72 かつて勝田守一先生が住んでおられた若王子(にゃくおうじ)を訪ねる

  吉益敏文先生(前教科研副委員長)、佐藤広美先生(前教科研委員長)と3人で、「勝田守一教育学ゼミナール」を約2年前からリモートで続けています。次回2/18の第13回ゼミでは勝田守一著作集7『哲学論稿・随想』に収録されている「デカルトと良識」(『山脉』1938年10月号所収)を読むことになっています。
 これに関連して戦前期の勝田の研究活動に焦点を当てた桑嶋晋平『勝田守一と京都学派 初期思考の形成過程と忘却された思想の水脈』(東京大学出版会 2021)を読み始めているのですが、同書の序章が「若王子の勝田守一」と題されていて、そこで勝田の随想「若王子の和辻先生」(和辻照編『和辻哲郎の思ひ出』1962年 勝田著作集7所収)のことが紹介されています。

 若王子(にゃくおうじ)とは、京都市左京区若王子町のこと。
 僕は約7年前にふるさと京都に戻ってきて以来何度となく疎水分線べりの「哲学の道」を歩きましたが、その南端あたりにある若王子神社はまだ訪れたことがありませんでした。
 勝田「若王子の和辻先生」には、次のように書かれています。

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 先生のお宅は、東山の若王子のこんもりと茂った樹立の間を適度の勾配になっている細道を登っていった小高い場所にありました。若王子の入口には、疎水に石橋がかけられ、疎水をちょっと上(かみ)にいくと、少し広くなった個所があり、夏などは樹々の緑を映していました。当時はこの疎水に沿った道は、人通りも少なく、下って黒谷の上から法然院の下に出て、銀閣の方に通じている散歩には恰好な「哲学者の道」でした。時折、大学の先生たちの散歩をなさる姿をここに見かけたものでした。先生のお宅は、さらにそこから若王子の前を通って上に登ったところですから、いろいろな種類の小鳥も鳴いていましたし、樹々の葉と幹の匂がするような静かな場所でした。そして、遠く、当時はまだ数も少なかった自動車の響笛が、時折、下の京都の街から樹の間を洩れて聞えてくるのが、いっそう静けさを感じさせました。
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 今朝は8時半頃に自宅を出てから1時間ちょっとくらいかけて哲学の道を北から南まで歩きました。途中の法然院、安楽寺、大豊神社などはこれまでに訪ねたことがありますが、若王子神社は初めて。

 哲学の道の南端を左折して「にゃくおうじばし」を渡ります。



 右側の欄干に「平成五年三月竣工」とあるので、和辻や勝田が渡った橋ではなく新しくかけ直されたもののようです。
 勝田は「当時はこの疎水に沿った道は、人通りも少なく、下って黒谷の上から法然院の下に出て、銀閣の方に通じている散歩には恰好な『哲学者の道』でした。」と書いています。黒谷は現在では4車線道路の白川通りを隔てた西側に位置し、金戒光明寺という大きなお寺があります。勝田は「黒谷の上から法然院の下に」とさらっと書いていますが、当時は間に大きな道路もなく、白川を挟んで小さな丘から小さな丘へというイメージだったんでしょうか。

 哲学の道の名称については、「哲学の道はもともと、1890年(明治23年)に琵琶湖疏水が完成した際に、管理用道路として設置された道である。当初、芝生が植えられている程度の道であったが、ここを歩いて通行する人々が増えていった。明治の頃、文人が多く住むようになり『文人の道』と称されていた。その後、京都大学の哲学者・西田幾多郎田辺元らが好んで散策、思案を巡らしたことから『哲学の小径』といわれたり、『散策の道』『思索の道』『疏水の小径』などと呼ばれた。1972年昭和47年)、地元住民が保存運動を進めるに際し、相談した結果「哲学の道」と決まりその名前で親しまれるようになった。」(Wikipediaより)とのことです。勝田が和辻を回顧する随想を書いた1962年の頃には、まだ呼び名が固定していなかったようで、勝田は「哲学者の道」と書いています。

 さて、哲学の道を離れて、若王子神社の境内へ入っていきました。



 由来を説明する看板によると、若王子神社は正式には「熊野若王子神社」、「若王子」とは天照大神の別称「若一王子」に由来するそうです。応仁の乱で荒廃した後秀吉が復興。現在の社殿は1979年に改築されたもの。
 初めて参拝したので、和辻邸探訪は後回しにして本殿の上にある瀧宮神社へ。


 せっかく来たので、あと70mなら上れると思い、さらに上の千手の滝不動尊へ。

   
 小さな滝が流れていました。ここで引き返し、本殿の近くまで降りてきました。
 勝田は、「先生のお宅は、さらにそこから若王子の前を通って上に登ったところ」と書いています。「若王子」は神社本殿を指すと思われます。上から降りてくると、本殿への道から右に逸れる階段道がありました。


 「桜花苑」という看板が見えます。
 行く前にネットを検索して以下のような記事を見つけました。

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文化遺産オンライン 「蜜語庵」 https://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/177016

京都府
明治/1868-1911
木造2階建,瓦葺一部銅板葺,建築面積179㎡
1棟
京都府京都市左京区若王寺町67
登録年月日:19980902
登録有形文化財(建造物)
解説
若王寺神社境内に隣接する広大な敷地に南面して建つ,上質の瀟洒な数寄屋造の住宅。中央に玄関部を置き西側に居住部分,東側に茶室や客室を配する構成になる。原三渓の番頭古郷時侍の旧宅で,後和辻哲郎や岡崎桃乞が居住,現在は哲学者梅原猛の居宅である。
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 スマホのmapに上記住所を入れると、階段の上の方を案内しています。登っていくと右側に古い住宅がありました。上記HPの説明では「密語庵」という屋号があり、和辻哲郎が住み、現在は梅原猛先生の居宅とあります(梅原先生は2019年に亡くなっています)。
 今も個人のお宅なので、階段道の写真と背後から屋根だけ写っている写真を載せておきます。


 坂を登り切ると、開けた場所に出ました。


 まだ冬枯れですが、桜の木のようです。看板を見ると、「陽光桜」とあり、かつて青年学校教師として若者を戦地に送り出した高岡正明さん(1909-2001)が教え子の鎮魂と平和を願い、教え子の落命の地にも適応できる品種を30年かけてつくり出したそうです。熊野若王子神社では1998年に陽光桜の植樹をおこないこの場所を「桜花苑」と名付けました。
 階段道を上り始めたとき、「密語庵? 桜花苑?」とわけがわからなかったのですが、坂の上まで来てわかりました。
 私たちは「勝田守一教育学ゼミナール」で若き日の勝田が、日本が戦争へと突入していく時下にあって戦争協力の言説を転回したことを戦後の研究者人生において重荷として背負い深く後悔していたことを学んでいます。その勝田が京都帝国大学学生として若き日を過ごしたこの若王子に、勝田との重なりはないですけれども今は戦没学生を追悼する桜が植えられているということを知り、心が動かされました。

 さて、勝田の「若王子の和辻先生」にはこうも書かれています。

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 そのころは、卒業論文を書くために、嵐山の天竜寺の一寺に私は下宿していました。学校へあまり出ない学生にはそう不便なところでもありませんでした。しかし、京都の西の果てから、東山までは少し距離がありすぎましたので、洛東の方へ移ろうかと考えるようになりました。ちょうどその折、先生の奥さんから、若王子の神官(伊藤氏)の家の離れが空いているから来ないかというお話がありました。そこは、素晴らしい眺めのきく場所でした。先生のお宅へ通じる小径の途中から左へ折れて草みちを下ると神社の上の台地になっているそこに建っている四畳半二間の離れでした。そこからは、岡崎や都ホテルの方まで見渡すことができました。私はそこが気に入って、自炊生活をはじめました。あとからは、新たに大学へ入ってきた高校の後輩の妻木君が同居することになりました。
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 旧和辻邸への階段道を上がるとき、左への道がないか注視していましたが、結局わかりませんでした。本殿まで降りて、思い切って売店の方に尋ねてみたんですが、梅原邸のことまでしかわかりませんでした。上記の文を読み返して、本殿の横にあった神社の方の居宅らしい建物にはたしか「伊藤」という表札があったように記憶します。そのお宅にまでお尋ねをする勇気はありませんでした。何のゆかりもない人間ですから。

 以上が僕の若王子紀行記です。分野は違うけれども京大の大先輩であり、僕が教育学研究の道へ進んだ頃にはすでに他界されていた勝田守一先生の、若き日の足跡の一部を辿ることができてよかったと思います。

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