58 animal welfareについて(その2)―2025教科研全国大会「道徳性の発達と教育」分科会・渡部裕司報告について考える―
1.投稿57では保留した渡部裕司実践自体の検討
先に本ブログに下記の投稿(以下「投稿57」と略記)をしました。
57 animal welfareについて―2025教科研全国大会「道徳性の発達と教育」分科会・渡部裕司報告から考える― 9月 01, 2025
https://gamlastan2021.blogspot.com/2025/09/57animal-welfare2025.html
上記の投稿について、私がanimal welfareに関心を持つきっかけを与えて下さった渡部裕司先生(横浜国立大学附属鎌倉中学校教諭)にもメールでお知らせし、返信もいただきました。これからもanimal welfareに関わる教育実践について渡部先生の実践にも学ばせていただき、交流を続けたいと思っています。
投稿57では、いきなり渡部先生の授業実践自体について意見を述べるのではなく、まずはanimal welfareという価値規範について考えようと思いました。とは言うものの、animal welfareという理念についての私の学びは、投稿57の時点では渡部裕司「中学校社会科地理的分野における動物福祉を考える実践―『北アメリカ州』の工業式畜産に着目して―」(『子どもと自然学会誌26(第19巻第1号)』2024)の参考文献として掲載されているものの中で参照したのは枝廣淳子『アニマルウェルフェアとは何か:倫理的消費と食の安全(岩波ブックレット985)』(岩波書店 2018)のみという状態でした。ブログへの投稿後、いくらなんでもこれだけでanimal welfareについて理解したかのような書きぶりを続けるわけにはいかないと思い、佐藤衆介『アニマルウェルフェアを学ぶ 動物行動学の視座から』(東京大学出版会 2024)、ロナルド・L・サンドラー(馬渕浩二訳)『食物倫理入門 食べることの倫理学』(ナカニシヤ出版 2019)を入手して学習を始めたところです。animal welfareを自分の都合のよいように解釈したり批判することは避けたいと考えています。
ただ、教育実践の専門性の基礎となる諸科学について一知半解の状態で教育実践を論じてよいとは考えませんが、発展する諸科学に教育実践をどうcatch upさせるかばかりに関心を集中していると1960年代の教育の現代化運動の二の舞になるのではないかと思います。基礎科学の学習を続けながらその時点で可能な視点で教育実践を考えるしかないと思います。
投稿57では私は四度にも渡って、そこでは渡部裕司実践を検討対象とするものではないと断りました。私は2025.8.7の第63回教育科学研究会全国大会武蔵野集会の第9分科会「道徳性の発達と教育」にリモート参加して渡部裕司報告を聴き、それまで不明にして知らなかったanimal welfareという理念・概念を知りました。ですから投稿57は渡部報告に導かれて執筆したものではあるのですが、その段階では敢えて教育実践研究者の立場から渡部実践を検討する作業には踏みこまないと宣言したわけです。animal welfareについても知ったばかり、渡部先生についても分科会でzoom越しに初めて実践報告を拝聴したばかりという段階では、《animal welfareを取りあげた渡部実践》自体について自分が意見を述べるのは尚早であると考えました。まずはanimal welfareについて、学び始めたばかりの未熟な認識の状態ではあるけれども素人なりの率直な感想を述べ、今後自分の認識を深め広げていくための出発点としようと考えました。
また、投稿57の時点では、教科研大会分科会で渡部先生から配付された報告資料が前述の『子どもと自然学会誌26』掲載の渡部論文をベースとするものであることは知っており、私も幸い同学会誌を所持しておりましたので、公刊された実践研究論文について一読者として意見を述べることは可能であると考えましたが、分科会配付資料と学会論文の内容の対応関係までは把握していなかったため、分科会報告で紹介されていた中学校の生徒達の具体的な発言や文章の中で仮に学会論文には掲載されているものがあったとしたら、大会分科会報告を拝聴した者が報告者の許諾を得ずに外部に公表することはふさわしくないと考えましたので、自分としてさらに丁寧に分科会報告や学会論文を読み込むことが必要と考えました。
投稿57を執筆・公表した後に渡部先生の学会論文と教科研大会分科会報告資料を比較してみて、分科会報告資料で紹介されている生徒の文章は報告末尾の4件を除いて全て学会論文に収録されていることがわかりましたので、今後は同学会論文に収録されている授業実践の情報を踏まえて意見を述べたいと思います。
2.渡部論文(2024)におけるanimal welfareの位置づけ
渡部裕司先生の実践について一面的でない妥当な紹介をしたいと思いますので、投稿57と重複する部分もあることをご容赦下さい。
渡部論文(掲載当時渡部氏は綾瀬市立綾北中学校に在籍)の冒頭の「要旨」において、以下のように書かれています。
【中学校社会科地理的分野において、北アメリカ州の経済的効率性を求める農業、とりわけ工場式畜産について、動物福祉(アニマルウェルフェア)の観点から批判的に問い直し、「家畜の幸福を守るルールをつくるべきか?」という議題を立て、ディベートを参考にして話合い活動を行った。】(P.23)
また、渡部論文「2.授業の概要」の冒頭には、以下のように書かれています。
【1)なぜアニマルウェルフェアなのか?
そこで、グローバル・フードシステムの生産を批判的にとらえるとともに、議論する場面を設け子どもを主権者として価値判断主体へと育てることを意図した実践を行う。具体的には、渡部(2019)の実践を、動物福祉(アニマルウェルフェア)に着目してさらに踏み込み、生徒に価値判断を行わせる授業を開発した。
アニマルウェルフェアとは、「動物は生まれてから死ぬまで、その動物本来の行動をとることができ、幸福(well-being)な状態でなければならない」という考え方であり、近年この考え方に基づいた法整備が欧米諸国を中心に進んでいる。たとえば採卵鶏においては、EUやアメリカのいくつかの州などで、従来型のバタリーケージの禁止、一羽当たり飼育面積の拡充などの法律が制定されてきている。また、流通・小売業界でもアニマルウェルフェア対応の卵への切り替えが大きな動きとなっているという。日本においては、そうした禁止・規制の法律は存在しないが、少しずつその議論の機運は高まりつつあるようである。】(p.27)
続く「2)授業の経過」では、「中学1年生を対象とした、北アメリカ州の学習の単元全体の構成」(P.27)が以下のように紹介されています。
第1時:北アメリカ州の地形と歴史
第2時:世界をリードする工業
第3時:アメリカの気候と農業
第4時:【発展】家畜の幸福を守るルールをつくるべきか?
第5時:アメリカにみる生産と消費の問題
animal welfareを取りあげる第4時の授業内容については以下のような記述があります。
【第4時は、発展として、「家畜の幸福を守るルールをつくるべきか?」を考える授業である。まず前時に紹介した経済的な効率を優先する農業のあり方について復習し、そうした生産に対して、食の安全や動物福祉(アニマルウェルフェア)の観点から批判する人たちがいることを紹介するとともに、アニマルウェルフェアについて概説し、ヨーロッパ地域や、アメリカのカリフォルニア州などで家畜のアニマルウェルフェアを実現するための法律が整備されていることを紹介する。そのうえで、「家畜の幸福を守る法律(動物福祉法)をつくるべきか?」という論題に対して、ディベートの考え方を取り入れた実践を行った。(後略)】(P.28)
学習し始めたばかりの文献の引き写しではありますが、前掲の佐藤衆介(2024)の「2.アニマルウェルフェアの発展 2.2各国の取り組み(4)日本の取り組み」には以下の記述があります。
【Aw<引用者註・animal welfareのこと>のハードローは「動物の愛護及び管理に関する法律」(動物愛護管理法)である。当初、「動物の保護及び管理に関する法律」として1973年に公布され、1999年に保護が愛護に変更された。1999年規定である附則第二条の「……施行後五年を目途として、……必要があると認めるときは、……所要の措置を講ずるものとする」を受け、5年ごとに改正されている法律である。
第六章罰則第四十四条2には、「愛護動物に対し、みだりに、その身体に外傷が生ずるおそれのある暴行を加え、又はそのおそれのある行為をさせること、みだりに、給餌若しくは給水をやめ、酷使し、その健康及び安全を保持することが困難な場所に拘束し、又は飼養密度が著しく適正を欠いた状態で愛護動物を飼養し若しくは保管することにより衰弱させること、自己の飼養し、又は保管する愛護動物であつて疾病にかかり、又は負傷したものの適切な保護を行わないこと、排せつ物の堆積した施設又は他の愛護動物の死体が放置された施設であつて自己の管理するものにおいて飼養し、又は保管することその他の虐待を行つた者は、一年以下の懲役又は百万円以下の罰金に処する」と規定された。
そして第四十四条4で「愛護動物」を規定し、「一 牛、馬、豚、めん羊、山羊、犬、猫、いえうさぎ、鶏、いえばと及びあひる」と種が特定されていることから、畜産動物もAW配慮の対象である。
第三章第七条7において「環境大臣は、関係行政機関の長と協議して、動物の飼養及び保管に関しよるべき基準を定めることができる」とされ、1987年に「産業動物の飼養及び保管に関する基準」を総理府から告示し、2013年に環境省告示として改正した(1973年当時は総理府が所轄官庁)。そこでは、①管理者および飼養者に対する衛生管理および安全の保持に関する知識と技術の習得、②衛生管理および安全の保持に必要な設備、③日常の衛生管理、疾病にかかり、または負傷した場合の速やかな適切な措置、④使役等の利用にあたっての虐待の防止、⑤快適性に配慮した飼養および保管、⑥輸送にあたっての事故の防止、を求めている。
これまでに、本法により産業動物に関して刑罰を受けた事例は、「平成19年度動物の遺棄・虐待事例等調査業務報告書」によると、1975年のヤギ10頭の餓死事件、1987年の肉用牛3頭の餓死事件、1993年の産卵鶏2万4800羽の餓死事件、2012年のウシ6頭の遺棄事件という。
ソフトローに近いものとして、第1章で紹介した(公社)畜産技術協会の「アニマルウェルフェアの考え方に対応した家畜の飼養管理指針」があるが、2016年の国際獣疫事務局による獣医組織能力(PVS)評価により、畜産動物に関して①国際獣疫事務局のAW規約を再確認し、公式に法律、基準、政策課題として取り込むこと、②畜産動物に関して、環境省、農林水産省、厚生労働省の正式な連携を図り、法律、政策、実行を連動させるため連携を確立すること、③AW事案の点検やAW法の順守を確認するための報告書の作成、④家畜保健衛生所による生産者のAW点検、食肉衛生検査所による人道的屠畜の点検、輸送や取り扱いの点検、⑤農場でのAW点検・認証のための農業生産工程管理(GAP)確立、が要請された。これらに沿って改革が行われている途上といえる。(後略)】(P.34-36)
ハードローとは法律のように権力による拘束力がある規範のこと、ソフトローとは法的拘束力を持たない、または拘束力が伝統的な法の拘束力よりもいくらか弱い準法的文書(勧告やガイドラインなど)のことだそうです。こういう対比語があることを初めて知りました(^^;)。日本には現行のハードローとして「動物の愛護及び管理に関する法律」(1999)があり、ソフトローに近いものとして「アニマルウェルフェアの考え方に対応した家畜の飼養管理指針」があるということです。
渡部実践では、先に引用したように「日本においては、そうした禁止・規制の法律は存在しない」という認識に立って「『家畜の幸福を守る法律(動物福祉法)をつくるべきか?』という論題に対して」生徒が「ディベートの考え方を取り入れた」討論を行なうという学習活動が行なわれています。日本におけるanimal welfareに関するハードロー、ソフトローの設定経緯や到達点を詳細に検討するという学習方法ではなくて、生徒たちがanimal welfareに関する法律をつくるべきと考えるかつくるべきでないと考えるかを議論するという学習方法を渡部先生は選択されました。この学習方法を、渡部先生は「ディベートの考え方を取り入れた実践」と慎重に表現されています。次にこの学習方法について見ていきたいと思います。
3.「ディベートの考えを取り入れた」討論の組織
1990-2000年代頃、私は教科研授業づくり部会から独立した授業づくりネットワークの活動やこの時期にできた全国教室ディベート連盟に参加し、三重大学教育学部や三重県内の看護学校で担当していた授業の中でディベートに取り組みました。やっていく中でわかってきたのは、本格的にディベートに取り組むには半期15回の授業の大半を費やすことが必要になるということでした。取り組みの端緒の頃は、私も(これは学校教育の中でかなり広範囲に存在する「ディベート」という用語に対する誤解ではないかと思うのですが)ある論題について賛否二つの立場に受講生を分けて議論させるというだけの活動をしていました。そういうシンプルな《ディベートもどき》でも、日頃の授業では私が発言を求めてもなかなか手も上がらないのとは対照的に、ディベート試合に勝ちたい気持ちから俄然張り切って発言する学生が現れたりするので、学習活動としてそれなりに効果があると思っていました。しかしその後、立論-質疑-反駁という流れをはじめ全国教室ディベート連盟のフォーマットに従って本格的なディベートをやろうとする中で、いろいろな問題に気づくようになりました。
第一に、ディベートは予め決められた役割を担当して実行するrole playであることを私が学習者に十分に納得させられない場合がありました。看護学校でのディベート後の感想として、ある学生は「いつも仲良くしている友だちとけんかみたいな言い合いをするのはいやだった」と書きました。ディベートは競技であり、勝敗を付ける試合であること、またホンネとは別に指定された立場で議論して勝敗を競うことなどの手順は教えていましたが、それをすることが自分にとって学びの機会になるということが腑に落ちず、ディベートに取り組むことで自分たちの日常の人間関係を損ねるのではないかと危惧する学生もいたんだと思います。
第二に、先に「半期15回の授業の大半を費やすことが必要になる」と書きましたが、その時間のかなりの部分を立論作成に充てる必要があります。ディベートは肯定側・否定側が試合の最初から最後まで自派の主張の正当性を批判し、相手の主張の誤りを批判し続けるrole playとしての競技です。途中で「参りました、あなたが正しい」と降参することはないのです。ですから試合前に、しっかりした論理構成と十分な資料リサーチに裏付けられた立論原稿を作成しなければなりません。実際に相手側と議論する以前の準備段階に相当の時間をつぎ込むのです。それぞれ内容上の到達目標が設定されている授業科目の中で、そこまで時間を割いてディベートを導入するにはかなりの決断が必要です。
私の実践経験を先に書いてしまいましたが、渡部論文の先の引用の(後略)とした部分を読むにあたって自分自身の経験を想起したわけです。渡部氏は(後略)の部分で「ディベートの考え方を取り入れた実践」の趣旨と構想について以下のように述べておられます。
【ディベートとは本来、肯定側、否定側に分かれ、立論、反駁などの原稿を自身の手で作成して行うものであるが、授業時数などの関係から、図2、図3のような賛成側、反対側の主張をまとめた原稿を用意し、名乗り出た生徒に全体の前で読んでもらった。賛成側、反対側の主張を聞いたあとは、反駁は行わず、各自が「家畜の幸福を守る法律(動物福祉法)をつくるべきか」に対して、賛成・反対の価値判断を行った。次いで、全員を起立させ教室を半分に分けてそれぞれ賛成側、反対側で集まるようにし、同じ意見を持つ生徒同士で意見を交流させた。いきなり賛成側、反対側を交えて話し合うのではなく、まず同じ意見を持つ生徒同士で意見を交流することの意義は、自らの意見を深めることにある。たとえば、「動物がかわいそうだから」動物福祉法を作ることに賛成した生徒は、同じ賛成側の生徒と意見を交流する中で、「薬漬けの肉を食べることは人間の健康にも悪影響だと思うから」などという別の視点から動物福祉法に賛成的な生徒に出会うことができる。このように、同じ立場ではあるがさまざまな視点から賛成あるいは反対の意見を深めたうえで、賛成側と反対側の違う意見を持つ人同士で自由に意見を交流する時間を持った。ただし、この意見交流の方法はかなり生徒に自由度があり、安定した学級経営が行われていることがこうした意見交流の方法を実現する基礎条件となる。生徒指導上望ましくないと判断した学級では、近くの座席の生徒同士で4人班を作成し、4人班のメンバーを適宜入れ替えていく形で意見交流を行った。議論を終えたのちに、最終的な賛成と反対の理由、今日の授業を踏まえて考えたことを記入させ、授業の1週間後までに提出する課題とした。】(P.28-29)
一般論として、学校の学習で意見が対立する可能性があるテーマを選んで討論を行なう時には、(ホンネの立場から議論させるかディベートのように予め立場を指定するかは別として)教師は最初から(用意した立論を述べるにせよ自由討論とするにせよ)意見対立の場面を設定しようと考えるのではないでしょうか。しかし、渡部先生は違いました。
まず、立論については、予め賛成側・反対側の立論原稿を教師が用意し、立候補した生徒に読ませるという方法を取りました。賛成側・反対側のそれぞれの立論を読んで内容に賛同した生徒が立候補したのか、それともみんなの前で発表することを好む、あるいはそれに抵抗がない生徒が立候補したのかはわかりませんが、いずれにしても用意された立論原稿は読み上げる生徒自身が書いたものではありません。仮に現行読み上げ中に「えーっ!?」「そんなのおかしいじゃん」などの野次が飛んだとしても、それは読んでいる生徒本人への批判・非難ではないので、読んでいる生徒が大きな心理的ダメージを受けることはないでしょう。
上記引用文中の図2・図3がそれぞれ賛成側立論と反対側立論の全文です。渡部先生が生徒達の討論のための論点対立をどのように設定されたのかについて部分ではなく全体を紹介したいので、渡部論文に収録された図2・図3の全体を画像で紹介させていただきます。
動物福祉法導入に賛成する立論も反対する立論も、それぞれの論点を2つ立てています。
賛成側は第一に、人間の食糧にするために飼育している動物について、「いずれいのちをいただくにしても、育つまでに間には、自由に外を動き回り、草が生えている環境で自由に生活し、生えている草を食べたり、地面を鼻で掘ったりといった本来の動物らしい生活を送る権利が、認められるべき」というanimal welfareの考え方です。
賛成側の第二の論点は、薬漬けで育てられた動物の肉を食べることによる「私たちの健康への影響」です。
反対側の第一の論点は、animal welfareを尊重する動物の育て方には経費がかかることから、肉の値段が上がり肉が高級料理になってしまうことです。animal welfareには反対しないが、animal welfareの基準を満たす肉と満たさない安い肉のどちらを買うか選択できるようにすべきだとしています。
反対側の第二の論点は、動物の権利は社会的には認められていない、動物自身は権利を主張することができないから認められていないのだ、というものです。
こうして比較してみると、賛成側・反対側はanimal welfareを認めるか認めないかという対立構図ではなくて、animal welfareを尊重することが動物を食糧としている人間社会の存立にとって現実的であるのかどうかをめぐる対立として設定されています。
なお、立論原稿の右欄には、シナリオのト書き的なものが付け加えられています。ト書きを含めた立論原稿を全ての生徒が閲覧できる状況の下で立候補した生徒が立論を読むわけですから、ますます《ドラマとして演じる》ような状況設定になっていたと思われます。繰り返しますがこれは生徒個人の《ナマの主張》をクラス集団に晒すのではなくて、(支持できる立論を選んで立候補して読んでいるのですから自分のナマの主張に反するものではないはずですが)ややオブラートに包むような効果を発揮するのではないかと私は思います。
私が知っている全国教室ディベート連盟のフォーマットでは、ディベート試合は肯定側立論⇒否定側質疑⇒否定側立論⇒肯定側質疑⇒否定側第一反駁⇒肯定側第一反駁⇒否定側第二反駁⇒肯定側第二反駁、という流れで進みます。肯定側・否定側が相互に対立し、途中で合意・妥協することはないという前提で、自派の論の正当性を主張し、相手の論の誤りや不十分点を指摘することで、いずれの側の主張に説得力があったかを審判に判定してもらいます。討論は時間厳守で、紳士的なパフォーマンスが求められますけれども、議論の内容としては冒頭から試合終了まで対立・論争が続きます。
一方渡部先生の授業の次の段階では、立論に続いて(反駁は行なわず)賛成側の生徒、反対側の生徒がそれぞれに集まって意見交流しています。ここでは個々の生徒が自分の立場(賛成か反対か)を表明する(集まる)ことになります。論題に対する基本的立場は同じでも、集まって話し合うことで「自らの意見を深めること」ができると渡部先生は考えます。
授業では続いて「賛成側と反対側の違う意見を持つ人同士で自由に意見を交流する時間」を設定しています。私が気づかされたのは、学級集団の指導という観点からは、単に《同じ立場同士だったら話しやすく、その後で対立する立場からの討論に進めば意見が出やすい》というような単純な話ではないようだということです。《同じ立場同士の議論⇒違う立場同士での議論》という学習の流れが成立するには「かなり生徒に自由度があり、安定した学級経営が行われていること」が前提条件であり、そうした条件がない場合には「近くの座席の生徒同士で4人班を作成し、4人班のメンバーを適宜入れ替えていく形で意見交流」をするそうです。中学校の授業では一人の教師が同一学年の複数のクラスに対して授業を行なうことが多いも思われるので、教師は授業での討論を準備するにあたって、自分がクラス担任をしていない学級についても担当授業時間以外のクラスの状況についてそのクラスの担任教師との情報交換・意見交換をするなどの作業が必要になるでしょう。
かつての私は、自分が担当する特定の授業のためだけに集まった学習者集団や、実態をよく知らない看護学校のクラスを対象としてディベートを行なっていました。ディベートという思考・表現方法の魅力に取り憑かれて、それを提案する対象者がどのような集団であるのかについての丁寧なリサーチなしに授業方法として取り入れていました。もちろん小中高などの学級集団では、授業の中にディベートを導入することで学習が進化し集団が活性化する効果を生む場合もあるでしょうが、渡部論文を読んでいて教師が目の前の学習集団の実態と課題をどう把握するかと密接に関連しながら《ディベート的な》討論方法をどう持ちこむかを慎重に検討することの必要性を再認識した次第です。
渡部先生の授業では議論の後に、「最終的な賛成と反対の理由、今日の授業を踏まえて考えたこと」を1週間後締切で提出させました。
4.「ディベートの考えを取り入れた」討論の前・中・後における生徒の認識
渡部論文「3.生徒の反応」にそって学習過程で表明された生徒達の認識の事例をみていきたいと思います。
「1)第3時終了時の生徒の考えについて」(P.29-30)によると、渡部先生は前項で紹介した授業第4時に先立つ第3時の終了時に、「大規模な農業を規制するルールをつくるべきか?」という問いかけで「作るべき」「作るべきではない」「中立」の3択で生徒に問いかけを行ない、Microsoft Formsに意見を入力させました。畜産に限定しない問いかけでしたが、第3時に視聴した『フード・インク』(2008年 アメリカ映画 アメリカの食品産業に潜む問題点に切り込んだフード・ドキュメンタリー。広大な農場に散布される農薬、遺伝子組み換え問題など、大量生産低コストの裏側にあるリスクを伝え、オーガニック・フードの本当の価値を訴えている。―Wikipediaより )予告編の影響か畜産についての意見を述べた意見が多かったそうです。
「作るべき」という意見が多く、その大多数は動物の立場に立って意見を述べており、その意見は次の2つに分かれました(“”は生徒の記述原文)。
●「動物がかわいそう」という趣旨
“動物を一生苦しませるのはかわいそうだから”
“歩いただけで骨が折れたりひどい扱いを受けていて可哀想。そこまでして牛などを食べたいとは思わない。”
●「動物も人間と同じ命なのだ」という趣旨
“動物は物ではなく人間と同じ命を持つ生き物だから”
“値段が高くなってしまうがお金よりも生きている命の方が大切なのでルールを作ってストレスなく育ててほしいです。”
●(その他)「消費者の立場からおいしさや安全を求める」意見
“最終的に食べられるとしてもストレスがないほうがお肉もおいしいし動物にもいいから”
“食べる人が安心して食べる方がいいと思う”
●動物に限らない意見
“大規模農業は大量な量の農薬を散布するから土壌にも野菜にも影響することがあるかもしれないし、機械を使うから燃料や水も枯渇してしまうので、SDGsではない。”
一方「作るべきではない」という意見の中には、
●率直に「肉を食べたい」という意見
“肉食べないと生きれないので作るべきではないだと思います。”
●他は概ね、「人間の現在の生活を維持すること」に重きを置かれたもの
“世の中には貧しい人も多いから”
“生産費用が削減され、生産を効率良く行えるから規制するルールを作ったら食べ物の値段が上がって市民の生活が苦しくなる気がするから。”
中立の意見は、「自分たちが安く食べられるという経済的効率性と動物たちを命として扱うべき、動物にも幸福な環境で生活する環境があるべきだという動物の権利・アニマルウェルフェアの観点からの対立に葛藤している様子」(P.30)でした。
続く「2)第4時の模擬ディベート原稿を読んだ後の価値判断について」(P.30)によると、渡部先生が授業を行なった6学級のうち、賛成側・反対側の各立論を聞いた後の生徒の意見分布は賛成<反対が1学級、賛成>反対が5学級でした。賛否の比率はまちまちで、ほぼ拮抗しているクラスがある一方賛否が5:2のクラスもありました。
「3)第4時の最終的な価値判断について」(P.30-31)によると、第4時授業での賛成側・反対側を交えた討論の後には、元の意見が変わらない生徒も反転した生徒もおり、クラス単位では事前に賛成<反対だった1学級では討論後も反対が多いもののより拮抗し、事前に賛成>反対だった5学級では、「議論を経て賛成側の生徒が増えた学級が多い印象であった」(P.30)とのことです。数的にはそのような結果でしたが、「それぞれの意見は、議論を通して深まりが見られた。」(P.30)と渡部先生は述べておられます。
●まず賛成側ですが、「動物の立場から動物福祉法に賛成するが、反対の立場の意見もわかる、という論調のもの」(P.30)が多く見られました。
“生活が苦しい中、値上がりするのがキツイのはわかっているけれど、動物の身になると死ぬまでの人生自由に過ごせないのは苦しいし、動物にも人生を自由に過ごすというけんりもあり、自分たちの「食」を優先するのではなく、「命」を優先すべきだと思う。”
「動物の権利について考えを深めたもの」(P.31)もありました。
たとえば「他の生命を管理すること自体がおかしい、という論調」(P.31)です。
“今、人間は生命を管理している。この時点でおかしいと思う。人間は生命を食している。これだけならまだいい。だが人間がつくって食べる生命の道具になっている。生命が他の生命を食べさせてもらっているなら最大の敬意をはらい、いい環境で生きてもらった方が全然いいと思いました”
また「反対側の意見に揺さぶられているもの」(P.31)もありました。
“さっきと同じで(動物は)感情があるから死ぬ前に自由になってほしいから。だけど、反対の意見を聞いて少し思ったことがあって、動物がそういう目にあうのは自分たちが生きていくためには仕方がないことという意見に少しはなっとくした”
また「授業では触れていない話題をインターネット等で調べて自分の意見をまとめたと思われる生徒」(P.31)もいました。
“(…前略…)今は、大豆ミートとか培養肉とかがあるから少しずつ減らしていけばいいと思う。又、大量生産するときに肥育ホルモン剤というものを牛に摂取させるらしい。それも人に影響がないとも言い切れないからEUも禁止しているらしいから制限した方がいい”
●反対側の意見にも、「賛成側の立場にも立ちながら自らの意見を主張するもの」(P.31)が多くありました。
“ルールを作ると人間の暮らしが苦しくなる。賛成の人の意見の、動物の気持ちになるという意見もそんちょうしたいけど、そんちょうしすぎると、人間はどうなるの?というぎ問があるから、自分は反対”
“動物がかわいそうという意見もあるけど、人が食べている時点でかわいそうだし、動物には人権がないから、人間をより尊重すべきだと思う。かわいそうだけど「ルールを作らない」=「感謝をしない」ではなくて、動物に感謝しながら生きていくことが大切だと思った”
また、「食肉とのかかわりのある職業に就いている人々への影響を考えたもの」(P.31)もありました。
“肉のねだんが高くなって、ほとんどの人がたべれなくなってしまうかもしれないから”
「折衷案を考えた生徒」(P.31)もいました。
“肉の栄養も取りたいですし、肉のお店などが困る。そうすると「人間」にも影響が出る。しないはしないで「動物」にも影響がある。私は「人間」派だから反対と言える。けど、強制するルールを作らずに、マーク付けした肉、安い肉に分けて、どちらも変え((ママ))るるようにして、どちらの肉を買うかは自分で選べるようにすればいいと思う。”
5.渡部裕司先生の実践総括を読んで
渡部論文「4.成果と課題」(P.31-32)において総括が行なわれています。
まず本実践(論文副題によれば、「『北アメリカ州』の工業式畜産」)の学習内容に関する成果については、以下のように述べられています。
【本実践の成果として、動物福祉に着目した論題「家畜の幸福を守るルールをつくるべきか?」についてディベートを参考にした話合い活動を通して、「消費が生産から強力に分離」されたグローバル・フードシステムの現状を批判的に考える授業を実践することができた。議論を通して生徒は、主に安く肉を食べられるなどという経済的効率性と、動物も命で良い環境で生活する権利はあるはずという動物の権利・アニマルウェルフェアの対立について、賛成側、反対側の互いの主張から葛藤し、自身の意見を深めていた。生徒の感想からは、“みんなとの話し合いで、違う意見の人の考えを知れてよかったし、相手の意見を聞いたら「たしかに…」と思いました。話し合いでたくさんの人の考えを聞くことは、いいことだと思いました。”などと多様な意見に出会うことの良さについて記述もみられたが、こうした議論する体験は、広く民主主義の基本的スキルを育むことにつながるのではないだろうか。】(P.31-32)
上の文章だけから渡部先生自身の実践総括を読みとるのは早計かもしれませんが、文章から私が読みとったことを敢えて書くならば、渡部先生は《animal welfareについて生徒が○○○○という認識を獲得すること》という実践の課題設定をされてはいなかったと読みとれます。animal welfareの理念(実践記録では「動物も命であって幸せな生活を送る権利がある、という立場」(P.28)と説明されています)について生徒に一定の理解を獲得させるとか、ましてやその価値判断を是とする考え方を持たせるというような目標は立てておられないようです。「家畜の幸福を守るルールをつくるべきか?」(P.27)というテーマをめぐって生徒達が賛成・反対の意見を交流することそのものが「広く民主主義の基本的スキルを育むことにつながる」(P.32)と渡部先生は書かれています。「つながる」と慎重な表現をされていて、この授業実践自体において「民主主義の基本的スキルを育む」という目標設定をされているのか、それとも他の学習活動や様々な生活体験等を通じてゆるやかにだんだんと「民主主義の基本的スキル」が形成されていくであろうという見通しであるのか、そこは私にはわかりません。
しかし、取って付けたような書き方で申しわけないのですが、私は実践者である渡部先生のこうした実践の課題把握を肯定的に読みとりました。
このことは次の、本実践の学習活動の方法に関する渡部先生の総括をどう見るかということにつながります。先の引用にすぐ続く部分です。
【課題として、ディベートの質をどこまで追求するか、ということが挙げられる。本来のディベートは、立論、反駁などを自身の手で原稿を考えるが、今回の実践では、授業時数の関係で立論のみを、こちらから与えた原稿で行った。賛成側、反対側の立場を、時間を取ってそれぞれに作成させることも大きな学習の意義があると考えるが、授業時数のゆとりのなさから、こうした実践をさまざまな論題で行うとすれば現実的ではない。また、本来のディベートでは、賛成側、反対側の立場は生徒自身が選べるものではないが、今回は生徒に自由に選択させたことで、学級によっては賛成側、反対側の立場の生徒の人数比にばらつきが生じた。本来のディベートのように、賛成側、反対側の立場をあらかじめ指定したうえで議論を行うことで、人数比の問題はクリアできるだろう。また、最終的に賛成・反対を乗り越えた折衷案を出した生徒もいたが、実際の社会で行われている議論の結論は、賛成・反対の二択や0か100かでは収まらないことの方が多い。しかし、生徒に議論させるにあたっては、いくつかの選択肢をあらかじめ提示した方が、生徒の思考は進みやすいように感じる。議論を通して生徒に価値判断を迫る学習をより深めていくためのよりよい手法について、引き続き検討していきたい。】(P.32)
競技としてのディベートの定型化されたフォーマットと、また現実社会における論争的課題の議論の複雑な展開の両方を見据えながら、中学校社会科の学習において対立を含んだ論点についての生徒達の議論をどう組織していくかについての、渡部先生のご苦労がうかがえます。
ディベートの公式フォーマットとの違いとして、渡部先生はまず立論を予め既成の文章として与えたこと挙げています。生徒が立論を作成することにも独自の意義があるけれども、現実にはそこまでの時間的ゆとりがないと。
「3」の冒頭で私自身のディベート実践経験のことを書きましたので繰り返しませんが、学習時間の制限は中学校でも大学でも、教室の授業でディベートを行おうとする限り大きな懸案です。さらに突っ込んで考えると、仮に授業の中で生徒による立論作成を学習課題とする場合、文章表現まで公式のディベートスタイルにするよう指導するかどうかはともかく、論題をめぐる社会的な構図の理解、担当した側の立論に必要な先行研究やデータのリサーチ、自派の主張の正当性を打ち出し相手からやりこめられないための論理構成など、《立論という文章作成》にかなりの学習時間を充てなければなりません。またその立論作成作業を個人で行なうのか、グループを組んで行なうのかも判断しなければなりません。
仮に立論作成グループを編成するとして、生徒は自分のホンネの意見に従って肯定側グループまたは否定側グループに所属してのよいのか、それとも生徒のホンネに関わりなく教師が(あるいはじゃんけんなどで)両派グループに生徒を分けるのかを決めなくてはなりません。
ディベートの公式試合においては、各参加チームは予め肯定側・否定側の両方の立論を用意し、試合前のコイントスなどによってどちらの側を担当するか決めます。つまりそこまでは、どちら側も担当できるように準備しておくわけです。チームのメンバー個人のホンネの意見は関係ありません。指定された立場に立って試合に臨みます。
このやり方は、中学校の授業での討論に導入できるでしょうか?
渡部先生は「立場を指定することで、生徒の議論の本気さが損なわれることも考えられる。」(P.32)と書いておられます。《ディベートの競技としてのおもしろさ》の理解が生徒達に広がってくれば、《え? 僕のホンネと反対の立場? でもそれで勝ったら賞賛されるだろうから、いっちょやったろか?》と張り切る生徒もいるかもしれません。しかし、討論の展開が自派に不利になってきたら、《あーあ、もともと俺は反対の立場だったんだ》と、指定された立場での議論を放棄する生徒が出てくる可能性もあります。ディベート試合は《厳格な競技ルールを双方とも守ること》を大前提として成立するものですが、そうしたルール遵守を学校の教室で果たして全ての生徒達の納得させられるでしょうか? 立場指定によって生徒の討論へのやる気を損なうということは、大いにありうることだと私も思います。
渡部実践では教師による生徒の立場指定は行なわれませんでした。私もその方がよかったと考えます。そしてそうすると次に生じる問題として、生徒が自由に立場を選んだ結果、賛成側と反対側のそれぞれの人数に偏りが生じます。授業は6学級で行なわれ、各学級での討論の様子は詳細には記述されていませんけれども、生徒達も《多数決で事を決しよう》とは考えていないでしょうが、賛成・反対のどちらが多いかが判明した時点で特に少数の側の生徒には心理的プレッシャーがかかることも予想されます。渡部先生も「反対側が少なすぎて議論にならないような状況には至らなかった。」(P.30)と書かれているように、人数の偏りには気を遣われていたようでした。
そして私がすごいなと思ったのは、「3」の後半で紹介したように、渡部先生が生徒たちの討論の最初の段階で、まず同じ立場を選んだ生徒同士のグループで議論をさせたことです。渡部先生は上の総括の中で両派の人数のばらつきの実践について、「本来のディベートのように、賛成側、反対側の立場をあらかじめ指定したうえで議論を行うことで、人数比の問題はクリアできるだろう。」(P.32)と書いておられますけれども、私の勝手な解釈になりますが、渡部先生は必ずしもその解決方法を志向されていないのではないかと思いました。なぜかというとその後に「折衷案」を出した生徒のことに言及され、さらに「実際の社会で行われている議論の結論は、賛成・反対の二択や0か100かでは収まらないことの方が多い。」(P.32)と書かれていて、生徒の思考から見ても現実社会の議論から見ても《ディベートの二者択一式思考方法》には無理があることを指摘されていて、ディベートの公式フォーマットに近づくことに果たして教育的意義があるかどうかについて判断を迷われているようにも読めるからです。しかしまた、白紙の状態からいきなり討論を始めるのではなくて、「生徒に議論させるにあたっては、いくつかの選択肢をあらかじめ提示した方が、生徒の思考は進みやすいように感じる。」(P.32)とも書いておられます。立論を予め提示したことがそれにあたりますね。私の予想では、これは《生徒には自ら立論を作成する力がない》という先生の判断から来るものではないだろうと思います。はじめから終わりまで《白紙からの議論》をすることこそベストだと考えず、生徒に一部手がかりをあげることで考えること、意見を出すことがやりやすくなるというのは私にもよくわかります。
6.animal welfareについての子どもたちの意見から考える
ここまでは学習方法に注目して書いてきました。一方で大事なのはそのような学習過程の中で生徒達にanimal welfareに関わってどのような意見が形成されてきたかだと思います。渡部論文で紹介されている生徒達の意見は6クラスの生徒達の多数の意見の中のごく一部だと思いますが、その中でも私が関心を持った一人の生徒の意見を取り上げさせていただきます。
但し前もって申しますが、私は生徒さんの意見が正しい・間違っているとか、望ましい価値判断か望ましくない価値判断かというようなことについて意見を述べるつもりはありません。あくまでも私自身がそこから何を触発されたのかについて述べたいと思います。
第4時の授業後の意見として、「動物がかわいそうという意見もあるけど、人が食べている時点でかわいそうだし、動物には人権がないから、人間をより尊重すべきだと思う。かわいそうだけど『ルールを作らない』=『感謝をしない』ではなくて、動物に感謝しながら生きていくことが大切だと思った」(P.31)というものがありました。短い文章の中にもいろいろな論点を含んだ意見です。
「人が食べている時点でかわいそう」という論点は、私のブログ「 57 animal welfareについて―2025教科研全国大会「道徳性の発達と教育」分科会・渡部裕司報告から考える― (9月 01, 2025)」で検討している「《人間が他の動物の命を奪って食料としていること》の是非」という問題に行き着きます。そこからさらに、たとえば以下のような論点が議論の対象となると想定できます(子どもの意見のような表現で書いていますが、架空のものです)。
●育てている動物がかわいそうな扱いをしてはいけないというけど、じゃあ最後に殺してしまうのはかわいそうではないの?
●動物に感謝して食べようって言うけど、感謝してももう動物は死んでしまってるわけでしょ。人間の自己満足じゃないの?
そういう学習テーマ(animal welfare)を取りあげること自体、学校生活において重要なのではないかと私も思っています。こうしたcriticalな問題について議論し学んでいくことが渡部先生も書いておられるように「広く民主主義の基本的スキルを育むことにつながる」(P.32)と思いますし、「議論を通して生徒に価値判断を迫る学習(P.32)を経験してもらうことは重要だと思います。
ただ、(ここからは渡部実践へのコメントではなく、一般論ですが)実際に討論学習をしたときに、例えば《animal welfareに配慮して動物を肥育するが、肉は食べる。》という価値判断と《動物を殺してはいけない。肉を食べるべきでない。》という価値判断が出され、両者譲らずに激論になったような場合、教師はそれをどうときほぐすかという課題が出てくると思います。生徒達が《おざなりの討論》ではなくて自分事として本気で話し合った場合には、そういうことも起こりうると思うんです。個人のライフスタイルとしては、最終的に《各自が信じるところに従って行動しよう》でもいいと思うのですが、社会政策のあり方を検討している時にはそれだけでは議論が収まらないと思います。議論が膠着して、へたをすると《どうせどう議論したって、ぼくらが社会を変えられるわけじゃない》みたいな無力感で終わることも考えられます。
私は、渡部先生がおっしゃるような「民主主義の基本的スキルを育むことにつながる」学習において、学習の結末において特定の結論を出すべきだとか、結論が出せない課題は取りあげるべきではないとは全く思わないんですが、さりとて取りあげればそれでよいとも思えないのです。
animal welfareのような論争的テーマを含む学習が社会科や「総合的な学習の時間」などで積極的に展開されるべきだと思います。そしてその中で子どもたちからどのような意見が出たのか、出された意見に対してどのような別の意見が出されたのか、多数決は使わないとして議論の流れはどのように展開したのか、議論はどのような収束・結末を迎えたのかについて、多くの実践事例が出されて相互検討されるといいなと思います。
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