66 【アーカイブ17】「男性性」を考える・同(その2)

 以下は2025.11.21及び11.26にFacebookの私のタイムラインと「全国『教育』を読む会」ページ、京都教育科学研究会交流掲示板にマルチポストしたものです。(太字や色文字は、このアーカイブ版で初めて付けたものです。)

 

====================

「男性性」について考える

 2025.12.20の京都教育科学研究会例会では石本日和子教科研副委員長を迎えて「学校の『男性性』を問う」をテーマに学習します。また2026.1.11には京都教育大学で「教科研'26関西大会1月プレ学習会 著者が語る『学校の「男性性」を問う』出版記念シンポジウム ―教室の「あたりまえ」をほぐす理論と実践―」が開催されます。
 『教育』No.946(2024.11)の第1特集「学校の『男性性』を問う」に7編の論稿・報告が掲載され、全部読みました。その後今年夏になって大江未知・虎岩朋加・前川直哉・教育科学研究会編著『学校の「男性性」を問う―教室の「あたりまえ」をほぐす理論と実践』(旬報社 以下「本書」と略記)が刊行されました。予約購入しましたが、先の『教育』No.946特集は読んでいるというアタマがあり、読み始めるのを先延ばししていました(^^;)。しかし、12/20と1/11の研究会の予習としてももう取りかからないといけないと思い、読み始めた次第です。
 「読み始めた」と書きました。正確には読んだのはこれだけです。
 第2章 大江未知 「男性性」の“くびき”をまなざす  (2回読みました!)
 はじめに
 あとがき
 第1章 前川直哉 なぜ「学校の男性性」を問うのか

 これだけで同書について何かを言うつもりはもちろんないし、「学校の『男性性』」について自分の意見を語れるとも思っていません。ただ…
 《男性性》という語をいつ知ったか定かでなく、たぶん教科研の活動の中で数年前に知ったのではないかと思うのですが、知った時から《男性性》という語についてずっと違和感を持ち続けています。私の不勉強による部分も多々あると思うのですが、それだけなのかどうかを確認したい思いもあります。ご意見ご批判をいただけるとありがたいです。
 なおこの投稿では《学校の「男性性」》を取り上げるのではありません。《男性性》という語、概念について思うところを書きます。

 最初に《男性性》という語を知った時、率直に言って《自分が批判・攻撃されている》という感触を持ちました。誰かに直接そう言われたわけではなく自分で勝手にそう思ったのであり、《誤解だ》《思い過ごしだ》と言われたらそれまでかもしれません。本書「あとがき」でも大江さんが「男性教諭を責めているのではなく」(P.179)と書かれており、《学校の「男性性」を批判する》とは《学校に関わる男性を批判する》ということとは違うということは一応文法的には理解できます。しかし自分が《学校の「男性性」》をめぐる議論に参加していくと、《あなたの中にも「男性性」がありますね》と指摘される可能性はあると思います。でも現実にはそういう批判に直面していないのに《自分が批判・攻撃されている》と思ってしまうのはなぜなのか。それは全くの被害妄想であり、《男性性》批判者への不当な中傷なのか…

 教科研でのこの間の議論とは無関係に、《言葉にこだわる教育学研究者》として敢えて我流に考察してみます。
 「可能性」とは「その事が可能である・こと/かどうか」。「将来性」とは「これから先・発展する(りっぱになる)という見込み」(いずれも新明解国語辞典)。このように(ほんとはもっともっと多くの事例を検討する必要があるのでしょうが)「〇〇性」とは《〇〇であること》とか《〇〇についての状態》みたいなことをあらわしていると私は解釈しています。そうすると「男性性」とは、(学問的議論を敢えて無視して)《男性であること》と解釈することができます。《いやそれはフェミニズムを知らないからだ》《ジェンダー研究を知らないからだ》と批判されるのは覚悟ですが、フェミニズムや社会運動の当事者はともかく、そうでない人は言葉の語義を常識的に辞書的に解釈すると思います。《それは間違いだ、不勉強だ》と言ってみても、そうした常識的語義解釈の流布を止めることはできません。
 「男性性」について私が書いているような《常識的語義解釈》が世間一般に流布しているなどと断定するつもりはありませんが、少なくとも私はそういう語感解釈を持ちました。《「男性性」批判》と聞いて自分が批判されているような気になるのは、つまりは《自分が男であること自体が批判されている》あるいは、もっと言えば《自分が男であることそのものが否定されていないか?》という感覚を持ったわけです。
 私自身のsexualityについて公開の投稿で書くことは本来しなくていいことだと思っていますが、テーマからして避けられないので書きます。私自身は生物学的に男であり、性自認も男です(「男性」と書くと話の雰囲気が「男性性」に寄っていくのでここでは「男」としておきます)。《男であること》は私自身のidentityです。「男性性」批判論者はもちろん、《男には全て「男性性」がある。「男性性」を持つことは男の宿命だ。》とは言わないでしょう。しかし、自分が男であるという自認を持ち、かつ「男性性=男であるということ」という語義解釈を日常用語としては払拭できない私は、どうしても《変えることのできない自分のidentityである「男である」ということを、その不可避の属性を持つ存在であるが故に責められている》という思いを(誰がそう言ったというわけでもないのに)払拭できないのです。

 学問的にも社会運動的にもいまさら無理なことであるのはわかっていますが、例えば「男性性」と言わずにマスキュリニティと言い換えるとか(「女性性」についても同様に)。そんな長ったらしい専門用語が誰もが使う日常用語になり得ないことはわかっていますが、「男性」という存在と「男性性」という概念・システム、「女性」と「女性性」を、用語使用のルールとしては明確に区別した上でその関係を論じてほしいと思うのです。《それはおまえが自らの「男性性」を隠蔽するために口実だ》とどこかから言われることは覚悟しています。しかし、私が生物学的に男性であること、私の性自認が男性であることを誰が否定できるでしょう。《誰もそんなことは言っていない。そうでなくてあなたの「男性性」を批判しているのだ。》ときっと言われるでしょう。しかし、生物学的な性と性自認と様々な文化的イデオロギー的影響の中で形成してきた性に関する諸認識、その他sexualityにまつわる諸々、これを個人の中で截然と区別できるでしょうか。性「別」というカテゴリーが様々な差別抑圧の手段として使われてきたことへの批判はわかりますが、個人のsexuality(何を開示し何を開示しないかも含めて)への他者の対応はもっと丁寧に検討されていいと思います。

 大江さんが身をえぐりながら自らの「男性性」を開示されているのを、共感して読みました。
 引き続き本書を学習して、また書きたいと思います。 

 

====================

「男性性」について考える(その2)

 拙稿「『男性性』について考える」を、Facebookの自分のタイムラインと「全国『教育』を読む会」ページ、京都教育科学研究会交流掲示板http://www3.ezbbs.net/38/kyoukakenkyoto/に投稿しました(2025.11.21)。Fbの2つのページではそれぞれ5名、5名の方(一部重複しています)から「いいね!」をいただきましたが、タイムラインの方に自己コメントとして「できればご意見を。おかしいところはおかしいと。」と書きました(「全国『教育』を読む会」のページにも同じコメントを投稿)が、京都教科研掲示版も含めて今日(2025.11.26)現在コメントはいただいていません。「全国『教育』を読む会」ページはメンバー限定ですが自分のタイムライン投稿は「公開」設定で書いており、京都教科研掲示版も誰でもアクセスできますので、私の投稿に対して何かご意見を持たれてもネット上に書かれるかどうかはまた別の判断があるのかもしれません。でも、もちろんmessengerでもメールでもいいので、ご意見がほしいです。間違っているなら間違っていると指摘してほしい。議論がしたいです。

 さて、11/21の投稿以降、11/22-24に奥美濃に旅行した際の往復のJR車中読書を含めて大江未知・虎岩朋加・前川直哉・教育科学研究会編『学校の「男性性」を問う―教室の「あたりまえ」をほぐす理論と実践―』(旬報社 2025.8.5 以下「本書」)を読了しました。いっぱい学び、考えました。12箇所に付箋を付けています。
 正直まだ説得力あるコメントを述べるレベルに自分は到達していないとも思います。本書で紹介されている「男性性」関連の多数の文献の中で、取り敢えず読む必要があると判断してジュディス・バトラー(竹村和子訳)『ジェンダー・トラブル 新装版 ―フェミニズムとアイデンティティの攪乱―』(青土社 2018)については発注したのですが、まだ入手していません。ただそれらを読むとますます軽々しく発言できなくなりそうな気もするので(^^;)、「一知半解」と非難されるのを覚悟で、本書を読んでいて引っかかった部分を辿り直していきたいと思います。本稿でもやはり、《学校の「男性性」》ではなくて「男性性」という言葉自体にこだわりたいと思います。

 本書第7章虎岩朋加論文「フェミニズムから『男性性』を問う」の中に、私にとってきわめて興味深い以下の記述を発見しました。

 【私たちには「男の子たちにどんなふうになって欲しいのか」ということについての具体的なビジョンが必要だ。支配に基準を置かずに、なおかつ、「男」であるということは、具体的にどのようなビジョンとして示しうるのだろうか。
 難しい問いである。「支配の構造の変化」を臨んでいるフェミニズムにとっても、いかなる「男性性」が求められるのかという問いには、簡単には答えられない。(後略)】(P.171)


 上記引用のうち「男の子たちにどんなふうになって欲しいのか」は、一般的に言って受けて立つことができる問いだと私は思いました(もちろん、《そういう問いを立てることこそジェンダー・バイアスだ》として回答を拒否することもあり得ますが)。しかし後半の「いかなる『男性性』が求められるのかという問い」を立てることができると虎岩氏が考えていることについては、意外に思いました。虎岩朋加『教室から編みだすフェミニズム─フェミニスト・ペダゴジーの挑戦』(大月書店 2023.10.18)を入手済みであるもののまだ読み始めておらず、不勉強であるが故の誤認である可能性が高いですが、本書をそこまで読んだ段階の私の把握は、《「男性性」批判論者にとって「男性性」は唾棄すべきものであり、廃絶を臨むものである。》というものでした。ところが虎岩氏は、《求められる「男性性」》という論の立て方もしています。つまり、虎岩氏においては「男性性」は廃絶すべきものではなくて、それどころか《あるべき「男性性」》を定立することが可能であるということです。もちろん虎岩氏はそれは「難しい問い」だとしていますが、以下のように試論的に(だと私は読みました)提起をしています。

【「権力と特権を手放させる」というような、持っているものを取り上げることを目指す考え方ではなくて、「自分自身や他者とよくつながる」というような、現状をよりよくするような考え方で、「男性性」のビジョンを示してみることはできないだろうか。】(P.171)

 これは私にとって受け入れ可能性の大きい提案です。《お前が男であること自体が間違いだ》と言われているかのような被害妄想を持たずに「男性性」について冷静に考えていくことができそうです。
 ですがその後虎岩氏は(私の読みが浅いのだとは思いますが)、ベル・フックス、バーバラ・デミング、エーリッヒ・フロム、平山亮、カーラ・エリオットの言説を援用しながら「愛」「愛する」ということに言及し、「『愛するというアート』を手がかりに家父長制を問い直す」(=虎岩論文第6節のタイトル)ことを試みているものの、読みが浅い私にはその試みが「男性性」をどう捉え直すことにつながっていくのか、腑に落ちません。虎岩論文の最終第7節のタイトルは「フェミニズムの方法が学校で「愛するというアート」の練習を可能にする」であり、そこで虎岩氏はCrawberry, Sara L.,Lewis, Jennifer, E., Mayberry, Maralee(2008) Introduction―Feminist pedagpgies in action: Teaching beyond disciplines, Feminist Teacher, 19(1), 1-12 を援用しながら【「家父長制を問題とみなし、性差別をなくすこと」を念頭におくフェミニズムは、この「アート」としての「愛する」を養い育てるペダゴジー(教育の方法)を提示できるのではないか】(P.176)として3点を指摘していますが、それは《学校の「男性性」》を突き破っていくための方略であり、本書のテーマからしてそれは当然のことなんですけれども、それで結局「男性性」自体はどうなるのか? その点については虎岩氏はあくまで慎重で、論文の末尾は以下のように締めくくられています。

【フェミニズムのペダゴジーの実践は絵空事ではない。フェミニズムのペダゴジーを実践する教室は、人々が互いに関係し合い、そして「男性性」についての異なるビジョンを生み出す方法の探求を始める、理想的な場の一つなのである。】(P.177)

 つまりは、新たな「男性性」ビジョンは未発であり、しかし論をこねくり回すことではなく「フェミニズムのペダゴジーを実践する教室」において今後生み出されて行くであろう、ということですね。虎岩氏は実践に先立って新たな「男性性」を予見することはしませんでした。


 さて、自由な議論から生み出された本書において、《学校の「男性性」》批判という立場は一致していても、論者相互に「男性性」概念を統一する作業は行なわれなかった(各論者の独自性が尊重された)ようです。大江未知さんは「あとがき」で【この本を読んでくださった皆様は、すでにお気づきだと思うが、著者はそれぞれの立場から、自分の言葉で「男性性」について書いている。矛盾もある。考え及んでいないところもあるだろう。(後略)】(P.182)と書いておられます。もちろんそれはそれでいいと思います。だけど、そこから違いは違いとして明確にした上での新たな議論が発展しないとそれぞれに違う意見を発信した意味がないと思います。その点は今後の著者グループの活動に期待します。


 序章「なぜ『学校の男性性』を問うのか」で前川直哉氏は以下のように述べます。

【ただし、「男性性」という言葉が、やや分かりづらい言葉(そして実は、ジェンダー研究においても比較的取扱いの難しい言葉)であるという点が、こうした疑問や批判の背景にあることも事実だろう。】(2.「男性性」とは何か P.12)

【男性性研究全般においてそうであるように、本書に置いても「男性性」という語の用法は、筆者によって必ずしも統一されているわけではない。大まかには、先述の「性別に応じて期待されるパーソナリティ特性」あるいは「「男とはこのようなものであるという一般的理解」といった定義が共有されてはいるが、細部は異なる部分もあろう。だが「男性性」概念を何のために使うかという目的は一致している。それは学校における「男性性」の実践を問い直すことで、学校の、そして社会全体のジェンダー不平等を検証し、改善するためである。】

 読み方がひねくれているかもしれませんが、私には上記の前川氏の説明は《学校改革・学校関係者の意識改革の闘いにおける「男性性」概念の操作的意義を重視して、定義の曖昧さ、不統一には目をつぶる》と言っているように読めます。


 菅野真文第6章「トラブルとしての異性装 3.生きさせられる性別二元論」では、以下のように述べています。

【しかし日常生活を振り返ればわかる通り、わたしたちは自分の、あるいは他人の性を判断するとき、わざわざ名簿を確認する必要はない。性差が現れた制服を着ていない場合でも、他人の性を判断することができる。
 その根拠はと問われて、すぐに思いつく答えは、「身体的な特徴によって」であろう。それは一理ありそうだが、果たして、判断に活用している「身体的な特徴」とはいかなるものであろうか。たとえばそれは、染色体ではありえない。染色体の情報は、日常生活において目にすることはない。男女を区別する際に大きな違いであるとされる、他者の外性器を見ることも、極めて稀である。実際には、髪やひげはどうなのか、顔がどのようなものなのか、持ち物はどうか、身長や体格はどうなのか、声色は、態度は……といったことから判断しているだろう。そしてその判断は、多くの場合、瞬時に無意識におこなわれている。
 こうした考察から明らかになるのは、男女二元論に基づいて生きさせられているわたしたちが、その区別をする場合、その区別の根拠は、本質的で固定的で明確なものではないということである。むしろそれは、たいていの場合、女性は髪が長く男性は短髪であるとか、髭を生やしているのは男性であるといった、日常生活で出会う実例の蓄積を参照しておこなわれるといえる。
 つまり性の区別は本質的なものではなく、構築されたものであり、明確なものではなく、実は曖昧なものである。こうしたジェンダーの構築性について、哲学者ジュディス・バトラーは次のようにいう。

 ジェンダーの表出の背後にジェンダーアイデンティティは存在しない。そのアイデンティティは、その結果だと考えられる「表出」によって、まさにパフォーマティブに構成されるものである。(バトラー2018、58-59頁)

 ここで語られているのは、バトラーが導入した「ジェンダー・パフォ-マティヴィティ」という概念である。バトラーのいう「パフォーマティヴィティ」とはどのような意味であるか、藤高による簡明な解説を参照しつつ確認しよう(藤高2024、74-79頁)
 ジェンダーとは、「生来の本質」が外側に表出されたものではない。その反対に、外側に現れる行為を通じて、「生来の本質」なるものがあたかも最初からあったかのように捏造されていくものである。(後略)】(P.137-138)

 この部分については、発注中のバトラーの文献、さらにそれを解説した藤高の文献を精読した上でないとコメントの資格がないのかもしれません。それをする段階で自分の解釈の誤りに気づいたら率直にお詫びと訂正をするとして、現時点では菅野氏の上記の言説を読んだ段階での率直な感想を書くと、まずバトラーを引いて述べられている部分については、ジェンダーの定義を確認してからコメントした方がいいのかもしれませんが、仮にジェンダーを個人の属性と見なして語られているのであればという前提で、異論があります。ここからは勝手に自分に降りかかる問題に置き換えて論じますが、要するに上記の主張は私に対して《おまえが自分は男であってだからこうこうだと認識しているのは、お前のオリジナルではけっしてなく、成長過程で社会から刷り込まれたものに過ぎない。「佐藤年明は男である」というのはあとからインプットされた幻想で、なんらおまえの「生来の本質」ではない》と言われているように受けとめました。
 また前半部分の男女区分の認識については、《佐藤が自分は男だと認識しているが、その場合の男である自分と女との「区別の根拠は、本質的で固定的で明確なものではない」のであり、男だという認識が正しい・正当だ・妥当だとは誰も言えない。》と言われているように受けとめました。もちろん菅野氏の議論は《男女の区別》をめぐるものであり、《二分法・二元論は正しくない》と言うための論述だとは思います。
 しかし、(ここはバトラーに学んだ上でコメントすべきですが)あくまでも後天的に構築されたもので「生来の本質」などではないという《ジェンダー》は、生物学的な特質としての《性》とはどう関係するのか? 生物学的な特質としての性と性自認が一致する場合も、一致しない場合も、明確でない場合もありうることは私も知っています。そういう意味で生物学的な性別を無批判に自らの性の認識のもっとも土台に置く考えはmajorityの不見識・傲慢だというのもわかります。しかし、です。cisgenderである男の性自認は「生来の本質」では全くなく、《体は男、心も男、として育てられ、その方向での世間の風だけを受けてきたから後天的に形成されたもの》なのでしょうか? 性別違和である人が生物学的性別ではなく自認の性に従って生きたいという意思を周囲も尊重し支援する必要はわかっているつもりです。しかしmajorityであるcisgenderの認識は、後天的に形成された性別意識を反省し、懺悔し、そこから脱却しないことには来るべき《多様な性に寛容な社会》で生きる資格はないのでしょうか? 《自分は男だ》と認識し、表明することは、家父長制社会のイデオロギーに毒された、単なる偏見なのでしょうか?

 すでにあちこちから反論の手が上がってきそうなので(いや、そのことをむしろ希望しています)このあたりにしますが、仮にいろいろな論点で「おまえは間違っている」「偏見だ」と言われたとしても、そしてそのとおりだと思ったら率直に認めるとしても、自分の中で最後まで守りたいのは、《自分は自分であること》です。自分の存在を否定されたくない。もちろん私の存在を物理的に否定するような人は周りにいませんが、存在の基盤そのものを否定されたくありません。
 ヒトという種が両性生殖を行なう動物であるから生物としてオスとメスの区分があるのだと思います。この区分抜きに一人の人間が「私は男だ」と認識することはありえません。そしてこの区分の《社会的展開の歴史》の中でさまざまな抑圧があり、それへの批判も行なわれてきました。その歴史と現実を無視することはできません。
 しかしそれでも、私にはその《区分》の視点でのみ自分のidentityが問われるということは我慢できないのです。《あなたは様々なgender biasのシャワーに晒されながら70年以上も生きてきたのだから、どう言い訳したってその影響からは逃れることはできない。》と言われたら、《そうですね。そうかもしれない。》と答えるでしょうが、あたかもそれで私の71年の人生とその中で形成してきた人生について全てわかったような気にならないでほしい。いや、決めつけるのは自由だけど、そこに言われるものは私ではない。《私の像》は私にしかつくれないのです。

 何を一人で、誰と闘うために書いているのか、これまでの人生で家父長制的社会とgender biasによって苦しめられ、その中でも声を上げて闘ってきた人たちが意思表示しているのに、何を水をかけるような議論をするのかと言われるだろうと思います。でも、虐げられた側、苦しんできた側に共感し、支援し、共闘することが大切なら、その共感・共闘・支援の立場に立つ側の人間のidentityについても丁寧に処遇してもよいのではないかと思います。虎岩論文だけを根拠に言うのは我田引水かもしれませんが、家父長制的イデオロギーにおける「男性性」を批判する人の中にも、それでは新しい「男性性」とは何かを模索している人もいるわけです。他の論者のご意見はわかりませんが、少なくとも虎岩論文では「男性性」は《打倒の対象》とはされていません。ということは(ここは私の勝手な解釈ですが)自分が男であるということをidentityの不可分の側面として大事にしたいと考えている私のような人間も《打倒対象》としていない「男性性」批判論者もおられるということです。そのことに対話の希望を繋ぎたいと思います。 

コメント

このブログの人気の投稿

52 教育学文献学習ノート(39)浦田直樹「『人間のぬくもり』を生み出す教育実践―秋桜高校の実践記録―」(日本臨床教育学会編集『臨床教育学研究』第13巻)

59 戦後世代に「加害責任」はあるのか?―『渡り川』(1994)と『過去は死なない』(2014)から考える

57 animal welfareについて―2025教科研全国大会「道徳性の発達と教育」分科会・渡部裕司報告から考える―