24 2022.11.12第48回奈良教育大学附属小学校教育研究会参加記

  11月12日に上記研究会に参加しました。翌々日14日(月)が京都女子大の授業日で、前日もその準備に追われていたため、研究会を振り返り感想を書くのが3日後の今日になってしまいました。
 約1年前に刊行された奈良教育大学附属小学校の実践報告書については、私のブログに以下の投稿をしました。

16 教育学文献学習ノート(28) 奈良教育大学付属小学校『みんなのねがいでつくる学校』(クリエイツかもがわ)
 https://gamlastan2021.blogspot.com/2022/07/1628.html

 私が所属している「子どもを語ろう会」という研究会では、今年7月の例会で上記報告書の検討を行ないました。そして、11/12の同校教育研究会に参加した上で、11/19の例会でそれについての交流を行なうことになっています。
 そういうこともあって11/12同校教育研究会への参加を楽しみにしていました。
 もう一つ、私は2019年度で大学の正規教員を退職しましたし、30年住んだ三重県から生まれ故郷の京都へ戻ったこともあり、学校現場での校内研究会とか授業公開を参観する機会がなくなりました。指導学生がいないので教育実習校の訪問もありません。ふり返ってみると、2019年7月に鈴鹿市の小学校で5年生2クラスの子どもたちに「ヒトのたんじょう」の授業各2時間をさせていただき、同年9月に京教大連合教職大学院の仲間と長野県伊那小学校の見学に出かけましたが、それ以降今まで学校訪問・授業見学の機会を3年以上持つことができませんでした。ちなみにこの間、奈良教育大学附属小学校もコロナ禍による教育研究会(=学校・授業公開)の中断を余儀なくされたそうで、同校にとっても今回の授業公開は特別の意義を持つものであったようですが、参加した私個人もとても期待を持って、新鮮な気持ちで参加しました。



(1)公開授業 2年3組 国語 あまんきみこ「きつねのおきゃくさま」 入澤佳菜先生
 入澤佳菜先生の実践のことを私が初めて知ったのは、『教育』No.897(2020.10)の特集「不自由を乗り越える教育の可能性」の報告の一つとして掲載された「社会をつくる 子どもも私も」でした。2019年度6年生クラスでの体育大会種目をめぐる子どもたちの意見対立・確執と和解へのプロセス、そしてその後突然降って湧いた2020.2.27安倍首相一斉休校要請とそれに怒り、動き出す子どもたち、子どもたちの思いを受け止め支えながらも無力さを感じる教師。そうした学級の動きが活写されており、読むほどに私も安倍休校要請への怒りを新たにしました。
 この入澤報告への感想を私がfacebookの自分のタイム欄と「全国『教育』を読む会」ページに投稿したところ、入澤先生が返信コメントを付けて下さり、そこから交流が始まりました。『教育』2020年10月号の入澤報告と、加えて入澤先生からいただいた「子どもたちと私の2.28」(『クレスコ』掲載)は、私が京都女子大学・新潟大学で担当する「教育課程論」等の講義の中で、2020.2.27の安倍休校要請がいかに軽率・非教育的で学校現場を痛めつけるものであったかについての子どもたちや教師からのリアルな証言例として学生に紹介させていただいています。
 その後2021年の教育科学研究会全国大会(奈良)では入澤先生と直接お会いする機会があり、そして今回の教育研究会で初めて授業を拝見することができました。

 久々に国語、文学作品の授業を見ました。あまんさんの「きつねのおきゃくさま」は教科書に掲載されていますが、私は知らなかったので授業の前にざっと通読しましたが、最後の部分で思わずうるっときましたね。くりかえしながらふくらませていくお話ですが、最後が私にとっては思いがけない結末でした。
 紙幅を取るので要約紹介にしようかどうしようかと迷ったのですが、やっぱり私の勝手な要約でなく教科書の原文を載せることにしました。

きつねの おきゃくさま        あまん きみこ
 むかし むかし、 あったとさ。
 はらぺこきつねが あるいて いると、やせた ひよこが やって きた。がぶりと やろうと 思ったが、やせて いるので 考えた。太らせてから たべようと。
 そうとも。よく ある、よく ある ことさ。
「やあ、ひよこ。」
「やあ、きつねお兄ちゃん。」
「お兄ちゃん? やめて くれよ。」
きつねは、ぶるると みぶるいした。
 でも、ひよこは 目を 丸く して 言った。
「ねえ、お兄ちゃん。どこかに いい すみか、ないかなあ。こまってるんだ。」
 きつねは、心の 中で にやりと わらった。
「よし よし、おれの うちに きなよ。」
 すると、ひよこが 言ったとさ。
「きつねお兄ちゃんって、やさしいねえ。」
「やさしい? やめて くれったら、そんな せりふ。」
 でも、きつねは、生まれて はじめて 「やさしい」なんて 言われたので、すこし ぼうっと なった。
 ひよこを つれて かえる とちゅう、
「おっとっと、おちつけ おちつけ。」
切りかぶに つまずいて、ころびそうに なったとさ。
 きつねは、ひよこに、それは やさしく たべさせた。そして、ひよこが 「やさしい お兄ちゃん」と 言うと、ぼうっと なった。
 ひよこは、まるまる 太って きたぜ。

 ある 日、ひよこが、さんぽに 行きたいと 言い出した。
 -はあん。にげる 気かな。
きつねは、そうっと ついて いった。
 ひよこが 春の うたなんか うたいながら あるいて いると、やせた あひるが やって きたとさ。
「やあ、ひよこ。どこかに いい すみかは ないかなあ。こまってるんだ。」
「あるわよ。きつねお兄ちゃんちよ。あたしと いっしょに 行きましょ。」
「きつね? とうんでもない。がぶりと やられるよ。」
と、あひるが 言うと、ひよこは くびを ふった。
「ううん。きつねお兄ちゃんは、とっても 親切なの。」
 それを かげで 聞いた きつねは、うっとりした。そして、「親切な きつね」と いう 言葉を 五かいも つぶやいたとさ。
 さあ、そこで いそいで うちに かえると、まって いた。
 きつねは、ひよこと あひるに、それは 親切だった。そして、二人が 「親切な お兄ちゃん」の 話を して、いるのを 聞くと、ぼうっと なった。
 あひるも、まるまる 太って きたぜ。

 ある 日、ひよこと あひるが、さんぽに 行きたいと 言い出した。
 -はあん。にげる 気かな。
きつねは、そうっと ついて いった。
 ひよこと あひるが 夏の うたなんか うたいながら あるいて いると、やせた うさぎが やって きたとさ。
「やあ、ひよこと あひる。どこかに いい すみかは ないかなあ。こまっているんだ。」「あるわよ。きつねお兄ちゃんちよ。あたしたちと いっしょに 行きましょ。」
「きつねだって? とうんでもない。がぶりと やられるぜ。」
「ううん。きつねお兄ちゃんは、かみさまみたいなんだよ。」
 それを かげで 聞いた きつねは、うっとりして、きぜつしそうに なったとさ。
 そこで、きつねは、ひよこと あひると うさぎを、そうとも、かみさまみたいに そだてた。そして、三人が、「かみさまみたいな お兄ちゃん」の 話を して いると、ぼうっとなった。
 うさぎも、まるまる 太って きたぜ。

 ある 日、くろくも山の おおかみが 下りて きたとさ。
「こりゃ、うまそうな においだねえ。ふん ふん、ひよこに、あひるに、うさぎだな。」
「いや、まだ いるぞ。きつねが いるぞ。」
言うなり、きつねは とび出した。
 きつねの からだに、ゆうきが りんりんと わいた。
 おお、たたかったとも、たたかったとも。
 じつに、じつに、いさましかったぜ。
 そして、おおかみは、とうとう にげて いったとさ。

 その ばん。
 きつねは、はずかしそうに わらって しんだ。

 まるまる 太った、ひよこと あひると うさぎは、にじの 森に、小さい おはかを 作った。
 そして、せかい一 やさしい、親切な、かみさまみたいな、そのうえ ゆうかんな きつねの ために、なみだを ながしたとさ。

 とっぴん ぱらりの ぷう。


 書き写していくと、繰り返しのように見えながらもそのたびごとのあまんさんの微妙な表現の工夫が見えてきて、何度も味わってみたくなる作品です。
 さて、この日の授業は4番目の場面、おおかみが登場するところです。
 私は、過去に授業観察・研究に参加するとき、許可されればビデオ撮影をしていました。しかし本教育研究会では、撮影は禁止です。現在の状況ではこれは致し方ないと思います。そこで私は、持っていったiPad proに搭載したEvernoteで授業観察メモを取ることにしました。
 授業が始まるとすぐに、入澤先生は4場面についての意見を求めます。
 驚きました。挙手、発言の嵐! 子どもたちはものすごい勢いで次々に話します。iPadでメモっていると、私の手が遅いので耳で聴きながらずっと画面とにらめっこすることになり、肝心の教室の様子を見ることができません。やりながらかなり迷いました。iPadをあきらめて目と耳で教室の様子を脳裏に焼きつけようかとも思ったのですが、記憶力に自信がないし(^^;)、いつでもこの教室を参観できるわけではないので、記録も残したいと思い、チラチラ前を見ながらメモを続行しました。
 元気のよい男の子を中心にどんどん発言が続きます。何度も発言を求める子もいます。入澤先生は一人一人の発言を丁寧に受け止めておられました。発言回数の多い子を制止するようなこともありません。
 そしてまた驚いたのは、教室全体が「言いたい子に任せておいたらいいや」という雰囲気になってしまうわけではなくて、最初は手を挙げていなかった教室の後ろの方の主に女の子たちが、促されたわけではないのに発言していくこと。
 そしてさらに驚いたのは、入澤先生は一人一人の発言を受け止めながらも教室全体を見ておられて、小さな声で先生になら話せる子の発言を聞きとり、それを教室全体に復唱して伝えておられたことです。それを何人もの子どもについてされていました。
 もう一つ驚いたことは、先生が小さな声の子のお話を聞いておられるとき、他の子どもたちが静かにして待機していたことです。
 入澤先生は様々な形で子どもたちのそれぞれの声を聞き、受け止め、必要なときは全体に伝えられていました。子どもたちも、われがちに発言する局面もありましたが、授業の中で自分たちの声がきちんと聞きとられ、受け止められているということを意識しているのではないかと思いました。

 作品世界の読みとり方、味わい方ですが、入澤先生自身は、1時間の中でできる限り子どもたちの思ったこと、感じたことを自由に言わせ、見ていた私が「これは読み誤りでは?」と思うことでも、まずは受け止めておられたと思います。このあたり、私も素人なのでよくはわからないものの、文学教育の様々な流派の人たちが見たら、あるいは批判があるかもしれません。
 私の不完全なメモのから個々の子どもの発言内容を個別具体的に取り出して云々することは控えようと思いますが、私がちょっと驚いたのは、きつねがおおかみに対峙するというこの場面でなお、きつねにはひよこ・あひる・うさぎを食うという選択肢も残されているという趣旨の発言がいくつかあったことです。おおかみに対抗するきつねが、こいつらはおれの餌なんだという縄張り意識から戦った、つまりはおおかみとの戦いに勝ってあとでゆっくり3匹を食べよう......みたいなつもりだったという捉え方ですね。
 もちろん一緒に暮らしてきて楽しかったその仲間たちをおおかみに食わせるわけにはいかないと考えて戦ったという考えも出ました。
 入澤先生はおおかたの場面で子どもたちの次々出てくる意見を自由に出させておられましたが、途中一つ発問をしました。

「いや、まだ いるぞ。きつねが いるぞ。」

は、誰が言ったか?という問いです。
 上の発言の次の行には、

言うなり、きつねは とび出した。

とあります。ここから、「いや、まだ いるぞ。きつねが いるぞ。」はきつね自身の言葉だとわかりますが、おおかみが言ったと捉えた発言もありました。入澤先生はさらに「言うなり」という言葉について「どういうこと?」と問い、「言ってすぐに」ということだと確認されました。ただ見ていた私の感触では、子どもたちの様々な発言が出る中、「ここは大事だ、正確に解釈させなければ」と教師が判断する部分を、文章に沿ってきちんと確認して解釈を確定する、という持っていきかたでは必ずしもなかったように思います。その後続いた発言でも、きつねがひよこ・あひる・うさぎが食べられることを恐れて「言うなり」即座に行動したという趣旨の意見と、楽しくいっしょに過ごしてきた3匹を殺させるわけに行かないという趣旨の意見の両方が出されていました。
 授業後の子どもたちの感想を入澤先生が送って下さいました。ありがとうございます!そこでは、ひよこ・あひる・うさぎは自分の「えさ」で、おおかみにとられたら食べられないから戦ったという考えの子もいました。一方、きつねが自分の命を賭して三匹を守ったことを優しい、勇敢だと称える意見、死ぬことはこわいのにすごいと驚く意見もありました。また、きつねは自分の命より三匹の命を大事にしたと捉える意見がある一方、きつねはひよこ・あひる・きつねとまだこれからも楽しく暮らしたいからこそおおかみとたたったんだ(=つまり、いたずらに自分の命を犠牲にしようとしたわけではない)という意見もありました。子どもたちの読みはすごいです。そしてこれらの読み方は、入澤先生が性急に「正しい読みへと収斂させていく指導」をされず、ぎりぎりまで子どもたちの様々な声を受け止め、また互いに交流させる指導をされていたからこそ出てきたんだと私は思いました。
 考えたら、ストーリー上最後にきつねは死んでしまっているわけですから、きつねがおおかみにも勝って最後には三匹を食べようとしていたという子どもの読みを、完全に否定することはできないですよね。こういう読みを敢えて出してくる子どもに対して、仮にそんなの人間的ではない、やさしくない、倫理的ではない、あるいは合理的な読み方ではないというような理由で否定してみても、たぶんその意見の子どもは納得しないと思います。しかし、自分とは違う読みをした友だちもいるんだということは、十分に意見を出し合って交流しあったこの授業を経ることで、どの子どももその子なりに受け止めているんじゃないでしょうか。それでいいんじゃないかと私は思った次第です。



(2)研究授業&分科会 5年1組 社会「工業 工業製品と貿易」 鈴木啓史先生
 鈴木啓史先生は、奈良を会場とした昨年8月の教育科学研究会全国大会や、今年6月の関西教育科学研究会大会でお見かけしていたので、こちらからは存じ上げていました。また5年工業学習には私自身もそれなりの思い入れがあったこともあり、この授業を参観させていただき、分科会討議にも参加しました。
 本題から外れますが私自身の「思い入れ」について少し書きます。
 私は約40年前の学生・院生時代、そして神戸大学助手を経て宮城教育大学でわずか2年半ですが働いていた1980年代後半までは、社会科教育をメインにして研究を進めていました。宮教大在職時代に、佐藤幸也氏(宮城県岩出山小学校教諭)、杉浦英樹氏(東北大学大学院)とともに、「小学校五年社会科『工業学習』の共同研究」を『教育』誌No.511(1989.8)に掲載していただいたことがあります。私たちが教育科学研究会社会と認識分科会・部会の活動を通じて学ばせていただいた鈴木正氣氏の「自動車工業」実践を踏まえ、3名の共同討議により鈴木氏とは異なる視点も入れた自動車工業における「分業」の実験授業を計画しました。その授業自体は事情により途中で中止せざるを得なかったたのですが、3名で未完の実践過程を分析交流し、共同論文にまとめたのです。
 今回の研究授業後の分科会でも発言したのですが、1970-80年代に社会科の実践研究に取り組んだ者のいささか古臭い認識かもしれませんけれども、当時小学校社会では子どもたちが工業の生産労働に出会う機会がおよそ3回あったと思います。1回目は当時は存在した2年社会科の「はたらく人シリーズ」の中での「工場ではたらく人びと」の学習。2回目は中学年の地域学習の中での、地域の産業の一環としての工業についての調べ学習。3回目は5年日本の産業学習の中で学びました。5年では自動車工業を扱う教科書も多く、工場見学も行なわれましたし、私たちの研究グループなどは分業労働の過程を子どもたちにも擬似的に経験させるなどして、生産労働を目に見える形で学ばせようと考えていました。
 さて、ようやく本題に戻りますが(^^;)、鈴木啓史先生の学習指導案では、授業の目標として以下の6点があげられています。

●現在の日本の工業は重化学工業が大きく発展しており、特に自動車生産や半導体生産といった機械工業が中心となっていることを理解させる。
●機械工業では、一つの工業製品に多様な部品が使用されており、それぞれの部品が関連工場で作られ、組み立て工場に運ばれ製品に組み立てられていることを理解させる。
●関連工場は、技術の高さによって質の高い部品を製造しており、組み立て工場は、流れ作業とオートメーション化により効率的に大量生産をしていることを理解させる。
●海沿いを中心に太平洋ベルトと呼ばれる工業のさかんな地域が広がっているのは、原材料の輸入にも、生産したものの輸出にも適しており、また、水を使用する場合にも都合が良いからだということを理解させる。
●現在の日本は機械工業製品を中心にアメリカやアジアの国々との貿易が盛んであり、特にアジアの国々に部品を輸出し、国外で組み立てた製品を輸入する「(逆委託)加工貿易」が盛んであることを理解させる。
●今後の貿易と工業の在り方について自分の考えを持たせる。


 上記6項目の目標のうち4番目までは、(工業生産の具体的な様相は大きく変わっているにしても)私が社会科研究に取り組んでいた1970-80年代当時と基本的には共通していると思います。工業生産をめぐる状況として大きく変化したのは第5番目の項目ですね。原料を輸入して製品を生産して輸出するという加工貿易は、戦後日本経済の大きな特徴だと思いますが、部品を輸出して外国で製品化して日本に輸入するという「逆委託加工貿易」というのは、20世紀後半にもあったかどうかわからないのですが、少なくとも社会科の学習には登場しなかったと思います。授業でも鈴木先生は「委託加工貿易」の用語を出して板書もし、説明されていました。
 本時の前には、家庭にある不要になった電化製品を分解して部品を観察する作業を行なったそうです。そして本時の冒頭には、鈴木先生がいくつかのドライヤーの写真を提示して、「Made in Thailand」「Made in China」などの表示があることを確認し、日本の企業が売っている製品だが外国で生産されていることを確認していました。
 分科会で鈴木先生に質問したところでは、分解した電化製品の部品が基本的に日本製であること(もちろん外国品もあるが)は、分解作業の中で現認して確認することはできなかったそうです。
 鈴木先生が授業で配付された資料は、「日本の輸入先トップ10」「日本の輸出先トップ10」という2枚の紙で、それぞれ2021年の順位・金額・占有率が書かれています。輸入は、中国・アメリカ・オーストラリア・台湾・韓国・サウジアラビア・アラブ首長国連邦・タイ・ドイツ・ベトナムの順、輸出は、中国・アメリカ・台湾・韓国・香港・タイ・ドイツ・シンガポール・ベトナム・マレーシアの順です。ともに興味深い資料なんですが、ここから「部品を輸出して製品を輸入」という工業製品の流れを直接読みとることはむずかしいですね。工業部品・製品だけの統計ではないので。
 子どもたちは、鈴木先生の問いかけに対して、なぜ日本の会社が日本で製品を生産せず部品を輸出して海外で生産させるかについて、いろいろ意見を述べていました。もちろん労働者の賃金や生産コストその他、子どもたちも考えつくようないろいろな要因が出てきてそれなりにおもしろい学習になるとは思うんですが、一方で「そもそもこれは工業学習なのか?」という疑問が湧いてきます。貿易、国際的な経済関係、日本国内の産業空洞化、現地における搾取、等々さまざまな問題が絡んできています。この複雑な問題を学習することが小学校5年工業学習の獲得目標なのか、ということです。
 私が分科会で発言した小学校工業学習での「3つの出会い」については、学習指導要領が言ってることは取り敢えず横に置くとして(^^;)、人間が自然に働きかけて人間生活に必要なモノをつくりだすことの学習であると考えてきました。端的に言って「ものつくりの学習」です。いま、部品を日本で生産して海外で加工し日本に輸入する「逆委託加工貿易」が日本の工業生産額のどれくらいの割合を占めているのかわからないんですが、これを学習のターゲットにするとなると、仮に国内での工場見学ができるとしても部品の生産過程しか見ることができません。
 1980年代頃に私たちが共同研究で構想した5年工業学習は完成品を製造する自動車の組立工場に焦点を当てるものですが、もちろんそこだけを見て数万の部品からなる自動車の製造工程がわかったと言えるのかと批判されれば、確かにその通りです。ただ、何分何秒かのサイクルタイムで規則正しく完成車が送り出されてくる自動車の生産ラインを観察し学習し、そこに到るまで数万の部品が組み込まれてくることを想像するならば、自動車生産の大まかなイメージを子どもなりに描けたのではないかと思うのです。
 「逆委託加工貿易」型の生産では、組立ラインは海外にあります。鈴木先生が子どもたちに取り組ませたように完成品を分解してみれば、その構成・構造はそれなりにわかるとは思いますが、部品が組み立てられて製品へと完成されていくリアルな工程は外国にあり、たとえ動画等でそれを見ることができても、日本の産業について学習している実感はないんじゃないでしょうか。まさに、「日本の会社なのになんで外国で?」です。
 かつて社会科教育を専攻してきたと言いながら経済や産業の動向については素人の私ですので、現代の5年生の子どもたちが工業について何を学ぶことが相応しいのか、答えを持っているわけではないんですが、どうせ複雑化した産業の全体構造までは把握できないとしたら、その中で子どもたちが学んで意味があることを教育的判断で選び出すしかないと思うのです。そして私の選び出しの視点は、「ものとつくること、それにより生活に有用な価値を生みだす仕事」です。仕事、働いていることが子どもたちの目の前にも部分的にでも見えるような学習でありたいと思うのです。外国でつくられて製品として入ってくるモノよりも、日本でつくられていて工夫すれば子どもたちも直接見ることができ、うまくすれば生産労働の疑似体験もできるような、そういうモノづくり。そこに参加している日本人もいるし、技能実習生など外国から来ている労働者もいます。そういう人たちの労働に触れるほうが、できあがった製品だけから想像をめぐらす学習よりも子どもたちにとって工業生産がストンと胸に落ちるのではないか。
 鈴木先生が指導案で構想され、実践に移されたことと全然別のことを言ってしまっていますが、これもまた先生の授業を見せていただいたことをきっかけにして思い出し、辿り着いた自分の考えであることは間違いありません。授業参観コメントとしては失礼な点も多々ありますが、御容赦いただきたいと思います。



(3)講演「学校教育がみんなのものであるために-公教育のありかと教育実践-」  大日方真史三重大学教育学部准教授
 大日方真史先生は、私のかつての同僚です。私の三重大学教育学部在職期間の最後の6年間、同じ職場で仕事をしてきました。若い教育学研究者である大日方先生が、この教育研究会のような教育実践者・研究者が集う濃密な学びの場で課題提起の役割を積極的に担っておられることを、元同僚としてとても嬉しく思います。

 私は大日方先生が昨年公刊された論文について、この「佐藤年明私設教育課程論研究室のブログ」で以下のようなコメントを書きました。

11 教育学文献学習ノート(22)-3神代健彦編『民主主義の育てかた 現代の理論としての戦後教育学』(2021) 第2章 「『私事の組織化』論-教師の仕事にとって保護者とは?」(大日方真史) 【前半】 (https://gamlastan2021.blogspot.com/2022/03/11-22-32021.html)

12 同 【後半】 (https://gamlastan2021.blogspot.com/2022/03/12-22-32021.html)

 大日方先生の講演の後半で紹介されていた親の子ども・教師・学級に対する「私的関心」「共通関心」については、上記大日方論文とそれに関連する大日方先生のいくつもの論稿での保護者インタビュー記録を読んで学ばせていただいていました。

 今回の講演でとてもおもしろいと思ったのは、そうした大日方先生の学級通信研究や保護者の意識・要求分析を背景にした「架空の学級通信」の提示でした。本教育研究会の基調提案である「みんなで学ぶことの意味を考える~学びの過程に目を向けて~」(今井勇人教諭 教育研究会要項集P.1-14 全体会では簡略化してパワーポイントで報告)を事前に読まれた大日方先生は、講演レジュメP.23でこう書かれています。

⚫こちらの学校さんの多くの先生方、学級通信を発行されているとお聞きしました。
⚫基調提案の「密度の学習」エピソードをお借りし、次に紹介するような架空の学級通信を作ってみました。
⚫保護者として、このような学級通信を受け取ったら?
⚫わが子の人との関わり方のスキル獲得(のみ)を学校に期待するという保護者なら?
⚫「困った子」の「評判」「噂」を耳にしていた保護者なら?
⚫日常的に読み続けると?
⚫以下、いくつかの現場で(こちらの学校さんは含まれません)調査研究してきた私の知見も紹介しながら、教室のそと、保護者に焦点をあて、公教育に関わる話を展開していきます。


 講演の中では大日方先生は、とってもおもしろい「架空の学級通信」(レジュメP.24で実際に提示されています)について、なぜか、こういうものをつくってみたということ以上に詳しくは話されませんでした。感想文にも書いたのですが、私はこの「架空の学級通信」についてもっといろいろ大日方先生のお話を、つくってみたことの経緯やどんなことを考えながらこの架空の通信を作られたのかを、聞いてみたかったです。
 これは単なる野次馬的な興味ではないと自分では思っています。
 教育学研究者は様々な形で学校現場における授業をはじめとする教育実践にコミットし、研究者としての見解を述べます。ただ私自身を含めて私が見聞してきた研究者の関わり方は多くの場合、すでに実践者によって実施された実践に対して、何らかの研究的関心から意見を述べるというものです。もちろん教授学系の研究者のように、研究者が独自に、あるいは実践者と共同で学習内容や学習過程・学習方法の実験的なプランを作成して実践に移す、つまり実践の前から意見を述べ、実践の遂行に関与するという場合もあります。ただ、大日方先生のように、今井勇人先生の実践報告に示された事実をもとにして「架空の学級通信」をつくってみる、というのは、極めて珍しいコミットのしかただと私は思いました。もちろん架空の学級通信に掲載された学級における学習の事実は今井先生の報告にもとづいていると思います。また私は詳しい話を聞いていないので、今井先生自身が学級通信を発行されているのか、大日方先生が「架空の学級通信」に掲載された学級の事実を今井先生自ら発行する学級通信に掲載されたのか、学級通信の発行をめぐって、本教育研究会以前に大日方先生と今井先生が何らかの意見交換を行なわれたのか、等々の事実経過を知りません。
 また、大日方先生は、この「架空の学級通信」が仮に実際に発行された場合の保護者のリアクションについていくつかの視点で予想しようとされています。
 ただ大日方先生は、奈良教育大学附属小学校でも学級通信を発行している先生がいるという事実を掴まれていますが、講演の中で同校教員自身の学級通信を検討素材に取り上げるということはせず、大日方先生のこれまでの調査研究の資料の中から事例を挙げておられます。
 大日方先生は講演に先立って何度か同校を訪れたとおっしゃっていましたし、基調提案の内容を事前に検討されるなど同校の教育実践について理解を深める努力をされたことがわかりますが、今回の講演の重要なコンセプトである学級通信について同校での事例を話題にするということはされませんでした。しかし替わって、今井学級の「架空の学級通信」を提案するという(私から見て)少し変わった問題提起をされました。それだけにその意図、また架空の学級通信を作成してみてわかったことなどを、できれば講演の中でも聴きたかったと思ったのでした。

 たった一点に絞っての感想で失礼かと思いますが、この項の冒頭にも述べたようにこれまでも大日方先生の研究について意見を述べ、交流を行なってきた者としての、その延長上にあるコメントとして御理解いただけたらと思います。

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