67 読書ノート 坂元忠芳「(連載)性の感情と教育」(第1回~第12回)

 *第一回『教育』No.560(1993.4)/第二回561(93.5)/第三回562(93.6)/第四回563/(93.7)/第五回566(93.10)/第六回567(93.11)/第七回569(93.12)/第八回570(1994.1)/第九回571(94.2)/第一〇回572(94.3)/第一一回573(94.4)/第一二回(最終回)574(94.5)

(2025.12.5-6通読)
 2025.12.20の京都教育科学研究会12月例会では石本日和子教科研副委員長を迎えて「学校の『男性性』を問う」をテーマに学習します。また2026.1.11には京都教育大学で「教科研'26関西大会1月プレ学習会 著者が語る『学校の「男性性」を問う』出版記念シンポジウム ―教室の「あたりまえ」をほぐす理論と実践―」が開催されます。
 私はすでに『教育』No.946(2024.11)の第1特集「学校の『男性性』を問う」の7編の論稿・報告は公刊当時に全部読んでいましたが、同特集を再編・充実して出版された大江未知・虎岩朋加・前川直哉・教育科学研究会編著『学校の「男性性」を問う―教室の「あたりまえ」をほぐす理論と実践』(旬報社 2025.8.5)も先日全編を通読しました。その上で《学校の「男性性」》ではなく(これに対する同書の批判にはほぼ同意しています)《「男性性」という名辞・概念そのもの》に対して私が持っている疑問を2025.11.21/11.26にFacebookに投稿し、それを「佐藤年明私設教育課程論研究室のブログ」に下記の通り再録しました。
  66 【アーカイブ17】「男性性」を考える・同(その2)  11月 26, 2025
     https://gamlastan2021.blogspot.com/2025/11/6617.html

  その後さらに関連の学習を進め、現在以下の文献を読み進めています。
●ジュディス・バトラー(竹村和子訳)『ジェンダー・トラブル フェミニズムとアイデンティティの攪乱 新装版』(青土社 2018.3.1)
●藤高和輝『バトラー入門』(ちくま新書Kindle版 2024.7.20)
 

 バトラーはどうしても読まないといけないと思って読み始めましたが、難解で四苦八苦しています。そのこともあり藤高の解説書を読み始めましたが、こちらは文章の運びがチャラすぎて辟易しています。しかし近日中に両方を読み終えて(藤高はともかくバトラーについては)コメントしたいと思います。
 上記の学習活動に取り組みながら、教科研の中で上記『学校の「男性性」を問う』以前に性について、sexuality/genderについてどのような主張や議論が行なわれてきたかが気になってきました。私が所蔵している1970年代後半以降の『教育』誌における《性》関係の論稿や報告について、いずれ渉猟してみたいと思っています。
 そのことを考えているうちに、そう言えば1990年代に坂元忠芳先生が性に関わって『教育』誌上に連載をされていたことを思い出しました。当時私は三重大学教育学部に赴任したばかりで、新しい担当領域である教育課程論の中での個別研究テーマを《性の学び》にしようと決めて間もない頃でした。なのに、『教育』誌上での坂元先生の連載のことを知りながら、その一部は読んだものの今日まで通してきちんと読んでいませんでした。そのことを反省しながら、坂元先生の12回の連載のコピーを取ってまとめ、昨日本日で通読しました。

 まずは連載の全項目を以下に列挙します。
第一回(No.560  1993.4)
連載をはじめるにあたって
一、性の感情とはなにか
 (1)性と性現象
 (2)性の感情―その二つの側面―
 (3)性の感情と教育

第二回(No.561  1993.5)
二、性の感情の社会的・歴史的性格について
 (1)性の感情の歴史的・社会的規定
 (2)エンゲルスの家族と性についての見解
 (3)単婚の成立と私有財産制
 (4)売春と性の感情をめぐって
 (5)性の感情と経済支配について
 (6)経済体制の変化と性の感情

第三回(No.562  1993.6)
三、アメリカにおける「性の革命」とエロスの未来
 (1)アメリカの70年代における「性の革命」
 (2)オープン・マリッジについて
 (3)グループ・マリッジについて
 (4)問題点はなにか

第四回(No.563  1993.7)
四、性とエロスの統一としての生の充足
 (1)生とエロスの統一
 (2)男の攻撃性に色どられたセックスの転換
 (3)アナイス・ニンの性愛の経験をめぐって

第五回(No.566  1993.10) 
五、性の感情の発達について
 (1)性の感情の発達の原動力をめぐって
 (2)性の感情の発達と精神分析
 (3)性の感情の発達段階について
六、幼年期と少年期の性の感情の発達の特徴
 (1)幼年期の性の感情
 (2)「幼児殺人事件」と幼児性愛
 (3)切り裂きの感情構造―エディプス・コンプレックス
 (4)現代の母子関係をめぐる問題
七、少年期の性の感情の発達の特徴
 (1)性の「潜伏期」としての少年期
 (2)少年期の性の感情とその表現の「誇大化」
 (3)少年期の性の感情の性差について

第六回(No.567  1993.11)
八、思春期の性の感情の発達の特徴について
 (1)puberty(思春期)の意味
 (2)思春期の感情の葛藤について
 (3)思春期のアンビヴァレンツな性の感情
 (4)男女の思春期の違い
 (5)前思春期の特徴とその感情
九、壮年と熟年または老年の性の感情の発達の特徴について
 (1)現代におけるライフサイクルの変化
 (2)結婚後の性の感情について
 (3)出産と子育てにかんする感情をめぐって
 (4)老年の性の感情をめぐって

第七回(No.569  1993.12)
一〇、性教育の歴史から
 はじめに
 (1)戦前の性教育史から
 (2)戦後の性教育史から
 (3)「性教育ブーム」の背後にあったもの
 (4)性教育の新しい動向―sexuality communication
 (5)性教育の「七つのコードの解体」
 (6)恋愛教育としての性教育

第八回(No.570  1994.1)
一一、性教育の新しいありかたをめぐって
 (1)新しい性教育の原則について
 (2)マスタベーションについて
 (3)性情報・性文化にたいして
 (4)感情教育と性の問題の教材化

第九回(No.571  1994.2)
一二、ピカソの表現と感情―表現の授業と性の感情―
 はじめに
 (1)ピカソの愛人について
 (2)最初のピカソの愛の執着について
 (3)ピカソの青年時代の愛の対象
 (4)愛の対象を破壊しつづけるピカソ
 (5)嫌悪に満ちた人間像

第一〇回(No.572  1994.3)
一三、フェミニズムとはなにか
 (1)フェミニズムの多義性
 (2)フェミニズムとはなにか
 (3)フェミニズムの歴史から
 (4)グローバルなフェミニズム
 (5)フェミニズムの三大潮流
一四、ラディカル・フェミニズムについて
 (1)ラディカル・フェミニズムの特質
 (2)80年代のラディカル・フェミニズム―イリガライとクリステヴァをめぐって―
 (3)イリガライの多産性と流動性の思想について
 (4)クリステヴァの「セミオティック」の思想について

第一一回(No.573  1994.4)
一五、マルクス主義フェミニズムをめぐって―上野千鶴子とソコロフの理論を中心に―
 はじめに
 (1)マルクス主義フェミニズムによるマルクス批判
 (2)家事労働についてのフェミニズムの見解
 (3)家父長制についてのフェミニズムの批判
 (4)家父長制と子育てについてのフェミニズム
 (5)家父長制の廃棄と資本主義再生産の理論
 (6)家族賃金について
 (7)保護立法について
 (8)変革の理論的基礎について

第一二回(No574  1994.5)
一六、セクシュアル・ハラスメントについて
 (1)セクシュアル・ハラスメント(セクハラ)とは
 (2)女の職場における人権と労働権の問題
 (3)レイプとセクハラをめぐって
 (4)学校におけるセクハラについて
 おわりに


 全72項目にわたる論述の中に《性の感情》に関する膨大な文献情報が盛り込まれており、とてもとてもその全体をカバーしてコメントすることなどできません。発表から30年以上を経たこの連載論稿から、多くのことを学ばせていただきました。
 第一回冒頭の「連載をはじめるにあたって」で坂元は、1992年度から小学校理科・保健教科書において新たに性についての記述が登場したことを紹介した上で、【教科書のなかに、性器と性交について、はっきりと触れたものがないこと、性を生物と人間の深化についての科学的認識と結びつける観点や、さらに、性をひろくsexuality communicationとして、とらえる観点が欠如していることなど、問題点の指摘は多い。】(No.560 P.114)と述べています。また、自身も『教育』No.541(1991.11)掲載の座談会「<現代における性>と教育」(佐藤註・この座談会についても『教育』誌における《性の学び》に関する議論の一環としていずれ取り上げてコメントしたいと思っています)に参加して触発されたこと、座談会出席者の次のような感想が印象的であったことを紹介しています。
【現代の性教育を論じ、それを実践することは、自らの性にたいする反省をこめて、なによりも、自身が性の問題にたいして、再教育を行なうことに他ならない。とくに性について、広く自己の生活と意識とを吟味することを意味している。】(同 下線は佐藤。以下も同じ)
 連載を通読して、坂元はまさに下線を付した部分のような作業を自ら行なったのだと思いました。
 また坂元は、【私は、大学の教養課程の授業で「性の感情と教育」というテーマで、1991年度、講義していた】(同)と紹介し、【この連載では、その時の講義ノートをたよりに、もういちど、この問題をひろく今日の性教育のなかに位置づけて、論じてみたい。】(同 P.115)と述べていて、本連載が坂元自身の大学教育実践の再吟味でもあることを明らかにしています。この点もずっと後進の大学教師として大いに興味があります。

 坂元は本連載で「性の感情」について論じています。(連載の検討をすっとばして推測すると)そのことは坂元が本連載後の1996-97年のフランス留学を経て2000年に『情動と感情の教育学』を上梓することに繋がっていったのかもしれません。
 「一、性の感情とはなにか」で坂元はまず「性とはなにか」に言及した上で(1)、「性の感情」の二つの側面について以下のように述べます(2)

【第一に、性の感情は、性行為と直接・間接に結びついて、人々が感じる感情として存在ずる。感情とは、一般には、愛情、嫉妬、後悔、歓喜、束の間のざまざまな印象を含んで、人々が生活のなかで感じる、口ではいいがたい、或る内面状態をさしている。それを一義的に定義することは難しい。そのことは、感情論の歴史を論じた書物を多く読めばあきらかであろう。
 だからここでは、さしあたり、認識が人間活動の「執行的調整」の側面であるのにたいして、感情が活動の「鼓舞的調整」の側面である、ということだけを指摘するにとどめよう(拙著『能力と学力』青木書店、1976年、125~126頁)。それは活動の内面的な感覚、とくに自己受容性感覚―姿勢や緊張を感じる身体表現―とも結びついた、ある状態である。その場合、そうした状態が一定の外的対象をもつ場合には、「感情」として現れるが、外的対象を持たない場合は、定かならぬ「気分」として現れる。
 気分とは、そこはかとない感情である。だから、この意味では、性行為にまつわる気分は、性行動において、鼓舞的調整の微妙な役割をさしている、ということができる。たとえば、些細なことが原因で、強い感情の抑制にとらえられ、しばしば性行為自身が不能になることがあるのをみても、それは分かるだろう。】
(同 P.119-120)

 長いのでいったん切ります。さきほど坂元の後の著作との繋がりを推測しましたが、上記引用では坂元の以前の著作が引用されています。引用されている文献は正確には『子どもの能力と学力』で、該当ページにある「執行的調整」「鼓舞的調整」とはルビンシュテインが提起している概念です。
 引用を続けます。論旨を辿りやすくするために、文献引用部分等を中略します。

【このような性行為にまつわる感情には、大別して三つの側面があるだろう。
 第一に、直接的な性的快楽につながる感情である。オルガスムスは、たかまっていく極度の緊張から、すなわち、性的快楽の絶頂からの解放である。
(中略)
 つまり、極端にいえば、この面での性の感情は、「飲食とまったく同様に、性も緊張緩和・安心感・喜びの拡大」という三重の心理的価値をもっている(モラリーダニノス、前掲書)。これはとりわけ、身体感覚とつよく結びついた性の情動ということもできる。
(中略)
 第二に、性の感情は、以上のように直接的ではない、いわば、エロティシズムといった側面をもっている。(中略)エロティシズムは、性的なものの意識的・無意識的喚起のことであり、それはもちろん、性行為にまつわるものとして、まずは感じられるものである。たとえば、下着をつけることや、さまざまなランジェリーにたいする好みというものは、エロティシズムを喚起する。だが、エロティシズムは、明らかに、性とは無関係は目的をもつ機能にまで、性現象を拡大することでもある。
(中略)
 エロティシズムの表現形態は、人格を形成する他のいかなる特性にもおとらず、本質的で不可欠なものである(中略)それは、生きる不安を克服するもっとも重要な感情であった。だから、死への恐怖から人間を解放するのも、まさにエロスの愛なのである。
 ここまでくると、もう少し性の感情は、精神的な愛に通じてくる。恋愛のなかに含まれる感情である。恋愛こそ、両性の間に存在する、もっとも「完全な交流」ということができる。ここでは、さきのエロスは、より精神的なものへと昇華していく面をもっている。「愛は存在の不安を消し去り、物質界からの解放感と伸び伸びとした再生の印象を必ず伴う。愛するとは、生きることである」
(中略)
 したがって、性の感情は、第三に、直接的な性的感情を、精神的な愛の感情にまで昇華する状態を含んでいる。それはさまざまな葛藤をもつが、教育愛がエロスをもとにして、精神的な関係をつくるのは、このたぐいのことがらである。】(同 P.119-121)

 ここまででようやく性の感情の第一の側面の考察が終わり、続いて第二の側面です。

【ところで、もう一つ、性に関する感情のなかには、広義にいって、sexというよりgenderという側面があることに注目しなければならない。ここで私たちは、性行為やそれにかかわる感情のほかに、両性の社会的平等と支配・被支配という関係をふくんで、それにかんする感情の側面を性の感情がもっていることに気づかされる。この感情は、性の制度的な側面についての感情である。(中略)
 このような性別にかんする制度についての感情は、性の感情の第一の側面と微妙に関係している。たとえば、それは後でみるように「性の政治学」のなかでは、いっそうはっきりと言える。しかし、さしあたっては、両者は区別され得るものだろう。】
(同 P.121-122)

 ようやく性の感情の二つの側面をたどることができました。坂元はこれを下のような分
類表にまとめています。



 さて、連載の膨大な知識群に多大な刺激を受けたことも事実なんですが、私の関心の焦点はなんと言っても「一、性の感情とはなにか(3)性の感情と教育」です。性の感情を教育でどう取り上げるかについての坂元の見解です。この部分についても、末尾の少しの部分を除いて全文を紹介します。

【これまで、述べてきたように、性の感情が、大きく二つに分かれるところから、その教育にたいする連関も大きく二つに分かれることがわかる。それは、いわゆる性にかかわる教育と、性別の制度にかかわる教育との二つである。
 結論的になるかもしれないが、感情というものは、基本的には、直接教えることができないであろう。なぜなら、感情は、学習する人間が、自身で感じ、体験するしかないものだからである。
(中略)
 感情はこのように、直接教えることはできないが、感情を表現した文化は教えることができる。感情教育は、このように、感情を表現した文化を媒介としてしか、行なうことはできない。感情教育は、人間が自己を形成し、または、自己の感情をコントロールすることを、主体が学んでいくことによってしか成立しようがない、といっても過言ではない。
 もっとも、第二の側面である、性別の制度についての事実を教えることは、第一の柱についての文化を教えるよりも、ある意味では、容易かも知れない。しかし、この場合でも、基本的には、主体の感情は、知識と違って、事実によって教えられたものから、主体自身が感じるところを、自分の内面で対象化することによって、わがものにするほかはない
(後略)(同 P.122-123)

 《感情は直接教えることはできない》と坂元は述べます。脱線しますが、私が1970年代の学生時代以来学校教育について《認識》からのアプローチにもっぱら関心を持ち、《感情》に取り組むことをずっと避けてきたのも、《教えられないものをどう扱ったらいいのか》というとまどいから脱することができなかったのが原因だと(後付け的に^^;)思うのです。教師は子どもに対して《感情を教えること》はできず、子ども自身が「自身で感じ、体験するしかないもの」であり、「事実によって教えられたものから、主体自身が感じるところを、自分の内面で対象化することによって、わがものにする」のを待つしかないのです。いや、《待つ》とは坂元は言ってないですね。「感情を表現した文化は教えることができる」と言っています。では、《文化を通してどのように感情の教育を行なうのか》ですよね。
 坂元はこの連載の中でそのことについて答えを出しているでしょうか?
 連載前半では人間の性の感情そのもの、それも大人の性の感情の解明のためにほとんどの紙数が割かれていますが、「五、性の感情の発達について」では発達の視点が入り、で幼年期・少年期・思春期の性の感情の発達についての考察が行なわれています。しかしそれは壮年期・熟年期・老年期についての考察()へと続き、教育の側からの性の感情への関わりは取り立てて述べられていません。続いて教育の領域に入り、性教育の歴史(一〇)を振り返り、続いて(1990年代前半時点での)性教育の新しい動向(一一)への言及がありますが、もっぱら村瀬幸浩氏の性教育論の紹介となっています。
 ただ、「一一、性教育の新しいありかたをめぐって(4)感情教育と性の問題の教材化」では、以下のような興味深い記述が登場します。

感情の授業は一定の感情をこめた表現を対象としなければ成り立たない。というのは、感情をそれとして、伝えることはできないからだ。ところで、授業では、一定の教材がえらばれるとき、まずその教材の表現が含む感情の時代性がある。つまり、その表現者の感情自身である。ところが、その教材をえらぶ教師なら教師の感情が、その教材についてどうであるかが次に問題になる。これが教材を成り立たせる第二の要素である。教材を選ぶものは、その教材が彼自身にとって必須のものであることを要する。それは、極端に言えば、選ぶ人にとって、決定的な要素を含んでいなければならない。そうでなければ授業は、けっしておもしろくならないだろう。伝える必然性のない授業に迫力がないのはいうまでもないからである。
 ところが、そのような教材の表現が、はたして、それを受けようとする生徒にとって必然的であるかどうかは、また別のことである。というのは、生徒の感情にとっては、また別の感情表現が切実であることは、十分にあり得るからである。そこで、感情についての授業のような主観的なものには、こうした三重の意味を含んだ教材の表現の矛盾にたいして、あらかじめ、十分に考えて置かなければならない。このことを忘れるものは、感情の教育を客観的に観ることはできないであろう。
 いまこのことを考えながら、ピカソの表現を考察してみるならば、それは、とくに、彼のモデルになった、また愛人であり、妻となった女性の肖像画、また画家と彼女たちとの表現関係に注目しなければならないといえるだろう。そこで、次回(連載第九回)では、ピカソの絵画を教材として、私が模擬授業を行なうための教材研究を行なってみたい。それはまた、従来までのピカソ芸術の根本的なとらえなおしにも通じるであろう。】
(No.570 P.94)

 坂元は、「感情の授業」を行なうためには、表現の感情、教師(教材の選択者)の感情、生徒の感情という「三重の意味を含んだ教材の表現の矛盾にたいして、あらかじめ、十分に考えて置かなければならない。」と述べています。ただ、「十分に考え」た結果として例えば具体的にどのような策を講じることかについては提案していないのです。
 ただそれに続いて坂元はピカソの絵画について「私が模擬授業を行なうための教材研究」を行なうと予告しているので、私はてっきり坂元による授業プランのようなものが連載第九回において示されるのかと勘違いしたのですが、そういうことではなかったようでした。連載第九回は、ピカソの絵画表現と彼の数多くの愛人や妻との関係とその遍歴を関連付けて考察した内容でした。これはもちろん、ピカソの芸術と人生についての《教材研究》と呼ぶことはできる内容でしょうが、そうした坂元自身の考察とそこに生ずる坂元の感情を「また別の感情表現が切実である」かもしれない生徒たちに対してどのような媒介項を設定して投げかけるのかについての提案を私は読みとることができませんでした。
 そして連載のその後の行論においても、最終第一二回の「一六、セクシュアル・ハラスメントについて(4)学校におけるセクハラについて」において、月経時に水泳の授業の見学を申し出た生徒への教師の処遇、小学校高学年の身体検査でシャツを脱がせ担任の男性教師が検査室に入ってくる事例、更衣室のない学校、教師の子どもへの猥褻行為などの事例が挙げられているものの列挙に留まり、それが子どもの性の感情に与える影響等の立ち入った考察はなされていません。そしてなによりも私が残念だったのは、授業において子どもの性の感情に関わる教育をどのように行なうのかについての具体的提案がなかったことです(これは30年後から見た結果論、ないものねだりかもしれませんが)。
 そしてこれは30数年間時代が経過して現在に到ったその地点に立ってこそ言えることだとは思いますが、連載には同性愛に関する記述は散見されるものの、多様な性、さまざまなSOGIの存在に目配りした記述は見られず、そのことの裏返しとして人間の性の感情についての記述は主に女性と男性という対の存在を前提とした二元論的把握にとどまるものが多いと思われました。
 坂元先生の性に関する幅広い見識から学びながら、sexuality/genderに関するその後の研究や社会運動の成果を取り入れて研究成果を更新していく共同作業が必要だと思います

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