9 教育学文献学習ノート(25) 藤原辰史『縁食論 孤食と共食のあいだ』(ミシマ社)

                   (2020.11.22刊行 2021.7.13-2022.2.8通読 2022.2.9-13ノート作成)

 昨夏から断続的に読んできたんですが、読むほどにどんどん引き込まれ、もっと一気に読み進めたらよかったと後悔しています。ジャンルとしては教育学関係書ではないため、当初はfacebookの「読書ノート」シリーズとして投稿しようと考えていましたが、長くなりそうなのと、教育学研究者としてきちんと読んだ記録としたいので、「教育学文献学習ノート」シリーズに入れることにしました。

 本書との出会いにはちょっと前史があります。私が40年以上所属している教育科学研究会の第59回全国大会が2021.7.31-8.2に奈良市現地とzoom配信のハイブリッドで開催されました。初日の記念講演「子どもの商品化に抗する思想」の演者が本書著者の藤原辰史氏でした。私はこの初日だけは奈良県文化会館まで聴講に行きました。
 大会に先立って、私が所属する京都教育科学研究会の7月例会で記念講演と同タイトルの藤原辰史論文「子どもの商品化に抗する思想」(『教育』No.907 2021.8)を学習することになっていたので、そこに向けて、
 教育学文献学習ノート(21)藤原辰史「子どもの商品化に抗する思想」(『教育』No.907 旬報社 2021.8)
と題するコメントを書き、facebookや京都教科研の掲示板に投稿しました。
 教科研全国大会では、せっかく現地まで行って藤原講演を対面で聴いたので、講演後の質疑の時に上記「ノート(21)」の一部分をもとに質問をし、お答えをいただきました。また演終了後に上記「ノート(21)」及び関連文献を藤原氏にメール送付し、藤原氏からも3回にわたって丁寧な返信をいただきました。
 藤原氏とのやりとりは、私にとって大変貴重なものとなりましたが、私信ですのでここに紹介することはできません。上記「ノート(21)」はfacebookに公開設定で投稿しましたが、もう過去のタイムラインに埋もれてしまっていますので、本日私の「佐藤年明私設教育課程論研究室のブログ」に【アーカイブ】として再度投稿しました。以下からお読みいただけます。
  https://gamlastan2021.blogspot.com/2022/02/8-0121no907-20218.html

 上記ノートは、藤原辰史論文(2021.8)の「育てるとは、子どもの人格を作り上げていくことではない」「人格は形成されるのではない」という言葉に衝撃を受けて書き始めたものです。「人格形成」は民主主義教育学の、いや教育学一般においても中心概念であると長年考えてきたからです。
 この論点について書き始めると、上記「ノート(21)」の繰り返しになってしまうので、これ以上は触れません。ただ、本書の学びにつながる部分として、「ノート(21)」の末尾の一節だけを紹介させて下さい。

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(5)
 ただ、これまでの論点から全く離れてしまうのですが、藤原論文には、私にとって非常に魅力的な以下のようなフレーズが散りばめられています。

【子どもという複雑な存在を、この、生物と鉱物とチンプンカンプンな謎で張り裂けそうな世界に向けてほどいていく】(P.6上段)

【誰かの手にしがみつきながら、誰にも検索されることのない世界の中で、思う存分迷うこと】(P.6下段)

【鉱物と生物があふれる世界では、「大事なものが欠けている」という不思議な見方はしない。「欠けている」ということは、別の存在とのあいだで何かが起こるきっかけでしかない。】(P.9上段)

【欠けているのではない。失っているのではない。場を作っているのだ。寄り添う場所を形成しているのだ。健常者は、足のない生が生きられない、目の見えない生が生きられない、という意味で障害者でもある。】(P.9下段)

【育てるとは、組み立てていくことではない。子どもに傷がついていくことだ。子どもが無傷なまま、ツルツルの表皮と頭脳で、商品のように陳列室に置かれることを、どうして大人は望むのだろうか。】(P.10上段)

【欠けていくことも、落ちていくことも、誰もが経験することであり、老化とはその速度が上がっていくことにほかなあない。重力と老化から私たちは自由になれない。いや、重力と老化という自由を楽しむことが、人の生ではないか。】(P.10下段)

【壊れていることや割れていることを前提にして、なんとかやりくりしていくこと。傷口をチャーミングポイントに変えていくこと。これを育てるというのではないか。】(P.12下段)

【作ってばっかりでは疲れる。ほどいたり、崩したりしなければ、息が続かない。和服はほどくことが簡単だ。再利用できることがすでに組み込まれている。それと同様に、崩されることを、作ることの前提として考えなければならない。壊れないものを作ってはならない。】(P.13上段)

【子どもは実は壊すことが好きだ。】(P.13下段)

 ほどくこと
 崩すこと
 迷うこと
 欠けること
 傷がつくこと
 落ちていくこと
 老化すること
 壊れること
 割れること

 これらの、世界のなかで、日常生活の中では普通に起こっていることを、教育の世界ではタブー視してこなかったでしょうか。タブーとまでいかなくても、価値を置いてこなかった、あわれんできた、あるべきでないことと退けてきた……とは言えないでしょうか。そこにこそ意味があるという藤原氏の指摘にはっとし、魅力を感じるのです。
 自分の既存の教育学的認識とまだ折り合い、調整をつけるには至っていません。
 ただ、自分の中に全くなかった発想だとは思いません。(後略)
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 自分の貧しい教育学的認識の「窓」から藤原氏の主張を「評価」しようとするのではなく、謙虚に学びたいと思います。藤原氏は膨大な著作を発表されていて、その全てはもちろん、多くのものを学ぼうとしても残りの人生の中で間に合わないと思いますが、せめて本書と、続いて『給食の歴史』(2018)からだけは学びたいと考えています。

 【本書は、2014年から2020年まであしかけ7年にわたって、ミシマ社の雑誌『ちゃぶ台』や『みんなのミシマガジン』のほかに『大人ごはん』、『ARDEC:World Agriculture Now』で執筆したエッセイのアンソロジー】(P.186)であり、その構成は、以下の通りです。

第1章 縁食とは何か-孤食と共食のあいだ
 孤食の宇宙
 しわ寄せ引き受け装置
 共食という袋小路
 子ども食堂の「弱目的性」
 ベーシックインカムと食堂
 炊き出し
 「縁食」という食のあり方
 縁食の使用例
 「かざぐるま」としての縁食
第2章 縁食のかたち
 1 公衆食堂の小史
    食をめぐる関係性の貧困
    きっかけは第一次世界大戦
    文化が集積する場所
 2 食の囲い込み
    「家族愛」という罠
    囲うこと
    近代家族とちゃぶ台
    学食のパーテーション
 3 食の脱商品化考
    食べものに値段がなかったら
    五つの問題を乗り越える
    メカニズムを保つために捨てられる食品
    食べものの特質から考える
第3章 縁食のながめ
 1 弁当と給食の弁証法
    弁当の魅力
    弁当の暴力
    給食の暴力
    弁当と給食の弁証法
 2 無料食堂試論
    思考の風景
    ムラサキシキブの食堂にて
    飢餓と関係性
    食をめぐるアイディア
    有機認証のいらない有機農作物
    アテネのアゴラ
    インドの無料食堂
 3 縁側のタバコ
    おやつの時間
    縁側の力
    オフィシャルでもなく、プライベートでもなく
    縁食の縁
第4章 縁食のにぎわい
 1 死者と食べる
    死者のおむすび
    大尉の銀シャリ
    中国人のトウモロコシ
    死者との縁食
    死者とともに食べる
 2 食を聴く
    せんべいの音
    胎児の聴く音
    こすり合う音
    縁食の音
 3 縁食の祭り-『ポースケ』に寄せて
    言葉を飲み込む
    佳枝の場合-睡眠障害者の居場所
    ヨシカの場合-誰かの薄い気配
    ポースケ-縁食の祭り
    別れ
第5章 縁食の人文学
 1 「もれ」について-「直耕」としての食
    生命の動詞、「洩る」
    昌益の「土と内臓」論
    「もれ」の効用
    基本的に食べものは「あまる」
 2 パンデミックの孤独-「居心地のよい空間」をめぐる人文学
    パンデミックが機能させないもの
    ひとり親の声が示す社会の脆弱性
    シングルマザーの言葉の有用性
    「サードプレイス」について
    「サードプレイス」はひとり親を排除するのか
    アウシュヴィッツの縁食
あとがき


 私は本を読むとき、(小説などは別として)心に残るフレーズをラインマーカー(主体として黄色、特に大事と思うときは青、データとしてチェックしたい部分は緑、など)でなぞります。ここでは、黄色でなぞった部分を中心に必要な場合には前後に広げて、文章を拾い上げていきたいと思います。自分の心のままに、なので、藤原氏の行論・文脈をきちんと追うことはできませんが、御容赦下さい。


第1章 縁食とは何か-孤食と共食のあいだ
共食という袋小路

【共食とは、狭義には、神に供えた食べもののおこぼれを、その神をあがめる共同性の構成員たちがシェアする儀式の形態を意味し、広義には、共同体の構成員で同じテーブルを囲んで食事することを意味する。
 共同体という言葉を用いたのは、共食という概念が人の集まりとして親密である状況を説明することを強調したかったからである。家族、親戚、集落の構成員、場合によっては親友などが、同じテーブルを囲んで、同じ食べものを食べ、ゆっくりと時間を共有する。あるいは、そういった集団のなかで、あるものを食べないという決まりを持つ。とりわけ後者、すなわち食のタブーは宗教集団で重要な役割を果たす。「ともに食べること」と「ともに食べないこと」が、共同体の絆を深める機能を持つことは多くの人類学者や社会学者によって指摘されてきた。
 こういう学的背景も手伝って、私たちはしばしば孤食を克服する概念として共食を置いてきた。しかし、あまりにも私たちは共食に期待をかけすぎていないだろうか。こころとからだに痛みを覚えながら、それでもひとりぼっちで食べざるをえない子どもたちに居場所を与えるヴィジョンとして、あまりにも一家団欒というイメージに拘泥しすぎてこなかっただろうか。端的にいえば、孤食という険しい山を登り切ることができる集団は、家族だけなのだろうか。】(P.17-18)


子ども食堂の「弱目的性」

【湯浅誠が繰り返し述べるように、子ども食堂は、貧困家庭の子どものためという目的だけで成り立っているのではない。地域の交流活性化(もう少し砕けた言い方をすればダベり場)という目的も重要であり、これらの「二本足」で立つ実践だ、というところが興味深い。「縁食」がはらむ弱目的性と解放性を、子ども食堂は見事に体現しているからだ。「弱目的性」というのも私の造語だが、目的をあえて強く設定せず、やんわりと複数の目的に目配せしながら大きく広く構えてみる、という程度の意味である。ちなみに、このような思考や構えというのは、AIよりも人間のほうが格段に優れていると私は思うのだが、この問題についてはここでは立ち入らないでおこう。】(P.19)

【子ども食堂にみられるような家族の枠を超えた食のあり方は、人と人の交わる公共空間を活発化し、さらに創造していくポテンシャルを内包している。食べものを通じた人と人の結びつき方は、宗教や思想とは異なる率直さを持つ。すでに国家が市場経済の補完的役割をかなり強めている現在、国家が公共空間を設定することは、それこそ道徳的になってしまい面白くない。学校の場を離れ、しかも学習塾でもない場所で、人が、ただご飯をおいしく、しゃべりながら食べる、食べさせるという目的だけのために集まる。こんなシンプルな子ども食堂の理念を考えるとき(そこには貧困対策という目的は後景に退く)、じつはもう、孤食と共食というセットの概念はそれほど役に立たない。
 そのあいだにある、もっと別の食のあり方を説明する言葉が必要だ。
 なぜなら、子ども食堂は、孤食というには料理する側と食べる側の交流、子どもたちの間の交流が豊かである一方で、共食というには紐帯がゆるい。来たいときには来て、来たくなければ来ない。共同体意識を醸成するというよりは、食堂に通う子どもたちや大人たちはもう少しドライに、しかし、しっかりとつながっているように思えるからである。】(P.21-22)


ベーシックインカムと食堂

【私は、子ども食堂の存在意義を考えるうえで、「ベーシック・インカム」の議論が参考になると考えている。生活に必要な最低限の金額を、国民全員に与える試みのことだ。財源は、それによって浮いた社会保障費や高所得者への課税の値上げなどが考えられている。(中略)たとえば全国民に一律毎月5万円から7万円支払えば、社会保障制度を解体して一元化できる、という節約の観点から考える人もいれば、ベーシックインカムをひとつの土台として複数の社会保障制度を組み合わせて福祉の充実を図る、という論者もいるし、逆に、ベーシックインカムを与えたとしても、労働運動の脆弱な国では経営側の人件費削減の理由にされる、と警鐘を鳴らす論者もいた。最後の論を私はあまり考えてこなかったと反省した。論者は、非正規雇用労働者の相談を受けるNPO法人POSSE代表の今野晴貴である(「ベーシックインカムを日本で導入しようというならば」『世界』岩波書店、2020年9月、117-125頁)。今野は、ベーシックインカム導入には、以上のような条件のほかに、現物のサービスが伴うことが必要であると述べている。衣食住に関わること、あるいは医療、学習支援などだ。
 私はこの議論を読んで、身体的異変に気づきやすく、ご飯を食べられて、学習支援やコミュニティづくりにも役立つ「子ども食堂」などの公衆食堂は、もしもこれが定常化すれば、必要最低限の人間の生存を金銭だけよりももっと柔軟に支えるものではないか、と思うようになった。いわばベーシック・フード・サービスである。(中略)
 だからもしも、公衆食堂が定常化すれば、いまよりもさらに、「食べるために」働かなくてよくなる。食べるためではなく、もっと精神を鍛錬するため、もっと本を読んで知識を身につけるため、もっと友人たちや家族と時間を過ごすため、もっと山に登り、川を下って自然を知るために働くことが、いや、働く時間を削ることが肯定されるかもしれない。生活のベースを支えるものとして金銭を与えるだけではなく、調理済みの食事がつねにアクセスしやすいところにあれば、さらに、近代社会が私たちに押し付けてきた「仕事」という概念が分解し、再構築されるような気がしたのである。】(P.22-25)


「縁食」という食のあり方

【縁食とは、孤食ではない。複数の人間がその場所にいるからである。ただし、共食でもない。食べる場所にいる複数の人間が共同体意識を醸し出す効能が、それほど期待されていないからである。
 縁とは、人間と人間の深くて重いつながり、という意味ではなく、単に、めぐりあわせ、という意味である。じつはとてもあっさりした言葉だ。めぐりあわせであるから、明日はもう会えないかもしれない。場合によっては、縁食が縁となって恋人になったり、家族になったりするかもしれないが、いずれにしても、人間の「へり」であり「ふち」であるものが、ある場所の同じ時間に亭泊しているにすぎない。これは「共存」と表現すると仰々しい。むしろ「並存」のほうがよい。そんなゆるやかな並存の場こそ、出会いも議論も、ますますSNSに回収される現代社会のなかで、今後あると助かる人が多いのではないか。子ども食堂のユニークさも、この縁食にあるのではないか。ちょっと立ち寄れる。誰かがいる。しかし、無理に話さなくてもいい。作り笑顔も無用。亭泊しているだけなので、孤食を存分に楽しんで、ちょっと掲示板を眺めて、月でも眺めながら帰ってもいい。そんな食のあり方をきちんと説明してこなかったのは、概念いじりを生業とする研究者の怠慢だと私は思うのである。】(P.27-28)


「かざぐるま」としての縁食

【ただし、縁食は、貧困に対し即効性のあるものではない。ましてや、縁食は、セイフティネットを一挙に強化するものでもない。縁食の最大の特徴は、そのゆるやかさとしなやかさである。これらこそ、災害列島でも効力を発揮するはずである。縁食は、困っている人のみならず、困っていると言い出しにくい状況にある人や、困っている現状を把握できにくい人にとっても、敷居がとても低い。しかも、縁食は、融通が利きやすい。相手を見て、メニューを変えることもしやすい。声もかけやすい。毎回の参加を強要はしない。タブー食もないが、タブーのある人間に気配りをすることは比較的難しくない。あくまで宿り木にすぎない。
 地方自治体の課題は、宿り木の磁場を制度化するのではなく、無駄なアドバイスをすることでもなんく、「へり」なり「ふち」なりからサポートすることだろう。恒常性よりは弾力性が必要であるため、解消もしやすいようがよいから、無理に行政計画に組み込むとやっかいである。税金は、つぶれた巨大企業を救ったり、人が公共的な活動をしにくい巨大な公共施設を造ったりするのではなく、こんな縁づくりの試みのために使われると心地よいと私は思う。】(P.32-33)


第2章 縁食のかたち
1 公衆食堂の小史
食をめぐる関係性の貧困

【2019年に発表されたFAO(国連食糧農業機関)の統計では、世界の飢餓人口は8億人弱という数値がはじき出されている。世界の人口が78億人弱であるから、9人に1人が栄養不良のために健康な暮らしを送ることができない状況にある。たしかに、飢餓人口の割合がその四半世紀前よりも半減していることは否定できない。だが、大量の食べものが日々捨てられている一方で、必要な人に食べものが行きわたらない世の中は依然として存在している。
 そして、よく知られているとおり、食費を削らなければならないほど貧困が深刻化している家庭は、日本でも急速に確実に増えている。非正規雇用の割合が増え、給料も減り、失業者が増え、食べられるものが限られ、居場所もなくなる人が増えているというのが現状である。】(P.36-37)


2 食の囲い込み
囲うこと


【家とは、外の雨、雪、風、埃、熱などから内部を三次元的に囲ってできる空間のことである。家とは単に名詞として静態的にとらえてはならない。もっと動態的に、つまり、「囲う」という動詞から考えなくてはならない。これが家の基本である。では、何を囲っているのか。
 第一に、空気を囲うこと。進化の過程で皮膚から毛が抜け落ちた人類は、毛に覆われた動物よりも、雨、風、寒さ、暑さ、砂埃によって体が痛めつけられやすい。疲労も早い。空気を囲うことで、温度と湿度を保ち、風と雨や雪を避け、直射日光を遮り、皮膚の露わになった人類の体を消耗から守らなければならない。
 第二に、寝る場所を囲うこと。人間は、ほかの動物よりも深く寝る傾向にある。寝ているあいだ、人間はなにものかに襲われる可能性がある。敵から身を隠さなければならないことは、もはや意識されない人間の基本的なあり方である。
 第三に、生殖を囲うこと。恥じらいをもっとも強く感じるこの行為は、人目を避けなければならない。性の場所を囲うためには、単純に壁が必要である。
 第四に、火を囲うこと。風や雨から火を守り、火をたやさないこと。こうして寒い夜や冬には暖をとり、湿気を取り、台所ではナマモノを焼いたり、炙ったり、水を沸かしたりするために、火を囲わなければならない。
 ただし、人間は、食は公開する。火のまわりに人が集まる。原始時代から、おひとりさまのシステムファイヤーキッチンが存在していたのかもしれないが、それはレアケースだろう。そこには家族以外の人間が集まりやすいような吸引力が生まれる。火を使い生きものの死骸を変質させて、吸収しやすくしたうえで食べる動物が人間だけであることは、もしかすると、食の公開と関係しているのかもしれない。煙や煤が室内に充満するのを防ぐために、しばしば食は野外でなされた。もちろん、換気の装置は室内の料理を可能にした。しかし、人類が比較的高性能の換気装置を手に入れたのはつい最近であり、しかも、いまなお地域的に限定されている。欧米でさえ、農村では、天火の使用は近代までなされているところも多かった。煙と煤が長いあいだ、地球上の台所の象徴であり、電気とガスがそれから人間を解放しつつあるとはいえ、他方で薪ストーブが人気なのは、火から離れた人間の寂しさのあらわれかもしれない。】(P.53-54)

 ⇒T.Satou:淡々と引用を続けてきましたが(もちろん、「おもしろい!」「興味深い!」「初めて知った!」と思うからこそピックアップしているのですが)、ここで生殖のことが(上記引用の3点目に)出てきました。ここでは家の「囲う」機能を論じているのですが、家が人を囲うということを通じて、「食」と「生殖」が結びついているということが、《人間の性と学校における性の学び》について長年研究してきた私としてはとても興味深いです。もちろん、「食」は家の「囲う」機能の例外として、外に開かれたものとして描かれているのですが、それでも《火を囲う》ことによって《家の中に食を囲う》こともなされてきたわけです。人は家によって外界から身を守り、家の中で食を共にし、そして生殖の営みもしてきました。いや正確に言うと、生殖を度外視して性の楽しみを味わうこともしてきました。だから、避妊技術が普及しない時代には多産、多子の家族が多かったわけです。多子であることが家族の生計を圧迫し、嬰児殺害、間引き、子捨ても行なわれてきましたが、それでも妊娠出産が繰り返されたということは、夫婦にとって(夫にとって、の場合が多かったかもしれませんが)性行動の楽しみは手放せないものだったんでしょう。

 藤原氏は、「恥じらいをもっとも強く感じるこの行為は、人目を避けなければならない。」と述べて夫婦の性行動を家族外の第三者から隠すことについて述べていますが、家族内ではどうだったのでしょうか? 夫婦の性行動は、子どもや老親や、その他一つの家で共同生活をしている他者からも隠される(隠したい)ものだったのではないかと思いますが、近代的な個・自我の確立以前の時代にはまた違ったルールがあったんでしょうか。
 性行動そのものではなくても、例えば母親が胸をはだけて赤ん坊に乳をやる行為。それは一日に何度も行なわれるのでしょうが、たとえば家族全員が集まって食事をするときに、母親もその場にいて授乳することもあったはず。そういう時、母親は胸をはだけることに「恥じらい」を感じて布で覆ったりしたのか、それとも家族の中では授乳行為はあたりまえの日常的光景であって、母親は恥じらいを感じることなく胸をはだけたのか。
 類推に無理があると思われるかもしれませんが、こういう事例を想定してみると、家庭生活・家族生活の中での食と性の繋がりを考えてみるのも興味深いと私は思います。
 藤原氏は本書の末近くでも再び生殖・性の問題を取り上げておられるので、そこでまた論じてみたいと思います。


近代家族とちゃぶ台

【家族的な温かい雰囲気のなかで、外で働く父親がリフレッシュできること、そのなかで家族愛が育まれること、そうした家族の機能は資本主義社会にとって必須の労働力再生産装置であった。つまり、お膳を用い、家族がバラバラで食べ、家族以外の成員も入ってくる、という前近代的な形態から、狭い家でも脚をたたんで収納できるちゃぶ台を使い、核家族が全員集合し、サイドメニューを盛った皿を真ん中に置き、各々がご飯と味噌汁でそれを食べるという形態に変化したのである。(中略)
 現在、家族の構成も多様になりつつあるなかで、家族という、ひとつの人間グループに対し、いつの時代にもまして厳しく吸い取られている労働力の回復の役割だけでなく、育児・介護の担い手、税金の納入者、学校教育の補助という課題がつぎつぎに降りかかり、もはや近代家族モデルでは成り立たないほどにまでなっている。そんななか、ちゃぶ台の拡大、家族以外の人間が座ることのできるちゃぶ台の開発が、かつてなく求められている。】(P.56-57)


学食のパーテーション

【ところが私の身近では、食の「個人主義」は新たな段階に突入したといわざるをえない「事件」が起こった。2013年、京都大学の学生食堂のテーブルの上に仕切りが導入sれたのである。京都大学の時計台のそばにある生協の中央食堂は、いち早くテーブルに仕切りを設置し、見知らぬ人と面と向き合うことなく、ひとりで食べることのできる場所が生まれた。ひとりぼっちで食べられることから、このテーブルで食べることは、俗に「ぼっち食」と呼ばれている。
 私は、ひとりで学食を利用することが少なくないが、どんなに混んでいて、ここだけが空いていたとしても、原則として座らないことで異議を表明することにしている。なぜなら、食べる場所のかたちとして、きわめて不自然だと感じるからである。とはいえ、外見だけをみて批判していてはいけないと反省し、調査の一環として、思い切って座ってみることにした。気づいたことは四点である。
 第一に、食堂に閉塞感が生まれる。パーテーションは、食堂の空気の流れを停滞させる。
 第二に、パーテーションがあるため、かえって孤独を味わうことができない。壁の向こうがどんな人なのか気になり、不思議な緊張感が生まれる。パーテーションの下側は空いているので、相手が何をどのように食べているのかよくわかるし、たとえすべて仕切られていても、食べる音が聞こえるので、覗かれているような気がして余計気になる。たとえば、近くのトンカツ屋や中華料理店などでは相席が普通であるが、相席を拒絶されているような気配さえ漂ってくる。パーテーションという囲いは、雨からも風からも塵からも食べる人間を守ってくれない。ただ、他人の目線から自分を守ろうとする過剰な意識が芽生えてしまい、かえって他人の目線から自由になれていない。他人への関心が弱くなる現代文明社会に対抗するため、わざと他人に関心を持たせるようにこんな設計をしたのではと疑いたくなるほどである。
 第三に、テーブルから上はパーテーションで区切られているが、テーブルから下は区切られていない。私は足グセが悪いので、頻繁に足の位置を変えるのだが、つい前に座る人にぶつかり、驚かせてしまった。顔を合わせていればコンタクトできるが、合わせていないので、謝るにも謝れない。繰り返すが、この中途半端な区切り方が身体的にフィットしていないのである。
 第四に、相席者に声をかける機会がなくなる。もちろん、ほとんどの場合は、相席者とは話をすることはないが、学生食堂であるだけに、知り合いに会う確率も高い。そのとき声をかけるようにしているが、たとえば、パーテーションのある席に座っていると、その本人の意図とは関係なく声がかけづらい。感染症対策になると言う人もいるが、それは後知恵にすぎない。
 世界の大学の食堂で、わざわざ会話を生まれにくくする空間を設計している非学問的な食堂は、おそらく日本だけで、そのなかでも京都大学ぐらいではないか。逆の観点からいえば、ひとりでいる環境をこれだけ不自然に作り上げる場所を見つけるのは困難ではないか。】(P.57-59)


3 食の脱商品化考
食べものに値段がなかったら

【食べものがある。食べものが売られている。
 この二つの文章のあいだに横たわる溝は、とても深い。「食べものがある」という言葉は、食べる行為までの近さを思い起こさせ、聞き手を安心させる。「食べものが売られている」という言葉は、現在から食べるまでの時間的ギャップを感じさせる。食べものを買うだけのお金がある人間には「食べものがある」ことと大きな差異は生まれないが、それだけのお金がない人間には、空腹が満たされないつらさのみならず、目の前にある食べものが食べられない、というもどかしさまでついてくる。】(P.61)

【では、もし、世の中に存在するすべての食べものが商品という着物を脱ぎ捨てたら、どうなるだろうか。無銭飲食が刑法違反にならない社会が今後登場するとはにわかに信じがたいが、この世に想像を規制する法律は存在しないし、しえない以上、想像してみたい。】(P.63)

五つの問題を乗り越える

【まず、ネガティブな効果を推測してみよう。
 第一に、食べものに関わる仕事の従事者は、競争意識がなくなり、おいしくて栄養に富んだ食べものを求めようとする気持ちがなくなるかもしれない。だって、どんなにおいしい作物を丹念に育てたからといって、それは、丹念に育てられていない作物と同じ価値なのだから張り合いが生まれなくなる。
 第二に、食べるために働く、という賃金労働者のモチベーションが大きく転換を遂げる。どんなにハードな仕事も、「家族を食わしている」という仕事人の誇りによって成し遂げることができる。それがなくなることで、賃金労働者はこれまでのように尊敬されなくなるかもしれない。
 第三に、商品管理がなされなくなるので、料理の作り手が食べものを安全であるかどうか保証してくれるわけではない。食べものを安心して食べるには、なにかお墨付きが必要だ。
 第四に、とくにソ連の事例が示しているように、食べものを一ヵ所に集めようとすると、旱魃や飢饉のときには国や地域が暴力によって農村から食糧を徴発することになりかねない。場合によっては、銃を持った兵士が脅して、穀物を徴発するかもしれない。
 第五に、食べものに対する感謝の念が弱くなるかもしれない。お金を払っていないと、農家や料理従事者に感謝の念が湧きにくい。毎日の掃除、洗濯、料理、育児がそうであるように、人間は、何かが起こることよりも、変わることなくキープされていることに対し、鈍感になる。食事の無料のありがたさは、いずれ忘れさられてしまうかもしれない。】(P.65-66)

 ⇒T.Satou:5点目の中の「人間は、何かが起こることよりも、変わることなくキープされていることに対し、鈍感になる。」という一節に、特に「なるほど!」と思いました。それは、藤原氏が示している「感謝」の観点からではなく、私が教育学を学ぶ中で門外漢として心理学(例えばヴィゴツキーの)から仕入れたあやふやな知識なのですが、人間は心理活動の習熟によって「不要な刺激」を遮断できる、という話です。例えば、雑踏の中で人と話し合うのと、それをボイスレコーダーで録音した音とが全然違う、という話。つまり、雑多に耳に入ってくる音の中から話している相手の声を「際立たせて」聞くということ、他の雑音を「聞き流す」ということができる、ということ。これは動物にもある識別能力かもしれませんが、大事なのは「抽出」すると同時に「捨象」するということで、これが人間の場合、運動能力やより高度な認識能力にも「転移」するということ。自転車に一旦たまなしで乗れるようになれば、次からは「えっと、どうだったっけ」と手順を思い出さなくても体がバランスを取ることができます。台所で水仕事をしていて手を拭きたいとき、「えーっと、タオルハンガーはどこだっけ?」と考えるまでもなく手が動きます(その替わり、最近タオルハンガーの場所を変えたら、ずいぶん長いこと前の場所へ手が伸びました^^;)。次の行動に移るときにいちいち「意識的に判断する」ということをしなくてよいこと(思考の自動化)は、人間の思考スピードを圧縮し、高度な思考の基礎をつくると思われます。藤原氏の「人間は、何かが起こることよりも、変わることなくキープされていることに対し、鈍感になる。」という言明から、私はこのことを連想しました。藤原氏は用心深く《食の無償化》のデメリットから論を起こしており、ここはあくまでデメリットとして押さえられていることではあるのですが、私は次に語られるメリットに発送を繋ぎながら、《人間にとって食べられることがあたりまえになり、食べねばならないことに対して鈍感になること》を(藤原氏にはられるかもしれませんが)敢えてメリットの面からも考えたいのです。そういう状況(=あたりまえに食べられること)を享受しているのがまだまだ人類全体の一部分であることは忘れないようにしつつ、食べられるという事態の《自動化》のメリットを考えてみたいのです。
 私の家では4人の息子たちがそれぞれ独立し、もう10年以上夫婦二人暮らしです。私は2年前に正規の大学教員職を退職し、いまは週1コマの非常勤講師生活。従って週のほとんどが在宅です。一方妻は美術館の非常勤職員として働いており、不定期ですが週に数日は出勤します。私の現役時代は昼食はほとんど生協食堂等での外食でしたが、退職して年金ぐらしの今は毎日外食というわけにもいかず、1人の日には自分で作ります。と言っても週1回地域生協から届く食材の中から冷凍うどんを解凍して食べるくらいで「作る」というのが恥ずかしいくらいですが、とにかく週に何食かは「自炊」しています。長い仕込みを要するわけではなく10分もあれば準備できてしまいますが、それでも昼前になったら自分で準備して食べます。この時は、簡単なことではあっても「食事を準備する」ということが自分の意識にあります。他にも妻の勤務が夜までになるときには簡単な一品を作ったりします。それ以外の時は、妻に作ってもらうか、たまには外食もします。
 いや、言いたかったのはわたし自身のそんなちゃっちい「食のまかない」のことではないのです。言いたいのは、そんな私の生活において「毎食食べられるということはあたりまえ」だということ。一人で家にいるときは冷蔵庫の食材を探して自分で作ります。食材がない場合もありますが、近くにスーパーもコンビニもあり、食材を買いに行くことができます。めんどくさかったら外食もできます。年金生活ですが、生協の宅配や買い物で食材を入手したり、時々外食することが可能な収入があります。つまり、食事の時間が来ても食べることができない、ということはなく、食べられるか食べられないかを心配せずに生活できます。極端に発想が飛びますが、狩猟生活時代の人間のことを思えば、これはすごいことだと思うのです。おなかがすいたら食べられる。食べすぎて健康を損ねる心配はあっても、食べられない心配はない。朝起きて、今日の朝食・昼食・夕食を食べられるかどうか心配する必要はない。忙しすぎて、とか、健康を損ねて、食事を抜く、欠くことはあっても、食べたいのに食べることができなくてひもじいとか、あるいは命が危ないかもしれないと心配する必要がない。もちろんこの状況は、事故や病気その他のアクシデントによって崩壊する危険はありますけれども、他の生き物同様食べなくては生きていけない人間が、毎日毎日食べられるか食べられないかを心配しないで生きられるということは、とてもすごいことのように思えてきました。「今日の食の確保」については、意識の中で「自動化」されていて(何を食べるか、どこで食べるかではなくて、食べられるかどうか自体については)悩む必要がない。このことがどれだけ人間の生活と労働を豊かにし、その可能性を広げているか、また、悩む必要がないという生活条件を確保していない人々との格差がいかに大きいかを、思わずにはいられません。


【けれども、この五点の問題を克服することは、かならずしも不可能ではない。
 第一、農家の張り合いの喪失。作物を育てる仕事に従事している人びとは、食べものを商品化するために、形が良くないものを廃棄せざるをえない。そのうえで、商品化されるものだけを収穫する。あるいは、市場に送り届けたら、誰が食べたのかわからない。他方で、食べものがたとえゼロ円になっても、定期的な収入が地域の人びとの税金によって得られるようになれば、農業を営むモチベーションは下がらないはずであるし、作ったものがすぐに食べられる食堂のようなものがあれば、自分の作物に対する反応も確かめやすく、また作物を通じての交流も可能である。
 第二、賃金労働者の働く意義の低下。「家族を食わせる」という共通のスローガンによって、日本の労働はどれほど歪められてきただろうか。家族を食わせるために、土下座でも、多少倫理に悖る仕事でも、引き受けてきたのではないか。「家族を食わせる」ことそれ自体はたしかに尊い。そのために自分の一回限りの人生を捧げることも、当然否定されるものではない。だが、家族を食わせるにしても、その手段を点検する時間さえも奪われる世の中を生きることは、いったいどれほど幸福なのだろうか。
 第三、食べものの管理水準の低下。食べものを食べるときの心の平安は、けっして画一的な管理だけからくるのではない。食べものが、キャラクターの絵が描かれた箱に入っていたり、安全であることを証明するマークで飾られていたりすると安心するのは、安心のひとつのかたちにすぎない。安心とは、作る側と食べる側の深い交流のなかでようやく浮かび上がってくる未定形のものである。安心とはトップダウンではなく、ボトムアップであってこそ、持続的でありうる。なぜなら、トップダウンにより消費者への安心の付与は、現実の変化に対し柔軟ではないし、ボトムアップ的な安心の生成は現実の変化にある程度対応できるからである。信頼の尺度をもっと小さな人間関係のなかに置き戻さなければ、食べものは商品の世界からずっと抜けることはできない。
 第四、食糧徴発の再来。市場のメカニズムに忠実に従った場合、商品の分配にはコストがかからない反面、食の場合、お金があるところには行きわたりやすく、そうでないところには食の質はもちろん、食の量さえ保証されない事態は解消されない。それを補完するのが、援助という名の食べものの贈与であり、大量生産・大量消費・大量廃棄に基づく安価な食の販売であるが、贈与された食べものや安価な食べものはその地域の食文化に必ずしも適合しないし、健康を損なう可能性もある。食の不均衡はいつまでたってもなくならない。徴発ではなく、食べものがお金を介さずに集められるシステムを考えることで、飢えが大手を振って歩き回る「市場経済」と、穀物の徴発が農村を飢餓に追い込んだ「社会主義経済」のあいだの道を探ることはできないだろうか。
 第五、感謝の念の減少。お金を媒体にしてしか感謝の気持ちが生まれない、ということ自体、もっと疑われてもいいのではないか。食べものを通じた交流のかたちは存在しないのだろうか。毎日キープされている生命とそれをキープする人への感謝は食べる場所のかたちをデザインすることで、お金を介在させるよりももっと、動きのある感情になりはしないだろうか。そもそも感情をデザインしようとすることは政府の仕事ではない。】(P.66-69)


メカニズムを保つために捨てられる食品

【私たちは、食べものが無料である社会を非現実的だといいつつ、食べものが廃棄可能である社会の現実をあたりまえのこととして受け入れているという、風変わりな考え方と慣習を持ったエイリアンなのである。しかも、これらの食べものの残骸のほとんどは、人間を養うためではなく、市場経済のメカニズムを保つために捨てられ焼かれる商品である。食べものが商品でさえなければ、これらは、世界の飢餓人口を容易に救える量である。生産した食べものの三分の一をゴミ箱に投下する日本という国には、逆説的に、食費無料化の萌芽がすでに含まれていると言えるだろう。】(P.70-71)


食べものの特質から考える

【では、食べものの商品への馴染みにくさの根源はどこにあるのだろうか。
 第一に、目の前のおにぎりを食べられないと明日の生命が危うい人間にとっての一個のおにぎりの価値と、目の前のおにぎりを食べなくても明日の食が確保されている人間にとっての一個のおにぎりの価値のあいだの乖離は、測ることができないほど隔絶しているにもかかわらず、市場は価値が同じとみなすからである。携帯電話やテレビとは比べものにならないおにぎりという存在の重さを測り損なうからである。
 第二に、食べものはかつての生きものであり、死んだあとも刻々と変化していく。それに固定した値段を付けることは、じつは論理的ではない。食べものの腐敗性は、タイムセールだけではカバーできず、ついには、廃棄し焼却することで(堆肥化、飼料化したものをのぞき)食べものを商品世界から追放して解決が試みられているにすぎない。】(P.73)


第3章 縁食のながめ
1 弁当と給食の弁証法
弁当の暴力


【弁当箱が学校に運ぶのは、親の愛情だけではない。あるいは、親の料理の技術だけでもない。家庭の経済状況も弁当箱にはしっかりと詰め込まれているのである。いや、親が忙しくて弁当を子どもに持たすことができないために、子どもが水だけを飲んで我慢する風景、図書室に行って空腹をかかえて本を読んでいる風景が、いまの日本でもごくありふれたものになっている以上、弁当を学校に運べないことこそが、非常にリアルな何かを学校に運んでいることを意味する。
 だから、給食は気持ちとしてとてもラクだった。みんなが同じ食べものを食べるからである。弁当を親の愛情の表現だから丹念に作ってほしい、などと言って、給食の導入を拒絶する政治家はあとを絶たないが、いい加減にしてほしい、と思う。ああ、この人は、弁当で嫌な思いをしたことがない暮らしのなかで自己形成をしたのだな、と想像してしまう。弁当を作るために、作り手は、どれほど朝早く起きなくてはならないのか、子どもにみじめな思いをさせないために、どれほど自分の仕事に使うべき体力を削り取らなくてはならないのか、想像力が足りないのだと思ってしまう。】(P.80-81)


給食の暴力

【こうした、いわば弁当愛情イデオロギーに対抗するものが、給食である。給食はみな同じ低価格の値段、同じ中身である。給食があれば、早朝に家を出なくてはならない親も弁当を準備しなくてもよい。
 けれども、給食もまた、好き嫌いの多い子どもにとっては暴力装置になりうる、ということはおさえておかなくてはならない。最近はさすがにほとんど聞かなくなったが、居残り給食のトラウマについて語る友人や知人は少なくない。泣きながら食べていた、先生に叱られながら食べた、あれは地獄であったという話は、居酒屋で誰かの好き嫌いが露呈したあと発展する話題の定番のひとつと言ってよい。私でさえ、先に食べ終えた子どもたちの箒が生み出す埃と塵のなかで、必死に苦手な食べものを口に押し込んでいた記憶からいまだ自由ではない。食べものとは口に無理に押し込められるものではない。たとえ、そういった「教育」が、「先の戦争」の壮絶な飢えの記憶に由来するものであっても、食べものとは無理に口に入れられるべきものではないと思う。食べる自由のみならず、食べない自由もまた認められなくてはならない。食べられる量も、感じられる味覚も、人それぞれ異なるということを、矯正する教育ではなく、認め合う教育がようやく認められつつあるのも、ここ最近のことであろう。
 また、味の悪い給食もまた、暴力にほかならない。私は山奥の農村の中学校に通っていたとき、そこで収穫される四季折々の野菜やしぼりたての牛乳などではほとんどなく、(あまり信じてもらえないが)ぬるい脱脂粉乳を飲んでいた時期があるし、ソーセージは脂分しかないような粗雑なもので、ほとんどの食材の色がくすんでいた。試食会で保護者から指摘を受けて改善されたが、茶わんに盛られた米粒を、お茶を飲むように口に流し込んでいた空腹支配下の時代、背に腹は代えられぬから食べてはいたが、べちゃべちゃしたほうれん草とあの脂だらけのソーセージのときはさすがにげんなりした。子どもは食べられれば十分、という大人の考えが、給食に凝縮されていた。】(P.81-83)

 ⇒T.Satou:1976年生まれ、私より24年も若い藤原氏の中学校時代。1980年代末ですよね。日本社会が「貧しかった」とはもはや言えない世の中で、学校給食はいまだ子どもの空腹を満たせばよいと考えられていたのか!?いや、「げんなりし」ながら「流し込んで」いた食事とは、果たして空腹を「満たした」と言えるのか? 胃の空虚感は消えたとしても、それは「満たした」と言えるような感覚だったのか?
 それはともかく、1980年代末頃の島根県山間部地域で、すでに中学校給食は実施されていたんですね。私自身は中学校から京都教育大学附属で、給食はなく弁当でした(1960年代末)が、京都市の公立中学校では平成期にようやく実施が広がってきたものの、令和2年度現在でも73校中校外調理委託・選択制65校、全員給食制(施設一体型の小学校併設校)7校、未実施(中・高一貫校のため食堂弁当利用可)1校、とのこと
(京都市教委web pageより
https://www.city.kyoto.lg.jp/kyoiku/page/0000106581.html )。選択制にはいろいろ問題ありのようですが、詳しくないのでこれ以上触れません。ただ給食には詳しくない私にも、義務教育無償制度が半世紀以上も授業料と教科書代だけに留まっていて、毎日半日以上滞在している学校において子どもたちにとって満足できる食を無償で保障することができていないことの、子どもたちの心身発達にとってのマイナスはわかります。


3 縁側のタバコ
縁食の縁


【孤食のように孤独ではなく、共食のように共同体の意識が強くない食の形態を、私が「縁食」と呼んでいることはすでに何度も述べた。誰もが入りやすく、かといって強制もない。食卓の前では、世代も、性別も、貧富も、国籍も問われない。いろんな人たちが集い、去っていく。「食べること」という基本的な人間の営みを軸に、人びとの縁がゆるくからまって、またほどけていく。「縁食」という言葉をめぐって『ちゃぶ台』に連載しているうちに取材も増えたが、どうしてこんな名前を付けたのですか、と質問されたとき、真っ先に頭に思い浮かぶのが、小さい頃の縁側の風景だ。
 家の縁にある、家の外となかをつなぐ空間である縁側。ここで繰り広げられた食の風景は、いまもなぜか鮮明に記憶に残っている。庭に入ってくる人たちは、縁側に吸い寄せられるように座り、お茶を飲み、ウリの漬物をかじり、スイカの種を庭に飛ばした。
 庭の手入れをお願いしていた近所のおじさんは、私の母親の葬式が終わり最後の挨拶で「庭の手入れをしちょーとね、縁側にいっつもお茶を持ってごしなはった」と言って、そのまま泣き崩れた。その頃社会人になりたての私は、そこが涙腺の緩むポイントなのか、と驚き、感涙の秘話として受け取っていいのか戸惑った。
 でも、いまなら、なんとなくおじさんの気持ちがわからないでもない。母の葬式から10年以上経って、夏に帰省したときのことだ。かんかん照りの太陽の下、庭で草取りをしていた。ふと部屋のなかを眺めると、太陽の光になれた目には暗く感じた。あの奧の暗がりからもしも足音が聞こえたら、縁側でちょうど陽の光がその足音の主を照らすだろう。それが毎回生きている人間とは限らない。いつか死者の邂逅するとすれはそれは縁側かもしれないと、私はそのときようやく気づいたのだった。】(P.113-114)

 ⇒T.Satou:藤原氏にもメールのやり取りの中でお伝えしたのですが、私の父は島根県大社町の生まれでした。藤原氏の郷里の奥出雲と同県であり、文中の「しちょーとね」(=してるとね)などの出雲弁には懐かしさを感じます。そして、京都市生まれの私の、京都での思い出ではないのですが、子どものころ両親、妹とともに訪ねた大社町荒木四軒屋の父の実家・佐藤家で、いとこたちが揃って縁側に並んで種をプップッと小気味よく飛ばしながらスイカを食べた夏休みの思い出は、今も脳裏に残っています。トイレはボットン、風呂は別棟の古い家で、飼ってる山羊に頭突きされたりしましたが、縁側はたしかに団欒の場でした。多産世代のジュニアである私にはたくさんのいとこがいました。同学年だけでも私を入れて4人でした。出雲への里帰りは楽しみな行事でした。縁側はいとこたちとの交流の象徴でした。


第4章 縁食のにぎわい
1 死者と食べる
死者とともに食べる

【死者との縁は、宗教者だけの占有物ではない。死者との縁は手紙、写真、思いでとともに結ばれているだけではない。食べものであれば、信じることができる。食べるとき、死者と同じテーブルについていると思えば、それは縁が切れていないということを意味する。
 なぜなら、食べものもまた死者だからである。生きとし生ける森羅万象の世界で生命活動を中断させた存在を食べることでしか、私たちは生きていけない。それは動物も同じこと。ただ異なるのは、人間は死者とともに生きる能力を持っていることだ。】(P.123)


2 食を聴く
胎児の聴く音


【胎児は、あるときから子宮のなかで音が聴こえるようになるという。産婦人科医の増﨑英明はこう述べている。「子宮の中ってめちゃめちゃやかましいんですよ。お母さんの心臓は子宮に接してますから、おそらく、ドッコンドッコンドッコンドッコンってずーっと聞いてたら、たまらんですよ。ノイローゼになる。」(増﨑英明・最相葉月『胎児のはなし』ミシマ社、2019年、125-126頁)。ならば、母親が食べたものが、食道を通って、胃や腸で揉まれる音も、心臓の鼓動の合間に、羊水の振動を感じてきっと聴いているのではないか、とこの一節を読んで考えた。他者が食べる音は、生まれたばかりの赤ちゃんが母親の心臓の近くに置かれると泣き止むように、安らぎのようなものを与えるのではないか。
 たとえ胃腸の音が心臓音で掻き消されているとしても、心臓の鼓動は、胎児の栄養を送る音だ。私は、ともに食べることが、単に複数で食べること以上の何かをもたらす理由として、母親の胎内にいたときの「耳の体験」があるのだと考えている。子宮のなかで母親と一緒に食べていること。つまり、縁食の原型である。心臓の音を聴きながら、へその緒を通じて食べていることは、ともに食べることの原初的なかたちではないだろうか。
 実際、食べる音は、歯にせよ、舌にせよ、喉にせよ、胃袋にせよ、腸にせよ、人間の体のなかが発する音である。食べる音は、本来、自分が動物として生まれてきたことをそっと私たちに再確認させる音だと言える。それはもっと多彩だったはずだ。(後略)】(P.127-128)

 ⇒T.Satou:『胎児のはなし』、実は私も読みました。近所の曼殊院道東大路東入にある恵文社書店(https://www.keibunsha-store.com/)で見つけて買いました(京大人文研からもほど近いこの書店に、藤原氏も何度も足を運ばれているんじゃないかと推測します)。その辺の経緯も含めて、facebookに書きました。
 増崎英明・最相葉月『胎児のはなし』 ミシマ社(2019.2.4刊行 2019.2.28-7.5通読)
https://www.facebook.com/profile/100002189612550/search/?q=%E8%83%8E%E5%85%90%E3%81%AE%E3%81%AF%E3%81%AA%E3%81%97

 実は藤原氏が引用されている上記箇所を、私もfacebook投稿で引用しています。しかももう少し長く、次のように。

「子宮の中ってめちゃくちゃやかましいんですよ。お母さんの心臓は子宮に接してますから、おそらく、ドッコンドッコンドッコンドッコンってずーっといってますよ。すーっと聴いてたら、たまらんですよ。ノイローゼになる。(中略)胎児も同じで、おそらくマスクされて聞こえなくなってるんです。生まれてから赤ちゃんをお母さんの心臓のほうにもっていくと泣き止む理由はそれだというんです。お母さんってたいがい子どもの頭を心臓のほうにもっていくんです。赤ちゃんの側からいえば、お腹の中の音と同じだから静かになる。お母さん側からすると、あかちゃんがだまるから自然に左側に抱く。西洋人も日本人も一緒です。母子像ってあるけど、70パーセントから80パーセントは赤ちゃんを左に抱いてますよ。」(P.125-126)

 上記facebook投稿をした2019.7.5は私が鈴鹿市立S小学校5年生を相手に「ヒトのたんじょう」の授業を行なう4日前のことだったので、「実際に9日に使えるかどうかわかりませんが、おもしろそうなネタを紹介します。」として『胎児のはなし』を抜粋紹介しています。だからこの引用箇所に特に自分のコメントを付けてはいないのですが、今回原典『胎児のはなし』と藤原氏の『縁食論」及び私自身のfacebookコメントとともに読み返してみて、おもしろいことに気づきました。
 藤原氏は、胎児が母親の心臓の音を聴いているという増﨑の指摘から、ならば胎児は
「母親が食べたものが、食道を通って、胃や腸で揉まれる音」も聴いているはずだと推測します。そしてさらに、「他者が食べる音は(中略)安らぎのようなものを与えるのではないか。」、そしてたとえ胃腸の音が心臓音のために聞こえないとしても、「心臓の鼓動は、胎児の栄養を送る音」であるから、「心臓の音を聴きながら、へその緒を通じて食べていることは、ともに食べることの原初的なかたち」=「縁食の原型」ではないかと発想を広げます。
 このあたりとてもおもしろい展開なのですが、翻って私の方は、《母親が食べる音》にまで類推を及ぼせるはずもなく、母親の心臓音を聞いた体験の記憶が出生後にも母親の子同音を聴くと安心して泣き止むこと、だから母親は自然に自分の心臓に近い左側に頭が来るように赤ちゃんを抱く、という増﨑の指摘に注目してそこまで引用しました。
 ところで今回気づいたのは、藤原氏も私も引用しながら特に言及していない「おそらく、ドッコンドッコンドッコンドッコンってずーっと聞いてたら、たまらんですよ。ノイローゼになる。」という部分です。藤原氏の引用はこの文章で終わり、そして私はと言えば、この文章の後を「中略」にして飛ばした上で、引用を続けています。そこで、私が「中略」とした部分を復元してみましょう。


「(佐藤註・「先生」=増﨑の発言の続き)ぼくらの耳の音って聞いたことあるでしょう?-(佐藤註・聞き手の最相の発言)はい、静かな場所にいると「シーン」って聞こえますが、ふだんはいろんな音にマスクされて聞こえません。
先生」

 ということで、ここに聞き手の最相さんとのやりとりが入っているのです。私たちは静かな場所にいると耳鳴り音?が聞こえるけど、普段耳の音は他の音に「マスクされて」聞こえない。「胎児も同じで」「おそらくマスクされて聞こえなくなってる」、つまり、(ここからは私の推測ですが) 羊水内の音、胎児自身が発する音、外界の音等も聞こえるので、また、同じ音が継続して耳に入っても脳が自動的にその音の刺激量を減じることができるので、胎児はいつもいつも大きすぎる母親の心臓音を気にすると言うことがなく、「ノイローゼ」になることはないのだろう、と。そして、胎児に大きなストレスを与えてしまうわけではない形で、しかししっかり記憶されている母親の心臓音が、出生後の母親とのボディ-・コンタクトの中で乳児のストレスを軽減するプラス作用を果たすのだ、と。
 つまり増﨑の行論は、藤原氏の(「食」への類推の前提となる)解釈の通りだと思うのですが、改めて私が読み直してみたところ、《胎内での母親の心臓音の記憶が出生後の乳児を癒す》というストレートな繋がりではなくて、胎児がおそらくは非常に大きい聴覚刺激である母親の心臓音を《現時点での自らのストレスを徒に増大させないようにうまく調整しながら》、しかし記憶には確実に保存して出生後の自らの《不快の解消=快の維持》に役立てる(胎内でそこまで予測的に行動しているというのは解釈しすぎかもしれませんが)という気づきに達しました、という話です。



こすり合う音

【食べる音は、食べものの「もの」の性質を伝えてくれる。もののテクスチュアと言ってもよいだろう。「歯ごたえ」という言葉に見られるように、食べもののテクスチュアとは、身体に対する抵抗を示すものとも言える。繰り返すがレンコンやニンジンなどの根菜にあるたくさんの繊維は、独特の歯ごたえとともに、断末魔の叫びではなく、あの爽快な音を引きおこす。しかもその「抵抗」は体内で続いていく。強烈な消化液のシャワーにも耐え、大腸まで運ばれて、微生物たちのごちそうとなる。食べ終えた微生物は気体を放出し、大腸を膨らませるのである。ガスが体外に出されるときの金管楽器に似たあの音も、食の交響楽団の構成員として認めるべきだろう。】(P.129-130)


縁食の音

【子ども食堂で実践されているように、孤食ほど寂しくなく、共食ほど規制が強くない色のあり方を「縁食」と名付け、ちょうど建てものの縁側のようなその食のあり方を考えてきた本書で、では、音とはどのような位置にあるのだろうか。
 それはやはり、へその緒がつながっていたときに耳にした音のように、食の原初的な琴線に触れることではないだろうか。
 子どもが好むお菓子には、内なる肌を刺激するものが少なくない。口の中に入れて弾けるものもあるし、かじると派手な破裂音を立てるものもある。それを売り文句にする商品もある。おそらく、食べやすく、消化しやすく、噛みやすく、溶けやすく、砕きやすい食べものがレストランから食卓まで闊歩している世の中で、食べものの抵抗を感じ、胎児の頃聴いていた食べものの「もの」性を感じなおすため、あるいは、食べるという行為の原始の音に再び触れたくなって、そういった食べものに魅力を感じているのではないか、とさえ考えたくなる。】(P.131-132)

【料理もまた、洗わず、切らず、砕かず、すりおろさず、潰さず、茹でず、焼かずにただ電子レンジに入れるだけの食品が、家庭のみならず、レストランでも用いられている。食品産業にとって、家庭とレストランはもはやその工場の最終ラインとなった。もちろん、食材を洗い、切り、砕き、すりおろし、潰し、茹で、焼くことを特定単数の性に任せ続けることを主張しているわけではない。食の音を聴く暇を惜しんで、労働と消費時間を増やし続ける社会こそが問われなくてはならない。】(P.133)

【いうまでもなく、食べることは本来的には消費ではない。そう錯覚するようになったのは、食が商品として大量に売られ捨てられるようになったこの数百年の限定された時代だけのことにすぎない。たとえば、調理員の畑から収穫されたサツマイモを食堂で用いるように、あるいは、持ち込んだ食べものと食堂の食べものを一緒に食べられるような、そんな食の空間の寛容さこそが縁食の必須の条件であるが、それは食からその商品性を引き剥がす試みでもあった。商品性の伴う、ピッというバーコードを読み取る音やカサカサと鳴る包装パックの音ではない食の音。売り手の世間話と一緒にリヤカーでガタゴト運んできた野菜のように、商品に還元しきれない音。農家の庭先と食べ手の玄関先を結ぶことによって、食が社会にもたらす摩擦の音を取り戻す試みだともいえよう。】(P.133-134)

【最後に大急ぎで付け加えよう。一枚のせんべいを二人で食べるときに割る場面を想像していただきたい。あの音も、食の商品化の歴史よりもずっと昔から存在する、食の原初的な音、すなわち「分有」もしくは「共有」の音、もっといえば、ともに生存する音である。けっして真っ二つには割れないあの音、ちょっと地面を這う生きものへのおこぼれも生じてしまうあの音、微妙な調整と会話が必要になるあの音を、消していくのではなく、増幅させることもまた、食の音楽学の必須の課題と言えるだろう。】(P.134)


第5章 縁食の人文学
1 「もれ」について-「直耕」としての食
生命の動詞、「洩る」


【洩る、あるいは、漏る、という動詞のイメージは総じてネガティブだ。
(中略)
 いずれにしても、本来はしっかりと囲われていたり、包まれていたり、閉められていなければならないものが、何かの拍子に外へと出てしまうことを「もれる」と表現する。ネガティヴに聞こえるのも無理はないかもしれない。
 ところが、江戸中期の思想家で医者であった安藤昌益は、1750年頃に刊行された『統道真伝』(以下、引用は、『安藤昌益全集 第10巻 統道真伝 三 人倫巻』農山漁村文化協会、1985年より。ページ数は全集のもので、旧仮名遣いは新仮名遣いに改めた)で、「洩るる」という言葉を生命の根源をあらわす言葉として頻繁に用いている。なぜか、とってもポジティヴに響くのが不思議だ。「食無き即ち人無し。故に食を思うは中真の思なり。食して穀精満つれば精水洩るる。穀精水洩るること無ければ、人倫の生続すること無し。故に次に妻交を思うは又真思なり」(159頁)。食べものがなければ人間は存在しない。食欲とは「中真」、すなわち、世界の究極的な根拠である。とくに穀物で腹を満たせば自然と力が沸き、精水が体外にもれる。この精水がなければ、人間は子孫を残すことができない。「精水」とは精液だけではなく、受胎のために両性の生殖器官から生じる水分の総称をさしているようだ。「夫婦の精水は即ち米穀の精潤なり」(162頁)。それゆえに、性欲もまた、世界の究極的な根拠である。こういうふうに読み取れるだろう。
(中略)
 安藤昌益がどうして、この生命の根拠を、出る、生まれる、成るといった動詞ではなく、わざわざ「洩るる」という動詞を使って説明したのか。安藤昌益について勉強を始めたばかりなので、あくまで不十分な読みに基づく推論にすぎないけれども、『統道真伝』の別の箇所で、権力者を痛烈に批判するときにこの動詞を用いている点を見逃すわけにはいかないだろう。「未だ交合せざる前に男の思発の神気、妻女に感通し、妻女の神、感通・応合し、暫くして誠成る交合を為し、動術暫くして精水出づ。故に精水洩れざる前に新感・妙通良く行われて、暫く後に洩るるなり」(161頁)。ところが、聖人(孔子、孟子、老子、孫子などの古代中国の思想家たち)は、ただやたらと水ばかりを人間を含む万物の始まりであると論じる傾向にある。つまり、さらさらとしていて、ひっかかりやもたれかかりがなく、いまの言葉でいえば「スマート」でありすぎて、水があらわれるまでの精妙な仕組みや緊張が無視されている。昌益は、それに対して、神妙な感じ合いのあとにようやく精水がひとりでにもれる現象を重視している。聖人と異なり、弾ける、という動きを昌益はとらえているように、私には思える。昌益はだからこそ、「出る」という能動態の動詞だけではなく、「洩るる」という他者との相互作用を前提とせざるをえないような動詞を用いているのである。
 人間的な感の通じ合いの果てに、どうしようもなく、地から何かが湧き起こって、それが自分の意志とは関係なく、自然の摂理に基づいて流れ出る、というイメージが「洩るる」という言葉に込められている。】(P.152-155)

 ⇒T.Satou:私はこれまで、安藤昌益と言えば日本の空想的社会主義者、くらいのあやふやな受験日本史的知識しか持っていなかったので、藤原氏の解説をとても興味深く読みました。先の第2章2食の囲い込み・囲うことの項で藤原氏が家の「囲う」機能の一つに生殖という目的をあげておられることを興味深く読みましたが(そこでは本書のテーマの食については、《囲うこと》の反対である《公開すること》に注目して述べられていましたが)、ここでは食と性のもっと直接的な結びつきについて述べられています。その結び目が「もれる」ことです。
 安藤は、
「食して穀精満つれば精水洩るる。」と言います。これを藤原氏は、「穀物で腹を満たせば自然と力が沸き、精水が体外にもれる。」とかみくだいています。引用された安藤の原典の行論をみると、「穀精」「精水」「穀精水」と言葉がならんでいます。藤原氏は特に言及していないんですが、二語を合体した「穀精水」というのがちょっと気になります。さらにその前の「穀精」も気になります。藤原氏はこの部分を「穀物で腹を満たせば自然と力が沸き」と解釈されているのですが、もしも「精」という語を現代の文脈で我流に解釈してしまうことが許されるならば、食べるという行為によって穀物の「精」すなわち何かspiritualなものが人間の体内に入ってきて、そのspiritが性行動へのドライブとなる、と捉えることはできないでしょうか。「精水」を藤原氏は「精液だけではなく、受胎のために両性の生殖器官から生じる水分の総称」らしいとと書かれていますが、「受胎」までには何日かのタイムラグがあるので、とりあえずは性交を含む性行動の過程で女性の膣などから分泌される体液を含むと私は解釈し直しておきます。それにしても、ここで藤原氏が「精水」の語義についての解釈を挿入されたのは、それが大量の精子を含んだ男性の精液だけではない、つまりここでは、男性の射精という性行動だけに焦点が当てられているわけではないと強調されたかったからであろうと私は推測します。
 話を戻して、
「穀精水」です。これは、穀物を食べることで人間が受け入れたspiritが今度は性行動で分泌する体液に移り、そして生命の源になる、というような発想ではないでしょうか。安藤昌益の原典を全く読んでいない私の、勝手な解釈ですが。
 さて、ここでも藤原氏の安藤からの学びの核心は
「洩るる」です。まずは安藤からの引用、「未だ交合せざる前に男の思発の神気、妻女に感通し、妻女の神、感通・応合し、暫くして誠成る交合を為し、動術暫くして精水出づ。故に精水洩れざる前に新感・妙通良く行われて、暫く後に洩るるなり」ですが、なかなか味わい深い男女の性行動の描写ですね。藤原氏は、「精水」とは言うものの、水の「さらさら」した、「ひっかかりやもたれかかりがな」く、「スマート」すぎる面に目を奪われてはならないとして、「神妙な感じ合いのあとにようやく精水がひとりでにもれる」ことが重要なのであり、それは「弾ける」ことだ、また一人でできることではなくて「他者との相互作用」なのだと強調します。そしてその把握を、「人間的な感の通じ合いの果てに、どうしようもなく、地から何かが湧き起こって、それが自分の意志とは関係なく、自然の摂理に基づいて流れ出る、というイメージ」とまとめます。このイメージを読むと、やはり基本的には射精する側=男性の側からの性行動のイメージだとは思いますが、しかし男女の性行動を中的に描写することは不可能なことですね。男性の側からか、女性の側から描くしかありません。
 それはともかく、食によって心身が満たされ、spiritを得ることで性行動への意欲が湧き、また行動する中で分泌液も充実し、精液の排出も準備されて、感極まると射精する(最後はどうしても男性サイドだなあ…)という《食と性の結びつきモデル》はおもしろいです。さて、学校で人間の身体や行動について学ぶとき、このように食と性を結びつけてとらえることは可能でしょうか?
 難しいですね。おもしろい試みになるかもしれませんが、うまくいくかどうか…。
 なぜかと言うと、安藤が言う
「男の思発の神気、妻女に感通し」「妻女の神、感通・応合し」「気」「感」の問題、感情、情動の問題を学校の教室という公の場での学習活動の対象とできるか、してよいかという問題がそこに横たわっているからです。
 私自身もこれまでに、小学校での「ヒトの誕生」に関する飛び込み授業(5学年や6学年)の中で、担任教諭との合意のもとで(学習指導要領では「触れない」とされている)性交について教えた経験があります。その流れは基本的には、性交が精子を卵子まで届ける方法としていかに合理的かという科学的な説明でした。しかし現実社会では、ペニスを無理やりワギナに突っ込んで射精したとしてもそれは犯罪行為であり、スムーズな挿入や射精を結果するためにもパートナー相互の合意と心身の和合が必要なわけです(さらに言えばそのような「成功的な生殖行為」は人間の性行動のごく一部に過ぎず、それ以外に生殖を望まない多数の性行動が存在します)。こうしたことを「説明」するためには、人間の感情、情動面や、さらにそれらと身体の働きとの微妙な関係などに言及しなければなりません。こうした感情や身体に関する学習を、教師と子どもたちその他関係者の性のprivacyをきちんと擁護しながら実施できるか? つまり端的に言えば、「自分たち自身の経験に言及することを慎重に回避しながら」実行できるか? 難しいですね。
 しかし、性を一般論として語ることにそれなりに精通した大人同士の間では、話題にしてもおもしろいと思います。



昌益の「土と内臓」論

【しかも、昌益は、単に人間の生命の摂理を「洩るる」という動詞を手がかりとして描いただけではなかった。安永寿延は、安藤昌益が、人間の腸を活性化することと、土を活性化することを、どちらも「直耕」と読んでいることに注目している。「直耕とは、このような身体の生命活動をモデルとした、システムの維持である。身体ないし生命が全宇宙に対して開かれているように、昌益のシステムは常に開かれた系である」(『安藤昌益』223-224頁)。安永は、最後の「開かれた系」という語に「オープン・システム」というルビを振っている。この「オープン」とは無限である、という意味ではなく、本来はお互いに閉じたものんとして隔たっている土の世界と腸の世界がつながっていることを示す言葉だろうか。昌益が、デヴィッド・モントゴメリーとアン・ビクレーが近代科学の立ち位置から描いた『土と内臓』(築地書館、原典・翻訳ともに刊行は2016年)の世界観を、すでに、18世紀に示していたのは驚きである。】(P.155-156)

【ただ、18世紀の『統道真伝』は、この「土」と「内蔵」の世界をも、「もれ」の意味を深くつなげて論じてはいないように思える。他方で、21世紀の『土と内臓』はそこにこそ、土壌学や医学のまなざしを投じている。『土と内臓』によると、植物は、光合成で生じたブドウ糖を全部自分の生命維持のエネルギーに用いているのではなく、根を通じて、土壌中の微生物たちに分け与えている、という。つまり、もらしているのだ。さらに、動物の大腸も、微生物の居住環境を改善するために、腸壁から微生物が喜ぶエキスを洩らしている。安藤昌益が述べているように、農業とは人間が耕すのではなく、土壌中の微生物が、植物がもたらしたものに寄り集まって、生きものたちの死骸や抜け殻や糞を食い散らかして耕すこと。これを「直耕」という。『土と内臓』では、これが「腸内微生物ガーデニング」と呼ばれている。食べものも人間の消化器官が吸収しているのではなく、消化器官を借りて微生物たちが腸壁から浸み出ているものにつられて集まり、生きものたちの死骸を「耕して」いるのである。化学肥料は、すでに栄養素が詰め込まれた機能性サプリメントのようなものなので、根も微生物も発達する余地があまりない。植物に散布した農薬が土壌に浸み込めば微生物の活動環境は汚染される。抗生物質の多投は、腸内環境を微生物が住みにくい場所に変え、肉と穀物だけで野菜と果物を食べない食生活は、大腸の微生物の大好物である繊維質の供給を減らし、活動環境は劣化する、とモントゴメリーとビクレーは警告する。
 著者たちは、このような土壌中の様子を「地下のバイキング・レストラン」と表現している。また、そこでは「無料の食べもの」が与えられていると述べている。内臓も土のなかも人間には見えない。だが、この「世界の見えない半分」に、広大な微生物の無料食堂が広がっていたという事実は、縁食論を生物学的に支える論拠である。腸内無料食堂と根圏無料食堂、これをそれぞれ食と農、と私たちは呼んできた。これまで私が例示してきた縁食の空間は、これらの微生物レストランによって接続されて、ようやく全貌を見せるのである。そして、この人間、植物、微生物を横断する脱領域的な縁食を支える原理が、もれなのである。】(P.156-158)


「もれ」の効用

【どうやら、「育つこと」と「交合すること」は、「もれる」というはたらきと深い関係にあるらしい。そういえば、私たちはいつのまにか「予選漏れ」や「申告漏れ」という言葉を無意識のうちに脳内の覇者にし、「もれ」のポテンシャルを見失ってきたらしい。そういえば、木もれ陽のきらめきは、葉と枝が吸収できない光のおこぼれがもたらす空気の建築である。窓枠の設置、すなわち外気と外光のもれこそが、囲われた空間に光と温度を与えることは、建築の基本中の基本だ。ところが、私たちの脳内は、完全遮断か完全開放かの二者択一にずっと支配されてきた。もれるという現象は、自然の成り行きなのに。】(P.158)

【豊穣の象徴である「もれ」「こぼれ」「あふれ」。拙著『分解の哲学-腐敗と発酵をめぐる思考』(青土社、2019年)で論じたように、それは、ちょうど夜の闇が曙光によって明けるような「ほどけ」、そしてその語源が同じである「ほどこし」でもある。決壊して溢れ出る喜び。緊張と解放。生成と分解。食べることや飲むことは、この二極の競り合いのなかに生まれる行為である。】(P.159)

 ⇒T.Satou:「教育学文献学習ノート(21)」として取り上げさせていただいた藤原論文「子どもの商品化に抗する思想」において、藤原氏は民主的教育学研究・教育実践が自明のことのように大事にしてきた「人格形成」に疑問を唱えられ、こう述べておられます。

「形成という言葉の中に分かちがたく結びついている分解という現象を直視して、人間観をもう一度、一から考え直さなければならない。なぜなら、『教育は形成である』という考えだけでは、教育における欠損や分解のポジティブな面を素通りしてしまうからである。」(『教育』No.907 2021.8 P.8上段~下段)

 教育学の外からの貴重な問題提起に敬意を表しつつも、《「藤原氏の人格形成への違和感」に対する違和感》を感じた私は「ノート(21)」を書き、それをきっかけに藤原氏と直接交流もさせていただきましたが、その時点で上記藤原論文以外の藤原氏の著作については、まだ入手して読み始めたばかりでした。
 いま、本書の文脈の中で上記引用を読み直すと、少し深めて理解できつつあるように思います。
「緊張と解放。生成と分解。」「食べることや飲むことは、この二極の競り合いのなかに生まれる行為」。そうなんですよね。私たち教育関係者は、食、食べることを教育の営みの外に置いて考えることはまずないでしょう。だけど、それなら本当に《真ん中に据えて》考えていたでしょうか。食が緊張と解放・生成と分解の「二極の競り合い」の中にあるのなら、その食の営みを含み持った子どもの生活、子どもの発達、子どもの人格は、そのせめぎ合いとは別に成立するものでしょうか? 子どもの発達やそこに関わる教育の営みにおいて、《生成したものが分解し、その分解の中からまた生成が起こる》その「分解」にもっと目を向けなくていいのでしょうか? 発達における、教育における「分解」とはいったい何を指すのか、もっと真剣に解明しなくていいでしょうか?


基本的に食べものは「あまる」

【けれども、食品ロスの問題を、ひとりひとりの問題に落とし込む風潮には、大いに疑問を感じる。そもそも、食べものは人数に対して「あまる」ことが前提の行為ではないだろうか。問題は、その「あまり」をできるかぎり社会や自然に再び流す受け皿システムの弱さではないだろうか。食べものの経済が故障しているのではないだろうか。】(P.161)


【けれども、私も大人になってようやく「あまり」の魅力に気づき始めた。ちょうど、木もれ陽のように、料理してできたものは、その食卓を囲む人たちの推定可食量よりもちょっと多めに準備されるのが本来的ではないだろうか。もちろん、それが不可能な経済状況や政治状況にある人びとが、つねにその不足に悩んでいることはいうまでもない。あまる食べものどころか、満たす食べものさえないことが、飢餓問題である。この現実は厳然として存在する。だけれども、どうして、地球の成員が食べて生きていけるほどの食べものが生産されているのに、地球上の八億の住民が飢えるのか。それは、経済先進国なり経済先進地域なりがその剰余の「もれ」と「持ち帰り」と「配分」というシステムを作り上げず、ひたすら過剰な衛生観念のもとに新品のまま捨てるという不完全かつ不健全なシステムしか作ることができなかったからではないのか。
 食べものを商品化するとは、食べものを数値化することであり、食べものが値段と一対一の対応をすることである。けれども、その場合、食べものが作られすぎると値段が急落するので、市場に出回る前に廃棄処分になる。この余剰は、飢えた人びとには届かない。
 けれども、もしもその処分される農作物が、商品になる前に、市場とは別のルートで直接、調理場に運ばれ、そこの料理が直接、人びとによってほどこされるのであれば。もしも、その調理場では大量のカレーや豚汁が作られて、たまたま近くに立ち寄った人にも無料で振る舞われるとすれば。いや、そもそもすべての食材が商品化を断念して、直接、無料食堂に運ばれるような国があれば。その国にももちろんレベルの高い優れたレストランがあって、そのレストランは、この無料食堂のあまりものの食材を購入するとすれば、それでもあまったものは、燃やすのではなく、家畜に食べさせてもらったり、土壌微生物に食べてもらったりできるとすれば。社会の競争からもれでは人たちがふらっと立ち寄れる食べる場所が増えるとすれば。いったいそれはどんな社会だろうか。】(P 161-163)


2 パンデミックの孤独-「居心地のよい空間」をめぐる人文学
パンデミックが機能させないもの


【いま、多くの人たちが外出の制限を続けている。「共に食べる」という行為が、家庭のなかでしかできない。共食は、ほかの動物にはほとんど見られない行動である。しかも、人間は食べることを通じて、家族以外の人間とも関係を深めていく。つまり、人間が、動物でも植物でもなく人間である、ということを絶えず証明し続ける重要な機会のひとつを、私たちは停止している。「これが人間か」と自問しなければならないほどの悲しみや苛立たしさが、医療現場や介護現場でつぎつぎに抱かれているにもかかわらず。】(P.165)

【結局のところ、文化は、ヴァーチャル世界よりも「三密」の空間のほうが生まれやすいことを、「移動の制限」という犠牲を払って私たちは日々学んでいる。人間にとっていい場所はウイルスにとってもいい場所なのだ。】(P.166)

【「ホーム」に「ステイ」しにくい人、ホームに心地よさを感じない人、ホームが監獄でしかない人、ホームがそもそもない人、そんな人びとにとって、「ステイホーム」という命令形は、じつは、きわめて深刻な事態をもたらしているのである。】(P.167)


シングルマザーの言葉の有用性

【新型コロナウイルスは、よく言われるように「平等なウイルス」などではけっしてない。社会や政治という現象を消し去った真空状態ならば平等かもしれない。しかし、人間はそんな、摩擦のない世界を生きていけない。住んでいる場所や働いている場所によって、ウイルスの居心地のよさや増殖力は異なる。たとえ感染しなくても、感染症の拡大による経済活動の停止が、体や心が弱っている人びとや弱りやすい経済状況にある人びとの健康を蝕んでいく。新型コロナウイルスは、人間を平等にするのではなく、不平等をより拡大していく災厄にほかならない。】(P.173)

【なんの手続きも踏ませずに、普通に食にアクセスできるような社会、生命維持物資の提供に対し「ありがとう」という見返りを求めない社会の設計もまた、その生命維持装置の生産や消費にも増して重要だと考える。つまり、「居心地のよさ」である。】(P.175)


「サードプレイス」はひとり親を排除するのか

【私がこれまでの論考で考えてきた「縁食」という食の形式は、男性たちが家族と仕事のしがらみから離れて、ある程度のルールを守り、言語ゲームを楽しむという「サードプレイス」モデルとは異なる。たしかに、「居心地のよさ」や「空気づくり」といった点を注視するのは共通しているが、決定的な違いは、これまで述べてきたひとり親の視点の欠如、逆にいえば、近代的古典的家族観への彼のノスタルジーが、その「居心地のよさ」の社会的機能に向かわずに、単にコミュニティーの「活性化」という内向きの議論に落ち着いてしまっていることだ。
(中略)
 だが、本来の縁食的「サードプレイス」とは、そうではない。逃げ場であり、異議申し立ての場であり、異種混交の場であるのだが、それら以前に、とりあえず食べものにありつける場所である。人と群れることが嫌いな人でも、少なくとも居ることを阻害されない場所である。そこで食べものをもらっても、先ほどのサイトへのコメントにあったように、「くれくれ、ばかりいってないでもっと自分でできることを探したら?」とは誰も言えない空間である。なぜなら、誰もが「くれくれ」と言っているからである。
 縁食的サードプレイスは、仲間意識や同一性を確認するだけの、ナルシズムの共同体はもちろん、ナルシズムそれ自体が分解されていく場所である。なぜなら、誰もが食べものをねだれる場所だから。食べものを欲しがっている人が、別の人に対して「くれくれというな」とは、さすがに恥ずかしくて言えない。恋人と別れた人や、障害があるからと言って相手にされなかった人や、異議申し立てを適当にあしらわれた人や、職を失った人や、就職活動で人格を否定された人や、そんな人たちが、面倒な手続きと言い訳と顔色の窺いと差別の眼差しと、できれば金銭支払いもすべてカットして食べものにありつける場所が、国や地方の政府が経済的に支えるだけで、口を出さず、作られていくならば、少なくともそこは「居心地のよい場所」と名乗ってよいだろう。日本の福祉制度には、「ありがたく思いなさい」という自動音声が組み込まれたシステムが多すぎるように私には思われる。】(P.178-180)




 以上、本書の興味深い箇所を抜き書きし、時々うんと我田引水的にコメントしてきました。分野外の者としてのコメントなので、見当違いのところもあるかもしれません。しかし、少なくとも主観的には、私が長年取り組んできた人間の性と学校教育における性の学びの研究・実践の立場から、人間にとっての食と性の関係について新たな視野が開けつつあるような気がします。
 実は私は、拙稿「現代の日本人の『生きる課題』と学校カリキュラム(試案第2版の1)」(三重大学教育学部研究紀要 第51巻 教育科学 2000)において、以下のように書いています。
「筆者は、現代の日本人が社会生活において直面している様々の課題のうち主なものを学校の教育課程構成に反映させるべきであるという基本的見解を持っている。以下に提案するのは、筆者が構想した課題領域である。
 第1版(1997年)では、以下の9項目を提案した。
(中略)
 第2版では、以下にゴチックで表現した通り、既存の2項目の表現を修正し、新たに1項目を追加した。
1.生と死
2.食
3.性
4.生産一消費一廃棄・資源再利用
5.環境
6.平和
7.パフォーマンスとコミュニケーション
8.情報とコンピュータ
9.原初的レベルの人間生活における共感・連帯・共同行動
10.価値葛藤                                             」(P.121-122)

 上記論文にはその前段の「現代の日本人の『生きる課題』と学校カリキュラム(試案第1版の1)」(三重大学教育学部研究紀要 第48巻 教育科学 1997)があり、その中で私が考えた学校教育課程に反映させるべき学習テーマの各項目について短く解説しています。いま見ると、「食」と「性」は隣接しており、それぞれについて以下のように学習する意義を述べています。
2.食
 人間の食生活については、IIで見るように、家庭科教育を中心に蓄積がある。中等教育における男女共習の実現を契機とした家庭科教育の一層の充実に期待しつつも、食に関する学習を家庭科における家庭生活の学習の枠内にとどめずに、より広い視野の中に位置づける必要がある。
 乳幼児の食習慣の確立の問題から米輸入自由化と食糧自給・食糧安全保障のような国政・外交上の問題まで幅広く視野に入れ、いくつものレベルの問題を「串刺し」にして食をとらえたい。
 3.性
 今回の学習指導要領改訂によって、性教育はようやく小学校のカリキュラム上に正式に位置づけられた。すなわち、5年の理科及び5年の体育(保健分野)においてである(III参照)。
 しかし本来性教育は、これらの限定された教科学習の中に閉じこめられるべきものではない。時期的にも、(子どもの意識・関心を丁寧に把握しながら)小学校低学年から積極的に人間の性(humansexuality)に関する学習を組織すべきである。」(P.132-133)

 日本人として「生きる課題」として必須であるにも関わらず学校教育の教育課程に正当に位置づけられていない学習テーマ、と大上段に振りかぶった問題提起をしたつもりでしたが、いま見直してみると私自身まだまだ学校教育の枠内、教育課程の枠内でしかものを考えていなかったことに気づかされます。私なりに考えて人間にとって最も基本的な事柄から順番に並べて見たつもりで、まず「生と死」、次に「食」、次に「性」…と続いていますが、隣り合ってあげている食と性の相互関係まではまだほとんど意識していなかったんじゃないかと思います。
 本書を読むことで、食と性の関係を教育を介さずに直接考える機会を得ました(もっともコメントではすぐに教育分野に引っ張り込んでしまっていますが^^;)。

 本書の主要課題は食と教育の関係、学校教育における食の位置づけを論じることではなかったと思われるので、私としては却って新鮮な刺激を得ることができました。しばらく間を置かせていただいた上で、今度は藤原氏が学校教育史に本格的に踏み込んで書かれた『給食の歴史』(岩波新書 2018)から学んでみたいと思います。


コメント

  1. 拙稿を読み直してみて数箇所の誤記を発見しましたので修正しました。修正箇所は網掛けで示してあります。

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