45 教育学文献学習ノート(34)-2 倉持祐二「小学校社会科に求められる『社会的な見方・考え方』を考える」(京都橘大学研究紀要 50号) (2025.1.11)
(2024.2.22刊行 2024通読 (ノート作成 2025.1.9-11)
2024.1.8に投稿した「教育学文献学習ノート」の通し番号が(36)なのになぜ本投稿が(34)-1なのかというと、2024.9.9に以下の投稿をしたからです。
39 教育学文献学習ノート(34) -1倉持祐二『食べることから始めてみよう~生活科・社会科・総合的な学習~』(喜楽研)
https://gamlastan2021.blogspot.com/2024/09/3934-1.html
私と倉持さんとの交流史については(34)-1の冒頭に詳しく書いているので省略しますが、そちらの投稿での交流史記述の最後に書いているように、倉持さんとはここ6年近く「子どもを語ろう会」というサークルで同席しており、その交流の中で(34)-1の文献と(34)-2の文献をいただきました。当初2つの文献についてともに「教育学文献学習ノート(34)」としてとりあげさせていただくつもりだったのですが、(34)-1部分の執筆に時間を要しているうちに後期授業開始が近づいてそれができず、ちょうど4ヶ月経ってようやく本投稿の執筆に到りました。
本論文の構成は、以下の通りです。
「Ⅰ.はじめに」は、 第9期(2017年版)小学校・中学校学習指導要領の紹介から始まります。
第9期小学校学習指導要領「第2章第2節社会 第1 目標」の記述には、「社会的な見方・考え方を働かせ,課題を追究したり解決したりする活動を通して,グローバル化する国際社会に主体的に生きる平和で民主的な国家及び社会の形成者に必要な公民としての資質・能力の基礎を次のとおり育成することを目指す。」(下線は佐藤)とあります。学習指導要領の検討は本ノートの主眼ではないため、第9期小学校学習指導要領のさらに立ち入った検討は行なわず、一つ前の第8期(2008年版)小学校学習指導要領「第二章各教科第二節社会 第1 目標」を見ると、「社会生活についての理解を図り,我が国の国土と歴史に対する理解と愛情を育て,国際社会に生きる平和で民主的な国家・社会の形成者として必要な公民的資質の基礎を養う。」とあり、さらに遡って第7期(1998年版)小学校学習指導要領「第2章各教科第2節社会 第1 目標」には「社会生活についての理解を図り,我が国の国土と歴史に対する理解と愛情を育て,国際社会に生きる民主的,平和的な国家・社会の形成者として必要な公民的資質の基礎を養う。」とあって、(「平和的な」が「平和で」に替わって「民主的」と入れ替わった以外は)第7期と第8期の目標規定はほぼ同一です。第7・8期学習指導要領と第9期学習指導要領の目標記述の構成は、前者が「社会生活についての理解を図り」から始まるのに対し、後者は「社会的な見方・考え方を働かせ」から始まります。このことと、《「資質・能力」の席捲》とも言える第9期小学校学習指導要領全体の特徴との関係は気になるところですが、私自身の分析は別の機会を期したいと思います。ただ、「社会的な見方・考え方」という語句が目標記述の正面に躍り出た理由は知っておきたいので、『小学校学習指導要領(平成 29 年告示)解説 社会編 平成29年7月』の「第1章 総説 2 社会科改訂の趣旨及び要点」を見ると、次のように述べられていました。
こうした文科省の《公式説明》を当然踏まえてだと思われますが、倉持氏は「社会的な見方・考え方」について以下のように述べます。《公式説明》そのままではない説明になっています。
倉持氏は学習指導要領・学習指導要領解説における「社会的な見方・考え方」の説明を踏まえながら、上述のコメントの最後で、《これは目標設定ではない(=手段である)》と喝破しています。学習指導要領解説も「社会的な見方・考え方」の語義を「課題を追究したり解決したりする活動において,社会的事象等の意味や意義,特色や相互の関連を考察したり,社会に見られる課題を把握して,その解決に向けて構想したりする際の視点や方法」 と説明していますが、重要なのはそうした「視点や方法」を用いて社会をどう見るのか、その認識内容(もちろん一人一人の価値判断を含んで)ですよね。倉持氏もそのことを続く文章で以下のように述べています。
私もまことにその通りだと思います。私自身、卒業論文「社会科教育における児童の認識形成過程についての検討」(1977.1提出)への取り組み以来、子どもの「社会認識」に関心を抱いてきました(社会科教育から教育課程論に担当分野を変更した三重大学教育学部赴任-1989.4-以降は継続的に追求できていませんが)。これまた私の学習指導要領分析の不足ゆえに、文部省/文部科学省が学習指導要領の文面において一度でも「社会認識」あるいはそもそも「認識」という用語を用いたことがあるかの渉猟ができていませんが、私も子どもたちが社会に生活し、社会について学ぶ過程で形成されていく「社会認識」こそが学習の途中や到達点についての子どもの自己意識として極めて重要だと考えてきました。私も「社会認識」という大概念のもとでこそ、その途中の到達点であったり認識深化の手段であったりする「見方・考え方」というものも位置付き得ると考えています。私のこの考え方は、倉持氏の以下のような課題意識と重なる部分が多いと考えます。
倉持氏は続く「Ⅱ.研究の目的」において、 第9期小学校学習指導要領社会科の「目標」にあるような認識の目的も対象も価値判断も明確ではない「社会的な見方・考え方」ではなく、倉持氏自身が小学校教育の実践者として生活科や社会科を通じて子どもたちに形成したいと願ってきた社会認識(①生産労働認識、②空間認識、③時間認識、④人権意識)のうち②と③は第9期小学校学習指導要領と共通するが、異なるのは①だとして、次のように述べます(このあたり、学習指導要領を批判しつつもそれを《踏み台》にしながら実践の拡張・展開を図ろうとするしたたかさを、佐藤は勝手に感じています)。
上記引用中の註番号(2)では、以下の研究報告書に言及されています。
木全清博・倉持祐二・前田賢次「社会科における生産労働実践の総合的調査研究」研究成果報告書 2011年3月(2008-2010年度科学研究費補助金〔基盤研究(C)〕)
私自身はこの科研費共同研究に参加していませんが、それに先立つこと約20年前の、上記研究グループの前身とも言えるであろう共同研究に参加していました。先の「教育学文献学習ノート(34)-1」の冒頭で少し言及した、大阪教育大学の石井郁子研究室、森脇健夫研究室、さらには滋賀大学木全清博研究室を拠点に続けられていた「社会科学と教育研究会」で、小学校社会科における「生産労働」学習実践を継続的に検討していたのです。私の手元には、その頃の研究活動の《名残》として、例えば以下の学会発表資料が残っています。
社会科の授業を創る会の生産労働実践―戦後社会科実践史の分析(6)―
第39回日本社会科教育学会・第38回全国社会科教育学会合同研究大会(1989.8.20 上越教育大学)
報告者:木全清博(滋賀大)・佐藤年明(三重大)・森脇健夫(三重大)・岸本実(京大院)・福田秀和(大教大院)
研究がその後も継続されたことをうれしく思いますし、倉持論文で知り得たこの科研研究報告書も読んでみたいと思いました。
Ⅰ節の末尾で倉持氏は本論文の研究の目的を以下のように明示しています。
方向性の明確でない「社会的な見方・考え方」ではなく、生産労働を中核において社会を把握する社会認識の形成こそ民主主義社会の担い手を育てるという学校教育の基本目的に合致した社会科の目標設定であることを倉持氏は明確にしています。
「Ⅲ.研究の方法」では、倉持氏は以下のように述べます。
奈良教育大学附属小学校(以下本稿中では「附属小」と略記)は倉持氏のかつての職場であり、「教育学文献学習ノート(34)-1」で取りあげた倉持氏の著書も同校での教育実践にもとづいてまとめられています。
*佐藤註:同校の校名表記は同校HP、Wikipedia、菊池省三・原田善造『子どもを主人公にした奈良教育大学附属小学校の豊かな教育』(喜楽研 2024)では「附」の字が使用され、一方倉持氏の本論文や、奈良教育大学付属小学校編『みんなのねがいでつくる学校』(クリエイツかもがわ 2021)では「付」の字が使われています。それぞれに経緯と理由があるのかもしれませんが私は承知していませんので、便宜的に以下の略称は「附属小」と表記します。
一方、本論文は2024.2.22刊行となっており2023年中には執筆されていたであろうと思われますが、その間奈良教育大学と奈良県教育委員会(・文科省?)の共謀による附属小の実践への強権的管理・弾圧が進行しつつありました。本論文「Ⅳ.結果および考察 Ⅰ.奈良教育大学付属小学校の生産労働実践の変遷」を倉持氏はかつての職場の非教育的な変貌に心を痛めながら、附小実践の成果をあらためて教育学的に析出するという意図の下に書かれたのではないかと、勝手な想像ではありますが私は推測しています。
「1 (1)生産労働認識を育てる『社会認識の系統表』」で倉持氏は奈良学芸大学附属小の時期の1965年に発表された「社会認識の系統化―生産と労働を中心として―」(工業・農業の認識系統表)を紹介し、この系統表には「学習指導要領に示されている相互依存の関係として社会を機能的にとらえさせるだけでなく、事実や実態に即して矛盾や対立の関係として社会をとらえさせようとしている点に特徴がある。矛盾や対立に目を向けさせてこそ全体的、構造的な社会認識に向かわせることができるとしている。」(P.93)としています。
系統プランを授業へと具体化する上で、以下の点が重視されました。
そして実践例として2学年西田学級「工場で働く人々」が紹介されます。授業は第1時工場に勤める人がもらう給料―第2時大きい工場と小さい工場―第3時毛布工場の見学―第4時見学後のまとめ、と進みますが,第4時の話し合いで、「子どもたちが印象に残ったことは、羊毛のくさい臭いがいやだったこと、機械のところにいるとものすごい綿ぼこりがつもっていたのがいやだったことだった。また、1日中立って働いている女の人はつらいだろうなと感じていることだった。なぜ臭いのか、毛のほこりをしずめられないのか、など働く者の側に立って考えさせることはできなかったという。」(P.94-95)とのことです。倉持氏は次のように分析します。
倉持氏のコメントをなるほどと思って読みましたが、こうした実践上の課題が明らかになったのは、附属小の教師集団が学習指導要領に拘束されずに自由に教育内容プラン・授業プランを作成し、また学習の中で子どもたちの声をきちんと受けとめてそれにもとづいて実践を総括したからこそだとも思います。
「(2)付属小学校の生産労働実践の展開」によると、1970年代に改訂された附属小の認識系統表は、1960年代のものと一部を除いてほとんど変更されなかったそうです。民間教育研究運動の中では「1960年代には、社会の科学的認識は低学年では困難なので、低学年から社会科はやらない方がましだという主張があ」(P.95)りました。私が卒業論文で批判的に取りあげた教育科学研究会社会科教育部会などがまさにその主張の中心でした。しかし附属小はそうではなく、「民話によって昔の民衆の知恵や民族の遺産に素直に感動させたとしても、現代社会の動きや否が応でも子どもたちの社会認識を形成していく。子どもたちが育つまで社会認識教育は待っていられない。人々は職業を持って生産に携わっていること、父母はどんな社会的な関連の中で仕事をしているのかを教えないで見送ってしまうわけにはいかないという立場」(P.95-96)をとりました。附属小では1960年代以来見学学習が重視されていましたが、1970-80年代に入ると以下のように新たな授業方法が提案されます。
そして倉持氏は、1970年代の認識系統表を越えた新たな教育内容が生み出されていくとして、櫻本豊己氏の小学校4学年・3学年の授業実践を紹介しています。ここでは先に進むために割愛しますが、一言だけ関心事を述べると、櫻本氏の3学年「奈良漬工場」実践(附属小『みんなの胸に'94』所収)と私が「教育学文献学習ノート(34)-1」の中で言及した倉持氏の3学年「森さんの奈良漬けづくり」を比較検討したらおもしろいだろうなと思います。
「(3)付属小学校の生産労働実践が提起する教育内容と労働観」の冒頭で、倉持氏は以下のように学習指導要領を批判します。
そして生活科や中学年社会科の動向を批判し、「地域に根ざす」研究・実践の到達点についての川本治雄や峯岸由治の見解を紹介した上で、再び附属小教師である櫻本豊己の以下の見解(奈良漬工場の実践記録に所収)を紹介します。
そしてこれを受けて倉持氏自身の見解として、以下のように述べています。
低学年では労働の学習は難しいと断定して回避してしまうのではなく、低学年から人間の労働の現実に向きあわせたい。しかしそれは、資本主義社会における過酷な労働の実態にいきなり向きあわせるというのではなく、人間が労働を通じて世界を作り変えていく(有用なモノを作り出す)姿を、「人間の知恵」として、また子ども自身がいずれはそういう方向へと成長していきたいと憧れを持てるような「労働の専門性」のリアルな姿としてつかませたい、ということですね。
さてここで議論は一転して(もちろん生産労働を学ぶ教育実践の成果を検討するという流れは一貫していますが)、附属小実践から離れて鈴木正氣実践の検討に移ります(2 鈴木正氣が提起した生産労働実践の意義)。
鈴木正氣先生....懐かしいです。すでに本ブログのいくつかの所に書いていますが、私は1975年、大学3回生の時、京都大学教育学部での坂元忠芳先生の発達論集中講義から大きな刺激を受け、その夏の教育科学研究会伊豆長岡大会に初めて参加しました。その年は坂元先生も世話人である「能力と発達と学習」分科会に参加しましたが、翌年から卒業論文で社会認識・社会科教育を研究しようとしていたこともあり、「社会認識と教育」分科会や同部会に参加するようになりました。そこで茨城県日立市の小学校教師であった鈴木正氣先生に出会いました。私の手元には以下の3冊の鈴木先生の単著があります(第二著、第三著は,鈴木先生からご恵贈いただきました)。
『川口港から外港へ―小学校社会科教育の創造―』(草土文化 1978.8.10)
『学校探検から自動車工業まで 日常の世界から科学の世界へ』(あゆみ出版 1983.8.10)
『支えあう子どもたち 見えない世界に挑む社会科の授業』(新日本出版社 1986.7.20)
『川口港から外港へ』(1978)の「はじめに」によると、私が教科研「社会認識と教育」分科会に初めて参加した1976年度は、鈴木正氣先生が「いさばや」(3学年)の実践を行われた年であり、その後の「川口港から外港へ」(1978年度)、さらに『学校探検から自動車工業まで』(1983)に収録された「学校たんけん」(1学年 1978年度)、「くじ町絵図つくり」(1学年 1978年度)、「生きている久慈町」(3学年 1979年度)、「いろいろな土地のくらし」(4学年 1980年度)、「自動車工業」(5学年 1981年度)という一連の実践報告については、私はいずれも実践年度もしくは翌年度の教科研大会「社会認識と教育」分科会、あるいは「社会認識と教育部会」の研究合宿等の場で直接報告を拝聴したと思います。また、1979年度教科研第18回大会(高野山)と1980年度
第19回大会(蔵王)のそれぞれの「社会認識と教育」分科会では、私は分科会世話人の一人として、『教育』誌に以下の分科会報告を執筆しました。
佐藤年明「子どもの社会認識の現状と発達のすじ道の解明にむけて―研究方法論の仮説的提起を―」(『教育』No.378 1979.11増刊 P.75-81)
佐藤年明「地域と子どもの現実に根ざし科学的認識の形成をめざして」(『教育』No.391 1980.11増刊 P.74-80)
さらには、これはちょっと余談に過ぎるかもしれませんが、私と、研究仲間であった佐藤幸也氏・杉浦英樹氏は、鈴木正氣氏の『学校探検から自動車工業まで』に刺激を受けて佐藤幸也学級(宮城県岩出山小学校)での実験授業(実践者である佐藤幸也先生の事故・入院というアクシデントに見舞われて予定した「自動車工業」の授業まで進むことができなかったのですが)の分析を『教育』誌No.511(1989.8)に投稿しました(佐藤幸也・佐藤年明・杉浦英樹「小学校5学年『工業学習』の共同研究」)。
私は宮城教育大学在任期間(1986.10-1989.3)までは大学教師としての担当領域を社会科教育としており、その時期までは自分の研究論文・学会発表等もほとんど社会科教育に関するものでした。修士論文以来アメリカの1960-70年代social studiesの研究も進めていましたが、日本の社会科教育実践について主要に学んできた場は教科研「社会認識と教育」分科会/部会でした。
さて、倉持論文の検討から急に離れて、長々と鈴木正氣先生と自分との関わりを書いてきました。ただ、自分としてはこれは倉持論文の後半(Ⅳの2・3)について書く上で通らなければならない必然性があるルートでした。
本論文「2 (1)鈴木実践の『支えあう分業』をテーマとする生産労働実践の評価」では、表題のことについて倉持氏は以下のように書いています。
続いて倉持氏は、「鈴木の『支えあう分業』をテーマとする生産労働実践に対する積極的な評価」(P.100)として、まず中西新太郎「社会科教育における『科学」の再把握―鈴木正氣氏の実践と構想における労働過程の位置づけをめぐって―」(1982)を紹介し(佐藤註・中西氏とは私も教科研大会「社会認識と教育」分科会で何度かご一緒した記憶があります。)、それに続いて何と以下のように拙稿を紹介して下さっています。
理系を中心に、あるいは研究業績競争の激化に伴って学術論文の「被引用数」、つまり自分が発表した論文について他の研究者がどの程度言及しているかということがある研究者の研究能力・研究業績を測る重要な尺度になっているようですが、私自身について言えば他の研究者に拙稿を引用していただいたと記憶している事例は少なく、「被引用数」で他から高く評価されるような教育学研究者ではありません。しかし、本論文で倉持氏に以下の拙稿を引用・紹介していただいたことは大変うれしく思っています。
佐藤年明「小学校5年工場学習における労働認識についての一考察―自動車工場の組立ラインにおける『サイクルタイム』の認識をめぐって―」(三重大学教育学部研究紀要第42巻(教育科学) 1991.3)
なお、上記の拙稿については、現在でも三重大学学術機関リポジトリ研究教育成果コレクションの以下のページからリンクを辿ってダウンロードすることが可能です。
https://mie-u.repo.nii.ac.jp/records/2556
拙稿(1991)の「7.『サイクルタイム』を理解させることの意味」の末尾の部分の趣旨を倉持氏は正確に要約・紹介して下さっているのですが、念のため原論文の該当部分を引用させて下さい(下線は佐藤が後から付け加えました)。
繰り返しますが、倉持氏の要約紹介は的確であり、私の鈴木実践評価の勘所をしっかりつかまえていただいています。にも拘わらず私の原文を紹介したのは、倉持論文の検討からまたまた脱線してしまって大変恐縮なのですが、拙稿(1991)の《執筆動機》についてぜひともここで紹介しておきたいと考えたからです。上記引用の冒頭に私は、敢えて引用部分にはないその直前の叙述のまとめ的な意味を持つ「以上で、鈴木の自動車工業実践における教育目標の構造の中に、『サイクルタイム』の理解が不可欠のものとして位置づいていることを確認した。」という部分を入れました。また、引用部分の最後を、「そして、『サイクルタイム』の理解も、この文脈の中に位置付いているのである。」と結んでいます。そう、拙稿の副題にもあるように、拙稿(1991)での私の鈴木正氣実践分析のキーワードは、「サイクルタイム」なのです。
拙稿(1991)」の「2.宮原武夫の鈴木正氣実践批判における誤解」を、(全文では長すぎるため)事実認識を損なわない範囲で中略しながら再録します。
宮原武夫『社会科教育入門』(大月書店 1989)における鈴木正氣氏の「自動車工業」実践(1981年度)への批判を読んだとき、私は大変驚きました。それは、宮原氏が現代の自動車工場の製造過程における「サイクルタイム」というものに対して全く無知であり、その無知を前提にして鈴木実践を批判していたからです。教育実践についてさまざまな立場から生産的な論争が交わされることは望ましいことですが、明らかな事実誤認や学術的な認識不足に基づく一方的批判は糺されなければならないと私は考えました。鈴木実践への批判ですから、それへの反論は鈴木氏自身から行なわれるのが順当です。鈴木氏と教科研「社会認識と教育」部会でともに活動してきた私は、そのような意見を鈴木氏に対しても申し上げたと記憶するのですが、鈴木氏自身はその行動を起こされませんでした(全くの私の憶測ですが、鈴木『学校探検から自動車工業まで』(1983)には「第1章「日常の世界」から「科学の世界」へ 五 第一章をとじるにあたって 1 宮原氏からの再批判への反論」という一節があります。そこで述べられていることは拙稿(1991)で私が問題にしていることと全く別のことではあるのですが、私の憶測では過去の論争の経緯もあって鈴木氏は宮原氏への反論に積極的意義を見出されなかったのかもしれません。)。そこで私は、鈴木氏にも了承を得て拙稿(1991)を執筆しました。 公表した拙稿をめぐって、鈴木氏とも、そしておそらく宮原氏とも、なんらかのやりとりをしたと思うのですが、30数年前のことであり、記録も記憶も残っていません。
ともあれ、拙稿(1991)の続く叙述における私からの宮原批判を紹介します。
詳しいことは承知していませんが、宮原氏や氏が所属する歴史教育者協議会と鈴木正氣氏の間で、社会科教育の研究と実践を巡って論争があったと聞いています。ただ、上記で紹介した問題は、全くの事実誤認にもとづく宮原氏の一方的な批判であり、私はその事実認識を糺しただけで、それは論争以前の問題です。ただ、このことだけを書いても学術的には全く生産性がないということは当時の私も自覚しており、拙稿(1991)では《宮原氏への(代理)反論》を枕において、小学校5年工業(自動車工場)学習における「サイクルタイム」認識を鈴木氏が何故に重視したかということと、5年生の子どもたちが「サイクルタイム」をどこまで捉えることができたのかについて、鈴木氏の実践記録を丁寧に検討することを通じて明らかにすることを課題としました。拙稿の結論部分(「8.おわりに」)を再録します。(copy&pasteの都合で引用の最後から2段落目の前に空白部分がありますが、意味はありません。)
長々と紹介しましたが、いま自分で読み返してみて拙稿(1991)の結論部分では社会認識教育/小学校社会科教育の教育内容としての「サイクルタイム」の位置付け方にもっぱら関心を集中しています。そして、サイクルタイムの2つの側面(生産過程の組織原理としての合理性・労働者を拘束する条件としての非人間性)について「論理的に把握することは、5年生にはむずかしいであろう」と判断した上で、そうではあっても「だが、正確な理解がむずかしいとすれば、『サイクルタイム』自体を扱わないほうがよいのだろうか。筆者はそう考えない。」と述べています。引用の繰り返しになるのでここまでにしますが、ここでの私の考察は「サイクルタイム」を小学校5年生の《子どもの論理》でどこまで認識可能かという論理問題に終始しています。しかし、(昨日2025.1.10以来拙稿と、関連して鈴木氏の実践記録の一部を読み直す中で思い出してきたのですが)鈴木正氣先生は自動車工場における「サイクルタイム」を、決して認識として把握する《論理・規則性》としてのみ子どもたちに伝えようとしたのではなかったのでした。
鈴木氏は『学校探検から自動車工業まで』(1983)の「第2章社会科の授業と子どもたち 五自動車工業 3授業の記録 (2)ボールペンの大量生産」において、次のように述べています。
拙稿(1991)において私は、鈴木氏の実践記録の上記部分について、以下のようにコメントしています。
そこで、鈴木(1983)の上記引用に続いて紹介されている吉村直子さんの作文を見てみましょう。
拙稿(1991)でも上記の吉村直子さんの作文を紹介して以下のようにコメントしました。
先に私が批判的に紹介した宮原武夫氏は、「サイクルタイム」自体についての根本的誤解と、「このようにかなりの子どもが2分間で1台自動車ができる、80秒で1台の割で自動車ができる、それがわからないと言っている。この鈴木先生が第1次の授業で一番力を入れた部分『自動車の組み立ての秘密』を、かなりの子どもが理解できないというのは、驚くべきことです。」(宮原(1989) P.110)という実践記録理解にもとづいて「ベテランの鈴木先生が、なぜこのようなヘマをやってしまったのでしょうか。」(同)と嘲笑的なコメントを投げかけていますが、私は鈴木実践における子どもたちの自動車工場学習における認識上の模索から学ぶべきものは多々あると考え、拙稿(1991)ではさらに、(上記の鈴木(1983)には掲載されていないのですが)鈴木氏が自動車工業の実践記録を最初に公表した教育科学研究会第21回全国大会「社会認識と教育」分科会レポート「5年社会科産業学習での自動車工業の扱い」(1982) から高橋智美さん、石川陽子さんの作文なども取り上げて分析しています。しかし、倉持論文で取り上げていただいた拙稿の内容の範囲からますますかけ離れていくのでここでは省略します。
さて、ここまで書いてきた原稿の半分以上の量を鈴木正氣「自動車工業」実践(1981)とそれに関する拙稿(1911)での分析の問題に費やしてしまいました。倉持論文の紹介として書き始めた原稿としては大変失礼な展開になっているかと思いますが、私としては1970年代から1990年代初め頃まで取り組んだ社会認識/社会科教育研究、とりわけ鈴木正氣実践から学んだものが倉持論文での拙稿紹介に触発されてどんどん想起されてきて、それを書き留めておきたい気持ちに押されてここまで書いてきました。
鈴木正氣氏の実践・研究に関する正確な年譜が手元になく、ネット検索しても出てこないのですが、鈴木氏は茨城県日立市の小学校教諭を退職された後、茨城キリスト教大学、さらに滋賀大学教育学部で6年間教員養成に取り組まれました。私の手元には「私の社会科教育実践史」(1996.2.10)と題する鈴木氏のレジュメと、1996.3.8付の鈴木氏からの退官記念講演・パーティー参加への礼状が残っています。当時住んでいた三重県津市から珍しい雪の風景の中のJR関西線・草津線を経由して滋賀大学へ鈴木先生の退官記念講義を聴きに行きました。
『教育』No.827(2014.12)に、木戸口正宏「鈴木正氣さんを偲ぶ」が掲載されています。鈴木先生は2014年8月に亡くなられたそうです。ご著書の生年記載から83歳前後であったとわかります。私は晩年の鈴木先生と交流がありませんでしたが、改めて御冥福をお祈り致します。
倉持論文では、鈴木正氣実践に関する先行研究として、拙稿(1991)に続いて『杉原四郎著作集Ⅰ 経済の本質と労働 マルクス研究』(2003)を紹介し、それに関連して越智保則「マルクスの『労働』概念についての一考察」(1971)を紹介した上で、以下の通り再び拙稿に言及して「2 鈴木正氣が提起した生産労働実践の意義」を結びます。
ちなみに私は、いままさに不当な教師つぶし・教育実践つぶしと裁判を含めて闘っている奈良教育大学附属小学校の、まだそうした攻撃が表面化・全面化する前の第48回教育研究会(2022.11.12)で同校教師・鈴木啓史氏の研究指導「工業 工業製品と貿易」(5年)を参観し、授業後の分科会にも参加しました。同じ研究授業・分科会に倉持氏も参加されていたと記憶します。鈴木啓史氏の学習指導案では、6つの「目標」を掲げています。
上記の鈴木啓史氏の学習指導案には、日本の工業の現状認識において1980年代の鈴木正氣氏の自動車工場実践と共通する部分はもちろんあるでしょうが、一方様変わりしている部分もありそうです。私は日本の工業発展史については素人ではあり、上記学習指導案における「(逆委託)加工貿易」という用語や、かつてのように「下請け」というような用語を使わず「関連工場」と表現していることなどを初めて知りました。言及していませんでしたが、鈴木正氣実践では下請けの町工場も見学し、学習しています。しかし鈴木啓史氏の学習指導案によれば、産業構造・経済構造の変動により、現在では部品をアジアに輸出して現地で組み立てた製品を輸入している(「(逆委託)加工貿易」)というのです。もちろん1980年代当時においても、巨大・膨大な自動車製造過程の中で5年生の子どもたちが実感的に学び認識できる部分は限られてはいたでしょうが、現在では子どもたちの目には《自動車をつくるという営み》はますます見えにくくなっているでしょう。そして、そのことから直接に類推してしまうことはできないにしても、2020年代の小学校社会科工業学習において、《「サイクルタイム」を把握すること》を果たして学習の到達目標の中心に位置付け得るかどうかは、慎重な検討が必要でしょう。しかしそれでも、分解したボールペン部品の組み立てという「サイクルタイム」の疑似体験なども含んだ鈴木正氣実践の《子どもたちが、疑似的生産労働を重要な媒介としながら日常の世界から異質な科学の世界へとわたっていく》という学習指導戦略は、その具体的内容を必要に応じて修正することは必要であるとしても、引き続き有効ではないかと私は思うのです。
さて、ようやく倉持論文の「3.2つの生産労働実践から導き出される到達点と課題」まで到達しました。ここで倉持氏は、「付属小学校と鈴木の実践から、1980年代の生産労働実践の到達点を探ってみたい。」(P.101)としています。
まず付属小実践については、
また鈴木実践については、
そして両者を比較してこう述べます。
上記の末尾で倉持氏が《気にかけていること》は、私が一つ前の行論で鈴木啓史実践の学習指導案をきっかけに述べたことにも繋がっているし、また大きく言えば《学校教育を通じて子どもたちの社会認識形成をどう支援していくのか》という課題にも繋がります。
倉持氏は、木全清博「工業のあゆみ―何がどう教えられてきたか―」(1990)に依って、1960~90年代の生産労働実践における小学校5年工業学習の変遷を以下のように概括しています。
倉持氏は本論文の結論部分「Ⅴ.まとめ及び今後の課題」で、 次のような問いかけをしています。
産業構造の変化、企業の雇用方針・労働者処遇の変化、大きくはそれらにも影響され、規定されながらの日本人、特に若者の労働観の変化、そしてそれらとも関連しているであろう小学生の労働認識・労働観の変化。それらに社会科教育がどう対応していくのか。さらには、2040年代頃に現在の人間労働のほとんどが不要になる(AIなどに取って代わられる)という《予想》などもきっかけになって人間にとって労働が主要な営みではなくなるような、AIでカバーできない部分の労働を行なうことが生身の人間の存在価値であるかのような人間観・労働観が流布され拡大している状況などに鑑みると、小学校、中学校、高校、大学やその他の様々な教育機関で「労働」についてどう教えるかの検討はますます喫緊の課題なってきていると私は思います。
以下は倉持論文の最終部分、結論です。
私は、上記の倉持氏の提案に全面的に賛同するとともに、さらに探究を進めていくために一つの検討課題を示したいと思います。それは「肯定的に」の内容をさらに掘り下げていく必要があるということです。
唐突な話と思われるかもしれませんが、近頃世間を騒がせている海外に拠点を置いた詐欺・強盗殺人集団の問題があります。全容解明や摘発はまだまだの感がありますが、彼らのやっていることは「労働」でしょうか? 労働の学術的定義にもとづけば一笑に付されてしまう議論かもしれませんが、件の犯罪者集団に属する人間はさまざまな経緯とか集団内の脅迫・強制の中で動いているにせよ、また他者の金品や生命安全を犯すという不当な手段によってではありますが、とにかくそれによって《生業を稼ぎ、生きている》わけです。彼らの所業を《肯定的に》評価できないのはもちろんのことですが、一方世の中には法に照らして明確に犯罪ではなくても犯罪ぎりぎりであったり、あるいは倫理的には到底許されないような手段で《生業を稼いでいる》人々もいます。彼らの所業を《生業を稼ぐ》という意味で一応「労働」と呼称するとして、それに対する《肯定的評価》が世間常識的にも、ましてや学校教育の素材として得られないことは当然です。
敢えて否定的な反証の側から考えたのですが、それでは一般論として《肯定的に評価できる労働》とは何でしょうか? これは意外とやっかいな問いだと思うのです。
すぐに常識的に思いつくのは《人様のお役に立つ労働》ということです。だがしかし、《お役に立っている》とは誰が判断するのでしょう。例えば子どもたちが日頃行くスーパーの店員さん、スーパーの野菜をつくってくれた農家の人、道路工事をしている人、バスや電車を運転している人……このように子どもを主語として自分の日常生活で《お世話になっている人》を想定することは現在の社会でも比較的容易です(かつては小学校低学年社会科「はたらく人シリーズ」で学ばれていたことです)。
しかし、現在の子どもたちは身のまわりの生活圏から得られる以外のたくさんの情報に囲まれています。たとえば、またまた唐突ですが、子どもたちの「なりたい職業」の上位にユーチューバーがあると聞きました(余談ですが、私の小2の孫もYouTubeデビューしています^^;)。視聴者数が一定以上の多数になれば収入が得られ、莫大な視聴者を抱えるユーチューバーはそれで生活していけるとか。このユーチューバーとは《人のお役に立つ労働/職業》なのでしょうか? もちろん視聴者の関心を満たすことで視聴者の利益になり、SNSプロバイダにも広告収入等という利益をもたらすので、《お役に立っている》とは言えるでしょう。よく知らないユーチューバーについての談義はこれ以上続けませんが、こうした新しい《職業》の登場、あるいは先に見た反社会的な犯罪行動なども視野に入れながら、《肯定的に評価できる労働》とは何かを定義することは簡単ではありません。それは個人個人の価値観にも関わることですし、下手をすると《職業の貴賎》論議とか《職業差別》を誘発しかねない事柄でもあります。
学校教育は《社会のタテマエの押しつけ》であってはならないし、《現実から遊離した理想像の伝達》であってもならないと思います。しかし一方、(例えば労働について)《リアルな現実そのもののなにもかもをいっぺんに教えてしまう》ようなやり方では、子どもたちは混乱し、何もつかむことができないでしょう。
●労働し、それによって生活している大人
●大人の労働の成果によって生活することができ、また自らも様々な形で社会における労働から影響を受けている子ども
さらには、
●自らは労働に参加することができないが、社会の労働の成果の享受や様々な支援を受けて生活し、労働とは異なる形で社会と繋がっている障害を持つ人や高齢者
などの存在について、少しずつでも認識を広げながら、子どもたちには《肯定的に評価できる労働》とは何なのかを意識し、深め、自分事にしていってほしいです。これは社会科教育の課題であり、学校教育の課題であり、社会全体の課題であると思います。
倉持論文を読むことで、私自身としては1990年代以降中断・休止したままの社会認識/社会科教育研究について再び考える機会を持つことができました。今後その研究を全面的に再開することになるかどうかはわかりませんが、少なくとも倉持氏との議論は続けていきたいと思います。
倉持さん、貴重な思考の機会を与えていただき、ありがとうございました。
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