36 教育学文献学習ノート(33) 佐藤廣和『子どものなかの未来をつかむ 生活表現と教育』

 (2023.2.25刊行 2023.3.22-2024.1.18通読 2024.1.18-19ノート作成)

 身内に兄・姉がいない私ですが、30年間在職していた三重大学の同僚で、勝手に秘かに「兄」として尊敬し、頼りにしていた方が二人います。そのうちの一人が佐藤廣和氏です(もうお一方についても、いずれ書きます)。
 佐藤廣和氏は1948年生まれ。私より6年年上です。京都大学教育学部に学ばれましたが、大学院から名古屋大学に移られたため、私は学部の後輩ですがすれ違いでした。ただ、1973年入学以来10年近く、京都府美山町の山村・芦生(あしゅう)を年数回訪問して複式授業を参観したり子どもたちとソフトボールやキャンプファイヤーをしたり、家庭訪問をしてお話を聞いたりする「京大京女大芦生グループ」の活動を続けてきた私にとっては、少し先立つ大学紛争・民主化闘争の時期にその芦生グループを創設されたメンバーの一人であった佐藤廣和氏は、あこがれの人でした。私のその後の大学院、神戸大、宮城教育大の時代には教育方法学会大会などで時々お会いして挨拶する程度でしたが、縁あって1989年に三重大学に赴任し、同僚となりました。廣和さんは(親戚ではないですが^^;ともに佐藤姓であることから、私たちは「廣和さん」「年明さん」と呼び合っていました。学生たちも「廣和先生」「年明先生」と呼びました)2013年春で三重大学を停年退職されましたので、私は23年間同じ職場で仕事をさせていただき、様々なことを学ばせていただきました。

 昨年春、刊行されたばかりの本書を廣和さんからご恵贈いただきました。
 本書の構成は、以下の通りです。

はじめに
第一部 子どもの発達と生活綴方
 一 発達の疎外と人間的感性・感覚の回復
 二 いま、なぜ書くことをだいじにするか
 三 子どものなかの未来をつかむ
 四 生活綴方による子ども把握の意味について
第二部 生活綴方・北方性教育の歴史的研究
 一 北方性教育運動研究に関する一試論―研究の課題と教育実践史的方法の可能性について
 二 生活綴方における生活指導の概念について―北方教育社・佐々木昂を通して
 三 1938年生活教育論争
 四 戦前生活綴方実践における文集の役割
 五 佐々木昂のことばと表現
第三部 北方教育の教師群像
 一 若き北方教師たち―教育史のなかの青年教師
 二 佐々木昂―貧困にあえぐ地域と子どもをリアルにみつめた魂の技師
 三 「知識の伝達者」から「魂の技師」へ―北方教育と佐々木昂
 四 鉄筆だこに子どもの生活の必要を刻む―北方教育社・鈴木正之
第四部 フレネ教育と日本の教育
 一 生活綴方とフレネ教育の交流
 二 いま、なぜ問題解決学習なのか―戦後学力論の成果と課題
    ―生活表現にねざした個性化教育論の立場から
 三 総合学習の実践づくりのために
第五部 愛知私学運動と教育
 一 生徒・父母とともに学校を変える
 二 主権者としての学び―愛知の高校生の姿をとおして
 三 「一人ぼっちの親をつくらない!」―愛知父母懇にみる子育てネットワーク
第六部 教育と教育学研究
 一 教育実践をともに創造する教育学研究
 二 子どもをとらえるための文学教育者との対話―藤原和好著『子どもが生きる文学の授業』をめぐって
 三 教育実践における安心と自由
おわりに


 本書を最初に手にした時、前述のような個人的繋がりの経緯もあって、私はまず第六部から読み始めました。第六部一の初出は、『中部教育学会研究紀要』第15号(2015.6)です。廣和さんが芦生のことを何かに書いておられたとおぼろげな記憶があったのですが、これでした。私自身の思い出と重なる部分もあるので、関係箇所全体を引用します。

【教育実践と教育学研究者の関わり
(一)芦生グループ、付知グループで学んだこと
 企画の趣旨にそぐわないかもしれないが、70年代の自分史を述べることをお許し願いたい。
 1968年に大学に入学した冬から京都大学では<大学紛争><大学闘争>が激しさを増し、学部などが封鎖されて授業が全面的に停止する事態が長く続いた。その中で学生たちは「自主ゼミ」と呼ばれた学習活動を繰り広げた。自分たちが関心を持つ事柄を調べてレポートを作り、教授たちに呼びかけてともにゼミ活動を行った。こうした積み重ねの中で、大学・学部の多くの授業が教育の現実や教育実践にねざしていないことに不満を持ち、自分たちで教育現場に出向く活動が生まれていった。京都府美山町の芦生分校の調査グループが誕生したのは1970年の夏前であった。同級生と二人で事前調査・打ち合わせに同校を訪れた時、生涯忘れることができない二つのことに遭遇した。
 一つは、低学年(小1と2年生の複式学級)の教室に入った時のことである。打ち合わせの都合で国語の時間の途中から教室に入ったのだが、若いM先生が1年生のY君に教科書の音読を指示したところだった。ところが、Y君は立って教科書をかかげたまま読まない。後から見ると耳がまっ赤になっている。M先生は「読んで」という合図を目でさかんにおくっているのだがY君はそのまま立っている。私たちはY君が読めない原因が突然教室に入ってきた見ず知らずの私たちにあるのだと感じて戸惑ったが、M先生が促しているのに退出するのは失礼ではないかとの思いからそのままとどまり、私たちも祈るような気持ちでY君を無言で励まし続けた。この「三竦み」のような状態がずっと続いた後、終業の鐘が鳴った。やっと解放された気持ちとともに、現場に入るということは私たちの存在によって普段とは違う教室場面を見ているのだということ、子どもたちに緊張や圧迫感を与えるような関わり方をどうすれば少なくすることができるのかという問題意識を抱いた。
 二つめは、その日の夜、分校の先生が私たちの宿舎に地域の方を連れてきてくださった時のことである。その方は開口一番、「お前たちは何をしに来た」と質問した。この間の経緯を説明したところ次のようなことを厳しい口調で言われた。
     「以前、へき地の子どもの学力を卒論で調べたいからというので学生が来たことがある。私たちも子どもの学力については気になっていたので協力した。ところが、送られてきた卒論には『やっぱりへき地の子どもの学力は低かった』という結論が書かれていた。そんなことは感じていることで、それをどうやって改善するのかを知りたくて協力したんだ。自分の研究のためにここの地域を利用するなら帰れ!」
 私たちには「教育現場のことを知りたい」という気持ちがあったが、それは私たちの思いであり、地域の人は子どもたちのために何をしに来たのかが問題だという極めて当然の指摘をされたのだった。
 この二つのことをグループに伝え、7月中旬の本調査では遊びなどをとおして子どもたちと仲良くなること、地域の信頼を得るような関わり方を模索していくことなどを話し合って臨んだ。以来10年間ほど、このグループは芦生分校が廃校されるまで院生・学部生、さらには京都女子大学の教育サークルとの合同サークルとして継続されていった。】(P.236-238)

 ちなみに、廣和さんのおつれあいも、また私のつれあいも、京都女子大学学生時代に芦生グループでともに活動していました。
 先駆者である廣和さん達が苦労して道を付けて下さったおかげで、創設から4年目に芦生グループに入った私は芦生の子どもたちや地域の人たちに暖かく迎えていただいて貴重な経験をたくさんすることができました。ただ、地域の人たちからは「学生さん達はなぜ芦生に来るのか? 卒業したらどんな教師になるのか?」ということを繰り返し問いかけられたことを覚えています。芦生の地域と人々は、まさにゴリキーの言う「私の大学」でした。
 2013年春の廣和さんの三重大学教育学部最終講義を、私はビデオカメラマンとして撮影しながら拝聴していましたが、お話の冒頭は芦生グループでの活動の思い出であったと記憶しています。先ほど私は廣和さんは6年年上なので京大教育学部時代は「すれ違い」だったと書きましたが、考えると廣和さんが先に卒業されて私が後から入学したという文字通りの「すれ違い」だけではなかったのでした。廣和さん達がフロンティアとして築かれた芦生との繋がり、そして学生たちを暖かく厳しく見つめる芦生の人たちの眼差し、それらを数年のタイムラグはあるものの、私たちは共有していたんだと思います。23年も同僚だったのに、廣和さんともっともっと芦生のことを語りあえばよかったと今になって悔やんでいます。


 さて、本書では、佐藤廣和氏の生活綴方研究、佐々木昂をはじめとする北方性教育運動の研究、フレネ教育の研究や高校生サマーセミナーなど愛知私学の教育運動との関わりなどについて、その時々の論稿によって言及されています。それぞれの研究テーマ・内容について、ずっと壁1枚隔てた隣の研究室にいたのに、もっといろいろ聞かせていただいて学んでおくべきだったと思います。
 例えば、廣和さんが芦生や岐阜県恵那に入っておられた頃から生活綴方研究を続けておられたこと、また戦前の東北の生活綴方実践、北方性教育運動の研究にも取り組まれ、伊藤隆司さんとともに『佐々木昂著作集』を編まれたことなどは三重大に来る以前から知っていましたが、そこからなぜフランスのフレネ教育運動へと研究関心を広げられたかというようなことについて、23年間の同僚生活の中で立ち入って伺うことをしていなかったように思います。本書第四部を読んで少し見えてきました。
 第四部「一 生活綴方とフレネ教育の交流」によると、【生活綴方とフレネ教育の直接的な交流は、平凡社から出版された『世界の子ども フランス編』における協力関係から始まったと思われる】(P.162)とあり、当時(=1950年代前半~中盤)日本側では小川太郎と波多野完治がフレネ教育に言及した(P.163)とあります。ところが第四部「二 いま、なぜ問題解決学習なのか―戦後学力論の成果と課題 ―生活にねざした個性化教育論の立場から」を読むと、まさにその1950年代に日本では矢川徳光『新教育への批判』(1950)があり、また同じ時期のフランスでは【スニデールによって新教育批判、とりわけフレネ教育に対する批判が精力的になされた】(P.270)とあります。このような状況を踏まえて廣和氏は、

【わが国にフレネ教育が紹介され、生活綴方教育との直接的交流がなされたにもかかわらず、 <フレネ教育=新教育=生活綴方が克服すべき対象>という図式から抜け出せず交流は発展しなかった。そしてこの図式は今なお完全には払拭されているとはいいがたい。いずれにせよ、戦後の新教育批判の立脚点をスターリニズムの払拭という面から見直してみる必要を感ずる。】(P.173)


と書いています。私が漠然と思っていた《生活綴方とフレネ教育は教育実践としてどう結びつくか》ということよりもはるかに広い問題領域がそこに横たわっているようです。
 私が「教育課程論」の授業で戦後教育のスタート時期をどう描いているかというと、初期学習指導要領の民主的性格と、それが1950年代半ばに「法的拘束力」付与によって崩れていく、そして残念ながらその状況は現在まで変わらない、という描き方です。1940年代後半-50年代の民間教育運動の黎明期のことも、学力論争のことも、取り上げられていません。しかしもちろん、教科研など民間教育運動に依拠して研究を続けてきたものとして関心は持っています。ただ、民間教育運動史の視点としてスターリン主義批判を視野に入れることが必須だということまでは気づきませんでした。


 ここからは私自身の研究や教育実践の課題意識との関係で廣和氏の論稿から示唆を受け考えさせられた点を書いてみたいと思います。それは以下の2論稿についてです。
第四部 フレネ教育と日本の教育
 二 いま、なぜ問題解決学習なのか―戦後学力論の成果と課題
    ―生活表現にねざした個性化教育論の立場から
 三 総合学習の実践づくりのために

 の初出は、日本教育方法学会『教育方法』第24号(1995)、の初出は『作文と教育』第50巻第6号特別号(1999)で、いずれも私も三重大学教育学部に在職していた時期のものです。
 1990年代は「総合的な学習の時間」が日本の公式教育課程に登場する準備期でした。
 私も1977年以来日本教育方法学会の会員であり、前出『教育方法』第24号も持っているので、調べてみました。二の主題に挙げられている「いま、なぜ問題解決学習なのか―戦後学力論の成果と課題」 は日本教育方法学会30周年記念大会(広島大学 1994)において開催されたシンポジウムの1つのテーマであり、廣和氏の他に清水毅四郎氏、臼井嘉一氏が提案を行ない、『教育方法』第24号では各氏の報告と司会の市川博氏による当日の討論の報告が掲載されています。市川氏のシンポジウム設置の経緯説明を読んでも、まだ総合学習の語は登場しません。1997.7.17の中教審「21世紀を展望した我が国の教育の在り方について(第一次答申)」の中で「総合的な学習の時間」が提案され、教育課程審議会を経て1998年の学習指導要領改訂で小中高に「総合的な学習の時間」が新設されます。日本教育方法学会第30回大会のシンポジウム開催の時期にはまだ「総合的な学習の時間」をめぐる議論は開始されていなかったようですが、問題解決学習をめぐる議論は直後から始まる「総合的な学習の時間」をめぐる議論とも関係していると私は思います。
 廣和氏はの中で、こう述べています。

【戦後の問題解決学習が提唱、実践されたのは学習指導要領が一つの試論として提示されていた時期であり、今日の状況との違いを考慮せずにその学習形態だけを導入するのであれば真に子どもの学びを発展させるものとはならないだろう。なぜなら、今日の生活教育は戦後直後のそれとは違う社会的、歴史的状況にあって、共通事項の習得による国民的文化基盤の形成というモメントとは異なる学力論を提示し始めており、その際、学習材の自由な選択は重要な意味を持つと考えられるからである。この時のポイントは<権威づけられた教材>を相対化することが<科学・文化の総体への接近>にどうつながるのか、その筋道はどのように実現されるのかということであろう。これを解く鍵は、一つは現代の生活自体が持つ科学・文化との緊密性、地球的規模での相互依存性の問題であり、二つにはそれに対応した学びの緊密性と相互依存性の問題である。そしてこの点の追求は、既に戦後の問題解決学習に対して投げかけられていた「問題」とは何かについての吟味が希薄であるという批判にこたえる事でもあると思われる。】(P.169-170)

 上記引用中の【学習指導要領が一つの試論として提示されていた時期】と、【今日の状況との違い】について、私の考えを述べてみたいと思います。廣和氏は、今日の教育実践・教育研究における【共通事項の習得による国民的文化基盤の形成というモメントとは異なる学力論】の可能性を論じており、【現代の生活自体が持つ科学・文化との緊密性、地球的規模での相互依存性】【それに対応した学びの緊密性と相互依存性】 が新しい学力論の可能性を準備していると論じておられると受けとめました。この主張を傾聴するとして、しかし現実の教育課程に目を転じると、当時の時点でもすでに40数年にわたって、《「法的拘束力」主張による教育課程の硬直性の維持状態》が続いていたわけです。
 私は日本教育方法学会第39回大会(金沢大学 1999)で「『総合的学習』の『総合』概念」と題する自由研究発表を行ないました。その内容を、以下に抜粋します。

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長々と引用しました。ここでの議論に関わる範囲で要点を整理します。
(1)私は上記学会発表で1996中教審答申が
 ●「[生きる力]が全人的な力であ」ることから「横断的・総合的な指導」を推進する学習活動が有効であること
 ●「国際理解教育、情報教育、環境教育など」が「いずれの教科等にもかかわる内容」に関わることから「横断的・総合的な指導」を推進する必要があること
という二つの理由から「総合的な学習の時間」新設の提案をしたことについて、資料を紹介するだけで論評していませんが、この提案とその趣旨を実は高く評価していました。一方で私は、この学会発表から14年後の2013年から1996中教審答申を起点とする中教審・文部/文科省の教育目標としての「生きる力」論を批判する研究活動を開始し、その成果を三重大学退職直前に『「生きる力」論批判』(三重大学出版会 2019)として公刊しています。「生きる力」や「ゆとり」など、1996中教審答申全体を貫くキーワードについて、私は徹底して批判の立場に立ってきました。1999教育方法学会発表の時点ではまだそこまで批判的立場を確立していなかったかもしれませんが、1950年代の文部省による学習指導要領の「法的拘束力」の主張が決して撤回されていない以上、教育課程政策を提案する歴代の中教審答申を批判的に捉えてはいたと思います。
 そうなんですけれども、全体として学校現場を恣意的に拘束する教育課程政策が続く中、教育課程の中に学習の目標設定・内容設定を学校現場に委ねる新しい領域が登場しようとしていることは、政策側の意図を正確に分析することは必要であるとしても、これはこれで積極的に受け入れていいのではないかと考えました。設置理由の一点目は後に私が批判することになる「生きる力」から説き起こされているわけですが、1999学会発表当時は《全人的な力の育成のために横断的・総合的な学習活動をすすめるという発想は肯定できる》と考えていました。また二点目の《複数教科に関連する横断的・総合的指導》についても、それを推進することで学習指導要領に拘束された通常教科の学習の閉塞性を打破できる可能性があるのではないかという期待を持っていました。もともと《合科》や《総合》については1960年代以来の公害学習等の民間教育運動の成果とその一つの結晶としての「教育課程改革試案」(1976)によって民間教育運動において既に先取りされているという認識も持っていたと思います。こうした捉え方に基づく1996中教審提案の積極的評価は妥当だったのか、廣和氏と意見交換してみたいです。

(2)こうした積極性を持っていた1996中教審答申の「総合的な学習の時間」提案は、その後1997-1998の教育課程審議会の審議過程でねじ曲げられてしまった、と私は捉えました。具体的には、「総合的な学習の時間」の学習内容として「横断的・総合的課題」「児童生徒の興味・関心に基づく課題」「地域・学校の課題」という3つのカテゴリーに分けて、そのどれを取り組んでもよいとしたこと。横断的・総合的な課題設定や、学習の組織が、「総合的学習」全体の基調ではなく、3つの柱のうちの1つに低められてしまったと批判しました。1996中教審が打ち出した横断的・総合的な学習としての「「総合的な学習の時間」という方向性が、教課審答申では何のための「総合的な学習の時間」新設なのかあいまいになってしまっていると批判しました。

(3)こうした教課審答申の「総合的な学習の時間」の方向性曖昧化に飛びついた現場人がいる、として筑波大附属小学校の波巌氏の主張を紹介しました。波氏の考え方ははっきりしていて、要するにいかなる場合も子どもの「興味・関心に基づく課題」で学習することが「総合的な学習の時間」において必須だというものです。私は教課審答申において、横断的・総合的、興味・関心、地域・学校という学習活動のカテゴリーは並列されており、序列づけはされていないと捉えていましたので、波氏の主張はいくらなんでも強引だろうと批判しました。

(4)最後に念のため、私自身は子どもたちの興味・関心から出発する学習を否定しているわけではないこと、しかし、子どもたちの興味・関心から出発する学習を無限定に「総合的学習」と呼ぶことには反対であることを述べました。つまり、子どもたちの興味・関心から出発する学習は多面的・総合的な学習に発展する場合もあれば部分的・一面的なものに留まる場合もあると考えるからです。子どもの学習について考える場合に、《子どもの興味・関心の尊重》と《学習の総合的な展開》とはもちろん相互に関係しているけれども、それぞれは別の次元の事柄で混同してはならない、というのが私の考えでした。


 ここまできてやはり、学習の総合的性格とはいったいなにであり、それは何によってもたらされるものであるかを根本から考える必要があると思うようになりました。
 私は上記1999学会発表を挟む1997/2000年に「現代の日本人の「生きる課題」と学校カリキュラム(試案第1版の1/第2版の1)」という論文を書いており、その中で「現代の日本人が社会生活において直面している様々の課題のうち主なものを学校のカリキュラム構成 に反映させるべきである」という見解に基づき、「日本の学校カリキュラムに新たに (もしくは改めて)位置づけるべき課題領域」として以下の10のテーマを提案しました(佐藤1997 P.132)。
  1.生と死
  2.食
  3.性
  4.生産-消費-廃棄・資源再利用
  5.環境
  6.平和
  7.パフォーマンスとコミュニケーション
  8.情報とコンピュータ
  9.原初的レベルの人間生活における共感・連帯・共同行動
  10.価値葛藤
 その際、「総合学習という形態をとるかどうかは別にして、既存教科の区分にあまりこだわらずに、現代 日本に生きる人間として直面せざるを得ない課題について、学校カリキュラムの中に位置づけて学習を組織することが必要である」(同 P.131)としており、上記を「総合的な学習の時間」の課題領域として提案しているわけではなく、学校カリキュラム全体を現代的課題の学習によって活性化させる構想を描いていたのですが、もちろん「総合的な学習の時間」の時間において取り組むこともできると考えていました。10のテーマ自身は、文科系研究者としての私の狭い関心の範囲でランダムに提案したものであり、学校カリキュラム全体のモデルを示そうとしたものでもありません。そのことを当時以下のように断っています。

「まず第一 にはっきり述べておきたいのは、10項目 (現時点で)の学習テーマをすべての子どもたちに網羅的に学ばせるべきだと主張するつもりはないということである。 いずれのテーマも重要だと考えているが、相互に関連していて切り離すことができないものもあるし、一つのテーマに取り組むことで他のテーマが見えてくる場合もあるから、 どこから入 っていってもよい。 また、テーマの内容自体が流動していくし、学校での学習だけで完結 させることはできない。社会に出てからあ らためてそのテーマを真剣に考えるということがあってもよい。学校教育においては子どもたちひとりひとりの関心と学習の条件に応じて取り組めばよい。」(佐藤2000 P.123)

 私自身は現在に至るまで、伝統的なscopeとsequenceのマトリックスでカリキュラムを組み立てるという思考枠組を捨ててはいないのですが、上記の学習テーマ提案はカリキュラム全体ではなくて一部分を攻める方略ではありながら、進めていけば教育課程編成の方法論全体の再構成を構想せざるを得なかったはずのものです。しかし、その後深めきれていません。
 ところで上記2000論文では、1999学会発表も踏まえて「子どもの興味・関心」について以下のように述べています。

====================
 学習において子どもたちの興味 ・関心を尊重し、これを喚起することはもちろん大切である。しかし、「総合的学習」の 「総合」が、字義通り、「個々別々のものを一つにまとめ合わせること」(『新潮国語辞典』)、「関係する幾つかのものを集めて、一つの統一体となるようにすること」 (『新明解国語辞典 第四版』)を意味するとすれば、 はたして教師は学習において子どもたちの興味・関心の自然発生・自己展開を待つだけでよいのだろうか。
 子どもの関心は必ずしも総合的である、あるいは自ずと総合の方向へ進むとは限らない。中には、断片的な事実に執着して追求しようとする子どももいるだろう。 そ して、それはそれでその子にとって意味ある学習なのである。 しかし、断片的事実に執着して展開する学習にまで「総合的学習」 というラベリングをすることは、概念の混乱を招くだけである。
 子どもたちの日常生活の中では必ずしも十分に意識されていない今日的テーマを、教師が課題設定することによって子どもたちが意欲的に参加してくるという学習過程も十分あり得るはずである。 また、総合的性格を持つ現代社会のテーマに挑むには、学習過程での情報収集や思考や行動において子どもたちが相互に協力してアイデアを出し合ったり、教師や親や地域社会の人々や専門家など大人の協力を引き出していくことが必要になる。そうした活動に子どもたちが自力で取り組んでいけるならそれでよいが、壁にぶつかったときに教師が適切な援助をするかどうかがその後の活動の成否を左右することもある。学習を発展させるために教師がどの場面でどのような指導や援助を行なうかが重要だと考える。
 「子どもの興味・関心」が教師をはじめとして学習環境に参加してくる人々との関係においてどのように発展したり停滞したりするかを具体的に検討する実践研究が必要であろう。」(同 P.123)
====================

 私が1999学会発表や2000論文で示した、《子どもの興味・関心は必ずしも総合の方向へ発展するとは限らない》という子ども把握・子どもの学習把握、《教師が設定した課題に子どもたちが意欲的に参加することもあるはずだ》という教師の指導観に対して廣和氏がどのようにコメントされるか聞いてみたい気がします。私たちが同僚であった期間にそれぞれ発表した見解なので、もしかしたら研究会や日頃の雑談の中で意見交換したかもしれませんが、今となっては記憶がありません。
 私の考え方は、子どもの現状、立場、権利などを尊重して論じているつもりではありますが、突き詰めていくと教育の内容、子どもの学習の内容は人類の学問文化の成果を専門家である教師や教育研究者が編成したものを学ぶことによって成立するという系統主義の立場に立っているのだと思います。子どもの興味・関心をとらえ、それを尊重し、子どもたちが主体的意欲的に参加する学習を組織しなければならないと考えていますが、学習として組織する内容は教師や教育研究者の専門性に依拠して構成されるのであり、もしそのことを否定したら教師は必要なくなるのではないかと考えています。
 つまり、廣和氏が本書第四部二で述べている、【<権威づけられた教材>を相対化することが<科学・文化の総体への接近>にどうつながるのか】という検討課題中の<権威づけられた教材>を提案することに私がまだまだこだわっている、ということだと思います。ただ、廣和氏の用語法とは違うかもしれませんが、私が考える《教材》の《権威》とは、不当な学習指導要領の「拘束性」に抗して人類の遺産である科学・文化の成果を子どもたちにわかりやすいように、楽しく学べるように苦労して編成し授業に提出しようとする教師や協力する教育専門家の《専門性》が子どもたちや親たちにもたらす安心とか信頼だと思います。そのような教育課程自主編成のようなことが現在の日本の学校で実践できる可能性は薄いので、夢物語になってしまうかもしれませんが、日本の民間教育運動の遺産の中にはそういう《宝》とも言えるものがたくさんあると思うのです。
 苦労と努力の中でそういうものを作り上げてきた教師の仕事へのリスペクトを前面に出すか、それとも《そうした教師の努力も、子どもたち自身の能動的な学習参加や生活参加として結実してこそ意味があるのであって、教育の主人公は子どもである》ということを前面に押し出すか。
 私の中で自分の教育論とともに勝手に《佐藤廣和氏の教育論モデル》を作り出して、両者を意図的に対立させるような論じ方に最後はなってしまいました。廣和氏に「年明さん、それは違うよ」と言われるかもしれません。


 2022年度から、私が神戸大学大学院で助手をしていた1980年代前半に神戸大学教育学部の学生だった岡野勉さん(新潟大学教育学部教授)から依頼を受けて、リモートで新潟大学教育学部「教育課程及び総合的な学習の時間の指導法A」の授業を担当しています。教育課程論と総合学習指導論の両方をカバーしなければならないので苦労していて、2年目の今年度は、『希望の教育実践 子どもが育ち、地域を変える環境学習』(同時代社 2017)の著者で元兵庫県の小学校教師である岸本清明氏の「東条川学習」を取り上げさせていただき、全15回の授業のうち3回を総合学習の検討に充て、うち2回は岸本先生にもzoomで参加していただきました。2022年6月に『希望の教育実践』を読んで感銘を受け、以来1年半にわたって岸本先生との交流を続けてきました。来年度新潟大授業にも岸本先生のご登場いただきたいと依頼し、快諾を得ました。岸本氏の著書、及び岸本氏をお呼びしての新潟大授業実践については、本ブログの以下の項目で紹介しています。

17 教育学文献学習ノート(29)岸本清明『希望の教育実践 子どもが育ち、地域を変える環境学習』(同時代社)  (2022.7.20) 
  https://gamlastan2021.blogspot.com/2022/07/1729.html
35 2023.10.21京都教育科学研究会第351回例会における佐藤年明報告「岸本清明氏の総合学習実践『東条川学習』(『希望の教育実践』所収)を新潟大生はどう学んだか?」と別添資料を転載します(2023.10.22)
  https://gamlastan2021.blogspot.com/2023/10/3520231021351.html

 今年度の授業実践と、それについての京都教科研例会での報告(ここには岸本先生も同席してくださいました)に向けた実践総括作業、さらにそれ以降の総括と来年度授業構想をめぐる岸本先生とのやりとりの中で、未確定ながら新しい授業構想が生まれつつあります。それは、15回中3回を総合学習検討に充てるとか、その時間配当をさらに4時間、5時間に拡大するとかいうレベルではなく、これまで《戦後学習指導要領変遷のトピック/総合学習/hidden curriculumの収集・検討》という三部構成だった「教育課程及び総合的な学習の時間の指導法A」の授業を、総合学習を核として全体的に再編成する、というものです。新潟大授業担当は年度初め段階で70歳までと決まっているので、2024年度と2025年度で終わりです。残る2年、今までの自分の大学授業実践の蓄積を消費してゆるゆると終わるのでなく、最後まで実験的な試みをしようと考えています。この構想の中で、実践については岸本先生の環境学習を中心にしながら、理論的には自分自身の「総合学習」把握をもう一度問い直してみようと思います。
 岸本先生が荒れた6年学級を引き継いで悩み抜きながらふと学校のそばを流れる東条川に着目して始められた「東条川学習」ですが、その岸本先生の慧眼に驚くとともに、ミネラルウォーターの飲み比べに始まる子どもたちの驚くべき「食いつき」とその継続、その中での子どもたちの成長、そしてかつては「ハゲ」と罵った子どもたちなのに、その力を信じて学習に伴走された岸本先生の「子ども観」「指導観」。そうした岸本実践が突きつける事実に圧倒され、それを受講生たちとどう共有するか模索しながら、2023年度の授業を進めました。しかしその中で「岸本先生だからできた」「子どもたちがすばらしかったからできた」など、自分自身と切り離す受講生の感想も出てきました。それにどう対処するのか、まだ結論は出ていませんが、一つの発展方向として、1990年代後半に「総合的な学習の時間」が提案されるに至った日本の教育課程史を、1960年代公害学習とか1976年「教育課程改革試案」などの民間教育運動の力量が生みだした成果も踏まえながら私自身がもう一度捉え直す作業の中で岸本実践を再定位してみようかと考えています。岸本先生の子どもを見つめる目や創造的な実践展開の発想をより広い教育実践研究運動の歴史とか教員組合運動の展開などとも関係づけながら捉える作業をしたい。それをどこまで受講生にわかる形で、また結論押しつけでなくいっしょに考えていく課題として提起できるかまだわかりませんが、取り組んでみたいと思っています。
 さきほど「総合学習」をめぐる佐藤廣和氏の捉え方と私の捉え方を私の主観の中で勝手に対決させるような書き方をしましたが、そこでやろうとした自分自身の「総合学習」観の突き詰めは、2024年度新潟大「教育課程及び総合的な学習の時間の指導法A」の授業構想検討作業に繋がっていくと考えています。そこをがんばってやっていくことが、本書で佐藤廣和氏が私に問題提起してくださった(と勝手に考えている)ことに、答えていくことに繋がると思います。



コメント

  1. 素晴らしい教育理論 のご紹介をありがとうございました。
    佐藤廣和先生のご著書をぜひ拝読したいと思います。

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    1. 紹介されていませんでしたが 、生活綴り方や表現活動の部分に、個人的には興味が湧きました。

      削除
  2. usumukuさん、コメントありがとうございました。
    私が紹介できていない部分を含めて、佐藤廣和氏のご著書についてご意見を聞かせていただければ幸いです。

    返信削除

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