54 【アーカイブ16】 植林恭明「私を変えた漆との出会い」(『教育』No.953 2025.6)をめぐって(2025.6.25都留文大雑誌「教育」を読む会例会に参加して)
以下の投稿は本日早朝(^^;)にFacebookの「全国『教育』を読む会」ページと私のタイムラインに投稿したものですが、そのままではFacebook読者の範囲でしかお目にとまらないので、ここに再録することにしました。
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昨日(2025.6.25)の都留文科大学『教育』読む会に参加しました。昨年5月以来、通算14回目の参加です。とてもおもしろい議論(おそらくその内容は、いつものように新東さんが紹介して下さるだろうと思っています)が行なわれたのですが、私はその議論を聞きながらも(^^;)それとは別の方向から考えていました。せっかく参加しているので発言しようかとも思ったのですが、議論の方向を変えることになるし残り時間も少なかったので、発言しませんでした。それでここに考えたことを書きます。
私は教育科学研究会に入会(1975)した教育学部学生の頃から院生、そして神戸大・宮城教育大学に勤務していた1980年代末まで、社会科教育を主たる対象として教育学研究を行なってきました。大阪教育大、のちに滋賀大で行なわれていた「社会科学と教育」研究会に参加し、民間教育研究運動における社会科研究や学校現場の社会科教育実践について研究していました。教科研では故・鈴木正氣先生の小学校社会科実践からたいへん多くのことを学ばせていただきました。「社会認識と教育」分科会・部会に参加して、鈴木先生の『川口港から外港へ』(1978)、『学校探検から自動車教育まで 日常の世界から科学の世界へ』(1983)、『支えあう子どもたち 見えない世界に挑む社会科の授業』(1986)ができあがっていく過程のオブザーバーであることができたのは、今考えてもとても幸せな体験でした。また、かつて教科研社会科部会を前身とする「社会科の授業を創る会」(後の「人間の歴史の授業を創る会」)のメンバーがある時期に教科研大会「社会認識と教育」分科会に参加されていたり、また1980年代当時教科研におられた藤岡信勝氏が「創る会」の代表的な実践家だった久津見宣子氏の実践を『教育』誌上で取りあげられたりしていたこともあり、「創る会」のダイナミックな生産労働学習の実践にも注目していました。
話をちょっと戻しますが、日本の教職員組合の教育研究活動や民間教育研究運動においては、早くから《生産労働の学習》が注目されていました。ぶっちゃけた乱暴な言い方をしてしまうと、《労働者が社会をつくるのに、(当時の)検定教科書などでは十分取りあげられていない。労働者の労働のことを子どもたちに学ばせる必要がある》というような労働運動的発想もあったのではないかと勝手に思っています。
戦後から1950年代までには、日本の子どもたち自身が農業を中心にまだまだ《労働の担い手》であったと思います。ですから、子どもたちが自分たちの生活を見つめ、綴り、教師がそれを教室で取りあげることで(『山びこ学校』のように)十分に「労働学習」が成立していたんじゃないかと思います。
高度経済成長が始まった1950年代後半からは、農村から都市へ大規模な人口移動が起こり、農業機械化、テレビ文化の普及等もあって、田畑に囲まれている農村地帯でも農業のことを知らない子どもたちが増えました。一方でそうした状況への憂慮もあって、1960年代くらいから社会科を中心に「労働学習」の実践も広がっていったんじゃないかと思います。
1970-80年代の鈴木正氣実践は、高度経済成長下で翻弄され破壊もされてきた地域をフィールドとする《地域に根ざす教育実践》の典型であると同時に、労働が見えなくなっている子どもたちを《働いてものをつくる労働の世界》へとどう誘うかに心を砕いた実践であったと私は思います。子どもをめぐるすごく象徴的な事実として、子どもたちに魚が泳いでいる絵を描かせると、スーパーで売っている魚の切り身が海の中を泳いでいる絵を描く子がいるというのです(これはたしか鈴木正氣先生が報告されていたことだと記憶するのですが、出典を見つけられていません)。また、これは鈴木実践ではなかったですが、たぶん同じ頃に「4本足のニワトリ」の絵を描く子どものことも報告されていました。人間の労働の成果として目の前にあるモノの、その依って来たるところを子どもたちが全く知らないし知ろうともしていないという事実が1970年代に入ってあちこちから報告されていました。
こうした子どもの実態にどう切り込むかについて、当時さまざまな教育実践が展開されました。その中から鈴木正氣実践について語るだけでも膨大な紙数を費やしてしまうので、それはしません。一つだけ取りあげたいのは、鈴木実践のキーワードの一つである「疑似的生産労働」です。鈴木先生はこう書いています。
【これら三つの活動<佐藤註・「ものとの対面」「ものをつくる」「調査」のこと>は考えてみると、日常の世界をつくる日常の行為でもなければ、科学の世界をつくる生産労働でもない。いうなれば、日常の行為もどき(●●●)のある特殊な行為だということができる。この特殊な行為を日常の世界をつくる一世代の(子どもにとってみれば生まれてから育ってきたまでの)個人の日常の行為と、科学の世界をつくる類的人間の歴史的社会的生産労働という互いに異質な行為に介在させることによって、科学の世界における「ものと人」の関係(労働過程)を把握させようと、私はしたのであった。】(鈴木『学校探検から自動車工業まで』(P.25-26)
「疑似的生産労働」は、おそらく鈴木先生の造語だろうと思うのですが、とても言い得て妙だと思います。そして、ここで突然戻りますが、植林実践での子どもたちが「木工ろくろ」に取り組んだ学習は、まさに《疑似的生産労働》でした。詳しくは『教育』No.953の植林報告を読んでほしいのですが、植林先生は2018年に「美術教育を進める会東京サークル」の企画で青梅市の漆工芸作家・手塚俊明さん、戸枝恭子さんの工房を見学して魅了され、いっしょに行った5歳の息子さんが「木工ろくろ」に夢中になる姿を見て、なんとか和光小の子どもたちにも「木工ろくろ」に出会わせたいと考えます。一方、「分業が基本の漆器づくりの世界で、『木地づくりから上塗りに至るまでの全ての工程を自分の手で行う』という一貫制作にこだわっている」(P.71)手塚さん、戸枝さんのものづくりへの姿勢にも植林さんは魅了され、それもまた子どもたちに出会わせたいものとなります。このあたりがとてもおもしろいと私は思いました。
「木工ろくろ」とは、原材料の木片をたとえば器の形に加工するために、木片を金属の軸に固定して一人が刃物を当てて削り、もう一人が軸に巻き付けたひもを操ることで軸を回転させるという、二人一組で使う道具です。二人の人が《呼吸》を合わせることが不可欠です。植林先生は昨日の会での報告でも、(労働技術の)専門家ではないものの手探りの実践であったことや、最初から計画的に組み立てた実践ではなくて職人さんの魅力、自分ももっと知りたいし子どもたちにも出会わせたい、だけどすぐに授業化はせずにあっためてきたというようなことをおっしゃっていました。そのスタンスがまたいいように思いました。「木工ろくろ」に注目されたのは息子さんが夢中になっている姿を見てでしょうが、回し手と削り手のペアで行なう作業であり呼吸が合わないとうまくいかないし危険でもあったりするだろう作業を植林先生が教室に持ち込まれたということは、私の勝手な感想ではありますが、なにか植林先生の日常の授業づくり、学習集団づくり上の《勘》のようなものが働いたんじゃないかなと思うんです。
「木工ろくろ」の活動は、まさに《疑似的生産労働》だと思うんですね。漆器づくりの、たしかに漆を塗るにはまだ至っていない工程ですが、ここで形を作らないと塗りも何も成立しないわけです。漆器づくりの生産労働工程の一部分を、手塚さんに協力してもらってわざわざ学校でそれ用の道具まで製作した上で子どもたちに体験させた。道具製作の技術や道具操作の技術は、決して《子どものおもちゃ》ではなくてまさにホンモノです。工房ではなく学校で活動していますから《疑似的》ではありますし、子どもたちは手塚さんに弟子入りして苦労して技能を身につけるのではなく、セットされた道具の操作を限られた時間体験したんでしょうからまさに《疑似的》なのですが、手塚さんのお話と手塚さん、戸枝さんの指導のもとでの「木工ろくろ」体験がセットにされた学習によって、子どもたちは単に《講話+実習》と片付けられないような多くのものを得たんじゃないでしょうか。実践報告末尾のN君の感想に、「仕事に使えるかは別として、経験として大事だと思っています。物の作り方がわかることで、作る大変さがわかります。自分が使っているその一品にどれだけ思いがこもっているか、それがわかると物の扱いも変わると思います。」(P.74)とあり、「木工ろくろ」の体験を通じて子どもたちの世界が広がり始めていることを感じます。
例会ではこうした体験活動を現在の学校で行なうことの大変さ、困難さが縷々出されました。それはそうだろうと思うし、誰もができるわけじゃないどころか、できる教師は限られていると言った方がいいかもしれません。ただ、《子どもの世界が広がっていくことを後押しする》教師の活動は、体験ではなくても、学校の外に出ることではなくても、考えたらいろいろできるんじゃないでしょうか。《疑似的生産労働》は社会科や総合学習で現在でも大事なキーワードとなりうると思うのですが、子どもたちが《疑似的》であれ体験できるもの、体験したらおもしろいものは、《生産労働》だけではないと思います。もちろん《疑似的(=ホンモノに近いけどホンモノではない)》ということをヴァーチャルという風に安易に言い換えると、落とし穴がありそうな気がしますが、子どもたちの《いま》を大切にしてあげると共に、彼らが《将来に向かって自ら世界を広げていくことを後押ししてあげること》(決して狭い意味の「キャリア教育」のようなことではなく)は教師の大事な仕事であると思います。植林さんはそのことを自分(と、家族^_^)も楽しみながら、肩を張らずに進めておられると感じました。
年明先生、大変ご無沙汰しております。
返信削除中森孜郎先生のもとで学んだ体育科教育が専門ながら、研究室では勝田論文のゼミを行ったりもしていましたので、最近のブログを大変楽しみに拝見しております。
いつもは見るだけなのですが、今回は植林さんの実践を取り上げてくださっていたので、ついコメントしております。というのも彼が学芸大の在学時に和太鼓サークルで出逢って(私は当時「音楽技法教材研究」という講義題目で和太鼓を教えておりました)以来、家族ぐるみでおつきあいの続いている実践家なのです。
彼は教員になった当初は和太鼓・民舞実践にたいへん精力的に取り組み、和光小の教員になったのも私の教え子であり宮教大の後輩でもあるTさんが、和光小で日本の民舞実践をリードしているという流れからでした。そこでも積極的に実践するだけでなくサークル活動も主宰するなど広く知られる存在となりました。しかしある時点で壁に突き当たり、自分で太鼓踊りを封印して図工教育に活路を見出します。いわば30にしてゼロリセットではありませんが、それまでの成果を手放して全く新しい分野を歩み始めたのです。
その後は年明先生が評価してくださった通りなのですが、この歩みそのものが「教師として育つ」ことの大切な何かを提示してくれていると思います。歳は私よりずいぶん若いのですが、とてもリスペクトしている仲間なのです。
追伸:本多公栄先生に連れて行っていただいた鈴木正気教室も懐かしく、また自分の実践を問い返すのにずっと立ち戻ってきた原点です。切り身が泳ぐエピソードは「川口港から外港へ」所収の「うおをとる(2年生)」の実践記録に書かれています。初出は1973年明治図書の何からしいのですが、それは確認できませんでした。
淺川さん、コメントをいただきありがとうございました。このブログを開設して約4年になりますが、読んでいただいている方はそれなりにあるものの、コメントをいただくことは少なく、私の方からブログで言及させていただいた方にコメントを依頼したり、個人宛にいただいたコメントを私がブログに転載したりしてきました。なので、淺川さんから直接コメントをいただいたことがうれしいです❗
削除『教育』No.953(2025.6)の報告「私を変えた漆との出会い」の冒頭で植林先生は、和光小「工作技術科」担当に至るまでの経緯を、「大学時代の専門は保健体育、卒論は『民俗芸能の教材化』で、民舞や和楽器の授業実践について研究していた。就職した横浜の公立小学校では当時スタートしたばかりの総合的な学習の時間に夢中になり、鶴見川をはじめ地域から学ぶ実践を展開していた。5年の経験を経て和光小に就職。学級担任として採用されたが、途中病気休職などもあり、6年後の2013年に工作技術科の専科に配置された。」(P.69)と書かれています。
太鼓実践における「壁」、その後の「封印」について、私はその詳細を知るべき立場にはないとは思いますが、懐かしい宮教大「日本の芸能」への参加体験(1987-88)を思い出しながら素人として少し想像してみると、太鼓のような伝統芸能は、「興味」を持って参加すること自体は多くの人に開かれているとしても、芸を磨いて「達人」の域に達することができる人は現実には限られているだろうと思います。さらに「太鼓実践」となると、自分の芸を磨くことと自分が得たものの普及していくことの両方が課せられることになり、高い域に到達すればするほど悩みも深くなるのではないかと想像しました。
そういう《葛藤モデル》を私が植林先生にあてはめようとすることは大変不遜だと思うので、かつて《民舞初心者経験》をした者としての単なる想像です。
植林先生とは二往復のメールのやりとりをしたのですが、ここ半月ほど途絶えています。学期末でお忙しかったんだろうと思います。私からのコメントに興味を持っていただけたら交流を続けたいなと思っています。
魚の切り身の話、情報ありがとうございました。学術論文の引用なら出典の記載なしに紹介するような失礼なことはしないのですが、教育実践上の事実について不正確な扱いをしてしまいました。冥界の正氣先生にもおわびしなければなりません。
鈴木正氣『川口港から外港へ―小学校社会科教育の創造―』(草土文化 1978)第三章「『うおをとる』(二年の実践)」(P.72-74)で、鈴木先生にサケの絵を黒板に描いてと促されてサケの切り身の絵を描いたのは三嶋くんですね。
いま読み返してみると、この授業場面はとても興味深いです。三嶋君は切り身を描いて「これが一匹」と言い、先生に「切ったやつか?」と問われると「ちがうよ」と答えています。友だちに「なんで、しっぽないの。」と問われると、三嶋君は「なんでかというと、しっぽやそんなのはこのぐらいだと思うけど、すこしでばっていたりするんだもん。」と、黒板での描画の都合でしっぽが描けなかったというような言い訳をします。そして友だちからさらに切ったやつだろうと言われると、「そういう、うしろのところ(しりっぽのこと)がない。」「(もう一度)しっぽのほうがなかった。」といい、さらに「さかなにしりっぽあるもん。」とも言います。自分が覚えていて黒板に書いたさかなにはしっぽがなかったんだ、というような言い訳みたいですが、さかなにしっぽがあること(そして、自分はそれを描かなかったこと)は認めているようです。
授業の後半で鈴木先生はサケの魚拓を提示して、「三嶋、これだよ、サケって。いい。これがこういう具合になってんだよ。これが、およいでいるわけじゃないんだ。こうなっているの(笑声)。だから、この切り身をみても、ああ、このサケは、このぐらいの大きさのやつだなってわかる。『さかな日記』には、そういうことまで書いてね。」と正解を提示するのですが、先ほどの議論の場面では三嶋君を追い詰めることはしていません。三嶋君ははりきって黒板に書いたサケの切り身の絵が間違っていたとは自分では認められず、しどろもどろの言い訳をしたんでしょうね。こういう授業の場面、とてもおもしろいと思います。
淺川さんに指摘してもらったおかげで、ちょこっとだけですけど鈴木正氣実践の学び直しができました。ありがとうございました!