78 3日間で4つの研修会・研究会に連続参加して ―sexualityの視点から―
(2026.7.5-9)
先週末、怒濤のように4つの研修会・研究会参加が続きました。まずその4つを列挙します。
①2026.7.3(金)10:00-12:00「『京都市学童クラブ事業における障害のある児童の統合育成対策介助者派遣事業』介助者研修会①」
谷浩一氏(岐阜聖徳学園大学教育学部)報告「発達特性がある子どもの心と身体 ~動作法をベースに~」
②2026.7.4(土)10:00-12:00 日本臨床教育学会 オンライン連続研究会 2026年第4回「多職種協働と臨床教育学 設立趣意書を再読し、子ども・教師を取り巻く多職種連携について問い直す」
渡邉由之氏(東大阪大学)報告「設立趣意書を再読し、子ども・教師を取り巻く多職種連携(協働)について考える」
鈴木庸裕氏(日本福祉大)報告「ウェルビーイングな学校をつくる一員として」
③2026.7.4(土)14:00-16:00 武庫川臨床教育学会オンライン学習会
今井美樹氏(東大阪大学こども学部こども学科特任講師)報告「"子どもの声を聴く"ということ ―子どもアドボカシーの実践から―」
④2026.7.5(日)10:00-12:00 教育科学研究会教育学部会7月学習会
本田伊克氏(宮城教育大学教授)報告「<#入門>「学力」とは?立ち止まって考える」
①の終了後に感想文を提出する際にスマホに画像を保存しておきましたので、その写しを以下に紹介します。
----------------------------------------1.意見・感想
とても具体的でわかりやすいお話をありがとうございました。
動作法を行なう前と後での子どもの変化を説明されるときに、谷先生が「変化してくださった」と表現されていたことがとても印象的でした。子どもたちへのリスペクトの気持ちがにじみ出ていると思いました。
2.今後の活動に活かせるか?
動作法そのものについては専門的訓練が必要であろうと思いますので、シロウトが中途半端にマネすることはできないであろうと思います。
加えて、児童館では従来から子どもとの身体接触については慎重になり、できるだけ控えるというルールがあり、性加害に関する法改正でこの点はよりきびしくなると認識しています。
ボランティアにおいては、こちらから子どもへの身体接触については抑制し、子どもからの働きかけに対しても「流す」ことが必要かと思います。
子どもと親しい関係を築く上で身体接触も重要とは思うので、かねあいは難しいですが…
----------------------------------------
②については、大変申しわけないのですが、私は前日の①受講の後、午後に京都女子大学「教育課程論」授業、その後は所属する洛北青年合唱団の発声レッスンに参加して、夜遅くに帰宅しました。このため②受講時にはかなり疲労が蓄積していて、渡邉氏・鈴木氏のご報告終了直後に研究会を退出して休養しました。このため研究会での質疑応答や討論に参加できず、参加中に自分なりのコメントを書くということもできませんでした。ただ②のテーマは、別の研究会ではありますが午後の③のテーマと深く関連していると考えています。
③については、その前に休養を取ったこともあって(^^;)開始から終了まで参加することができました。この研究会では発言もしましたので、その時に手元で作成していた発言メモを再録します。
----------------------------------------
児童館ボランティアについても、いくつかの行動ルールはあるが、児童館職員の方と比べて比較的自由に子どもと遊んでおり、その中で子どもについて見えてくることもある。子どもたちが遊びの中でふと語ってくれることのなかにいろいろおもしろいこともある。学校のクラスのことをふと語ったりすることもある。私たちはもちろんアドボケイト(佐藤註:今井報告によると「子どもアドボケイト」とは子どもの権利の支持者、擁護者、代弁者)ではないが、子どもの声を聴くことができるポジションにはいると思っている。 そうした子どもとの会話の内容も貴重と思うのだが、言語コミュニケーションはそれだけで独立しているわけではなく、身体面での交流も関係していると思う。おにごっこするとかままごとをするとか。
ただこの点で、児童館でかなり強く言われているのは、身体接触を避けること。だっことか膝に乗せるとか。私も昨年ボランティアを始めた頃に小学校1年生の女の子が膝に乗ってきたことがあったが、横にいた先輩ボランティアが「●●ちゃんはもう小学生だからね、お膝に乗るのはやめようね」と言われ、あとで館長さんに「乗ってきたときにどうしたらいいですか?」と聴くと、「立って下さい」と言われた。若い学生のボランティアもおり、館長さんは身体接触回避について繰り返し注意喚起されていた。子どもの側からは親しみの表れであったり、また大した意味がない(^^;)行動かもしれないが、スタッフの側は抑制を指示されている。 また最近は児童館での研修の中で、性加害に関する法改正もあり、その中でいくつもの注意すべき、避けるべき行動が提示されている。ボランティアに悪意がなければ子どもたちと親しく交流する一環として身体接触もあるのが自然、という考え方もできるが、例えばお迎えの時などに親がそういう身体接触の場面を目撃して抗議されるということも起こりうることなので、十分注意するように言われている。
子どもたちも《児童館の大人とこういう交流はできるがこういう交流(たとえば膝に乗ること)はできない》ということはうすうすわかっていて、わりきっている面もあるかとは思うが、それでも膝に乗ってくる子どもはいる。多様な角度や多様な回路を通じての子どもたちとの交流ということを考えると、《性加害回避を名目とする大人の子どもへの関わり方の制限》については、必要だとかしかたないと思う面もある一方で、これでいいのかな?とも思う。
ただ、今日のお話との関係で言うと、大人が子どもに対して身体接触を行なった場合にそれについて子どもが嫌悪や忌避の意識を持つ場合、また持っているのに言うことができないという状況は避けなければならない。またこの点で子どもの思いを丁寧に聴くことも大事だと思うが、そうした専門的知識・技術がないので難しい…
----------------------------------------
④での話題(学力)については、このブログでも昨年来検討を続けていることでもありますので稿を改めて検討する必要がありますが、取り敢えず研究会中の発言のためにつくったメモと、終了後に送付した感想文を、覚え書きとして収録しておきます。
----------------------------------------《発言メモ》
児童館で子どもの宿題を見守っていて思うこと(学校での学習について全く情報がない中での偏った判断ですが)
・知的な遅れがあると思えない3~4年生が、一桁+-一桁(くりあがり/くりさがりがない場合も)を指を使って計算している
・1年生が算数文章題を読む前から「わからへん、どういう意味?」と言う。文章を読んであげるとほぼ理解できることも多い。
・「答え教えて!」と言う子。算数ドリルの末尾の正解を写している子どももいる。
⇒総じて、「宿題」が学校の学んだことを子どもが《総括》したり、《意味を確認》したり、《わがものとして定着》させる機会になっていない、そういう子どもが残念ながら多いのではないか、宿題を《苦行》と捉え、早く終わらせたい、結果だけ出せばよいと考えている子どもが多いのではないかと思います。
----------------------------------------《感想文》
とてもおもしろい研究会でした。本田さん、個人的にもまた語り合いましょう(^_^)。
全く個人的な見解ですが、ルーブリックやパフォーマンス評価にはあまり関心がありません。なにかよってたかって子どものことを勝手に難しく解釈しようとしている印象を受けます。「評価」という視点を外して虚心に子どもたちに対面したら、もっとおもしろいことがいろいろ見えてくるのに、と思います。
ここでは、部会での1回目の発言の後に時間があったら言いたかったことを書きます。 児童館で3年生だった去年から4年生の今年にかけて交流がある子どものことです。先日は4ケタ同士の足し算引き算の筆算問題の宿題をやっていました。くりあがり・くりさがりの処理の仕方は習得しているようですが、各ケタの足し引きの計算をするとき、彼は両手の指を使うのです。4ケタとはいえ1ケタの操作の結合・繰り返しなわけですが、算数教育素人の私でも思うのは、1年生当時の1ケタ+/-1ケタの演算処理が、もしも具体物⇒タイルなどでの操作を経て十進法の構造がつかめていて、かつ足す操作・引く操作の繰り返しによる習熟が達成されていれば、足したり引いたりする2つの数字を見たらすぐに答が浮かぶくらいのところまでいけているはずだと思うのです。4ケタ同士の演算は1ヶタ同士の演算より時間がかかって面倒ですが、その構成要素である1ケタ同士の数操作が自動化に近いところまでスピードアップされていれば、筆算に取り組む子どもの心理的負荷はかなり小さいのではないかと思います。この子は4ケタ筆算の手順は一応習得しているけれど、操作手続きにおいて1年生でクリアしておきたかった水準をクリアできていないわけです。
多忙な教師にとって子ども一人一人の計算における《習熟》まで導く余裕がないのだろうとは思いますが、それにしても算数における基礎的学習能力の獲得過程のフォローにどこか問題があったのではないかと思わざるを得ません。
----------------------------------------
さて、ここまで読んでいただいた読者の方々は、一体なんのことについて書いているの?と思われるかもしれません。それは私が、4つの研修会・研究会での講師の方々の報告内容をここで紹介していないからです。ただ、申しわけないですが私はそれをしません。なぜかというと、4つの研究会はいずれも、事前に参加申し込みを募ったりあるいは学会所属会員のみに案内を行なって開催されたものであり、従って、いずれの報告者もフルセンテンスまたはパワーポイントスライドで参加者に報告内容を提示されたのですが、それらの報告資料は学会誌・教育雑誌等に掲載されたりweb page上で誰もがアクセス可能となっている研究資料ではないからです。私が個人として上記のコメントを書く上で必要な範囲では講師の方の報告内容をごく一部紹介している場合はありますが、その範囲に留めようと思います。どうかご了承下さい。
その上で考えたいこと。私にとってはとても重たい問題で、結論が見えて書き始めているわけではありません。ですが、sexualityと子どもの学び、発達や学校教育の関係について30数年来考え続けてきた者として、やはり言及せざるを得ない問題であると考えました。それは、①と③の参加感想で私が述べている《子どもとの身体接触》の問題です。
最近の児童館での研修の中で、「こども性暴力防止法(学校設置者等及び民間教育保育等事業者による児童対象性暴力等の防止等のための措置に関する法律 2024)」のことを学習しました。法律全体を精緻に学んだわけではありませんが、事後にこども家庭庁HPを検索してみて、(たぶんですが)これが児童館で回覧された資料であろうと思われるものを見つけました。こども家庭庁「こども性暴力防止法施行ガイドライン」(2026.1)
の「Ⅱ.定義 2.児童対象性暴力等(法第2条第2項関係)(2)不適切な行為」の項です。法全体の趣旨や文脈を無視して、という批判を受けることを覚悟で、上記の項目全文を抜き出してみます。
上記で紹介した「不適切な行為」の解説文全体を一読して感じるのは、非常に慎重に書かれていると言うことです。「②『不適切な行為』及び『重大な不適切な行為』の具体例」の具体例に先立つ前文の部分からそう思う箇所をあげてみます。
【これらの具体例は、(中略)対象事業者、事業内容、対象となる児童等の発達段階や特性、現場の状況等によって、不適切であるか否かが変わり得るものであり、これらの行為に該当することで一律に不適切であると判断されるものではないことに留意が必要である。】
【ア 児童等の発達段階に応じて、現場で必要となる「身体接触を伴う行為」の範囲は異なるものであり、未就学児(中略)に対するものと、中高生に対するものを同等に扱うことはできない(※1つの例示であり、児童等の特性、現場の状況を踏まえた判断が必要。)。一方、個々の児童等の発達段階や特性により、例えば小学校低学年に対して、未就学児と同様に、信頼関係を築いていく過程で身体接触を伴う行為はあり得ること
【イ スポーツ、水泳、バレエ、ダンス等においては、児童等及び保護者の理解を得た範囲で、身体接触を伴う指導があり得ること】
その上で、「身体接触」に関する「『不適切な行為』の具体例」をみていきます。
●第1項目での「不必要な接触」の例は、「必要以上に長時間抱きしめる」「一般的ではない抱き方」などです。
●第2項目は、「膝に乗せる、おんぶする」など。ここでも「業務上必要でないのに」と限定がつき、さらに未就学児に対しては「業務として行い得る」とあります。
●第3項目は、マッサージをする/子どもにさせる、特定の子どもとの添い寝。
●第4項目は、視覚障害地の誘導時に距離が近すぎること。
第1・第2項目の末尾にそれぞれ「など」とあるように、これらは例示であって《これ以外にはない》という意味ではないと思います。しかしおそらく児童関連施設ではとりわけこの4項目について神経を使うことになるでしょう。
このうち第2項目については、私がボランティアをしている児童館でも私が仕事を始めた昨年春の段階で明確なルールとなっていることを知りました。おんぶ、だっこは就学前の幼稚園保育園子ども園では「業務として行い得る」と認定されるが、小学校入学後では「業務上必要でないのに」という前提付きですけれども、否定されています。ボランティア開始当時にこのルールを知らなかった私は、たまたま1年生の女の子が膝に乗ってきたことを親しみの気持ちの表れと喜んでいましたが、それを受け入れてはだめだということを知らされました。私が子どもを膝に乗せた(乗ってくることを拒否しなかった)ことは、《業務上必要なこと》ではありません。一人一人の子どもと親しくなっていくためには、膝に乗せることは避けてい別の交流手段を考えなければならない、ということです。
「マッサージ」の項と直接関係はないのですが、①の研修会への感想で私は、「動作法そのものについては専門的訓練が必要であろうと思いますので、シロウトが中途半端にマネすることはできないであろうと思います。」と書きました。動作法のことをよく知らずにそうした専門的技法に対する不必要な疑問を生じさせるようなことを述べてはいけないと思います。研修会で紹介されたのは、以下の文献でした。
長田実・宮崎昭・渡邉涼『障害者のための絵でわかる動作法: はじめの一歩』(福村出版 1999 税込2860円)
上記文献等に基づいて、「脳性マヒ児の姿勢や動きの改善のために1960年頃より開発された援助法の体系」である「動作法」(研修会PPスライドより)について正しく理解する必要があります。研修会の後半で谷浩一講師は「動作法は心の健康に役立つ」として不登校、PTSDなどの事例を挙げておられました。この研修会自体が本稿冒頭で挙げたように「障害のある児童の統合育成対策介助者派遣事業」の一環として行なわれたことから、児童館に通ってくる障害のある子どもに対する適切な配慮や対応の知識・技術を深めるために「動作法」の専門家がわかりやすく解説をして下さる機会であったと理解しています。
ただ私がボランティアを行なっている児童館では、(もちろん素人目で外見的に判断した限りですが)身体的な障害をもつ子どもが日常的に通ってくることは見られません。もしそうした子どもを受け入れるということになれば職員やボランティアも改めて専門的知識・技術の研修を受ける必要があるでしょうし、たとえば当該の子どもに「動作法」による訓練やケアを行なうにはさらにより専門的な講習等で(「資格認定」の制度があるかどうか知りませんが)適切な技術を身に付ける必要があるでしょう。だから私は研修への感想文で「シロウトが中途半端にマネすることはできないであろう」と書きました。「動作法」についての一知半解の情報しか持たない素人が《これが子どもにとってよいことなのだ》と思い込んで子どものからだに接触するようなことがあれば、それを他者から《不適切な行為だ》と批判されてもしかたがないと思います。
マッサージの話に戻りますが、例えば思春期の男の子たちの間でふざけあっている時に「マッサージ」と称して友だちのからだの部位をさわる、押す、揉むなどの行為をすることはありうると思います。しかし、児童関連施設において指導・援助者である大人がこうした《ノリ》で(ふざけているつもりで)子どものからだに接触するということは、もちろんあってはならないと思います。
同時に関連して重要なのは、この項で子どもに「マッサージをさせる」ことも不適切、とされていることです。細かいことを言いますが、この一文の冒頭の「業務上必要でないのに」は、文の後半の「児童等にマッサージをさせる」にまでかかると読めなくはないですが、内容的に見て子どもに関わる大人の「業務」において子どもにマッサージをさせることは《必要》という判断はあり得ないように思います。であれば、子どもにマッサージをさせることは前提条件なしに禁止されているとみることができます。身体接触とは《大人が子どものからだに接触すること》だけではなくて、《子どもをして大人のからだに接触させること》をも含んでいる、というのはあたりまえのことであり、大人自身が身体接触行為を行なうことだけでなく子どもにその行為を要求したり誘導しようとすることも行なってはならない、ということですね。私は③でのコメントの末尾で、「大人が子どもに対して身体接触を行なった場合にそれについて子どもが嫌悪や忌避の意識を持つ場合、また持っているのに言うことができないという状況は避けなければならない。」と書きましたが、ここに「大人が子どもに対して身体接触を行なった場合」だけではなく、《大人が子どもをして大人に身体接触するように仕向けた場合》も含める必要がありますね。児童館等の子どもが生活する場において、子どもが安全に、安心して暮らせるためにこのことは重要であると思います。
その上で……まだまだ頭の中が整理できないままに考えがぐるぐるまわっているんですが、私はこの大人と子ども、子どもと大人の身体接触の問題を、これまで30数年取り組んできた《人間のsexualityと学校教育をめぐる問題》の中に位置づけて考えることが必要だと思い始めています。
唐突な話を出して恐縮ですが、私は大学生の頃から《子どもが好き》という気持ちを自分の教育学の学習・研究や学生サークルなどの実践活動の中核に置いてきました。(《子どもが好きだから教育学部に入った》とまでは言えず、京都大学教育学部を選んだのは高校紛争を経験して教育と政治の関係に関心を持ったことが当初のきっかけだったんですが)大学入学と同時に教科書問題研究会(家永教科書検定訴訟学生支援会 こちらは「教育と政治」への関心と関係します)と併行して参加した京大京女大芦生(あしゅう)グループ(年に数回、由良川の源流近い京都府北桑田郡美山町芦生=4級僻地の山村に入って分校の複式授業を見学したり子どもたちと遊んだり地域の人たちと語り合ったりする地域実践系サークル)での芦生の子どもたちとの出会いが私のその後の人生にとても大きな影響を与えています。芦生グループのことをここで詳細に語るつもりはないのですが、ここでの子どもたちとの出会い(もちろん様々な個性を持つ子どもたちがいたわけですが)が私自身の《子どもが好き!》という気持ちをより強めてくれたと思っています。芦生での合宿中は、宿舎である京都府青少年山の家で夜遅くまでサークルのメンバーと複式授業のことや子どもたちとの遊びのことを語り合い、それで夜更かしして朝まだ寝ていると子どもたちが山の家まで私たちを起こしに来る……というような日常でした。
今から50年前後も前のことです(^^;)。それから時が流れ、私は大学院を出て神戸大学3.5年・宮城教育大学2.5年・三重大学30年・京都橘大学1年と、いずれも教員養成の現場に身を置いて、主として小学校の授業を観察・分析する機会を数多く持ち、その限りで子どもたちとの交流も続けて来ました。その間も、もちろんいろいろな子どもがいるし、子どもを見ていていろんな思いを持つけれども、底流として《子どもはかわいいなあ》という思いは持ち続けていたと思います。
しかし、いつ頃からでしょうか、教育学研究者・教師としての自分の来歴を語る場合に《子どもが大好きなので…》という自己開示をすることに若干のためらいを感じるようになりました。自分の子育ての時期に自分の子どもをかわいく思うのはあたりまえだし、その延長上でわが子の友だちなど周りの子どもたちや、あるいは町ですれちがうベビーカーに乗ったちっちゃな子どもを「かわいい!」というのは自然な感情の発露であり表現として自分の中に持続して今に到る、と思うのですが、子育て期を過ぎて中年、さらに老年期に入った一人の男性として《子どもが大好きで…》と語ることには、その気持ちに全く変わりがないのに抵抗を感じてしまいます。
その理由ははっきりしていて、テレビ等で報じられる盗撮、身体接触、強制性交その他の子どもに対するおぞましい性犯罪の存在です。(これまでに誰からも誤解を受けた経験があるわけではないのですが)自分が《子どもが好き》と不用意に発言するとそのことから自分が子どもに対する異常な性的関心を持つ人間であるかのように誤解されないかと懸念するからです。
私は子どもに対する性虐待・性犯罪の当事者の行動や心理について詳細に知りたいとは思わないのですが、かつて三重大学在職時代にスウェーデンのsexuality educationの調査研究をしていたときに出会った文献(もう大学に返却したかもしくは断捨離してしまって手元にないのですが)の中で、スウェーデンでの話として、最初から幼児児童への性的行動をすることが目的で保育職や教職につく人がいるという情報を知りました。正確に確認し直すことができないのでその情報に基づいて考察することは生産的でないかもしれませんが、子どもに実際にかかわる、つまり接触し交流する仕事をしている人の中に、《子どもが好きでいとおしい⇒子どもの健やかな成長のために援助したい》というような願いを持つ人(そんな人ばかりではないのでしょうが^^;)に混じって、《子どもに対して性的に関心がある⇒自分のその関心を充たすために行動したい》という人がいる可能性があるわけです。保育・教育専門職だけに限ってもそのような、どう形容したいいか迷いますが、《性犯罪予備軍》とでも言えるような人がどの程度混在しているのかはわかりません。おそらく実際の犯罪行動が生じるまでは把握しようがないでしょう。
まとまらないままにこの文章をまとめていこうと思いますが(^^;)、私は1990年代の三重大学教育学部在職期に小学校でのヒトの生命誕生の授業について研究し自らも(飛び込み授業ですが)実践する中で、まず《生殖の性について教える》ということについて考え始めましたが、生殖のための性行動は人間の一生を通じての性行動の中で(個人差はあるが)ごく一部を占めるに過ぎないため、それでは生殖以外の目的での性行動(ふれあい・快楽追求・人間関係づくりの性行動)については、個人の性のprivacyを考慮しながら学校で何をどこまで教えることができるのかを考えてきました。
特に難しい課題の一つは、性行動における《快楽》ということを教えられるのか? ということです。研究の過程で(いま文献資料を見つけられないのであやふやな記憶に辿ってしまいますが)ふれあい・快楽の性をどう教えるかを提案する実践資料に出会ったことがあります(このこと自体極めて稀なことです)が、そこでは乳児期において赤ちゃんが母親に抱かれておっぱいを吸うときの感情の延長上においてより成長していく過程での性的な快の感情を捉えようとしていました。それは人間の性を自然なものとして肯定的に捉える立場に立脚したものだと思います。そうしたとらえ方が為されること自体を根本的に批判するものではありませんが、乳幼児期の快の感情と特に思春期以降の性的な快の感情や性的快楽の欲求とを直線的に繋ぐことにはやはり無理がある、むしろ大きな断絶・飛躍があるのではないかと思います。
一方、幼児など幼い子どもに対する性加害・性犯罪の存在を意識しながら、幼い子どもであってもその子どもの人格の尊厳を傷つけないために《自衛行動》をとるべきことを教える絵本とかそのような指導も行なわれています。私がかつては研究資料として手元に置いていたけれど今は手放してしまった文献として、たとえば安田由紀『いいタッチわるいタッチ <だいじょうぶの絵本>』(復刊ドットコム 2016)などがあります。こうした教育資料の内容を詳細に検討すること抜きに述べるのは乱暴なのですが、たとえばプライベートゾーンは大切だから人に見せたりしないし、見ようとする人がいたら誰かに助けを求めないといけない、という行動ルールを教えることはできるし必要なんだろうと思うんですが、友だちにせよ大人にせよ、どうして私のプライベートゾーンを見たりさわったりしようとする人がいるのか、そういう性的欲求、性衝動を抑制せずに他者と関わろうとする人間がいること、そこに存在する(歪んだ)性的欲求そのものについて、幼児や就学後間もない子どもたちが《理解》することはできないと思います。さらに子どもが思春期にさしかかれば、そうした性的欲求や衝動について、(性自認が男性であるか女性であるかによる違いはあると思いますが)自分自身の身体と心にも関わることがらとして対面することも必要になるでしょう。
人間が(生殖行動とは別に)他者とのふれあいの欲求や、快楽追求の欲望や、また行為を通じて相手との人間関係を深めたいという要求からも性行動を行なうということについて、一般論としては学校教育の中できちんと学ぶ場を持つべきだという考えを私は持っています。しかし、その性行動には多様な個人差があり、しかもその実相はほぼ個人のprivacyの内部に存在することを考えると、《公の場》である学校においてふれあい・快楽・人間関係づくりの性行動について何をどう、どこまで学ぶことができるかについては慎重な検討が必要だと思います。
このことについては、私もこれまで言わば《学習内容aspect》では考えてきました。しかし今回、その思考だけでは決定的に不十分であり、学校教育に限っても学校という子どもと大人の生活の場における人間関係上の様々な繋がりの中で繙いていく必要があると考えるようになりました。
この点で、本稿でずっと等閑視してきたかに見えるかもしれない(^^;)④の本田報告に触発されての私のコメントも、(無理くりと思われることを覚悟で^^;)ここまでで述べてきたことと関係はしている、と述べておきたいと思います。
私のコメントは学習過程での子どものものの考え方や学習行動を論評したものですが、そうした論評の大前提に子どもの行動に対する私の積極的関心があります。それは主として論理的、認識的な関心ですが、そこには(敢えて前面に出して記述していなくても)子どもに対する感情的、情動的な関心も絡んでいます。そうした多面的な興味関心があるからこそ積極的に特定の子どもを観察したり関わったりするわけです。それではそこに《sexualな感情や欲求》が関わっているかというと、それは関係ないように思えますけれども、sexualなものが人の人に対する様々な多面的な関心の一面として含まれているとするならば、《全然関係ない》と排除してしまうこともできないように思うのです。子どもの学習活動を観察したり支援する教師や研究者としてそこに自分のsexualな感情を持ちこむべきだとはゆめゆめ思いませんけれども、一方で学習する子どもに大人が関わるときに認識面からの関心のみでかかわることは狭すぎると思うようになりました。うまく表現できないので名言に逃げ込んでしまいますが、《子どもをまるごとつかむ》という発想で例えば学習場面においても子どもの姿を捉えるべきではないかと思います。
話を戻します。全国の学校から見ればもちろん限られた僅かの事例ではあるでしょうが、子どもたちの日常の学校生活の一部である身体測定や体育授業前後の着替えの場で子どもたちの身体を盗撮し、しかもその画像を交換するネットグループをつくっていた教師たちがいます。こうした教師が勤務していた学校に通学し、実際に盗撮をされた子どもたちは、もちろん大きなショックを受けるでしょうが、そのことをどのように捉えるでしょうか。一人一人のからだ、特にその中のプライベートゾーンについては人に見せないし、見られることは拒否できるというルール。そのルールを意図的に破ってのぞき見をしていた教師がいた。日頃《人のあるべき姿》を教えているかのようにふるまっていた教師が、子どもの尊厳を冒していた。もちろん「尊厳」というような言葉では低中学年くらいまでの子どもは理解できないでしょうが、もしかしたら自分が立っているところを足元から掘り崩されたようなショックを受けたかもしれません。
そして、《こういう事件が起こるから》という言い訳は一面的だとは思いますが、《犯罪行為再発防止》を念頭に置きながら人間の《欲望》《快楽》を触発したり、触発していると疑われかねないような行動について子どもが生活する幼稚園保育園子ども園や学校、児童館、児童養護施設などにおいて監視、相互監視が強まっていく……
これはもう、どうしようもないことなんでしょうか。
最後に、私がつらつら述べてきたような思考について、ある方面からは《それこそ佐藤のsexualityに関する思考の「男性性」のあらわれだ》と指摘されるかもしれません。
私は「男性性」という思考枠組みには与しませんが、《性自認=男性(cicgender)/性的志向=heterosexual》としての自分として(そのことはこうした公的発言の場で必ず開示すべき私的特質であるとは思いませんけれども)意識的に思考し発言しています。ここまで述べてきたことにも自分がcisgenderでありheterosexualであることが反映していますし、そのために見えていないことがあるだろうし、他のGender Identityや他のSexual Orientationの視点から見れば(私自身ははもちろんそれをすることができませんが)もっと見えてくることがあるだろうということは予想できます。人はsexualityについて自由に論じることができますが、その際に自分のsexuality/SOGIから完全に離れて思考することはもちろんできません。そうしたことを《「男性性」の限界だ》と言うならば言えばいいと思います。
コメント
コメントを投稿