89 読書ノート 『かわいそうなぞう』と『ぞうれっしゃがやってきた』を読む

 (2026.10.25-26)



 僕が今年2月に約40年ぶりに活動復帰した洛北青年合唱団のレッスンの時に、ピアノ伴奏をしてくださっている篠田さんから、「嘉楽(からく)わっしょ」(2026.11.1 11-16時 京都市立嘉楽中学校にて)というイベントのお誘いを受けました。京都・西陣の地で毎年続けられているおまつりらしいです。このイベントの中で「こどもとおとなたちも集まって『ぞうれっしゃよはしれ』をうたおう!」という企画があります。篠田さんから「いっしょに歌いませんか」と誘われて、10.18に篠田おんがく教室で行なわれたレッスンに参加してきました。11.1には僕もみなさんといっしょに嘉楽中学校のイベント舞台に立たせていただこうと思います。
 「ぞうれっしゃよはしれ」は合唱構成『ぞうれっしゃがやってきた』(全11曲)の中の10番目の曲で、今回「嘉楽わっしょ」ではこの1曲だけを歌います。実は僕はこの合唱構成全体の演奏をまだ聴いたこともなく、楽譜も持っていません。篠田さんから「ぞうれっしゃよはしれ」の楽譜をいただいた時が初見でした(今日、Amazonで楽譜とDVDを注文しました)。当日は合唱ではなくてメロディーラインだけを斉唱で歌うということで、10.18のレッスンで歌ってだいたいの感じはつかめました。当日までには暗譜しようと思います。

さて、そのような一知半解みたいな状態で「嘉楽わっしょ」の舞台にみなさんと立とうとしている厚かましい僕ですが(^^;)、「象列車」のお話自体はずっと以前から知っていました。名古屋市の小学校教師で絵本『ぞうれっしゃがやってきた』の著者である小出隆司さんは、今年8月23日(奇しくも僕の72才の誕生日でした)に87歳で亡くなられました。中日新聞に以下の訃報が掲載されています。
  「絵本「ぞうれっしゃがやってきた」著者・小出隆司さん死去 87歳」
 このニュースを知ったことも、僕が自分の《教育関連情報》の海の中から「象列車」をぐっと引きよせるきっかけになりました。
 僕は小出先生と直接の面識はありませんが、小出さんが歴史教育者協議会(僕自身も同会の機関誌『歴史地理教育』を長年定期購読していました)の著名な実践家であることは知っていました。小出さんが、後で紹介する東山動物園を巡るエピソードを『ぞうれっしゃがやってきた』(1983)として出版され、それを読んだうたごえ運動の著名な指揮者・作曲者である藤村記一郎さんが合唱構成『ぞうれっしゃがやってきた』を作られて、1986.3.30に名古屋市教育センターで275人の大人と子どもたちによる「ぞうれっしゃ合唱団」によって初演されたそうです(https://bunbun.boo.jp/okera/saso/zou_ressha0.htm)。以来うたごえ運動の中でも教育運動の中でも、様々な機会に演奏されてきました。僕は行けなかったんですが、洛北青年合唱団のメンバーも参加した「第68回国鉄のうたごえ祭典inあやべ」の企画「ゆめ列車大音楽会」(2026.9.27)でも『ぞうれっしゃがやってきた』の曲が歌われたそうです。
 ところでちょっと戻って、『ぞうれっしゃがやってきた』の初演は1986.3.30。当時の僕は、1982年春に2期研究生として洛北青年合唱団に入研し、半年後に修了して合唱団に入団しました。そして4年余り活動した後、1986.9に宮城教育大学に就職して京都を離れるため、残念ながら合唱団も退団しました。1986年3月にはまだ合唱団活動に参加しており、『うたごえ新聞』等を通じて『ぞうれっしゃがやってきた』初演のニュースなどにも接していたはずですが、当時はまだ《自分事》とするには到りませんでした。今回、小出氏の訃報を聞いて間もない時期に「嘉楽わっしょ」での「ぞうれっしゃよはしれ」演奏のことを知り、篠田さんからお勧めめもいただいたので、遅ればせながら歌を知り、練習して演奏に参加してみようと思った次第です。

 ところで、戦争中に日本中の動物園の動物たちが殺されたということは、私も以前から知っていました。1983.4-1986.9の3年半の神戸大学在職の時期に、故・杉山明男教授のご指導を受けて文学作品の授業について学んだり、関西の多くの小学校で文学の授業参観をしました。部落問題研究所から敢行されていた『文学読本はぐるま』のシリーズも購入して読みました。いまはもう断捨離してしまって手元になく、ネット検索しても『はぐるま』各巻の目次等には辿り着きませんが、記憶では「かわいそうなぞう」は確かに『はぐるま』に収録されていました。

つちやゆきお(土家由岐雄)ぶん・たけべもといちろう(武部本一朗)え
『かわいそうなぞう』(金の星社 1970.8初版)

背表紙裏のカバーに、次のように紹介されています。

【世界じゅうの子どもたちの 小さな心に
  いつまでの つたえたい
 本当にあった かわいそうなぞうの物語

 日本と アメリカが せんそうしているとき、
 うえのどうぶつえんには、
 ジョン、トンキー、ワンリーと いう、
 3とうの ぞうが いました。
 でも ライオンも トラも、
 そして 3とうの ぞうも、
 せんそうと いうだけで、
 つぎつぎにころされていったのです。】

 そういう悲しいお話です。
 物語は現代の、桜吹雪が舞う春の上野動物園で二頭の象が芸を披露して見物人たちを喜ばせているシーンから始まります。そこから、賑やかな広場から少し離れたところにある動物園で死んだ動物たちのお墓に視点が移ります。そして動物園の人が語ってくれる【かなしい ぞうの ものがたり】(P.6)が始まります。
 今の動物園にもインデラ、ジャンボー、メナムという三頭の象がおり、そして戦争中の動物園にもジョン、トンキー、ワンリーという三頭の象がいました。
 戦争が激しくなると、もし動物園が爆撃されて動物が街へ逃げ出したらという危惧から、ライオンも、ドラも、ヒョウも、クマも、ダイジャも、毒を飲まされ殺されました。
 三頭の象の番になりました。しかしジョンは毒入りのじゃがいもを食べません。注射を打とうとしても皮が厚くて入りません。【しかたなく たべものを 一つも やらずに いますと、かわいそうに、十七にちめに しにました。】(P.12)
 動物園の人たちは、残ったトンキーとワンリーを何とか助けようとして、仙台の動物園へ送ることを考えましたが、仙台にも空襲がある可能性を考えると仙台の人たちに大きな迷惑をかけるため、あきらめて上野動物園で殺すことにしました。
 餌を与えられず、日に日に痩せ細っていくトンキーとワンリー。
【ときどき、みまわりに いく ひとを みると、よたよたと たちあがって、
 「えさを ください。」
 「たべものを ください。」
  と、ほそい こえをだして、せがむのでした。】(P.14)
 象係の人は、どうすることもできないまま象の檻の前を行ったり来たりします。
【すると、トンキーと、ワンリーは、ひょろひょろと からだを おこして、ぞうがかりの まえに すすみでたのでした。
 おたがいに ぐったりとした からだを、せなかで もたれあって、げいとうを はじめたのです。
 うしろあしで たちあがりました。
 まえあしを おりまげました。
 はなを たかく あげて、 ばんざいを しました。
 しなびきった からだじゅうの ちからを ふりしぼって、げいとうを みせるのでした。
 げいとうを すれば、むかしのように、えさが もらえると おもったのです。
 トンキーも、ワンリーも、よろけながら いっしょうけんめいです。】(P.18, 20)
 象係の人は、たまらなくなって、餌小屋から餌と水を運び、象の前にぶちまけます。象に餌や水を与えることは禁止されていましたが、他の人も園長もこれを黙認しました。
【ついに、ワンリーは 十いくにちめに、トンキーは 二十いくにちめに、どちらも、てつのおりに もたれながら、やせこけた はなを たかくのばして、 ばんざいの げいとうを したまま しんでしまいました。】(P.26)
 動物園の人たちは、象に取りすがって、おいおいと声を挙げて泣きました。その頭の上を爆弾を積んだ敵機が来襲します。人びとは象に抱きついたまま叫びました。
【「せんそうを やめろ。」
 「せんそうを やめてくれえ。やめてくれえ。」】(P.30)
 お話は、次のように締めくくられています。
【あとで しらべますと、たらいぐらいも ある おおきな ぞうの いぶくろには、ひとしずくの みずさえも はいって いなかったのです。その 三とうのぞうも、いまは、この おはかのしたに、しずかに ねむっているのです。

 どうぶつえんの ひとは、めを うるませて、わたくしに この はなしを してくれました。そして、ふぶきのように、さくらの はなびらが ちりかかってくる いしの おはかを、 いつまでも なでていました。】(P.32)

 『かわいそうなぞう』の物語は、良心的な先生たちが自主教材として採用した『文学読本はぐるま』に収録されただけではなく、「学校図書と教育出版が小学校2年生向けの国語教科書に採用し[4]、1974年(昭和49年)から1986年(昭和61年)まで使用され」ました(wikipedia「かわいそうなぞう」)。私の記憶ではこの作品も1980年代教科書攻撃の標的となったんじゃないかと思うのですが、ネット検索してもそれに関する情報は出てきませんでした。またこの作品の内容について、歴史の事実に反する部分があるとの批判もあるようですが、本稿の本題から逸れるので深追いしません。


小出隆司・作 箕田源二郎・絵
『ぞうれっしゃがやってきた』(岩崎書店 1983.2.25一刷)

 『かわいそうなぞう』から13年後に刊行されました。僕は『かわいそうなぞう』は『はぐるま』や絵本で何十年も前に読んでいたのですが、『ぞうれっしゃがやってきた』は、たぶん今回初めて入手して読みます(^^;)。周辺の事実を知っているだけで作品に向きあってはいなかったのでした。

 (両作品をいちいち比較してあれこれ言おうとは思わないのですが…)この物語は、冷たい雨が降る寒い冬の朝から始まります。時代は現代ではなく戦争の時代です。
 名古屋の東山動物園に、サーカス団からアドン、エルド、マカニー、キーコの四頭の象が売り渡されます。動物園に来た子どもたちは大喜び。でもサーカス団の象使いのおねえさんたちは象と離れがたい様子。動物園の人たちは
【「おねえさんたちのためにも、だいじにそだてなくては。」
と、心のそこから思いました。】(P.6)
 その年(1937年)日中戦争が始まり、動物園では象たちがかざりをつけて日の丸をくわえ、行進したり万歳したりします。
 象はこんがり焼けたおにぎりが大好き。しかし戦争が長引き、冬なのに暖房も十分でなく、おにぎりももらえなくなりました。飼育係は園の空地や近くの山をたがやして、なんとか餌をつくろうとします。しかし戦争はさらに世界を相手に拡大していきます。
 ある日上野動物園から軍の命令でぞうやライオンが殺されたというしらせが届きます。日本軍は劣勢に転じ、米軍の空襲が激しくなって東山動物園にも及びます。動物園を警護する人たちから、園長は
【「われわれは、動物園のけいごのために、家にもかえれない。」
「人間がだいじか、動物がだいじか、どちらだ、ひこくみんめ!!」
「早く、動物たちをころさせろ!!」】(P.16)
と詰め寄られ、【「ざんねんです。やってください。」】(P.16)と応じてしまいます。
 トラは毒入りの肉を食べて、それを食べようとしないライオンは射殺されました。ツキノワグマも餌をもらえると思って立ち上がったところを射殺されました。
 園長は軍や警察に何度もかけあった結果、象だけは殺されずに済みました。ところが、寒さと飢えで弱っていたキーコが、そしてアドンも後を追うように死にました。生き残ったマカニーとエルドも日に日に弱っていきます。飼育係は餌を求めて遠くの村まで大八車を引いて出かけました。
 軍隊が突然動物園に住み込み、園は閉鎖。園内には二頭の象とチンパンジーなどがひっそり生き残っているだけ。飼育係も多くは兵役に取られ、残った人はわずか。餌の確保も困難です。軍が象の檻の通路に軍馬の餌を積み込んだので、飼育係はこっそり抜き取って象に与えました。

 長かった戦争がようやく終わり、マカニーとエルドは生き残りました。しかしすっかり弱っています。飼育係の人たちが象を檻から出して裏山を散歩させたり池で遊ばせたりする中、象はだんだん元気になって芸当の練習も始めました。

【園長さんのもとに、東京の子どもぎかいの、だいひょうから、手紙がとどきました。ぞうを一頭かしてほしいというのです。
 おおきなぞうを、東京まではこぶほうほうが、みつかりません。
 まちきれなくなった東京のだいひょうが、東山同筒園にやって来ました。
 園長さんは、エルドをおりにのこして、マカニーを外につれ出しました。すると、エルドは、たちまちなきさけび、マカニーをおいかけようとして、とびらに頭をぶつけ、けがをしてしまいました。マカニーも、エルドのかなしい声をきくと、しいくがかりのおじさんをいしのけて、エルドのほうへ、かけていきました。
 園長さんは、東京のだいひょうに、ぞうをかすことは、できないと話してきかせました。

 その話をきいた国鉄は、ぞうを見たいとねがっている子どもたちのために、とくべつれっしゃを出すやくそくをしました。

 これが、ぞうれっしゃです。

 名古屋へむかうきしゃの中では、子どもたちが、はしゃいでいます。
 「ぞうさんの大きさは、どれくらいかなあ。」
 「ぞうさんには、毛がはえているとおもう?」
 「ぼくは、ぞうのはなにぶらさがってみたいな。」
 れっしゃが、名古屋に近づくにつれて、子どもたちの心に、ぞうにあえるよろこびが、だんだんとふくらんでいきました。

 こうして、日本中から子どもたちが、ぞうれっしゃにのって、ぞくぞくと東山動物園へやって来ました。
 
 マカニーとエルドは、子どもたちを出むかえました。
 はじめて、ぞうを見た子どもたちは、おおよろこびでした。かわりがわる、ぞうのせなかに、のせてもらい、動物園をのっし、のっしと、さんぽしました。ぞうのはなの、すべりだいにものりました。

 ぶうらり、ぶうらり、ぶうらりこ
 ながい、おはながたのしそう
 きょうも、げんきなぼくたちに
 おいで、おいでを、しているの

 みどりにつつまれた、動物園に、『ぞうさんの歌』が、ひびきわたりました。  (完)】(P.27, 28, 30)

 ……なんとハッピーな終わり方でしょうか。太平洋戦争・日中戦争で多くの日本国民やアジアの人びとが犠牲になった。しかし犠牲は人間だけではなかった。多くの動物たちが戦争遂行のために殺されていった。上野の象たちは、みんな死んだ……しかし東山動物園では二頭の象が生き残ることができた。そして敗戦後の荒廃した社会を生きていく子どもたちにも、大人たちにも希望を与えることができた。

 絵本の裏背表紙には、以下のような年譜が掲載されています。


 「象列車」実現は、懸命に生き抜いた象たちと命懸けで世話をした飼育係など動物園の人たちの努力、がんばりが生み出した成果であることはもちろんなのですが、それだけではなくて、その背後には敗戦直後の「子供議会」の活動や国鉄関係者の努力など、(こう一言で言ってしまうのもはばかられますが…)《多くの善意》が結集していたんだと思います。

 ところで、きわめて個人的な経験と感想ではあるのですが、合唱曲「ぞうれっしゃよはしれ」とであう中で、私がとてもびっくりしたことがあります。10.18の篠田おんがく教室でのレッスンの時、ある動画の抜粋を見せていただきました。そこで「象列車」を体験したというお話をされていたのが、なんと日本共産党三重県議会議員を長く勤められていた萩原量吉さんでした。萩原さんは四日市市選出の議員さんだったので、津市在住だった私は萩原さんとそれほど多くお会いする機会があったわけではないのですが、萩原さんが私が在職していた三重大学教育学部の前身である三重大学学芸学部のご出身で三重県で高校教員をされていたということと、全くの偶然ですが私が非常勤講師として「教育学」を教えていた看護学校で萩原さんのお嬢さんが講義を受講されていたことなどから親しみを感じていました。私は三重を離れてからお会いする機会はなかったのですが、動画に萩原さんが「象列車」証言者として登場されたのでとてもびっくりしたわけです。萩原さんと「象列車」のつながりについては、私は存じませんでした。
 萩原量吉さんと「象列車」のことについては、以下のような動画を、ネットで見ることができます。
 上記は短いインタビューなのですが、下記の詳しい講演記録もあります。
 動画の冒頭には、「三重県津市高茶屋小学校からぞうれっしゃでエルドとマカニーに会いに来た萩原量吉さんのお話 2018年11月24日 愛知子どもの幸せと平和を願う合唱団」とキャプションが付けられています。私の三重大学在職最終年度でした。三重に30年いたのに、萩原さんから「象列車」のお話を伺えなかったのは残念ですが、上記の講演記録から学びたいと思います。長い動画なので、さっきようやく最後まで見ました。一番最後に「ぞうれっしゃよはしれ」のすてきな合唱が収録されています(^_^)。


 さて、2冊の絵本の紹介を中心にしながらも、自分自身の関わりについて長々と書いてきました。
 「そうれっしゃよはしれ」は、今年11月の「日本のうたごえ祭典inながの」でも歌われるそうです。私は日うたには行かないので、合唱構成「ぞうれっしゃがやってきた」との出会いはまだ先のことになりそうですが、まずは11.1「嘉楽わっしょ」で「ぞうれっしゃよはしれ」一曲を歌うことを楽しみたいと思います。そしてその一期一会だけには終わらせず自分なりの「象列車」との出会いをさらに追求していきたいなと思っています。

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