87 「自分事」について
昨日(2026.10.21)、「都留文科大学『教育』を読む会」の月例会に通算29回目のリモート参加をしました。この研究会ではいつもたくさんのことを学ばせていただいています。 昨日の例会では、『教育』No.969(2026.10)の特集1「知の揺らぎと教育の民主主義」の中から服部涼平「沖縄と私を見つめる言葉」が取り上げられ、服部さんもリモート参加されて『教育』報告には書ききれなかったことも含めて報告して下さいました。服部さんは自由の森学園「日本語科」の先生です。『教育』No.963(2026.6)掲載の服部報告「関係性に支えられる綴り・語り―綴方を読み合うことで深まる自己表現」も含めて、生活綴方を真ん中にすえた服部さんの実践から多くのことを学ばせていただきました。 その上で、私は例会の最後の頃にzoomのchat欄に以下の書き込みをしました。 【言葉だけを捉えて《意見の違い》とするつもりはないのですが… 服部報告の最後に「こじつけの『自分事にする』のではなく、『問われる当事者としての私』との出会い」と書かれています。 私は2015年度後期に三重大学教育学部の「教育課程論」受講生の希望者4人をつれて石巻を訪問したあと、授業で受講生に「自分事宣言」をしました。自分は未災地にいて東日本大震災の「当事者」を名乗ることはできないが、それでも「自分事」にすることはできると考えるに到った、という趣旨です。】 この件について、例会で口頭発言をすることも考えたのですが、残り時間が少なかったのと服部実践をめぐる議論を私個人の問題意識の方向に引きよせてしまうのもどうかと考え、chat投稿だけにとどめました。 服部さんは、沖縄修学旅行に向けて、また旅行期間や事後も含めての自由の森学園の中学生たちの文章を読むことやそのことを踏まえての対話の経験の中から、「自分事」という括りでの自己認識には不満というか飽き足らないものを感じておられたのだと思います。私はそのことを外部の観察者として実践の文脈に即して丁寧に理解できているとは言えないのですが、「こじつけの『自分事にする』」という服部報告の表現から「自分事」という自己認識に納得できないものを持っておられると感じました。例会でも「自分事」ということに対する批判的、否定的な発言がいくつかありました。 私のchat投稿...