生時代にいろいろな講義で大きな驚きと感動を得る体験をした。例えば社会学の「ロバートオーエン」の講義である。オーエンと言えば「空想的社会主義者」と覚えれば、高校の倫理社会のテストで○がもらえる。しかし、本当はそうではない。幼い子どもが工場で働かせられ健康を損なったり、工場内で居眠りをして事故に遭ったりする。それを社会問題だと考えたオーエンは幼稚園を創設して、幼い子どもを収容して働かせないようにした。貧しい労働者のためのコープを作ったのもオーエンである。それを知ったとき、うわべだけを知って知ったつもりになり、中身を本当に知らないことに怖さを感じた。
 経済学の講義も憲法や、法律学の講義もそうだった。高校卒業までに形成していた常識が次々に覆されていった。大学に行って良かったと思う4年間だった。それがなかったら、自分の受けてきた高校までのつまらない授業を再生することになっていたと考える。
 さて、私の話は学生さんにとって驚きを感じ、価値観を揺さぶられるものであっただろうか。

(1)    学生さんの「授業観」を揺さぶることができたか
ア 総合的な学習の悪循環を断ち切る一助になったか
 最終レポートを読んでいて、「自分たちの受けた総合的な学習の授業はつまらなかった」との文章が目についた。佐藤先生の授業の中で学生さんが小グループで「自分の受けた総合的な学習の時間」について話し合う時間が取られたとき、少なくない学生さんからそういう意見が出ていた。
 教員の多くは総合的な学習の時間もある面でやらされているのだ。自分でこうやりたい、こうして子どもたちを育てたいという思いを持てなかったら、その準備に力が入らず授業が平板なものになってしまう。そうなると、子どもたちの評価も下がるという悪循環に陥っているのではないだろうか。私の話が、その悪循環を断ち切る一助や契機となればうれしいと考える。

イ 授業で各個人に働きかけるだけでなく学級全体で育てていく視点が提供できたか
 学級経営のうまい教員はグループやクラスの集団の力をうまく利用して、ダイナミックな授業を展開する。しかし、近年個別学習が重視されるようになったり、個々の評価を細かくするようになったりして、集団の力を巧みに利用する教員は減ってきたように思える。
 今回、「東条川学習について学んだことによって、最初は荒れていたクラスでも子どもの興味のある内容にしたら、教師が口を出さなくても協力しながら子どもからどんどん学習を勝手に進めていき、学びを深めていけることができることが分かった」と記してくれた学生がいた。
 子ども一人一人の学力をつけることもおろそかにはできないが、みんなで大きな学習に取り組めば、その学習の過程で自分の力がみんなのために役立ったとか、友達は自分に無い能力を持っているなとか、自尊心や自信、友達をリスペクトする態度が自然に身につくと考える。

ウ 地域という新しい視点が提供できたか
  地域を教材にすることは、50~60年前には多くの教員が挑戦していた。PTAも協力的で教員とPTAで学校運営をしていた。時代が進むにつれて、教科書で教科書を教える教員が増え続けたし、PTA活動も形骸化していった。
  都市部ではどうかよく分からないが、地方の学校では地域を教材にすると、地域の人が教室に来て話をしてくれたり、子どもたちが地域の人に話を聞きに行ったりして、子どもにも地域の人にも喜ばれる。地域の人にとって、子どもたちに話をすることは自分の人生や村づくりの評価になるのだと考えるからだ。
 学生さんのリポートには「地域の教材化や地域に出て地域の人と交流する」意見があり、うれしく思った。

エ 教えるだけではなく子どもと共に学ぶ教員像を示せたか
 教員は子どもを教えることが仕事ではあるが、子どもに学ぶことが多い。長く教員をしていると、若い頃とあまり変わらない教員と劇的な変化を遂げている教員がいることに驚かされる。若い頃と別人のように変わる教員は子どもから多くのことを学び、自分を成長させているのだろう。
 「私たち教師も元々は、生徒という立場であったように学ぶという本質的なものは変わらないということに気が付き、上から目線で生徒に正しさを説くのではなく、目線を合わせて自らが実践することを忘れずに」という学生さんのリポートは鋭いと感じた。

オ 総合的な学習の時間をうまく使うノウハウを提供できたか
  「総合的な学習の時間」には教科書もペーパーテストも無い時間枠である。うまく使えば子どもたちとおもしろいことができる可能性がある。子どもが興味を持ち授業にのってくれば、教員もうれしい。また、環境問題など社会問題の多くには決まった答えなどないものが多い。だから、子どもたちは多様に深く考えるのだ。それでうまく展開すれば、聞き合う授業ができていく。
 このようにして自分たちで真剣に学んでいけば、その内容を誰かに伝えたくなる。そして、伝える相手を決めどう伝えるかをみんなで考えれば、学級が従来とは違ったものになる。新聞で伝えると決めれば、みんなの思いをうまく記事にまとめる子、レタリングのできる子、カットの描ける子が出てくる。演劇で表現しようとすれば、台詞の書ける子や役者として演技できる子たち、大道具や小道具を作れる子たちが生きてくる。そして、みんなが力を合わせば短時間に素晴らしいものができ、子どもたちの満足度が高いものとなる。それは学級づくりそのものであると言える。
 今の学校はいろいろな物を詰め込みすぎて、教員も子どもたちも消化不良になっている。総合的な学習の時間に環境問題などを始めると、さらに詰め込みになると思われるかもしれない。しかし、おいしい料理はたくさん食べられるのと同様、おもしろい学習は子どもたちが張り切り、教員の負担感は小さなものとなっていくのが私の実感である。

おわりに
 何のために子どもたちに勉強させるのかを深く問わずに、私は教員をしていた。教育学部で、「教育を受ける権利」が保障されていることによって、人間に値する生存の基礎条件が保障されることになる。この意味で、「教育を受ける権利」の保障は憲法 25 条の生存権の保障における文化的側面を持つものであるというようなことを学んだ。
  しかし、そうなると長い人生をより良く生き延びるためには国の提供する教育をできる限り習得しなければならなくなる。それはとてつもなく厳しいことであり、習得できにくい子どももいるばかりか、国の提供する教育がその子にとって生存権を保障する内容とはならない可能性もある。
  私は憲法13条の「生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利については、公共の福祉に反しない限り、立法その他の国政の上で、最大の尊重を必要とする」を重視してはどうかと考える。それは、学校教育が子どもたちの生命と自由、幸福追求を保障するものとなれば、教育内容も教育方法、評価もガラリと変わると思うからだ。 
 人間は本来多様で自由な存在である。厳格な学習指導要領に従って文科省の検閲を受けた教科書で、教科書を学んでも多くの子どもたちは期待ほど成長しないし、満足が十分得られないのではないかと考える。
  生命、自由及び幸福追求という目的に合致する学習で力を蓄え、その力でもってまた新しい世界を知っていくような教育はできないだろうか。総合学習がその教育のヒントを与えてくれると私は希望を持っている。

謝辞
 佐藤年明先生は私に総合学習について学生さんに話す機会を与えてくださいました。そればかりか、学生さんの全ての意見を通信という形で私に提供してくださいました。それを読んで、私は話す内容を考えることができました。
  新潟大学の受講生の皆さんには、私の話を聞いてグループで話し合ったり、自分の思いや考えを記したりしてくださいました。
  それで、私は自分のやってきた総合学習の手法による環境学習について、再度評価することができました。ありがとうございました。
 私の拙い報告が、佐藤先生の授業の役に立ったり、学生さんの教育観の見直しに少しでも寄与できたら幸いです。


Ⅹ.総括
 2023年度授業から2024年度授業にかけて、私は岸本清明先生の環境総合学習実践に焦点を充てて総合学習/「総合的な学習の時間」についての学習を進めることに充実感を感じながらも、受講生の岸本実践の受けとめ方についていくつかの危惧も抱いていました。
 一つは、《すごい実践だが自分にはとても無理》《岸本先生とあの子どもたちだからできた実践だ》という捉え方。
 もう一つは、岸本実践の捉え方と直結した見解ではないのですが、《「総合的な学習の時間」で子どもを自由に活動させすぎると脱線したり質の低い活動になるので、教師による枠付けが必要だ》という考え方です。
 2年目の2024年度授業では上記のことを意識しながら、受講生への学習課題の投げかけを修正しました。それ自体は間違ってはいなかったとは思うのですが、いま考えると《一部の気になる傾向》ばかりに焦点をあてた授業運営になっていなかったか、それでよかったのかという思いがあります。
 本報告作成のために授業通信を読み返していくと、そこに紹介している受講生のレポートの中にいくつもの達見・慧眼がありました。もっともそれは、私が毎回読んだ100人前後のレポートの中で、私自身も学ぶところがあると考えたすぐれた見識を抜粋して授業通信に紹介したものを読み返してみたからです。一方でレポートの中には私から見て《このような子ども/教育実践の捉え方でよいのか?》と思うようなものも散見され、あるいは貴重な実践学習の機会を提供して下さっている岸本先生に対してあまりに失礼ではないかと思うような内容のものもありました。まあ、「玉石混交」というような言い回しは学生に対して失礼すぎるかもしれませんが、いろいろなものがあったわけです。だからこの報告の別なまとめ方として《学生のすぐれた意見から学ぶ》というトーンで書くことだってできたわけです。

 私の授業では繰り返し文科省の《学習指導要領強制》への批判をしましたし、「総合的な学習の時間」については《学習プロセスとしての総合》・《課題の総合性》という観点から自分なりにあり方を提案していました。岸本実践への積極的支持も表明しました。ただ、それらを《授業の結論》として学生に《伝達し、習得させる》という意図はなく、各受講生にはあくまでも自分自身の近い将来の教師生活において参考にしてもらえばよいと考えていました。ましてや、テストで私の見解についての《理解度》をチェックするようなつもりは毛頭ありませんでした。
 ですから岸本実践を受講生がどう読み、そこから何を引き出すかも各受講生の自由だと考えています。教育実践に関わって事実誤認をしたり、憶測で判断しているような受講生の見解に出会った場合は、受講生の考えを尊重しながらも違う視点を提起するようにしています。
 私には今を遡ること約30年前の三重大学在職初期の教職科目の数十人の授業で、ある受講生を指名して意見を言わせた上でそれとは違う自分の見解をコメントしたところ、その学生の授業後の感想文に「発言したくないのに指名された上で、みんなの面前で自分の意見を否定された」と書いてあったという苦い経験があります。その後現在に至るまで、私が受講生の意見へのコメントを述べる機会として授業時間中の直接対話というのは極めて少なく、授業後の受講生のレポートに対してコメントを返したり、またレポートの抜粋を授業通信に掲載してコメントするという間接的なコミュニケーションが多いのですが、特定の受講生の意見に対して私の違う見解を対置する際にはその学生の意見を全否定しているわけではないということが理解されるようにかなり気を使ってコメントを書いています。授業では折に触れて学問の府である大学には思想信条、意見表明の自由があり、その自由は授業を運営する担当講師にもあるが、もちろん受講する学生にもあるということを強調します。私自身の意見としては《学習指導要領の「法的拘束力」批判》を中心に教育政策批判も明確に述べますが、自分の主張を述べたあとには受講生諸君は講師である私の主義主張を《忖度》する必要はなく自由に意見を表明し交流してほしいということを繰り返し強調しています。
 「総合的な学習の時間」については学習指導要領上に明確な制限的規定がないため、既存の教育実践を分析・評価する活動においても、将来における実践のあり方を構想する際にも、自由な議論ができる土壌があります。現実に教職に就いてからは、管理職の姿勢とか先輩教員や同学年担任集団内の同調圧力などによって自由で創造的な教育実践ができない場合もあると思いますが、そういう時に簡単に挫折、諦観してしまわずにしたたかに対応しながら、いつか思い描く実践ができる時が来ることを夢見ながら力を貯める、そういうたくましい教師を一人でも多く輩出したいです。教員養成現場の、しかも今は一授業科目の非常勤講師の身でできることは限られていますが、せめて学生時代の一授業の中だけのことではあっても、総合学習/「総合的な学習の時間」の自由な実践構想を描くことで「教育課程及び総合的な学習の時間の指導法A」における総合学習/「総合的な学習の時間」の学習を締め括ってほしいと考えました。

 以上の総括的な感想を書いた上で、の受講生の最終レポートに対する岸本先生のコメントを読み返してみて、改めてせっかく学びの場を提供していただいた岸本先生の教育実践について、授業の担当講師である私自身が極めて限られた視点からしか学び取れていないことを痛感しました。私が本報告で数十ページを費やして書いてきた総合学習/「総合的な学習の時間」の勘所は、結局《教師の指導と子どもの活動の自由の関係》ということに尽きます。それは重要な視点であると確信してはいますが、総合学習/「総合的な学習の時間」をめぐって教員養成の受講生に考えてほしいこと、学んでほしいことはまだまだたくさんあります。例えば、教師が勤務し子どもたちが生活している《地域》において、自然や人びとのなりわいから広く深く学び、そこに生きる人びとと連帯しながら教育実践を進めることの必要性・重要性、などです。岸本先生はにおいて受講生が学びとってくれているものを全11項目の視点から確認して下さっています。私も全受講生の最終レポートを通読しましたが、こうして岸本先生に整理していただくと自分が見えていなかった学生の学び(私自身も学ばねばならなかったこと)がいくつも見えてきます。このことは私個人にとっては大変ありがたいことであり、自分の一存でではありましたが新潟大「教育課程及び総合的な学習の時間の指導法A」の授業を岸本先生に共同担当していただいたことの自分にとっての大きな収穫でした。学生への学びの還元という面では、岸本先生から直接のご講義や文書によるメッセージで多くのことを伝えていただきましたが、それを担当講師の私が自分の授業運営の中でどれだけ咀嚼し活かせていたかということになると忸怩たる思いがあります。
 私は2023年度授業終了後の2023.11.29に兵庫県加東市を訪問し、岸本先生に旧・東条東小学校(閉校して他用途に転用され、一部校舎は取り壊されていました)、鴨川小学校(現在も存続していますがまもなく統合になるそうです)に案内していただきました。旧東条小そばの東条川のほとりにも降りてみました。この訪問は私から岸本先生に特にお願いして実現したものです。私自身岸本先生の環境学習から深く学ばせていただいたという実感は持ちながらも、2023年度授業を終えてみて、《実践記録=紙媒体の情報だけを頼りに、いかにも見てきたような話をしてしまったのではないか》という思いがありました。学生時代から京都北桑田の地域に根ざす教育から学び、三重大学の30年の中でも学校現場との交流・繋がりを大事にして、繋がり得た先生たちを何人も大学の授業にお呼びして話をしていただきました。もはや一非常勤講師として1コマの授業を担当するだけの立場ではかつてのような学校現場との積極的交流の中での大学での実践的授業の展開が無理であることはわかっていますが、それでも2023年度授業での自分の教育実践からの学びはこれだけでよいのか?という思いがありました。岸本実践のフィールドであった加東市を訪問したことが翌年の2024年度授業に活かせたのかどうかと言えば、自分で撮ってきた東条川の流れの写真を見せたことくらいしかありませんが、それでも岸本先生と子どもたちが暮らしてこられた現地を自分の足で踏んだという自己満足はあります。

 教育学研究者として、大学教師としての教育実践からの学びに完璧はありません。どういう実践、どういう研究をしても悔いは残るし、未踏の地点が残ります。私もおそらくあと数年は京都女子大学の非常勤講師を続けることになりますが、今後において自分が傾倒した特定の教育実践/教育実践者を教職に関心を持つ若者たちに詳しく紹介するという機会は、おそらくもうめぐってこないだろうと思います。
 改めて貴重な学びの機会を与えて下さった岸本清明先生に感謝申し上げて、この実践総括を閉じたいと思います。ありがとうございました。


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