57 animal welfareについて―2025教科研全国大会「道徳性の発達と教育」分科会・渡部裕司報告から考える―

  1975年の伊豆長岡大会に初参加して教育科学研究会に入会してからちょうど50年となる今年の武蔵野集会にリモートで参加しました。大会2日目(8/7)の分科会は、いろいろ迷った末に2019年以来継続して参加してきた「教育課程と評価」分科会ではなく、「道徳性の発達と教育」分科会に参加しました。昨年秋以来数回、「道徳と教育」部会例会にリモート参加してきたことと、今大会「道徳性の発達と教育」分科会の「子どもの<食>から考えるケア・倫理・共同性」というテーマに関心があったからです。
 分科会では基調報告の後2つの報告についてじっくり議論されました。一つ目の報告・谷中哲也「『こども食堂』に集う子どもと大人」も大変おもしろく、「子ども食堂」への自分の関心を強めるきっかけとなりましたが、ここでは二つ目の報告・渡部裕司(横国大附属鎌倉中)「中学校社会科で動物福祉について議論し考える実践」を聞く中で自分で考えたことを書きます。
 最初に断っておきますが、この投稿は2025.8.7の渡部裕司報告自体を検討対象とするものではありません。当日の渡部報告pptによると渡部氏は同実践について『子どもと自然学会誌26』(第19巻第1号 2024.3.31)に実践研究論文「中学校社会科地理分野における動物福祉を考える実践―『北アメリカ州』の工業式畜産に着目して―」として投稿されています。私は、まことに幸運なことに、同誌同号を所持しています。同じ号に実践報告を投稿された兵庫の岸本清明先生から以前にご恵贈いただいていたからです。ですから同誌掲載の渡部論文を精読して私なりのコメントを書くことは可能なのですが、それは後日の課題としたいと思います。
 教科研大会「道徳性の発達と教育」分科会については、大会フライヤーに「中学校社会科で食と動物福祉を学ぶ」という報告テーマは記載されていますが、分科会で配付された渡部氏の報告資料や分科会での議論の内容を一分科会参加者である私の判断で公開設定しているこのブログの場で紹介することは適切ではないと考えます。また、本投稿で私が(素人ながら)考えてみたいのは、animal welfareをいう理念を学校教育においてどのようにとりあげたらいいのかという一般論であり、渡部実践自体について意見を述べることではありません。
 そういう経緯ですので、ここからは教科研大会道徳と教育分科会のことから離れて、『子どもと自然学会誌26』掲載の渡部論文に導かれてanimal welfareについて考えてみたいと思います。繰り返しますが、私がここで渡部論文を取りあげるのは渡部実践について教育学・教育実践研究者として意見を述べるためではなくて、私自身今年の教科研大会分科会に参加するまでは言葉さえ不明にして知らなかったanimal welfareという理念について学校教育の研究者の立場から考える出発点とするためです。なお、渡部氏の現在の職名は前述の通りですが、学会誌掲載論文当時の所属は綾瀬市立綾北中学校です。

1.animal welfareとは何か(これまでに知り得た範囲で)
 渡部裕司「中学校社会科地理分野における動物福祉を考える実践―『北アメリカ州』の工業式畜産に着目して―」(『子どもと自然学会誌26』第19巻第1号 2024.3.31 以下「渡部論文」と略記)の冒頭の「要旨」において、以下のように書かれています。

【中学校社会科地理的分野において、北アメリカ州の経済的効率性を求める農業、とりわけ工場式畜産について、動物福祉(アニマルウェルフェア)の観点から批判的に問い直し、「家畜の幸福を守るルールをつくるべきか?」という議題を立て、ディベートを参考にして話合い活動を行った。】(P.23)

 また、渡部論文「2.授業の概要」の冒頭には、以下のように書かれています。

【1)なぜアニマルウェルフェアなのか?
 そこで、グローバル・フードシステムの生産を批判的にとらえるとともに、議論する場面を設け子どもを主権者として価値判断主体へと育てることを意図した実践を行う。具体的には、渡部(2019)の実践を、動物福祉(アニマルウェルフェア)に着目してさらに踏み込み、生徒に価値判断を行わせる授業を開発した。
 アニマルウェルフェアとは、「動物は生まれてから死ぬまで、その動物本来の行動をとることができ、幸福(well-being)な状態でなければならない」という考え方であり、近年この考え方に基づいた法整備が欧米諸国を中心に進んでいる。たとえば採卵鶏においては、EUやアメリカのいくつかの州などで、従来型のバタリーケージの禁止、一羽当たり飼育面積の拡充などの法律が制定されてきている。また、流通・小売業界でもアニマルウェルフェア対応の卵への切り替えが大きな動きとなっているという。日本においては、そうした禁止・帰省の法律は存在しないが、少しずつその議論の機運は高まりつつあるようである。】(p.27)


 上記文中下線部のanimal welfareの定義の典拠は、枝廣淳子『アニマルウェルフェアとは何か 倫理的消費と食の安全』(岩波ブックレット No.985 2020.8.28)であり、私はKindle版で即刻入手することができましたので、同書も読み進めながらこの投稿を書いていきます。

 渡部論文の続く「2)授業の経過」には、全5時の授業構成の中に、
  第4時:【発展】家畜の幸福を守るルールをつくるべきか?(p.27)
とあり、第4時の授業内容については、以下のような記述があります。

【第4時は、発展として、「家畜の幸福を守るルールをつくるべきか?」を考える授業である。まず前時に紹介した経済的な効率を優先する農業のあり方について復習し、そうした生産に対して、食の安全や動物福祉(アニマルウェルフェア)の観点から批判する人たちがいることを紹介するとともに、アニマルウェルフェアについて概説し、ヨーロッパ地域や、アメリカのカリフォルニア州などで家畜のアニマルウェルフェアを実現するための法律が整備されていることを紹介する。そのうえで、「家畜の幸福を守る法律(動物福祉法)をつくるべきか?」という論題に対して、ディベートの考え方を取り入れた実践を行った。(後略)】(P.28) 

 上記引用で(後略)とした部分では、ディベートの手順の説明と生徒の反応・意見が紹介されており、続く「3.生徒の反応」でさらに詳しい分析が行なわれています(これについては教科研大会分科会でも詳細に報告されました)が、何度も断っているように本投稿では渡部実践の教育実践分析・教育学的検討を行なおうとしているのではないので省略し、他日を期したいと思います。


2.animal welfareを学校教育における価値の体系にどう位置づけるのか?

 急遽入手した枝廣淳子『アニマルウェルフェアとは何か 倫理的消費と食の安全』(岩波ブックレット No.985 2020.8.28)を読了しました。人間が「安い」「おいしい」鶏肉・豚肉・牛肉を《生産》して販売するためにいかに動物に対して虐待的な、むごい仕打ちをしてきたかがよくわかり、暗然とします。
 しかし、動物飼育と食肉生産・流通・販売における、何というか《反生き物性》というのか(人間を対象とすることではないので「非人間性」とは言いませんが)、《生きとし生けるものに対する人間の処遇として倫理性の欠如を問われるような諸事実》を知った上でも、教科研大会道徳分科会に参加してanimal welfareという概念・理念を知った時以来持ち続けている私の疑問は解けないのです。
 それは、《鶏・豚・牛などの動物に対してwelfareに配慮した扱いをしたとしても、最後は殺して食料にするではないか。途中の扱いを動物にとってよりよいものにすることを重視するのはわかるが、最後に命を奪うことは必要悪として認めるのか?》ということ。
 私自身、この問いに対する自分なりの答えが出せているわけではありません。しかし、この点についての何らかの自分なりの立場を一人一人の教師が持つという課題も含めて、学校教育における学習内容としてanimal welfareを取りあげるためには様々な検討課題が残されているように思います(しつこいようですが、ここでは《教育課題としてのanimal welfareを論じようとしているのであり、先駆的にanimal welfareに言及する授業実践を行なわれた渡部氏を批判する意図で書いているのではありません)。

 難しい問題であり、簡単に解が見いだせるものではないという前提で、いま考えていることを書いてみようと思います。

 人間をはじめ多くの動物が(植物の一部も)、他の生物の命を奪いこれを食料とすることで生存しています。これは否定できない事実ですが、この事実の一部を倫理的に否定する行動・生活原理を信条とする人々もいます。ヴィーガンやベジタリアンと呼ばれる人々です。様々な流派もあるようですし、よく知らないのにあれこれ書くことは不見識ですが、外野の私が勝手に考えるのは、人間が生きていくために《何かを食べること》自体を否定・拒否する人はいないだろうということ、そして、ある人々は動物を殺して食べることは拒否するけれども、たぶん植物は食べているだろうということ、ということは、動物の命を奪って食することは否定するけれど植物の命を奪って食することは肯定するというライフスタイルの人もいるということです。もちろん世界には、宗教的な理由や、科学的な理由や、あるいは自らの健康上安全上の理由や、その他様々な理由から《あるものを食べない》というライフスタイルなり信条を持っている人が数多くいるでしょう。
 だけど、統計データを根拠に言っているわけではないですが、おそらく世界に数十億存在する人間の多くは《動物も植物も食料にする》という食習慣を持っているんじゃないでしょうか。
 一方で世界には、動物を愛好する人々、動物と共に生きていくことを喜びとし、人間による動物への様々な不当な(何を「不当」とするかは簡単な問題ではないですが)扱いに心を痛めたり、また積極的に反対する行動を起こす人もいるでしょう。そのような人たちはSDGsを持ち出すまでもなく太古の昔からいたと思います。
 枝廣氏が数多く指摘しているanimal welfareに反する事態の中からほんの一例だけ紹介します。

「日本の現状―『鳥かご』の中の採卵鶏
 日本ではほとんどの採卵鶏がバタリーケージで飼われている。
 畜産技術協会の『採卵鶏の飼養実態アンケート調査報告書』(2015年3月)によると、回答した養鶏場の鶏舎棟数のうち92%がバタリーケージ<=佐藤註・「鳥かごを積み重ねた立体的な鶏の飼育舎」 枝廣P.7>だ。一羽当たりの飼養面積は550以下という回答が93%。大人の掌を広げたとき親指から小指まで20cm強だが、一辺がそれぐらいしかない四角形の面積が一羽に与えられた面積だ。
 また、95%が「一つのケージに鶏を二羽以上入れている」と答えている。狭いケージの中で飛ぶことはもちろん、羽を伸ばすことも歩くこともできない。互いに押し合い踏みつけ合ってようやくエサを食べることができる状態だ。
 残りの5%の一羽ケージのほうがマシというわけではない。多くの現場を見てきているアニマルライツセンター代表理事の岡田千尋さんは、『体をうごかせないほどの狭さの上、仲間とのふれあいもなく、隠れることもできず、ストレスが大きくなる』と言う。
 とにかく詰め込んで、エサだけ食べさせて、卵を得ようという、効率重視の卵生産方式である。
 窮屈なだけではない。この調査によると、全体の83.7%の農場で飼育している鶏は、ヒナのうちにくちばしを焼き切られている(「デビーク」「ビークトリミング」とよばれる)。鶏同士がつつき合い、傷つけるのを防ぐために行われる処置だが、くちばしの切断は、言うまでもなく痛みを伴うし、うまく食べたり飲んだりできなくなる鶏もいるという。
 前に述べたように、鶏は『つつきたい』欲求がとても強い生き物だ。その欲求がケージの中ではかなえられないため、一緒にいる鶏をつついてしまう。草地での放し飼いなどエサを求めて地面をつつける環境なら、鶏同士のつつき合いは減る。ケージであったとしても、『鶏は1本の火もがあれば52日間つついて遊ぶ』という研究結果が示すように、つつきたい欲求を満たすことはできる。」(P.9-10)

 鶏肉大好きな私でもちょっと食欲をなくしてしまうような残酷な動物の扱いの実態があるわけです。こうした事実に心を痛める人は、きっと少なくないと思います。この部分だけで考えるなら、「もっと鶏が鶏らしく生きられるような扱いをしてあげて!」と願う人も多いでしょう。
 ただ、ちょっと世の中の仕組みを知っている人なら、《安い鶏肉を大量に生産するためにそういう飼育方法をとっているんだろう》と想像するかもしれません。そして正義感の強い人なら、《そういう不当な育てられ方をした鶏の肉を買わないように、消費者運動を強めるべきだ》と思うかもしれません。ただ、枝廣氏が詳しく紹介しているように、日本ではanimal welfareへの取り組みが行政においても企業においても諸外国に比べて大変遅れており、例えば消費者がanimal welfareに配慮して肥育された鶏肉を買おうとしてもそうした情報がほとんど拡散されていないし、また良心的な生産者がanimal welfareに配慮した飼育方法へと改善しようとしたとしても、それを後押しする行政の法的規制や補助金等による支援が非常に弱く、なかなか広がらないということです。
 それではどうしたらいいのか? 枝廣氏のコメントを文脈を無視して拾い上げると誤解を招くかもしれませんが、氏は本書「おわりに」の中でこう書いています。


「究極のAWは『肉を食べない』ということなのかもしれない。」(P.84)

<佐藤註・スウェーデン人の友人との会話の中で枝廣氏が>「私、アニマルウェルフェアの勉強としてから、日本のスーパーではバタリーケージ以外の卵を見つけるのが難しくて、卵をためるのやめているのですけど」(P.86)


 もちろん、そういう選択はあり得ると思います。そして、もちろん枝廣氏は肉や卵を食べるのをやめようと読者に呼びかけているわけではありません。それは枝廣氏個人のライフスタイル・価値選択として、尊重されるべきことです。
 しかし、現実に世界中の圧倒的多数の人々が鶏肉や豚肉や牛肉を食べなくなるということは、少なくとも近い将来には起こり得ないだろうと思います。


 ……いや、論旨がそれました。私はanimal welfareの思想を社会的に実現していくことの現実的可能性を論じようとしているのではないのです。そうではなくて、animal welfareが人間が創り上げてきたしこれからも創り上げようとしている価値体系(もちろん様々な異論の存在を大前提としての全体像、ということを言っているのですが)の中で、特に《生命》という概念・理念との関係でどういう位置を占めるのか、ということなのです。このことは、教科研「道徳と教育」部会の中でも検討する価値のある課題だと私は思います。
 すごく単純な話です。鶏や豚や牛などの食肉その他の人間の食料となることを前提として飼育されている動物について、飼育の過程でそれぞれの動物の自然の生態にできる限り反しないような扱いをすべきだということ自体については、反対する人は少ないと思います。もちろん経済活動の効率性を考えたらそんなことを言っていられないという生産者や食肉流通・販売関係者の《ホンネ》は存在するでしょうが、その人たちとて、共に地球に生きている人間以外の生物の命や暮らしを慈しむ人たちの価値観自体を否定することはできないと思います。そして、後で言及しますが食料となる動物の飼育や屠畜を生業とする人たちにも、もちろんのこととして動物の命を慈しむ気持ちがあります。
 ここからが私の意地悪な問いかけになるのですが、人間が肉にすることを目的に飼育している動物について、その動物らしい生き方を保障すべきだというanimal welfareの考え方に反対するつもりは毛頭ないのですが、疑問に思うのはその先、つまりanimal welfareを大切にして育てた動物の命を最後に奪って食肉にするという人間の行為を、animal welfareを大事にする人たちは否定しないのか? それは人間が生きていくための必要悪として肯定した上で、《殺すまでのwelfare》だけを主張するのか? ということです。

 このことは枝廣氏の課題意識にものぼっているようで、同書「第6章 日本の畜産動物が本来の動物らしい生き方をするために」の中で、次のように述べています。

「畜産動物のAWについて話すと、『どうせ殺して食べてしまうのだから、そんなこと考えなくても』という人もいる。私たち人間も『どうせ死んでしまうのだから、生きている間、人間らしく生きられなくてもいい』と思うだろうか? AWと向き合うことは、実は、『私たち一人ひとりがいかに生きるのか』にも直結しているのだ。」(P.79-80)

 上記の枝廣氏のコメントは、枝廣氏に問いを投げかけた人への対応としてはそれでいいのかもしれません(人間が人間について生きる意味・価値を問うのと同じように、人間は動物についても生きる意味・価値を問うことを求められる、というようなことかなと私は解釈しました)が、私の疑問に答えるものではありません。枝廣氏が問いかけられた「どうせ殺して食べてしまう」という、その否定できない事実に対して、animal welfareの立場からは何を述べるのか?ということです。《それは問わない》のか?《人間が生きる上で必要な行為として認める》のか?それとも《その行為に反対する》のか?
 それとも屠畜に対する様々な価値判断を容認した上で《生前のanimal welfare》に限定して問題を立てようとするのか?

 私が今年の教科研大会分科会で出会うことができた渡部実践とは無関係に一般論として述べているということを再び強調した上で書きますが、また次に書くことはどこの実践記録にもない全くの私の想像に過ぎませんが、仮に例えば小学校の(仮想のことなので学年まで書きませんが)社会科なり家庭科なり「総合的な学習の時間」において動物飼育と食肉生産を何らかの形で学習テーマとしたとして、その中でanimal welfareに関わる、例えば私が上で紹介した養鶏のリアルな実態などを学習の題材として取りあげたとすると、《にわとりさんをそんな育て方をするのはやめてほしい》というような意見とともに、《私は今日からもう鶏肉は食べません》みたいな意見が出てくる可能性もあると思うのです。
 ある学習テーマ・学習題材に対する子どもの受けとめ方というのは子どもの数だけあるだろうし、その中の一つの可能性だけを強調することには批判があるかもしれません。しかし私がこの可能性に思い至ったのは、本稿の冒頭でお名前だけ言及した岸本清明先生の『希望の教育実践』(同時代社 2017)の一節を思い出したからです。岸本実践について詳しく紹介できないのですが、学校のそばを流れる東条川の汚染について学習を深めていく中で子どもたちの中に以下のような行動が現れたというのです。

10 川を汚さない生活を
 子どもたちは、この実験<佐藤註・「東条川からエビや稚魚を捕ってきて、三つのビーカーに入れ、そこに各種洗剤や漂白剤、シャンプーや農薬を入れる実験」P.41>の本意を読みとりました。そして、自分の行動を変えました。習字の時間、手本を一人一人に書く時、女子の背後に立っても、リンスや洗剤のにおいがまったくしなくなりました。それはリンスをやめ洗剤を変えたからでした。男の子たちは、毎日同じ服を着てくるようになりました。(もちろん下着は替えているのですが)その理由を聞いてみますと、「選択の量や回数を減らすことで、洗剤の使用量を減らしたい」と答えました。私は何も指示をしていません。それなのに、子どもたちの多くがそうしていました。他にも、湯飲みを洗うのは水洗いだけ、洗濯は粉石けんに変えたそうです。中には、台所の中性洗剤を薄め、川の負担を減らそうとしていた子もいました。私や家族の知らない間に、多くの子どもたちはそんなことを始めていたのです。」(P.42)



 私はここに岸本先生が紹介されている1998年度東条東小学校6年生の子どもたちの行動について、あるいはこうした事実を含む教育実践における岸本先生の指導について、何事かを言おうとしているのではありません。ただ、子どもたちが学んだことの《自分にとっての意味》の核心を自分なりにつかめたと実感したときにこのような行動に出る場合もあるというその事実に注目したいのです。
 そしてそこから私が仮想した事態の話に戻るのですが、animal welfareに反する過酷な実態に接した子どもがそのことに心を痛めて、自分自身も何らかの行動を実行しなければと考えることはあり得ることだと思います。自分は鶏肉を食べるのをやめる、と決断して実行することも、その子の人生やライフスタイルにとって意味のあることだとは思いますが、また一方で《鶏肉も豚肉も牛肉も給食メニューにあるけど、それでよいのか?》という議論になるかもしれません。
 あまり妄想をどんどん先に進めても意味はないとは思うのですが、子どもたちの議論は《人間が他の動物の命を奪って食料としていること》の是非に行き着くのではないかと私は予想します。仮に教師は《そこは難しいから》とか《いろんな考えがあるから》と判断して、動物飼育過程におけるanimal welfare問題だけに学習対象を限定したりしたら、心の中で《どうせ殺して食べるのに》とつぶやくけどそれは言い出せずに終わる子どもも出てくる(=《授業で動物愛護を学ぶけど、どうせタテマエだ》というhidden curriculumが発生する)のではないか。
 そのように考えると、animal welfareあるいは人間が動物を殺して食べていることについては、当たり前かもしれませんが、是非の決着を付けるような、一つの結論で終わるような学習では決してなくて、《いろんな意見が出たね。これからも考えていこうね。》というようなopen endの学習過程として締めくくってこそ意味があると思えます。すごく葛藤を感じる、子どもたちも教師も簡単に答えを出したりできない重いテーマだと思うのです。そしてまた、そういう学習テーマを取りあげること自体、学校生活において重要なのではないかと思います。本節のタイトルに「animal welfareを学校教育における価値の体系にどう位置づけるのか?」と書きましたが、私自身も現時点でこの自問に何らかの答えを出そうとは考えていません。考え続けたいです。

 最後に、途中で言及して保留した、家畜の肥育と屠畜を生業とする当事者のエピソードを紹介させて下さい。
 坂本義喜原案・内田美智子作『絵本 いのちをいただく みいちゃんがお肉になる日』(講談社 2013)P.29-36より 
==========
牛舎にはいると、みいちゃんは、
ほかの牛がするように角をさげて、
坂本さんを威嚇するようなポーズをとりました。

坂本さんはまよいましたが、そっと手をだすと、さいしょは威嚇していたみいちゃんも、
しだいに坂本さんの手をくんくんとかぐようになりました。

坂本さんが、
「みいちゃん、ごめんよう。みいちゃんが肉にならんと、みんながこまるけん。ごめんよう」
というと、みいちゃんは、坂本さんに首をこすりつけてきました。

それから、坂本さんは、女の子がしていたように腹をさすりながら
「みいちゃん、じっとしとけよ。うごいたら急所をはずすけん、
そしたら、よけい苦しかけん、じっとしとけよ。じっとしとけよ」
といいきかせました。

みいちゃんのいのちを解く、
そのときがきました。

坂本さんが、
「じっとしとけよ、みいちゃん、じっとしとけよ」
というと、みいちゃんは、ちょっともうごきませんでした。

そのとき、みいちゃんの大きな目から、
なみだがこぼれおちてきました。

坂本さんは、牛が泣くのをはじめてみました。

そして、坂本さんが、ピストルのような道具を頭にあてると、
みいちゃんはくずれるようにたおれ、すこしもうごくことはありませんでした。

ふつうは、牛がなにかを察して頭をふるので、
急所からすこしずれることがよくあり、
たおれたあとに、おおあばれするそうです。

後日、おじいちゃんが食肉センターにやってきて、しみじみといいました。

「坂本さん、ありがとうございました。
きのう、あの肉ばすこしもらってかえって、みんなで食べました。

孫は泣いて食べませんでしたが
『みいちゃんのおかげで、みんながくらせるとぞ。食べてやれ。
みいちゃんに、ありがとうと言って食べてやらな、
みいちゃんにかわいそかろ? 食べてやんなっせ』
っていうたら、孫は泣きながら
『みいちゃん、いただきます』
『おいしかぁ、おいしかぁ』
ていうて、食べました。
ありがとうございました。」

坂本さんは、もうすこし、
この仕事をつづけようとおもいました。

==========

 絵本全体の後半3分の1ほどを紹介しました。牛の肥育をする一家と屠畜を仕事とする坂本さんのお話ですが、余計な説明はいらないと思います。牛を育て、殺して肉にする仕事に従事する人の思いの一端が伝わってくると思います。絵本ですけど、フィクションではありません。同書の前に刊行された以下の本もあります。
  内田美智子『いのちをいただく』(西日本新聞社 2019)

 また、屠畜について、以下の本もあります。
  本橋成一・写真『屠場』(平凡社 2011)
  本橋成一『うちは精肉店』(農山漁村文化協会 2013)


 さらに、関連しそうな本として、以下のものも挙げておきます。
  谷川俊太郎『しんでくれた』(佼成出版社 2014)
  鳥山敏子『いのちに触れる 生と性と死の授業』(太郎次郎社 1985)
  村井淳志『「いのち」を食べる私たち ニワトリを殺して食べる授業―「死」からの隔離を解く』(教育史料出版会 2001)

 話を拡げていくときりがないのですが、学校の学習でanimal welfareに反する事実を知って心を痛めた子どもたちがいたとして、そこからだけ《自分はどうすべきか》を結論づけてしまうのではなくて、
(けっこう衝撃的な話なので、学習するかどうかについて子どもたちの選択・判断の権利を保障すべきだとは思いますが)《動物たちのいのちをいただく仕事》もいること、その人たちの思いについて知る機会ももってほしいなと思うのです。そうでないと、子どもらしい正義感で《動物をいじめたり、殺す仕事をしている人が許せない》というような方向に走ってしまわないかと懸念します。もちろんそういう思いを持つ子がいたら教師としてそれを認めることは必要だし、だからこそopen endの学習過程を慎重に構想する必要があると思うのです。

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