京都教育科学研究会第380回例会(2026.4.18)はリモートで開催され、『教育』No.963(2026.4)「特集1声を聴く/声を生み出す」の荒巻りか報告「森を描くように『聴く』」を取り上げました。著者の荒巻さんも参加され、『教育』誌掲載の報告には書かれていないことも含めていろいろなお話をして下さり大変興味深い有意義な学びの機会となりました。
『教育』誌の同特集のキーワードは「聴くこと」なので、荒巻さんからのお話に先だって行なわれた例会参加者の感想や近況の方法の中で、私は以下のような趣旨の発言をしました(以下では例会時の発言では時間的都合で省略したことも補っています)。
①大学の正規教員を辞めて授業だけの非常勤講師になって7年目なので、学生の肉声を「聴く」機会がほとんどない。授業では毎回グループ討論をさせるが、私は昔から学生の討論に「なになに、何を話してるの?」と入っていくことは苦手で、遠くから眺めていることが多い。学生と一対一で話すのは、授業の終わりにたまに「前回休んで資料をもらっていません」など主に《困ったこと》を訴えに来るのを聞くことがあるくらい。
毎回の授業後に提出される小レポートで学生の意見を読み、一人一人にコメントを返しているので、学生が《考えたこと》は(もちろんあくまで書かれた範囲で、だが)わかる。しかし、学生の考えを《読むこと》と学生の声を《聴くこと》とは、決定的に違う。たまに授業中にグループ討論の内容を全体の場で発表してもらうと、グループ代表の学生が(自然に話すというよりも)討論記録に書かれたことを読み上げるだけあっても、《声》を聴くことをとても新鮮に感じる。授業中に学生の肉声を聞く機会をなかなかつくれないが、その機会を意識してつくることは大事なことだと思う。
②ボランティアをしている児童館では日々子どもたちの声に接しているが、耳がキンキンする(^^;)喧噪の中では小さな声で語られることは聴き取りにくいことも多い。それでも子どもの声を聴くことは心地よい。「あっちいって」と言われることもあるので、よけいなおせっかいはしないようにしながら、語りかけてくる子の声には耳を傾けたい。
③最近約40年ぶりに古巣の合唱団に復帰した。空白の40年間にも、歌を歌うことは好きなので例えば大学の授業でもギターを弾いて歌うことはあったが、合唱団に復帰して、一人だけで歌うのではなく《他者の声を聴いてそこに自分の声を乗せる》ということ、そして《ハモる》ということがいかに心地よいことだったかを40年ぶりに実感している。
④今年夏の教科研大会の教育問題フォーラム「学生目線で大学生活と授業を語ろう!」の準備をしているが、このテーマを学生ではなく私たち教員が投げかけているところに根本矛盾がある。どうしたら学生の《声》を聴く場が実現できるか、模索中。
このような個人としての問題意識も持って例会に参加したので、スクールソーシャルワーカーである荒巻さんが電話や面接によって相談者の「声を聴く」活動の中で考えてこられたことを聴かせていただくのはとても興味深いことでした。
ここでは、「聴く」という営みとも密接に関わっていると思われる「記録する」ということについて、例会の議論の中で自分が考え発言したことも含めて、振り返って書いてみたいと思います。
「記録する」ということについて、荒巻さんは『教育』での報告の中で前面に出して書かれてはいませんが、京都教科研例会でのご報告の中では、荒巻さん自身は記録を取るということをあまりしてこなかったと話されました。それがなぜなのかとか仕事の中でそのことが周りにどう受けとめられたのかということも含めて語られたんですが、『教育』報告の文章では触れておられないことに関して例会でお話しを聴いた私が《荒巻さんはこう考えておられる》と紹介することは不正確であり不適切であると考えますので、やめておきます。私自身が教育について、子どもとの関わりについて研究し実践することを仕事としてここまで来たことを振り返り、《聴くこと》についても念頭に置きながら《記録することの意味》をどう考えてきたかを振り返ってみようと思います。
1980年代の終わり頃から2000年代くらいまで、私は教科研本体よりも教科研の「授業づくり部会」として発足してやがて教科研から独立した「授業づくりネットワーク」を主たる活動の場としながら教育実践研究とくに授業づくり・授業研究に取り組んでいました。当時は『授業づくりネットワーク』という月刊雑誌(現在は年3回刊)が発行されていて、そこに毎号のようにビデオカメラで記録したデータに基づく1時間の授業の記録(撮影したビデオ映像の再生・停止を繰り返しながら検討会で議論し、それをもとに作成される記録なので「ストップモーション記録」と呼ばれていました)が掲載されていました。雑誌の誌面構成上の制約もあり、1つの授業の記録は数ページ程度で、そのこともあって授業記録の中の教師や子どもの発言は逐語記録ではなくて要約的な表現になっていました。それ以前の1970年代の学生サークルの頃からテープレコーダーの音声を起こした授業の文字記録を使って《子どもたちがこの授業の中で何を考えたのか》を議論するような教育実践研究に親しんできた私は、『授業づくりネットワーク』の《要約型の授業記録》に対して大きな抵抗感を覚えていました。もちろん雑誌編集上の制約は理解しましたけど、たどたどしく右往左往する子どもの発言を記録者がすっきりと要約した表現に変えてしまうことに対しては、《それで本当に授業の事実を記録したと言えるのか?》という疑問がありました。
数十年経った現在において上記の私の疑問に答を出そうとしているわけではありません。そうではなくて、当時考えていたことを今回の京都教科研例会での荒巻報告とそれにもとづく討論からヒントを得て、別の枠組みから考え直してみました。
45分間なり50分間の授業の中で起こっていたことを正確に記録しようとすること、子どもと教師の活動の事実の正確な記録に基づいてその授業を分析し検討し、その成果を次の授業づくりに活かそうとすること自体は間違っていないと今でも思います。ただ、毎日毎日流れていく学校生活や学校外の地域・家庭を含めての生活の中で、子どもたちが思い、考え、感じ、行動しているその生活総体の中で、ある日の1時間の授業の中で起こったことにいったいどのような意味づけを、どれほどの重みを持った意味づけをするのか? ということです。こんなことを思うようになったのは、私が6年前に正規大学教員の仕事をリタイアして、学校の教室での子どもたちの学習の姿を観察したり先生たちと研究協議する機会がほぼなくなったこと、一方で昨年春から児童館でボランティアを始めて放課後に学校から帰ってくる子どもたちと関わるようになり、そのことを通じて《子どもたちを学校の外から見る》ということを意識するようになったことと関係しています。
ただ、そうした私の個人的経験に制約されて考えているというだけではなく、京都教科研例会での荒巻さんのお話からヒントを得た点があります。荒巻さんはスクールソーシャルワーカーとして電話や面接によって相談者のお話を聴かれるわけですが、そうした面談中に、あるいはそれが終わった後も含めて、(もちろん業務上必要な記録は残すけれども)面談について文字記録を残すということに重きを置いていないとおっしゃいました。
翻って自分自身について考えると、私は毎回の児童館の仕事が終わった後に、その日かかわった子どもとのやりとりやそこで思ったことを自分だけの記録に残しています。もちろん個人情報を含んでいるので、記録の内容をどこかで公表するということはありませんが、《子ども大好き》な自分の活動の発見や驚きや失敗や反省の記録を残しておきたいのです。
しかし、残しておきたい気持ちで記録しているものの、始めてから1年を過ぎてけっこう膨大になっていると思われるその活動記録を、後から自分で読み返すことはほとんどありません。ボランティア活動であって《教育学研究者としての研究活動》と考えているわけではないので、記録を研究資料として保管して活用をしようとしているわけではありません。ではなぜ記録するのか? 子どもとの出会いを大事にしたいし、しかしその出会いの事実を自分は時が経てば忘却してしまうと思うので、消えてしまわないように残しておきたい、という気持ちはあります。しかし前述のように、その残しておいた記録を読み返し自分の記憶たどり直して翌日以降の児童館での子どもとのかかわりに《有効活用》しようとしているかというと、そういうことでもないのです。
私がけっこうよく関わっているS君という4年生の男の子がいます。彼は多くの場合、その日「この人」と自分で決めた大人と《独占的に》関わろうとします。他の子どもが入ってこようとすると阻止する場合もあります。他方でたとえばS君が児童館に帰ってくる前から私が別の子どもと遊んでいた場合に、帰ってきたS君がそこに割り込んでくる場合もあります。こういう時の対応は難しいのですが、一つの対応としては《その日に先に遊んでいた子どもと遊ぶことを優先する》という場合もあり得ます。そんな時にS君に対して、「この前S君と遊んでいるときに〇ちゃんが入ってこようとしたらS君が『だめ』って言ったことがあるやろ?」という例を出して、S君があとから割り込むことをたしなめようとしたことも一回くらいあったのですが、あとから考えてみてその対応はやめることにしました。なぜかと言うと、私がS君に対して言おうとしたことは、《言動を一貫させなさい》《人に対して言ったことは自分にも降りかかってくるよ》というような大人のリクツです。こうしたことは学校では生活指導上の課題として教えたり指導することがありうることがらだと思います。しかし、一日の長い学校生活の時間のいろんなものを背負ったり、また放り出したり?しながら児童館に帰ってくる子どもに対して、《前にはこう言った/行動したんだからそれに責任を持ちなさい》と要求することが、児童館で子どもを見守りかかわる大人の対応としてどうしても必要なのか? とも考えてしまうのです。
そこで《記録》の話に戻りますが(^^;)、あくまでも私の場合においてですが、児童館での子どもとのかかわりの記録を残すのは、もちろん記録して以降にその記録内容を忠実に再生しながら次の活動をするためではないのですが、(パソコン入力で)《書き残すという作業》をすることが脳内での一定の記憶の保持にも役立つから、その記憶を保持していることがその後の子どもとの関わりにもなんらか役立つだろうという思い込みがあったのではないかと思うのです。しかし、S君の事例からもわかるように、子どもは大人から見て《言行不一致》と咎めたくなるような行動の一貫性のなさとか揺れとか矛盾を示すこともあるし、そして児童館での生活の中でもある子どものそうした行動が他の子どもとぶつかってトラブルになるような場合には、もちろん大人は手をこまねいて見ているわけにはいかないと思いますけれども、だからと言って子どもに対して逐一《一貫して倫理的に正しい行動をせよ》と要求することは酷だとも思います。人間、間違いもある。そのことを認めて受けとめてあげることも必要です。間違いを認めて反省し自分の行動を修正していくことは、必ず《大至急!》でなければいけないわけではないと思うのです。
だとすると、大人が過去の記録と記憶にもとづいて「〇君、3日前にはこう言ったよね」というように過去の事実を現在に引き寄せるような関わり方をすることは果たして適切なのだろうかという疑問がわいてきます。《過去のいきさつ》にこだわりすぎずに、《いま目の前にいる子ども》をしっかり見つめて関わるべきではないか。
荒巻さんがスクールソーシャルワーカーとしての相談者との対話、相談者の《声を聴く》活動の中で文字記録を残すことにこだわられていないのは、相談者との関わりの継続の中で信頼関係を深めることや相談者が本当に言いたいことを聴き取ろうとする、その《いま現在のやりとり》に過程において、その相談者との過去のやりとりにおいてに重要であると判断されたことは、現在のやりとりの最中にも荒巻さんの頭の中に呼び起こされて対話に反映できることもあるし、だから文字記録を残しておくことにはこだわられないということなのかな、と思いました。
京都教科研例会では、他者との話し合いの中でメモを取っていると「人がしゃべっているのにいちいち書くな」と言われたことがあるという経験も紹介されました。唐突ですが、私はそのエピソードを聴いて、『教育』No.963で荒巻報告の一つ前に掲載されている横江美佐子「日常から紡ぎ出される声をきく」の以下の一節を思い出しました。青少年活動センターにやってくるユウトたち中学生が貸し出し用卓球ラケットを壊したときのセンター所長横江さんと中学生たちの会話の一部分です。
【「ラケットのこともあるけど、大きな声出さんでというのもきいてくれへんし、そんなんばっかりやから、職員会議でしばらくは卓球なしになったんや」
「なんやねん職員会議って。きもっ、俺らのこと話してたんや」】(P.41)
ユウトたちは、自分たちのことが自分たちの知らないところで話題にされていることに対して強く反発しています。このことと、知り合い同士の会話でメモをするなと反発されたというエピソードに共通するのは、《いま、ここ》でのコミュニケーションではないところで自分に関することが記録に残されたり議論されることへの不信感、警戒感だと思うのです。コミュニケーションの中で記録を取ることの意味やその記録がどのように活用されるのかについての構成員の合意・了解がある場合には問題ないと思うのですが、そういう合意・了解が十分に成立していない状況や関係にある場合には、記録を取る側が必要があって善意で行なっている《記録する》という行為、つまり《いま、ここのコミュニケーション》を何らかの形で他所へ持ちだすという行為が、コミュニケーションの相手・仲間に不信感を呼び起こす場合もあるわけですね。
ましてや相談者が自分や家族に深刻な問題を抱えていて、しかもそれを語ることにためらい、逡巡も抱えながらスクールソーシャルワーカーと対面している場合に、対面している状況の一瞬一瞬においてスクールソーシャルワーカーが相手のことを誠実に理解しようとし、相談者が話されることを受けとめようとし、そのことが相談者にも伝わることで安心感を与えるためには、(もちろん相談者個人の人を見る目や行動の仕方に個人差があってスクールソーシャルワーカーはそのことにも慎重に対応されているのでしょうが)ある場合には相談者が話されていることを聴き手がメモして記録として残すことよりも、相手の目を見て(もちろん顔をのぞき込まない方がよい場合もあるのでしょうが)全身で相談者を受けとめようとしていることを行動で示す必要があるのだろうとも思います(以上のことは、荒巻さんが話されたことではなくて、全くの私の想像に過ぎませんが)。
私の習性(^^;)でもある《記録すること》という媒介項を敢えて通しながら《声を聴くこと》について考えて見ました。
特集タイトルには《声を生み出す》ということも含まれています。冒頭での京都教科研例会での私の発言の④に書いたように、私は今年夏の教科研大会の教育問題フォーラム「学生目線で大学生活と授業を語ろう!」の世話人として、何人かの大学教員の方々とともに準備に取り組んでいます。《学生が語る》という企画なのにその準備を大学教員が進めているところに矛盾があり、学生の人たちをいかに巻き込んでいけるかが課題です。夏の大会で学生の人たちが《教員にしゃべらされた》ではなくて《自分たちで声を生み出した》と実感してもらえるようなイベントになるようにがんばって準備したいです。そのためには学生さんたちの《声を聴く》機会を準備段階から積極的につくっていく必要があると考えています。
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