49 教育学文献学習ノート(37)中村(新井)清二「総合学習の『総合性』の原理的問題」(2023)
(『教育方法学研究』第48巻所収 2023.3.31発行 2025.3.12通読)
まずは私のブログの流儀に従って、中村(新井)氏.....と書くとカタイので清二さんとの個人的な交流の経緯から書きます。
清二さんとは、私が十数年のブランクを経て教育科学研究会の活動に復帰した2010年代に知りあったんだと思います。2016.3.12に草津市で「教科研若手の会(西)」という教育実践検討の会が開かれ、私も参加しました。そこで「東」から来ておられた「若手」の清二さんと南出吉祥さんに出会いました。この会の時、当時私が断捨離を進めていた教育関係雑誌のバックナンバーを並べて希望者に無料配付しました。参加されていた清二さんにその後『子どもと教育』・『日本の民間教育』のバックナンバーをお譲りし、Facebook/Messengerでの交流を開始しました。
その後、『教育』No.874(2018.11)特集1「『学校×性』のタブーを超えよう」を清二さんから依頼されて書きました。このときは、自分の専門にドンピシャであったことから原稿の内容に強いこだわりもあり、校正のやりとりで清二さんにご苦労をおかけしました。
2019年初頭には、清二さんに拙著『「生きる力」批判』を謹呈しました。
その後本ブログで、清二さんのご論稿を取り上げて以下の投稿をしました。
3 教育学文献学習ノート(22)-1 神代健彦編『民主主義の育てかた 現代の理論としての戦後教育学』(2021) はじめに(神代健彦)・第8章 民主教育論(中村(新井)清二) (2021.9.3)
https://gamlastan2021.blogspot.com/2021/09/322-2021.html
上記投稿の前半は神代健彦編『民主主義の育てかた』の神代氏による「はじめに」を取り上げ、後半で清二さんの「民主教育論」を取り上げています。
当時、清二さんに上記の投稿をしたことをMessengerでお知らせしたところ返事をいただき、佐藤の研究来歴と重ねて書かれていておもしろかったこと、一文一文パラフレーズされていたので表現不十分なところなどを見直すことができたこと、また、学習と学習行動の区分、「概括」についての検討をさらに深めたいことなどが書かれていました。
私自身が清二さん、神代さんらの年代だった頃は、自分の研究の軸足を授業づくりネットワークに移していた時期(1980年代後半~2010年代前半)のまっただ中で、その時期に教科研に参加されるようになった自分より若い研究者との交流が欠落していました。ですから清二さんたちの世代の研究者との交流は、私にとってすごく刺激になっています。
なお、上記のブログ投稿を再構成して、京都教科研通信に連載させていただいている「私の研究ノート」の第14~18回(2022.5-9)で取り上げ、その原稿も清二さんにお届けしました。
2022年8月には、私の上記連載原稿で言及した城丸章夫の「概括」概念に関わる原著論文について清二さんに質問し、該当する城丸の原著資料を送っていただくことができました。
そして、ようやくここからが(^^;)、今回の投稿に繋がる話です。
2022.10.1の日本教育方法学会第58回大会で、清二さんが自由研究発表「城丸章夫の『学習の総合化』論の検討―教科指導における『学習の総合化』にむけて―」を行なわれました。当日、私はzoomで清二さんの報告を聞きました。そして清二さんのfacebookへの投稿に何かコメントしたようです(facebookの他の人のページの「フィルター」というボタンを押して過去の投稿を閲覧しようとしましたが、できないみたいです)。私のコメントに清二さんが「ところで、拙報告のときに入られましたか?一瞬、お名前が見えました。もしよければ、コメントいただければ嬉しいです!」とコメントを返してこられ、それに対して私が、「いただいた発表資料を昨日からまだ読み返せていないので、いずれ近いうちに!」再度返しました。それから私は清二さんの学会報告資料ファイルを読み返し、本気でコメントするという前提で清二さんに以下のようなお尋ねをしました。
これに対して清二さんからは、学会発表資料をもとにして日本教育方法学会紀要への投稿を考えていること、コメントは個人的にもらいたい旨のお返事がありました。私は了承し、その後2ヵ月半ほどかけて清二さん個人宛のコメントを作成し、お届けしました。その3か月後に清二さんから学会紀要への掲載が決定したとお知らせがあり、さらに1年ほど経って、中村(新井)清二論文が掲載された『教育方法学研究』が刊行されました。
その時点で私は、これで2022.10.1の日本教育方法学会大会での清二さんの報告資料ではなく、公刊された中村(新井)論文について自分のブログという「公的な場」でコメントしてもかまわなくなったと判断したのですが、実際にその作業を開始したのは、なんとそれから2年後になってしまいました。その間、清二さんに対してブログに書くということや、いついつまでにそれをするということはお知らせしていなかったのですが、自分の中では必ず書こうと思っていました。
長くなりましたが、そういう経緯です。ここからは2022.12.30に清二さんにお送りした個人的コメントの原稿を下敷きにして、それを改稿して書いていきます。
前提作業として、まず当たり前ながら学会誌掲載の中村(新井)清二論文を通読しました。2022.10.1学会発表時の配付資料「城丸章夫の『学習の総合化』論の検討-教科指導における『学習の総合化』にむけて-」と対照しながら読みました。両者を比較すると、書き加えられた部分もあり、一方で刈り込まれた部分もあって、清二さんの改稿の努力の跡がうかがえます。私が清二さんに送付した個人的コメントメモのうち、学会紀要掲載の確定稿で修正されたり削除された内容に関するものは、以下の記載では当然削除しますまた学会発表資料と比較して新たに書き加えられた部分については、当然新たに検討しなければなりません。こうした作業がうまくいくかどうかわかりませんが、とにかくやってみたいと思います。
なお、言わずもがなのことですが、2022.10.1の清二さんの発表時配付資料と『教育方法学研究』第48巻の両方を持っている人なら誰でも、前者と後者を比較して「この記述がこう変わった」「ここは変わらない」などのことを確認することは可能なわけですけれども、私自身はそのような形でコメントするつもりは毛頭ありません。記述の変化は202210.1の学会発表時点から学会誌掲載が決定された確定稿に至るまでの清二さんの研究の進展の反映であり、基本的に同じ研究テーマで探究を継続されているわけですから、最新の研究成果である学会誌掲載論文の方だけを検討させていただくのが当然だと考えます。
以下、中村(新井)論文の構成に沿って叙述の一部を引用し(青字部分 下線は佐藤)、矢印(⇒)を付けて佐藤のコメントを付します。なお、ここからは学術論文検討のマナーとして「清二さん」では馴れ馴れしすぎると思うので、「中村(新井)氏」と呼称することにします。
1-1. 問題の所在 総合学習の総括をめぐって
⇒上記2か所の引用を繋げてみると、本稿における中村(新井)氏の課題意識は
➀「総合的な学習の時間」以前を含む(戦後?)総合学習をめぐる議論、とりわけ1970年代の「総合学習論争」を検討対象とし、
②「総合的な学習の時間」の教育課程上の根拠が(「相互環流」関係にはあるが「学習の質」が違う教科学習との比較において)「総合性」にあるという先行研究(若林・田中)を紹介し、
③しかし若林・田中の「総合性」という「総合学習」の特質の措定が、1970年代「総合学習論争」における城丸の「領域化」批判を踏まえていないのではないかと疑問を呈する、
というものであると読み取りました。
⇒結局1-1を全文引用してしまいました(^^;)。中村(新井)氏の研究課題意識にきちんと向き合うために必要な作業としてご了承下さい。
課題意識部分を読んでの私のとりあえずの仮説は、中村(新井)氏が城丸の「学習の総合化」論を支持し、その立場から本稿を書いておられるだろうというものです。もちろん全面支持かどうかは後の行論を読み進めてみないとわかりませんが、少なくとも本稿で検討される諸説との関係において中村(新井)氏は城丸支持の立場だと予想しました。
中村(新井)氏は1-1の中ではまだ、城丸自身の「学習の総合化」の定義or説明を引用されていません。城丸の言う「学習の総合化」については、3-1、3-2で言及されます。
1-1の叙述に戻ると、中村(新井)氏は「総合的な学習の時間」を教育課程上に根拠づけるキーワードとして「総合性」は相応しくないと断定します。その根拠は若林・田中の言う「総合性」概念が「総合学習論争」における城丸の批判を踏まえていないから、ということです。従って本稿の課題は城丸の批判を再検討・再評価することであり、そのことを通じて「戦後教育方法史における「総合学習」の総括」、その中での「『総合的な学習の時間』の教育課程上の位置」をめぐって問題提起をすること、と私は読み取りました。
ここで少し疑問が生じます。それは、中村(新井)氏の本稿における課題意識の《外延》です。これは実は私自身の総合学習/「総合的な学習の時間」研究における課題でもあります。
疑問とは、検討する実践の対象をどこまで広げているかです。
中村(新井)氏が批判的に紹介している若林・田中論文(若林身歌・田中耕治「第8章 総合学習の変遷―教科の枠組みを超えた学習の追究とカリキュラムの創造―」 田中耕治編著『戦後日本教育方法論史 下 ―各教科・領域等における理論と実践―』 ミネルヴァ書房 2017)では、「何も日本における総合学習の取り組みは戦後に始まったものではない。」(P.161)として明治・大正・昭和初期の教育遺産を概説的に紹介した上で、「しかし、本章では戦後日本の学校教育における総合学習の変遷を描くことを課題とする。」(P.161-162)と検討対象を限定しています。そして、中村(新井)氏も検討対象を戦後の教育実践とその理論に限定されています。このことには私も何の異議もありません。ただ、「総合学習」(「総合的な学習の時間」ではなく)の概念や実践内容をどう規定するかを検討する際には、源流としての戦前教育遺産をどう評価するかということも関わってくるはずだということは(私自身何も取り組めていない研究作業なのでおこがましいのですが)指摘しておきたいと思います。
その上で戦後に視点を移すと、若林・田中論文は最初の学習指導要領一般編(試案)、1940年代後半のコア・カリキュラム連盟、明石、奈良などの附属小実践、1960年代の公害学習、1970年代の日教組による「総合学習」提案、1990年代の学習指導要領における「総合的な学習の時間」新設などに触れた上で、「総合学習」の今日的意義と課題を論じています。
中村(新井)氏もこの先行研究に触れて、そこでは1970年代「総合学習論争」における城丸の批判の意味を踏まえることができていないと批判しており、その中村(新井)氏の批判についてはこの後きちんと見ていきたいと思います。ただ、中村(新井)氏が本稿を通じて「戦後教育方法史における「総合学習」の総括」、その中での「『総合的な学習の時間』の教育課程上の位置」について問題提起をする、とされる場合に、
➀1998年の学習指導要領改訂で新設された「総合的な学習の時間」は、(戦前はいま措くとして)戦後において連綿と続いてきた「総合学習」の実践の系譜を官側も取り込んで提案したものであって民間(国立大附小なども含みますが)における教育実践の蓄積の一つの成果であると見なし、
②従って「総合的な学習の時間」をも「総合学習」の実践史の中に位置づけて論じるのか(中村(新井)氏の議論の進め方からはそうであろうと私は推測しますが)、それとも
③(➀②の立場と異なり)「総合的な学習の時間」とは民間における実践努力とは異なる文脈・意図において政策側が持ちだしたものであるという批判的立場を堅持した上で、「総合的な学習の時間」の《中味をつくりかえる》努力をする、あるいは「総合的な学習の時間」とは別のものとして「総合学習」実践の展開を期待するのか、
要するに「総合的な学習の時間」に対する政治的・教育政策的・教育実践的・教育学的評価をどうするのか、という問題です。
もちろん本稿の焦点は(民間教育運動や日教組の研究活動の中での)「総合学習」の捉え方、そこにおける城丸の「学習の総合化」の(再)評価にあるということはわかっているのですが。
1-2.先行研究の検討
まず中村(新井)氏は子安潤「教科・領域を横断する教育実践と教育方法」(日本教育方法学会編『教育方法学研究ハンドブック』 学文社 2014 第Ⅳ部第10章 P.304-309)及び先の若林・田中論文によりながら、1970年代の日教組教育制度検討委員会・中央教育課程検討委員会が「総合学習」を「教育課程の一領域」としたり「教科」としたりしたことから「総合学習論争」が生じ、その中で「領域化」の根拠が不明だとして批判の急先鋒に立ったのが城丸だったこと、城丸は「学習の総合化(構造化)」の立場から明快な「領域化」批判を行なったことを紹介します。
次に中村(新井)氏は、多くはない城丸に関する先行研究者として遠藤芳信、岩垣攝、徳島祐彌、また「総合学習論争」に関する先行研究者として金井香里を挙げますが、これらの先行研究では城丸の「学習の総合化」に言及されていなかったり、あるいは突っ込んだ検討がなされていないとのことです(私の紹介は粗っぽすぎますが^^;)。
さらに中村(新井)氏は、城丸の「総合学習」批判論に言及した研究として、賛成論(「総合学習」は領域化しえない)として子安、臼井嘉一、高橋英児、反対論(「領域化」の立場)として梅原利夫、田中耕治を挙げ、子安への田中の批判、田中の梅原論援用など論者間の関係にも言及します。また「学習の総合化」を直接取り上げ、その不十分点も指摘した研究として高橋論を紹介します。
その上で中村(新井)氏自身のこのあとの行論の展開として、梅原「領域化」説の検討(2-1~3)→城丸「学習の総合化」論の検討(3-1~3/4-1~2)→【戦後教育方法史における『総合学習』の総括】(P.87右)(5)という流れで叙述することを本項目の最後に提示しています。
2-1.総合学習固有の「学習の質」
前項目で見たように、中村(新井)氏は各種先行研究を紹介しながら城丸の「総合学習」論を位置づけていくのですが、私の検討では基本的に城丸の論に絞って見ていきたいと思いますので、梅原の「領域化」論を紹介した本節については、言及を省略します。
2-2.城丸の領域説への批判
梅原の「領域化」論(=「総合学習」を教育課程の領域として立てる立場、と佐藤は理解しました)を紹介した前項目をスルーしたため、中村(新井)論文の行論の理解において本ブログの読者をミスリードすることがあってはいけないと考えて敢えて説明を挟みますが、上記の小項目タイトルの「城丸の領域説」とは、《「総合学習」を領域ととらえる城丸の説》という意味ではもちろんありません。城丸はその考え方には反対しているのです。ここで中村(新井)氏が「城丸の領域説」と言っているのは、城丸の【教育課程の二領域説】(P.88右)のことです。この「二領域説(二領域区分)」については次の2-3冒頭で紹介されていますが、先回りして見て見ることにしましょう。城丸章夫『やさしい教育学 上』(あゆみ出版 1978 第7章教育課程 教育課程の領域 P.185)からの引用です。
なお、中村(新井)氏の上記引用の範囲では、《ではどう区分するのか?》は述べられていませんが、『やさしい教育学 上』の他の部分に以下のように書かれています。
さて、その中村(新井)氏が紹介している城丸氏の二領域説への梅原氏の批判を要約すると、
➀教科「外」=教科ではないとうことなので、どういう活動を含むのか明確ではない、ということ。
(佐藤:しかし私が追加した上記引用では、二区分の説明の後に「教科外活動」についての城丸の説明があります。梅原論文「教育課程の構造と総合学習」(1990)を私は所持していないので、梅原が城丸のどの文献を根拠にこの批判をしたのか私はわからないのですが、梅原論文より12年前に公刊されている上記の城丸の著書では説明されていました。)
②城丸の二領域区分の根拠は学習指導と行動指導の区分だが、教育課程上の働きかけの対象は全て学習ではないか?教科での教科外でも指導が成立するのは学習が介在するからであり、そうすると領域の根拠は学習の質の違いによることになる。
一点目はともかく(^^;)、二点目については本稿のこの後の行論で中村(新井)氏が検討されることですので、そこを見ていくことにしましょう。
2-3.城丸における「行動」と「学習」の関係
2-1のところで梅原「領域化」論の紹介を省略してしまったのですが、中村(新井)氏が梅原の城丸批判を念頭に置きつつ城丸論を検討している以上、梅原氏の着眼と中村(新井)氏の着眼の違いを明確にするためにも梅原論(の、中村(新井)氏による紹介)に立ち戻る必要があります。
2-1の末尾で中村(新井)氏は梅原論を以下のように要約しています。
このように中村(新井)氏は、【教科においても教科外においても働きかけ(指導)の対象がともに「学習」である以上、学習と行動という区分は説得的ではない】というのが梅原氏の主張であるとします。一方、中村(新井)氏によれば城丸氏の教育課程の区分論は【教科と教科外の違いを対象的活動に求める区分論】(P.89左)であり、その対象的活動の区分とは、【生活者としての行動(清掃のしかた、生徒会総会のやり方など)と学習】(同)という区分です。そして城丸氏は、「教師の指導もまたこれに対応して、行動の指導と学習の指導とに大別する」(城丸『やさしい教育学 上』P.189) のです。おもしろいのは(佐藤が勝手におもしろがっているんですが^^;)梅原氏が教科においても教科外においても「学習」が存在すると捉えるのに対して、城丸氏が教科においても教科外においても「行動」が存在すると捉えていることです。(中村(新井)氏による引用・紹介と私自身による城丸の原典の参照を混ぜて記述すると混乱するので、ここでは前者=中村(新井)氏の紹介をもとに記述しますが)「学習は原則的には人間のあらゆる行動に随伴して」(城丸P.190)いるものであり、また【行動は、一般的に、目的の達成に向けて取るものであり、その達成過程の中で自覚しないままに学習が随伴する】(中村(新井)P.89右)のであって、それを城丸は「学習」と呼びます。
一方で城丸氏は、教科における学習は「科学・文化・技能といったものに働きかけて、それをわがものとしていく過程」(城丸P.192)であるので、これを一般的な人間行動に随伴する「学習」と区別して「〈学習行動〉」(城丸 同)と呼ぶとします。従って、教科領域における【学習の指導とは正確には「学習行動の指導」だとされる】(中村(新井)P.89右)わけです。
ここから中村(新井)氏は、(途中の考察を佐藤の判断で割愛していますが)以下のように結論します。
中村(新井)氏による城丸氏及び梅原氏の主張の丁寧な検討を、外野として外から眺めているだけの無責任な感想になりますが、ここまで見てきた限りでは、城丸氏と梅原氏のそれぞれの主張は、教育課程の構成原理についての考察であるとは言うものの、学校生活において展開される《現象》としての子どもの活動と教師の指導とを、研究者の主観の側がどのように区分け・枠付けするかの違いに過ぎないようにも思えます。ものすごく単純化してしまえば、教科における活動と教科外における活動を、共に《行動》と名付けて見るのか、それとも共に《学習》と名付けて見るのか、というframeworkの相違に過ぎないように思えるのです。どちらの名辞を用いても、現象としての子どもの活動/教師の指導を描写することはできそうです(現に両氏はそうしていたんだと思います)。
となるとここから、城丸論と梅原論で現実の《子どもの活動/教師の指導》を解釈したり分析したり提案したりしようとすると実際にどういう展開になり、そこに有効性があるかどうかの検討が必要になると思います。
3-1.「学習の総合化」の二重性
城丸は、「学習したことが総合され、構造化される必要があるということは、誰でもが認めるところであろう。」(城丸「総合学習について」 『教育』No.322 国土社1975.11 P.13)とした上で、その「学習の総合化」を一次的なものと二次的なものに分けます。前者は「教科による知的訓練によって」おこなわれるものであり、後者は「教科外や学校外での各個人の行動を媒介として、それぞれの個人の内面に自己形成されるべきもの」(城丸 同 P.15)だとします。
また城丸は、教科の枠を外した総合学習論への批判として、「人間が事物に働きかけるときに、行動主体においてある主体の総合化・構造化が必要となるという問題を、行動というモメントを脱落させた上で、カリキュラム上の問題として処理しようとする誤りからきているものである。」(城丸 同 P.15)と述べています。
人間の思考における総合化・構造化は、行動の中で行なわれる。そして子どもの行動は、教育課程という枠組みとの関係で捉えると、教科における場合と教科外における場合とでは異なる(前者を「学習行動」とする)。これに対応して、子どもの行動における「総合化」も、教科における一次的なものと教科外における二次的なものでは異なる。(以下は佐藤の解釈ですが)《教科における一時的「総合化」を教科の枠を取り払って枠組みだけ広げて行なおうとしても、それは教科外における二次的「総合化」とは質が違うものなので、自動的にそちらへ発展していくことはない」、このようなことを城丸氏は考えたのか、考えてないのか……ともかくこれがここまでの時点での私の《教育課程区分論の帰結についての考察》です。
3-2.教科外における思想・人格の形成としての「総合化」
中村(新井)氏は、二つの「総合化」のうち二次的なものから検討していきます。
そして、戦前修身科のような「総合化・構造化」であってはならないという反省に立って、【二次的な「総合化」は、教科外で、各個人の行動を媒介に、個人の内面に自己形成されるものと位置づけられる】(同)としています。つまり、【教科外における行動の指導において、思想の変化が生じたとしても、それは各個人の自己形成として結果として生じたものであり、あくまでも思想形成はその行動主体のものであり、民主的原則に反するものではないと把握される】(同)わけです。そして、【この思想・信条の自由な形成の保障という観点は、城丸が総合学習の領域化に反対する理由であった】(同右)と中村(新井)氏は指摘します。この点は非常によくわかります。
3-3.教科による知的訓練と知識の訓育的意義
ここで中村(新井)氏は一次的な「総合化」についての検討に移るのですが、冒頭の城丸氏からの以下の引用に、(もしかして中村(新井)氏の意図とはずれる部分もあるかもしれないのですが)私は非常に注目しました。
これは、教育課程研究者を名乗りながら不勉強な私にとっては、頭をがーんと殴られるくらいのショックを受けた指摘でした。そうか、教科というのは本来、子どもの思考の総合化・構造化を促進すべく編成されなければならないのか。もしそうであるなら、《教科学習の総合化》というような言い方自体が自己矛盾なのだ、ということ。《本来のあり方》からはかけ離れすぎているために、イメージしにくいのですが、子どもが今日学んだことが、例えば3日前のその子の学習経験と結びついて「あ、そうか!」と膝をたたく、そこに気づいたことの驚きや嬉しさが知識の定着や思考の習慣化につながって、言わば《身になっていく》、そういうことこそが教科の学習体験でなければいけない。
「系統学習」ということが言われてきました。それを言う人のかなりの部分が《系統=学問の系統》と想定してきたんじゃないでしょうか。要するに、学者が考えたことを子どもたちに辿らせればまちがいない、それで科学的真理に到達する、という考え方ですね。なんと牧歌的な……(^^;)
そうじゃないんです。もちろん城丸氏のいう《教師による子どもの学習行動の指導》の中に、研究者の思考(試行錯誤を含めて)を辿るよう促す、ということも一要素として含まれるでしょう。しかし、学者の考えたことが子どもにとってちんぷんかんぷんだったら、何の役にも立たないわけです。新しい学習環境において、子どもがこれまでの経験と知識を活用し、なおかつ新しい知識・情報・思考方法などを教師の援助も得て習得しそれを活用しながら、そうした認識の拡大を通じて昨日までの自分の世界を描き変えていくこと。これが《学習の総合化・構造化》じゃないでしょうか。
そしてそれは実は、通常の教科学習の中で本来実現していくべきことなのです。もちろん《総合化・構造化》と言っても、積木を積み上げるようなイメージのことだけではないでしょう。国語である文学作品を読む。また違う作品を読む。異なるフィクションの世界に浸って、ものの見かた・感じ方を揺さぶられる。これは必ずしも《積み上げ的な学習体験》ではない。しかし、自分の内面が豊かになっていくことはまちがいありません。
この項目の最初に断ったように、いま書いてきたことは中村(新井)氏の考察とはずれてしまっているかもしれません。
中村(新井)氏は、上記の城丸氏からの引用に続けて以下を引用しています。
中村(新井)氏は上記引用中の【「教科による知的訓練」による「総合化」とは、学習行動を通じて、情報としての新しい知識ではなく、「応用力のきく認識や技能」が結果として定着することである。】(P.91右)という内容を引き取って、【この「応用力のきく」とは何を指すのだろうか。】(同)と検討課題を設定します。ただ、そこで中村(新井)氏が参照している城丸論文「授業における『訓育』の本質と可能性」(1973)を私は所持していないため、同論文を踏まえての中村(新井)氏の考察は飛ばして(^^;)考察の結論だけを見ると、次のように述べられています。
う~ん……飛ばしてしまったんですが、上記引用の「訓育的意義」という新たな用語についてはスルーできないので、前段に戻って中村(新井)氏による城丸論の紹介を見ておきます。
知識が行為・行動の見とおしや総括をつくる基礎的な力となり、それによって思想の重大な要素となる。それが「知識が持つ訓育的意義」……う~ん、私にはまだピンとこないですね。知育と訓育を分ける議論への挑戦ではあろうと思います。また、人格形成の営みの中に知識獲得が位置づくということだったら、もちろんすんなりわかります。ただ城丸氏(と、中村(新井)氏)はもっと深く踏み込んでいるんだろうと思います。知識そのものを行動の中に位置づけ、活性化されたもの(であるべき)と見るということなのか…。私自身の《訓育》のイメージが貧困なのか、考えるときに《徳目主義道徳教育化》みたいな雑音が絡んできそうです。
4-1.城丸にとっての陶冶と訓育
前項目の最後で中村(新井)氏は、高橋英児論文「価値の教育と『観』の教育を考える」(2017 この論文も私は所持しておらず、読めていません)における、城丸氏が「知的陶冶の徹底によって、個々人の中に思想や世界観の形成(「訓育」)の契機が生まれるという見方に立って」(p.16)いるという記述を引き、高橋氏が【他方で、「どのような陶冶こそがどのような訓育を伴うか」(高橋2017 p.22)という点で十分明らかとは言えないという】(P.92右)として、次の項目で高橋論を検討しています。
本項目の内容は、高橋氏の主張が城丸氏の「学習の総合化」論と「陶冶」「訓育」概念の関係把握を正しく理解していないという批判であると私は理解しました。
この作業が、城丸教育学研究において他の先行研究を批判的に検討することを通じて城丸の論の理解を深めるという意味を持つこと はよくわかるのですが、その作業が総合学習の教育学的理論化という本論文冒頭からの課題追求とどう結びついているのかが、ややわかりにくいです。
私自身はそうなんですが、中村(新井)氏は高橋氏批判を通じて、城丸氏の主張について以下のようなことを確認しています。
そして、
として、この課題を次項目で追求します。
4-2.思想性と思想の関係
中村(新井)論文から私が学んだこととして、城丸氏が子どもの「思想」について、少なくとも二つの方向から考察している、ということがあります。
第一は、3-2で検討されているように、城丸が例えば戦前修身科が各教科における知識・技能の「総合化」の「さらにその上の、もっと高い次元での総合化・構造化」(中村(新井) P.91)を行なおうとしたことを、「思想・信条の自由な形成を保障するという民主主義的学校の原則に反する」(中村(新井) 同)と厳しく批判し、退けていることです。
第二は、3-3で検討されているように、知識が「行為・行動とのかかわりにおいては、見とおしや総括をつくりあげる(佐藤註:次の3文字に傍点)基礎的な力」となり、「このような(佐藤註:次の3文字に傍点)基礎的な力となることによって、思想の重大な要素となっていく」(中村(新井) P.92)として、知識を獲得し、活用することと思想形成のつながりを積極的に論じていることです。
第一は子どもの民主的人格形成において退けられるべき思想への統制・教化についてであり、第二は子どもの民主的人格形成における重要な働きとしての知識を思想形成に結びつける(値を力とする)ことについてです。両者が違うフェーズにおけることであることは明白ですが、同じく子どもの内面・人格のありように関することだと考えると両者は複雑に関連してきそうです。
中村(新井)氏はこの4-2において、まずは「思想性」に関する城丸の以下の記述を引用します。
私なりに城丸の文献を学ぶことができないために隔靴掻痒の感があります。城丸がなぜここで「思想性」という概念を出したのか。これについては中村(新井)氏の紹介に頼り、その後で自分なりの考察を加えることにします。
前出のように城丸は「教科の概括的性格」を「教科の<思想性>」と呼び変えているが、それはなぜか。中村(新井)氏は城丸の同じ文献から以下の箇所を紹介します。
ここから中村(新井)氏は、城丸の言う「概括」「思想」「思想性」の関係について以下のように解釈します。
ん?? 中村(新井)氏の説明の大方は首肯でき、思想と概括の関係も理解できたのですが、城丸の引用末尾の「教科が思想性をもつ」を中村(新井)氏が「教科の概括を『思想性』と称し、部分として関係づけておく。」と解説していることに、少し引っかかります。
「思想性」という語が手元の辞書にないので主観的な印象で書くしかないのですが、《思想を帯びていること》とか《思想に関係していること》と解釈してみると、まず城丸氏の「教科が思想性をもつ」がよくわかりません。ただ、《教科という子どもの活動領域が子どもの思想の形成に関係しているということ》だと受け止めれば、それはこれまでの城丸論の学びからわかります。ただ、中村(新井)氏が「教科の概括」=「思想性」だとし、それを(思想という全体の中の)「部分として」位置づけると言われると、わからないのです。教科における子どもの「概括」という認識活動(と言ってよいかどうかわかりませんが)は、子どもの包括的な世界観・社会観(=思想)の形成という営みの中の一部分をなす、というのはわかります。しかし、概括を子どもを主語とする認識活動と捉えるのであれば、それが「思想」という全体に対する部分としての「思想性」だというのが納得できないのです。でも一方で中村(新井)氏氏の説明は城丸氏の説明と合致しているようにも思えて....よくわかりません。わからないまま中村(新井)氏の次の叙述に進みます。
本論から外れますが、「知識(総括された認識)」という用語法は私自身の用語法と違います。私にとっては「認識=総括された知識」です。上で「認識活動」という用語を使ったときの「認識」もそういう包括的な意味です。
それはともかく(^^;)、中村(新井)氏の説明を私なりに言い換えると、次のようになります。
教科の(あるべき)学習において、「知識」が(佐藤的には「認識」が)思想の要素としての方法論(見方・考え方)として定着するところまで「知的陶冶を徹底」しなければならない。そして、子どもが「学習行動」の中で定着させた方法論が、今度は子どもの「人格全体として対象に働きかける行動」の中で「随伴的に」自然・社会を全体的に捉える思想(見方・考え方)に「わずかな変化」をもたらす。それが「知的陶冶の徹底」であり、「二次的な『総合化』への『転化』」である。
こうした考え方は大筋において私も理解し納得できたのですが、そこで気になってくるのは《活動の主体・主語》の問題です。見方によってはケチつけと受け止められてしまうかもしれませんが、敢えて書いてみます。
「知的陶冶の徹底」、これはだれが行なうのでしょうか。一般的に論じてみても生産的でないので、ここまでで引用していない4-1における城丸の叙述を手掛かりに考えます。
上記は『やさしい教育学 上』の一節であり、私自身も直接参照することができます。ですがここでは城丸ではなくて中村(新井)氏の用語法を問いたいので、城丸論に深入りはしません。ただ、上記の中村(新井)氏の引用の直前の叙述だけを追加で引いておきます。
先に書いたように、私は《活動の主体・主語》にこだわっています。上の城丸氏の叙述からは、「陶冶」及び「訓育」の主体・主語は子どもである、というあたりまえのことがわかります(少なくとも城丸氏は「陶冶」「訓育」を第一義としては教師の指導に関する用語として使用していません)。しかし、最初に「教育者の教育的働きかけ」と「被教育者の行動」が並べられているように活動主体としての子どもの活動の中で生成していく「陶冶」「訓育」の過程が教師の働きかけ、教師と子どもの相互作用を通じて生じることは行間に滲み出ているし、現実的にもそれはあたりまえのことです。
そこで中村(新井)氏の言う「知的陶冶の徹底」なんですが、これの主語は誰でしょう? 城丸氏の語法についての私の解釈にのっとれば、「陶冶」と呼ばれる活動、営みの《主体・主語》は子どもであるのは自明だが、そこに教師の働きかけが絡んでくることもまた自明です。では、「徹底」するのは誰なんでしょうか?ここでの「徹底」が、反復・習熟活動の強制とか、脅しとか、思想統制などでないことや言うまでもありません。しかし、「徹底」というところまで、つまりは随伴的に思想を形成するレベルにまで「知的陶冶」を充実発展させるためには、(叱咤激励ではなくても)やはり教師の関わり、《指導》が必要なのでしょうか? それとも、子どもが《自力で》随伴的に思想を形成するレベルに辿り着いてこその「徹底」なんでしょうか?
5.結論
この項目の前半で中村(新井)氏は、ここまでの考察をおさらいして、改めて1970年代総合学習論争における城丸氏の批判が正当に受け止められていないことを指摘します。その上で中村(新井)氏は、「総合的な学習の時間」の位置づけについて見解を述べます。この問題は私が本論文1-1の検討の中で示した3つの選択肢とも関わっており、大いに興味を持って読みました。
中村(新井)氏は、【「総合的な学習の時間」の位置付けは依然として大きな課題である。】(P.94右)として断定は避けながらも、以下のように述べます。
私が示した3項目(選択肢としては②か③か)で言えば、まず中村(新井)氏が佐藤➀のように「総合的な学習の時間」を戦前以来の民間における「総合学習」実践に押されて官側も提案したとして積極的に捉えるかといえば、そうではないようです。中村(新井)氏は先に引用した【大きな課題である。】に続けて、以下のように述べています。
このように中村(新井)氏は現状の「総合的な学習の時間」については懐疑的です。しかし、「廃止論を別として」とされているように、仮に現場教師や研究者など、国民の側が《「総合的な学習の時間」は有害無益だから廃止せよ》と主張・要求したとしても、学習指導要領の「法的拘束性」にしがみつく文科省が耳を傾けるはずはないし、今後の学習指導要領改訂にに合わせてなんらかの政治力学が働きでもしない限り、「総合的な学習の時間」は廃止されないでしょう。従って《廃止すべし》を前提に議論しても現実味はないのであり、いまあるこの領域を少しでも良いものにするという選択肢しかありません。
佐藤の3項目の②に戻ると、中村(新井)氏は本論文で1970年代総合学習論争の理論的課題を中心に検討されてきて、その延長上で「総合的な学習の時間」についても論じておられますが、「総合的な学習の時間」を民間における実践の成果とは必ずしも位置づけていないと思われます。
③について言えば、《「総合的な学習の時間」とは別のものとして「総合学習」実践の展開を期待する》というのも現実的ではないので、《批判的立場を堅持した上で、「総合的な学習の時間」の《中味をつくりかえる》努力をする》ということになるでしょうか。無理に佐藤が作った枠組みにあてはめて申しわけないですが。
以上、中村(新井)氏の行論に沿いながら自分の問題意識を述べてきました。
書いてみて、清二さん(戻ります^^;)への私信として書いた感想の内容は、一部を除きほとんど残っていません。清二さんが学会発表時の配付資料に手を加えてさらに説得的に論を構成し展開されているために言う必要がなくなったことが多いんだと思います。
ただ、コメントを書き終えてみて、やはり最後に書いた「総合的な学習の時間」の評価・対応については、すっきりしませんね。清二さんの書きぶりがではなく、清二さんも私も含めての民主勢力に身を置く教育実践者・教育学研究者としての対応が、です。
本投稿の後に、私の「佐藤年明私設教育課程論研究室のブログ」に「アーカイブ」として掲載する予定ですが、私は1999年度の日本教育方法学会大会で「『総合的学習』の『総合』概念」と題する自由研究発表をしました。同発表での実施直前であった「総合的な学習の時間」についての私の評価は、基本的には《歓迎する》というものでした。過去の「総合学習」実践史を踏まえて「総合」の概念を「学習プロセスとしての総合」を意味する場合と「課題の総合性」を意味する場合があり、また両方の意味を兼ね備えている場合もあると捉えました。 その上で、現実社会が提起する「課題の総合性」を受け止めて学習を組織するという1996中教審答申の初発の提案が、教育課程審議会の中で《興味・関心》という別の原理によって相対的に薄められていったことを指摘し、「現代社会の課題を学習テーマとして採用することと、学習者の興味・関心とを対立的にとらえ、後者の名において前者を退ける議論に至っては、既存の教科学習の成果を踏まえつつもその枠を越えた新しいタイプの学習活動を組織しようとするこのたびの試みの出発点自体を否定しかねないもの」と批判しました。
世紀の変わり目頃からの「学力低下」批判によって「総合的な学習の時間」は第7期(高校8期)学習指導要領改訂の《目玉》の座から一気に滑り落ち、私は次の改訂で「総合的な学習の時間」はなくなるのではないかと本気で心配しました。幸いその後2期続いて「総合的な学習の時間」は存続していますが、私の「教育課程論」授業等で受講生の「総合的な学習の時間」体験を聞くと、必ずと言ってよいほど受験対策・進路指導・他教科への流用など、教員にとってまことに《自由》で、子どもたちには意味のわからない《クソ時間》になっていたという報告が後を絶ちません。三重大で授業をしていた頃は、実施初期はそうであってもだんだんとよき実践も増えてくるかと思ったんですが、おもしろい学習事例もある一方で《クソ時間》もなくなってない、という状況がその後ずっと続いています。これも一言で評してしまえば、《学習指導要領の「法的拘束性」の産物》だと思います。拘束は受け入れるが拘束のないところではやりたい放題という現場教員がいるんだということを学習経験者たちが証言しています。
どうせ現実味のない話、にはなってしまいますが(^^;)、教科学習をよりよきものにしていくことの方が《クソ時間》を《クソでない時間》にしていこうとするより、道は早いような気もします。「総合的な学習の時間」を肥だめにしてしまう教師でも、もしかしたら自分の教科の実践については、それなりに自負や専門性を持っているでしょう。
ただ、その場合に、(遠くは)子どもたちの思想形成につながるような(いろんな意味できめ細やかな)見通しを持った教科学習の指導を行なえるような、少なくともそういう気概を持った教師がいったいどれほどいるか、ですね、問題は。
文字通り自分がつくった《鋳型》に嵌めるという学習指導・生活指導を行なっている教師も少なくないでしょう。意識的にそうしている教師は多くないかもしれませんが、無意識的にそうなっている教師は多数いるでしょう。
一方で子どもたち自身の幸せな将来を願う教師だって少ないとは思いたくないですが(^^;)、しかし教師の子どもへのかかわりが、子ども自身の思想形成に影響していることを意識して自分の振るまい方を考えていく教師は、果たしてどれくらいいるでしょう? まあ、それでも、そのような思想をもつ教師が一人でも二人でも育っていくことを願わずにはいられません。
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