80 「記憶」について考える

 「前期高齢者年代」(65-74歳)の仲間入りしてしばらくたった今から数年前くらいからでしょうか、ミルクボーイじゃないけど《有名人の名前がなかなか思い出せなんですよ~現象》を自覚するようになりました。代表的なのが、(幸い今は覚えている^^;)俳優の窪田正孝さん、NHKの「エール」(2020)や、「宙わたる教室」(2024)を楽しんで見てたので、主演の窪田さんのことが頭に浮かぶとすぐに顔は思い浮かぶのですが、名前が出てこないということがたびたびありました。どういうわけか先に名前の「正孝」の方が先に浮かんできて、遅れて何かの拍子に「窪田」が浮かんできたり、あるいは結局浮かんでこないことも(^^;)ありました。似たようなことが「夏空」(2019)の山田天陽(画家・神田日勝がモデル)役の頃から注目していて「天空を衝け」(2021)や最近の映画「国宝」(2025)も見た吉沢亮さんなどについても時々あります。たぶん僕の記憶のもっと周辺部にあった俳優さんだと、「ああ~、あれなんていう人やったっけー」ということはたびたび。「〇〇に出てた」などの関連情報があれば検索して見つけることができますが、頭の中に顔だけが浮かんだ場合はどうしようもありません(^^;)。

 まあ、それ自体は別に《現在の人生にとっての一大事》でもないわけですが、《覚えていたはずのことを忘れる》というのは、老いの一環であろうと思います。昨夜、録画してあったNHK「【土曜ドラマ】憶えのない殺人 前編『容疑者』」(2021.9.21/28放送分の再放送)を見て、警察を退職した主人公・佐治(小林薫)のように、認知症の疑いがあると医師に診断されても本人がそれを自覚できないというか、受けとめられないということはあるんだろうなと思いました。そんなこともあってこの文章を書く気になりました。

 僕の4人の息子の末っ子である大地(プラスティー東京校勤務)が、家族LINEで自分が書いた文章が「朝日中高生新聞」に掲載されたと知らせてきました。公開された文章なので、ここに転載します。
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教科書にはない人間ドラマ       佐藤大地

 ヨーロッパの歴史に名をはせた名門ハプスブルク家。その軌跡を、教科書の記述の裏側にある人間ドラマとして描いています。
 一族の生き残りをかけたドタバタ劇がユーモアたっぷりに描かれる一方で、複雑な皇帝選挙の仕組みなどが、驚くほどわかりやすく図解されています。
 世界史の学習では、人名や年号の暗記は大切ですが、本当に大切なのは、事件の背景にある利害関係や因果関係をつなげて、一つの「ストーリー」としてとらえること。おすすめは、授業や教科書で学んだ「時代の構造」を、自分なりに図解して整理してみる勉強法です。
 複雑な人間関係や制度のつながりを目に見える形にしてみることは、本質的な理解への「近道」になります。その点、この作品に登場する図解は、歴史をきれいに整理するためのお手本になってくれます。
 自分で図解して歴史の背景を理解したら、今度はそれを身近な人に説明してみましょう。自分の言葉で因果関係をつむぎ出すアウトプットこそが、近年の入試でも重視されている歴史的な思考力を養います。
 このマンガで、歴史の息づかいや人間臭さを存分に味わいながら、これからの学習を進める上での大きな武器を手に入れてください。
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 ふむふむ。大地くん、なかなかおもしろいことを書いています。なにかのマンガ作品についてのコメントのようです。講談社の担当編集の方のコメントとならんで掲載されています。ちなみに大地くんの写真からの吹き出しには、「高校時代は教科書に書き込みをして『世界に1冊だけのオリジナル教科書』をつくっていました」と書いてあります。へえ、大地くんそんなことやってたんや。知らんかった(親が忘れてるだけかもしれないが^^;)。

 ところで僕が「歴史は時系列の繋がりと人間模様のつながりがあっておもしろい。二次元空間に平板に並んでる地理は、どうする?」と家族LINEで質問すると、大地は「むずい」の一言。
 大地くんの朝日中高生新聞掲載コメントに刺激されて、僕が教育学研究者として考察してみたいことがらも発生しそうです。
 まず僕自身はいつからかわかりませんが、社会科は好きな科目であったと思います。その延長で、教育学部生・院生時代は日本の戦後民間教育運動における社会科研究について、さらに1960年代の「教育の現代化」時代のアメリカにおけるsocial studiesについて研究しました。まあその研究の話は今は横に置いて(^^;)、大地くんとのやりとりから思い出すのは、自分は社会科の中でどちらかというと歴史よりも地理が好きだったんじゃないかということ。60年くらい前の話なのではっきりした記憶はないですが、歴史については自分の中で《年号暗記》的なイメージが先行していて、年号に引っ張られながら事件や人物についても学ぶわけだけどあまりおもしろいというイメージはありませんでした。地理については、歴史の年号のようなトリガーがなく、受験勉強的にはどう《暗記》したらいいかそれこそ「むずい」とも言えますが、僕のおぼろげな記憶としては学習内容のイメージが三次元的というか、景観が浮かんでくるというか、そういう思いがありました(但し大学入試の社会科で選択したのは日本史・世界史で、地理ではありません^^;)。

 今年5月に、8月に開催される教育科学研究会大阪暁光高校大会の企画の一つである講座「地域で人と人のおもろい出会いと交流を創り出す」の準備の一環として兵庫県加東市を訪問しました。講座で報告していただく高橋武男さん(スタブロブックス社長)と高橋さんの小学校時代の恩師である岸本清明先生のご案内で加古川上流の東条川の河岸段丘とそこで生計を立てる人たちと出会うことができたのですが、そこで僕は思わず岸本先生に「地理と歴史は結びつけて学ぶ必要があるんですね!」と言いました。それは以前に岸本先生がお書きになった「加東の自然環境と人々の暮らしや農業との関わり~とりわけ河岸段丘に着目して~」という文章を読ませていただいていて、悠久の昔からの造山運動や河岸段丘形成についての専門的な理解は自分には無理だけれども、数十万年も前からの加古川の活動がこの2020年代の加東市の人々の生活・生業の背景としてあるということを知るだけで何かすごい感動を覚えたからです(そこでの歴史は人間の、ではなくて、地球の、ですが)。社会科における地理と歴史、さらには社会科と理科を結合した学びが必要だと思いました。

 さて、大地くんの文章に戻りましょう。受験生の学習指導をしている大地くんが「人名や年号の暗記は大切」と書いているのはまあ当然ですが、そのあとに「本当に大切なのは、事件の背景にある利害関係や因果関係をつなげて、一つの『ストーリー』としてとらえること。」と書いていることに僕は注目します。
 歴史事象を《関係として》、《ストーリーとして》とらえること、もう少し言えば、そういうものとして《記憶すること》。これは《記憶したことを試験問題の回答において効果的にoutputする》という受験の技法としてもおそらく(そういう勉強法で受験時に効果を挙げたという自分の記憶はないので想像ですが)有効だろうと思います。僕の中高時代のように語呂合わせの年号暗記という歴史事象と内容的には全く無関係な《機械的結合の勉強法》よりはよほど有効なんだろうと思います。
 しかしそれが《効率的な》《タイパ的にウケる》学習法かというと、おそらくそうではないでしょう。大地くんは「授業や教科書で学んだ『時代の構造』を、自分なりに図解して整理してみる勉強法」を提案しています。《時代の構造を掴む》ために《図解して整理せよ》と言っているんです(ここには図解するためのグラフィックな技法という社会科とは別のところで形成しなければならない能力も関係すると思いますが、そこには深入りしません)。いずれにしても、たとえば教科書の文章を丸暗記するような機械的なinputに比べて時間がかかると思います。だけど、こういう学習法の活用も含めて《時代の構造を掴もう》とする思考法を子どもが持とうとし、さらにそのことに興味やおもしろさを感じるようになるならば、そうした歴史についての思考法は受験から解放された後もその人の成長過程で生きるのではないかと僕は思います。
 さらに大地くんは「今度はそれを身近な人に説明してみましょう。」と提案しています。これもタイパ的には敬遠されるのではないかとも思いますが、ここで大地くんが提案しているのは、自分が掴んだ《時代の構造》について、自分では「やった、きれいに整理して理解できた!」と満足していたとしても、それを友だちに説明してみると「あれ、ちゃんと説明しきれない」ということが起こったりするので、《他者に説明することで自分の理解の到達点と残っているあやふやさが明らかになる》ということではないかと思います。この知見は受験の世界に限らず、例えば小学校の教室での「学び合い学習」などでも子どもたち自身が掴んできていることです。大地くんは「自分の言葉で因果関係をつむぎ出すアウトプットこそが、近年の入試でも重視されている歴史的な思考力を養います。」と受験技法上の効用を強調しますが、僕の考えでは単に《自分が理解した時代の構造を誰かに説明する》ということに留まらず、そこから《歴史をどう捉えるかについて他者とディスカッションする》ということへと発展していくならば、先に書いたように「受験から解放された後もその人の成長過程で生きるのではないか」と思うのです。

 冒頭の窪田正孝さん云々のところから大地くんの文章をめぐる考察に移ってからなかなかタイトルの「記憶」の話になってないのですが、このあたりでまとめていこうと思います。
 僕自身も59年前に中学校受験(京都教育大学附属京都中)、(附属高校へは試験は受けたものの内部進学)、53年前に大学受験(京都大学教育学部)を《通過》してきました(その後も大学院入試や就職面接を受けていますが、大学院以降は学術的な専門的能力を問う試験であり、中高大の入学試験とは区別する必要があります)。大学入試ではその頃はまだ共通一次もセンター試験もなく、個別大学での3日間の学科試験だけでした。もちろん全てにおいて《暗記が勝負》ではありませんでしたが、出題される事項について正しく《暗記》しているかどうかが採点において大きな割合を占めていたと思います。
 かなり以前に何かの調査結果で、大学生の英語能力は入学時が最高で学年が進むにつれて落ちていくという話を聞いたことがあります。大学受験のため(のみ?)にinputした知識や学習能力は受験を通過すると速やかに剥落していくというわけです。情報リソースも確かめずにこんなことを述べても意味がないし、また大学生は入学後も多くは英語学習を行なっているはずなのに、そこでの学習経験や獲得した能力との関係はどうなっているのかなど、仮に上記の統計情報が正確な事実であったとしてもそこから解明すべき問題は多々あります。そういう留保すべき点は念頭に置きながらも僕が言いたいのは、《使わない知識や能力は剥落してあたりまえ》ということです。
 学校で子どもたちが学ぶことの中には、生活科や「総合的な学習の時間」のように子どもたち自身が学びたいことを見つけ出して探究していく場合もありますけど、教科学習の多くでは子どもたちは学習指導要領に基づいて編纂された検定教科書に掲載された内容を学んでいきます。
 なぜ学ぶのか? 《先生が教えるから》《先生が「大事なことだ」と言うから》《先生が「これを勉強しておくと将来に役立つよ/勉強しておかないと将来困るよ》と言うから。私自身が小学生たちにリサーチしたわけではなく勝手に想像しているだけですから、実態とかけはなれているかもしれませんが、要するに僕が言いたいのは、子ども自身が《これはとてもおもしろいなあ》とか、《これを身に付けたら、これから/大きくなって役立つに違いない》などと確信を深めながら学ぶという機会が小中高12年間の学校生活の中にいったいどれくらいあるだろうか?ということです。学習経験や学習成果についての《記憶》というものは、そうやって形成されてこそホンモノなのではないか、と思うのです。
 外発的な動機づけ(最大のものは、受験で高得点を獲得するため)にもとづいても《必要とされるとき》(ex.試験問題への回答の際)に呼び起こせる知識や学習能力は形成できると思うし、そのようにして形成された知識や学習能力が所期の目的を達成した後も保持される(受験後も覚えている)ということはあり得るのでしょうが、それを必要があって使用するという機会がなければ剥落していっても当然という気がします。

 そうは言っても、私は心理学を一度もきちんと勉強してこなかったこともあり(^^;)、《人間の記憶内容は記憶する必要があった事柄に限られる》などと断言するつもりはありません。実際、自分の生きてきた経験からだけ考えても、人の記憶とはそんなに単純なものではないと思います。ひょんな時にずっと以前の記憶が呼び覚まされるということを私も何度も経験してきました。別に《大事だからずっと記銘しておこう》などと過去に決意したわけではないことを、です。
 また、ちょっと別筋のことかもしれませんが、《記憶違い》ということもあります。「あのときこうだったなあ」と思っていたことがそうではなかった、勘違いだったというようなことです。そうすると人間は過去の記憶を再生するときに都合よく《加工》することもある、ということにもなります。
 まあこんな、心理学的裏付けもない素人の《記憶談義》をいくら続けても読者の方々にとっては意味のないことかもしれません。だからここはもう僕の《主観的な心情》の問題として述べてしまいますが、人間の、子どもたちの記憶のうちで《無意図的なもの》についてはさておき、学校教育において《教師が子どもに意図的に記憶するよう指導する行為》においては、(タイパに反するとしても)まずはあることについて学んだりその中で特定の能力を形成することが、子ども自身にとってどういうプラスの意味を持つことであるのかを、単に教師が説明するのではなくて子どもたちといっしょに考えて確認していくプロセスをうんと大事にしようではないか、ということです。これが学校教育の基本だと僕は思うのです。

 ……まあ、要するに、《自分にとって意味ある記憶をこそ》という平凡な結論です。
 また、こうした子どもの記憶形成に関する考察と、冒頭で述べた高齢者としての自分の記憶の減退や欠落の受けとめ、という問題をどう繋ぐかは……まだまだ今後の課題ですね。

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