48 読書ノート 下司 晶『教育思想のポストモダン 戦後教育学を超えて』(勁草書房)

 (2016.12.23刊行 2023.2.2-2025.3.2通読 2025.3.3ノート化)

 最初に、この一文を書くにあたって、私は下司晶氏を《敵》と認識していることを表明しておきます(別に最近筒井康隆作品『敵』の映画を見たからではないのですが^^;)。
 学術的な文章として書いているつもりの文章としてはいささか物騒な、また無礼な宣言かもしれません。私は下司氏と面識がないし、これからもないだろうと思いますが、本ブログに公開で投稿しているこの文章が下司氏の目に絶対触れないとは言えないし、触れてもいいと思います。触れるか触れないかは別として、私自身が本書をどう読んだか、研究者としての立ち位置を(少なくとも自分で自覚・意識できる範囲では)明確にしておく必要があると考えました。
 私が下司氏を《敵》と見なす理由は、まずもって私自身が、下司氏が批判対象としている「戦後教育学」の流れに属する、そこに身を置く研究者であると自覚しているからです。
 では、下司氏の言う「戦後教育学」とは何を指すのか? 下司氏の述べるところを見ましょう。



 上記引用の(後略)以降の部分で下司氏は戦後教育学の「全貌」を大学、学会、教職員組合運動や民間教育運動、司法、出版等の分野にわたって解説していますが、「戦後教育学」の語の定義の説明としては上記の部分までで十分と考えて省略しました。
 さらに下司氏は、(本書の叙述順としては逆になりますが)黒崎勲氏の論を引きながら「戦後教育学」の語の適用範囲について以下のように説明しています。


 
 これらの定義的叙述を読んで、私は下司氏が批判的に検討している「戦後教育学」の動向の中に自分も含まれると判断しました。
 私自身の教育学研究は京都大学教育学部に入学して3回生時の1975年夏に坂元忠芳氏の発達論集中講義を受講したことをきっかけに、坂元氏も中心メンバーである教育科学研究会の全国大会(伊豆長岡)に初めて参加した頃からスタートしました。ここで改めて自分の研究経過の詳細を語るつもりはありませんが、私はその後教育科学研究会に参加し続け、その間1990年前後から2010年代前半まで民間研参加の軸足を授業づくりネットワークに移したことはありましたが、その後も教科研会員であり続けてこの夏で50年を迎えます。私が大きな影響を受け続けているのは、私の教科研入会当時すでに故人であった勝田守一氏です。もちろん入会のきっかけをいただいた坂元氏をはじめ、山住正己氏、鈴木正氣氏のほか、多くの研究者、実践者から様々な影響を受けながら学んできました。教科研と決別し脱会しようと考えたことは一度もありません。下司氏が挙げている宗像誠也氏、宮原誠一氏などについては『教育』誌上などでいくつかの論文を読んだに留まりますし、自分の専攻が教育方法学・教育課程論であるため、下司氏が多くの紙数を割いて批判している堀尾輝久氏については、書かれた著作・論文を読んだのは多くありません。下司氏は教育科学研究会という研究団体を名指して批判しているわけではありませんが、下司氏の批判対象の中には教科研関係者や教科研が目指すものや実際の活動なども含まれていると判断しました。従って、下司氏の批判は50年刊教科研に参加してきた私自身にも向けられていると(勝手に)判断しました。

 しかしここまででは、《私は、私自身をもその中に含む「戦後教育学」という研究動向?グループ?を批判していると考えた》ということの説明に留まり、《敵》という下司氏に対する断定の説明にはなっていません。
 そこで以下では、下司氏が「戦後教育学」に対して自らどのようなスタンスを取っているかを推察させる叙述を本書からピックアップしてみましょう。



⇒「55年体制と保革対立構図の崩壊」的なことは、多くの論者が口にしているのかもしれません。私自身、1970年代半ばから教育学研究に取り組んできて、職を得て大学教師として教育学研究に取り組むようになった1980年代以降の日本社会の動向やその中での教育問題をどう把握したらよいかについて、明確な考え方を持てないままに2020年代まで来てしまったという気がしています。性の学び(sexuality education)とか俗称「ゆとり教育」批判、「生きる力」論批判などの自分の研究テーマについては真摯に向き合ってきたつもりですが、(下司氏の言う「大きな物語」とは文脈が違うと思いますけれども)教育をめぐる社会の《大きな構図の把握》ということはできずに来たと思います。下司氏なら《それはあんたが戦後教育学の枠組みに囚われているからだ》と言うでしょうか。それとも、《そういう「構図の把握」みたいなことを求めようとするのがまさに典型的な戦後教育学的思考だ》と言うでしょうか。
 1989年にベルリンの壁が崩壊し、1991年にソ連邦が崩壊します。私にとっては30年間在職した三重大学教育学部での最初の数年のことでした。別にこういう場で書かなくてもよいことかもしれませんが、私の「立ち位置」に関係するので書きます。私はこの時期(何年何月かはっきり記憶していないのですが)に学生時代以来約20年間所属していた日本共産党を離党しました。いっしょに活動している仲間とは何の軋轢も対立もありませんでした。理由は単純で、世界の社会主義ブロックが崩壊していき、そのことをめぐっていろいろな人々がいろいろな主張をおこなったり試行錯誤している状況の中で、当時の宮本顕治日本共産党議長がそうした社会主義国崩壊をめぐる動揺を含んだ言説に対し(主として共産党員への《叱咤激励》として言ったものと思いますが)赤旗まつりの講演で「腰を抜かした」と言ったこと、この一言への深い失望に尽きます。まあ、獄中十二年の闘士から見ればそう見えたんでしょうけど、いろんな人がいろんなことを考えて悩んだりしている状況に《腰抜け》という漫罵しかできない人物を最高指導者にいただいているような組織に、もはやついてはいけないと判断しました。
 私は、選挙での政党選択ではその後も現在まで一貫して共産党支持者です(1回くらい民主党候補に入れたことはありますが^^;)。6年前に京都に戻った時、かつて学生時代にいっしょに活動していた党員の人に「戻って来ないか」と誘われたことがありますが、上記のような離党経過を話して断りました。現役の大学教員の時期にはさすがに自分の政党所属のことを公表することはありませんでしたが、今はそうすることで不利益はこうむらないし、ほかの人にご迷惑をおかけすることもないと考えて、書きました。
 こういう個人の政治信条のことまで書いたのは、下司氏の言う「1990年代以降」の時期に自分個人としては上述のように大きな思想信条上の変化があったこと、だけどそれは《社会主義国の崩壊によってマルクス主義にもとづく社会変革に対する確信を失った》というような単純な話ではない、と自分では思うからです。
 私は国際政治学も国内政治学もわからないし、先に書いたように自分が研究対象とする教育ということについてもこの時代の《構図が描けない》ので、偉そうなことは言えないのですが、下司氏が言う「55年体制と保革対立構図の崩壊」「革新勢力の退潮」の内容の説明と、なにより下司氏自身の評価をもっと聞きたいです。ソ連・東欧諸国の崩壊によって日本の革新勢力にとっては社会主義のモデルがなくなり、国民の支持も失って「革新勢力の退潮」が起こったのか? まさかそんな単純な図式で考えてはおられないと思いますが。1970年代の国政選挙で国会での社共の議席が増大し、地方では革新自治体が次々誕生した。まさに《新しい時代》がまもなく来るかと私は思いましたよ。ソ連崩壊は革新勢力の増大に確かに大きく水をかけたと思います。しかしそれは、《所詮外国のモデルに頼って勢力を得てきた革新勢力が、モデルを失ってこけた》というようなことなんでしょうか。1994年に公選法改悪(下司氏ならneutralに「改正」と言うかな)で衆議院の小選挙区比例代表制が成立しました。比例代表がくっついてることがまだしもの救いではありますが、《一位の人しか民意を代表できない》ということがそれ以後常識になってしまいました。もちろん自民党が一人勝ちしてきたわけではなく、民主党が勝ってまたすぐに負けるというようなこともありましたが、民意反映に大きなねじれがあるなかで批判勢力が政権への影響力を拡大できない状況が続いています。下司氏はこれも「革新勢力の退潮」が原因だと言うでしょうか?原因と結果の関係はもっと複雑だと思います。
 ともあれ、これらは政治の世界のことです。しかし下司氏は、「革新勢力に支えられた進歩的教育学」と言い、「革新勢力の退潮によって、戦後教育学の影響は低下する。」と言います。これはまた露骨な《政治的な教育学論評》ですね。
 さて、その《戦後教育学の影響低下》は、下司氏にとって好ましいものだったのか? それともそうした価値判断はしないのか? あり得ないことながら、もしも下司氏が《そうした影響低下は嘆かわしいことだ。様々な努力によって影響力を取り戻していくことが望ましい》と主張するなら、私は《敵》評価を取り下げなければなりません。しかしそれはあり得ないですね。あり得ない。
 本書全体の構成から、下司氏が「戦後教育学」を支持していないこと、それに与していないことは明らかです。しかしそれなら、《影響が低下した戦後教育学はこのまま消滅していけばいいんだ》と考えているのかどうかは、わかりません。そこはわからないんですが、感性的な言い方ですけども下司氏が「戦後教育学」を《好ましく思っていない》ということは明らかだと思います。私がその根拠と見なす記述をさらに拾っていきましょう。



⇒ここでは「教育問題を解決するためには、子どもの人権や発達の保障といった近代教育本来の価値の実現が必要である」というのが「戦後教育学の定型的な言説」であったとし、そのような言説は「1980年代には時代に追い越されリアリティを失っていった」と下司氏の評価を加えています。「失っていった」とありますが、第六章の記述の初出は2015年の論文であり、言及されているのは執筆から約30年後前の事態なので、執筆時点ではすでに《失った》と評価しているものとみなしてよいと思います。つまりは、「戦後教育学」の定型的な言説」には《リアリティがない》と。つまりは現実社会を妥当な形で把握したり判断・評価していない、ということですね。


⇒「現実を否定的に捉え、その改革を求める『教育の危機』言説」というのが「戦後教育学」の典型的思考パターンだというわけですね。今でもそうだと。
 下司氏に聞きたいと思うのは(聞きませんけど)、《現実を批判すること》=《現実の否定》なのか?ということ。下司氏の考えはわかりませんが、私の答はノーです。一般論ですが、現実社会の諸事態には肯定的状況も否定的状況もあります。あたりまえです。それでは「戦後教育学」は、いつも現実の《否定面》ばかりを強調し、危機説を振り回しているのか?
 私の場合について言えば、子どもたちの姿や人々の関係・繋がりのなかに肯定面、うれしいこと、ほっとすることなどを見出すことができないのであれば教育学研究なんてやってられないです。そういう思いで、下司氏の規定では「戦後教育学」の外延のなかに含まれて教育学研究を進めてきた私にとっては、その研究を《現実の否定面強調・危機の強調》と断定されることは極めて心外だし、そういう認識で「戦後教育学批判」を展開されるなら、私にとっては《敵》だと断定してよいと思います。



⇒ここは、下司氏と、下司氏が批判する「戦後教育学」グループとの間で重要な論点となると思います。私自身、新自由主義と新自由主義批判についていくつかの文献(「戦後教育学」の^^;)を読みましたが、まだ自論を展開できるほど深い学びに達していません。ここでは下司氏の主張の流れを読み取る作業だけになりますが、上記引用部分は、けっこう巧みなレトリックですね。
 下素の勘ぐりと言われるかもしれませんが、下司氏は「戦後教育学」批判をすることで「新自由主義肯定派」と単純に言われることは嫌なんだと思います。ただ上の文章からは、
 ●道徳の教科化は新自由主義と「「戦後教育学」は言うが、それだけでなく近代教育の理念(ほら、「戦後教育学」が拠り所にしてきた)も含んでいるんだよ。
 ●そもそも新自由主義の「自律」は近代教育学と親和的だよ。
 ●(だから「戦後教育学」が新自由主義批判の路線で道徳教科化を批判したら近代教育学批判になって墓穴を掘ることになるよ ⇒これは言ってませんが、推測)
という主張を私は読み取りました。
 つまり、新自由主義に対する自己の立場は(少なくともこの文脈では)明らかにせずに「戦後教育学」の矛盾を突こうとする。確かに、ある論を批判するやり方として、自己の異論を対置するのでなくても、相手の論が論として成り立っていないと論証するのは有効な論破のしかたではあるでしょう。


⇒国民の教育論の今日的検討については、このブログで大日方真史論文を検討したときに少し学びました。
  教育学文献学習ノート(22)-3神代健彦編『民主主義の育てかた 現代の理論としての戦後教育学』(2021) 第2章 「『私事の組織化』論-教師の仕事にとって保護者とは?」(大日方真史) 【前半】
  https://gamlastan2021.blogspot.com/2022/03/11-22-32021.html
  教育学文献学習ノート(22)-3神代健彦編『民主主義の育てかた 現代の理論としての戦後教育学』(2021) 第2章 「『私事の組織化』論-教師の仕事にとって保護者とは?」(大日方真史) 【後半】
  https://gamlastan2021.blogspot.com/2022/03/12-22-32021.html
 上記ブログ投稿にも書いたように、私自身の「国民の教育権」論学習は、1970年代前半の学生時代の教育裁判学生支援会活動のなかで杉本判決を学んだという程度の浅いものなので、下司氏の「国民の教育権」論批判とまともに対峙するような力はないのですが、それにしても「国民の教育」論(を含む「戦後教育学」)が「あらゆる政治的・経済的要求を拒否する」とは一体どういうことでしょうか。「あらゆる」とあるので、そこには国民各層・社会の各分野の政治や経済に対する見解・要求を含むはずです。「国民の教育権」論が国家権力やそれを支える経済界などからの学校教育へのストレートな要求に対して批判的であり、一方父母をはじめ国民各層の要求に学校教育、その関係者が謙虚に耳を傾け、誠実に対話して、取り入れうる要求を学校教育に反映することにやぶさかでないどころかそれを歓迎する理念であることは明白だと思います。それとも下司氏は「政治的・経済的要求」をそもそも権力側からの作用に限定しているのでしょうか?



⇒Eijiro VIIIによると、naiveには以下の意味があるそうです。




 私などは、ついつい【形-2】のような意味を連想してしまい、学問をよく知る人(下司氏のような)からは《常識がないやっちゃなあ》と言われそうですが、下司氏は【形-1】か【形-3】の意味で使ったんでしょうね。
 ところで、二元論。ずいぶんいろんなレベルの対概念(事象)を乱暴に並べてくれたものですね。いや下司氏が乱暴なのではなくて、「戦後教育学」がそういう「ナイーブ」な思考パターンを持っていると言いたいのでしょうが。
 下司氏は、「それ本来のものとしての理念」と「その阻害要因として現実」を《対置》して《そう対置するのが「戦後教育学」だ》と断定しています。しかし例えば、
 「国家」が現実で、「国民」が理念? その逆?
 「強制」が現実で、「自由」が理念?
 下司氏の概念装置についての私の理解が誤っているんでしょうか? 例示された5組の二項対立と、《理念と現実の対置》とは別のこと? なんかこの粗っぽい図式化にはあやしいところがあると思えてなりません。「戦後教育学」がいかに機械的図式に固執しているかを暴きたいという意図が先にあったような。
 現実社会(学校教育を含めて)について考察するとき、現状のよいところ、悪いところ判断を保留するところを区別しながら考える。悪いところについては、原因を考え、改善や克服の見通しを考える。そのときになかなか現状を改善できないのはなぜなのか、どこに「阻害要因」があるのか考える。こうした社会(教育)についての考察や問題解決の努力、そこに教育学、教育学研究者が関わることの何が悪いのでしょう? 「戦後教育学」的発想だから悪い?
 それでは下司氏自身は、社会と教育の現実にどのように関わろうとするのでしょう? 研究者としてでも、市民としてでも、個人としてでも、家族の一員としてでもかまいません。そこが知りたい。そこが見えない。

 本書の中では「『戦後教育学』的ではない教育の現実への教育学研究者の関わり方」について、書かれていないわけではありませんが、(ここで逃げるのは卑怯かと思いますが)下司氏の専門領域である教育哲学や教育思想史の用語や文脈で書かれているので、私にはよく理解できません。そのへんがわかってくると、もしかしたら《対話》も可能になるのかもしれませんが。

 最後に、私が本書の通読を開始したのは、冒頭に書いたように2023.2.2です。一方本書を入手したのは2021.8.27でした。きっかけは、本ブログでもコメントした以下の論文の中で神代健彦氏が本書に言及していたからです。
 教育学文献学習ノート(22)-1 神代健彦編『民主主義の育てかた 現代の理論としての戦後教育学』(2021) はじめに(神代健彦)・第8章 民主教育論(中村(新井)清二)
  https://gamlastan2021.blogspot.com/2021/09/322-2021.html
 若手研究者による意欲的共同刊行物である『民主主義の育てかた』の「はじめに」において、神代氏は自ら「戦後教育学」の(肯定的―佐藤)定義を述べ、また「戦後教育学」批判としての下司氏の本書に言及しています。そこでは下司氏の批判対象が勝田、堀尾と他には宗像、宮原に言及されているに過ぎないことは指摘した上で、「もちろん『ポストモダン』を冠した同書が描き出す1990年代以降の教育哲学・思想史的な近代教育批判、そしてその必然的帰結としての戦後教育学批判のうちに、わたしたちが踏まえるべき重要な指摘が含まれていることを否定はできません。単なる冷笑主義ではない、正しく『批判(クリティーク)と呼びうるものがそこには確かにありました。」(P.10)と、(私と違って^^;)きわめて紳士的に紹介をされています。もちろん神代氏らの研究者グループが下司氏の批判に同意するものではないことは同書を読めばわかります。
 実は私は、大変恥ずかしいのですが、神代氏らの『民主主義の育てかた』に出会うまで、「戦後教育学」が批判に晒されているという事実を知りませんでした。ポストモダン云々の用語や議論を小耳に挟むことはありましたが、そうしたグループが私が教科研会員として多くを学び依拠してきた教育学遺産を《もはや時代的役割を終えた》かのようにこき下ろしているということを知りませんでした。
 なぜそうなったのか?
 私は京都大学教育学部教育課程講座で研究者として歩み始め、神戸大(1983.4-1986.9)・宮城教育大(1986.10-1989.3)在職時代までは主として社会科教育を自分の研究・教育領域としてきましたが、三重大学教育学部(1989.4-2019.3)での30年間は教育課程論領域を専攻としていました。教育課程論の基礎学問は言うまでもなく教育学です。ただ私自身は教育課程という視野に含まれる教育方法や教育実践の研究と実践を主な仕事としていました。実践的な仕事をしていると意識していました。教育学研究者と自己規定してはいましたが、教育学論とか教育学説史を自ら探求したことはありません。
 もう一つ。私は学部3回生の1975年以来教育科学研究会の会員であり続けましたが、教科研内で「社会認識と教育分科会・部会」を中心に活動してきて、1980年代後半に『教育』誌No.499(1988.9)に「社会科授業実践における『モデル化』の実践的意味」という論文を投稿し、当時同じく教科研で活動されていた『教育』投稿論文を批判しました。これがきっかけで藤岡氏に勧められて教科研内で休止状態から復活していた「教授学部会」(のち「授業づくり部会」)に参加するようになって、教科研内では社会認識部会と二股の活動になっていたのですが、1989年に宮城教育大学に移った前後から活動の中心を授業づくり部会に、さらに教科研から独立した授業づくりネットワークに移しました。教科研と授業づくりネットワークの夏の大会日程が重なることから後者を選択し、さらに2000年代に入る頃から教員免許更新講習担当を強制されて夏休みが大変多忙になり、授業づくりネットワークにも教科研にも参加できなくなりました。更新講習でアウトプットするばかりでなく夏休みにはインプットもしたいと考えるようになって、2013年から再び教科研大会に参加するようになり、現在に至っています。
 要するに1990年前後からの十数年は、《授業づくり》つまり教育の方法的側面に主要な関心を持っていました。小中学校の教師の授業づくりの経験から学びながら、自分の大学や看護学校の授業にもディベートや見たこと作文などいろいろな教育技術を取り入れました。実践を作ることに関心を集中し、教育学の理論的基礎への関心は薄らいでいたと思います。その時期にポストモダン派の「戦後教育学」は強まって言ったんだと思います。自分の実践的関心には必然性があったとは思いますが、一方で学的関心の面で停滞があったことは否めません。
 話が途中になりましたが、神代論文で下司氏の本書を知って入手してから、今回の読書ノート作成に向けて集中的に読むまでに3年半が経過しています。ポストモダン教育学のことは気にはなっていたのですが、それを学ぶことよりも先にやることがあるという判断が勝っていました。ただ、所属する京都教育科学研究会の通信に毎月連載している「私の研究ノート」で2023年9月から勝田守一『能力と発達と学習―教育学入門Ⅰ』を取り上げており(2025.3で17回目)、また昨年春から「勝田守一教育学ゼミナール」という3人の小さな研究会を始めてやはり『能力と発達と学習』を学習していること、さらに本書を読み進めていて終章P.271-273で私たちのゼミナールのメンバーである佐藤広美氏(前教科研委員長)の論稿が取り上げられていること(もちろん下司氏-佐藤広美氏の議論に私が関与するものではないことは言うまでもありませんが)などから、自分なりに可能な範囲でポストモダン教育学と対峙する必要があること、その論者は多数(学生院生時代の研究室の数年後輩である松下良平氏も含まれる)で、とてもとてもそれらの全てまたは多数をフォローすることはできないし、その気もないけれど、取り敢えず手元に置いている本書をきちんと通読使用と思い立った次第です。きちんと通読はし、「読書ノート」作成にあたって敢えて《下司氏は敵》という《党派的》(私は文中に書いたとおり党派に属しませんが)な宣言をして書き始めましたが、結局《下司氏は敵》ということを感覚ではなくてきちんと論証することはできていないと思います。下司氏からは、《これこをが「戦後教育学」派の所業》として一笑に付されるだけでしょう。
 私が下司氏を《敵》と捉えたのは、氏が「戦後教育学」派を(現実にはともかくアカデミズムの世界では)抹殺しようとしている、《どうぞお引き取り下さい》と最後通牒をつきつけていると捉え、それは「戦後教育学」に属すると自認する私自身の存在を否定することであって、否定されてたまるか!という気持ちからでした。
 しかし下司氏は、(紳士的、一般常識的である研究者なら当然ですが)「抹殺する」などとは言っていません。絶対言わないでしょう。だけど、「戦後教育学」にはもはや存在意義なんてないとは思っているだろうと私は思います。
 それ自身は一つの立場だからいいのです。一つの立場としてもちろんのこと下司氏の主張を認めます。だけどフェアな議論かどうかは疑わしいと思っています。「戦後教育学」という仮構をつくって、それを攻撃していると思います。議論するなら教育現実や教育実践の具体的事実を踏まえた議論をしてほしいです。もちろんそれは下司氏のメイン領域じゃないでしょう。だけど本書の第五章のタイトルは「教育哲学と教育実践、その関係性の転換」です。下司氏も教育実践に関心を持っているのです。願わくば「関係性」だけでなく、生の現実、実践そのものを議論してほしい。まあ、それは自分の課題じゃないと下司氏はおっしゃるでしょうが。



















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