59 戦後世代に「加害責任」はあるのか?―『渡り川』(1994)と『過去は死なない』(2014)から考える
1.幡多高校生ゼミナール編『渡り川』(1994)との出会いと小さな疑問
以下は第1回「自由主義史観」研究会セミナー(1995.4.8)での私の報告全文です(以下、「1995佐藤レポート」と略記)。
私と幡多高校生ゼミナールとの出会いについては、「1995佐藤レポート」の冒頭に簡単に紹介しています。私の大学教育実践史においては重要なできごとでした。本稿の主題からは外れるので詳細は省略しますが、教科研の活動の中で幡多ゼミ卒業生の安岡三智さんが和光大学の梅原利夫氏のゼミにおられることを知り、梅原氏にお願いして安岡さんと連絡を取り、三重大学「平和問題」の授業にお招きして三重大生たちとのディスカッションを行なったことなどを懐かしく思い出します。
一方、「1995佐藤レポート」では、高知県におけるビキニ水爆被災調査に取り組んだ幡多ゼミ初期世代(1980年代中盤に活動)から数年を経て高知県における朝鮮人強制連行・強制労働の調査に取り組んだ後輩世代の高校生たちの活動を報告した幡多高校生ゼミナール編『渡り川 四万十川流域から創造する高校生の国際交流』(平和文化 1994)及びドキュメント映画『渡り川』(1994)を取りあげ、1995年教科研全国大会で『渡り川』を鑑賞した感想として、「見終わった後、第1作より映画としてはより完成されているという感想は持ったが、感動はしなかった。幡多の高校生たちの活動は確かにすばらしいものだった。しかしそれを見た私の感想は、『やはり一部の特別な青年たちではないか」というものだった。(中略)『渡り川』に対しては、前作同様の共感も感じないではないが、どちらかというと違和感の方を強く感じた。地域の朝鮮人強制連行の歴史を調べ、神戸朝鮮高級学校の生徒と交流し、韓国に渡って従軍慰安婦の体験を聞く高校生たちの活動は、確かにすばらしい。彼ら自身は多くのものを得たであろう。しかし、今回は率直に言って、『三重大でもこうした活動を!』とは思わなかった。」と書いています。自分の当時の職場である三重大学において学生たちと平和学習をどう進めていくかという関心をベースとした感想ではありますが、『ビキニの海は忘れない』の頃の幡多ゼミの活動に接した時と比べて、明らかに引き気味の感想を述べており、自分が受けとった感覚として「感動はしなかった」とまで述べています。
私がかつて所蔵していた書籍『渡り川』は手元に残っていませんでした(おそらく三重大学退職前後の公費購入書の大学への返却もしくは私費図書の断捨離によるものだと思います)。本稿を書くにあたり、特に『渡り川』の末尾近くで報告されている高校生の韓国訪問の際の出来事について、上記のレポートに30年前の私が書き込んだ事実だけで現時点の判断を下してはいけないと考え、再度『渡り川』を入手してその全体を改めて通読してみました。30年の星霜を経て再読してみての私の読後感は、上記の1995年レポートとは違うもので、全体として共感を持って読み終えたと言えます。30年前と今のこの読後感の違いは何を意味するのか、それについては自分史上の問題としてじっくり考えていきたいと思いますが、本稿では取り敢えず「1995佐藤レポート」の「3」で書いている韓国パゴダ公園での出来事(1993.8)について再考したいと思います。
「1995佐藤レポート」では要約的に紹介しており、その要約には1995年当時の私自身の関心に引きずられたbiasもかかっていると思うので、ここでは関係部分の全体を紹介します(幡多高校生ゼミナール編『渡り川』(1994) 「第五章韓国平和の旅」より)
【3「お前たちの来るところではない」
(佐藤註・この項の冒頭の、韓国訪問2・3日目における日本の高校生と韓国の大学生・高校生の交流学習の部分は省略します。)
翌日、韓国の学生たちと一緒に、「3・1独立運動」の発祥の地であるパゴダ公園を訪れた。広い園内は、韓国の国花である木槿(ムクゲ)が夏の日差しを浴びて一面に咲き誇り、たくさんの人々、とくに民族衣装をまとった老人たちでにぎわっていた。
韓国併合からちょうど10年目の1919年3月1日、ここパゴダ公園に結集した全国33名の代表者によって、独立宣言が発せられた。またたくまに独立運動の火は韓国全土にひろがり、200万人以上が「独立万歳!」を叫びながら運動に立ち上がっていった。これに対し、日本官憲はすさまじい弾圧を各地で行い、1年後にようやく鎮圧した。
公園内にはこうした歴史を物語る多くの記念碑や銅像が建てられている。なかでも圧巻は、巨大な12枚の銅板のレリーフであった。その一つひとつに、独立宣言発布の様子、立ち上がった民衆の勇敢な表情、まだ指導者を馬で引きずり、弾圧する日本官憲の姿など、運動の発生から終焉までが大変リアルに表現されている。それは見るものを釘づけにせずにはおかない迫力をもっている。
パゴダ公園は、韓国民衆によって、独立へ向けた誇り高い精神の場所、まさに「聖域」ともよべるような場所ではないだろうか。日本による過酷な植民地支配を体験した年代の老人たちが、こんなにもたくさんここに集まってくるのも、この地に特別の思いがあるからであろう。
その「聖域」に、私たち50人近い日本人が大挙して踏みこんだ瞬間、周囲に老人たちの人垣ができた。ユク君に説明を受けながら、一つひとつの碑を見て回ったが、その間ずっと、私たちに注がれる無言の視線と張りつめた空気を感じずにはいられなかった。そしてとうとう「事件」が起こった。
説明を受けながらレリーフを見てまわる高校生に、ひとりの韓国人がものすごい剣幕で詰め寄ってきたのだ。どうやら酒に酔っているらしく、激しい口調でまくしたてている。表情や手振りから、私たちを非難していることはすぐにわかった。生徒たちの顔が一瞬こわばる。すぐさまユク君が毅然として前に立ちはだかり、からだを張って制止した。
通訳の方にこの男性が言っていることの意味を教えてもらった。それは、「ここは、お前たち日本人が来る場所ではない」「日本が正式に謝罪も補償もしないかぎり、日本人はここに来ることはできない」という抗議であった。ユク君は何とか彼をとりなしてくれて、この場はことなきをえたが、今度は公園を出ようとするとき、案内役のユク君自身がくってかかられた。
ユク君に向けられた抗議は、「韓国人であるお前は、なんで加害者である日本人にへつらうのか」というもので、くってかかった年配の男性はなかなか引き下がろうとしなかった。ユク君は何度も、「この日本の高校生たちは歴史と真実を学びに韓国に来たのだ」と説明を繰り返す。ユク君の苦汁((ママ))に満ちた表情を見つめながら、私たちとの交流に欠ける彼の誠意を感じ、感動せざるをえなかった。
この一連のハプニングは、象徴的な出来事であったために、私たちには忘れがたいものとなった。韓国の人々が(もちろん、みんなではないが)、日本人に対して抱いている「憎悪」や「恨」を垣間見たように感じた。パゴダ公園で生徒は何を学んだのだろうか。
「公園にはレリーフがありました。独立運動の様子が刻まれていたそれには、強い独立への思いが込められていて、一枚一枚からその思いを感じ取ることができました。レリーフの説明を受けていた時、反日感情をあらわにして突っかかってきた人がいました。突然のことでびっくりはしましたが、最初から心構えのようなものがあったので、あわてることはありませんでした。それよりも、彼らの本心にふれるという意味で貴重な体験になりました。(高知県中村高校・三宮香織)
「パゴダ公園の独立記念碑の前でおじさんたちに、『日本人は悪い。日本人はなぜあのようなことをしたのか』と責められた。言われても当然だと思う。日本人は今までにそれだけの罪を犯してきているのだから。けれど、日本人がみんなそのような人でないことも知ってほしい! そして、ぼくたちがそれをよびかけていかなければならないと思う」(高知県宿毛工業高校・岡花邦章)
「一人の男性が突然にどなりはじめてびっくりしました。通訳さんの話から反日派の方だとわかりましたが、日本が今までにしてきたことから考えれば、それはすごく自然なことだし、どなられたことによって逆に心が引き締まる思いでした。自分たちがしていることは歴史を正しく知るために学ぶことであり、正しく勉強すればするほど、いろいろな人との出会い、多くの考え方を知ることができるのだ、と思いました」(高知県中村高校・高橋佐和)】(P.113,115-117)
以上が1993年8月に日本の高校生たちが韓国・パゴダ公園で遭遇した事実に関する『渡り川』(1994)の記述全文です(引用ページのP.114が飛んでいますがそこは写真が掲載されたページであり、本文の記述は一カ所も省略していません)。
「1995佐藤レポート」における当該事実についての私の紹介は、ささいなことかもしれませんが、上記の原文で「どうやら酒に酔っているらしく、」と推定で書いているところを「一人の酒に酔った韓国人」「酒に酔った韓国人」と二度にわたって書いており、要約紹介であるとは言え正確さを欠く部分もあります。当時の私のこの事実を受けとめることに伴う反感がそうさせたということを否定はできないと思います。
私はもちろん、1993年8月の高校生たちのパゴダ公園訪問に同行したわけではありません。仮に同行していたとしても、自分自身の韓国人への批判をその場において述べることは到底できなかったでしょう。にも関わらずこの出来事から二年弱を経た全く無関係の日本国内での研究会において、私は敢えて「酒に酔った韓国人の日本人高校生への抗議は間違っている。」と断定しました。それは自由主義史観研究会のセミナーに持ちこんだレポートであることを十分意識してのことであったと思います。
私は1975年夏の全国大会で教育科学研究会に入会し、最初の約10年は「社会認識と教育」分科会・部会で活動しましたが、1980年代後半に当時教科研内で再建された「授業づくり部会」にも参加するようになりました。私は『教育』No.499(1988.9)に「社会科授業実践分析における『モデル化』の実践的意味―藤岡信勝論文『歴史授業の三つのモデル-久津見、山本、有田実践の比較分析-』の検討―」という批判論文を投稿しました。藤岡氏からは「批判を受ける意味がわからない」という趣旨の応答はいただきましたが、反論論文は出されませんでした。ただ、このやりとりを機に藤岡氏から「授業づくり部会」への参加のお誘いを受け、教科研大会で「社会認識と教育」と両分科会をハシゴしたりしたこともあります。また、「授業づくり部会」の東京での合宿に参加し、そこに集まっていた若い教師たちとの交流が大変魅力的であったこともあり、自分の活動の足場を「授業づくり部会」が教科研から独立して結成された「授業づくりネットワーク」に移していきました。「授業づくりネットワーク」における私の活動や実践については本稿と直接関係しないため触れませんが、「授業づくりネットワーク」の中心にいた藤岡信勝氏らが1990年代に結成した「自由主義史観研究会」には私も初期において関わっており、機関誌を購読したり前述のように研究会で「1995佐藤レポート」を報告したりしました。しかし(さすがに^^;)その後結成された「新しい歴史教科書をつくる会」には参加していません。2000年代も自分の民間教育団体での活動としては「授業づくりネットワーク」を中心に置いていましたが、そうこうするうちに大学での職務としての「教員免許更新講習」の講師活動などのために夏休み時期が超多忙となり、授業づくりネットワークの大会も含めて夏の民間研の集会に全く参加できない時期が続きました。2010年代に入って、「アウトプット(講師活動など)だけの夏休みでいいのか?インプットもしたい!」と切望するようになり、2013年大阪大会から教科研全国大会に復帰して現在に到っています(授業づくりネットワークの活動にも参加し続けました)。
話が私の教育実践研究歴の方に流れてしまいましたが、とにかく1995年当時の私は「自由主義史観研究会」も自分自身の実践研究のフィールドに含めており、そこで「1995佐藤レポート」の報告を行なったわけです。私の報告に対してセミナーでどういう議論がなされたのか記録は残っていないのですが、一人の参加者の方(それ以前から「授業づくりネットワーク」でのメディア・リテラシー実践交流などで面識があった中学校教員の方でした)が、私の《酒に酔った韓国人の抗議への違和感》の表明に対して「私はおかしいとは思わない」と発言されたことが記憶に残っています。一方賛意を表明する発言があったのかどうかは今となってはわかりません。
さて、私が「1995佐藤レポート」を書いた背景を記憶に残っている範囲で紹介したところで、もう一度『渡り川』P.11-3-117と「1995佐藤レポート」に戻って、1995年時点の私の認識を検証する作業を(苦渋も伴うものですが…)行なってみたいと思います。
「1995佐藤レポート」で私は、「酒に酔った韓国人の日本人高校生への抗議は間違っている。日本政府の補償責任と民間人の交流は全く別次元であり、それを混同しての抗議は、全くの筋違いである。」と批判しました。
『渡り川』で「どうやら酒に酔っているらしく」と当時現場に居合わせたであろう記録者(第五章の著者は中村高校西土佐分校の坂本公男氏)が断定的でなくやや控えめに推測的に書かれている部分を私が「酒に酔った」と断定的に書いている背景には、《冷静に意見を述べるならともかく酒の力に任せて感情的に怒りをぶつけたのであろう》という予断があったんだと思います。このできごとを捉える読者としての私の心に、《日本の朝鮮侵略や朝鮮人強制連行・強制労働について真面目に学び、現地を知ろうとして韓国に来た日本の高校生に対して、その経緯も知らずに怒りをぶつけることは不当だ》という思い、怒りがあったと思います。
一方私自身、パゴダ公園で日本の高校生に詰め寄った韓国人男性について、『渡り川』で描写されているその場での彼の言動以外には何も知りませんでした。彼が何歳くらいであり、彼が日本による韓国併合や日本への強制連行・強制労働と具体的につながっているのか(彼が被害者・犠牲者、またはその親族なのか)もわかりません。彼の言動については、『渡り川』の記録者が「通訳の方にこの男性が言っていることの意味を教えてもらった」こととして、「『ここは、お前たち日本人が来る場所ではない』『日本が正式に謝罪も補償もしないかぎり、日本人はここに来ることはできない』という抗議であった」と書かれています。
このことを高校生に詰め寄った韓国人男性の主張とみなして、私は「1995佐藤レポート」で「日本政府の補償責任と民間人の交流は全く別次元であり、それを混同しての抗議は、全くの筋違いである。」と批判しました。しかし…
いま考えて見ると、私が《その韓国人男性の主張》と見なしたことは、通訳の方(『渡り川』P.114に写真があり、「通訳の黄さん」と紹介されています)が《翻訳》した内容です。日刊の若者の友好的な交流活動にスタッフとして参加していた通訳の方は、例えば詰め寄った韓国人男性の言動の中に仮に罵詈雑言に属するような部分があったとしても、それは省略したかもしれません。一方彼が言おうとしたことは何だったかについては日本の高校生たちに誠実に伝えようとしたのだろうと思われます。このように考えて見ると、通訳の方の理性的なフィルターにかけられて整理された結果としての韓国人男性の抗議内容に対して、そこから空間も時間も隔てたところにいる一読者としての私が批判をしてみても、それに一体何の意味があるかと考えざるを得ません(自分にとっての《批判の意味》は後でもう一度考えたいと思いますが)。
その上でもう一度(通訳を介した)韓国人男性の主張、(彼の発言の文脈とか感情の部分を敢えて度外視して)その論理の部分について整理し直してみると、《日本は3・1独立運動弾圧をはじめとする戦時の韓国民衆への支配・抑圧を謝罪し、補償をすべきだ。それが行なわれていない現段階で、韓国民衆の抵抗の象徴であるパゴダ公園に日本人が来る資格はない。》というようなことだろうと推察します。これに対して私は「1995佐藤レポート」で、「日本政府の補償責任と民間人の交流は全く別次元であり、それを混同しての抗議は、全くの筋違いである。」と反論しました。しかし敢えて韓国人男性の視点に立とうとして考えて見ると、その韓国人男性から見てもパゴダ公園を訪問した日本の若者が日本帝国主義の韓国支配・収奪・弾圧の当事者世代ではないことは自明だと思われますので、ということは彼にとって《戦時の日本人も現在の日本の若者も、おなじ日本人》という認識だったんだろうと推察されます。そう捉えてこそ若い日本の高校生に対しても彼は怒りを覚えたのでしょう。従ってその彼に対して《政府次元と民間人次元は別》というような私の批判は通用しないでしょう。これは感情次元の、他者がいいとか悪いとか口を挟むのが無意味な問題ですが、しかし敢えてもう少し論理的整理を試みて、《日本政府は過去の韓国支配による韓国民の犠牲に対して根本的な謝罪・補償を行なおうとしていない。そして日本国民はそうした日本政府の姿勢を批判して転換させる努力を十分にしていない。その状態を容認している日本人が、日本帝国主義への韓国民衆の抵抗の象徴であるパゴダ公園に一体何のために来るのか?》という問いかけであると考えると、(もちろん反論の仕方はあるとしても)痛みと怒りを抱える一韓国人からのまっとうな問題提起と捉え直すことも可能だと、現在の時点では考えます。
では当時の高校生たちはどう捉えたか? もう一度感想文から抜粋します。
「突然のことでびっくりはしましたが、最初から心構えのようなものがあったので、あわてることはありませんでした。それよりも、彼らの本心にふれるという意味で貴重な体験になりました。」(高知県中村高校・三宮香織)
『渡り川』での坂本公男先生の記録では「表情や手振りから、私たちを非難していることはすぐにわかった。生徒たちの顔が一瞬こわばる。」とあるのですが、三宮さんは「突然のことでびっくりはしましたが、最初から心構えのようなものがあったので、あわてることはありませんでした。」と書いています。パゴダ公園を訪問する際に韓国の人たちから何らかの否定的なリアクションを受けるかもしれないと「心構え」していたのでしょうか。
「パゴダ公園の独立記念碑の前でおじさんたちに、『日本人は悪い。日本人はなぜあのようなことをしたのか』と責められた。言われても当然だと思う。日本人は今までにそれだけの罪を犯してきているのだから。けれど、日本人がみんなそのような人でないことも知ってほしい! そして、ぼくたちがそれをよびかけていかなければならないと思う」(高知県宿毛工業高校・岡花邦章)
少し話がずれますが、岡花さんが「おじさんたち」の抗議として紹介している内容は、通訳の方の説明と少し違います。戦争時の日本人による侵略行為について、高校生に直接その責任を問うているように思われます。これは岡花さんがその場の雰囲気の中でそのように受けとめた、ということなのでしょうか。岡花さんはそう理解した上で「言われても当然だと思う。」と認めています。ここは微妙です。「日本人は今までにそれだけの罪を犯してきている」というのですが、それは自分たち高校生の《罪》でもあるのか?いやいや、「日本人がみんなそのような人でない」として、自分自身はそちらに身を置いていると述べているのか?
「日本が今までにしてきたことから考えれば、それはすごく自然なことだし、どなられたことによって逆に心が引き締まる思いでした。自分たちがしていることは歴史を正しく知るために学ぶことであり、正しく勉強すればするほど、いろいろな人との出会い、多くの考え方を知ることができるのだ、と思いました」(高知県中村高校・高橋佐和)
高橋さんは「どなられたことによって逆に心が引き締まる思い」と誠実に受けとめようとしています。「日本が今までにしてきたことから考えれば、それはすごく自然なこと」と捉えていますが、「今までにしてきたこと」とは今を生きる自分とは切り離された過去のことなのでしょうか。今を生きる自分たちは「歴史を正しく知るために学ぶこと」をしているのであり、その中で「いろいろな人との出会い、多くの考え方を知ることができる」、その一環としてパゴダ公園での韓国人男性との《出会い》も捉えたのでしょうか?
私はもちろん、当時の高校生たちの考え方を《未熟だ》とか《一面的だ》などと切って捨てようとしているのではありません。前述した部外者としての私の思考と比較しながら、パゴダ公園の現場にいた若者たちがそこで起こったことをどうとらえたのか、推測しながら考えてみたかったのです。
1993年の韓国訪問参加者は45名(高校生18名、顧問15名、幡多ゼミOB3名、中学生1名、映画撮影スタッフ6名、新聞記者2名)だそうです(『渡り川』P.102)。パゴダ公園での出来事についても、それぞれの参加者がいろいろなことを考えたでしょうし、その中で私たち読者が知りうるのはこの場面についての坂本先生の記録と3名の高校生の感想文だけです。ですから私は訪問当事者の人たちの感想について何か一般化したことを述べようとは思いません。
3人の高校生の感想は様々ですが、「1995佐藤レポート」での私のように、《そんなことを言われる筋合いはない!》と反発した人はいません。日本人である自分はそのような抗議を受けとめなければならないと捉えています。総じて言えば(一般化しないと言っておきながら…^^;)《自分たちは日本の過去の侵略・抑圧行為を含めた歴史を学ぶことで、これからの社会を生きていく世代として新しい国際交流を模索していきたい》というような志向性を思い描いているのではないかと思います。
しかし、ここからは私の妄想ですが、幡多ゼミの活動に熱心に取り組んでいる高校生が、なんらかの機会に《戦後生まれの君も、日本のかつての戦争加害について責任があるんだよ》と言われたとしたら、彼らはどう応えるでしょうか。
実は、ここまでで私の「1995佐藤レポート」において考察が足りなかった部分についても縷々述べてきましたが、このレポート全体に通底する私の《疑問・反発心》の根元には触れてきませんでした。それは本稿のタイトルにある《戦後世代に「加害責任」はあるのか?》という根本的な疑問です。「1995佐藤レポート」の中でパゴダ公園での出来事に触れた後で私はこう書いています。
「過去の戦争における加害とどこかで結びつくことならば、日本人は韓国人・朝鮮人・中国人・アジアの諸国民からのいかなる非難も甘んじて受けなければならないのだろうか? そうしたことを正当化・当然視するような教育を日本国民に対しておこなっていいのだろうか?」
自由主義史観研究会に初めて持ちこんだレポートということもあってか、やや肩を張って、しかも《そっちに寄せる》(^^;)ような書き方をしていますが、実は私がひっかかっていたのはそんな一般論ではなかったんだと今となっては思います。つまり、
1954年生まれの日本人である私は、戦争の加害責任を負わなければならないのか?
という問題です。
この問いへの答えがYESならば、私という人間が自分の思想信条としてどんなに平和を語っても、ガザやウクライナの戦争や戦争犯罪行為をどんなに批判しても、《かつてアジアの数百万の人々に犠牲をもたらした日本帝国主義の侵略行為に対して、日本人の末裔としてどのように責任を取るのか》という問いにまっとうに答えない限りは自己の主張の正当性を担保できないことになります。
このことについて、ここまでの文脈を離れて全く別の方向から考察してみたいと思います。
3.テッサ・モーリス-スズキ『過去は死なない』(2014)との出会い
出会いは、全く無関係の文脈からやってきました。
私は約30年来、子どもたちの性の学びについて研究・実践していて、1997年から“人間と性”教育研究協議会(性教協)のメンバーでもあります。最近、性教協の若手研究者である堀川修平の著作『「日本に性教育はなかった」と言う前に ブームとバッシングのあいだで考える』(柏書房 KIndle版 2023)を読み始めたのですが、その中「第一章性教育の原風景」の中で以下のような記述に出会いました。堀川の母校である北海道江別市大麻小学校の校歌をめぐる考察の一部です。
【「仲よくみんな」の「みんな」とは誰のことか
(前略)しかし、繰り返しになりますが、北海道の歴史を語るうえで、「開拓」という名の「侵略」の歴史は避けて通れません。「みんな」と言いながらも、そこには排除され、抑圧されてきた人が必ずいる/いたはずなのです。この校歌をつくった人びと、そして歌わせてきた教師たちは、どのような思い出いた/いるのでしょうか。
現状を追認する?
もちろん、「私たちは、現在『侵略』などしていないのだから、そうした歴史とは無関係である」。そのように考える方もいるでしょう。しかし、歴史研究者のテッサ・モーリス-スズキさんは、「連累(インプリケーション)」という概念で、歴史といまを生きる私たちとが強く関係していることを示しています。
テッサさんは、「あとから来た世代も過去の出来事と深く結びついている」と言い、その理由として「あとから来た世代は、歴史上の暴力や弾圧の行為をひきおこした責任こそ免れるかもしれないが、多くの場合そうした行為の結果としての恩恵をうけている」と指摘します。すなわち、この意味で私たちは「過去の不正に関与している。事後従犯」なのです。
また、テッサさんは、さらに重要なこととして「今生きているわたしたちをすっぽり包んでいるこの構造、制度、概念の網は、過去における想像力、勇気、寛容、貪欲、残虐行為によってかたちづくられた、歴史上の産物」なのだと指摘しています。
つまり、私たち自身が現在、何かしらの恩恵を受けていることの背景には、多くの場合、過去の抑圧、排除があるのです。そして、そのような状況を見て見ぬふりをして、「私には関係ない」と退けてしまうことは、悲惨な状況をそのままにすることにつながる。さらにいえば、将来に対してこの人権侵害を積極的に残すことにほかならない、ということです。】(P.22-24)
堀川は上記のテッサ・モーリス-スズキからの引用の出典ページを表示していなかったので、テッサ・モーリス-スズキ(田代泰子訳)『過去は死なない メディア・記憶・歴史』(岩波現代文庫 2014 原著&翻訳単行本2004)を入手して当該の記述を探しながら読み進めたところ、「第1章過去は死んでいない」のP.34に「あとから来た世代も過去の出来事と深く結びついている」「あとから来た世代は、歴史上の暴力や弾圧の行為をひきおこした責任こそ免れるかもしれないが、多くの場合そうした行為の結果としての恩恵をうけている」という記述を発見しました。そこで、そこだけのつまみ食いで何かを語ってはいけないと考えて、テッサ・モーリス-スズキの著書全体を読みました。
テッサ・モーリス-スズキ(以下「スズキ」と略記)は1951年イギリス生まれでオーストラリア国立大学教授(2014現在)です(岩波現代文庫版扉より)。ものすごく博学な人で、歴史を伝える媒体である歴史小説(第二章)、写真(第三章)、映画(第四章)、漫画(第五章)、インターネット(第六章)についての膨大なデータを駆使しながら論を進めます。その博学ぶりに圧倒され(辟易し^^;)て、堀川氏が引用した箇所がある第一章までにしてその後を読破するのをやめようかと思ったのですが、興味を引かれる箇所も多々あって何とか最後まで読みました。
まず堀川が引用した箇所からもう少し前後に拡大して、長くなりますがスズキの叙述を引用します(下線は佐藤)。
【過去への連累
(前略)むしろ、過去についての理解はたんなる知的システムではない、と認識するところから出発したい。過去との遭遇は、どんな遭遇でも、純粋な知識と同時に感情と想像力をともなうものだ。過去の知識は、それによって個人としてのアイデンティティをひきだし、この世界でどう行動するかを決める手がかりとなる。わたしが言いたいのは、アカデミックな歴史は感情を敬遠しがちだった、歴史知識をまるで純粋理性のひとつの形態であるかのように扱い、それを損ないかねない情熱、恐怖、希望、喜び、といった領域を超えて存在するかのようにみなしがちだった、ということだ。過去についての大衆メディア表現の多くはもちろん、警戒すべきナショナリスト的歴史学の大衆向けの形態も、学問的歴史がともすれば抑えこんできた感情に訴える力からその力の一部を得ているのである。
そこで、歴史の解釈的な側面とともに、情緒的な側面をも当初から認めることが重要になる。すなわち、過去についての知識が感情やアイデンティティをどうとりこむか―そしてわたしたちの行動にどう影響し、影響されるか―を認識して、そのような情緒の原因やそこに含まれる意味について深く考察することが大切である。過去についてのある種の叙述にほかのものより夢中になってしまうのはなぜか? 過去の出来事についての特定のイメージに深く感動し、他のイメージにはなにも感じないのはなぜか? このような情緒的没入は、出来事の原因や結果の解釈にどう影響するのか? 換言すれば、“一体化としての歴史”と“解釈としての歴史”は互いにどう絡みあうのだろうか? その相互作用は、過去を教えるメディアにどのような影響をうけているのか? そうしたメディアは、個人として過去の出来事とどう関わっているのかの理解にどのような影響を与えるのか? こうした疑問を提起すれば、多くのメディアで過去のイメージと遭遇することでわたしたちの歴史的責任意識がどのように形成されるのかが見えてくるだろう。じつはわたしとしては、歴史のプロセスに“連累(インプリケーション)”しているという意識にいかに影響を与えるか、と言いたいのである。
“連累”ということばでわたしは、私たちの過去との関係は、ふつう“歴史責任”ということばで表わされるものとは多少違うのではないか、もっと幅広い関係ではないか、と言っているつもりである。暴力行為あるいは抑圧行為を犯す者が、一般に認められている法的・倫理的意味で、その行為の結果に責任を負うのは当然である。しかし、たとえば1945年よりあとに生まれたドイツ人は、ホロコーストに同じような意味で直接の法的責任を負っているわけではない。あの恐ろしい事件を直接ひきおこしてはいないからだ。同じように、1945年以降に生まれた日本人も南京大虐殺に原因責任を負っていない。それは1960年代以降生まれのイギリス人がアジアやアフリカでのイギリス植民地主義による暴力に責任がなく、最近になってオーストラリアに移住した人たちが植民地入植者たちによるアボリジニ虐殺に責任がないのと同じである。
しかしその一方で、あとから来た世代も過去の出来事と深く結びついている。理由はいくつかある。まず、あとから来た世代は、歴史上の暴力や弾圧の行為をひきおこした責任こそ免れるかもしれないが、多くの場合そうした行為の結果としての恩恵をうけている。ドイツでの最近の裁判事例はとくに顕著な例だろう。これは、戦後ドイツ経済の驚異的復興の推進役となったいくつかのドイツ大企業が、第二次世界大戦中にユダヤ人などの奴隷労働によってその富の一部を得た事実を明らかにした裁判である。同じように、鹿島建設、三菱重工をはじめとする、日本の戦後経済の奇跡の中心的アクターとなっていた企業も、その富の一部は、太平洋戦争中に朝鮮や中国からの人びとによる強制労働によって得たものである(徐・高橋2000、103-104)。この意味で、こうした企業の成功の恩恵をうけた人たちは、間接的に、歴史的暴力から得た富の受益者になる。近年のオーストラリア移住者(わたしもそのひとりだが)がこの国で土地を買うことができるのは、(ひとつには)その土地が何十年も前にそこに居住していたアボリジニから強制的に奪われたからであり、その子孫は(多くの場合)いまでもそれを奪われたことの物質的・精神的損害に苦しんでいる。この意味でわたしたちは過去の不正に関与している。事後従犯なのである。
しかしもっと広い意味でも過去への“連累”がある。今いきているわたしたちをすっぽり包んでいるこの構造、制度、概念の網は、過去における想像力、勇気、寛容、貪欲、残虐行為によってかたちづくられた、歴史の産物である。こうした構造や概念がどのようにしてできあがったのかはほとんど意識されない。しかし、わたしたちの生は過去の暴力行為の上に築かれた抑圧的な制度によって今もかたちづくられ、それを変えるためにわたしたちが行動を起こさないかぎり、将来もかたちづくられつづける。過去の侵略行為を支えた偏見も現在に生きつづけており、それを排除するために積極的な行動にでないかぎり、現在の世代の心のなかにしっかりと居すわりつづける。そうした侵略行為をひきおこしたという意味ではわたしたちに責任はないかもしれないが、そのおかげで今のわたしたちがこうしてあるという意味では“連累”している。大衆メディアは、継承された概念やイメージの網にわたしたちをからめとる重要な手段である。マスメディアをとおして、過去について語りなおされた物語が、そこにこめられた自負、同情、悼み、悲嘆、そして憎しみともども、わたしたちの心に生き、現在の(国際的な危機を含む)出来事にいかに面と立ち向かうか、あるいは立ち向かおうとしないかに、微妙な、それでいて紛れもない影響を与えるのみである。】(P.32-36)
スズキの原文翻訳を読んでみると、堀川が自身の文脈の中で引用しているのとは少し違った印象を受けました。
スズキはドイツ人、日本人、イギリス人とそれぞれの国の過去の歴史との関係について、例えば日本については「1945年以降に生まれた日本人も南京大虐殺に原因責任を負っていない」と述べています。「原因責任」という言葉が気になるのですが、このスズキの判断と私自身の「1954年生まれの私は戦争の加害責任を負わなければならないのか?」という問いを結びつければ、《戦後生まれの日本人である私は戦争の加害責任を負っていない》と言ってもいいようです。スズキの文脈を一度離れて一般常識的に考えて見ても、戦時における日本軍の様々な加害行為について、その時代にまだ生まれていなかった世代の人間が「加害責任」を負う筋合いはない、ということ自体は多数の支持を得られる考え方ではないかと思います。事実として《その時代その場所》に存在していなかった以上責任はない、と。
スズキの叙述に戻ります。私は田代泰子による翻訳を通じてスズキの叙述を読んでおり、原著は入手していないので、余計に著者の真意をつかむことに難渋するのですが、スズキは先の日本人に関する言明で「原因責任」という語を用いています。インターネットで「原因責任」という語を検索しましたが、私が調べた範囲では発見できませんでした(「責任原因」という語はありましたが)。ですからここでは常識的解釈として《原因を作ったことについての責任》と解釈してみると、私のような戦後世代は戦争における加害という事実に関与しておらず、原因を作っていないのだから責任はない、ということになるかと思います。
スズキはここで、「歴史のプロセスに“連累(インプリケーション)”しているという意識」に言及し、この「“連累”」というとらえ方によって、「私たちの過去との関係は、ふつう“歴史責任”ということばで表わされるものとは多少違うのではないか、もっと幅広い関係ではないか」ということを示そうとしています。
「連累」とは、implicationとは何か? ここでまたいったんスズキの文脈から離れます。 「連累」とは? 私の手元の『新明解国語辞典第四版』(1991)には、「『連座』の意の古語的表現」とありました。「れんざ」は「他人の犯罪行為に関与・する(して罰せられる)こと」とありました。『岩波国語辞典第三版』(1979)には「まきぞえ。連座。」とありました。インターネット上の辞書を見ると、私が所持する上記2つの辞書と同様・類似の意味に加えて、「連なりかさなること。連ねかさねること。累積。」(精選版 日本国語大辞典)という意味も挙げられていました。
「implication」とは? 私の手元の『小学館ランダムハウス英和大辞典』(1979)では、「1.含み,含蓄,言外の意味 2.含みを持たせること,ほのめかすこと,暗示 3.含みを持たせてある状態 4.⦅論理⦆含意:2つまたは2組の命題において、一方から他方が論理的に推論できる関係 5.巻添えにすること、連座 7.密接な関係、かかり合い」とありました。
辞書的な意味を調べた限りでは、スズキの叙述における「連累」の正確な意味がつかめませんでした。
スズキの文脈に戻って取り敢えずまずわかるのは、スズキは「連累」は「歴史責任」よりも広いと捉えていることです。そのあとにドイツ人、日本人、イギリス人の例が出てきて、スズキは1945年以降生まれのこれらの国の人びとに戦争についての「法的責任」「原因責任」「責任」はないと言っています。
そしてそれに続いて、上記のような責任はないけれども「あとから来た世代も過去の出来事と深く結びついている。」とスズキは延べ、その理由として堀川も引用している一節、「あとから来た世代は、歴史上の暴力や弾圧の行為をひきおこした責任こそ免れるかもしれないが、多くの場合そうした行為の結果としての恩恵をうけている。」が出てきます。ドイツの大企業、日本の鹿島建設、三菱重工が例示され、「こうした企業の成功の恩恵をうけた人たちは、間接的に、歴史的暴力から得た富の受益者になる。」と述べられます。戦時中に朝鮮中国の人びとを強制労働で搾取した鹿島や三菱がその後戦後経済復興の中心を担った。具体的に戦後の日本人が鹿島や三菱からどのような、またどの程度の恩恵を受けたのかはわかりませんが、二社はあくまで例示であって、侵略戦争に敗れた日本がその戦争を推進した社会勢力を温存したまま戦後復興を遂げてその利益を多くの日本人が享受しながら生きていることは事実でしょう。
う。
そしてスズキはさらに、「もっと広い意味でも過去への“連累”がある。今いきているわたしたちをすっぽり包んでいるこの構造、制度、概念の網は、過去における想像力、勇気、寛容、貪欲、残虐行為によってかたちづくられた、歴史の産物である。こうした構造や概念がどのようにしてできあがったのかはほとんど意識されない。しかし、わたしたちの生は過去の暴力行為の上に築かれた抑圧的な制度によって今もかたちづくられ、それを変えるためにわたしたちが行動を起こさないかぎり、将来もかたちづくられつづける。」、そして、「過去の侵略行為を支えた偏見も現在に生きつづけており、それを排除するために積極的な行動にでないかぎり、現在の世代の心のなかにしっかりと居すわりつづける。そうした侵略行為をひきおこしたという意味ではわたしたちに責任はないかもしれないが、そのおかげで今のわたしたちがこうしてあるという意味では“連累”している。」と述べます。
何と何が「連累」しているのか? 私にはまだはっきりしたイメージで捉えられないのですが、ともかくも私たちが「過去における想像力、勇気、寛容、貪欲、残虐行為によってかたちづくられた、歴史の産物」に対して意識的であるべきこと、こうしたものの中のたとえば「過去の侵略行為を支えた偏見」に対しては、「それを排除するために積極的な行動にで」るべきだと訴えかけていることはわかりました。
過去の戦争をはじめとする侵略・略奪行為の結果が現在における国家の経済発展に結びついているという意識を持つこと。そのことをどう捉えたらよいかという問題に向きあうこと。《自分に加害責任があるか》ではなく(それは「ない」と考えてよい)過去から現在、そして未来につながる人間の歴史に自分がどうコミットするかを考えることが大事だ―そう言ってしまえばなにかありきたりな結論にも思えてしまいますが、『渡り川』から『過去は死なない』を経て私が今思うことはそういうことになります。
ここまで『過去は死なない』の第1章の一部分だけに的を絞って検討してきましたので、第2章以降の中で私にとって印象深かった部分を紹介してスズキへの言及を締めくくります。
「第六章 ランダム・アクセス・メモリー―マルチメディア時代の歴史―」より。
【サンフランシスコの“科学、芸術、人間理解”のための博物館、エクスプロラトーリアムは、1995年、太平洋戦争終結50周年を記念して、山端庸介の長崎原爆の写真を中心にしたウェブサイトを開設した。山端の写真が17点、ところどころに山端の手記からの引用をはさんで、展示されている。17枚の最後は、瀕死のわが子に乳を飲ませている田中キヲの写真、写真は飾りのない真っ黒な背景に小さめに配置されていて、細部までよく見えるとはいかないが、そのレイアウトからは全面的で徹底した破壊の印象が鮮明に伝わってくる。写真とともに、投下翌日の長崎についての山端の証言をはじめ、さまざまな関連文書も掲載されている。
(中略)
このサイト訪問者の山端庸介の写真にたいする反応は、暴力の使用を熱く糾弾するものから、憎悪もむきだしに原爆投下を正当化するもの(戦争終結に必要だったとするおかしな神話がまだ生き残っていることを示すものも含めて)まで、じつに広範にわたる。しかしなかには、どちらともつかない複雑な感情をいだいた人たちもいた。"Atomic Memoies"に参加した23歳の韓国系の青年は、こう回想している。「わたしは韓国の学校で、第二次世界大戦前と戦争中の日本による朝鮮占領の恐ろしさばかりを教えられました。原爆については、そのおかげで戦争が終わった、日本人が朝鮮やそのほかの国で犯した罪にたいする当然の報いだ、ということしか知りませんでした」。しかし成長するにつれて、原爆の影響が「抽象的な“悪い国”にではなく、焼野原に握り飯だけを持ってとり残されている母と娘のうえに」およんだことを知った、と言い(わたしが男児だと思ったおにぎりを持った子どもを、これを書いた人は女児としている)、こう続ける。「ここにある写真や、核によるホロコーストの映画を見て、子どものころに教わったことと、おとなになった今たどりつこうと努力している結論のあいだに、これまでずっと折り合いをつけられないままです。それは困難なプロセスで、この被害者たちを哀れむのは簡単だし、嘆いたり、非難したり、かわいそうに思うことも簡単です。でもわたしには、相対的正義、歴史の歪曲や削除、といった厄介な問題のほうにもっと関心があります。こうした映像によってわたしのなかにどんな複雑な感情がうまれのか、ということです。その意味で、私の思いを落ち着きなくさまよわせる場として、燃えさかる廃墟を提供してくれたこの展示に感謝しています」(Explatorium 1995)】(P.266-267, 269-270)
全くの偶然ですが、サンフランシスコの博物館のウェブサイトを訪れた韓国系青年のコメントと、私の「1995佐藤レポート」とは、同じ年に発信したメッセージでした。
4.おわりに―教育科学研究会における学びを通じて
いきなり30年前の「1995佐藤レポート」の紹介から始めた本稿ですが、実はきっかけは最近の出来事にありました。私が参加している京都教科研の第370回例会(2025.7.19)と、リモートで参加している都留文科大学『教育』を読む会の例会(2025.7.23)で、ともに『教育』No.954(2025.7)の「特集1 戦争体験の継承と平和教育」が取りあげられました。前者では「特集1」の川満彰「沖縄戦の継承と平和教育」を中心に、また後者では特に検討対象論文を決めずに議論が行なわれました。私は両方の会で「1995佐藤報告」をめぐって発言しました。実際の発言とはずれがあるかとは思いますが、手元に残した京都教科研例会での発言の際のメモを再録します(都留文大『教育』読む会例会でも、ほぼ同趣旨で発言したと記憶します)。
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[京都教科研例会での発言メモ]
戦争非体験者による戦争継承。その際、非体験者にも戦争責任があると考えるのか?
⇒自由主義史観研での高知高校生ゼミ『渡り川』実践報告に出てくる韓国老人の批判への批判
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最近堀川修平『「日本に性教育はなかった」という前に』でテッサ・モーリス-スズキの著書を知る
自分自身の「平和教育」⇒安岡三智さん(幡多ゼミ卒業生)を「総合科目『平和問題』」」に招いた後、授業参加者有志で「三重ビキニプロジェクト」結成。三重県内のマグロ漁船の被爆や伊勢の軍需工場が空襲を受けたときのことなどを調べたことがある。
⇒これは「戦争被害」の側からの学習であったので、驚きや怒りはあっても《加害》の側の発想はまったくない。
ドイツにおける「被害と加害のはざま」(『教育』No.954川喜田敦子論文)⇒ドイツで「加害の学習」はどのように行なわれているか。その中で、戦争加害国の中で《被害》を受けたのは大量虐殺されたユダヤ人はもちろんだが、ゲルマン系国民の中にも被害者はいた。このことを含めて《加害》と《被害》の絡みをどう考えるか。日本ではどうか。
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私自身が三重大学で行なってきた「平和問題」の授業における基本発想は、(意図的にそうしたというわけではありませんが)戦争被害及び戦後の大国による核開発の犠牲者という《被害の側》から問題を考えるものでした。これに対して幡多ゼミのその後の活動から学んだのは《加害》に関することでした。一般論としては《被害と加害の両面から戦争について学ぶことの重要性》はそれ以前からわかっていたつもりでしたが、《自分も加害者の側に立たされるのか?》という問題を突きつけられた時に「1995佐藤レポート」が生まれました。それからちょうど30年。敢えてそこから考えを先に進め、深めようとしていなかったこの問題を、2つの教科研例会への参加をきっかけに考えてみました。
『教育』No.954掲載の川喜田敦子論文「ドイツにおける『追放』の想起」は、知らないことばかりで非常に刺激を受けました。朝鮮中国をはじめアジア諸国を侵略し、連合軍に敗れて占領され、独立後も戦時の強制連行・強制労働という負の遺産を解決できないままに現在に到っている日本の「戦後」もなかなか複雑な要素を抱えていますが、同じく第二次世界大戦の敗戦国であるドイツが、戦後に国を二分されたのみならず、東欧諸国の独立に伴ってドイツ系住民が「追放」されて苦難の道を歩んだこと、さらにドイツ人のみならずポーランド人、ウクライナ人、白ロシア人、ロシア人なども追放・移住を余儀なくされた人びとがいること……これらは私が全く知らなかったことでした。
そして断片的に知り得た事実からだけでも想像できることは、第二次大戦後の混乱・苦難をどのように歩んだかによって、そこから見える歴史(祖国の、自分の)の描かれ方は全く違ってくるのではないかということです。翻って「1995佐藤レポート」において《日本人高校生に抗議する韓国人男性》に強い反発を表明した私も、敗戦の混乱がほぼ収束された1950年代の日本に生まれ、高度経済成長と学歴主義の中での(こう形容するだけでは一面的ですが)生育過程を経験して50代に入った当時の自分の状況に規定されてものを考えていたということであり、そこから逃れることは不可能であるにしても自分の歴史認識についてのメタ認知の必要を意識しながら生きていかなくてはならないということです。
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